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第四章 〜螺旋の疵〜


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「――――!!」

 絶叫が上がった。
 全身を包む炎が与える熱と痛みに、キメラ研究者である男が闇雲に転げ回る。そして、淵からずり落ち、一度大きく跳ねるとぴたりと止まった。
 ラトルたちは茫然となって、その光景を見つめた。
 魔法が完成した瞬間、翼を広げた鳥を象った炎はアウロスの眼前を擦り抜けたかと思うと、結界を突き抜け、高らかに笑おうとしていたルシザーに直撃したのだった。
 強固な結界が負った一点の疵。
 それを狙って放たれた攻撃魔法は結界を打ち砕くに充分な力を持っていた。
 アウロスは翡翠の瞳を大きく見開き、唇を震わした。
 声も無く、唇だけが何故と問う。
 ゆっくりと喉を掴んでいた手が離れ、アウロスの体は自由を取り戻した。だが、すでに疲弊していたため、立つこともできず、座り込んでしまう。
 喉を抑えながら、アウロスはキメラ人間を見上げた。
 砕かれた結界の破片がきらきらと光の粒子となって降り注ぎ、消えていく。
 その中で立っているの黒衣のキメラ人間ただ独り。
(どうして……)
 疑問の言葉はキメラ人間が唱えた呪文に制された。
(回復魔法!)
 完全とはいかなくても体の傷が癒され、疲労感が拭われていく。
 驚愕のあまり、言葉を失ったアウロスは静かに伸ばされた手を拒むことすらできなかった。
 ぎこちなく冷たい手がアウロスの頬に触れる。
「……この時のために私は生きていたのだろうか」
 小さな呟きは思惟を感じさせる男の声だった。
「!」
(心を取り戻した!?)
 アウロスが何かを言おうとするより早く、黒衣のキメラ人間――否、男は次の魔法を完成していた。
「!?」
 ゆっくりとアウロスの体が宙に浮き、ふわふわと上昇していく。
「……ィセイラの娘、か」
 小さな呟きはよく聞き取れなかった。
 だが、黒衣の奥から視線が注がれていることは分かった。
「彼女はお前を遺したのか……」
 何を言われているのか分からなかった。
 分からなかったが、何か言わねばならないことだけは分かった。だが、何を言えばいいのか分からない。
 ほんの一瞬、触れられた冷たい手から、与えられた言葉から、伝わってきた愛惜の感情。
 何も言えないまま、アウロスの体は上へと運ばれ、静かに銀剣が突き立てられた側に降ろされる。
「アウロス!」
 誰よりも先に我に返ったタユナが駆け寄り、アウロスに抱き締めた。だが、アウロスの視線は階下の黒衣の男に固定されたままだった。
「……誰……?」
 どこで会ったことがあっただろうか。否、ない。
 声にも話し方にも覚えがない。
 何より。
(私にあんな風に触れる人なんて――)
 ただ独りしかいなかった。
 だが、『彼』ではない。『彼』であるはずがない。
「先生……?」
 ぽつりと聞こえた呟きに、アウロスはわずかに首を巡らした。
 シエネが戸惑いと驚きに固まり、琥珀の瞳を大きく見開いていた。
 その彼女の声が聞こえていたのだろうか。
 黒衣の男は一瞬笑ったようだった。
 そして、彼の黒衣が大きく風を孕み、魔力が溢れる。圧倒的な破壊力を秘めた魔力が天井を突き破り、まるで意志を持った生き物の如く暴れ回る。
「魔力の暴走か!?」
 黒衣の男から溢れた魔力はアウロスほどの勢いはなかったが、結界障壁がないせいで、アウロスの時と比べ物にならない激しさがあった。
「アウロス!!」
 動く気配のないアウロスを庇って、タユナはその体を引き寄せた。
 アウロスとタユナを掠めた魔力の一端が床を抉り、消滅させた。
 その衝撃の余波が襲ってくる瞬間、銀剣が蒼い輝きを薄っすらと放ち、二人の周囲に一瞬結界障壁が生じて、衝撃の余波を阻んで消える。
 飛び散った瓦礫の破片が頬を掠め、感じた痛みにアウロスは正気に返った。
「ダメ! 止めて、魔力を制御して!! 貴方ならできるでしょうッ!?」
 アウロス自身も驚くような悲鳴にも似た叫びだった。
 魔法の制御があれだけ得意なのだ。魔力を抑制することとてできるはずだ。
 だが。
「生きて幸せになれ。私と彼女の分まで――」
 黒衣の男は静かにそう告げて自ら魔力の奔流の中に消えた。
「!?」
(どうして!?)
「アウロス! タユナ!」
 暴走する魔力の隙間を縫って、ラトルが駆け寄ってくる。
 タユナはかすかに安堵して、表情を和らげた。
 ラトルは二人と自分を結界に包み込む。
「ここはもうダメだわ。棟が崩壊する!」
「何だって!?」
 タユナは口早に続けた。
「この下にはキメラ生成場があるのよ。ここが崩れれば、終わりだわ!」
 その言葉を証明するが如く魔力の奔流とは違う爆発が起こった。
 ラトルは素早く判断すると、声を張り上げて命じた。
「脱出する!!」
 その命令に従わない者は誰もいなかった。
 アウロスは側近くに突き刺さった銀剣を支えに立ち上がった。
 曇りのない銀色の輝き。
 その刃の輝きにアウロスの意識が明確になる。
(まだ死ねない)
 まだ何も終わってない。
 脳裏で哀しそうに微笑んでいる青年にアウロスは話しかけた。
(言わなくちゃいけないことがあるの)
 ずっとずっと思っていたこと。
(私が言わなければならない)
 言うのが怖くて、黙ったまま逃げてしまった。
(後悔したの)
 何も言わないまま逃げてしまったことを。
 あの時、目を逸らしてしまったことを。
 逃げてはいけなかった。
 目を逸らしてはいけなかった。
 未来を望むなら。
 どんなに苦しくても、捨てることができないと思い知ったから。
(全部を終わらせよう)
 何もかも。
(新しく、最初からやり直すために)
「アウロス……」
 銀剣を床から引き抜き、アウロスはタユナに頷いた。
「走れるか、アウロス」
 厳しい表情で問うたラトルに、アウロスは微笑みを返した。
 そして、ラトルたちは走り出した。
 爆発して崩れていく棟の騒々しさとはまるで無縁のような中庭を慌しく通り抜け、ラトルは舌打ちをした。
「急げ!」
 キメラ研究棟の倒壊に気づいた遺物研究棟の者たちが現れ始めていた。
 侵入する際、通ってきた道をラトルたちは逆走した。
 アウロスの視界を血と戦いの爪跡が残る壁が通り過ぎる。
「……」
 忌まわしき過去。
 忘れたい、忘れられない過去。
 忘れたくない想いを抱いた時の幻影が残る、地。
 罪を贖うための島――監獄島。
 罪を犯し続けていた愚者の集う島の闇を駆け抜け、光が差す空が見えた瞬間、アウロスの翡翠の瞳から涙が零れた。
 何故、泣くのか。
 悲しいのか嬉しいのか、それとも悔しいのか。
 全部のような気もしたし、全部違うような気もした。
 ただ、潤んだ双眸が熱い。
「……ッ!」
 零れそうになる嗚咽を押し殺し、アウロスは唇を噛み締めた。
 そして、ラトルたちが乗り込むと同時に帆船が浮上する。
「急速離脱!」
 ラトルの力強い命令に従い、帆船は船首を返し、孤島から離れようとした。
 力尽きて甲板の床に座り込んだアウロスはキメラ研究棟がある場所から黒い煙が立ち昇っていくのを見つけた。
 蒼い空に溶けて消えていく、黒い煙。
 その印象的な光景が霞んでいき、ついにアウロスは意識を深い闇の底に沈めた――。