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「アレって、やっぱりそういうことなんでしょうか……」 誰ともなしに呟いたのはシエネたちとは反対側で会場内を監視していたジェリスだった。 「ユート様、どう思います?」 視線を会場内のラトルとアウロスに注いだままで、ジェリスは隣に立つユートに尋ねた。 ユートは否定も肯定もしなかった。ただ、静かにアウロスとラトルを見つめ、口元に小さな笑みを浮かべていた。 事実がどうであれ、何も知らない会場内の人間はあの二人を恋人として認識している。ラトルの視線はアウロスに近づこうとする男たちを威嚇したとしか受け止めていないし、手の甲へのくちづけも自然なものと捉えている。 アウロスはどういうつもりか分からないが、その視線をラトルのみ注いでいることも周囲の誤解を助長させている。 ジェリスは小さな溜め息を零した。 「別に悪いって訳じゃありませんけど――」 ユートは複雑そうな顔をしているジェリスをちらりと見て、かすかに笑った。 「随分と認識を改めたものだな」 最初、出会った頃と比べてジェリスのアウロスに対する態度は軟化していた。 ジェリスは軽く肩を竦めて答えた。 「僕は子どもじゃありませんから」 アウロスが本当に悪人であるかどうかは接していればすぐに分かることだ。 皇国に対する憎悪が消えた訳ではないが、アウロスに対する憎悪はすでにない。むしろ、皇国の被害者ではないかとジェリスは考えていた。 冷酷な女将軍。 強大な魔法を操る魔道将軍。 だが、アウロスをそういう存在にしたのは間違いなく皇国だ。 彼女の性格や気性は決して好戦的ではないし、意図的に高圧的な態度を取ることはあるかもしれないが、普段は実直で物静かな方だろう。 「そうだな」 ユートは静かに頷いた。 「いつまでも意地を張っているとシエネが何を言うか分からないからな」 その言葉にジェリスは驚いてユートの顔を見た。 「どうして、それを……」 次の瞬間、ジェリスは我に返って口を噤んだ。 しかし、その時にはすでに遅く、ユートは肩を小さく震わしていた。 「そうか、すでに言われた後だったか……」 「ユート様!」 うっすらと頬を朱に染めて、ジェリスは睨みつけた。 ついに堪え切れず、ユートは声をできるだけ抑えながら笑った。 ジェリスは眉をひそめ、拗ねたような顔つきで再び視線を会場へと戻した。 その瞬間、ジェリスは顔色を変えた。 「ユート様」 真剣味を帯びた声に、ユートは笑みを消して、ジェリスの視線を追う。 「何かあったか……」 二人の視線の先ではアウロスが椅子から立ち上がっていた。 ![]() 無意識のうちに入っていた力が少し抜けて、アウロスは心持ち余裕を取り戻した。そして、ラトルの様子を伺いながら、周囲に気を配っていた。 不意にアウロスの意識に何かが引っかかった。 足元から忍び寄ってくるような冷たい感覚。 露出している肌に火花が散ったような痛みを覚えた。 (いる……!) 光り華やぐ場所の影に潜む異変をアウロスは確かに感じ取った。 ちらりとラトルを見やると、彼はラズゼーニに引き合わされたらしい男たちと話しをしていた。 彼らが今回会わねばならないという人間たちだろう。 ゆっくりと瞳を伏せ、アウロスはさりげなく神経を尖らせた。 (まだ話しは終わってない) 本当なら今すぐこの場を離れるのが最善の防御策だが、それはできなかった。 広い会場は音とざわめきに満ちており、刺客の気配を巧妙に包み隠している。 アウロスが気づくことができたのはまさに経験ゆえだった。 皇国の刺客は完全に人格を精神魔法によって分割されている。幼い頃から時間をかけてかけられた精神魔法は暗殺者の面とその場で与えられた役に応じた人格を完璧に切り替える。 それまで仲の良かった親友や、心を許しあった恋人が、その瞬間だけ暗殺者に変わるのだ。 皇国の宮廷では伯爵家の令嬢が暗殺者となってアウロスを襲ったこともあった。また、時には路上の物乞いの子どもが襲ってくることもあったし、戦場で自軍の兵士だった時もあった。 ただし、それを命じたのは皇帝ではなく、アウロスの異例の昇進や反感を持った者だった。 力ある者ならば皇帝でなくとも数名の刺客を確保しているのだ。 皇国で本当に信頼できる者を見つけることなど砂漠に落とした一粒の真珠を見つけ出すようなものだった。 アウロスは意識を研ぎ澄まして刺客の居場所を知ろうとした。 殺意や敵意など探すことでは見つけられない。刺客たちは自分がそうである自覚がないのだから。 アウロスの意識から光が消え、音が消える。 すべてが遠退くような感覚。 故意に創り出した影の世界で、アウロスの意識の細い糸は蜘蛛の巣のように広げていく。 皇国の刺客を判別する基準は一つ。 異質さだ。 言葉にはできない違和感。 普通の人間なら気のせいと済ませてしまう程度のもの。 だが、それこそが大きな違いだ。 アウロスの側近くを銀の盆を持った給仕係の女が通り過ぎる。 「!」 その瞬間、アウロスの意識は現実に引き戻された。 あの女だ。 アウロスは椅子から立ち上がった。 女の持つ銀の盆の上には二つのグラスがあった。 暗殺手段として直接殺すこともあるが、その時は対象と親しくなり隙を突く場合か、物取りなどの事件を装って行なわれる。だが、今回の暗殺方法は毒殺だ。 あのグラスのどちらかに毒が入っているはずだ。 女は巧みに人込みの中を擦り抜けながらラトルとラズゼーニの方へ向かっていた。 アウロスもさりげなさを装いながら女に近づいていく。追いつくために歩く速度を上げるが、慣れない靴に間に合うかどうかの瀬戸際だ。 女の背を追いかけながらアウロスは気づく。 (違う、狙いはラトルだけじゃない。ラズゼーニも含めているかもしれない) たとえ、本当に毒が入っていても騒ぎ立てることはできない。 (こうなったら……) アウロスは覚悟を決め、女に声をかけた。 「あの、飲み物をいただけませんか?」 アウロスに声をかけられた女は振り向くと穏やかに微笑んで言った。 「えぇ、どうぞ」 女はアウロスが取り易いように銀の盆を少しだけ下げた。 アウロスはゆっくりと一つのグラスに手を伸ばしながら考えた。 この反応だと、まだ、毒は入っていないのか。それとも、両方とも入っているのか片方だけなのか。 アウロスの頭には女が刺客ではない可能性はなかった。 女が皇国の刺客であることには間違いないのだ。 (重要なのは、このグラスをラトルたちの所へ持って行かせないこと) 「あ」 アウロスは一つのグラスを取ろうとした瞬間、手を当たった振りをして、残りのグラスを盆の上に倒した。 とろりとした深みのある赤の液体が銀色の盆上に広がる。 「あぁ、ごめんなさい」 女が何か言う前に、アウロスは残っていたグラスを手に取った。 女は小さく眼を瞠って驚いていた。 その驚きがグラスを倒したことによる単純な驚きなのか、グラスを二つとも失ったことによるものなのか、アウロスは構わなかった。 アウロスはできるだけ申し訳なさそうな声を作って言った。 「服に零れなかったかしら?」 女は緩やかに笑みを浮かべた。 「いえ、平気です」 「そう?」 アウロスはそう言って、一口、グラスの中身を飲む。そして、女に向かって笑いかけた。 「美味しいわ。このワインは皇国の特産かしら?」 ワインの良し悪しなど分からなかったが、アウロスはそう告げて女を見つめた。 皇国の特産。 その言葉を女がどう受け止めるかアウロスは観察した。 完全に皇帝の支配が及んでいるとは言えないポポリアだが、それでも皇国領であることには違いない。 ここでは皇国の名は禁句でもなければ、人々にとって恐怖の対象でもない。 アウロスはその言葉に暗に意味を含ませた。 皇国の特産――それは毒。 否、正確に言うなら薬だろう。 皇国の城には薬草園が存在した。昔は医師に診てもらえない人々に無料で配っていたと言う古く広い薬草園だ。 今では人々に配ること自体はなくなっていたが、慣例でもあったため、薬草園は常に細心の注意を払って営まれていた。 しかし、ギリウム皇帝の代で薬草園は薬草園ではなく、毒草園になってしまっていた。 『薬も毒も同じものだ。肝心なのは使う量と、使用者の意志だからね』 女は微笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。 「申し訳ありませんが、私では分かりかねます」 そして、女は小さく会釈し、ワインが広がった銀の盆を持って給仕係たちが出入りしている扉に向かって歩き出す。 アウロスはそれを黙って見送った。 視界の隅にシエネやジェリスたちが動いているのを認めたからだ。 (これで、今夜は……っ!) アウロスは徐々に体の心が痺れてくるのを感じて唇を噛み締めた。同時に頭痛もし始めてくる。 (やっぱり、毒が――) アウロスは人目を引かないように会場の外へ出ようとした。 倒れるにしても、ここではまずい。 アウロスが口にした毒は、最初、気分が悪くなり、体調を崩す程度の効果で、その翌日に死を与える種の遅行性の毒だ。進行速度が遅い分、少量で死に至る。 だが、アウロスはあらゆる種の毒に慣れていた。どんな毒を体内に入れても、死ぬまでに至らない。 その事実がアウロスをあえて毒を口にする決意をさせた。 まるで貧血を起こしたように平衡感覚が失われていく。 眼は開いているはずなのに、アウロスの視界が暗くなっていった。 「どうかなさいましたか? 気分でも悪いのですか?」 見知ぬ男に声をかけられ、アウロスの意識がわずかに引き戻される。 「……いいえ、平気です……」 意図した訳ではないのに、アウロスの声は弱々しいものへとなっていた。 アウロスは体の不調に思考を阻まれながらも残っていた冷静な部分で判断した。 思ったより、毒の効果が出ている。 「しかし――」 引き下がる気配のない男に我慢できず、アウロスは睨みつけた。 「私は平気だと言っている」 不快さを滲ませた声音と、仮面から覗く強い輝きを秘めた翡翠の瞳に、男は言葉を失った。アウロスを助けようと伸ばしかけた手が途中で止まる。 アウロスは唇を噛み締め、男の横を通り過ぎろうとした。 口内に残るワインの味が消えるどころか逆に強くなっていく。 残り香のように漂うワインの香りは豊潤で、爽やかさも感じられる。だが、喉を滑っていた液体は冷ややかで、そして熱を与えていく。 その熱が体を蝕むように広がっていくのをアウロスは止めることができなかった。 アウロスは自分の身が毒ではなく、ワインが侵されていくのを知った。 (何故――) 『まだ、これを飲むには早いよ。大人になってから一緒に飲もうね』 「!」 不意に脳裏で浮かんだ囁きに、アウロスの思考が一瞬停止する。足元から力が抜けて、体がふらついた。 「フェリナ!?」 耳に届いた現実の声に、アウロスは傾いだ体をかろうじて立て直し、踏み止まった。 視線を泳がせた先に、慌てた様子で駆けつけてくる仮面の男の姿があった。 暗く霞んでいく視界に入ってくる金の輝き。 その色に、アウロスは無意識のうちに追い縋っていた。 (……ム、貴方を私は) そして、迷いもなく差し伸べられたその腕に、アウロスは抱き留められた瞬間、彼女の意識は完全に途切れた。 |