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第五章 〜光の真影 下〜


Y


 沈黙が生まれる。
 呪文を唱えていたラトルとシエネは絶句し、その場に立ち尽くしていた。慌てて身を起こそうとしていたジェリスとガント、ユートは中途半端な態勢で硬直していた。
 荒い呼吸音だけが異様に静まった空間に広がる。
 ぽたりと白い額から滑り落ちた汗が床に当たって弾けた。
「う、ぁ……」
 堪え切れず零した呻きと同時に、アウロスの手から銀剣が滑り落ちる。  硬質の音を響き渡らせた銀剣はその輝きを失っていなかった。
「……………………アウラ」
 囁くような、小さな小さな呼びかけに反応して、アウロスは痺れて震える手でレザムの胸元を掴んだ。だが、痙攣する手に力が入らず、押し当てる形になる。
「どうして分かってくれないの!? どうして、どうして、私に貴方を殺さなくてはいけないような、そんなことをするの!?」
 大粒の涙を零し、喚くようにアウロスはレザムを罵った。
「私が大切だと言うなら、私を守ると言うなら、私の言葉を聴いて! ちゃんと考えて!! 誰のせいで苦しんでいると思っているのッ!?」
 これほどにレザムが大切でなければ。
 自分でもどうしようもないほどレザムに生きていて欲しいと願う心がなければ。
 その想いすべてを封じて、存在しない振りをして、その命を奪おうとしたのに。
(ずるい)
 あの一瞬。
(ずるいずるい!!)
 レザムはアウロスの刃を受け入れようとした。
 抗うことを止めて、微笑みすら浮かべて。
「私がどんな思いで戦うことを決めたか!! それを、あんなッ!!」
 一瞬で覆された。
「アウラ」
「レザムの分からず屋!! 頑固者!! バカ!!」
 ついには子どものように胸を叩きながら詰り出すアウロスに、レザムは静かに苦笑した。そして、長剣を捨て、優しくアウロスの背に両腕を回す。
「……言っただろう? お前以外価値のあるものは存在しないと。それは僕ですら例外ではない。僕もまたお前を傷つけ、苦しめたことに変わりはないのだから――それが他の苦しみから守るためであったとしても」
 アウロスは翡翠の瞳を見開いて言葉を失った。驚きのあまり、涙が止まる。
 その様子を愛しげに見つめ、レザムは優しく告げた。
「お前が僕を憎む理由ならあるから、だから殺したいと思うなら、それでも構わないんだよ」
(……憎む?)
 再びアウロスの瞳が潤み出す。
「私が」
 搾り出した声に力はなかった。
「レザムを殺したいなんて思ったこと、一度だってないわ」
 憎めたら良かった。
 たった一度でも憎めたら、それを頼りに自分を騙すことだってできただろうに。
 レザムに何をされても、レザムが何をしても、怒りはしても憎んだことはなかった。ただ、ただ哀しくて悲しくて、悔しかった。
 そんな自分に絶望したことだってある。
 嘘だと何度も叫んだ。
(だって、そうじゃない? 私は裏切られたのよ?)
 守ると言いながら、傷つけて。
 願いを叶えるどころか踏み躙って。
 月に手を伸ばした夜、どんなに泣いてもレザムは止めてくれなかった。
(感情を、心を蘇らせる手段? そんなの知らないわ)
 齎されたのは恐怖と絶望。
 残ったのは傷ついた心と痛みという現実。
(なのに)
 それでも、大切なのだ。
 優しい微笑みに安心するし、傷つき苦しむ姿は見たくない。
 レザムの死など考えただけで心臓が締めつけられる。
 それなのに、レザムが諦めない限り、アウロスは彼の死を望むしかないのだ――彼女の大切なものを守るために。
(それなのに!)
 レザムが笑うから。
 泣きたくなるような優しい笑みを見せるから。
 振り下ろした刃を無理やり止めた手には負荷がかかり過ぎて、もうまともに動かない。銀剣を握ることさえもできない。
(もう、戦うことすらできない)
 自分の無力さに涙が零れた。
「レザム、お願いよ。この世界、を……壊さな、いで。私から、奪わないで……!!」
 泣きじゃくるアウロスの背をゆっくりと撫でながら、レザムは哀しそうに見つめた。
「そんなに、この世界が大切かい?」
 痛々しい嗚咽を洩らしながらアウロスは頷いた。
「お前を傷つけ、苦しめる世界だよ?」
「……それだけ、じゃ、ない……っ!」
 世界は優しかった。
 温かった。
 綺麗だった。
 傷つけられた痛みを癒してくれたのは、『世界』だった。
 泣きながら見上げ、無言で訴えるアウロスをレザムはしばらく見つめ、やがて溜め息を吐いた。
「……仕方ないね」
 そして、レザムは哀しげに微笑みを浮かべた。
「そんなにお前が言うなら、仕方ない」
「レザ」
 声が喉の奥で凝った。
 どくんと心臓の音が耳の中で大きく響く。
 涙に濡れた翡翠の瞳を見開き、アウロスの唇が小刻みに震えた。
 全身の自由が奪われていく――その優しいのに冷たい魔力に。
 拒むことすらできず、ただ絡め取られて。
 体だけでなく魂すら支配される。



「――――――ッ!!」



 声にならない悲鳴の代わりに涙が弾け落ちた。
「愛しているよ、僕の可愛いアウラ。たとえ、お前がすべてを忘れてしまっても」
 哀しみに満ちた声で囁かれる言葉を理解するより早く、アウロスの意識は深い闇に捕われていく。
「愛してる、何よりも誰よりも。お前という存在に出会えたことが僕の唯一の幸せだったから」
 力を失い、傾ぐ少女の体を引き寄せ、レザムは強く抱き締めた。
「今は、お休み。次に目覚める時、お前を苦しませるものは何もないから――」
 アウロスの手がぱたりと落ちる。
「この僕さえも、ね……」
 完全に意識を失った少女の瞼に優しいくちづけを落とし、レザムは不意に顔を上げた。
 その視線を追い、シエネは我に返って叫んだ。
「精石がッ!」
 四色の光が編み出した螺旋の内に、光が生まれていた。
 白い、清冽な輝き。
 すべてを内包し、すべてを拒絶する、圧倒的な美しさ。
 その無形の光に精石が放つ光の一条が輪郭を与え、確固たる存在へと変質させていく。
 そして、光は闇へと転じる。
 黒い、深遠の翳り。
 すべてを圧縮し、すべてを享受する禍々しさ。
 光と闇の相反する力が呼応し、精石が放つ光が眩さを増した瞬間、一つの形に凝ろうとしていた光と闇が弾け、霧散する。
「!?」
 突如、襲ってきた衝撃を踏み止まりながら、何が起こったのかラトルは見定めようとした。
 光と闇の欠片が音もなく降る。
 その中、手のひら程度の大きさの『石』が静かに浮かんでいた。
 光でも闇でもない、水晶に似た美しい『石』。
 その内に宿るのは水晶には在り得ない無数の輝き。
 それはまるで硝子に光を通して生まれる光が揺らめいているようだった。だが、その輝きは硝子から生み出されるそれとは格段に違う。
 すべてを透すゆえに、光にも闇も染まらず、その両方を受け入れることのできる唯一の石。
 創造と破壊を齎す、神の力――その確たる存在。
「聖石……」
 茫然と感情の抜け落ちた空虚な響き。
 それが自分のものだと知って、ラトルは愕然となる。
 目の前にあるものが聖石だと自覚すると同時に体の奥底で、魂が震えるような感覚を覚えたためだった。
 聖石と『契約者』は繋がっている。
(これが、その証拠なのか)
 その瞬間だった。
 片手でアウロスを支え、レザムが空いた右手を掲げた。
「来い」
 それは紛れもない命令。
 神の石はその言葉に従った。
 忽然と消滅したかと思うと、聖石はレザムの手中に出現する。
「レザム!!」
 我に返ったラトルの叫びに、レザムは手元に導いた聖石を握り締め、視線を移した。
「従弟殿、残念だけど聖石は僕がいただくよ」
 ふわりと微笑む姿は神々しささえ纏っていた。
 ジェリスたちは無意識のうちに後ずさっていた。
 それは『人間』が超越者に覚える『畏怖』が齎したものだった。
 だが。
「それで、どうする気だ?」
 ただ一人ラトルは怯むことなく、むしろ落ち着き払った声音で問い質した。
「お前が聖石を手にしても意味がないはずだ」
「……それは、どういう意味かな?」
「お前は何も望んでいない」
 レザムの肩が一瞬震えた。
「お前自身の望みは何もない」
 薄っすらとレザムは笑った。
「――僕の望みはアウロスがずっと笑っていることだよ」
「それは彼女を人形にしたいと言っているも同然だ」
 二人の『契約者』は静かに対峙する。
「笑うだけの人間がどこにいる? 痛みを知っているから、それを恐れもするし、優しくできる。些細な傷でさえ意味がある」
 虚ろな笑顔と生気溢れる泣き顔。
 果たして、どちらが幸せだろう。どちらが幸せを感じることができるだろう。
「哀しみを、痛みを恐れるなら、アウロスは此処に来ていなかった」
 傷つくことを覚悟の上で、アウロスはレザムの前に立った。
(あんなに怯えていたのに……)
 今なら分かる。
 アウロスが何を怯え、竦んでいたのか。
 誰にも言えず、たった一人で自らを奮い立たせて。
 それはすべて、今のような状況にならないためだったはずだ。
(アウロス、君は一人で戦っていた――)
 目の前の青年を失うという恐怖と。
 そして、何より彼が『世界』を滅ぼすという絶望と。
「アウロスは諦めなかったんだ。だが、お前は最初から諦めている」
 だから、簡単に『世界』を見捨てられる。
 すべてはこの『世界』が在るからこそ始まったのに。
「未来を求めない者に聖石を手にする資格はない。何故なら、聖石は神によって未来を求める者に与えられたものだから」