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第三章 〜眠る秘鍵〜


Y



 彼の住んでいた国が王国から皇国に変わっても彼の生活に変化はなかった。
 平凡な両親と過ごす平凡な生活。
 それが少し変わったのは父の旧友という男が連れて来た少年が彼の家で暮らすことになった時からだった。
 純金の髪に蒼い瞳の綺麗をした、まるで母が時々話す童話に出てくるような少年だった。
 近所の友だちとは全く別次元の存在のように見える少年に、彼は興味を抱いた。
「お前、名前は?」
「……ラトル」
「ふーん、俺はガント。なあ、お前って」
 一瞬、少年の顔が強張ったことに彼は気づかず、言葉を続けた。
「甘いの、好き?」
「え?」
「だからぁ、甘いの好きかって聞いてんだよ」
 少年は蒼い瞳を大きく瞬かせて、戸惑った顔で言った。
「えっと、それって……食べ物のこと?」
「それ以外に何があるってんだ?」
 彼がきょとんとした顔で見返すと、不意に少年は笑った。
「……うん、好きだよ」
「そっか。今日、母ちゃんが焼き菓子作ってるんだ。すっごく美味いんだ。お前、良い時に来たなあ」
「へえ、そうなんだ? 楽しみだね」
 彼と少年はすぐに親友と呼べる関係にまでなった。
 だが、別れは不意に訪れた。
「迎えに来た」
 そう言って現れた男を真剣な顔で見つめ、すでに青年の域に入りつつあった少年は大人びた声音で尋ねた。
「始めるんですか?」
「ああ、お前には辛い役割を負わせることになる」
「いえ、構いません。……すでに覚悟は決めてありました」
 冷静な声。
 悲愴な表情。
 いつも穏やかに笑っているのに、その時の顔は恐ろしいほど真剣だった。
 不意に彼は思った。
(ダメだ)
 強い確信があった。
(そんなんじゃダメだ)
 そう思った瞬間、彼は両親に向かって言っていた。
「じゃ、オレも行くわ」
 その場で驚愕しなかった者は誰一人いなかった。
「じゃ……って、何が『じゃ』なんだ?」
 頭痛を覚えた父が額を押さえながら聞き返すと彼は妙に強気で答えた。
「だって、コイツ、ダメだから」
「は?」
「ダメなもんはダメだって。だから、オレも行く」
 そして、彼は茫然となっている少年にニヤリと笑いかけた。
「もう決めたからな?」
 親友がどこに行くかも知らなかった。
 何をするのか、何を背負っているのか、彼は何も知らなかった。
 だが、彼は少年を知っていた。
 彼にとって、それだけで充分だったのだ。

――ガント。
(文句あるのかよ?)
――危ないのに。
(だったら、尚更だ)
――君には関係ないのに。
(お前ってバカだよな)

 オ前ッテばかダヨナ。





「本気で出て行かれるのですか、旦那様?」
 側近だった男の問いかけに、彼は振り向いた。そして、短く頷いた。
「あぁ」
「今、旦那様がいなくなると我らはどうしたいいのです!?」
 彼は薄い笑みを浮かべた。
「私がいる方が逆にまずかろう」
「!」
 側近は息を呑んで壮年の主君を見つめた。
「王家は滅んだ」
 彼は淡々と呟きながら、胸に苦い思いが去来するのを感じた。
 守るべき主君。
 貴き『契約者』の一族。
 彼が失った誇り。
「私は皇帝を許せぬ」
「旦那様……」
「そんな私がここに留まれば、いつの日や皇帝は軍を差し向けるだろう」
 そして、彼は壁に置いてあった槍を手に取った。
「私は、討ち死にしても悔いはない。だが、焼き払われる領地を、苦しみに喘ぐ民を見たくない」
「だから、出て行かれると?」
 彼は無言で頷いた。
「私は失意のうちに病死したことにしろ。どこかで私とよく似た者が現れるかもしれぬが、他人の空似だと貫け」
 不意に、窓の外で鐘が鳴り響く。
 『彼』の弔いの鐘だ。
 たった今、彼の葬儀が終わったのだ。空の棺を背負った墓掘りたちが厳かに館の門を潜っていく。
「……遺物は如何なさるおつもりですか?」
 その言葉に彼は眉根を寄せた。
 彼の領地で発見された巨大な遺物。その発掘作業はいまだ続行されていた。
「――皇帝に知られれば利用されるな。直ちに中止しろ」
 しかし、側近は首肯しなかった。
「いいえ、それは得策と思えません」
 旅立ちの支度を調えながら、彼は側近をちらりと見た。
 続きを無言で求められたことを察した側近は声を低め、口を開いた。
「確かに皇帝に知られる危険はありますが、知られず発掘が終わり、研究が済めば今から旦那様がなさろうとすることに役立ちましょう」
 彼は褐色の瞳を細めた。
「私とは無関係を貫けと言ったはずだが」
 すると、側近は淡い笑みを浮かべた。
「もちろん、承知しております。ですが、皇国を許せないのは私とて同じです。ゆえに、抵抗軍を密かに支援することも当然ではありませんか?」
 その瞬間、彼は笑いが込み上げてくるのを感じた。
「……いいだろう。後のことはお前に任せるのだ。死者である私がとやかく言えまい」
 側近は深く頷いて、不意に戸惑いの表情を浮かべた。
「私や領地のことは構いませんが、エルカ様はどういたしましょう?」
 次の瞬間、彼は重い溜め息を吐いた。
「……どうもせぬ。ただ、無謀な真似はさせぬよう注意を払ってやってくれ」
 苦々しい彼の声音に側近は苦笑した。
「努力はいたしますが……。敵討ちをすると言い出しかねませんよ。何せ、父君に似て意志が強うございますから」
 暗意に皮肉られた彼は軽く肩を竦めた。
「では、行く」
「はい、どうぞ御武運を」

――旦那様。
(苦労をかけるな)
――いいえ、どうぞお気になさらず。
(それでも、私は許せぬのだ)
――ええ、分かっております。
(たとえ、お前たちを見捨てることになろうとも)

 タトエ、オ前タチヲ見捨テルコトニナロウトモ。





「ここ、どこ……?」
 ぽつりと呟いた瞬間、彼女はとても寂しいことに気づいた。
 見たことのない廊下。
 見たことのない景色。
 誰も通らない。
 誰もいない。
 彼女の腕の中には安心しきった様子で眠っている子猫。
 そして、彼女はゆっくりと記憶を辿った。そして、幼い頭で一つの結論を出した。
 庭で見かけた子猫を追いかけていて迷ったのだ。
 彼女は静かに辺りを見回した。
 影の落ちる白い壁。
 どこか遠くで笑い声がする。
 不意に、彼女は背筋が震えるのを感じた。
(いや……ここにはいや……!)
 そして、彼女は闇雲に走り出す。
(誰か誰か……)
「レ」
 一つの名を呼び叫ぼうとした瞬間、廊下の角から現れた人物にぶつかってしまう。
「あ」
 その反動で、彼女の体が弾かれた。
 しかし、前方から伸びてきた腕に掬い取られる。
「危ねぇなあ……」
 恐る恐る顔を上げると、知らない男の顔があった。
「!」
「おい、大丈夫か?」
 尋ねられ、何かを答えようとした瞬間。
「そこで何をしているんだい?」
 背後から聞こえた声に、相手が誰か理解するより早く彼女は男の手を擦り抜けて抱きついた。
 相手は驚きもせず、彼女を受け止める。
「殿下……」
 男の呼びかけに彼女は我に返った。そして、ちらりと顔を上げた。
 彼女の視線にすぐに気づいた青年は淡い笑みを浮かべて、小さく囁いた。
「大丈夫だよ。何も心配しなくていい」
 彼女は素直に頷いて顔を埋めるようにしがみついた。
 青年の優しい手が髪に触れ、落ち着かせるように撫でる感覚に彼女は身を委ねる。
「……お前は近衛隊の者だね?」
「はい、殿下」
「そう……」
 頭上で交わされる会話を聞き流しながら、彼女は腕の中の子猫を思い出した。
 慌てて見ると、先ほどの衝撃で目を覚ました子猫はするりと彼女の腕から飛び降りて逃げて行く。
(あ……)
「殿下……失礼ですが、その少女は」
 話題に自分のことが上がった瞬間、彼女の肩が震えた。
「済まないが、ここであったことを忘れてくれないかな?」
「殿下?」
「父上に知られると騒ぎになるんだ。それは、望ましくない」
 どこか沈んだ声音に、彼女は思わず青年の手に触れていた。
 その瞬間、驚いたように青年の碧緑の瞳が彼女を映し、そして、微笑を浮かべた。
「……分かりました。私は何も見なかった。それで宜しいですか?」
「あぁ、ありがとう」
 そして、彼女はその身を包む腕に従って歩き出した。
 部屋に戻った後、青年は柔らかな椅子に沈み込むようにして座ると、小さな溜め息を吐いた。
「頼むから、あまり心臓に悪いことをしないで欲しいな……」
 彼女は悄然となって俯いた。
「ごめんなさい……」
「――いや、いいんだ。お前から目を離した僕が悪いんだから」
 そして、青年は微笑みを浮かべて腕を広げた。
「おいで」
 彼女は縋るように青年の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい……」

――大丈夫だって言ったろう?
(ごめんなさい……)
――何も心配することなんてないんだ。
(ごめんなさい……)
――お前から目を離した僕が悪いんだから。
(ごめんなさい……)

 ゴメンナサイ。
 私ガ、貴方ヲ。


「!!」


 次の瞬間、アウロスは銀剣を抜き、床に突き立てていた。
 鈍い衝撃が床を走り抜けて行く。
 その振動が床に膝を付いていた全員に伝わり、正気に立ち戻らせた。
「あ?」
「あれ?」
「今のは――」
「何が……?」
 状況に戸惑い、茫然となる仲間を見回したラトルは剣を床に突き立てたアウロスに気づいて顔色を変えた。
「アウロス!?」
 アウロスは肩で息をしながら、柄を握る手に力を込めた。
(ふざけたことを……)
 怒りに翡翠の瞳を輝かせながらアウロスは唇を噛み締めた。
 その美しさにラトルは固まる。
「アウロス、一体、何があったっていうのよ!?」
 言葉を失ってしまったラトルに代わってシエネが問いかけると、アウロスは短く答えた。
「魔道だ」
「え?」
「対象の意識に侵入して、破壊する精神魔道の魔法陣が床に隠されていた」
 淡々と答えながらアウロスは突き立てた銀剣を床から引き抜く。
 その刀身は蒼い輝きを纏っていた。
「……皇国軍の罠、ですか?」
 亜麻色の髪を掻き揚げながら、顔をしかめたジェリスは掠れた声で問いかけた。
「違う」
 アウロスは冷めた眼差しで周囲を見回した。
 その仕草に、ラトルたちは改めて周囲を見て、愕然となる。
 廊下に倒れている幾つもの皇国兵の死体。
 無言でユートが一つの死体を確かめる。
「……外傷はない」
 アウロスは銀剣を鞘に仕舞いながら頷いた。
「自分たちの罠にかかるほど皇国軍は間抜けではない」
 それに、とアウロスは内心呟いた。
(この魔道は最近のものではない……)
 おそらく名も無き神殿が建てられると同時に設置されたものだろう。つまり、これは初代王の遺志だ。


 何者も侵すなかれ。
 何者も求めるなかれ。
 我が遺志に背くものには死を。
 この場を躯が織り成す墓場としてでも。


(そうまでして守らなければならないものとは一体――)
 思案し始めたアウロスはラトルが近づいてくるのに気づくのが遅れた。
「アウロス」
「……?」
 我に返り、顔を上げた瞬間、ぺちりと軽い音がして頬を叩かれた。
「……ラトル?」
「君の悪い癖だ。何もかも独りで背負い込もうとする。もう少し私たちを頼ってくれてもいいと思うんだが?」
 苦笑を浮かべていたが、ラトルの蒼い瞳に真摯な輝きがあるのに気づいて、アウロスは気まずげに視線を逸らした。
「……ごめんなさい」

 ゴメンナサイ。

(!)
 不意に蘇った過去の記憶にアウロスは心が痛むのを感じた。
(私は何も変わっていない……)
 何も変わらない。
(変わりたいのに)
 変わらなければならないのに。
 唇を噛み締め、アウロスは軽く息を吸ってラトルを見返した。
「この罠はおそらく始まりの『契約者』が仕掛けたものよ」
 アウロスの言葉に全員が息を呑んだ。
「精神を作用する魔道は現在の魔道には数えるほどしか存在しないわ。ここまで永続的に効果を発揮する魔法陣もね」
「なるほど」
 ラトルは双眸を薄く伏せて考え込む。
「そうまでして守られている物とはよほどの物ということか……」
「ねえ、今の罠ってアウロスが初めて破ったんでしょう?」
 重く沈みそうになる雰囲気を払拭するような声でシエネが口を挟んだ。
「え、えぇ、そうね」
「じゃあさ、皇国軍はこの先に誰もいないってことよね?」
 罠を破られた形跡はない。確かに、そう考えることもできる。
「そうでもないみたいだぜ?」
 不意に横から届いたガントの言葉にシエネは振り返った。
「ガント?」
 ガントは少し先で屈み込んでいた。
「一人分の足跡がこの先に続いている」
 ジェリスはかすかに眉をひそめた。そして、ガントの隣に行き、自らの眼で確かめる。
「確かに」
 そして、ジェリスはラトルを見やった。
「ラトル様」
 ラトルは軽く肩を竦めた。
「罠を破ったのではないとするなら、効果がなかったということかな?」
 物理的な作用を齎す攻撃魔法と違い、精神魔法は対象の精神的資質に左右され易い。下手をすると、全く効かない者もいる。
「或いは高い魔法抵抗力を持っているか……」
 魔道の強弱は魔力に左右され、高い魔力は強い効果と強い魔法抵抗力を齎す。
「どちらにしろ、一人とはいえ油断できぬか」
 ユートの言葉に全員は深く頷き合った。