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第三章 〜眠る秘鍵〜


V



「こちらの被害は予定以下。敵主力であるキメラ部隊はともかく皇国軍の大半が降伏、捕虜とすることができました」
「圧勝ってか?」
 ジェリスの報告に、ガントは軽い口調で言葉を挟む。しかし、その顔には苦々しさが滲んでいた。
 窓から見える中央広場では勝利を祝って、賑やかな宴が開かれていた。明るい音曲が流れ、笑い声が途絶えることない。抵抗軍が留まる街全体が勝利に浮かれ、熱狂に包まれていた。
 だが、抵抗軍の中核を成すラトルたちがいる部屋は沈んだ空気が支配していた。
 上座には硬い表情のラトルが座り、その横にジェリスが立っている。テーブルの席に着いているのはユートとガント、そしてシエネだ。
 今回の勝利の功労者であるアウロスの姿はない。
 アウロスは昨日の戦いで体力的にも精神的にも疲労していた。
 戦場で意識を失って以来、自室として与えられた部屋で、昏々と眠っている。
「アタシ、もう我慢できないわ」
 短い黒髪を掻き揚げ、シエネはラトルを睨みつけた。
「アウロスを戦線から外して」
 ラトルは表情を変えず、シエネを見返す。
「これ以上は見てられない。あんなの、絶対ダメよ。いつか死んじゃうわ」
 琥珀色の瞳に心配そうな光があった。
「……同感だな」
 ガントは静かに頷いた。
「しかも、アイツ、会った頃に戻ったみたいだぞ」
 二人の言葉を聞き、ジェリスはちらりとラトルを一瞥した。
 ラトルの表情に変化はない。だが、心中は二人と同じだろう。
「――ユート殿はどう思われる?」
 まだ意見を述べていないユートにラトルは穏やかに尋ねた。
 ユートは褐色の瞳を思慮深げに閉じ、低く告げた。
「外しても支障なかろう」
 その瞬間、ラトルは大きな溜め息を吐いた。
 それは落胆ではなく、安堵の溜め息だった。
 表情を和らげ、ラトルはジェリスを見上げた。
「だってさ」
 ジェリスは軽く肩を竦めた。そして、小さく微笑む。
「良かったです。これでラトル様も無謀な行為をせずに済みますね」
 ラトルは困ったように苦笑した。
 ジェリスは表情を改めて、自分を注目している仲間に視線をやった。
「アウロスを戦線離脱させるなら、少々別件に当たってもらおうかと考えていたんです」
 どうやらラトルとジェリスの間ではすでに話が着いていたらしいと察したシエネは不満げに眉をひそめた。
「どういうことだよ、ラトル?」
 ラトルは穏やかに微笑んだ。
「最近、皇国の動向がおかしいと思わなかったか? 抵抗意志を見せる街を攻め落とそうとする行為自体は変わりないが、指揮官の程度が低い。アウロスやサリクだけでなく、皇国にはまだ優秀な人間がいるはずだ」
 そして、ラトルは眼差しでジェリスに説明を促した。
「皇国の手の者が最近になって妙な所に出没しているんです」
 ユートはかすかに眉をひそめた。
「妙な所とは?」
「すでに皇国の支配下に置かれている街や、さして戦略的に重要とは思われない地です。……ただし、それらには共通点がありました」
「勿体ぶらないで、さっさと言ったらどう?」
 シエネの言葉にジェリスは不快そうに答えた。
「物事には順番ってものがあるんですよ」
「まあまあ、いいじゃないか。そんな大したものじゃないし」
「そういう判断は確認してから言って下さい!」
 ジェリスに怒られたラトルは軽く肩を竦める。
「……で、共通点なのですが」
 気を取り直して、ジェリスは言葉を続けた。
「神殿があるんです」
「は?」
「神殿?」
 ガントとシエネはきょとんとした様子で問い返した。
 円の世界成立以前、世界には複数の宗教が存在していた。
 世界を救った四人の人間が契約を交わした神を、それぞれの宗教を信じる人々は自らの神として奉じ、神殿を建てていた。
「神殿って別にどこにでもあるじゃない」
 多少の違いはあれ、世界を見捨てなかった神に対する感謝を捧げる場に違いない。よほどの信者でなければ区別する必要性はなかった。
「まあ、そうなのですが、内偵を続けた結果、少し興味深いことが分かったので」
 そして、ジェリスは不敵な微笑みを浮かべた。
「皇国軍は街を占拠した後、神殿を完全制圧しています。どうやら神殿内部を調査しているんですが、二ヶ所だけ皇国軍の様子がおかしかったところがあるんです」
「……おかしい?」
 ガントの呟きに、ジェリスは頷いた。
「名も無き神の神殿です」
 一瞬、訝しげな顔をしたシエネだったが、ジェリスの言いたいことを察して顔色を変えた。
 それに気づいたガントはジェリスとシエネの顔を見比べた。
「え、何だ?」
 ユートが気難しい顔で低く呟く。
「……遺物か」
「どういうことだよ?」
 ジェリスは真面目な顔で言った。
「名も無き神の神殿とは円の世界成立直後、四王国の初代国王が建てたものです」
「初代……って、始まりの『契約者』?」
 神と契約した四人の人間。
 彼らは円の世界で、それぞれ王国を建てた。
 神と会ったはずの彼らは人々に神の名も姿も伝えなかった。
 その彼らが建てた神殿は、まだ、魔法が栄えていた時代の建築物である。
「遺物とは円の世界成立以前の魔法道具や装置を意味するので、定義の上では名も無き神殿は遺物ではありません。しかし、皇国軍が調査までしていることを考えると、そこには遺物と呼んでも差し支えのない『何か』があったと考えられます」
 ジェリスの説明に、ラトルは大きく頷いた。
「ギリウム皇帝が遺物を利用して魔道と科学を融合させ、キメラを創っていることは周知の事実だからね」
「……何の遺物があるっていうんだ?」
「さあ?」
 ラトルは軽く肩を竦めた。
「さあって……分かんないのか?」
 呆れたように尋ねてくるガントに、ラトルは曖昧な微笑みを浮かべた。
「これは推測に過ぎないんだ。ただ、皇国の様子がおかしいのは事実だ。アウロスが加わったことにより戦力が増したにしても、こうも皇国軍に勝ち続けるのは少しおかしいだろう?」
「事実、魔道士は来ていませんし」
 魔法を扱う者が減少している現在、魔道士の存在は貴重だ。
 遺物の多くが魔法の力を宿しているため、その研究や使用には魔道士が必要となる。
 最近の皇国軍を思い出し、ガントは納得したように頷いた。
「手応えがねぇなと思っていたけど、そっか、魔道士がいなかったのか」
 魔道士の使う魔法は大きな戦力となる。呪文一つで大多数の人間を殺すことも生かすことも可能だ。魔道士一人いるかいないかだけで戦況は大きく変わる。
「それで、皇国軍が調査した神殿はどこのものだ?」
「カレースとクァ―ルの神殿です」
 ジェリスの答えを聞いて、ユートは重々しく頷いた。
「すでにダムロードの神殿も調査済みと考えて差し支えなかろう。とすると、残るは――」
 ユートの言葉をジェリスは引き継いだ。
「ナファームです」
 その言葉にシエネたちは一斉にジェリスを見つめた。
 ジェリスはナファーム王国の出身だった。
 全員の視線を受けたジェリスは真面目な顔で説明を続けた。
「ナファームの神殿のある街にまだ皇国軍は来ていません。ですが、時間の問題でしょう。つい先ほど皇国軍がナファームの国境を超えたという情報が入りました」
 王家は滅び、公的には他の三国は皇国に統合されたことになっている。あくまで皇国の主張に過ぎないが。
「じゃあ、ここでゆっくりしていられないわね」
 遺物である『帆船』を手に入れてからラトルたちの行動範囲は広がった。現行の飛行艇より高く速く飛ぶ帆船は今では抵抗軍の本拠地となっていた。
 シエネは立ち上がり、ラトルを見やった。
「すぐに補給を急がせるわ」
 続いて、ユートもゆっくりと席から立ち上がった。
「帆船の整備はすでに終了しているはずだ。すぐに発てるように命じよう」
 一つ頷いてシエネはガントに言った。
「ガントも荷の積み込みを手伝って」
 その瞬間、ガントは賑やかに宴を楽しんでいる外をちらりと見て、大きく肩を落とす。
「あーあ、せっかくの宴だってのに楽しんでいる暇はねぇかあ」
「どうせ食べるだけでしょ。そんなに食べたきゃ帆船の中でアタシが何か作ってあげるわよ」
 シエネの発言に、ガントは渇いた笑みを浮かべた。
「いや、遠慮しておく……」
「ソレ、どーゆー意味よ!?」
 じろりと琥珀の瞳で睨まれ、ガントは慌てて言った。
「喜んで手伝わせてもらいます!」
 しばらく、ガントを凝視した後、シエネは腕を組み、鼻で笑った。
「最初っから素直にそう言ってればいいのよ」
 そして、仕方なさそうにガントは立ち上がった。
 そんな二人の様子を呆れ顔で見ていたジェリスは気を取り直して口を開いた。
「じゃあ、明日の出発のつもりで御願いします。僕はここの抵抗軍に今後についての指示と相談をしますので」
 その言葉にラトルは驚いて、ジェリスを見上げた。
「それは私がするよ。ジェリスは情報収集の方に専念してくれたら」
 いい。
 そう続けようとしたラトルの言葉をジェリスは制するように告げた。
「いえ、ラトル様は別にしていただきたいことがあるんです」
「?」
 訝しげに見つめるラトルにジェリスはにっこりと笑った。
「アウロスに伝えて下さい」
 思いがけない言葉にラトルは茫然となった。
「今のアウロスは出会った頃よりひどい状況です。以前、彼女を説得したのはラトル様ですから適任です」
「適任です、って、ジェリス……」
 断言されたラトルは困ったように見返した。
 その様子を見て、シエネはにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「いいんじゃない〜?」
「右に同じ」
「……」
 他の三人からも同意されて、ラトルは苦笑した。
(何だか、いいように遊ばれているなぁ)
 だが、決して悪い気分ではない。少なくとも、応援されていると思って間違いないだろう。
「ラトル様?」
 そして、ラトルは穏やかな微笑みで頷いた。
「分かった。皆の意見に従うよ」





――ア……。

 呼バナイデ。

――アウ……?

 見ツケナイデ。

 庭園の奥深く白い花を咲かせた茂みの裏で座り込んでいた幼い少女を見つけ、彼は微笑みを浮かべた。
――こんなところで何をしているの? 隠れんぼは鬼がいないと成立しないよ?
 そして、彼は緑碧の瞳を細めた。
――泣いていたの?
 幼い少女は答えようとしなかった。だが、彼の視線は細い腕の中を見て柳眉をひそめた。
 息絶えた子猫。
 彼は静かに幼い少女から子猫の遺骸を取り上げる。
 幼い少女は抵抗せず、ただ潤んだ翡翠の瞳で彼を見上げた。
 彼は穏やかな微笑みで応えた。
――生きているものは必ず死んでしまう。それは運命だ。
 幼い少女はかぶりを振った。

 知ッテル。
 分カッテルカラ。

 彼は綺麗に整った指を土で汚すことも躊躇わず、子猫の遺骸を埋めた。そして、幼い少女の名を呼んだ。
――おいで。

 ダメ。

 幼い少女は縋りつくように彼に抱きついた。
 彼は汚れた指が幼い少女に触れないように気遣いながら優しく抱き締めた。そして、ゆっくりと囁いた。
――僕は側にいるから。
 静かな風が吹いて、長い金と銀の髪がたなびき、交じり合う。
――お前が泣かなくてもいいように守るから。

 イラナイ。
 守ラナクテイイノ。

――約束するよ。

 ドウシテ。

 暖かな陽光が差す中、彼は穏やかに微笑していた。
――必ず守る。誰にもお前を傷つけさせない。
 少女を抱き締める腕に力が籠もる。
――だから、僕の側にいるんだよ。

 ダメ。
 デキナイ。
 貴方ノ側ニイテハダメナノ。


 悲嘆に包まれた覚醒は最悪だった。
 アウロスはゆっくりと上半身を起こして周囲を見回した。
 質素だが、清潔感がある。手入れが行き届いた部屋だ。
(……あぁ)
 思い出した。
 戦場で勝利を確認した直後、気絶したのだ。
 さらりと肩から銀色の髪が滑り落ちる。
 髪を払い除けたアウロスの視界に白い花が飛び込んできた。
 寝台の脇の棚に生けられた白い花。
 ほのかに立ち昇る香りに、アウロスは自分が夢を見ていたことを思い出した。そして、唇を噛み締めて、寝台に倒れ込み、顔を手で覆う。
 過ちはどこからだったのか。
 どうすれば良かったのか。
 何度、自問しても答えはでない。
 あまりにも何も知らなさ過ぎた。それとも、最後まで知らずにいれば良かったのか。
 しかし、すぐに否定の声が上がった。
(……そんな訳ない)
 時が過ぎれば過ぎるほど状況は最悪になっていったに違いないのだから。
 決断の時はとうの昔から訪れていた。それを引き伸ばしていたのはすべて自分の弱さのせいだ。
 アウロスは苦しそうに表情を歪めた。
 間に合う、のだろうか。
(私は、戦える……?)
 アウロスがその『時』に思いを馳せた瞬間だった。
 部屋の扉が叩かれ、アウロスは飛び起きた。咄嗟に寝台の横に立てかけられた銀剣を手に取る。
「誰……?」
 すでにアウロスの顔から表情が消えていた。
「私だよ」
 扉の向こうから返ってきた声に、アウロスは一瞬翡翠の瞳に揺らめきを漂わせる。
「ラトル?」
「あぁ」
 アウロスは取っ手に手を伸ばしかけ、一瞬躊躇う。しかし、唇を噛み締め、表情を引き締めると扉を静かに開けた。
 現れたアウロスを見て、ラトルはわずかに安堵の色を見せた。
「随分、顔色が良くなったな」
 アウロスは無表情で見つめ返した。
「そんなことを言いに来たの?」
 ラトルは苦笑してかぶりを振った。
「いや……次の予定が決まった」
「そう」
「戦線を離れてナファームの名も無き神殿に行く」
 アウロスは軽く眼を瞠った。
「名も無き神殿……」


『ここは静かだろう? ただ、祈りを捧げるためだけの場所だからね』


「知っているのか?」
 アウロスは小さく頷いた。
「――ダムロードの神殿には何度か行ったことがあるから」
「そうか」
 ラトルは頷き返して、説明を続けた。
 一通りの説明を聞いて、アウロスは思案深げな顔になる。
「それは考えられることだわ。皇帝は力を求めている。遺物の力は今の魔道では得られない力を秘めているから欲して当然ね」
 そして、アウロスはラトルに告げた。
「ナファームの神殿に行くことは必要だと思う。でも、全員で行くことはないわ。私は残る」
 その瞬間、ラトルの顔がわずかに険しくなる。
「何故?」
「勝利をしたからと言って油断できる状況ではないはずでしょう? たとえ、皇国軍の質が劣っているとしても数では向こうが上だし、余力もある。いずれ総力戦となるわ。その時のためにも各地の重要地点を確保しておくのは当然だと思うけど?」
 ラトルは苦々しげに声を低めた。
「アウロス、君は、あの言葉を気にしている?」
 アウロスは一瞬硬直した。
「何のこと……?」
「忘れた振りはしなくていい」
 アウロスは唇を噛み締めた。
 ポポリアであった衝撃的な事件。
 あの夜以来、ラトルたちが自分を気遣っていたことをアウロスは知っていた。
 だから、気にしていないように振る舞っていた。
「いいえ、本当よ。もっとひどい言葉を言われたこともあるもの」
 皇国の将軍として戦っていた頃。
 敵だけではなく、味方ですらアウロスを恐れ、影で蔑んでいた。
 皇帝の殺戮人形。
 血も涙もない、人の皮を被った魔物。
 他人の血に塗れることも、涙を踏み躙るのも何も感じなかった。
「だったら!」
 ラトルの声音に怒気が籠もる。
「何故、あんな無茶な戦い方をする?」
 いつになく強い眼差しに射られ、アウロスは息を呑んだ。
「それは……」
「それは?」
 容赦のない追及にアウロスは何故か胸騒ぎを感じた。
「私は戦うことしかできないから……」
 その言葉にラトルは言葉を失った。
 アウロスは唇を噛み締めて俯いた。
「――本気で言っているのか?」
 掠れた低い声に、アウロスはびくりと震えて顔を上げた。
「ラトル、私は」
「アウロス、俺は君が戦いのための道具だとは思っていない。君は、あの夜、傷ついた」
 一言一言に強い力が籠もっていた。
「人間だから傷ついたんだ」
 アウロスはかすかに震えてかぶりを振った。
「俺は言ったはずだ。君のことも守りたいと」
 その瞬間、アウロスは悲鳴にも似た叫びを上げた。
「守らなくていい!!」
 それに驚いたラトルは翡翠の瞳が潤んでいることに気づいた。
「いらない。必要ない。私は大丈夫だもの。守ってもらう必要なんてない」
 震える声音は何度も拒絶の言葉を紡いだ。
「私は死なない。まだ、やることがあるから、死ねない。だから、平気。だから、いらない。いらないのよ」
「……」
 ラトルは強く拳を握り、そして息を吐いて感情を落ち着かせた。
「……アウロス、聞いてくれ」
 アウロスは耳を塞ぐようにしてかぶりを振った。
 幼い子どものような仕草に、ラトルは眉をひそめた。そして、耳を塞ぐ手を取り、ゆっくりと告げた。
「俺は何も一方的に守る気はない」
 その言い方に何か引っかかりを覚えてアウロスは顔を上げた。
 それを見て、ラトルはかすかに笑った。
「俺はそれほど強くないから、逆に守ってもらう必要だってある。……独りでは何もできない」
 アウロスは茫然となってラトルの言葉を聞いた。
「『世界』を存続させるために『契約者』は独りでも事足りるけれど、人間である以上独りでは生きていけない」
 『契約者』という言葉にアウロスは一瞬びくりと肩を震わせた。
「俺が守りたいと思うのは俺も守られているからだ」
「……私は守ってない……」
 小さな反論に、ラトルは優しく微笑む。
「守り方は一つじゃないから」
 その瞬間、アウロスはどきりとした。
「アウロスが存在するだけで守られているものもあるんだ。目に見えなくても確かに」
 アウロスはゆっくりと瞳を伏せた。
 血に塗れることも涙を踏み躙ることも平気だった。否、今でも平気でなくても実行できるだろう。
 それによって望みが叶えられるなら。
(……まだ、諦めてなくていい?)
 消そうとした願い。
 叶えられるはずのない望み。
 戦わなくても守れるのなら、守ってもいいのなら。
 守りたかったものを、守れなかったものを。
 失ってしまったと思っていたけれど。
(私は……)
 ぐっと零れそうになる涙を堪え、アウロスは小さく言った。
「分かった。分かったから、離して……」
「あ……あぁ、ごめん」
 手を解放され、アウロスは自分の胸元に引き戻すと何かを抑えつけるように握り拳を作った。
「……いつ?」
「え?」
 アウロスはゆっくりと顔を上げて尋ねた。
「いつナファームに出発するの?」
 翡翠の瞳に理性の光が戻り、すっかり落ち着いたことに気づいてラトルはかすかに表情を和らげた。
「明日」
「明日? 随分、急ね」
 そう呟いて、アウロスはすぐに事情を察した。
「すでに皇国側が動いているの……?」
 ラトルは無言で頷いた。
 それを確かめて、アウロスは淡く微笑した。
「だったら仕方ないわね。大した荷物もないけど、すぐに発てるよう準備するわ」