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第四章 〜螺旋の疵〜


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「……そんなところで何突っ立ってるの?」
 訝しげに言われて、ラトルは我に返った。そして、慌てて周囲を見回す。
 左には半眼状態のシエネ。
 そして、目の前には閉ざされた扉。
 廊下は薄暗く、点々と蝋燭が灯っていた。
「えっ、と……」
 何をする訳でもなく、廊下に立ち尽くしてことに気づいて、ラトルは記憶を辿ろうとした。
「おかしいな、確か会議に行こうとして――」
「ソレ、二時間も前の話」
「え」
 会議が始まる時間は午後八時。それが終わってから二時間ということになると完全に深夜だ。
 深い溜め息をわざとらしく吐いて、シエネは大きく肩を落とした。そして、ふっと意味ありげな笑みを浮かべる。
「ソコ、アウロスの部屋よ」
「え」
 ラトルは扉を一度見て、焦って視線をシエネに向けた。
「シ、シエネ! 俺は別に!」
 動揺しながら訳も分からず、言い訳するラトルを見て、シエネはにやりと笑った。
「ふうん?」
 しまったとラトルが思った時には遅かった。
 シエネは年長者ならではの余裕の表情で告げた。
「入れば? 会いたいんだったらさぁ、我慢は良くないわよ」
「シエネ!」
「別に夜這いっていう訳じゃないんでしょ」
 あまりな発言にラトルはがくりと項垂れた。
「夜這いって……」
「するの?」
「しない!」
 ラトルは即答した。
「そうよね。ラトルは紳士だもの」
 シエネは信用していると頷いた。
 が。
「……」
(今、舌打ちしなかったか?)
 何を考えているんだと内心毒つき、ラトルは溜め息を吐いた。
「それなら、その紳士に、深夜眠る女性の部屋の入室を勧めないで欲しいな」
 しかし、シエネはあっさりと言い切った。
「今は関係ないでしょう」
「シエネ」
「だって、ずっーと眠り続けているんだもの。昼だろうと夜だろうと関係ないわよ」
 帆船が補給と叙法収拾のため、ポポリアに来て、すでに二週間が経過していた。
 その間、ずっとアウロスは眠り続けている。
 そして、その時間と同じだけラトルはアウロスと会っていなかった。
「だが」
「暇なのは今ぐらいよ。切れて暴走する前に会いなさいって」
 そう言って、シエネは扉の前で来ると自ら開いて、ラトルを押し込もうとする。
「シエネ」
 真剣な響きが宿った声に、シエネもまた琥珀の瞳に真剣な眼差しを浮かべて答えた。
「暴走して、アンタが傷つくのは自業自得だけどね、アウロスが傷つくのは許さないわ」
「!!」
 ラトルが息を呑んで、抵抗がわずかに弱まった瞬間、扉は再び閉じられた。
 ぴったりと閉じた目の前の扉を見つめ、ラトルは思わず心の中で呻いていた。
(いや、だからって、いくらなんでも、これは、ちょっと)
 じわりと額に汗が滲む。
 確かに無意識のうちに扉の前まで来てしまうなど、自分でも少しまずいと思うが。
 しかし、何よりまずいのは部屋から出ることのできない自分だろう。
 目の前には扉がある。出ようと思えば出られるのだが、全く足が動かない。
 振り向いて、少し歩くだけで、アウロスがいる。
 そう思った瞬間。
「……」
 どくんと自分の心臓の音が聞こえた。
 徐々に高まっていく衝動にラトルはぴくりと震えた。
 まだ堪えることはできる、が。
(我慢は良くない、か……)
 シエネの言葉にラトルは苦笑した。
 おのれを律することは得意だった。だが、アウロスに関しては簡単に箍が外れる。
 戦いの指揮を投げ出して。
 何があっても生き残らねばならない身で、アウロスを庇って。
 誰に言われなくても、それではいけないのだと理解している。
 だが、制御できない。
(暴走は、嫌だな)
 そして、ラトルは一度深呼吸をすると、ゆっくりと振り返った。
 薄暗い部屋の中でも、ラトルは平気だった。すでに暗闇に慣れてしまうだけの時間が過ぎていたのだ。
 気配を殺し、音を立てないように慎重を歩いて、ラトルはアウロスが眠る部屋に踏み入った。
 明かり取りの天窓から月光が注いでいた。
 わずかな月明かりにぼんやりと浮かび上がる調度品の影。
 そして、ラトルは息を呑む。
 品の良い寝台で眠るアウロスは一枚の絵の如く美しかった。
 絡まる様子のない絹糸のような銀髪の髪は白い敷布の上で広がり、掛け布の上に出された二の腕はひどく細い。
 深い眠りに捕われた白い美貌はあどけなく、そして、安らかだった。あの輝かしい翡翠の瞳は閉ざされ、見ることはできないが代わりに長い睫に気づいて、ラトルはどきりとした。
 寝台の傍に寄り、ラトルは蒼い瞳を細めて、眠るアウロスは見つめた。
 気配に敏感なアウロスが起きる素振りがない。本当に深く眠り込んでいるのだ。
 体が求める休息にはさすがの『魔道将軍』も抗えないらしい。
 小さく笑った瞬間、ラトルは不安を感じた。
 彼女は本当に生きているのだろうか。
(呼吸はある)
 掛け布の上から、わずかに上下する動きが見えた。
 ならば、彼女は本当に存在しているのだろうか。
(幻ではない?)
 確かめる方法は一つしかなかった。
 ラトルは躊躇いがちに、眠る少女の頬に触れた。
 思わず、安堵の息が零れた。
 彼女は確かに存在する。
 自分の愚かな心配を苦笑して、ラトルは手を引き戻そうとして硬直した。
(何故)


『皇国であの子を守ろうとしてくれたのは殿下だけだったから』


(今、ここで思い出さねばならない!?)


『殿下だけがあの子を支えてくれていたのよ』


 脳裏に蘇ったタユナの言葉がラトルの心を抉った。
 あの時、覚えた焦燥が再びラトルの身を襲っていた。
 最初、頑なだったアウロス。
 だが、少しずつ打ち解けてきたのはこの『顔』のせいだったのだろうか。
 そんな風に思いたくないのに、一度浮かんだ考えは消えようとしない。
(もし)
 中途半端に止まった手が再びアウロスに伸ばされる。
(アウロスが『彼』を重ねて見ていたなら)
 ざわりと背筋が震えた。
 恐怖ではない。不安でもない。
 それは、怒り。
 凶暴な猛々しい感情。
 唇を噛み締め、ラトルは触れる寸前まで伸びていた手を引き戻した。そして、薄っすらと渇いた笑みを浮かべる。
(参ったな……)
 硬く右手の拳を握り締め、ラトルは左手で顔を覆った。
 ギリギリだった。
 本当に、瀬戸際だった。
(シエネに感謝しないと――)
 そっと溜め息を吐き、ラトルは肩を落とす。
 まだ自制できる段階で良かった。
 これでもっと後なら、きっと止まらなかった。
 そっと窺い見るようにラトルはアウロスをちらりと見やり、苦笑した。
(まだ、そうと決まった訳ではないのに)
 確かめてもいなければ、何も言っていない。
 可能性だけなら、いくらでもある。
 人の数だけ望む未来があるように――。
 そう思った瞬間だった。


「……ラトル?」


 不意に聞こえた小さな声に、ラトルは弾かれたように視線を向けた。
 ぼんやりとした翡翠の瞳がこちらを見つめていた。
「!」
 咄嗟にどうすればいいのか分からなくなり、ラトルは硬直する。
 翡翠の瞳は何度か瞬くうちに、本来の輝きを取り戻していき、それと同時に表情が厳しくなっていく。
 ラトルは背筋がひやりとするのを感じた。
 疚しいことは何もしていない。
 が、そんな言い訳が果たして通じるだろうか。
(やっぱり、恨むぞ、シエネ)
 アウロスは無言で上半身を起こし、無言でラトルを見つめると柳眉をひそめた。
「――何か、あったの?」
「……え?」
 予想とは違う問いかけに、ラトルは怪訝そうに見つめ返した。
 アウロスは静かに寝台から下りると、立ち尽くしているラトルに近づくと、硬く握られた右手を取った。
「あ」
 強く握り過ぎたのか、ラトルの手のひらは自らの爪で傷を追い、じわりと血を滴らせていた。
 驚くラトルの目の前で、アウロスは澱みなく回復呪文を唱えた。
 ふわりと癒しの光がラトルの手を優しく包み込む。
 薄暗い部屋の中に灯る、淡い光。
 染み入るような温もりさえ宿した光に、アウロスの顔がぼんやりと照らし出された。
 その真摯な表情に魅せられ、ラトルは言葉を失う。
「何か、あったんじゃないの?」
 そして、アウロスは視線を上げた。
 真っ直ぐな翡翠の眼差しに、ラトルはわずかに息苦しさを覚えながら、どうにか笑みを浮かべた。
「いや、特に何もないよ。それより、目覚めて良かった。あのまま、ずっと眠り続けるのかと思ったよ」
 偽りと真実を織り交ぜながら、ラトルはアウロスから離れようとした。
 しかし。
「ラトルも人のことが言えないわね」
 突然、厳しい顔つきで、アウロスはラトルを糾弾した。
「……アウロス?」
「自分だって独りで背負い込んでいる」
 ラトルはまじまじとアウロスを見つめた。
 冷酷な『魔道将軍』と恐れられていた少女。
 度重なる戦いを生き残れたのが不思議なくらい華奢な体。
 だが、その身から放たれる気迫は紛れもなく、生死を垣間見た者のみが纏えるものだ。
 そして、その清冽な空気。
 どれほど血に塗れ、傷ついても失われることのない純粋な魂。
 ラトルは心の中で感嘆の吐息を洩らした。
 強く、儚く、だからこそ美しく貴い。
 決して姿形の美しさだけではない。内面から滲み出る美しさに魅せられる。
 しばらくして、アウロスはラトルの視線に我に返り、気恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「……言いたくないことなら、別にいいけど」
 そう呟いて、アウロスは踵を返そうとした。
 さらりと銀の髪が揺れ、アウロスの手が離れた瞬間。
「!」
 一度離れた手を今度はラトルの方から掴み、背を向けようとしていたアウロスを引き戻す。
「ラトル!?」
 驚愕の声が間近で聞こえた。
「……」
 ラトルは腕の中の華奢な体を強く抱き締めた。
 びくりとアウロスの体が大きく震えた。
「そんなに似ている?」
 耳元で囁くような低い問いに、アウロスは息を呑んだ。
「何を、言って……」
「タユナやルシザーという研究者も俺を見て、『殿下』と呼んだ」
 笑いの混じった言葉に、アウロスは衝撃を受けたようだった。
 それをわずかな身動ぎで察して、ラトルは苦笑した。そして、ほんの少しだけ腕の力を緩め、アウロスから距離を取る。
 躊躇いに揺れる、翡翠の瞳。
 見上げる顔に浮かぶ表情はどこか心もとなく、危うい。
「ラトル……」
「アウロス、答えを」
 強い声に、アウロスはゆっくりと口を開いた。
「よく、似ているわ。双子と言っても通用するくらい」
「――そうか」
 そして、アウロスを抱いていた腕を下ろし、ラトルは静かな微笑を浮かべた。
「でも!」
 咄嗟にアウロスは言い募っていた。
「違うから! 同じだから、違うの!! ラトルは違う。だから、だから……」
 アウロスは俯き、強く唇を噛み締めた。
「……アウロス?」
 どこか緊張を孕んだ眼差しで、アウロスは続けた。
「ラトルが何も気に病む必要なんてないの。たとえ、何があってもラトルは迷わないで。そうじゃないと」
 不意にアウロスは口を噤んだ。
 翡翠の瞳が葛藤と躊躇、そして不安に揺れていた。
「アウロス、何の話をしている?」
 ラトルは静かに問うた。
 自分が抱く想いを知っているはずがない。
 そのことについて言っているのではないと、その真剣で必死な表情から分かっていた。
「アウロス?」
 アウロスは俯き、ラトルの視線から逃れてかぶりを振った。
 重苦しい沈黙が生まれた。
 間近にいるのに、二人の距離が遠い。
(違う。距離じゃない。壁だ)
 アウロスの心の中には誰も踏み込めない部分がある。
 もちろん、誰でも知られたくない部分があるだろう。本人さえ気づかないこともある。
 だが、アウロスのそれは何かが違った。
「アウロス」
 ゆっくりとアウロスはラトルを見上げた。
「……違うから、私はここにいるの。諦めず、戦うことができる。それはラトルがいたからなの。それは信じて」
 痛々しい思い詰めた表情だった。
 これ以上追い詰めてはいけないとラトルは察し、小さく頷く。
「信じるよ」
 信じたかった。
 アウロスにとって自分という存在が少しでも心の内に在るのだと。
 ラトルの言葉にアウロスは目に見えて安堵し、微笑みを浮かべる。
「……ありがとう」
 その瞬間、ラトルの心の内で大きな変化が起こった。
 あれほど抑えるのに苦労した焦燥が綺麗に拭われていく。
(今は、これでいいか……)
 無意識のうちに微笑みが浮かんでいた。
「ラトル?」
「あぁ、うん。何でもないよ。それより、起きるならもう少し早く起きるべきだったね」
「どうして?」
 ラトルは静かに告げた。
「昨日、タユナが旅立ったから」
 色々と準備のため、予定より出発が伸びていたのだ。
「今なら追いかけることもできるけれど?」
 アウロスは静かにかぶりを振った。
「アウロス」
 あまりにもあっさりとした反応に、ラトルは眉をひそめた。
「……タユナが皇国から解放されて自由になったと分かっているからいいの」
 アウロスは淡い笑みを浮かべ、視線を彷徨わせた。そして、窓際で揺れる白いカーテンに、タユナの姿を重ねるように翡翠の双眸を細めた。
「タユナも願いの叶え方は一つじゃないって分かってくれたから」
 そして、アウロスは穏やかで綺麗な微笑みをラトルに向けた。
「ラトルが教えてくれたことよ」
 その美しさに、ラトルは言葉を失った。
「……ラトル?」
 反応のないラトルを訝しんで、アウロスは首を傾げた。
 ラトルは慌てて笑みを浮かべた。
「あぁ、うん。それは良かった……」
 曖昧な答えに、アウロスは訝しげに柳眉をひそめた。
「本当に、何かあったの?」
 そして、ラトルは心の中で溜め息を吐いた。
(無自覚っていうのは心臓に悪い……)
「何もないよ、本当に。それじゃ、俺は帰るから」
 この場に留まる危険性にようやく気づいたラトルはきょとんとしているアウロスに挨拶して、部屋から逃げ出る。
 独り残されたアウロスはしばらくの間怪訝そうな表情をしていた。そして、おもむろに寝台に腰掛ける。
 アウロスは視線を彷徨わせ、窓の向こうに広がる夜空の細い月を見つけた。
(どうかしているわ……)
 くしゃりと手を額に当て髪を乱して、アウロスは呻いた。
 監獄島であったことはすぐに皇国に知れ渡る。
(もう、時間がないというのに……!)
 キメラという最大の武器を失った皇帝。
 だからといって、諦めるはずがない。
(『時』は確実に満ちつつある――)
 アウロスは唇を噛み締め、乱雑に頭を振った。
「……ラトル、私の戦う相手は……本当は……」
 零れそうになる言葉を、アウロスは翡翠の瞳を潤ませながら呑み込んだ。
 誰が聞いている訳ではないと分かっている。
 けれど、口にすれば、その『時』が間近に迫っていることを突きつけられるような気がした。
 どんなに目を逸らしても、無意味だと分かっていても。
「……私は、戦う。戦うと決めた。だから」
 アウロスは自分に言い聞かせるために繰り返し、そして、ほんの一瞬、苦しそうに双眸を細めた。
「……嘘を吐いて、ごめんなさい……」
 その瞬間、夜空に浮かぶ月に、星が一筋横切り、流れ落ちた。





第五章 〜光の真影 上〜 T へ続く