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第四章 〜螺旋の疵〜


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 ふと、扉を叩く音がして、ラトルは見ていた書面から顔を上げた。
「誰だ?」
「私です」
 返ってきた声の主はタユナだった。
「どうぞ、入って下さい」
 ラトルの承諾を得て、タユナは静かに現れた。
「仕事中だったかしら?」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
 ラトルは穏やかに笑い、手にしていた書面を机上に置いた。
「どうぞ、かけて下さい」
 席に座るように勧めたラトルの言葉を静かに拒み、タユナはかすかな笑みを浮かべて口を開いた。
「……貴方にお礼を言っておこうと思って」
「礼?」
「アウロスを助けてくれたでしょう?」
 ラトルは苦笑した。
「私の方こそ助けてもらっていますよ」
「違うわ」
 タユナは微笑んで否定した。
「そういう意味じゃないの。……あの子を変えてくれたのは貴方でしょう?」
 ラトルはわずかに目を見開いた。
「タユナ……」
「皇国でのあの子はずっと独りで、誰もあの子を理解しようとしなかったから」
「――貴方がいたのでは」
 タユナは哀しそうにかぶりを振った。
「私は一緒にいることができなかったから。だから、あの子に信じてもらえなかった」
「そんなことは」
 ないと言おうとしたラトルを制して、タユナは続けた。
「あの子がまだ起きている時に謝ったの」
 帆船の甲板で一度気を失い、すぐに意識を取り戻したアウロスだったが、数日後、突然倒れたのだ。それっきり、意識を取り戻さず、昏々と眠り続けている。
 精神的疲労と魔力解放による極度の衰弱が原因だった。
 すぐにゆっくりと休めば、大事にならずに済んだのに、自分を労わることを知らない少女は連日の後日処理に携わっていたのだ。
「そうしたらね」
 言葉を続けたタユナの声は震えていた。
「謝る必要なんてない、って言うのよ」


『タユナが悪い訳じゃないでしょう。誰にも、どうしようもなかった。誰だって何もかも知っている訳じゃない。自分の行動が、望みが、どんな結果を導くかなんて、その時にならないと分からないんだもの。分かっていたって譲れないことだってあるから』


「あの子にとって、私は頼れる存在ではないのよ」
「頼れる存在……?」
 タユナは小さく頷いた。
「信頼して心を許している存在。……憎まれている訳じゃない。信じられていない訳じゃない。でも、あの子は決して私に弱音を吐かないわ。吐いてもいい相手だと認識していないの」
 アウロスは優しい。だから、相手に負担になることをしないよう無意識に禁じている。
 弱音を吐いても、相手が受け止められるだけの強さがなければ、困らせると分かっているから、辛くても苦しくても言わない。
「だから、驚いたわ。あの子が貴方に笑ったのを見て」
 自分を気遣う言葉に対して微笑したアウロスを思い出し、タユナはラトルを見つめた。
「アウロスは貴方に感情をぶつけたりしない?」
 問われたラトルはどう答えるべきか戸惑った。
 否定しないことですべてを察したタユナは嬉しそうに、そしてわずかに哀しそうに微笑む。
「初めてだったのよ。あの子が殿下以外に心を許したのを見たのは」
「……殿下?」
 タユナは大きく頷いた。
「ダムロード皇国皇子レザム」
 不意に穏やかに微笑む青年の姿がタユナの脳裏に過ぎった。
 訓練という名を借りた監獄島での実験を終えた銀髪の少女をいつも迎えてに来ていたのは彼だった。
 実験の最中、顔色一つ変えなかった少女の顔が青年の姿を見た瞬間、揺らぎ、差し出された手に恐る恐る触れて少女が縋りついた時のことは忘れられない。
「皇国であの子を守ろうとしてくれたのは殿下だけだったから」
 自らの命すらかけて。
 一瞬、ラトルの表情に翳りが帯びた。
 だが、タユナは気づくことなく、過去の記憶を辿りながら続けた。
「殿下だけがあの子を支えてくれていたのよ」
 彼の存在がなければ、アウロスは自分に心が在ることを知らない殺戮の道具になってしまっていただろう。
「……でも、逆に殿下の存在があの子を『魔道将軍』にした一因でもあるのよ」
「タユナ、それは」
「貴方も知っている通り、皇帝は血も涙もない男だから」
 実の息子の命を駆け引きの道具にすることすら躊躇わない。
 ラトルは無言で薄く瞳を伏せた。
 不意に、タユナは表情を改めた。
「だから、お願い。もし、殿下に何かあれば、あの子は壊れてしまうかもしれない。あの子の『世界』に殿下しかいなければ、きっと、そうなるから、だから、あの子に『世界』を教えてあげて。見せてあげて」
「タユナ」
 ラトルの低い呼びかけに、タユナは静かに微笑む。
 タユナは明日ラトルたちと別れることを決めていた。
 自分がいても何かできるという訳ではない。
 そして、何より自分自身が新しい道を歩きたかった。
「アウロスをお願いします」
 そして、タユナは深々と頭を下げた。





 夜の静寂がすべてを覆い隠していた。
 ことりと小さな音がしたことに気づいて、彼は静かに立ち上がり、壁に寄る。
「嵐は来るかな?」
「……直に」
 壁の向こうから返ってきた言葉を聞き、彼は思案深げに双眸を伏せる。
 ゆらゆらと揺れる職台の灯りを受けて、秀麗な容貌に陰影が落ちた。
「報告を」
 短い命令に従い、壁の向こうの人物は密やかな低い声で答えた。
「キメラ研究棟が崩壊しました」
 その瞬間、彼の肩がびくりと震えた。
「……そうか。原因は?」
「新種のキメラによる魔力暴走が直接的な原因と。ですが、崩壊寸前に不信人物数名を目撃している者がおります」
「……」
「その内に銀髪の少女がいたと――」
 予想通りの報告に、彼は小さく苦笑した。
「……だろうね。あの子がいつまでもあの地をそのままにしておくはずがないから」
「でしょうな。私でも狙います。敵の戦力を削ることは勝利の必要条件です」
 しかし、彼は穏やかに否定した。
「それだけではないよ」
「は?」
「……理由は一つじゃないんだよ」
 いつ知ったのか。
 気づいた時には少女は自分の出生を知っていた。
 知った時、どれほど傷ついただろうか。
 その事実を彼に告げた時、少女の顔は無感動そのものだった。
(何故)
 彼は無意識のうちに拳を握り締めていた。
(あの子が傷つく必要がある!?)
 少女の責任ではないと彼には断言できた。
 本来、戦うことを好まない繊細な心を持っていた少女は冷酷な魔道将軍と恐れられるようになった。だが、それは心を殺さなければ戦えなかったからだ。
「あの子は見かけによらず、頑固だから、終わらせたかったんだろうね」
 これ以上、歪められる命を。
「殿下」
「分かっている。そろそろ、だろうね」
 そっと息を吐いて、彼は意識を切り替えた。
「かねてよりの計画を始めよう」
「は」
「明日の朝にでも父上からお前に出陣の命が下るだろう。それに乗じて、彼らの許へ行け」
「承知致しました。では、殿下も――」
 彼は静かに視線を窓の方へ向けた。
「僕は……そうだね、間際まで留まるよ。父上に気づかれるのは遅ければ遅い方がいい」
 薄い雲がゆっくりと去って、細い三日月が顔を覗かせる。その白い輝きは闇を切り裂く刃のようにも、夜空に残る爪痕のようにも見えた。
「……分かりました。ですが、リリシア様やご子息は先に脱出して頂くべきではないかと」
 不意に出た名前に、彼は一瞬虚を突かれた。
「リリシア……?」
「はい」
「リリシアは――」
 わずかに眉をひそめ、彼は思案した。
「置いていく」
「殿下!?」
「その方がむしろ安全だろうから」
「しかしッ」
「連れていく方が危険だよ。残しても、父上は当然だと思うだけだ」
「殿下、それは――?」
 訝しげな声に、彼は淡々と答えた。
「リリシアはね、僕の妻ではないんだよ」
 思いがけない言葉に、壁の向こう側にいる相手は絶句した。
「……殿下……何を仰るのですか? リリシア様は紛れもなく、殿下の妃ではありませんか」
 彼は落ち着き払った声音で告げた。
「婚礼は確かにしたけれど、『妻』ではない。僕は『妻』にした覚えはないよ」
「殿下……!」
 その動揺ぶりに、彼はくすりと小さく笑った。
「僕にはあの子がいるのに、他の女性に興味を抱くとでも思っていたのかい?」
 彼の心を捕えて離さないのはたった一人だけ。
 幼い頃から守り、慈しんできた銀髪の少女。
 守りたいと願い、守り切れず、遠くに離れてしまった最愛の娘。
「しかし、御子は殿下によく似て」
 彼は薄く笑った。
「父上と僕はよく似ているだろう?」
「は?」
 不意に話題転換に戸惑い、相手は虚を突かれたような声を思わず洩らしていた。
「だから、似ていて当然なんだよ」
 ややあって、相手は息を呑む気配がした。
 それを察して、彼は冷めた笑みを浮かべた。
 彼と父である皇帝の容姿はとても酷似していた。違いといえば、金色の髪の微妙な色合いだけだろう。
 彼の淡い金髪と父の濃い金髪。
 二人の性格が雰囲気に出ているのか、同じ容姿でもその印象は大きく違う。
 そして、リリシアが生んだ子どもは濃い金色の髪に若草色の瞳を持っていた。今はよく見なければ分からないが、大きくなれば、それは更にはっきりするだろう。
「馬鹿な!」
 相手は否定の声を上げた。
「そんなことがある訳がありません。第一、リリシア様ご本人があの御子は殿下との子だと――」
「そうだね」
 脳裏に形ばかりの妻である娘の顔が浮かび、彼は薄く瞳を伏せた。
「彼女はそう信じている」
 だが、信じていることが事実だとは限らないのだ。
 現実が理想と程遠いことと同じくらいに。
「可哀相な人だよ、リリシアは。僕との子だと信じなければ生きていけない」
 なまじ優れた容姿をしていたことが仇となったのだ。
 父の目に止まり、その毒牙にかかった。
 哀れだとは思う。
 不幸だとは思う。
(だけど)
 だが、一歩間違えば、彼が大切に守ってきた少女が同じ目に合ったのだと思えば、毒牙にかかったのが彼女で良かったと思ったことも事実だ。
 幼い少女の美しさは時が経つにつれ、鮮明になっていった。
 戦争の道具として扱っていた少女を自分の欲望のままに蹂躙することを躊躇うような父ではないと彼は知っていた。だから、彼は少女から目を離さないようにしていた。
 それでも、守り切れる確信がなく、彼は父と取引を交わした。
 それにより、彼の立場は決定し、父は自分の優位を確固たるものとしたのだ。
 どんな屈辱も、従順に受け入れてきたのは、すべて少女を守るため。
 決して、絶望ではない。
 彼は諦めたことなど一度もなかった。
 そして、時の流れは簡単に物事を覆す。
 少女は皇国を離れ、逆に仇なす者となり、彼は父を裏切り、自らの望みを叶えることを決めた。
「本当に哀れだと思うよ」
 政略のために嫁いで来た娘。
 自らの心を守るために、事実を歪めて微笑む娘。
 彼女の心はすでに狂っている。狂ったからこそ、この城で生きていける。
「真実を知れば、リリシアは死んでしまうだろう」
 父がした暴挙を思い出して。
「殿下……」
「だけど、彼女はあの子じゃない」
 それはとても簡単で、そして変えようのない事実。
「僕が守りたいと願ったのは一人だけなんだよ」
 そして、彼は小さく苦笑した。
「……僕を愚かだと思うかい?」
 国の大事を、一人の少女のために決めた。
 一人の少女のためにしか動くことを決められなかった。
「いいえ」
 その問いかけに、相手は静かに否定した。
「いいえ、決して、そのようなことは」
 それを聞いて、彼は静かに微笑みを浮かべた。
 恐れるのはただ一つ。
 惜しむのはただ一つ。
 翡翠の瞳が印象的な美しい少女。
(お前が泣かずにすむように僕がすべてを終わらせる)
 どんな犠牲を払っても。
 たとえ、この命を失うことになっても。
 そして、彼は厳かに宣言した。
「……では、始めよう――この狂った世界の最期を迎えるために」