|
巨大な帆船が夜の海を行く。 厚い雲の上を滑るように静かに静かに魔法の船は行く。 風を孕む代わりに大きな白い帆は月光を孕み、連鎖するように細い櫂は廻り、雲上に浮いては沈み、かすかな微粒子の光を放っていた。 (本当に飛んでいる……) 部屋の窓から外を覗いていたアウロスは溜め息を吐いた。そして、彼女は静かに室内を見回した。 明かりを灯していない室内は薄暗い。だが、明かりがなくとも部屋には最低必要限の調度品しか置いてないことが分かる。 アウロスの搭乗が予定外だったためだ。部屋にある物はルソナで用意されたものだ。 だが、アウロスの興味を引いたのは備え付けの照明だった。 アウロスはおもむろに壁から浮き出ている白い半球の表面を撫でるように触れた。 その瞬間、半球の内で稲妻に似た光が生じ、アウロスの手のひらを追い求めるように伸びる。そして、天井の中央から浮き出ていた大きな半球に光が灯る。 (とんでもないわね、前時代の魔法技術は……) この巨大な帆船を動かしている原動力が魔法なら、照明も魔法だ。 確かに魔法で熱を持たない『灯火』を創ることはできる。だが、その魔法を物体に閉じ込め、『接触』という合図によって魔力を持たない者でも発動させることはできない。少なくとも、今の世界にその技術はない。 アウロスは部屋の片隅に置いてあった布に包まれた剣を持った。 遺物。 魔法文明で栄えた世界が遺したもの。 その優れた魔法を以ってしても、世界の崩壊を止めることはできなかったのだ。 世界の崩壊は他の生物を傷つけ、踏み躙り、貪欲に奪い続ける人に神が見限った結果だという説が最も有力だ。それを四人の人間が人の素晴らしさを神に伝えることによって、かの至高の存在と契約を結び、世界の崩壊を止めたのだという。 人と神の契約によって、かろうじて繋ぎ止められた世界――それが円の世界。 限りある大地と空と海。 それがすべて。 それが真実であり、事実。 (その限りある世界で、人は愚かな行為を繰り返している……) 高みにある玉座。 『我が命令に背くことは許さん』 影は笑う。 『お前は私の命令のみを聞いていればいい』 「!」 アウロスは強く剣を握った。そして、軽く頭を振って幻影を追い払う。 「……私は、私の意志で――」 小さく呟いたアウロスは剣を手に部屋を出る。不意に、笑みが零れた。照明は魔法で自動なのに扉を開けるのは手動なのだ。そのことが、ほんの少しおかしかった。 アウロスは廊下に出て、そのまま甲板に上がった。 甲板は静かだった。 この帆船は皇国の飛行艇より遥か上空を飛んでいる。だが、空気の濃度は変わっていないし、風もない。 アウロスはわずかな魔道の波動を感じて船首に向かった。そして、その先端に飾られた不死鳥の彫刻が淡く発光しているのを見つけた。 (これだわ……) この不死鳥が微弱な結界を張っている。その結界が空気の濃度を地上のものと同じに保ち、風を遮断しているのだ。 (良く考えてあるわね……) 前時代の人々に感心して、アウロスは船首から離れた。そして、一番手前の帆柱に背を預けて座り込む。 (明るい) 甲板に影がくっきりと浮かび上がっていた。 アウロスは静かに顔を上げた。 さらさらと銀の髪が肩から滑り落ちる。 月が近かった。 円い、円い銀盤は柔らかな光に縁取られ、神々しいまでに美しい。 星の数も見たことないほど多い。 漆黒とも瑠璃とも言えない闇の空に無数の金剛石の破片を撒き散らしたような燦然とした輝き。 (綺麗……) その奇跡のような景色に魅入られる。 何もかも忘れて、アウロスは言葉もなく見惚れていた。 一切の音もない静寂の闇と光。 「アウロス……?」 抑揚のない、茫然とした響きを含んだ呟き。 アウロスは一瞬にして我に返り、素早く首を巡らした。そして、そこにラトルが立っているのを見て翡翠の双眸を見開いた。 何故かラトルは呆けた状態で立ち尽くしていた。 「ラトル……?」 アウロスの声に今度はラトルが我に返る。 「あ……」 そして、ラトルはかすかな笑みを浮かべた。 「驚いた……。まさか、いるなんて――」 アウロスは怪訝そうな顔で言った。 「いたら、おかしい?」 すると、ラトルは苦笑を浮かべた。 「そうじゃないけど、隣いい?」 一瞬、アウロスは言葉を失う。何故かすぐに答えられない自分に驚いていた。 良いとも悪いとも答えないアウロスを見て、ラトルはくすりと笑った。 「見下ろされていても気にしないって言うのなら、いいけど?」 言われてアウロスは柳眉をひそめる。 そんなこと気にも留めていなかったが、改めて指摘されると不快に感じた。 「――どうぞ」 その無愛想な声に気づいて、ラトルは微苦笑し、アウロスの右手に、彼女と同じように帆柱を背に座る。 遠くもなければ近くもない、微妙な距離。 「こんな夜更けに何をしていたんだ?」 穏やかに尋ねられ、アウロスは再び夜空を見上げながら答えた。 「月を」 「月?」 「月と星を見ていたの」 その言葉にラトルは顔を上げた。 「あぁ、なるほど。これは見事だ」 ラトルの感想にアウロスは無言で頷いた。 信じられないほどの上空で見ているせいだろうか。満月がやけに大きく見える。 その恐ろしいほどに美しい輝きに強く引き込まれているのをアウロスは実感した。 太陽のような目を射る強い輝きではない。月光は何も傷つけない。だが、その代わり、その輝きで見る者の視線を奪って魅了し、その心を虜にする。 (そう、まるで――) 「そんなに月が好き?」 思ってみないことを不意に言われ、アウロスは思わずラトルを見た。 「好き?」 ラトルは穏やかな微笑みを浮かべながら頷いた。 「ずっと見てる。私がここにいることも忘れたみたいに」 不満や咎める響きはなかった。ただ、優しい声音だった。 「好き――……」 戸惑いを滲ませた呟きを聞いてラトルの顔が不思議そうなものになる。 「違うのか?」 茫然とアウロスは視線を落とし、考え込む。そして、ぽつりと呟いた。 「どちらかと言うと――嫌い、だと思うわ……」 頼りない返答に、ラトルが訝しげな眼差しをしていることが気配で分かった。 だが、アウロスはそれを無視した。 夜の空に君臨する月。 いつも月は在るだけだった。 ただ、そこに。 アウロスの記憶に残る最後の月は遠く冷たい。 静寂に潜む風と木々のざわめき。 救いを求めるように月に向かって伸ばした手。 遠くから輝く光は雲の帳に隠されて。 暗闇に蠢く影に抑えられ。 生と死の狭間を垣間見て。 言葉にならない想いは喉の奥で凝った。 (あの時から、すべてが狂った……) いつの間にかアウロスは唇をきつく噛み締めていた。剣を抱く腕に力が籠もる。 「アウロス?」 呼びかけられ、アウロスは薄く笑った。 「……月は人を狂わすって聞いたから」 その美しさで。 「それは」 不意に言葉が途切れる。 訝しく思って顔を上げると、ラトルがこちらを見つめていた。 蒼穹の空の色に似ていると思った瞳。だが、今は濃く見え、夜の空に似ている。何を考えているのか分からない深い闇のような印象にアウロスは言葉を失い、固まった。 敵意も殺意もない。ただ、まっすぐなだけの眼差しがアウロスを見ていた。 その瞳の奥に底知れない感情が一瞬見えたような気がして、アウロスは戦慄した。 動けない。 言葉が出ない。 視線が逸らせない。 (ここにいるのは誰?) 不意に疑問が生じた。 長い間、側にあった顔。 ――似テイルケド、違ウ。 覚えのある眼差し。 ――似テイルケド、違ウ。 (……がここにいるはずがないっ!) 心の中で否定の叫びを上げ、アウロスは自らを叱咤して改めて目の前の青年を見た。 見返してくるアウロスに気づいて、ラトルはかすかな笑みを口元に浮かべた。その瞬間、アウロスを凍りつかせた感情の色は消えた。否、正確には隠れたというべきか。それでも、アウロスは緊張から解放され、わずかに気を緩めた。 「……それは真実かもしれない。月に限らず、美しいものを人は愛し、求める。狂うのはきっと手に入らないからだ」 囁きにも似た言葉にアウロスは驚いた。 「手に入らないから?」 ラトルは穏やかな表情で静かに頷いた。 「でも、普通の人は狂う前に諦める。求め続けることが他人だけでなく自分も傷つけるということが分かっているから。自己防衛の本能というやつだ」 「自己防衛……」 「それでも、どうしようもないものもあるけど」 そして、ラトルはアウロスの銀色の髪に触れ、優しい手つきで払った。 「心を制御することは自身のものであっても難しい」 「!」 アウロスは息を呑んだ。 髪を払われ、露わになったのは醜い傷跡。 自身を傷つけることを厭わず、おのれの感情で動いた証。 だが、その感情の正体をアウロスは知らない。間違いなく、自分のものだというのに。否、知りたくないのだ。 もし、想像しているものと同じだったら戦えなくなることを本能的に察しているから。 それが明らかに誤った選択だと理解しているから。 だから、アウロスは深く追求しないようにしていた。 (まさか、ラトルは……) 知っているというのか。 (私が) 「皇国を裏切るのは辛かった?」 静かな問いにアウロスは翡翠の双眸を瞠った。 「え?」 「皇国にも親しかった人はいたんじゃないのか?」 「親しい、人?」 繰り返すアウロスにラトルは気遣わしげな表情で頷いた。 「……」 アウロスは全身から力が抜けていくのを感じた。 (そう、よね……) 知っているはずがない。知っている訳がないのだ。 真実は常に闇の中。 手探りで見つけた秘密は棘となり、楔となり、茨の鎖となってアウロスの心を戒め続けている。 親しい人と言われて思い浮かんだ何人かの面影に、アウロスは微笑した。 「……いなかった訳じゃないけど、辛くはないわ」 それは真実だった。 「親しいと言っても、ほんの少しだけ。全く親しくない人たちよりは親しいというだけだから。それに――」 不意にアウロスの顔から微笑が消え、翡翠の双眸が薄く伏せられる。 「私の選択に何か言える権利は誰にもない」 その強い声音は切り捨てるような響きさえあった。 (そう、誰にも) ただ一人の例外も、いない。 その権利はない。 (だから) この心の痛みは感傷にすぎない。ただの未練だ。 (それに引き摺られるようなことはしない) 罪は贖うために。 罰は受けるために。 救いなど求めていないのだから。 絶対か無か。 それしかない。 それが嫌になるほど分かっているから。 (私が必ず) 「正論には違いないけど残酷な言葉だ」 一瞬、アウロスは誰が言っているのか分からなかった。 それほどに低く、厳しい声だった。言葉だけはいつものままで、だが響きは別人かと思うくらいの強さがあった。 ゆっくりとアウロスが見上げると、そこには激しい憤りを秘めた眼差しを向けるラトルがいた。 「ラトル……?」 戸惑いながら呼びかけると、ラトルは苦々しそうに表情を歪め、アウロスの右頬の傷に触れた。 「その傷跡が残ると分かった時、シエネは謝らなかった?」 突然の話題変換にアウロスは戸惑った。 シエネは女性らしい気遣いで、他の者よりアウロスの傷を丹念に治療し、跡を残さないように何度も回復魔法をかけてくれていた。顔の傷跡がシエネの治癒魔法では消せないと分かった時、彼女は『女の子なのにゴメンね、ゴメンね』と何度も謝っていた。 アウロスは表情をかすかに強張らせた。そして、冷たい眼差しでラトルを見返した。訳もなく、苛立ちが沸き起こる。 「そのような気遣い、必要ない」 硬い、出会った当初の口調にラトルはわずかに表情を変えた。 「そうじゃなくて……君の考えているようなことじゃないんだ。いや、『女の子なのに』と気持ちも確かにあるけど、そうじゃなくて……」 どうにか上手く説明しようと、ラトルは考えながら言葉を紡いだ。 「心配、するだろう? 誰だって大切な人――家族や仲間とか――に怪我なんてして欲しくないだろう?」 「私を大切に思う者はいない」 即答した瞬間、無意識のうちに剣を握るアウロスの手に力が籠もった。 「そんなはず」 否定しようとするラトルの言葉を遮ってアウロスは断言した。 「それに、大切だから傷つけない? そんなことある訳がない」 月光に照らさせた美しい顔に冴え冴えとした冷笑が浮かぶ。 「大切な『家族』や『仲間』を裏切り、犠牲にしている人間が存在することを知らないのか?」 壮麗なダムロード皇国の城。 表面的には華やかで美しい場所だったが、その暗部はおぞましいものだった。自らの権力に城の者は男女の差なく固執し、密談を交わし、媚を売り、蔑んだ。 信頼、友情、愛情。 そこでは綺麗な言葉でしかなく、真実はどこにもなかった。唯一、真実といえるのは隙を見せれば死ぬこと、悪意が蔓延していることぐらいだ。 ただ、一ヵ所は除いて。 アウロスの言葉にラトルは静かに肯定した。 「知っている……。身に染みて分かっている――」 その吐息にも似た呟きにアウロスは我に返った。 ラトルの正体はダムロードの皇帝ギリウムの甥である。皇帝の妹を母に持つ彼は皇帝の野望のために暗殺されかけた過去を持っている。彼自身は生き残ったが、両親は助からなかった。 実の兄が妹とその家族を殺したのだ。 「だが、そうじゃない人たちも大勢いる。また、見知らぬ人でも親切にしてくれることがある」 それは深い実感を伴った言葉だった。 アウロスは改めてラトルが『生きている』ということの意味を理解した。 自らの欲望のためにはいかなる犠牲も厭わず、手段も選ばない皇帝ギリウムの魔手から彼は逃げ延びたのだ。それは幼い子どもだった当時のラトル独りでは到底できなかった。つまり、彼は誰かの助力によって命を繋いだということだ。 「アウロス、人は独りでは生きていけない。だから、そんな言葉を言うのは止めてくれ。少なくとも、俺は君を裏切らないし、心配している」 低い落ち着いた声音は素直にアウロスの心に届いた。苛立ちが嘘のように消えていく。だが、代わりに哀しみが広がっていくのを感じた。 「……人の心は移ろいやすいのに?」 『何も心配しなくてもいいよ。僕が守るから』 信じた言葉。 『大丈夫だよ』 脳裏に浮かんだ微笑を咄嗟に打ち消し、アウロスは唇を噛み締めた。 裏切られたと思うのは愚かだ。自分の無知を棚に上げている。 ラトルは虚を突かれたような顔になった。そして、静かに微笑んだ。 「それじゃ、信じてもらえるように頑張るよ」 そう言うとラトルは話題を変えた。 「あぁ、アウロス。もし良ければ明日手合わせ願えるかな」 「手合わせ?」 「そう。最近、運動不足だからね」 にこりと笑っているラトルから、アウロスは視線を逸らして考えながら頷いた。 「構わないけど……」 確かに、最近のラトルが忙しく、抵抗軍の訓練にも姿を見せていなかった。その忙しさの理由はこの帆船のせいだったのだろうが。 「どうして、私に?」 二刀流のジェリスや槍術使いのユートがいるはずだ。 「魔法と武術を使う者はめったにいない」 その言葉にアウロスは納得した。ラトルもアウロスと同様魔法と武術の二つを使う者だ。同じ条件で戦える。 「分かった」 アウロス自身も訓練はしなくてはならない。二週間も剣を握っていなかったのだ。鈍った勘を取り戻すのに、ラトルの申し出は最適だった。 「ありがとう」 礼を言ってラトルは立ち上がった。そして、自分の外套を外して、ふわりとアウロスの肩にかけた。 アウロスは驚いて固まる。 「月を見るのもほどほどにね」 そう一言残して、ラトルは船室に帰っていく。 茫然となっていたアウロスは完全にラトルの姿が消えてから我に返る。そして、まじまじと自分にかけられた外套を見て、視線を夜空の月に移した。 月は相変わらず美しく輝いていた。 アウロスはゆっくりと双眸を月光ではない何かに眩しそうに細めた。温もりが残る外套を無意識のうちに掴んでいた。 「……私は」 月に重ねた面影にアウロスは呟く。 「きっと、貴方を――」 終わりの言葉は声にならなかった。ただ、潤んだ瞳から一滴の涙が零れていた。 |