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第三章 〜眠る秘鍵〜


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「……失敗しただと?」
 彼の覚醒を促したのは低い男の声だった。
 双眸を薄く開くと、帳の向こうに声の主が立っているようだった。
「――はい、潜入させた女の消息は完全に途絶えました」
 男の前には白い仮面で顔を隠し、黒い外套で全身を覆った人物が跪いていた。
 男は顎に手を当てた。
「ふん……アウロスか」
 聞き覚えのある名に彼は息を呑んで、声を殺した。
 だが、それより先に、彼の覚醒に男は気づいたらしく、顔をこちらに向けて、薄く笑った。そして、軽く手を振って、跪いていた男を下がらせる。
 男はゆっくりと彼の所へやってくると、下りていた帳を手で押し退けた。
「盗み聞きとは趣味の良い」
 笑いを含んだ声音に、彼は男から視線を逸らした。
「このようなところで話していれば、嫌でも聞こえます」
 男は喉を鳴らして笑い、彼の傍らに腰を下ろした。
 突如かかった重みに、彼が横になっていた寝台が軋む。
「聞けて良かっただろう? あれの行方が知れたのだ」
 彼は答えようとしなかった。
 無言の返答をどう捕えたのか、男は薄く笑って彼の顎を掴み、自分の方へ向かせた。
「お前は昔からあれに甘かったな」
 彼は静かな眼差しを男に注いだ。
 同じ碧緑の瞳。
 だが、そこに宿る輝きは違った。
 嘲りを含んだ傲慢な男の眼差しと凪いだ海のような静かな彼の眼差し。
「……幼い時から付き合えば情も湧くというものでしょう」
 男はおかしそうに笑った。
「情?」
「……」
「無駄なことだ。あれは私のために存在する道具だ。今はこの手になくとも、いずれ取り戻す」
「あの子は道具ではありません」
 静かな否定に、男は双眸を細めた。
「いいや、道具だ。あれだけではない。すべてが私の望みを叶えるための道具に過ぎない」
 彼は無表情で短く尋ねた。
「僕も同じですか?」
 男は殊更ゆっくりと頷いた。
「お前は特に素晴らしい道具だ。お前の存在一つで、煩い輩が大人しく従っている」
「いつか寝首をかかれますよ」
 彼の皮肉に男は楽しそうに微笑む。
「お前がするのか?」
 彼はわずかに柳眉をひそめた。
 男は声を上げて笑った。
「できぬだろう? お前では私に勝てない。そして、私はお前を殺さない。だが、罰は与える。お前が何より恐れる罰を」
「……」
「こうして、その身を投げ出すまでに避けたい罰を」
 男は酷薄な表情で彼を見つめた。そして、男は楽しそうに続けた。
「いっそ教えてやれば良かったのだ。お前のこの姿を見れば、あれも裏切りなどしなかっただろうに」
 彼は男の視線から逃れるように瞳を伏せた。
 くすくすと嘲るような笑い声が耳に届く。だが、彼はそれから意識を背けた。
(まだ、だ……)
 まだ、その時ではない。
 男の指が彼の長い髪に触れ、弄ぶように何度も梳く。
 その感触に彼は身を震わせた。
 男は彼の反応を楽しむように双眸を細めた。
 脳裏に浮かぶのは一対の翡翠。
 泣きそうに潤んでいる、その瞳。
 零れ落ちそうになる涙を何度拭ってやったことか。
(お前が泣く必要なんてないんだ)
 彼は心の中で囁く。
(何も悲しむことなんてない)
 彼は静かに微笑みを浮かべた。
(今は何もできないけれど)
 いつか。
 そう遠くない日に。
(僕は、必ず――)
「何がおかしい、レザム?」
 名を呼ばれ、彼はゆっくりと眼を開けた。
「いいえ、何も。おのれの身を哀れんだだけですよ、父上」
 その一言に男はおかしそうに笑った。





「司令、前方に人影あります」
「何?」
 未だ皇国に服従しない街を攻め落とすために、異形の獣――キメラを率いて進軍していた司令官は偵察の報告に眉をひそめた。
 皇国軍の戦力の大半がキメラだ。だが、それを指揮するのは人間である。
 彼らはキメラを周囲に配置し、中央に本当の皇国軍を配置して進軍していた。
 報告にあった人影はキメラたちの正面に立っていた。
 司令官はしばし思案する。隠れるならまだしも逃げる様子もない人影に司令官は一抹の不安を覚えた。
「上空にいるキメラに命じて、始末しろ」
 そう命じた瞬間、光が炸裂する。
 空を覆わんばかりに飛んでいた鳥類系キメラの群れが吹き飛び、肉片と体液を振り撒きながら絶叫を上げた。
 墜落する同胞たちに巻き込まれて地上のキメラが押し潰される。そして、キメラたちは命令も受けてないのに進軍を止めた。
「何だ!?」
 司令官は遠眼鏡を側近から奪って、光の原因と思わしき人影を見た。
 その瞬間、司令官は言葉を失い、眼を疑った。
 風に靡く、磨き抜かれた銀色の髪。
 周囲を睥睨する瞳は翡翠。
 遠眼鏡に映っていたのは華奢な少女だった。
 感情を窺うことができない秀麗な容貌。右頬の傷跡はその美しさを損なうどころか、むしろ逆に際立たせていた。
 その手に握られているのは蒼く輝く長剣。
 防具はほとんど身につけていないと言ってもいいだろう。動き易い男物の服装に、革の長靴。
 キメラの大群に対して脆弱な装備だ。キメラから一撃でも受ければ即死するだろう。
 だが、キメラたちは明らかに少女に圧倒されていた。
「魔道将軍、アウロス……!」
 司令官の動揺を帯びた呟きに、周囲がざわめいた。
 敵だけでなく、味方でさえ、皇帝の命があれば容易く切り捨てていただけに、皇国でも恐れられていた冷酷な将軍。
(何故、ここに――)
 皇帝の命に背いた結果、監獄島に送られたはずだ。
 その瞬間、司令官は最近城で聞いた噂を思い出した。
 魔道将軍アウロスが裏切り、抵抗軍に組したという噂を――。
 そこから導き出された予想に、司令官が息を呑んだ。同時に、悲鳴にも似た声が轟く。
「敵襲ですッ!!」
 アウロスの出現に動揺していたところに、襲撃を受け、皇国軍は完全に浮き足立った。





「皇国軍の不意を完全に突けましたね」
 馬上のジェリスは心なしか声を弾ませて、首を巡らせた。そして、同じく馬上から崩れていく皇国軍の陣形を眺めていたラトルを見て、眉をひそめた。
 二人は木々が茂る、なだらかな丘陵に身を潜め、戦場を見つめていた。背後には護衛と命令を伝えるための伝令として十数名の兵が控えている。
 ラトルはいつになく厳しい表情で戦場を見つめていた。
「ラトル様……?」
 訝しげなジェリスの呼びかけに、ラトルは視線を戦場に固定したままで言った。
「敵の左翼部隊が勢いを取り戻している。余裕のある第三部隊を当てようか」
「あ、はい」
 ジェリスは馬首を巡らして、後方で控えていた伝令の兵士にラトルの命令を伝えた。
 伝令の兵士は一度復唱すると、すぐに踵を返した。
 それを見届け、ジェリスは再びラトルの方へと顔を向けた。
「どうかしましたか、ラトル様?」
 ジェリスの眼には戦況は完全にこちらに傾いているように見えた。皇国軍の指揮系統が乱れて、連携が上手くいっていない。
(何か不安要素でもあるのだろうか)
 低い知能しかないキメラたちは自分たちで判断することができない。個々で闇雲に戦うだけだ。
「ジェリスは知っていたのか?」
「何を、です?」
「アウロスだよ」
 ジェリスはラトルの言いたいことを察して表情を強張らせた。
「……いえ……」
「これで彼女の独断専行は何度目だったかな?」
「――五回でしたか?」
 ラトルは小さな笑みを口元に浮かべた。
「外れ。六回だよ」
 そして、ラトルは再び表情を厳しくした。
「六回。六回も彼女は自分を死地に置いている」
 ジェリスは無言を守った。
「……無茶をし過ぎだ」
 ぽつりと聞こえたラトルの呟きに、ジェリスは戦場にいるアウロスを探した。
 だが、彼がアウロスを見つける前にラトルは言った。
「ジェリス、後の指揮を任せる」
 そう言い放つや否やラトルはジェリスの返事を待たず、手綱を引いた。
「ラトル様!」
 背後に従っていた数名の兵士が呼び叫び、慌てて彼らも手綱を引いた。
 ラトルを乗せた馬は斜面を駆けて下りていく。
 いつもなら真っ先に後を追うはずのジェリスは動かず、どこか呆れた様子で呟いた。
「で、コレも六回目ですよ、ラトル様……」
「宜しいのですか、ジェリス様」
 半数に減った兵士たちの中からの問いに、ジェリスは不思議そうに見つめた。
「宜しいも何も今更じゃないですか?」
 アウロスの無謀とも言える行動も、ラトルの立場を忘れたような行動も。
 それが戦いに悪影響を与えるなら、ジェリスも他の皆も真剣に止めただろうが、アウロスの奇抜な行動は敵軍に対して大きな動揺を誘い、こちらに有利にする。その上、来るはずのないラトルの行動は遊軍の突撃に近かった。
 つまり、二人の自分勝手な行動が逆に敵に対して有効な戦略として通用しているのだ。
 ただし、味方の方も多少混乱するのだが。
「しかし……」
 ジェリスは大仰に溜め息を吐いた。
「止められるものなら、とっくに止めていますって」
 何度釘を指しても結局ラトルは飛び出していく。
(止めるなら、先にアウロスですね……)
 戦場を観察し、的確に指示を出しながら、ジェリスは今後のことに思いを馳せた。





第ニ章