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| <*1*> 「鳩」 |
<*1*>「鳩」 10月初旬、肝炎と診断されて入院する羽目になった。肝硬変の疑いもあるから検査するそうだ。何でも好きに切り開いて診たらええのや。もう、何の価値もない命、好きにせい。と言いたくなる。 「それじゃぁ、昭さん。夕方、また来ますから、必要な物はメモしておいてくださいね?」 取り敢えず用意して持ってきた荷物を、棚や引き出しに片付け終えた春江が言った。服役する前一緒に暮らしていた女で二人の子供の母親である彼女は、昭彦より7歳年上だった。出所して何処へ行く予定もなかったので、迎えにきていた彼女の所でまた一緒に暮らすようになった。マサも迎えに来ていたが、むさい男所帯よりは女の方がいい。それに、マサはやくざの世界にいる。足を洗った以上、あまり関わりたくなかった。 「そんなに何回も来なくていいから。」 長袖のスェットの上下に着替えた昭彦はベッドに横になりながら言った。春江は保険の外交員をしている。昭彦が刑務所へ行く前は自分の経営するラブホテルの経理を任せていた。初めは掃除婦として務め始めたが、上品な風情のある彼女に興味を持って色々話を聞く内に関係を持つようになった。それ以来経理を任せて、時々彼女の暮らすアパートに泊まりにいくようになった。昭彦自身が暮らしていたマンションには別の女がいたし、他にもマンションを借りてやって付き合ってる女もいた。だが、不思議と春江といる時間が一番くつろげた。それが、事件を引き起こす原因にもなったのだが、もう過ぎたことだ。組とは縁を切ったし、女達は消えた。 「でも・・・昭さん・・・」 春江は荷物を出し切ってもまだその辺を動かしてみたりして、立ち去りがたい素振りだった。昭彦は春江の腕を引いた。 「あ・・・」 春江がベッドの上の昭彦に重なるように倒れた。昭彦はそのまましばらくキスをしてやる。大部屋だったが、着替える時に引いたカーテンがまだ閉まってした。 「昭さんったら・・・」 起きあがった春江が服装の乱れを気にしながらカーテンを開いた。用がない時はカーテンを開けておくのが病院の規則だった。 「冬美も年頃だし、夏美も色々問題あるし、・・・私のことはそんなに心配しなくていいから、家のことをよろしく頼むよ。」 「ええ。・・・でも、夕方には冬美も夏美を連れて顔を出すって言ってましたから、私も来てみます。」 そう言って春江は帰っていった。40歳をすぎても色香が滲み出るいい女だ。しかも、気丈でつつましい。出所後は昭彦もマサの口利きでクラブのマスターとして仕事を始めた。贅沢は出来ないが、生活費は入れるようにしていたのに、せっかく固定客もついて順調にいってる仕事だから、と言って、そのまま仕事を続けている。苦労して生きてきた中で、男に甘えても男に頼らない、そんな生き方を身につけているようだった。 午後になってマサが早速見舞いに来た。マサとの会話は同部屋の入院患者に聞かれたくなかった。マサを促して屋上へ出た。 陽射しは暖かかったが、吹き抜ける風は冷たかった。 「大丈夫でっか?・・屋上は冷えまんなぁ。」 マサは手に持っていたコートを昭彦にかけようとしたが、 「アホ。寒いんやったら自分が着るもんや。」 と、言われて仕方なく自分でコートを着込んだ。昭彦はスェットの上に厚手のガウンを羽織っていた。まったく、何かと言えば世話を焼きたがる、とため息を吐いた。 「これ以上ドクターが悪くなったら、わてがボスに殺されまんがな。・・・ホンマにちょっともボスの言う事を聞いてくれはらへん。」 「その話はもう止めにしてくれ。わしはもう縁を切ったんや。」 「切れる縁と切れん縁があるそうですわ。こないなことになるんやったら、出所した時に首に縄つけて引っ張ってくれば良かった、ちゅうて怒ってはりまんがな。」 「兄さんは怒るんが趣味なんや。勝手に怒らしとき。」 「また、そない言い方しはる・・・」 「われも、もう、わしに構わず好きにしたらええんや。」 昭彦の冷たい言い方にマサは項垂れて肩を落とした。 「・・・何でそない自分捨てたみたいな言い方されるんでっか?・・・わてに自分を捨てるなっちゅうたんはドクターでんがな。」 昭彦は張り巡らされている金網に寄りかかって空を見上げた。 「・・・捨ててんやろ。せやからこうして入院もしてるし、生きてるがな。」 マサは肩を落としたまま横目で昭彦の姿を見ながらため息を吐いた。 「けど・・・今のドクターは輝いておまへんがな。・・・わしに地獄を一緒に見ようや、て言うてくれはった頃の輝いてるドクターは何処へ行かはったんでっしゃろのう・・・」 「知らんわ。わしももう大人になったっちゅうこっちゃ。ごちゃごちゃ愚痴るんやったら、もう顔見せんでええで。」 マサはますます項垂れた。首筋から背中に冷たい風が吹き込んでブルッと震え、コートの襟を立てた。 「・・・今のドクターはまるで死に場所を探しとるようでっせ。・・・わてはこんなドクターのことをボスによう話せまへんわ。」 「話すことあらへん。・・・兄さんは暗黒の太陽を背負って紅蓮の炎天を駆ける竜やで。・・・わしがおらん方がええんや。わしは・・・負け犬や。」 「・・・それでも・・・わてはドクターが好きだっせ。・・・ボスもそうでっしゃろ。」 「過ぎた日は還らん。・・・わしはもうええ。」 昭彦は空を見上げたままそれっきり黙り込んだ。マサはしばらくそんな昭彦を眺めていたが、震える息でため息をそっと洩らすと、 「冷えますで・・・病室戻って、大事にしてくんなはれや。」 と言い残して、立ち去った。 もう、ええんや。もう疲れてもうた。あの流れる雲の尻尾みたいに、千切れて消えていくだけや。消えるまで、どれくらいかかるか、わからん。それまでは流れるままに身を任せるだけや。・・・昭彦は空から屋上に視線を戻して、小さく息を吐いた。 と、少し離れたベンチに少女が座っていることに気が付いた。今の会話を聞かれただろうか、と様子を伺ったが、少女は冷たい風に髪をなびかせながら、じっとうつむいたまま動かなかった。 透き通るような白い肌はロウソクのように血の気がなかった。精気を失った虚ろな目には何も見えていないようだ。無造作に膝に置かれた掌が、人形の手のように見える。どこにも力が入らない、ただ置かれているだけの手。そして、その指は作り物のように細くて白かった。 若年性痴呆という言葉が昭彦の脳裏を過ぎった。生きる感覚さえ失って、衰弱死するのを待っているようにさえ見える。まだ、あどけなささえ残る幼い横顔が哀れに思えた。 だが、人形の手のように見えていた手が、そっと着ているガウンのポケットへと動いた。昭彦は、え?、と少女の顔へ視線を移した。 痛々しくて見ることも出来なかった少女の虚ろな目が、何かをとらえて輝きを灯している。ガラス玉のようだった透明感のある目が綺麗な光彩を映し出していた。昭彦は少女の視線を追って見た。すると、金網越しに鳩が数羽留まっている。 少女はポケットからビスケットの袋をそっと取り出した。視線は鳩に向けたまま、なるべく音をさせないように袋を開けようとしているようだった。が、少女の細い指は不器用そうになかなか袋を開けられずに、引っ張っても弱々しく力が入らないようだった。 昭彦は、じれったくなって、自分が開けてやりたいと思ったが、不用意に近付いたら鳩が逃げてしまうかも知れない。少女の震える白い指先を見守るしかなかった。それでも、どうにか袋を開けることが出来た少女は、細かく砕いて投げてやった。一瞬戸惑った鳩が、すぐに啄み始めた。 と、その時、少女の顔が嬉しそうに微笑んだのだ。感情がないと思っていた少女の横顔が、ふわっと霞むような笑顔を浮かべている。 遠い記憶を呼び起こされるような、儚い笑顔だった。昭彦は胸が締め付けられて、じっと見つめていた。少女はビスケットの袋を掌の上で逆さまにして、最後の欠けらまで出し切って投げてやると、後はじっと微笑んで鳩を見ていた。 「子猫さん!そんなとこにいたの?」 屋上の入り口付近で看護婦が呼びかけて急ぎ足で近付いてきた。鳩は驚いて飛び立ってしまった。それを追うように少女が空を見上げ、やがてまた、何も写さない感情のない虚ろな目に戻っていった。 なんちゅう無神経な看護婦や。と、昭彦が腹立たしく思いながら見ている中、二人の看護婦が少女を挟むようにして立ち、怠そうな少女を立ち上がらせた。 「さあ、もうお部屋に戻りましょうね。」 そう言った看護婦が少女を支えるように腕をつかんで歩き出した。 「大丈夫?連れて行ける?」 もう一人が聞くと、 「はい。お騒がせして済みませんでした。」 と、小さく頭を下げて、そのまま少女と歩いていった。 残った看護婦が、ふぅーっと大きく息を吐いて、 「困ったものだわねぇ。」 と独り言を呟いた。 「どうかしましたか?」 昭彦が声をかけると、看護婦は、あっ、と頬を染めて昭彦を見上げた。 今日入った入院患者に、モデルのように綺麗な顔立ちの優雅な紳士がいる、と噂になっていた。それでも、その優雅な姿の下は壮烈な彫り物がびっしりと彫り込まれてあるらしい。一度その彫り物を見てみたい、と看護婦達の間では評判になっている昭彦に声をかけられ、看護婦は嬉しそうに微笑んだ。 「彼女はどこが悪いんですか?」 看護婦が見取れて返事を忘れているので、昭彦は更に聞いた。 「え・・ああ、子猫さん?・・・彼女はねぇ、色々抱えてるの。」 「・・・は?」 「詳しくはお話出来ないんですけど・・・自殺願望のある子で、何するかわからないとこがあるんです。それで姿が見えないって担当の看護婦が言い出したものですから、探してたんです。・・・お騒がせして済みませんでした。」 「・・・そうですか。」 何でまた、自殺願望なんて。それに、あの顔色の悪さは単なる鬱病の症状だけとは思えない。”色々”と看護婦が言った部分に秘密がありそうだ。後でカルテを見られないだろうか。と昭彦は思いながら、 「心臓にも問題があるのかな?」 と独り言に言った。看護婦は驚いた顔をして、 「おわかりになりんですか?」 と言った。昭彦は眉をひそめ、 「随分血色が悪いように見えましたから・・・」 と、胸が痛くなる思いを隠して答えた。 「あぁ・・・でも、拒食症のせいもあるんですよ。全然食事を摂ってくれないので。・・・それにお薬とかも一回ずつ渡さないと、すぐ多く飲んでしまったり、全然自分が良くなる努力をしてくれないので・・・あ・・」 看護婦はうっかり話しすぎたことに気が付いたようだった。 「そうですか。大変ですね。」 昭彦はただの世間話として聞き流すような態度で微笑みかけた。看護婦はほっとしたように笑みを浮かべると、頬をまた赤らめて、 「それじゃ・・・失礼します。」 と言って、建物の中に入っていった。 昭彦もいささか寒さが体の芯まで効いてきたので、病室に戻ることにした。 病室に戻ると、担当の看護婦が、 「点滴をするのに、何処へ行ってらしたんですか?」 と、叱るような口調で言った。そして、ベッドに横になった昭彦のスェットの袖をあげようとしたので、 「点滴中はカーテンを閉めといて貰えませんか?」 と、昭彦が頼むと、あ!、という顔になって、 「わかりました。そうしましょう。」 と、カーテンを閉めてくれた。そして袖をあげて、そこにある彫り物に恐々と点滴の針を刺した。それから、 「他の看護婦にも伝達しておきますので。」 と、にっこりと微笑んで、カーテンを出ると、またきっちりと閉じていってくれた。彫り物のことはなるべく他の入院患者には知られないようにするよう病院側でも配慮しているようだった。 昭彦は横になって目を閉じた。そして閉じた瞼に、さっき屋上で出会った少女を思い出していた。ロウソクのような白い顔、虚ろな目、白くて細い指。それでも、ほんの束の間浮かべた、優しげな微笑みのあまりの儚さ。袋が開けられない不器用な弱々しい指。全てが愛おしかった。・・・そう。愛おしさに目眩を覚えるほどに、魂をあのあどけない少女に奪われてっしまっていた。まるで、一目惚れのように。・・・昭彦は自嘲した。 親子ほども歳の差があるのに、何を一人で勝手なことを思っているんだ。春江の娘二人に父親として接しているのに、彼女達よりはるかに幼い少女相手に何を考えているんだ。自分とは関わりのない子なんだ。興味を持っても仕方がない。 無理矢理にでも忘れようと、違うことを考えようとする。が、すぐに、風になびいていた少女の髪の柔らかそうな感触を思い浮かべてしまう。クソッ!と、TVをつけてみるが、画面に映る女性の首もとに目がいくと、あの白すぎる華奢なうなじが目に浮かぶ。チャンネルを替えて、動物が映っている画面にすると、鳩が飛び立った後の寂しげな悲しい眼差しが重なる。 もう、ええ。見えるものはしょうがあらへん。気になるのも仕方ない。と、昭彦は意識を逸らす努力を放棄し、TVを消すと、また少女を思い浮かべるのだった。 夕方、冬美と夏美が訪ねてきた。ほどなく春江もきて、いつものように夏美の母親への文句がいくつかぶつけられた。昭彦はなるべく明るく話を合わせたり、注意したりして時間を過ごしたが、心の中ではずっとあの少女のことを考えていた。 どことなく空虚な昭彦の視線を感じた春江は、入院して疲れているのだろうと、娘達を促して長居せずに退室していった。 昭彦は、そんな気遣いをしてくれる春江に、済まないと思いながらも、流れだした心を押し止めることは出来なかった。 |
| <*2*> 「ランドリー室」 |
<*2*>「ランドリー室」 次の日、昭彦は看護婦から今日の午前中に受ける検査用のカルテを渡された後、すぐには検査科には向かわず、病棟の中を昨日の少女を捜して歩いていた。小児病棟と外科病棟は外すとなると、内科病棟だろうか?看護婦は”子猫”と呼んでいた。 子猫・・子猫・・・病室の入り口の名前札をチェックしていく。”夢野子猫”という名前を見つけて、ああ、ここや。と思った昭彦は開け放しになっている入り口から中の様子を伺ってみた。 「まったく、何度迷惑かけたら気が済むのよ。」 ヒステリックな声が聞こえてくる。見れば、昨日の少女に向かって母親らしき女性が小言を言っているようだ。 「入院だってただじゃないんだから、ちゃんと治す努力をしなさい。」 母親はお洒落なコートを脱ごうともせず、ベッドの足元の柵あたりから話しかけている。少女はベッドの上によれよれの薄汚れたパジャマのまま正座している。 「ほんっとにだらしない。女の子なんだから洗濯くらいマメにしなさい。」 なんや、その言い草は?昭彦は思わずムッとしていた。女だから洗濯するのが当たり前なら、男はしなくてもええんか?まして、あんな弱ってる子に、他に言ってやれる言葉はないんか? 「ちゃんと聞いてるの?」 少女はビクッとして顔を母親に向けた。だが、その目は足元の柵あたりを彷徨っている。きっと正視するのが怖いのだろう。捨て猫のように弱々しく小さくなって、じっとしている。 「聞こえたら返事くらいなさい。」 「・・・・・はぃ・・・」 聞き取れないほど小さな声だった。が、透明感のある可愛い声の響きが風のように伝わってきた。 「とにかく、もう看護婦さんに迷惑をかけないこと。それとちゃんと洗濯すること。私だって忙しいんだから、それくらいしなさいね。」 母親は腕時計を見ながらそう言うと、少女の返事を待つことなく入り口へ体を向けた。昭彦は咄嗟にエレベーターのない方向の壁際に背を向けて、人待ち顔を装い持っていたカルテのファイルを眺めだした。が、そこまで気を使う必要もなく、母親はさっさとエレベーターの方に歩いていった。 母親がエレベーターに乗り込んでドアが閉まるのを確認した昭彦は、再び部屋の中を覗いてみた。少女は母親の小言を聞いていた時の姿勢のまま、ぼんやりと正座している膝あたりのシーツに目を落としていた。 昭彦は冷たい母親に苛立ちを覚えながらも、どんなに冷たくされ蔑まれても母親を恋しがる子供の心理を、自分自身で味わってきただけに、今の少女の寂しくやりきれない気持ちが手に取るようにわかるのだった。子供を捨てたい親はいる。だが、親に捨てられたい子供はいないのだ。 これが胸の痛みというものなのか、それとも少女への愛しさなのか、息が詰まる思いで少女を見ていると、少女はやっと怠そうな体をゆっくり動かしてベッドから降りた。屈んでベッド下の物入れを引き出し、蓋を開けて洗濯カゴの中にクシャクシャの衣類を入れているようだった。カゴの端にポロッとブラジャーが引っかかって垂れ下がる。・・おお!?・・意外に大きなカップに思わず唾を飲み込んでしまった。アホ!何考えとんや!と自分を怒やしつけ大きく息をついて、また様子を眺めた。 カゴいっぱいに洗い物を詰め込んだ少女は、TVが置かれている棚の下の扉付き部分から洗剤と柔軟剤を取りだした。柔軟剤はどうにかカゴに乗せられたが、洗剤は乗せると落ちそうになる。それで、洗剤を胸に抱えるようにして持ち、立ち上がった。洗剤でパジャマが押され、胸の形があらわになる。柔らかそうな丸みは、少女の幼い顔立ちからは想像出来ない膨らみがあった。おいおい、その格好でいくんか?ランドリー室は男もおるんやで?ヤバイがな。と昭彦が焦っていると、数歩歩いて立ち止まった少女は、思い出したようにガウンを羽織った。昭彦はフゥッと安堵の息を漏らした。 少女に気付かれないように、さっきの母親の時のように背中を向けていたが、少女はただ廊下の少し先を虚ろに見ているだけで、他の物は一切目に入らないようだった。 少女の向かう先はわかっている。屋上への出入り口がある8階のランドリー室だ。そこには洗濯機と乾燥機が10台ずつほど置かれている。そのランドリー室の並びには少し大きな談話室があって、自動販売機も数台並び、常に大人達がたむろしている場所があった。病棟内は禁煙だったが、その談話室には大きなダクト付きのテーブルが設置されていて、煙を吸い込む焼き肉屋のコンロのような灰皿があった。昨日屋上へ出る時に覗いたので大体の様子はわかっていた。 場所はわかる、と、少女の次のエレベーターでそこへ上がろうとした時、開いたエレベーターの中から看護婦が、 「あら、藤村さん。こんなとこにいらしたの?早く検査に行ってくださらないと困ります。今、上に探しにいくとこだったんですよ。」 と言って睨んだ。 「済みません。まだ混んでいるかと思って、散策して時間を潰してました。」 昭彦が悪戯っぽい目で、肩をすくめて笑ってみせると、看護婦は頬を染めて、 「予約してあるからすぐに診て貰えるんですよ。」 と、優しく説明するように言った。そして、昭彦のカルテの入ったファイルを手に取り、昭彦をエレベーターに乗せると片方の手で腕を恋人のようにつかんだ。 これじゃぁ逃げられへんなぁ。しゃぁーない、後で行ってみるか。と、昭彦は思いながら、ふと視線が合った看護婦に微笑んで見せた。看護婦はポーッとした顔で見取れていたが、エレベーターが止まって、人が出入りする時になって慌てて視線をそらした。 検査は何だかんだで結局昼近くまでかかってしまった。もう、いないだろう、とは思ったが、それでも確認したくてエレベーターで8階へ上がった。検査の待ち時間に購買で買った本を持ち、ランドリー室を初めに覗いた。幾つもの洗濯機と乾燥機がまわっている。と、脇の整理用のテーブルの端に、少女が持っていたカゴがあった。別人のものかも知れないと思いながらも、談話室に行くと、窓際のベンチのような長椅子に座っている少女を見つけた。 まるで人形が置かれているように力なく座り、何も写さない虚ろな目が床に向けられている。降り注がれる光を背中から浴び、少女の細い髪が金色に透けていた。白い頬はただ真っ白に輝き、朝日に輝く新雪のように思えた。肌の温もりが感じられない冷たさと言ってしまえばあまりにも哀れで、それでも赤い唇のあどけない膨らみに救いを感じる昭彦だった。 突然小さなベルが少女のガウンのポケットから聞こえた。ハッとした少女が慌ててポケットに手を入れ、小さなタイマーを取り出すと、震える細い指でもどかしそうにベルを止めた。そして、ゆっくりとイスから立ち上がると、夢遊病患者のようにフワフワとランドリー室へと歩いていった。 昭彦がついていってみようか、と迷っていると、それまで煙草を吸いながらたむろする男達と話していた男が、にやにやしながら少女の後に続くように談話室を出ていった。嫌な予感がして、昭彦がランドリー室へ行き、そっと気付かれないように中の様子を見ると、男が乾燥機から乾いた衣類を取り出す少女に話しかけている。少女は何も答えず、乾いた衣類をテーブルに乗せ、代わりに止まっていた洗濯機から別の衣類を、またその乾燥機に入れ始めた。溜め込んでいた洗い物を何度かに分けて洗っていたようだ。 それで時間がかかったのか、と納得したが、少女がそうした作業をしている間、男が乾いた衣類の中からショーツをつまみ出し、鼻に押し当てているのに気付いて、カッと血が沸騰するような怒りを覚えた。だが、少女は何も言わず、乾燥機にお金を入れてスイッチを押すと、テーブルの衣類をたたんでカゴにしまい始めた。 と、男が体を密着させて、少女の髪を撫で始めた。その手は髪から肩へ移り、やがて脇から胸へと移動した。それでも少女は乾いた衣類をたたむ作業を続けていた。男の手がガウンの上からふっくらとした膨らみのある胸を撫でている。時々、親指と人差し指がつまむように動くのは乳首をとらえているからだろうか。 何故逆らわない。そいつは恋人なのか?・・・だが、とてもそうは見えなかった。男の手がガウンの胸元から奥へと侵入する。しかも、いつの間に外したのか、ボタンが外れたパジャマの中へと手を入れて動かし始めたのだ。 「…ぁ…」 少女が小さな声を洩らして目を閉じ、衣類をたたむ手が止まる。男はここぞとばかりに少女の顔をもう一方の手で自分の方へ向けて唇を重ねた。少女は吸われるままに舌を絡めているようだった。男の手がガウンの下で忙しく動いているのがわかる。 「…ん、、、…ん、、ん、、…」 感じているような少女の鼻声が洩れる。すると、少女を横から抱き締めている男の手が前へと移動する。昭彦からは見ない位置だったが、ガウンの裾がひらひらと揺れる様子で少女の下半身へと手を入れているのを察知した。少女の片足が軽くつま先立ちになる。男の指が蜜壺をまさぐるのに動かしやすいようにしているのだろう。 そうゆうことか!昭彦は沸騰する怒りに目眩を感じながら、ランドリー室を後にした。 部屋に戻っても怒りは収まらなかった。点滴をする看護婦が、 「力を入れないでください。血が逆流しちゃうますよ。」 と言うまで、握りしめていた拳に気付かなかった。 もう、ちゃんとそーゆー男がいたんやないかい。何が可憐で清純な少女や。・・・いや、別に少女がそう自分で言った訳じゃない。だが、自分がそう感じたことが愚かだった。 昭彦は腹立たしさに、あの男の指を一本一本手の甲に着くまでへし曲げる情景を想像して、気持ちを紛らわせようとした。それでも、あのつま先立った足が・・・あの時、少女の蜜壺をまさぐっているであろう男の指を思うと、とてもそれぐらいでは怒りを抑えようもなく、体中の血がカッカと沸き立つように感じていた。 怒りの捌け口が見つからないまま、カーテンに仕切られた天井を睨んでいた。かき消そうとしても、何度もあのランドリー室での光景が映し出される。いっそ少女の顔に唾でも吐きかけてやろう、と思った時、少女の虚ろな目がそのままだったことに気がついた。 考えて見れば、洗濯をする時にああして甘える男がいるなら、何故あれほど洗濯物を溜め込んでいたんだ?・・・本当は嫌がってたんじゃないのか?嫌でも逆らうだけの力がないから、従うしかなかったのか? そう考えが及んだ時、初めて人を殺しかねないほどに叩きのめした、遠い昔の出来事を思い出した。幼い妹の服をはだけて、男の手が体中を撫でまわしていた。声も出せないほどに脅えた妹の赤い唇を吸って、太い指を幼すぎる膣へと差し込んでいたのだ。妹は虚ろな目に涙を浮かべながら、泣くことも出来ないショックで、男のなすがままになっていた。そして、膣で動く指から手の甲へと赤い血が流れた時、目の前が真っ赤になって男に飛びかかっていた。 昭彦はガバッと体を起こした。 そうや。そうやったんや。本当は嫌やったんや。だから洗濯をするのが怖くてあんなに溜め込んでいたんや。けど、母親に女としてのたしなみがないと責められ、そんなことがあるから嫌なんや、とも打ち明けられず、男にされることがわかっていながら、あの場所へ行くしかなかったんや。・・・なんで、すぐに気付いてやれんかったんや。 もう、今からでは遅すぎる。あの後の事を思うとやりきれない。が、あの男は慣れた素振りだった。まだ、次がある。その次を阻止してやるしか出来ることはない。と、昭彦は点滴の下がっている棒を鷲掴みにして、ベッドから降りると、各階ごとにある公衆電話へと急いだ。 「マサ、頼みがあるで、急ぎ来てんか。」 うっかり大阪弁で話してしまって、通り過ぎた患者がビックリした顔をしていた。関東圏にいて大阪弁を話すと特殊な目で見られてしまう。もっとも、昭彦の場合、それは正解ではあったが、もう足を洗った以上、そうした余計な詮索は極力避けたかった。 日没が早くなっていた。すでに屋上は薄闇に包まれている。日が落ちた途端に急激に冷え込むこの時期に、黄昏た屋上に人がいるはずもなかった。 だが、昭彦は用心して屋上の端へとマサを促した。マサは今日はコートを着たままだったが、昭彦もガウンの下にセーターを着込んでいたので安心をした。それよりも、薄闇でも強い光を放つように輝いている昭彦の目が嬉しかった。 「ヘヘヘッ。どないしはったんでっか?」 「守りたい子がおんねや。」 「ほぉー・・・また、おなごはんでっかぁ?」 やれやれ、と言うようにマサは首を振ったが、口元には笑みが浮かんでいた。どんなことでもいいから、昭彦がやりたいと思うことが出来たことを喜んでいたのだ。 「女やない。・・いや、女は女やけど・・・妹みたいな子なんや。」 「はぁ・・・」 マサは昭彦の妹とは面識がなかったし、ほとんど話題に出ることはなかったが、竜崎のボスが家族的な話題が出る度に気を使っていたことを思うと、あまりいい思い出ではないように思えた。 昭彦は昨日からのことをざっと簡単に話した。そして、 「わしがその子と親しくなって、いつも側にいてやれればええんやけどなぁ・・・まだ、検査や点滴やで行動が制限されてる時やで、思うようにはカバー出来へん。」 と、眉をしかめて言った。 「それに、わしが表立って男を締め上げたら病院を追い出されてまうかも知れんしのう。そうなったら、側にいるどころやなくなるで。」 「そうでんなぁ。」 マサはにやにや笑って頷いていた。その笑い方が気になって、 「わしはやらしい気持ちで言うてるんやないで。」 とクギを刺した。 「ヘッヘッヘッ。どっちでもええでんがな。わてはドクターが、こうせい、っちゅうことをするだけでっせ。それに理由も正義もいらんこっちゃ。」 楽しそうに笑うマサを、昭彦は目を眇めて舌打ちをする。 「お主も悪よのう・・・て、時代劇になりそうなことを言うなや。」 ひゃっひゃっひゃ、とマサが笑った。 「どんなことかてええんですわ。ただ、わてはそない冗談を久々に聞けたんが嬉しゅうてたまらんのや。何でもしまっせ。ひと思いにバッサリやりやしょうか?ヘッヘッヘッ。」 「一人だけやったらそれでもええが・・・まだ、他にもおるかも知れへん。あんなとこでたむろしとる男はろくなもんやあらへん。入院しちょるで女に飢えとるし・・・自暴自棄で自分さえ見えんようになった子はええ餌食やで。」 昭彦が苦しげに言う言葉を、マサは神妙な顔で頷いた。 「そしたらどないしましょ?」 「男が付きまとうと怪しまれるで、女を一人その子の側で見晴らせといて、おかしな行動に出てきた男をチェックするんや。もちろん、男が怪しげな行動に出る前に、邪魔することも忘れたらあかんで。」 「へぇ。」 「それから、男を適当な理由で人気のない所に誘い込んで、二度とその子に手を出す気が起きないように、思いっきり脅したれ。」 「ちょっと痛めつけやしょうかぁ?」 「そやな。指10本折るぐらいしたってもええで。それ以上は病人やで、勘弁しといてやれ。・・・けど、痛めつけるとなると呼び出しには同じ者は使えんで、わしやマサが関係しとることがバレんように慎重にせなならんで。ええな?」 「へぇ、よぉわかっちょりまんがな。ヘッヘッヘッ。」 「夜は大丈夫やと思うけど、早速明日の朝からガードしたってや。」 「夜も必要やったら、すぐ手配しまっせ?付添婦をちょいと買収すればええんですさかい。・・・ドクターが心配で夜もよう寝れんようでは困りまっさかいな。ヘッヘッヘ。」 「・・・なら、そうしてくれ。」 昭彦は片眉をひそめて、またにやにやと笑い出したマサを睨みながら言った。 この日以来、子猫に近付く男はいなくなった。数人の男が両手を石膏で固めて、青ざめた顔で自分のベッドに張り付いているのを、病院側は警察に知らせようにも、本人が転んだだけだと主張するのでどうすることも出来ず、うやむやに事実は解明されないままに消えていくことになった。 |
| <*3*> 「本」 |
<*3*>「本」 不用意に男が近付いてくることがなくなったせいか、少女は毎日のように洗濯をするようになった。少女の様子をマークしている女性からの報告で、少女の母親は自分の説教が効いているのだと思っているらしく、あれやこれやと文句ばかりを言ってるらしい。 箸の上げ下ろしから何から何まで、口喧しく文句をいわれることが、どれだけ心を傷つけるかをわからないのだろうか、と昭彦は悲しくなってしまう。それに、あの指先の不器用さは、血の循環が悪い為に力が入らず、感覚も鈍くなっているからなのだとわかりそうなものなのに、母親は少女が何かを落とす度に苛立たしそうに蔑視するという。 もっとも人の親だと殺したいほど憎むことも出来るが、自分が母親を憎んだことはなかった。嫌われれば嫌われるほど、自分が悪いのだと自分を責めた。少女もきっとそうなのだろう、と思うと、誰かが母親をなじっても逆にまた自分を責める原因になりかねないし、別のことで少女自身に自信をつけさせなければならないように思えた。 父親を殺すかも知れない、と思ったのは愛されなかったからじゃない。溺愛されすぎた結果なのだが、それはまた別の感情であって、少女には当てはまらないだろう。昭彦はそんな暗い過去まで、ずっと思い出さずにいたことまで、最近頻繁に思い出してしまう。 それでも、少女が毎日洗濯をすることが日課になったのは、昭彦には嬉しいことだった。少女が談話室で洗濯が終わるのを待つ間、読書をするフリをしながらずっと観察することが出来るからだ。それに小説といった本は、語学を身につける為に必要な時以外では、あまり読むことがなかったので、何気にページを捲っていると面白さに気付く。 感情移入して読むまでにはいかないが、人の心の襞が見えてきて、それを書かずにはいられなかった作者の心も見え隠れして、その背景を思うと別のドラマも見えてくるようだった。 そんなことを思いながら、本の文章に引き込まれるフレーズがあって、つい数ページを集中して読んでしまってから、フッと少女のことが気になって顔を上げると、自分を見つめている少女の視線とぶつかってしまった。 あっ、と小さく口を開けた少女が戸惑って目を反らそうとする前に、微笑みかけてやった。少女は一度目を伏せたものの、おずおずと伺うように視線を戻してから、はにかんだ微笑みを返してくれた。 昭彦は飛び上がって踊り出したくなるほど嬉しさが込み上げてきた。今、この瞬間から、少女の中で自分が存在するのだ。さっきまでは、同じ病院に入院し、同じ時間に同じ談話室に存在していながら、少女の世界には自分は存在していなかったのだ。 昭彦が更に微笑みかけると、少女は困ったようにうつむいてしまい、そのままもう顔を上げなかったが、昭彦にはそれだけで充分だった。少女と出会って10日目の快挙なのだ。うつむいた少女のうなじから耳にかけて赤味が差している。自分を意識してくれた証のようで、そっと唇でなぞってやりたいほどに愛おしかった。 洗濯を終えた少女が、自動販売機でカフェオレを買って病室に戻っていく後ろ姿を見送って、昭彦も満たされた思いで部屋へ戻った。 夜になって春江が疲れた様子でやってきた。点滴中でカーテンも閉まっていたので、少し横になるように勧めて腕枕をしてやった。春江は昭彦に掛かっている布団はそのままに、腕を胸に乗せ額を頬に押し当てた。髪を撫でてやりながら、 「どうした?」 と聞くと、夏美が男の所に入り浸りになって、たまに帰ってきても文句ばかりを喚き散らしていくと、ため息まじりに言った。マサの話では夏美が付き合っているのは東竜会の舎弟らしい。 春江と付き合い始めた頃から、なるべく家では自分がやくざであることを出さないようにしてきた。だから春江ともずっと関東弁で話してきたし、体の彫り物もなるべく子供達の目に触れないように注意してきたのだ。血の繋がりはなくても父親としての立場で教育してきたつもりだったが、夏美がやくざを好きになってしまうのも自分の責任だろうか、と思ってしまう。 もう高校も卒業し、アルバイトであっても働いて収入を得ている娘だけに、注意して聞くような年頃ではなくなっている。自分に出来ることは、せめて母親の春江の心労をいたわってやるくらいしか出来なかった。 春江が顔をあげて、甘えるようにキスを求めてきた。その時、昭彦は自分が一瞬躊躇ったことに気付いた。だが、顔には出さずにキスをしてやったが、唇を離した後も妙に後味の悪い思いをした。 春江が帰って行ってから、昭彦は自分が裏切っているのだろうか、と気が重くなった。だが、裏切っているのはどっちに対してなのかもわからなくなるほどに、心が少女を求めていた。 点滴が終わった後、看護婦が熱い蒸しタオルを持ってきて体を拭いてくれた。カーテンを閉めている密室性のせいか、タオルを何枚も替えて丹念に拭いてくれる。特にこの看護婦の時は念入りだった。 「本当に綺麗ですね。」 拭いた後の肩に指で触れ、赤い牡丹の花を撫でる。背中も胸も腹も、拭く度に触っていく。そして下腹部も昭彦が、自分でするから、と断っても、 「私の仕事を取らないでくださいね。」 と悪戯っぽい笑みを浮かべて、男根を握って擦るように拭くのだ。蒸しタオルの温かさとしつこく擦り上げるように拭く行為で、勃起してしまうのは不可抗力だろう。いつもは勃起したモノを、目を輝かせて観察するだけだったが、今夜は、 「しゃぶらせて貰えます?」 と耳元で囁いてきた。本気なのか?と、目を眇めながら、 「お好きにどうぞ。」 と、答えると、本当にしゃぶり出した。 初めは全体を舐め回し、脈打つ青筋の太さやカリの大きさを確認するように舌と唇でしゃぶっていたが、やがてすっぽりと口に含むと頭を上下し始めた。チュップ、チュップ、チュップと音が洩れる。隣りではTVを見ていると思われる光がカーテンに映っている。個人個人で見るTVなのでイヤホンで音は聴くようになっているが、淫靡なこの音が聞こえなければいいが、と心配になる。 だが、看護婦はお構いなしに、手も使って一層激しく首を振り、扱き上げている。ミルクを出していいものか迷ったが、出していいなら早めに出してしまおうと、昭彦自身も腰を動かし始めた。 「うぅっ・・・」 思わず小さく呻いて放出すると、看護婦は満足そうに苦いミルクを飲み込んで、最後の一滴まで絞り出して吸い付いていた。 「草原の香りがしましたわ。」 と、言いながら、 もう一度、男根を綺麗に拭いてくれた看護婦は、昭彦がスェットの上下を着るのを待ってから、 「退院したら誘って下さいね。」 と、囁いて、カーテンを開けると、意味ありげにウィンクをして、他の患者をカーテンも開けたまま乱雑に拭いていった。フェラチオのサービス付きの病院なのかと思ったが、違うらしい。まあ、実際にそんな病院があったら笑ってしまうが、何の感情もなく出来てしまうのが男の悲しい性だろうか。罪の意識も湧かなかった。ただ、腰が軽くなっただけ、今夜は良く眠れそうだった。 翌日、購買で昭彦が新しい本を買おうと選んでいると、少女が現れた。こんな偶然もあるのかと、昭彦が思わず込み上げる嬉しさに笑顔になると、少女も気付いたようで頬を赤らめて微笑み、ちょこっと頭を下げた。 「こんにちは。買い物ですか?」 勇気を出して声をかけたのはいいが、自分でも情けなくなるような台詞だった。買いたいものがあるから購買にいるんやないかい!と、自分にツッコミを入れてしまう。 「・・ぁ・・・はぃ・・・本と・・・ノートを・・・」 少女は消え入りそうな声で答えてくれた。答えてから顔を真っ赤にしている。視線は財布を握っている細い指先を見ているようで、顔をあげてくれなかった。 「本はどんなものが好きなんですか?」 「・・ぇ・・・怖くないお話・・・です・・・」 「ガリバー旅行記はもう読まれましたか?」 少女がえ?、と顔を上げて昭彦を見た。 「・・・ぇっとぉ・・・絵本では・・・」 絵本としてはかなりポピュラーで有名だった。だが、その本当の内容である小説を読む者はあまりいなかった。昭彦は微笑んで頷き、 「小説は絵本では書かれなかったことがたくさんあって面白いですよ。以前一度読んではいたのですが、ここで見つけて懐かしくなって読み返したのです。あの『天空の城ラピュタ』というアニメ映画をご存知ですか?あの話の原点もガリバー旅行記にあるんですよ。」 と説明すると、驚いたように目を輝かせた。 「クスッ。そう聞くと読んでみたくなるでしょう?」 悪戯っぽく笑いかけると、少女は、 「ぇぇ・・・とても・・・」 とはにかんで微笑んだ。 「私はもう読んでしまったし、懐かしい気分も満たされたので、もう必要ないですし、良ければお譲りしますよ。いかがですか?」 少し強引だったかとも思ったが、自分の入院もそろそろ終わりそうだと思うと、少女に少しでも近付いておきたかった。少女は突然の申し出に戸惑っているようだったが、 「・・・頂いて・・・いいんですか?」 と不安げな眼差しで聞き返してきた。澄んで透明な声が微かに震えている。昭彦は、そんなに怖がらなくて大丈夫だよ、と心で囁きかける。 「もちろん。他に読む人もなく処分されてしまうより、また読んでくれる人がいた方が本も喜ぶでしょう。」 そう言った昭彦の眼差しは優しさに溢れていた。少女は嬉しそうに頷いて、 「ありがとうございます。」 と頭を深々と下げた。 談話室で落ち合う約束をした昭彦は、適当な本をつかむと購入して購買を後にした。 デートの約束をしたように気持ちが華やいでくる。鼻歌でも出そうな気分でエレベーターに乗り込んだ昭彦は、自分があまりにも浮かれていることを気付かれないように、買ったばかりの本を確認した。浮き足だって題名も確認しないで買ってしまったのだ。本の題名は『人間失格』。・・・おい!それはわしへの嫌味か!と、本を睨み付けてから、ため息を吐いた。 何を浮かれとるんや。わしにあの子を好きになる資格があるんやろか?けど、好きになってもうたもんは仕方あらへん。何もせえへんがな。ただ、側で見守っていたいだけや。何も見返りを求めたりはせえへんで。 昭彦は本に言い訳するように心の中で呟いた。 自分のベッド下の物入れから『ガリバー旅行記』を出した昭彦は、8階の談話室で少女を待っていた。なかなか少女の姿が見えないので、仕方なく買ってしまった『人間失格』を読んでいると、目の前にピンクのガウンが揺れた。昭彦が顔を上げて少女の不安そうな顔に微笑みかけると、安心したように頬を染めて笑みを浮かべた。 「・・ぁ・・の・・・お・・遅くなってごめんなさい・・・せっかくだから・・・せ・・洗濯・・・しようと思って・・・ご・・ごめんなさい・・・」 落ち着いて、落ち着いて、大丈夫だから。ちゃんと息をして、呼吸を整えて。と背中をさすってやりたくなるほど、緊張して息を乱して話してくれる。 「全然構いませんよ。急ぐ用事もないことですから。」 軽いジョークを入れて、少女が脅えないように精一杯愛しさを込めて、昭彦がそう言うと、少女にもジョークが通じたようで、笑みを濃くして頷いた。 隣りのイスに掛けるように勧めようとしたが、煙草のテーブルに陣取っている男達の視線が気になった。今日は風もなく小春日和のいい天気だった。これなら屋上でも寒くはないだろう、と思い、 「天気がいいですね。・・屋上へ出てみませんか?」 と誘った。少女は談話室の窓から見える空へ視線を向けると、行きたそうな表情になった。が、その視界に虚ろな影が過ぎる。 「・・ぁ・・・外は・・・叱られるの・・・」 小さな声で言った少女が寂しそうにうつむいた。おそらく、看護婦に叱られた日から外へは出ないようにと、母親にきつく言われているのだろう。 「大丈夫ですよ。大人の私がついていれば、迷子にもならないでしょう?」 半分はジョーク、半分は”心が迷子にならない”という意味で言った。少女はジョークだけ理解したようで、口元の緊張を綻ばせて頷いた。 外に出て、眩しい陽射しの中に佇んだ少女は、目を閉じて太陽へ顔を向けた。滲むように輝く頬のあまりの白さ、うなじから襟元までのあまりの青白さに、涙が出そうになった。 医学界の知り合いを通して少女のカルテの複写を手に入れた。生まれた時からの病歴、入院歴、手術歴を目にして、現在の状態はつかんでいた。経済的には恵まれていたが、繊細すぎる神経が集団に適合出来ず、その為に体調を崩すことが多いようだ。生まれた時からの心臓の欠陥が大きく影響しているだけでなく、精神的軋轢から来る心身症もいくつか抱えていることもわかった。 日の光を浴びるだけで、こんなにも嬉しそうに微笑む少女に、いったいどんな罪があるというのだ。自分自身をガードする心の強さがないからといって、人生の敗北者として蔑んでいいのか?弱肉強食の世界で生きてきて、負けて生きる価値を言うのも言い訳のようだが、勝ち続ける者だけが輝いている訳じゃない。弱くても、そよぐ風にさえ傷ついてしまうほど脆くても、穏やかな陽射しの中で小さな花弁を広げる可憐な花が、その一瞬に美しい煌めきを放つのを愛おしく思う。 守ってやりたい。わしの残りの命全てをかけて、守ってやりたい。はるか天空におわしまします神よ。わしに、この子を護る資格を与えて給う。死して、この身は地獄へ堕ちようとも、この子を天界の入り口まで送り届けるまで、どうか護ることを許し給え。 昭彦はどこまでも青く澄み渡った空の遙か彼方を見つめながら祈っていた。と、少女の視線に気付いて、 「・・・今・・・神様とお話していました。」 と言った。少女は、あっ、と目を輝かせ、うんうんと頷いた。少女もこうして空を見つめて、神へ問うことがあるのだろうか。 「もっとも、一方的に話していただけで・・・答えは頂けませんでしたが。」 と言うと、意外にも少女は、プッ、と吹き出したのだ。 「あなたもですか?」 と、訪ねると、少女は可笑しそうに、また、うんうんと頷いて、 「きっと、もっと不幸な人達を勇気づける為に、お忙しいのかも。」 と答えた少女が、ふふふ、と笑い声を洩らした。その軽やかで可憐な笑い声に、全身が鳥肌立つほどに感動した。 「・・・ええ。・・・きっとそうですね。」 昭彦はそう同意しながら、これまで長い間、一度も答えを返して貰えないほどに、忙しいだろう神の姿を想像すると、何だか可笑しくて、答えを求め続けていたことがどうでも良くなってしまった。自分はまだ幸福の部類なのだろう、と思えてくる。そして、その証に、この少女と出会えたのだ。 「あなたのお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」 昭彦が問いかけると、少女は恥ずかしそうに、 「・・・子猫です。」 と答えてくれた。 それからしばらく、子猫が鳩を眺めていたベンチに座って、『ガリバー旅行記』についての説明をしたり、アニメ映画の話をしたりした。途中、子猫が洗濯物を乾燥機に移すことを忘れていたと、慌ててランドリー室へ行くのに付き合ったり、またベンチで話したりして、楽しいひと時を過ごした。 話を聞いて頷いていることが多い子猫だったが、ちゃんと時間をかけて聞いてやると、自分なりの考えや意見が言える子なのだということに気が付いた。ただ、周囲の、時間と競争するような忙しさの中で、強い感情をぶつけてくる人達が耳を傾けるには、弱々しいたどたどしい話し方がうっとおしいのだろうと思ってしまって、何も言えなくなるのだということがわかった。 昭彦は何度も、 「大丈夫だから・・・話してください。」 と促し、ゆっくりと待ってやりながら、子猫と会話してやった。そうして、風が出てきて空気が冷たくなってきたことに気が付くまで、穏やかな幸せな時間が過ぎていった。 昭彦は子猫を病室まで送ってやり、明日また話そう、と約束して、幸せな気分に包まれて自分も部屋に戻っていった。 |
| <*4*> 「ひとつのけじめ」 |
<*4*>「ひとつのけじめ」 子猫を守ることに決めた。 お忙しい神に許しを請う必要はない。自分が守ると決めたらそれでいいのだ、と昭彦は納得した。 だが、問題は二つある。 一つは、守る者は弱くてはならない、ということだ。 負け犬でいては守ることが出来ない。強く逞しく頑丈なバリケードとなるには、力と金が必要なのだ。綺麗事を並べて澄まし顔をする連中の説教を聞く気はない。散々地獄を見てきた自分が、これまでの人生で得た教訓を、常識顔の奴等に意見させはしない。もし、御託を抜かすなら、正義面の裏側を暴いてやってもいい。 そして、もう一つは、春江のことだ。 春江には何の罪もない。むしろ感謝しても、し尽くせないだろう。男に尽くしては裏切られてきた女だった。それを、自分も裏切るのかと思うと罪悪感を感じない訳にはいかなかった。せめて、娘二人に対しての父親としての責任を持ち続けてやることしか、出来ないだろう。気持ちを変えることは出来なかったが、どう話せばいいのか、別れる理由が見つからなかった。 外出許可を貰った昭彦はマサが組長をしている岡田組を訪れた。 「ご苦労様っす!」 顔を見るなり、事務所の若衆が驚きの中に畏敬の念を込めて声をかけてくる。彼等には昭彦は憧れと崇拝の対象だったのだ。 「叔父貴!お久しぶりっす!」 目を輝かせた若頭が駆け寄ってくる。 「おう、かしら。元気そうやの。」 「入院されてたとお聞きしてましたが、親父から見舞いは禁止や、と言われておりましたので、伺えもせず失礼しました。」 「クックッ。マサの言う通りやで。病院にぞろぞろ来られたらたまらんで。」 「けど、そう言っている親父が毎日のように行ってるんすからズルイっすよ。・・・それで、もうお体の方はよろしいんですか?」 「じき退院やで。心配して貰うほどのことでもあらへんのや。」 「そうっすかぁ。いやぁ、たいしたことでなくて良かったっす。」 マサの組の若頭は心から嬉しそうに笑った。 そうこう話す内にマサが出迎えに降りてきた。 「おいおい、お前等。ドクターをいつまでも足止めしてんやないで。」 マサは睨みを効かせて文句を言った。 「まあ、ええやないか。ホンマにここへ来るのは久しぶりやで。」 「用があったら伺いやしたのに。」 「病院ではちーと話せんことやで。」 そう言って目配せをしたので、マサは頷いてまた二階へと上がっていった。 小さな所帯の組長室は、やはりこぢんまりとしていたが、意外と光り物が好きなマサらしく、金ぴかな物が所狭しと飾られている。 「なんやぁ?しばらく来んかったら、また光り物が増えたんやないかぁ?クックククッ。その内、頭の方が光り出さんといいけどな。」 昭彦がソファーにゆったりともたれながら言うと、マサは目を眇め、 「ホンマに・・・元気になったと思うちょったら、そーゆー嫌味を・・・」 と言ってから、嬉しそうな笑顔になった。こうした強気にからかってくる昭彦を見るのは、本当に久しぶりだったので、以前の輝きを取り戻しつつある様子が、涙が出るほど嬉しかったのだ。 「ほいで・・今日はどんな話でっか?」 マサはマメに自分でお茶を入れて、昭彦の前に出しながら聞いた。 「ああ・・・実はなぁ、退院したら一人暮らしをしよ、思うとんねん。」 「そうでっかぁ。」 やっぱり、とマサは思った。昭彦のあの少女への執着を思うと、春江との同居を続けるのは無理のように感じていたのだ。 「わし、一人で暮らせたらええで、小さいアパートで構へん。適当に探しといて、出たらすぐ暮らせるようにしといてくれや。」 「へぇ。承知しやした。・・せやけど、いずれ女と暮らすならマンションの方がええんとちゃいまっか?」 マサに言われて、昭彦は頬杖をついて考え込んでしまった。 「・・・わからへん。・・・子猫は妹みたいな子なんや。守ってやりたい、っちゅう気持ちはあっても、わしが触れたらあかん子のように思うてまう。」 「そないなもんでっしゃろか?そしたら、女は他で付き合う言わはりまっか?」 「女はもうええ。飽きたわ。」 「ヘッヘッ。モテると言うことが嫌味でんなぁ。」 「アホ。女なんちゅうもんは、本気になろうと努力しても、いっつも裏切られるし、懲りたんや。・・・そりゃ、春江はええ女やけど・・・人ひとり、命がけで守りたいて思うたら、他へ気を回す余裕はあらへんやろ?けど、触れることも出来ん恋、なんちゅう甘い台詞は、わしには似合わんで、飽きたちゅうとくのや。」 「そうでっかぁ・・・」 マサは自分にも注いだお茶を啜りながら、湯飲みにため息をこぼした。 「春江はんもええ人やが、ボスの代わりにはなれんかったんでっしゃろなぁ。」 昭彦はお茶を飲みながら眉をひそめた。 「・・・兄さんは兄さんやで、今も尊敬しちょるで。」 「そうでんな。済んまへん。余計なこと言うてもうて・・・」 「それより、5年も不味い飯喰うて、狭いとこにおったで、体がなまってもうた。落ちた体力取り戻さんと、聖騎士にはなれんでな。兄さんを見習って、ジムとサウナで体力つけなならん。」 「ヘッヘッヘッ。そら、ええこっちゃ。」 「マサも酒ばかり飲んどらんと、付き合え。クククッ。」 「・・・へへ・・急な運動も体に悪い言いまんがな。」 「わしがトレーナーについたるで心配あらへん。40になったばかりで老けたこと言うてたら、兄さんに笑われるで。兄さんより年下のクセして、10も年上に見えよる。リフレッシュして若返りせな、女にモテんでぇ。クックックッ。」 「へぇへぇ、やりまんがな。やればええんでっしゃろ?」 マサが渋い顔をしたので、昭彦はクスッと笑いをこぼし、澄ました顔でお茶を飲んだ。それから、真面目な表情になり声を落とすと、 「それとな・・・マサには近い内に中国へ行って貰うわ。」 と言った。マサも神妙な顔になって身を乗り出した。 「それは・・・周大人に会えと言うことでっしゃろか?」 「うむ。前からいつでも取引してくれるて言うてたで、本腰入れて始めよう、思うちょるんや。せやけど用心深いで、一度では会うてくれんやろ。何度か連絡係と会うて信用させなならん。周の腹心の冥龍っちゅう男が会うようになれば、信用されたちゅうことで周にも会わして貰えるようになる。取引の話は直接周とせなあかん。手間はかかるが、一度信用されれば後が楽やでの。」 「わてでその役目が務まりますやろか?」 「大丈夫や。周には電話しとくで。クックックッ。」 マサは、はぁ?と狐につままれた顔をした。 「それやったら直接ドクターが頼まれたらええでんがな。」 「電話では出来ん取引や。それに、冥龍を無視していきなり周に頼むと、嫉妬するで用心せな。冥龍も陰険な怖い奴やで、顔立ててやらんと根に持たれたらたまらんでのう。」 「陰険でっかぁ・・・」 「何しろ、向こうにいた頃、散々イジメてやったで、恨んぢょるかも知れん。」 「・・・ドクター・・・」 「せやけど、一番怖いのは周やでのう。人が悪魔より恐ろしいもんやっちゅうのを教え込まれたのは周やったで・・・まあ、喰われんようにな。あ、マサは固くて喰う気も起きんか。クックックックッ。」 色々昭彦からの話を聞いているので大体の想像がつくマサだったが、急に忙しくなって頭が混乱しそうだった。それでも、血が騒ぎ気分が高揚してくるのが楽しかった。やはりドクターはこうでなければ、とまた嬉しさに笑いが込み上げてくるのだった。 これで、一つ目の問題は何とかなりそうだ。周凰明との取引が始まれば、そこから捻出される利益は膨大なものになる。ついでに漢方薬も取り寄せることにしよう。自分が健康で体力もなければ戦士にはなれない。基本的なストレッチはしていたから、足腰が弱るほどには体力も落ちてはいないだろう。 残った問題は春江との事だ。昭彦は、春江に電話して落ち合うことにした。喫茶店で待っていると春江が通りを歩いてくるのが見えたので、席を立って精算をすることにした。レジで支払いをしている時に春江が店に入ってきたので、そのまま肩を抱くように店の外へ出た。 「え・・昭さん?」 「ホテルへ行こう。」 昭彦が軽く笑みを浮かべて言うと、あら、と顔をした春江がはにかんで頷いた。 40歳を過ぎても張りのある滑らかな肌をしている。贅沢はしない女だが、月に一度はエステへ行ったり、水泳教室へ通ったりと、昭彦には見せない部分で美しさを保つ努力をしているようだった。 胸を揉んで乳首を強く吸うと、 「あ・・・昭さん・・・」 と身を仰け反らせる。2週間ご無沙汰だったから感じやすくなっているようだ。大輪の花弁は蜜を溢れさせて、いつでも受け入れようと待ち侘びている。今日はじらせたくなくて、すぐに長く太い肉棒で子宮をいっぱいに押し広げてやった。 「あぁ・・・昭さん・・・ああぁぁ・・・嬉しい・・・」 春江は足を腰に巻き付け、背中にしがみついてくる。 グチュ、グチュ、グチュ、グチュ。 リズミカルに突き上げて肉襞を擦り上げる。春江はよがって甘い息を吐きながら喘いでいる。普段は娘達が出掛けた後で抱いてやっていた。それでも、時々、昭彦が仕事から帰るなり欲しがって甘えてくることがあって抱いてやると、声を必死に堪えながら腰を振ってよがっていた。 「ああぁ・・・あぁん・・・ああぁぁぁ・・・」 それほど声をあげる女ではなかったが、ホテルというせいもあってか、今日はかなり高い喘ぎ声を出している。ズンズンズン、と奥に強く当てて突き上げると、 「ああああぁぁ・・・昭さん・・・昭さん・・・ああぁぁ・・・」 と切なくすすり泣くような声で名を呼び、背中に爪を立てる。 「春江・・・いい女だ・・・」 髪を乱して感じている。キスをして髪を撫でてやると、切なそうな目の春江と視線が絡んだ。 「・・・ゴム着けないとな・・・」 昭彦は視線を反らして、一度体を離した。用意しておいたコンドームの袋を開けようとした時、 「昭さんの・・・飲ませて。」 と、春江が男根にしゃぶりついてきた。 チュップチュップチュップ。 無心に首を振って吸い上げながら扱く春江を、昭彦は優しく見守りながら髪を撫でてやった。 好きにしてええで。今日は気が済むまで抱いてやるて決めていたんや。嫌うて別れるんやない。年上やからて、いつも気にしちょったが、その辺の若い女よりずっとええ女や。年上だからでも、飽きたからでもないんや、ちゅうことは分かって欲しい。 昭彦が済まないと思いながら、髪をなで続けていると、くわえたまま顔をあげた上目遣いの春江と、また視線が合ってしまった。が、今度は昭彦も逃げずに見つめ返してやった。春江は悲しげに眉を寄せると、またうつむいて夢中でしゃぶり始めた。 一度春江の口に射精した後、昭彦は春江が歓喜の声をあげ、陶酔の中で悶絶するまで抱いてやった。 昭彦の胸の中で春江が気が付き、 「・・・昭さん・・・」 と、切なそうに言った。 「・・・済まない。・・・言葉にする前に気付かせてしまって・・・」 昭彦が静かにそう言うと、春江は昭彦の胸に顔を隠すように押し当て、体中を小刻みに震わせて泣き出した。 昭彦は何も言えなくなってしまった。生活費を続けて援助することや父親として娘達のことは気遣ってやる、という事務的な話は今する必要はない。男と女の関係にけじめをつけるのだ。何の落ち度もない女を捨てる時ほど、後味の悪いものはなかった。 それでも、これまでは他の女を好きになったと言えば済んだ。新しい女を外に待たせて別れ話をしたこともあった。泣いて縋り付き抱いてと迫られて、つい抱いてやってしまって、外の女が逆に泣き出すという経験もした。・・・こんな自分、善人ぶっても今更なのだが・・・。 春江は静かに泣き続け、それからようやく顔をあげると大きく息を吐いた。 「・・・わかりました。・・・今までのお心遣いに感謝しています。子供達にも優しくしてくださって、ありがたいとずっと感謝してきました。・・・どうか、これからは御自分の幸せを一番に考えてください。・・・一緒に過ごせた日々、本当に幸せでした。・・・ありがとう・・昭さん。」 昭彦は思わず強く抱き締めていた。 「・・・春江・・・済まない・・・」 春江は昭彦の胸に頭を乗せたまま、小さく首を振った。 「私こそ・・・女になりきれなくて、ごめんなさい。・・・昭さんが、結婚しよう、って言ってくれた時、反対する娘を押し切れなかった。・・・母親としての部分がいつも勝ってしまって・・・昭さんには申し訳ないって思ってました。」 「・・・私は・・・そんな君だから、一層好きだったのだと思うよ。」 昭彦は優しくそう言って、背中を撫でながら、髪にキスをした。 それからまた、しばらく春江は泣いていた。涙が枯れる頃、再び抱いてやった。労るように慈しむように、優しく甘く、激しく狂おしく。 夜遅くなって、春江をアパートまで送り、後のこともちゃんと面倒見るからと言い聞かせて、病院に戻ってくると、フェラチオをした看護婦が拗ねたように睨んでから、 「門限違反ですよ。」 と言って腕を抓っていった。勝手にフェラチオしたくせに、それだけで恋人気取りもないだろう、と思いつつ、子猫はいい子で寝ただろうか、とあの透き通った眼差しを思い浮かべながら自分の病室へと戻っていった。 |
| <*5*> 「料理」 |
<*5*>「料理」 朝、新聞を買いに1階へ行き、総合センターの待合所で、新聞に目を通しながら、子猫の観察を頼んである女性からの報告を聞くことにしていた。昭彦がいつもの場所へ行くと、その女性が落ち着きのない様子で待っていた。どうかしたのかと聞いてみると、子猫が昨日の夕方からICU(集中治療室)へ入っていると言う。昭彦は耳を疑った。ICUと言えば、緊急の治療が必要な患者が入れられる場所じゃないか。怒りそうになるのを何とか押さえて理由を尋ねた。 女性の説明によると、昨日の昼食で銀ダラの煮付けが出たのだが、子猫は途中で生っぽいと言って食べられなくなったという。お茶やコーヒーで口直しをしていたが、どうしても我慢出来なくなってトイレで吐いてしまったらしい。それから吐き気が止まらなくなり、何度もトイレとベッドを往復していたが、貧血と呼吸困難を起こして意識をなくしICUに運ばれたのだということだった。 昭彦はしばし呆然として、額に手をあてて項垂れたまま何も言えなくなってしまった。昨日午前中に子猫と会った時には、昭彦の話に控え目ながらも楽しそうな笑顔で頷いていたのだ。その銀ダラの煮付けは、外出した昭彦は口にしていなかった。偶然とはいえ、自分が春江と会っていた時に、子猫が苦しんでいたという事実が、自分の罪のように思えてしまう。しかも、そのことを知らずに今朝までのんびりしていたことが悔しかった。 報告した女性と別れてから、自分の病室へ戻る前にICUへ行ってみたが、中の様子をなかなか知ることが出来なかった。受け付けの女性は、家族以外の面会は禁止です、と言ったきりそっけない。それでも、どうにか様子を知りたい昭彦が粘っていると、丁度中から看護婦が出てきたので様子を尋ねると、今は落ち着いているので、午後にはまた普通の病室に戻れるだろう、と教えてくれた。それだけでもわかって、ほっと胸を撫で下ろした昭彦は、どうにか気持ちを宥めて自分の病室へ戻った。 午後、二度ほど子猫の病室を覗きに行ったが、まだ戻っていなかった。三度目に行った時、クリーム色のカーテンがそこだけ囲んであった。子猫が中にいる。そう思うともう我慢が出来なかった。昭彦は、そっとカーテンに近付いて中の様子を伺った。点滴をしながら眠っている子猫以外は誰もいなかった。昭彦はカーテンで仕切られてる中に忍び込んだ。 作り物の人形のように白い顔をした子猫が目を閉じている。微動だにしない様子に不安になって、頬を子猫の顔すれすれに近付けると、弱々しい息が頬にかかった。間近で見る肌は肌理の細やかさが一層際立って輝いているようだった。小さめの唇の赤味があどけなく、触れてみたくなる思いをようやく押さえて、昭彦は顔を離した。 点滴をしている方の腕が袖を上げたままになっていた。青白く血管が透ける細い腕が痛々しかった。点滴針は固定してあるのだから必要な時以外は袖を下ろしていてもいいはずなのに、と看護婦の不親切さにムカつきながら袖を下げてやり、毛布をかけてやった。それから折り畳みのイスを静かに開いて座った昭彦は、子猫の寝顔を見つめた。 屋上で子猫に気付いてから二週間。こんなに長く感じた二週間はなかったかも知れない。それほどに子猫のことばかりを考えて、様々な思いと葛藤が錯綜していた。そして、確実に子猫への想いは、変えようもなく強いものになっていたのだ。 カルテで知った年齢は16歳。高校一年生だと言うが、とても高校生には見えなかった。こうして眠る静かな顔を見ると、童顔なのではないことがわかる。女性としての美しさを形成しつつある歳相応の顔立ちなのだ。だが、瞼を開けて透明感のある大きめの目が現れると一気に幼くなる。頼りなげな不安そうな影が移ろい、脅えたように目を伏せる様子は小学生のようでさえある。それでも、話を熱心に聞いている時の眼差しは夢見るようにキラキラと輝いて、話の先を忘れてしまいそうになるほど引き込まれる雰囲気があった。 陵辱される恐怖も消えて、明るさが出てきたと思っていたのに、まだ拒食症は治らなかったのだろうか。だいたい、病院のお粥はくさいお湯の臭いがして不味すぎる。あんなものではどんなおかずも不味く感じるだろう。薄い味付けは魚には向かないし、老人食のような刻んで煮込んだような物では、食欲を出せという方が無理がある。自分が料理してやれれば、もっと栄養価があって食が進むものを作ってやれるのに。それでも、普通は病院の不味い食事を補うように母親が食べ物を差し入れするのが子供への思いやりだろうに、あの母親ではそんなことは考えもしないだろう。女の権利を主張する影で、子供の心はないがしろにされていく。もっとも、子猫の場合は父親がいないのだから母親にしても苦労が多いのだろうが。 昭彦は飽きることなく子猫の寝顔を見つめていた。 と、突然、隣りの患者が大きなくしゃみをした。立て続けに数回くしゃみをして、大きな音を立てて鼻をかんだ。チッ、もっと気ぃ使うて鼻かめや!と昭彦は腹立たしく、心で舌打ちをした。 子猫の睫毛が震え、それからゆっくりと目が開いた。カーテンを通しての光は柔らかく、それほど目を刺激せずにすんだようだった。子猫はぼんやりと虚空に視線を投げたまま静かに深呼吸をした。そして、しばらくぼんやりしていたが、ふわっと視線が動いて、座っている昭彦を捕らえ、あっ、と口が開き目が大きくなった。 「…ぁ… …ぁ…の…」 声にならない掠れた言葉に、昭彦は優しく微笑みかけ、 「水、飲む?」 と聞いた。子猫は申し訳なさそうに小さく頷いた。昭彦は置かれてあった水差しにペットボトルの水を少し入れて、子猫の口元に持っていってやった。唇がわずかに開かれたので、水差しの吸い口を含ませてやった。傾けると水が流れ込む。喉が動くのを確認しながら、少しずつ飲ませてやった。 子猫が目で、もう大丈夫、と合図したので、昭彦は水差しを棚の小さな台に戻した。 「済みません……約束していたのに……」 子猫は今日の午前中に約束していて行けなかったことを謝りたかったらしい。昭彦は、自分の状態よりも人を気にしてしまう子猫がいじらしく、悲しかった。首を振り、 「気にしなくていいから。」 と、髪を撫でてやろうと手を伸ばしたが、寸前で思い留まり、行き場を失った手で枕元に置いてあったタオルを拾った。 「冷やす?・・濡らして絞って来ましょうか?」 言い訳のように言った言葉に、子猫はそっと笑みを浮かべ、小さく首を振った。 「それ・・・また吐き気が起きた時用なの・・・」 「あ・・・そうか・・・」 昭彦はタオルを戻して、苦笑した。考えてみれば、むしろ体温の低さを血の気のない顔が物語っているのに。 「病院の食事は不味すぎますね。」 子猫はそれには返事をしないまま、弱々しい笑みで、 「・・・銀ダラ・・・好きなんだけど・・・昨日のは合わなかったみたい・・・」 と仕方なさそうに言った。長期入院を繰り返している子猫は、不平を言うことさえ忘れているようだった。 「食べられない物は無理して食べることはないんですよ。」 子猫は、え?、と意外そうな顔をしてから、可笑しそうに微笑んだ。昭彦は悪戯っぽい目でウィンクした後、チラッとペットボトルの水を見て、 「その代わり、水分を摂るならポカリスェットの方がいいと思いますよ。」 と言った。 「・・・ポカリ?」 「ええ。ポカリの成分は点滴と同じですから。でも濃度は何倍も濃いし、胃に入れるから胃酸を弱めてくれます。そして何より、糖度が高いから体を温めてくれるエネルギーになるんです。」 子猫は感心したように頷くと、 「はい。今度からそうします。」 と答えて、笑った。無邪気な愛らしい笑顔に昭彦も笑みを返した。そして、 「私が退院したら、手料理を持参しましょう。」 と言うと、子猫の顔から笑みが消えた。見る見る目が潤んでいく。急に不安が広がって、迷子になった幼子のようだった。別れ話を切り出した女さえ、これほど悲しげな目はしなかったように思う。女達の悲しみの眼差しの奥には、恨みや怒り、でなければ諦めがあった。 「いや・・・だから・・・毎日、料理を差し入れにきますよ、って意味で・・・」 昭彦は焦って全身から汗が噴き出しそうだった。 「毎日、顔を見にきますから・・・」 子猫の目から涙が零れ落ちてしまった。子猫はそんな顔を見られたくないのか、毛布を顔まで上げて隠れてしまった。 「あ・・・いや・・・」 どう言えばいいのだろう?毛布をつかんでいる子猫の細い指先が、不安な心を写すように震えている。もう、これっきりだと思わせてしまったのだろうか?そんな風には言わなかったはずだが・・・。 「夜の仕事だから昼間は余裕があるんです。ですから、これまでと同じように、午前中に会いに来ますよ。」 ・・・返事がない。 「私は料理が趣味なので、不味い料理には対抗したくなるんです。特にここのお粥の不味さは最悪です。それに、量が食べられないのにお粥では益々栄養が摂れなくなってしまう。私の料理であなたを元気にしたいと思っているんです。」 毛布が少し動いて、毛布を包んでいる白い綿のカバーで目を擦っているのがわかった。それから、目元までが現れた。昭彦がほっとして微笑みかけると、不思議そうな眼差しで見つめる。 「…どうして?」 小さな声が毛布を通して聞こえた。 「・・・そうですね・・・私にも体の弱い妹がい・・るんです。」 過去形で話したくなかった。縁起の悪い未来を暗示させてはいけない。 「あなたを見ていると小さい頃の妹のように思えて、放っておけなくなるんです。こちらの勝手な思い込みを押しつけるのは失礼かとも思うのですが・・・」 子猫の目に拗ねたような色が浮かぶ。それから視線を反らすと目を閉じてしまった。え?、っと昭彦は動揺した。 どうゆうことや?妹と言うたのが気に入らんかったんか?けど、なんでや?・・・まさか・・・わしを好きになっとるっちゅうことか?!なんちゅう惚れっぽい子やねん!・・・いや、わしも人のことは言えんが・・・いやいや、わしがこの子に惚れたんは運命やったんや。他の女にこんなに簡単に惚れたりはせんで。・・・せやけど・・・この子がわしを好きやとしたら、どないしたらええんや。触れないままでも見守れればええ、て思うちょったんや。だいたい、わしはこの子の倍以上の年齢やで。 昭彦は恋愛関係になるのは難しいと心に言い聞かせながら、股間のモノに血が集中していくのを感じて、再び全身で汗をかいていた。 「・・・得意な料理のジャンルは選びません。何でも好きな物を作ってあげますよ。いかがですか?私の料理を食べてみたくなりませんか?」 動揺を隠してさり気なく言うと、顔を横に向けて目を閉じていた子猫が、少し目を開けて、横を向いたまま昭彦に視線を投げた。 うっ!と、昭彦の心が呻いた。ドクドクドク、と心音が聞こえてきそうな高鳴りを始めた。なんちゅう色っぽい目をすんねやぁー!と頭で叫びながら、その幼い顔から投げられた妖艶な視線に、魔性の淫獣の匂いを嗅ぎ取っていた。・・・わしは、とんでもない子を拾うたのかも知れん。もとより命の全てをかけて守ってやると決めてはいるが、それは理性で判断した結論や。けど、魂まで吸い尽くされて・・・わしはこの子に狂うかも知れん。・・・狂うてもええ。・・・ただ、今はあかん。こんなに弱り切っていたら、この子の魔性がこの子の魂を喰い滅ぼしてまう。体力ついて、心身ともに元気にさせんことには、迂闊に手ぇ出せへんで。 この時から、昭彦の修行僧並みの忍耐と辛抱が始まるのだが、そんなことは知らない子猫は、 「…料理…食べたい……」 とあどけなく答えた。昭彦は穏やかに微笑みながら、このあどけなさも請うるような眼差しも魔性故なのだと納得していた。 |
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