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ラトルの言葉を無言で聞いていたレザムはゆっくりと腕の中にいる最愛の少女を見下ろした。 涙に濡れた、あどけなさを残した顔は哀しみも喜びも何もない。 そして、レザムは静かにかぶりを振り、穏やかな笑みをラトルに向けた。 「――僕にとって『世界』とはアウラだ」 レザムは、静かに、そして強く言い切る。 「未来なんて望まなくても来る。アウラの存在が僕にとってのすべてだ。他のことなんて、知らないよ」 悠然と微笑みながら、しかし、碧緑の瞳にどこか悲哀を帯びさせ、レザムは続けた。 「アウラが僕の妹であることも、『契約者』であることも、多くの命を奪ったことも、その事実がアウラを苦しめるなら、いらない。僕はどんな手段を使ってでも抹消する。だって、そうだろう? その『事実』が存在しなければ、アウラは傷つくことはないのだから」 「何を」 掠れた声でシエネが言葉を絞り出す。 「言って、るの……?」 事実は変わらないものだから事実なのだ。 (それを抹消する?) 「そんな、こと」 できる訳がない。 そう続けようとして、レザムの手に輝く石の存在が、唐突にシエネから言葉を奪った。 神の持つ、創造と破壊の力。 人間では到底持ち得ることのできないもの。 神から託された聖なる石はかつて『世界の崩壊』という『事実』を覆した。 同じ考えに行き当たったのだろう。ラトルたちの顔にも緊張が走る。 「事実を変えたところで、アウロスがそれで良しとする訳がありません……!」 ジェリスの叫びに、レザムは苦笑した。碧緑の瞳に、愛しげな光が宿り、意識を失ったアウロスを見つめた。そして、静かに長衣を広げ、華奢な体を包み込み、横たえる。 優しい手つきで髪を撫で、レザムは渇き始めた血をアウロスから拭い取った。 「そうだろうね。困ったことに、アウラは頑固だから」 だからこそ、愛しい。 レザムの言葉にならない想いを感じ、ラトルは唸るように告げた。 「それが分かっていて、それでも止める気がないのか?」 その瞬間、レザムは顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべた。 「何故?」 「何故……って、お前」 ガントが抑揚のない声で呟く。 くすくすとレザムは朗らかに笑った。 「止める必要はどこにもないよ。だって」 一瞬、レザムの顔に哀しそうな微笑が過ぎる。 「アウラはすべてを忘れているから」 そして、次の瞬間、レザムは微笑を消した。 「だから、君たちはここでお別れだ」 ラトルは唇を噛み締め、無言でレザムを睨みつけた。 アウロスの記憶を消し、『事実』を知るラトルたちを消す。 (知られることのない『事実』は最初から存在しないと同じ、ということか……) そして、残されるのはアウロスを傷つけない『世界』。 レザムが手にする聖石で創造される、歪んだ箱庭。 ラトルはきつく拳を握り締めた。 「レザム……」 「アウラが幸せになるなら、僕は何でもする。そう、たとえ、僕がアウラと永遠に別れることになろうとも――」 レザムの決意の言葉は静かだった。 「神にでもなる気か」 吐き捨てるようにラトルが問うと、レザムはくすりと笑った。 「必要なら、神でも悪魔でも。僕は何にだってなってみせるよ、アウラを守るためならね」 その瞬間、激しい烈風が周囲一帯に発生し、ラトルたちに襲い掛かる。 「冗談じゃないわよ!」 両腕を軽く上げ、視界を庇いながらシエネは魔法を編み上げた。 風を阻む幾つもの壁が生まれる。 「レザム!」 ふとレザムが顔を動かし、ラトルと視線が合う。 「アウロスのためにも、お前を倒す!」 魔力がぶつかり合い、軋む音が響き渡った。 (痛み) (心) (傷) (喪失) (恐怖) (不安) (微笑み) (碧) (優しい瞳) (蒼) (空の色) (希望) 取り留めのない言葉の連鎖が浮かんでは消え、消えては浮かんでいくのを彼女はただ見つめていた。 思惟はない。 思考になる以前の、言葉にも形にもならない感情。 彼女の心は空虚だった。 (からっぽだわ……) すべての感覚が稀薄となり、世界は遠い。 何かを求めていた気がした。 何かを恐れていた気がした。 何かを望んでいた気がした。 すべては不確かで、掴むことのできない幻のように消えていく。 『何かを望むことは決して罪ではない。誰にでもできることだ』 (誰……? 私、貴方を知ってる……?) わずかに彼女の心に小さな灯火が宿る。 (望み) (聖石) (神の石) (契約者) (約束) やくそく。 『約束だよ』 『約束だ』 『――約束する』 (私……約束、した?) 大切な、大切な約束。 未来に繋がる約束を。 (誰と?) 胸に突き刺すような痛みがあった。 その棘のような痛みが彼女の意識に爪を立て、曖昧に溶けていく心を貫き止め、現実に引き戻す。 どくんと大きく打つ鼓動。 頬に感じる冷たい床の振動。 そして、悲鳴と怒号。 鋭い破裂音と爆音。 剣戟。 (戦って、いる……) どくんとまた大きく鼓動が鳴る。 (私――ここで何をしているの?) 自問に応えるかのように、彼女の指先が震えた。そして、唇を噛み締め、ままならぬ体に命じる。 (動け) 徐々に意識が明確になっていく。 そして、ゆっくりと動かした視界に入ってきた床に自分と同じように転がっている銀色の剣。 (私の、剣) 「ッ!」 力の入らない体を叱咤して、彼女は手を伸ばした。 どんな時も傍らにあった。 戦いを厭う想いとは別に銀剣は彼女の支えだった。 何も語らない冷たい無機物は彼女を裏切らない。彼女の望むままに牙となり、盾となり、その銀色の輝きは消えない。 指先に触れる硬質の感触。 それを手繰り寄せ、強く握り締めた瞬間、彼女の裡で魔力が高まる。同時に、彼女の意識を沈めようとしていた支配の力が遠退いていく。 彼女の記憶を根底から塗り潰そうとしていた力が誰の意志によるものか。 歯を食い縛り、彼女は低く呻いた。 (レザム、貴方の思い通りには……!) ならない。 そして、顔を上げた彼女が見たものは追い詰められた仲間の姿だった。 度重なる魔法攻撃は徐々に威力を増し、それとは対照的にラトルたちの動きが鈍っていく。 聖石がレザムに力を与えているのだ。 「ぐ……ッ!」 避け切れなかった風圧の塊がラトルの横腹に直撃する。 体内で骨が折れるのを感じると同時に激しい熱を伴った痛みが喉の奥から競り上がってきた。 (内臓をやられたか) 思わず、溢れた血反吐を軽く拭い、ラトルは攻撃魔法を放つ。 治療している暇はない。 (まだ、戦える) 我慢できない痛みではない。 だが、すでにラトルたちの体は傷だらけだった。そのどれもが致死傷ではないとはいえ、このままでは直に倒れるのが目に見えている。 (何か手は) その瞬間、ラトルはあることに気づく。連続して襲いかかる魔法を躱すうちに、ラトルたちは一ヶ所に誘導されていた。 「これで、終わりだよ、従弟殿」 レザムが薄い笑みを浮かべた瞬間、その唇が動く。 聖石が赤い光を纏った。 「ッ!!」 圧倒的な破壊の力。 避けようもない『死』の具現化。 咄嗟にラトルたちは動けなかった。 死の光が届く、その一瞬。 「ッ!?」 ラトルたちの前に割り込む影があった。 「守護の盾よ!!」 その声を耳にした瞬間、ラトルだけでなく、レザムもまた我に返る。 「アウロス!?」 「アウラ!?」 光の前に立ち塞がり、銀剣を構え、アウロスは結界を支えるのに集中する。 銀剣が蒼い光を纏い、結界を強固にしていく。だが、軋む音は止まない。 結界を挟んでいても届く衝撃波が荒々しくアウロスの髪を嬲っていく。 思わず、アウロスは銀剣の柄に力を込めた。 (お願い、持ち堪えて!) 失いたくない。 守りたい。 (だから、私に力を!) その想いに反応するかのように、銀剣の蒼い輝きが増した。 「――――ッ!!」 |