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The eyes of the temptation









「あら、どうかなさいましたの?」
「え?」
 サンルームに入ってくるなりの問いに、キラは読んでいた本から視線を上げた。
 クライン邸にあるサンルームはとても居心地が良く、キラは時間の多くをここで過ごしていた。
 柔らかに差す日差し。
 その光を受けて弾く鮮やかな緑。
 控えめに満ちる花の香りは至るところに咲いている可憐な花が生み出していた。
 その優しい空気は今サンルームに現れたばかりのラクスそのものだった。
「その眼鏡。以前からしてらっしゃいました?」
 軽く小首を傾げながらラクスはキラの隣に座った。
 そして、改めてキラの顔を見やる。
 記憶に残る限り、キラが眼鏡をしていたことはない。
「似合わない?」
 くすりと笑い、キラは短く尋ねた。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
 やや細めの縁なしの眼鏡の硝子は薄く、使う者によっては冷たい鋭ささえ帯びるものだが、キラのような優しい容貌だと、繊細な硝子細工のようだった。
「別に目が悪い訳じゃないんだよ」
 キラの言葉に、ラクスは頷く。
 キラはラクスと同じコーディネーターだ。ナチュラルより潜在的能力が高いコーディネーターに目が悪い者はいない。
 もちろん、戦時中に視力を失った者や、怪我を負ったために必要とする者はいるだろうが、少なくともキラは違う。
「コレは、カガリの」
「カガリさんの、ですか?」
 不思議そうに繰り返すラクスに、キラは小さく笑った。
「度は入ってないよ。変装用にカガリが持っていたうちの一つ。外を出歩くなら、これくらい一つ持って行けってさ」
 オーブ代表であるカガリは有名人だ。しかし、生来活発な少女が大人しくしていられるはずはなく、カガリは度々お忍びで街中を出歩いていた。
 何で知ったのか、お忍びには変装が必須と思い、変装用の小道具を持っている。
 たとえば、サングラスだったり、目深の帽子だったり……明らかに変だと思うものがないだけマシだ。
「変装……」
「うん、眼鏡一つで大分印象が変わるからって。……どう?」
 キラに尋ねられたラクスはもう一度キラの顔を観察した。
「そう、ですわね。確かに、いつものキラとは印象が違いますわ」
 身に纏う穏やかな雰囲気は変わっていないが、眼鏡のせいか理知的な雰囲気が加わっている。
 更に言うなら、最近伸びてきた背のせいもあってか普段より大人びて見えた。
 それを認識したとたん、ラクスは心が騒ぎ出すのを感じた。
 目の前にいるのはよく知っているキラだ。
 それなのに、どこか初めて会う人間のような気がして、しかも、普段あまりキラからは感じない『異性』を感じて、ラクスは動揺した。
 見る見るうちに白い頬を薄っすらと朱に染めていくラクスを見て、キラはきょとんとした。
「ラクス?」
 突然硬直した少女を不思議に思い、キラは覗き込む。
 そんな反応は間違いなく、いつもキラで、なのにラクスは更にうろたえた。
 硝子越しに見える紫色の瞳はいつもより綺麗に見えた。
「っ!」
 キラに寄せる感情がどういった類いのものであるか、ラクスは分かっているつもりだった。
 だが、こんな風に身の置き場がないような、今にも逃げ出したくなるような、そんな感覚に襲われることはなかった。
 いつだって、キラが側にいれば安心して、その瞳に見つめられて微笑みかけられたら幸せで。
「キ、キラ……」
 この状況を打開しようとラクスは声を絞り出す。
「その、眼鏡……外しません?」
「え?」
 ラクスは慌てて言葉を足した。
「ここで変装の必要はありませんわ」
 もっともらしい理由があったことに、ラクスは心の中で安堵した。
「あぁ、それはそうなんだけど」
 ふとキラが零した苦笑に、ラクスの鼓動が速くなる。
「なんとなく、気に入ったんだ」
 無邪気な言葉だった。
 視線をラクスから外し、キラはサンルームから見える緑の風景を眩しそうに見つめた。
「なんていうか、世界からちょっとだけ距離を取っている感じで、同じ光景なんだけど違うような気がして」
 その横顔に、ラクスは見惚れた。
 優しい容貌は変わらないのに、そこにはしなやかな強さが伺えて。
「ラクス?」
 黙り込んだラクスに気づいて、再びキラの視線が向けられる。
 その瞬間、ラクスの頬は目に見えて赤く染まった。
「……ラクス、大丈夫? 熱でもあるの?」
「い、いえ、大丈夫ですわっ」
「そう?」
 そして、キラはこつりと自分の額とラクスの額を当てた。
「っ!!」
「……うん、ちょっと熱っぽい?」
 今までの中で一番の急接近に、ラクスは心の中で悲鳴を上げた。
 薄い硝子を挟んで、すぐ向こうには紫色の瞳がラクスを映している。
 体が動くものなら、即座に逃げ出しているだろう。
 だが、何の束縛もないのにラクスの体は固まったまま。
 その様子に、ふとキラの瞳に何かが過ぎる。
 ここに至って、キラにもようやくラクスの状態が体の不調に因るものではないことが分かったらしい。
 だが、それはラクスにとっての救いにはならなかった。
「ラクス……?」
 先ほどとは違う、どこか弾んだ声音で呼びかけられ、ラクスの華奢な肩が震えた。
 何か言おうと口を開きかけるが、それは音にはならなかった。
「……っ!」
 代わりに零れたのは鼻にかかったような呻き。
 唐突に唇を塞がれたせいで、上手く息ができない。
 ラクスは反射的に身を捩った。
 しかし、キラはかすかに笑って追いかけてくる。
「ふ、ぁ……っ」
 ほんの一瞬、桜色に色づき、濡れた唇から零れた吐息は熱を帯びていた。
 そのことが更にラクスの羞恥心を煽る。
「キ、ラっ」
 制止の声はその役目を果たすどころか、逆に誘うような響きがあった。
 わずかな抵抗を制して、キラはラクスをゆっくりと追い詰めた。
 いつの間にか潤んだ蒼い瞳を閉じ、ラクスは堪えようとする。
 だが、熱はやがて全身に及び、ラクスの意識は朦朧となった。
 不意にかちゃりと軽い音がして、キラのかけた眼鏡がずれる。
 それを機に、キラは少しだけラクスから離れた。
「っ!」
 解放されたラクスは脱力して、くたりとキラの胸によりかかる。
「……うん、やっぱり、ちょっと邪魔かな」
 ラクスをしっかり抱き留めたまま、キラはぽつりと呟いた。
「ラクス」
 間近で聞こえる、心地良い声は消えそうになっていたラクスの意識を引き戻した。
 ゆっくりと緩慢に顔を上げると、そこにはにこやか微笑むキラの顔。
 無邪気な子どものような、それでいて油断できない何かを潜ませた微笑みに、ラクスは思わず息を呑んだ。
「取ってくれる?」
「……え?」
 放心状態から抜け出せないラクスは何を言われたのか一瞬理解できなかった。
 その瞬間の無防備な表情に、キラはくすりと笑った。
「眼鏡、取って」
 それはラクスの望むところだった。
 ラクスはゆっくりと力の入らない腕を上げた。しかし、眼鏡を外そうと伸ばした白い手は途中で止まる。
 硝子越しの瞳がまっすぐにラクスを見つめていた。
 その瞬間、眼鏡を外すという何でもない行為が異様な緊張感を齎すものになる。
「ラクス?」
 くすくすと笑いながら呼ばれて、ラクスはキラを睨み上げた。
「……自分で外してください」
 感情を抑えた声音は詰るような冷たい響きを持っていた。
 しかし、その頬を朱に染めた表情はそれを裏切るように、艶やかで愛らしかったために何の効果も齎さなかった。
「だって、今僕の手は塞がっているし」
 キラの手は寄りかかっているラクスの体を支えていた。
 やや不安定な体勢のため、離すとラクスの体は床に滑り落ちそうだ。
 普通の状態なら、そんなことはありえないが、今のラクスの体は脱力しており、自力で体勢を立て直すこともままならない。
 なのに、そんな状態に持ち込んだ本人はまるで忘れたように顔をしていた。
「キラ……っ!」
 泣きそうな声でラクスが咎めると、キラは少し困ったように笑った。
「!」
 その表情は何度も見たことあるもので、しかし、眼鏡をつけた顔はやはり違うように見えて、ラクスは何も言えなくなる。
「ずるいです……っ!」
 最初はともかく、今のキラは分かっててやっている。
 辛うじて、搾り出した詰りに、キラは反論しなかった。
 そのせいで、ラクスはそれ以上の言葉を言えなくなる。
 ただ、潤んだ瞳で睨みつけるしかない。
「ラクス」
 そっと呼ばれて、ラクスは咄嗟に俯いて小さな子どもが嫌がるように小さく首を振った。
「ラクス」
 しかし、何度の自分の名を紡ぐ優しい声には逆らい続けることができず、ラクスはゆっくりと顔を上げる。
 見上げた先には優しい微笑みが待っていた。
 何もかも分かっているような微笑みに、ラクスは眉をひそめた。
 それまでキラに翻弄されて、すっかり萎えていたラクスの負けず嫌いが徐々に蘇る。
 不意に、ラクスはきつく唇を噛み締めた。
「?」
 ラクスの様子が変わったことに気づいたキラが気を逸らした瞬間だった。
 突然、ラクスは両手を伸ばし、キラの襟元を掴んで勢いよく引き寄せた。
「!?」
 ふわりとキラの頬に掠めた薄紅の髪が離れ、にこりと笑う空色の瞳に呆気に取られた自分の顔が映っているのを認めて、キラはようやく状況を理解した。
「……っ!」
 思わず、羽のようなかすかな感触が残る唇に片手を当てて、キラは一気に体温が上昇するのを感じた。
「油断大敵、ですわよ」
 薄っすらと頬を朱に染めたまま、不敵に微笑むラクスに、キラは呆気に取られる。
 そんな様子を見て、ラクスはくすくすと笑い、ようやく、いつもの調子に戻ってきたことに心から安堵する。
 キラはわずかに視線を逸らして、溜め息と共に小さく呟いた。
「油断ね……。――分かったよ、じゃあ今度は手加減なしで」
「………………え?」
 間近に迫った、薄い硝子を透かして見える紫色の瞳。
 その綺麗な澄んだ輝きに魅せられ、ラクスがキラの言葉を理解するのに一瞬の時を要した。
 それが勝敗の決定的瞬間だった。
「油断大敵」
 端的な勝利宣言に、異を唱える間もなく、ラクスは再びキラに翻弄されることになった。











キララク白眼鏡祭終了につき、転載です。

……見れば見るほど、バカップルです。
ふ、ふふ……途中、どこまで書けばいいのか悩みました。
結局、していることは大したことはないのに、妙にピンクっぽい感じに仕上がったような。