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第五章 〜光の真影 上〜


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 今夜の月は薄い雲に覆われ、その光は弱々しく儚い。しかし、それを補うかのように少し離れた位置にある本陣に灯る松明の光がぼんやりと二人の足元に影を作っていた。
 夜風が銀色の長い髪を乱し、アウロスは思わず髪を抑え、再び視線を上げた。
 その瞬間、アウロスの鼓動が跳ね上がる。
 蒼い瞳が静かに見下ろしていた。
 静かな、穏やかな眼差し。
 懐かしい記憶の向こうに見た眼差しと同じようで、違う。
 違うと思う自身に、アウロスは怯えずにはいられなかった。しかし、それを振り切るかのように、ぎこちなく微笑みを浮かべる。
「……今回のことは本当に悪かったと思っているわ」
「そうじゃない」
 即座の否定だった。
「――いや、それも関係なくはないけど、言いたいことは少し違う」
 そして、ラトルはアウロスを見据えた。
「俺は」
 その瞬間、アウロスは叫んでいた。
「ダメ!!」
 そして、震えながら、アウロスは後ずさった。
「……アウロス?」
「お願い、それ以上言わないで」
 ラトルの戸惑う声に、今にも泣きそうな声でアウロスは懇願していた。
「アウロス?」
 徐々にラトルの顔から戸惑いが消え、静かに驚きが広がっていく。
それを認め、アウロスは唇を噛み締めて俯いた。
「ごめんなさい……」
 くすりと笑う気配がした。
「それは」
 ラトルらしからぬ平淡な声だった。
「俺の気持ちを知っていて気づかない振りをしていたことに対して? それとも、利用したことか?」
 思わず、アウロスは顔を上げていた。
「ラトル!」
「あぁ、もう一つあったな」
 ラトルは静かに微笑みを浮かべていた。
「俺を受け入れられないことに対して?」
「!!」
 アウロスは絶句し、ラトルを凝視した。
 微笑みを浮かべながら、ラトルの声音は冷めており、しかし、その瞳の奥には滾るような激情が揺らいでいた。
 それに気づいて、アウロスは立ち尽くす。
「ちが……。利用、なんて」
 弱々しくかぶりを振り、アウロスは後ずさった。
「してない?」
 アウロスが退いた分だけラトルは進み出てくる。
「!」
 一度開きかけた唇を閉じ、アウロスは視線を逸らした。
 否定しようと思えばできた。
 だが、それは本当に事実だと言えるだろうか。
 ラトルが寄せてくる想いに気づこうと思えば気づけた。その機会は多くあった。
 それを気づかなかったのは無意識のうちに避けていたからではないのか。
 そんな疑いをアウロスは自分に抱いていた。
 細やかな感情の機微には疎いアウロスでも好意と悪意の区別くらい判断できる。
 今でこそ仲間として受け入れられているアウロスだが、最初からそうだった訳ではない。
 シエネですら、わずかな戸惑いがあったことを感じていた。
 だが。
(ラトルは違った……)
 ただ独りラトルだけが最初からアウロスを受け入れていた――だからこそ、彼女は『彼』と混同しかけたのだ。
 それがどんな意味を持つかなど知らなかった。否、知りたくなかった。
 ラトルの内にある感情が恐ろしかった。
 少しでも気を許すと呑み込まれそうで、怖かった。
(でも、それは)
 そして、アウロスは重い口を開いた。
「……どう思われても構わない」
「アウロス!」
 深い憤りが籠もった声に、アウロスは手を握り締めた。
(だって)
 それ以外にどう言ったらいい。
 聞いてしまったら、答えを返さなければならない。『答え』を出さなければならない。
 それが、怖かった。


 大切ナモノハ何?


 大切なもの――最初はたった一つだけ。
 少しずつ増えて、失って、その度に傷ついて。
 けれど、今は数え切れないほど大切なものが増えて守りたいと願っている。
 失うことを恐れている。
(だから、私は)


 一番大切ナモノハ何?


「……ッ!」
 咄嗟にアウロスは耳を塞ぐ。
(ダメ)
 迷ってはいけない。
 躊躇ってはいけない。
 たった一瞬の戸惑いが罪を重ねる結果になったのだから。
 それをどんなに悔やんだか忘れた訳ではないのだから。
「ごめんなさい」
 不意に両腕を掴まれ、耳から手が離れる。
「謝罪の言葉が欲しい訳じゃない」
 唸るような声に、アウロスは震えた。逃げ出したいのに足が地に縫い止められたように動かない。
 強い眼差しが射抜くようにアウロスの心が貫く。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 アウロスは視線を逸らし、何度の繰り返して謝った。
「――アウロス、君は何を恐れているんだ? 俺が怖い?」
「違う。ラトルが悪いんじゃない。悪いのは私。私なの!」
 自己否定。
 それだけはしていけないと何度も言われた。


――お前に会えたことが僕の何よりの喜びなのだから。


(でも)
 自分の存在が多くの人を傷つけると分かって、それで、どうやれば自分の存在を肯定できるというのだろう。
 戦いの道具として生み出された存在。
 人為的に創り出された命。
(本当は私も滅ばなければならない)
 キメラたちと同じように。
「どうして、そんな風に思うんだ!?」
 ラトルは苛立った様子で叫んだ。
「!」
 涙が零れそうになるのをアウロスは必至で堪えた。
「何度言えば君は自分を大切にする!?」
 その瞬間、アウロスは叫んだ。
「どうやったら大切にできるというの!? 私のせいで、私がいることで皆が苦しんでいるのに!」
「アウロス!?」
「そんな風に言ってもらえる資格なんてない!」
 傷つくと分かっているのに。
 嗚咽を呑み込み、アウロスはラトルの腕を振り払い、自嘲の笑みを浮かべた。


 傷ツクノハ誰?


(それは)
「アウロス」
 茫然と見つめていたラトルがかすかに笑う。
「それは違うんじゃないのか?」
 ラトルの声は落ち着いていた。
「?」
「資格なんて誰が決めた? そうじゃなくて、アウロス、君は他に言ってもらいたい相手がいるんじゃないのか?」
 驚いて見上げると、ラトルは虚ろな微笑みを浮かべていた。
「ラトル?」
(誰のことを言って)
 次の瞬間、閃光のようにアウロスの脳裏に穏やかな青年の面影が過ぎった。
「違う!!」
 否定の叫びが迸った。
「違う、違うわ。そうじゃない、そんなんじゃない」
 アウロスはかぶりを振って否定した。
「そういうのじゃないのよ――」
 それを見て、ラトルは困惑の表情になる。
「アウロス……」
 ラトルの呼びかけに、アウロスは細い肩を震わした。そして、俯いて唇を噛み締めた。
 戦いの道具として生まれた彼女に『心』をくれた人。
 ずっと守ってくれていた人。
(けれど)
「アウロス」
 優しい声に、アウロスは思わず顔を上げた。
「傷つけることを恐れなくていい。俺は傷ついていいから、本当のことを言ってくれ」
 アウロスの顔に驚きが漣のように広がる。
「どんな答えでもいいから」
 そして、ラトルは穏やかな表情で、強い眼差しでアウロスを見据えた。
「俺は君を」
「嫌、聞きたくない!!」
 鋭く叫ぶと、アウロスは踵を返して逃げ出そうとした。
「アウロス!」
 しかし、ラトルの手がアウロスの腕を掴み、勢いよく引き寄せられる。
「!」
 一瞬で腕の中に閉じ込められたことに気づいた瞬間、アウロスの体が強張った。
「……離して、ラトル……」
 無意識のうちに声が震えていた。
「嫌だ」
 間近で聞こえた低い声に、アウロスはびくりと震えた。
「ラトル、お願いだから――」
「泣いているのに独りできるか」
 その言葉にアウロスは驚いて瞳を見開く。その瞬間、頬を伝うものに気づいた。
「ッ!」
 零れそうになる嗚咽をアウロスは必至に押し殺した。
(ダメ)
 泣いてはいけない。一言でも声を洩らせば気が緩んでしまう。
(ダメよ)
 一言でも声を洩らせば、堰き止めてきた感情は溢れるだろう。
 そうなれば縋ってしまう。
(それだけはダメ)
 苦しかった。
 辛かった。
 けれど、これはすべて自分が背負うべきもの。
 自分の苦しみを打ち明けて、楽になるのは一瞬だけ。それが更なる苦しみを生むと知らなかった。
 愚かだったのだ。
 弱くて、卑怯で、無知で。
 愚かな、愚か過ぎた自分。
 悔やんでも悔やみ切れない過去。
 だからこそ、同じことを繰り返す訳にはいかない。
(なのに、どうして――)
 早く離れなければいけないと分かっているのに、体が動かなかった。決して、強い抱擁ではないのに、振り解けない。
 温かい腕。
 しかし、記憶の底に刻まれた温もりとは違う。安心と不安が入り混じって、落ち着かない。
 ふと脳裏に浮かんだ面影に、アウロスは心が痛んだ。
(私がいなければ、貴方は)
「アウロス、俺は――」
「ラトル」
 言葉を制し、アウロスは軽く息を吸った。そして、硬く瞳を閉じて告げた。
「貴方はきっと後悔する」
「!?」
「言葉は目に見えないけれど、現実の一つであり、時には力を持つ」
 呪文によって魔法が生まれるように。
 たった一言で悲しみも喜びも生まれるように。
「だから、聞けない」
 そして、わずかな躊躇の後、アウロスは声を絞り出した。
「少なくとも、今は」
「アウロス」
 ラトルは驚きを滲ませてアウロスを呼ぶと、腕の中の彼女を見つめた。
 アウロスは視線を伏せたまま、唇を噛み締める。
 これが限界だった。
 今、アウロスが返せる言葉はこんな曖昧な言葉だけ。否、覚悟さえあれば、どんな答えであろうとはっきりと言えるだろう。
 だが、アウロスは迷っていた。
(迷う? ……いいえ、ただ臆病で卑怯なだけだわ)
 心の中で自らを詰り、アウロスは嘲笑った。
 結果を恐れて、少しでも先に延ばそうとして、そして自分も相手も傷つく。
 それが分かっていても、断ち切れない。
 割り切れない想いがある。
「……ごめんなさい、ラトル」
 そして、アウロスはゆっくりとラトルの腕から逃れ出る。
「――どうして」
 訝しげな表情をしているラトルにアウロスは淡く微笑んだ。
「でも、今はダメなの。それを聞いてしまったら、私は戦えなくなる」
「戦いたくなければ戦わなければいい」
 アウロスは静かにかぶりを振った。
「それでは私の願いが叶わないもの」
「アウロスの、願い?」
 そして、アウロスは双眸を伏せる。  夢は叶わない。けれど、願いは諦められない。
 諦めたくない。否、アウロスは諦めようと思うことを諦めていた。
(事実は変えられない……)
 それでも、願いは確かに存在する。
 拒んだところで、時が流れ、現在は過去となり、未来が訪れるように。
 すべてはもう決まっているのだ――あの、月に手を伸ばした夜に。
「アウロス……?」
「――すべてが終わって、その時になっても変わらなかったら」
(もし、言ってもいいと思ってくれたなら)
 アウロスはまっすぐな翡翠の瞳でラトルを見つめた。
「ちゃんと聞くわ」
 そして、答えを。
 ラトルはしばらく無言で、真剣な顔でアウロスを見つめた。
「……約束してくれるか?」
「――」
「決して死なないと」
 その言葉にアウロスは微笑んだ。
「死ぬつもりなんてないわ」
 不思議な気分だった。
 死んでもいいと思った。この命を失っても構わないと思っていたのに。
 自嘲の笑みを浮かべて、アウロスは小さく呟いた。
「……私がいなければとは思うけど、それなのに、死を望んでいないのよ」
 そして。
(死ぬことはできない……)
 確信があった。
 たとえ、何があっても死は自分のところには来ないだろう。それどころか、来るはずの死は別の誰かが代わりに受けることになる。
 不意に、無名の白い墓碑がアウロスの脳裏を過ぎった。
 あの幼い子どものように。
 硬く拳を握り、アウロスは唇を噛み締めた。
「アウロス、それは生きている人間なら誰だって同じだよ」
 ラトルの静かな言葉に、アウロスは表情を緩めた。
「そうね。きっと、それが当たり前なのよね……」
(けれど、その当たり前さえ、あの城では許されなかった――)
 その瞬間、強い夜風が二人の間を通り過ぎる。
「!」
 夜風に煽られ、一時的に視界を覆った髪が舞い落ちる同時に、アウロスの体は再びラトルの腕の中にいた。
「ラ」
「約束だ」
 強い響きにアウロスの肩が震えた。
「すべてが終わったら、俺は言うから答えをくれるね?」
 アウロスは無言で双眸を閉じた。
 ラトルの心臓の音が聴こえた。
 生きている証。
 命を紡ぐ音。
(答えなんて、そんなもの……!)
 零れそうな嗚咽を殺し、アウロスは小さく答えた。
「えぇ、その時が来たら」
(『その時』が来るなら――)




 薄雲に隠れた月が二人を見下ろしていた――。








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