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第三章 〜眠る秘鍵〜


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「何故だ……?」


 掠れた声で呟いたのは――ラトルだった。
 そして、床に倒れているのは先ほどまで戦っていたキメラの男だった。
「痛ぇ……」
 小さく呻いて、男はゆっくりと双眸を開けた。そして、ラトルの顔を見て、嫌そうに顔をしかめた。
「だから、次は庇えないぞって言ったのによ」
 その瞬間、過去の記憶がラトルの脳裏に過ぎる。
 それは一瞬の光景。
「貴方は……」
「ラトル?」
 顔色を変えたラトルに驚いて、アウロスはその強張った横顔を見つめた。
 ラトルは蒼い瞳を瞠ったまま、男に駆け寄った。
「……あの時、見逃してくれた……近衛兵?」
 ラトルは茫然と男に近づいた。
 無造作に伸ばされた栗色の前髪から覗く鳶色の瞳に狂気の輝きはなかった。
 そうして、改めて見ると、ほんの一回だけ見た近衛兵の青年だ。だが、あの時から二十年の時が過ぎているのに、まるで二、三年の時しか経っていないようだ。否、だからこそ、彼だと分かるのだが。
(確か、名前は――)
「ニールド?」
 ラトルの呟きに、男はぴくりと震えて、かすかな笑みを浮かべた。
「名前、呼ばれるの久しぶりだな……」
 そして、ニールドは苦しそうに咳き込んで、血を吐く。
 ラトルは我に返って、ニールドに回復魔法を施そうとした。
 隕石の直撃を受けた体には激しい裂傷と砕け散った破片が至る所に食い込んでいた。骨が折れ、臓腑に突き刺さってもいるだろう。
「丈夫なのも考えものだな。痛みが長引くだけだ……」
 渇いた笑みを浮かべるニールドにラトルは思わず尋ねていた。
「……どうして、貴方がキメラに!?」
「――さてね」
「俺と母を助けたから?」
 男は瞳を閉じ、億劫そうに答えた。
「知らん」
 ラトルは一度唇を噛み締めると、素早く視線をシエネとアウロスに向けた。
「シエネ、アウロス、手伝ってくれ。彼を助けるんだ」
 先に動いたのはシエネの方だった。
 アウロスは一瞬遅れて、男の傍らに跪いた。
 三人の詠唱が重なり、ニールドの傷を光の膜が覆い始める。
「……ダメ!」
 褐色の額に汗を滲ませ、シエネは琥珀の双眸を細めた。
「治せても、それは傷の表面だけだわ」
「くッ!」
 魔力が足りない。
 アウロスは銀剣に宿る力で魔力を増幅させ、回復魔法をかけながら、ちらりとニールドを見た。
 翡翠の瞳には戸惑いと動揺が揺れていた。
「無駄なことはするんじゃねぇよ」
「ニールド!」
「……するんなら、さっさと楽にしてくれ」
 それが何を意味するのか分からない者はいなかった。
 回復魔法の詠唱を思わず止めて、ラトルとシエネは息を呑んでニールドを見つめた。
 かすかな笑みが浮かんだ顔は青白く、色濃い死の影が広がっていた。
 アウロスは一度視線を落とし、強く銀剣を握り締めると、再びニールドを見る。
「!」
 ラトルは咄嗟にアウロスの腕を掴んでいた。
「アウロス、駄目だ!」
「でも!」
 複雑な感情が入り混じった翡翠の瞳に見つめられ、ラトルは唇を噛み締めた。
「どうして、君はそうやって自分を追い詰める!? 何か他にいい方法があるかもしれないのに!」
 しかし、アウロスは引き下がらなかった。
「……そういうのじゃないわ。これは、私の……私が果たす責任だもの」
 思わず、ラトルが声を荒げようとした瞬間だった。
 突如、激しい揺れがラトルたちを襲った。
「!!」
 不意のことにアウロスは体勢を崩し、倒れかける。
 その上の天井が崩れて、拳程度の瓦礫が落ちてくるのに気づいた瞬間、ラトルはアウロスを庇い込んでいた。
 揺れは程なくして収まる。
 低い体勢で安定を保っていたラトルたちは揃って安堵の息を零した。
 そして、ゆっくりと天井を見上げ、周囲を見回したユートは気難しい顔で呟いた。
「……まずいな」
「ユート様?」
 ジェリスの問いに、ユートはわずかに眉をひそめながら頷いた。
「今のは前兆に過ぎない。もう一度激しい揺れが来る。崩壊の可能性がある。その前に脱出した方がよかろう」
 その答えにジェリスは表情を引き締めた。
「ラトル様」
 呼びかけの意味を察し、ラトルは頷いた。
「ああ、分かった。……ガント、手伝ってくれ。ニールドも連れていく」
「あ、うん」
「ラトル、いい加減離して」
 ずっと抱え込まれていたアウロスがついに耐え切れなくなったように突き放す。
 何故かアウロスが傷ついたような瞳をしているのに気づき、ラトルは驚きに固まった。
 間近に見る翡翠の瞳は本物の翡翠より深く輝かしく、そして美しかった。
 アウロスは不意に視線を逸らして言った。
「彼も連れていくなら、せめて応急手当はしないと――」
 そして、アウロスは改めてニールドに回復魔法をかけようとした。
 側に近づいた人の気配に、ニールドがぼんやりと目を開ける。そして、鳶色の瞳がゆっくりとアウロスを捉えた。
「……何で、あんたがここにいるんだ?」
 正気を失っていた時と同じような言葉に、アウロスは困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
 しかし、次の瞬間、アウロスは唱えようとしていた呪文の詠唱が途切れた。
「また、迷ったのか?」
 驚愕に大きく見開いた翡翠の瞳がニールドの青ざめた顔を映し返す。
「さっさと帰りな――」
「な、にを言って」
 そして、ニールドは薄く笑った。
「……が心配して」
 ニールドの言葉は天井の崩れる音に掻き消された。
「ラトル様、ここはもう危険です! 脱出しましょう!!」
 ジェリスの言葉にラトルは我に返り、頷き返した。
「ああ!」
「私が先に行こう」
 落ちてくる瓦礫を払い、ユートが先導を買って出る。
 ガントがニールドを背負い、シエネがその横についた。ニールドの命を守るため、シエネは応急的な回復魔法をかけ続けるつもりだった。
「アウロス、行くぞ。何を呆けているんだ!?」
 何故か茫然となっているアウロスを引き起こし、ラトルは叱咤した。
「あ……え、えぇ」
 アウロスは一瞬俯き、何かを耐えるような顔をしたかと思うと唇を噛み締めて表情を消した。そして、顔を上げてユートたちの後を追う。
 アウロスに続き、ラトルとジェリスも走り出した。
 脱出は間一髪と言うところで間に合った。
 最後尾にいたジェリスが正面出口を飛び出すと同時に、名も無き神殿は完全に崩壊した。
 無数に重なる瓦礫。それはまるで局地的な地震が起きたかのような光景だった。
 ラトルは安堵の息を吐くと同時にニールドを見やった。
「ニールド……」
 静かに呼びかけ、その傍らに膝を着く。
 囁くような声に、ニールドは薄っすらと目を開けた。そして、緩慢な動きで腕を上げる。
「ニールド?」
 ラトルの訝しげな呼びかけとニールドの腕がラトルの襟首を掴んで引き寄せたのは同時だった。
「!」
 死相を浮かび上がらせ、今にも息絶えようとしている人間とは思えない強い力だった。
 そして、鳶色の瞳を狂おしい光に輝かせ、ニールドは低く告げた。
「島へ行け」
(……島?)
 ラトルが意味を問おうとした瞬間、ニールドの腕が力を失い、ずるりと落ちた。
 ラトルは息を呑んでニールドを見つめた。
 すでに鳶色の瞳は隠され、その唇はわずかにも動く気配はなかった。
「――ラトル、残念だけど」
 努めて冷静なシエネの声に、ラトルは無言で頷いた。彼の頭の中では色々な考えが巡っていた。
 ニールドの死は哀しい。助けられるものなら助けたかった。
 だが、それに捕われ、自分を見失うことはなかった。
(島、だと?)
 ニールドの最期の言葉だ。意味のないものとは考えにくい。
 ラトルに答えを与えたのは感情の抜け落ちた声だった。
「監獄島よ」
 我に返り、ラトルは声の主――アウロスに視線を移した。
「……監獄島?」
 アウロスは息絶えたニールドを見つめながら続けた。
「昔は犯罪者を送り込んでいた孤島の監獄だったけれど、そこには今は魔道技術研究所があるわ」
「研究所〜?」
 聞き慣れない単語にガントは顔をしかめて繰り返した。
「そこで、発見された遺物や古代魔法、そして――キメラが研究され、創られているのよ」
 その言葉に全員が息を呑んだ。
 アウロスは一つも顔色を変えなかった。
 ラトルはそんなアウロスとニールドを見比べ、そして一度瞳を閉じる。
 キメラ。
 合成された生物。
 生命を冒涜する行為。
 無意識のうちにラトルは唇を噛み締めていた。
「精石も一度はそこに預けられるはずだわ」
 再び開いた蒼い瞳には強い決意の光を宿っていた。
 ラトルは廃墟と化した名も無き神殿を見つめ、強い声で宣言した。
「行こう、監獄島へ」





「……そこまで力を求めて、何がしたいというのです、父上?」
 高みにある壇上の玉座を見据え、彼は問うた。
「今更な問いだな?」
 くすくすと笑いながら、男は彼に笑いかけた。
 濃い金髪に碧緑の瞳。
 すでに五十も過ぎているというのに、いまだ若々しい姿はその意思の強さの現れだろうか。
「そう思わないか、お前たち?」
 そして、男は足元に侍る女たちに話しかけた。
 女たちはくすくすと笑い、しどけなく男の膝にもたれかかる。
 その様子を見て、彼は柳眉をひそめた。
 常用性のある薬と、精神魔法で心を捕われた女たち。
 父のお気に入りの生きた玩具。
 すでに自分たちが何をしているのか、それすら分かっていないだろう。
 吐き気がした。
 一瞬、彼の碧緑の瞳に鋭さが流れた。だが、それを彼は瞬く間に消し、再び壇上の父を見つめた。
 男は婉然と笑っていた。
「私が何をしたいのか知ってどうする気だ?」
「知りたいだけです」
「知ったところで何もできぬことは理解しているようだ」
 満足げに呟き、男は軽く腕を上げた。
 男の求めに応じ、傍らに現れた見目麗しい少年が杯を差し出した。
「私はすべてを手に入れたいだけだ」
 そして、男は杯に一口だけ口をつけると、碧緑の瞳を細めた。
 彼は冷ややかに言い捨てた。
「欲張りですね」
 男はくすりと笑い、杯を傾けた。
 笑っていた女たちの顔から笑みが消える。
 とろみのある琥珀色の液体が杯からゆっくりと床に注ぎ落とされた。
 その光景を女は陶然と見つめ続けた。
「欲しいか?」
 男の問いに女たちは揃って頷いた。
 男は美しく微笑むと、優しく告げた。
「許そう」
 その瞬間、女たちは床に這い蹲り、琥珀色の液体を指で掬い取り、舐め始める。
「!」
 咄嗟に彼は視線を逸らして、長衣を翻し、背を向けていた。そして、そのまま歩き出す。
 男の笑い声が彼の後を追った。
「リリシアに会いに行ってやるがいい。お前の妻だ、遠慮せずにな」
 その瞬間、彼の脳裏に一人の娘の姿が過ぎった。
 淡い栗色の髪に若葉色の娘。
 政略の果てに彼の元に嫁いできた貴族の令嬢。
 思わず、彼は唇を噛み締めていた。
 衛兵が恭しく礼をして、大扉を引き開けた。
 そして、彼と入れ代わるように深緑の長衣を纏った男が入ってくる。
 皇国の筆頭魔道士は皇子である彼を無視して、恭しく壇上の男に一礼した。
「戻ったのか、サリク」
 大扉がゆっくり閉まっていく中、機嫌の良い声が彼の耳に届く。
「それで、首尾は?」
「すべて御心のままに」
 大扉が閉まる前に、彼はその場から離れて歩き出した。





「レザム様!」
 夫の来訪を侍女から知らされた彼女は嬉しさを隠しきれない声で呼びかけた。
「……リリシア」
 優しく微笑みかけられ、リリシアは恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
 その問いに、リリシアは若葉色の瞳を少し曇らせて答えた。
「えぇ、大丈夫ですわ……。レザム様は?」
 夫婦だというのに、リリシアと夫である青年は一緒の時間が少なかった。
 初めて会った時から変わらない優しい微笑に、心が安らぐのを感じながらリリシアは過去に思いを馳せた。
 リリシアと彼の結婚は政略結婚だった。
 だが、彼の微笑みを見た瞬間から、リリシアは心からレザムを愛していた。
「僕は何も変わらないよ」
 不遇の、優しい皇子。
 実の父に半ば幽閉の身の上とされているのに、微笑みを浮かび続けられるその強さに惹かれた。
「……あの子は?」
 レザムの問いに、リリシアは我に返った。
「無事ですわ。どうぞ会ってやって下さい。今、眠ったところですけど――」
 そして、リリシアはゆっくりと彼を案内した。
 暖かい日差しが注ぐ小さな寝台には幼い子どもが眠っていた。
 金色が混じった淡い栗色の髪。
 レザムとリリシアの間に生まれた希望の一つ。
 しかし、自分以外の『契約者』を認めない皇帝ギリウムは、血縁とはいえ、二人の『契約者』を一ヶ所に留めることを許さなかった。
 レザムは静かに手を伸ばし、眠る子どもに触れようとして、止めた。
「レザム様?」
「起こしたら可哀想だから」
 その気遣いにリリシアは微笑みを浮かべた。不意に涙が浮かび上がった。
「リリシア?」
「申し訳ありません。何だか、すごく安心してしまって――」
 レザムはわずかに表情を翳らせた。
「……不安だったんだね」
 リリシアは慌てて顔を伏せた。
「そんな私の不安なんて――」
 不安の強さならレザムの方が大きいはずだ。
 同じ『契約者』とはいえ、子どもはまだ幼い。皇帝が危機感を覚えるのは、まだ先のことだろう。だが、彼はいつ皇帝の魔の手にかかってもおかしくないのだ。
「僕は大丈夫だよ」
 リリシアは顔を上げて、夫を見つめた。
「本当ですか?」
「ああ」
 揺るがない静かな微笑に、リリシアはかすかに安堵の笑みを零す。しかし、その笑みはすぐに不安が滲む表情に取って代わった。
「リリシア?」
「レザム様、私……」
 リリシアは一度口を噤み、そして搾り出すように続けた。
「陛下が恐ろしいのです」
 言ってから、何を今更なことを言っているのだろうとリリシアは思った。
 皇帝が恐ろしい人間だということは誰もが知っている。何も知らないのは生まれたばかりの子どもだけだ。
「いつか陛下に殺されてしまうような気がして……」
 何故、こんなに恐怖を感じるのか。
 それは何か触れてはいけないものを壊されるような危機感だった。
 その瞬間がきた時、自分は死んでしまうと何故か確信があった。
「リリシア」
 レザムの呼びかけに縋るように、リリシアは夫の胸に飛び込んでいた。
「レザム様、どうかお願いです。私を」
「大丈夫だ」
 リリシアの言葉はレザムの声に遮られた。
「大丈夫だよ。父上には殺させはしないから安心するといい」
 優しい優しい響きにリリシアは小さく頷いた。
「大丈夫……」
 囁きながら、レザムはふと視線を窓の向こうにやる。
「――大丈夫だよ」
 静かな風が淡い金色の長い髪を揺らして過ぎ去っていった。





第四章 〜螺旋の疵〜 T へ続く