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| <*6*> 「昭彦の退院」 |
<*6*>「昭彦の退院」 昭彦が退院した。 マサが新しい住まいであるアパートを用意しておいてくれたので、案内もかねて迎えに来た。昭彦は子猫に会っていこうかと迷ったが、結局会わずに朝早い内に病院を後にした。 アパートは昭彦がマスターをしている店からはそう遠くない場所にあった。 「こんなとこくらいしか見つからへんで済んまへんなぁ。」 と、部屋の鍵を開けながらマサが言った。 「歩いて仕事に行けるんは助かるで。ご苦労様やったな。」 昭彦はドアの前から周りの景色を見回した。 「さぁさぁ。寒いでっさかい中に入っとくれやす。」 「マサ。いつまでも病人扱いはすんなや。」 昭彦は苦笑しながら部屋に入った。 入ってすぐに台所があって、いくつかの食器と鍋が食器カゴに伏せてあった。すぐに使えるようにと、一度洗っておいたのだろう。さりげない心遣いにマサの性格が滲み出ている。迎えに来る前に寄ってお湯も沸かしておいたようで、マサは部屋に入るとすぐにお茶の用意をした。 部屋にはエアコンがついていて、すでに暖かくなっていた。 「二間も必要なかったけどなぁ・・・」 襖で区切られたもう一つの部屋を昭彦が覗くと、すでに大きめの布団が敷かれてあった。 「疲れたら休んどくれやっさ。退院したばかりでんがな。無理はあきまへんで。仕事かて急がんかてええんです。・・・ちゅうより組に戻らはるんが一番やと思いますけどなぁ。」 「今はまだ時期やない。例の取引が出来るようになってからや。今、戻ってもわしには何の価値もないで、組に戻ってもやっかい者や。戻る時は必要とされて戻らな意味ないがな。」 昭彦はマサが茶の間のテーブルに置いたお茶を啜りながら言った。マサも向かいに座ってお茶を啜った。 それから湯飲みを置いた昭彦は声を落として言った。 「で、いつ行けるんや?」 「近い内には行ってまいります。」 マサも声を低め、顔を近付けて答えた。 「そうか。頼んだで。・・・あ、そやそや。」 昭彦はポケットから折り畳んだ紙を取り出してマサに渡した。全て漢字で書かれた文字が箇条書きのように並んでいる。 「これは何でっか?」 マサは眉を寄せ、紙を逆さにしたり斜めにしたり透かして見たりしていた。 「クックックッ。アホ。暗号文やないで。漢方の材料や。周にすぐに会えんでもええから、帰りにそれを買うてきて欲しいんや。」 「ああ・・・漢方薬でっかぁ。」 マサは照れたように笑って頭を掻いた。 「あの子への料理に使うてやろう思うてな。」 「・・・惚れ薬でっか?」 「わしには必要あらへん。」 「でっしゃろなぁ。今かてモテすぎて困ってはるくらいやで。ヘッヘッヘッ。」 「今は恋愛出来る状態やないんや。それより早く体を丈夫にしてやりたいねや。」 「病院で薬飲んどるんとちゃいまっか?」 「科学的な薬と漢方のような生薬は働きが違うんや。」 「ほう?」 「病院で出す薬は主に器官に働きかけるもので、血管を広げたり、肺呼吸を楽にしたりと言った類の物が多い。生薬は血を綺麗にして流れをスムーズにさせる効果が高い。・・・川かてそうやろ?いくら河川の設備を良くしても水が汚れてたら、その水で潤う田畑も森も育たんで。」 「なるほど・・・」 マサは感心して頷いた後、にやにやと笑った。 「果樹園も綺麗な水で美味しく熟れた方がええですわなぁ。ヘッヘッヘッ。熟れた美味しい実を食べるんが楽しみでんな。」 「アホ。まだそないなことまで考えられへん。」 昭彦は目を眇めて、またお茶を啜った。 それからしばらくは話題を変えて周関連のことを指示した昭彦は、 「春江のとこもたまに見てやってくれ。わしが直接行く訳にはいかんでな。」 と言った。 「へぇ、わかっとります。」 「頼んでばかりで悪いが・・・」 「構しまへんがな。わてはドクターの駒でっさかい、好きに使うてくれやす。」 マサは嬉しそうに笑って、昭彦に眩しそうな目を向けた。 出会って十数年。いつ見ても綺麗な男だと思う。見た目だけではなく、全てが綺麗でたまらなく好きだった。 「なんやねん?」 昭彦はマサの視線を煩そうに睨むと、頬杖をついた。テーブルの上にあったTVのリモコンを操作してTVをつけた。画面を眺める横顔もまた綺麗だった。 「そう言えば、わてがドクターに出会うたんは、ドクターが中国から戻った頃でしたなぁ。チンピラやったわてを竜崎のボスが拾うてくれはったんはドクターの留守中やった。・・・ボスがええ人やっちゅうんはわかっちょったけど、わてには眩しすぎて近付けんかった。で、禁止されとったのに薬に溺れて・・・ボスからは逃げ隠れしながら薬買うのに必死になってもうて・・・わてが溺れるほどに値を吊り上げてた売人グループと殺り合って・・・この醜い傷を作ってもうたんでしたなぁ。」 「クックックッ。ゴミ置き場で土砂降りの雨の中、血まみれ泥まみれで捨てられちょるのを見た時はデカイ捨て犬やと思うたで。」 昭彦はTVの画面を眺めながら言った。 「へぇ。あん時、わては命も魂もドクターに拾われたんですわ。どないなことかてしますがな。」 「放っとけ、言うてもしつこいで敵わん。逆恩着せがましいちゅうんや。」 「惚れちょりますで、しょーがあらへんでっしゃろ?ヘッヘッヘッ。」 「・・・抱かんで。」 「ア・・アホなこと言わんといてくれやっさ。わてはケツの穴は小さいですよって。」 昭彦がジロッと視線だけマサに向けた。 「ちゃいまんがな。意味がちゃいまっせ。」 マサが慌てて言い繕うと、 「フン。嫌味に聞こえるで。」 と、不機嫌そうに、また視線をTVに戻した。 「そら、介抱されちょる時は・・・正直言うたらドクターに恋しちょったかも知れまへんけど。・・・何しろ、わての体が回復して、傷もふさがって、薬も完全に抜けるまでの一ヶ月間、あない綺麗なドクターが24時間付きっきりでいてくれはったで・・・惚れるなっちゅう方が無理だっせ。・・・せやけど、竜崎のボスに詫び入れるのに、組事務所へ行ってボスの目ぇ見たら・・・肝が心底冷えてもうたですわ。手ぇ出してへんやろな?っちゅうて、わてを睨んだボスの目は地獄の閻魔さんのようでしたわ。」 「せやろ?・・兄さんは怒ると怖いで、せやからわしは逃げたんや。」 「よう、言いまんなぁ。ドクターがボスを怖がったことなんて一度もないでっしゃろに。ボスかてドクターにはあんな目はしたことないんとちゃいまっか?」 「・・・どうでもええがな。それよりいつまでおるんや?」 昭彦はため息をついてTVを消した。 「わてが見ちょらんと、すぐ無理されますがな。今日くらいゆっくり休んで貰わんと、わての方が気が落ち着かんであきまへん。」 「難儀な奴やなぁ。」 昭彦は寝転がって腕を後ろで組んだ。 しばらく黙って天井を眺めていた昭彦は、 「せやけど、買い物して来んとな。今日からでも料理の差し入れしてやりたいで。・・・寂しがると何するかわからん。心配やでの。」 と、呟くように言った。 「隣りの年寄りにつけてやった付添婦がちゃんと様子見ちょりますで心配あらしまへんで。看護婦も数人買収してますし、もう近付ける奴はおらんでしょう。」 「それはわかっちょる。・・・けど、問題なんはあの子の気持ちや。」 「気持ちでっか?」 「わしには心を開いてくれちょる。」 「ほうほう。それはええことでんがな。」 「せやけど・・・他には心を閉ざして殻に籠もっちょるんや。」 「そうらしいですなぁ。」 「マサはあの子に会うたんか?」 「チラッと見たくらいですわ。けど、どこも見ちょらんようやったで、わてに気付くことはないでっしゃろ。」 「そうゆうこっちゃ。・・・あの子は誰も何も見ようとせんのや。生かされちょるものの、自分で生きようっちゅう気力があらへん。あのままでは治るもんも治らんようになってまう。」 「・・・わてもそうでしたなぁ。・・・それにドクターも・・・」 「わしは生きる目的を見失っとっただけや。・・・まぁ、捨てられとったマサも拾うた時はそうやったかも知れんが・・・けど、マサには世の中全てへの憎しみがあったで、それが生きるバネにもなっちょったちゅうこともあるやろ?」 「へぇ。」 「・・・あの子からは・・・そうゆうものが何も感じられへんのや。・・・一体何があの子を・・・あんな悲しい子にしてまったんやろ。」 「調べまひょか?」 昭彦は少し考えてから、 「いや。ええわ。わしが少しずつ聞いて受け止めてやりたいでの。」 と言うと、目を閉じた。 「ドクター。あきまへんで。そないなとこで、うたた寝しちょったら風邪引いてまんがな。布団敷いてありますで、そっちで休んでくんなはれ。」 「いちいち・・・ったく・・・」 昭彦は体を横向きにして、ため息をついた。 体力がかなり落ちていると思う。お酒も煙草も嗜まないのに、肝臓を始めとする内蔵が予想していたより弱っているのは皮肉なことだ。と言っても原因はムショ暮らしだけではない。中国にいた頃に、漢方だけでなく毒薬の類も研究して、いくつかの毒に体を無理矢理慣らさせたりしていたことが内臓への負担を大きくしたのだ。それでも、自分で管理出来るうちは平気だったのが、刑務所というずさんに管理される環境に長い期間いたことで古傷のように出てしまったのだろう。心配させないようにマサには子猫の為と言ったが、昭彦自身が必要とする生薬もあったのだ。 フワッと肩から腰にかけて毛布がかけられた。 「ほな、中国行きの準備もありますで、一度事務所に戻ることにしますわ。必要なら組の者を自由に使うとくれやす。ドクターの言葉はわての意志やて言うちょりますんで。・・・少しですけど買い物には現金が必要でっさかい・・・足らない分はまた用意させて貰いますで。」 そう言うと、マサは特に返事を待つこともなく部屋を出ていった。 昭彦が起きあがって見るとテーブルの上に百万ほどの札束が置かれてあった。不況に暗く沈んだ世の中で、まして暴力団対策法とやらでやくざには生きにくい状況になっている今、湯水のように使える金がそうそうあるはずもない。マサの組自体小さな所帯なのだ。 「・・・甘えちょるばかりではいかんでのう。」 昭彦はマサの立ち去った部屋で独り言を呟いた。 数日後、昭彦は一千万円ほどのお金をマサに渡し、 「渡航費にしてくれや。」 と言った。マサは目を瞬かせた後で、眉をひそめ、 「ドクター・・・賭け事はせん約束やったんとちゃいまっか?」 と、やれやれとばかりに首を振った。 「チッ・・・いつの約束やねん。アホクサ。」 「せやけど・・・ドクターが荒稼ぎするようになると、関東の方が煩くなりますで。気ぃつけてくんなはれや。」 「今回だけや。わしも少しまとまった金が欲しかったで、しゃぁーないがな。」 「一体いくら稼ぎはったんだす?」 マサの言葉に昭彦は片手を広げて苦笑した。 「・・・五千万でっかぁ・・・はぁぁ・・・いつもながらたいした腕前でんなぁ。」 「これくらい大したことやない。わしかて遠慮しちょるんやで。」 「ヘッヘッヘッ。本気出さはったら際限あらしまへんもんなぁ。」 「後は麻雀とパチスロで小さく小遣い稼ぎでもしちょることにするわ。派手に動くと兄さんが強面作って、内心喜びながら顔出さんとも限らんでのう。」 「ヘッヘッヘッ。ようわかってまんな。」 「兄さんもマサもしつこいで敵わん。」 そう言って苦笑を洩らす昭彦だったが、言葉ほどに迷惑がっていないことはマサにはわかっていた。 一見我が侭で自分勝手に見える昭彦だったが、マサが思う以上に自分を大切に思ってくれていることをマサも、そして竜崎も知っていたのだ。昭彦が自分達を突き放そうとすること自体が、まるで登山で宙吊りになった者が仲間を道連れにしないようにと自ら命綱を切る行為のようなものだった。だからこそ邪険にされても離れたくなかったのだ。 昭彦の側にいることは昭彦の為というより、自分自身の為なのだ。こんなに側にいて楽しい相手はいない。こんなに居心地のいい場所もない。我が侭を言って貰えることが嬉しかった。どやされるのが幸せなのだ。 「地獄の果てまでついて行きまっせ。」 マサは恐ろしげな顔いっぱいに笑顔を浮かべて言った。 マサが中国へ旅だった夜から、昭彦はマスターの仕事に戻ることにした。昭彦の代役をしていたマサの組の若頭が、 「叔父貴、もういいんっすか?」 と、驚いたように言った。昭彦とたいして歳が変わらない若頭の浜田は、崇拝を込めた熱い眼差しで昭彦のスーツ姿に見入っていた。 「マサが心配しすぎなんや。着替えてくるで、そしたら帰ってええで。」 「そんなぁ・・・自分でしたら大丈夫っすから、ゆっくりして下さい。」 「かしらがおるとつい関西弁になってまうで、客が怖がるとあかんしの。」 「そうっすか。・・・わかりました。そう言えば、マスター待ちの女性客がかなりいますよ。モテて羨ましいっす。」 「興味あらへん。客に向けるんは営業スマイルや。」 昭彦は肩をすくめ、奥の部屋へ入っていった。 着替えた昭彦が店に現れると、すでに数人の客がいた。昭彦のマスターとしての服装は、普通白いワイシャツを着るところだが、黒いワイシャツにベストという格好だった。白いワイシャツだと光の加減で彫り物が透けてしまう為だったが、女性客からはその黒尽くめの格好が渋いと人気があった。 「あーん。マスター、ずっと待ってたのよぉ。」 カウンターに座っていた女性が甘えた鼻声で言う。 「いらっしゃいませ。お久ぶりですね。」 昭彦が笑みを少し浮かべるだけで、女性客はうっとりと頬を染める。浜田は苦笑して首を振ると、 「じゃぁ、後はお願いします。」 と、カウンターから出た。昭彦はすれ違う時、 「お疲れ様。」 と言って、札束を丸めたものをポケットに入れてやった。 「あ・・済んません。」 かなりの厚みがあった束に浜田は恐縮しながらも嬉しそうに笑顔を浮かべた。 昭彦がカウンターに入ると、 「随分長い旅行だったじゃない?」 と、カウンターの女性が煙草を取りだしながら言った。 「・・・旅行ですか?」 昭彦はライターで火をつけてやりながら聞き返した。 「あら、違うの?」 女性は煙を細く吐くと流し目で聞く。 「そうですね。・・ちょっと魔界の方へ・・・クックックッ。」 「あー・・・誤魔化してぇ。」 そう言いながら女性はクスクスと笑った。 病気だったとは言えない。入院が知れたら見舞いに来られたかも知れないし、客とはあくまでも店の中だけの付き合いでいたかった。だから、浜田も昭彦は旅行中だと説明したのだろう。が、適当に場所を言ってもお土産がないのは不自然だろうし、適当な言葉遊びで煙に巻くしかなかった。 女性は特に詮索する気もないようで、 「じゃぁ・・・今度魔界へ行く時は招待してね。」 と可笑しそうに言った。 「いいですよ。きっと魔界の鬼達が喜ぶでしょう。」 昭彦はクスリと笑みをこぼし、女性客の注文したカクテルのシェーカーを振った。女性はその姿に、またうっとりと見取れて熱いため息をつくのだった。 |
| <*7*> 「妹から恋人へ」 |
<*7*>「妹から恋人へ」 昭彦が手作りの料理を持って子猫の元へ日参するようになって、すでに十日が過ぎていた。そして、午前と午後の点滴の合間に病室に顔を出し、個室病棟の談話室へ向かうのが日課になっていた。 個室ばかりが並ぶ病棟の談話室はほとんど利用する人達がなかった。大部屋のように他の患者に煩わされることもなく、見舞客も部屋でゆっくり話せるので、わざわざ談話室まで来る必要がないようだった。 この談話室を利用することを、初めは怖がっていた子猫だったが、慣れるとランドリー室の並びにある談話室よりも居心地がいいようだった。特に話だけでなく、物を食べるというのは人の視線があると気になるようで、病室でもなかなか料理に手を出してくれなかったのだ。 それで、どこがいいだろう、と散策してこの穴場を見つけた時には、嬉しさに込み上げる笑みを隠しようがないほどだった。 ここを利用するようになってからは、子猫も少しずつ料理を食べてくれるようになり、ゆっくり会話しながら楽しい時間を過ごせるようになっていた。 だが、この日の子猫の様子はいつもと違っていた。 昭彦がいつものように病室へ顔を出すと、隣りの老婦人の付添婦が軽く頭を下げた。中年のその付添婦は、昭彦が退院してからは、夕方昭彦が仕事へ行く前に電話で子猫の様子を報告してくれていた。昭彦は、子猫が何事もなく一日を過ごせたと聞く度に、ホッとして仕事への意欲が湧いてくるのだった。 昨日も特に変わったことはないと言っていたはずだった。なのに昭彦を見るなり、子猫は毛布を頭から被って隠れてしまったのだ。 「ご機嫌斜めかな?」 毛布の頭の丸みに顔を近付け、昭彦が囁くように言うと、ますます小さく丸まってしまった。 昭彦は折り畳みイスを開いて座り、しばらく様子を見ていたが、子猫は一向に顔を出そうとしなかった。病室の窓の外には暖かそうな秋の陽射しが溢れていた。 こんな様子ではとても物を食べられないだろう、と料理を入れたタッパを棚の小さな台に置くと、 「たまには屋上を散歩してみないか?」 と、声をかけた。 「風もそう強くないし、今日は天気もいい。・・・予報だと明日からはしばらく曇りがちになると言っていたし、今日が絶好の行楽日よりですよ。」 毛布が動いて、子猫がそっと顔を出した。 ずっと毛布を被っていたせいで少しのぼせたような顔になっていた。それでも、大きな明るい目は悲しみ色に潤んでいた。 昭彦は抱き締めたい衝動を押さえ、 「屋上から元町神社の森がよく見えるのを知ってる?」 と、優しく微笑んで言うと、子猫は視線を落として首を傾げた。それから、思い出したように、パッと明るい表情になると頷いた。 「今日、ここへ来る途中、真っ赤に色付いた紅葉に目が奪われました。・・屋上から見えるといいなぁ。」 「…昔…パパと見たことあります…」 子猫が体を起こしながら小さな声で言った。 「じゃぁ、見てこようか?」 昭彦は愛しさに胸を締め付けられながら、足元の子猫のガウンを取ってやった。 屋上はさすがに風がいくらかあって、地上よりも冷え込む気がした昭彦は、持っていたコートを子猫の肩にかけてやった。 子猫は久しぶりの外の空気が嬉しそうで、一画だけこんもりとした木が茂っている場所を飽きることなく眺めていた。深い深緑樹の一部分に広葉樹の枯れ葉が明るい光を反射している場所があって、特に黄色い葉の中央に真っ赤に染まった紅葉が綺麗だった。 これまでの会話の中で、子猫がとてもパパっ子だったことに、昭彦は気付いていた。カルテにも父親を亡くしてから長期入院をしていることが書かれてあった。 辛いことを思い出させてしまっただろうか、と不安を覚えながら、昭彦は子猫の横顔を見つめていた。子猫の眼差しが遠くを見るものから、遠い記憶を辿るような目に変わっていくのに気付いた昭彦は、とっさに、 「あ〜きの夕日〜に〜・・て〜る〜山〜紅葉〜・・・」 と歌い出していた。 きょとん、と昭彦の方を向いた子猫は、クスッと笑みをこぼすと、 「濃いも〜薄い〜も〜・・数〜ある〜中に〜」 と一緒に歌い始めた。 「ま〜つを色〜ど〜る〜・・・」 昭彦は二部合唱になるように低音で合わせるように歌ってやると、子猫はますます嬉しそうにして、小さかった声を低音に引きずられないようにと少し大きめにした。 うろ覚えだった歌詞だったが、歌い出すと自然と出てくるようで、なんとか二番まで歌いきった昭彦は、息を切らせている子猫と顔を見合わせて声を出して笑った。 「…懐かしい…パパともこうしてよく歌ったの。…昭彦さんってパパみたい。」 笑いながら涙を浮かべていた子猫は、大きく息をつくとそう言った。 おいおい。父親はあかんやろ。と、昭彦は内心苦笑し、「ベンチの方へ行って座ろう。」、と子猫を促した。 「スーツの昭彦さんって素敵ですね。」 ベンチに座った子猫はうつむきがちに言った。 「また、父親みたいだ、って台詞は勘弁して欲しいなぁ。私的に君の父親にはなりたくないし、そこまでオジサンに見られてるのはショックだよ。」 「…お兄さん…?」 子猫が真っ直ぐな眼差しを昭彦に向けた。 「まあ、・・・今のところはそれがベストじゃないかな。」 昭彦は微笑みながら軽くウィンクしてみせた。 「…そう…。でも…猫…兄弟いないから、お兄さんって感覚がよくわかんない…」 子猫はまたうつむいて呟いた。 昭彦はさりげなく”今のところ”と言ってやったつもりだったが、子猫はその言葉の意味に気付かないようだった。 つまらなそうなため息をついて、頬を少し膨らませている。 「それが不機嫌の理由だったの?」 昭彦は子猫の顔を覗き込むように近付けた。 と、子猫は何かを思い出したように目を大きくした。 「どうしたのかな?」 子猫が顔を上げて睨み付けるのに、昭彦が戸惑って言うと、 「…看護婦さんが…」 と、言って、みるみる涙ぐんでいく。 「看護婦?・・・イジメられた?」 子猫が首を振った時、涙が飛び散って、降り注ぐ光に反射した。 「それじゃ・・・何があったんだ?」 昭彦が切なそうに眉を寄せて聞くのを、子猫は唇を噛んで迷っていた。 唇に触れて、噛むのはやめなさい、と言ってやりたかった。それでも、子猫には触れないと決めていた昭彦は拳を膝に押しつけて我慢していた。 「…看護婦さんが… … …昭彦さんの… …」 子猫はやっと話し始めた。 話しにくそうなのを、ゆっくり促しながら聞いてやる。そうして聞き出した内容は、昭彦の腸を煮立たせるには充分だった。 昭彦の男根をフェラした看護婦が、退院した昭彦からの誘いがないだけでなく、子猫のところへ差し入れに来ていると知って、子猫に自分が昭彦と関係があるような言い方をしたらしい。特に昭彦の男根の凄さを自慢げに話したというのだ。 「勝手なことを・・・」 昭彦は大きくため息をつきながら言った。 「看護サービスの一環かと思って、フェラされるままになってただけのこと。何の感情もそこには介在しない。」 「…ぅ… … …やっぱ… …したんだ…」 子猫は爪を噛んで、また涙をいっぱいに溜めてしまった。 「あ・・いや、だから・・・罪の意識ちゅうもんは、そこに感情があってこそ生まれるものであって・・・あの行為は単なる排泄介護のような・・・」 言い訳が言い訳になっていなかった。説明しようとすればするほど墓穴を掘るようだった。男性の受取り方と女性では違うこともわかっている。女性にとっては、その行為そのものが許せないのだろうし、まだ恋人ではない子猫に説明するのは、自分の浅はかさを宣伝するようなものに思えてきて、言葉が出なくなった。 「… …いいもん… … …どうせ妹だし…」 子猫が拗ねたように、ポツリと呟いた。 「まいったなぁ・・・最高の誉め言葉のつもりで言ったんだが・・・」 「…妹が?」 昭彦は眉を寄せた顔に優しい笑みを浮かべて頷いた。 「・・・正直言って、私は抱く為だけの女性に困ったことはない。お金を出す必要もない。心も体も目の前に投げ出して跪く女達がいくらでもいる。」 子猫は目を丸くしながらも、そうだろうなぁ、と感心して頷いていた。 「が、すぐに抱くような女は所詮それまでの女なんだ。気持ちがそれ以上になることはない。・・・誠意を尽くそうとしても・・・愛しいと思うことはほとんどない。・・・皆無とは言わないが、それでも抱いた女は私にとっては、どこかで見下してしまう女なんだ。」 「…ヒド…イ…」 「だろうね。」 昭彦はベンチの背もたれに肘をかけて、遠い空を眺めた。 「自分でも優しいとは思っていない。・・・悪い男だと思うよ。・・・それでも、どこかで自分にとって最高の女との出会いはないかと期待してきた。・・・だから試しに抱いてみる。抱いてから失望する。それでも抱いた責任は感じるから誠意は尽くす。女達は私が冷めていることに気付き出す。・・・そこで去っていくか、それでもいいと側にいるかの違いであって・・・私に抱かれて幸せになれた女はいないんじゃないかな。」 昭彦は懺悔するような気分だった。 「…なんか… … …よくわかんない…」 子猫はうつむいて爪を噛んでいる。 「爪を噛まないで。・・・頼むから・・・」 昭彦は子猫に顔を近付けて、息がかかるほどの距離で囁いた。 「… … …」 「君を大切に思っているんだ。・・・その指先さえ愛しいほどに・・・」 「…だって…」 「・・・君に触れるのが怖い。・・・抱き締めてやりたくても・・・壊しそうで・・・自分の穢れを移してしまいそうで・・・」 え?っと子猫は不思議そうに昭彦を見た。 唇が触れそうなほど近くに子猫の無垢な顔がある。男を知っているか、いないかは問題ではなかった。誰も憎めない、嫌えない、弱々しい魂がそこにあった。守ってやりたい愛しい命がそこにあるのだ。 「触れずに守りたい。・・・それが私の最高の女なんだ。」 子猫は思いきり眉を寄せて、わからない、と言いたげな表情になった。 「君を愛している。・・・心から愛しいと思う。」 そう言われても、納得出来ない子猫の目が悲しそうに揺れる。 「最高の女として、触れずに見守りたい。」 子猫の表情が一層悲しそうになる。 「…抱きたいって思う魅力がないんじゃん…」 子猫はプイッと顔を背けるとベンチから立ち上がった。 「いや、そうじゃないんだ。・・・魅力は思いっきり・・・」 「知らない。…もう…いい…」 ここでフラれては昭彦としても困ってしまう。 「君がもう少し大人になれば、私の今の気持ちもわかって貰えると思うんだが・・・つまり・・・」 「知らないもん… …わかんないもん…」 離れていく背中が遠ざかる心のように思えてしまう。 「わかった。もう妹とは言わないから・・・」 「…いい… …どうせ猫なんか…」 子猫は振り向かないまま微かな声で呟いた。 「どうせなんて言うな!・・・私が惚れた子を悪く言わないで欲しい。」 つい声を荒げてしまった。項垂れた子猫の背中が震えている。 抱き締めてやることは簡単だ。どれほどそうしてやりたいか。耐えることの方が何十倍も苦しい。それでも今は耐えるしかなかった。 子猫の弱い心と体を壊してしまわないように。歯止めが効かなくならないように、耐えるしかない。 「・・・キツイ言い方をして済まない。・・・けれど、わかって欲しい。・・・誰であろうと、君を悪く言うのは我慢出来ないんだ。それは君自身であってもだ。・・・愛しいと思う君を、大切でたまらない君を、傷つける者は何者であっても許せない。」 子猫は項垂れたまま佇んでいる。昭彦はゆっくり子猫に近付いた。 「私に、子猫を守らせて欲しい。・・・どうかな?」 「…猫を…好き?」 やっと子猫が言葉を発してくれた。 「子猫を・・愛しているよ。」 昭彦は想いを込めて言った。 振り向いた子猫は大きな目から大粒の涙をポロポロとこぼしていた。そして、 「…昭彦ぉ…」 と、言って、昭彦の胸にしがみついた。 う・・・ちょい待ちぃ。それはヤバイで。・・・いや・・・今だけはしゃぁーないか・・・色即是空空即是色・・・わしは電信柱や。 子猫は泣きじゃくりながら昭彦のワイシャツに顔を擦りつけてくる。涙が染み込み肌に触れる。 くぅぅ・・・股間まで電信柱になってまうがな。・・・これやったら、スーツに鼻水擦られた方がええで。 昭彦は腰を引き気味にして子猫に触れないように注意した。 「だから・・・早く良くなって退院出来るようになろう。・・ね?」 なるべく落ち着いた声で言った。 「…うん…」 「退院したら、ちゃんと付き合おう。・・ん?」 「…うん…」 「では・・・子猫は今から私の大切な恋人だ。・・いいね?」 「…うん…」 「それじゃ、もう自分を悪く言わないこと。これが、恋人としての最初の命令だ。」 「…命令?」 子猫は思わず顔を上げて聞き直した。 「そう。命令だよ。」 昭彦は黒目がちの目を妖しく輝かせてにっこりと微笑んだ。 「… …ぁ… …うん…」 子猫はポゥッと頬を赤く染めて、また昭彦にしがみついた。 はにかんだ子猫の可愛さに、抱き締め返してやりたいと浮きかけた手を握りしめ、グッと堪える昭彦は、目を閉じ小さく息を吐いて”電柱・・・電柱・・・”と心の中で呪文を唱えるのだった。 |
| <*8*> 「子猫の退院」 |
<*8*>「子猫の退院」 昭彦の恋人になってから、ほどなく子猫も退院することになった。 仕事が忙しいからと、手続きと精算だけ済ませた母親は、「後は自分でしなさい。」と言い残して病院を後にした。 付添婦からの急な連絡に驚いた昭彦だったが、急ぎ花束を用意して病院へ向かった。 そもそも退院自体が早すぎるように思えたが、後で理由を聞いたら、子猫が留年することを恐れた母親が決めたらしい。 昭彦が病院へ到着すると、大きな荷物を抱えた子猫が、ふらつく足取りでタクシー乗り場へと向かう途中だった。 「退院、おめでとう。」 昭彦は駆け寄って花束を渡し、子猫の腰をつかんで一度高く抱き上げると、花束ごと子猫を軽く抱いてやった。抱き上げた時のあまりの軽さが痛々しくて、滲んだ涙を見られたくなかったのだ。 「ありがとう…」 恥ずかしそうに微笑む子猫も涙ぐんで、目をハンカチで拭っていた。 タクシーのトランクに大きな荷物を積み込んで、取り敢えず子猫の家に向かった昭彦は、 「退院祝いをしないとね。」 と、後部座席に並んですわっている子猫に言った。 「…そんなに…嬉しくないからいいです…」 子猫はちょっと肩をすくめるとうつむいてしまった。 「・・・家での生活はキツイ?」 「…そうでもない。…もう慣れたし…」 「学校へ行けば友達に会えるのが楽しみじゃない?」 「…友達…いないから…」 ますます項垂れる子猫に昭彦はかける言葉が見つからずにいた。 そして、病院からそう遠くない子猫の家にはすぐに着いてしまった。昭彦は荷物を下ろした後、タクシーを待たせておいた。 「一緒に出掛けないか?・・急なことで何も用意出来なかったし、好みもまだよく知らないから、子猫が選んだ物をお祝いにプレゼントするよ。どう?」 初めて訪ねた家に上がる訳にはいかないと思った昭彦が、そう言って子猫を誘うと、 「…ごめんなさい。…でも、片付けとか…明日からの用意をしないといけないから…」 と、弱々しく首を振った。仕方なく昭彦は、 「それじゃ、後で料理を届けるよ。だから、お昼は心配しないで・・少し横になって休んでいた方がいい。・・ね?」 と、約束をし、自宅の電話番号を聞いて、待たせておいたタクシーに乗って自分のアパートへと戻っていった。 アパートで料理を作った昭彦は、マサの組に車の用意をさせようか迷っていた。 昭彦自身には免許がなかった。取得していた時期もあったが、服役中に期限が切れたままだったのだ。春江が免許と車を持っていたこともあるし、マサがすぐに車を手配してくれていたので、自分が免許を持っていなくても特に不便はなかった。 だが、子猫との交際に組の車を使うことに躊躇いがあった。 まったくやくざとは無縁に育ってきた子猫には、その事実は怖いものに違いない。交際が始まったばかりで知られてしまったら、それだけで嫌われてしまうかも知れない。いずれは全てを告白する時がくるだろう。だが、もっと自分に惚れさせてからでなければ、拒絶されそうで怖かった。そもそも、子猫を抱こうとすれば、この体の彫り物を晒さなければならないのだ。今すぐに子猫に手を出せない理由がそこにもあった。 今はまだ、やくざ関係のことは、なるべく隠そう。そう思い、昭彦はタクシーを拾って、子猫の家へと向かった。 子猫の家に着いて昭彦は驚いた。大きなタオルケットやバスタオル類が庭に干されているのだ。母親は夜まで帰らないはずだった。 あれほど休んどれ、っちゅうたのに。 洗濯物があれば自分がしてやっても良かったのだ。昭彦は眉を寄せて玄関のチャイムを鳴らした。 「…はーい…」 中でか細い声がして、玄関が開かれた。 開けたドアからあどけなく自分を見上げる子猫の顔が現れると、叱ってやろうと思っていた気持ちが飛んでしまう。 「・・・洗濯してたの?」 「…ぁ…うん…」 「大丈夫なの?・・・無理をしてはダメだよ。」 「…うん。…大丈夫。」 はにかんで笑みを浮かべる子猫に、家の中へと招かれた。 「お邪魔します。」 他に誰もいないとわかっていても、一応挨拶をして玄関の中に入った。 塵ひとつ落ちてない整った様子はどこか寒々としていた。よく見ると、水拭きの後が残っている。 「掃除までしたのか?」 「…ぇ…」 子猫は叱られたように脅えた顔をした。 「いや。・・・私に気を使って無理をさせているのでは、かえって私が来ることが負担になって申し訳ないと思ってね。」 「…ごめんなさい…」 「叱っている訳じゃないよ。・・・人を招く時は綺麗に掃除して迎えろ、っていうのが、君の母親の躾なんだろう?」 子猫は爪を噛みながら頷いた。 「ただ・・・私にまで気を使わなくていいから。・・・恋人だろう?・・ん?」 子猫は視線を合わせないまま、小さく頷いた。 「まだ体調も戻らない内に退院したんだ。少しでも休んで欲しい。必要な用事があったら、私が代わってやってもいいのだから、子猫はなるべく休んでいて欲しいんだ。わかるね?」 「…ごめんなさい…」 子猫は不安で泣きそうな顔になっていた。 「そんな顔はしないで・・・」 昭彦は膝を折って屈み込むと、うつむいている子猫の顔を見上げた。 視線を合わせて話をして欲しかった。この家で見る子猫は妙に脅えているのだ。病院ではもっと普通に会話出来ていたはずだった。 この家は子猫にとって、罪状を並べられる裁判所のようなものなのだろうか?と、昭彦の脳裏を過ぎった。あの厳しい母親は罪を調べあげて羅列する検事であり、判決さえ下す裁判官なのかも知れない。 自分にも同じような記憶があった。けれど、自分には優しい笑顔を向け弁護してくれる妹がいた。子猫にはどこにも弁護してくれる存在がないのだ。ビクビクと母親の顔色を伺って、脅えて毎日を暮らしていたら居たたまれないだろう。何処かに逃げ場を作らなければ、心を病んでも仕方ないと思えた。 この家で子猫に会うのはやめよう。そう思った昭彦は、 「今日は料理を届けに来ただけだから。・・・これを食べたら横になって休みなさい。ちゃんと薬は一回分を守って、しっかり飲むと約束して。・・ん?」 と、優しく言い含めた。 「夕方に電話するから。・・ね?」 子猫は目にいっぱい涙を溜めて頷いた。頷いた拍子に涙が零れ、昭彦の頬に落ちたので、昭彦まで目頭が熱くなってしまった。どんな言葉より抱き締めてやりたかった。 それでも、昭彦は堪えて静かに立ち上がると、料理を渡して子猫の家を立ち去った。 夕方の電話で、子猫は料理がとても美味しかった、と礼を言い、少しお昼寝も出来た、と言っていたので、昭彦もずっと気になって塞いでいた思いが少しだけ軽くなったように感じた。 子猫はそれから、明日から学校へ行くと話した。いきなり無茶をさせるものだ、と腹が立ったが、留年しそうならそうするしかないのだろうか、と高校生活を知らない昭彦は想像するしかなかった。 それで、学校帰りに会って話をしよう、と約束をし、電話を切った昭彦は仕事へと向かった。 翌日、昭彦は子猫の通う校門の近くで待っていた。 問題さえなければ、定時で帰れると言っていた子猫が、もうすぐ出てくるはずだった。 高校側に生徒の身内の振りをして下校時間を確認しておいた。時間もわからず、フラフラと門の前にいたら、思いきり怪しい人物と思われてしまうからだ。 部活動のない生徒が帰りのバスに間に合うようにと急ぎ足で出てきていた。バスは20分おきに出るようだったが、一番早いバスに急ぐ女生徒達は、帰宅後にデートの約束でもあるのだろうか。 待っている時間は退屈だった。それで、ジロジロとは見ないように心掛けていても、つい観察してしまう。女生徒達も昭彦の側を通り過ぎると、思わず振り返って見ていった。 ハイネックの白いセーターに革ジャンを羽織った昭彦の姿はどこかのモデルのようだったのだ。夕日を浴びて金色に輝く髪と魅惑的な黒い眼差しは、一目見るだけで頬が熱くなってくるようだった。 なるべく視線を合わせないようにしている昭彦だったが、なかなか姿を見せない子猫を探して校門を見る度に、頬を染めたセーラー服の生徒達と視線が合ってしまった。 下校時間が過ぎて30分が経っていた。 具合が悪くなって早退したのだろうか?・・だが、迎えに出る前に子猫の家の方に電話して確認した時に、誰も電話には出なかったのだ。 腕組みをして考え事をしていた昭彦が、フッと視線を上げると、紺色のセーラー服にVネックの白いセーターを着込んだ子猫が歩いてくる姿が目に入った。 昭彦が微かに笑みを浮かべると、子猫も気付いたようで、それまで暗い目をしていたのが、パッと明るく輝いた。昭彦は小さく頷くと、視線で校門から離れて合流するように指示をした。いくらなんでも校門の前で女子高生を拾う訳にはいかない。 角を曲がった先にある公園の入り口で待っていると、子猫が息を切らせて追いついてきた。 「遅くなっちゃって…ごめんなさい。」 そう言った子猫だったが、昨日自宅で言った言葉ほど脅えてなかったので、昭彦はホッとした。やはり、あの家が子猫には辛い場所なのだろう、と実感した。 「公園で話す?・・今日は冷え込んでいるし、もう夕方になるから、出来ればどこかの店でゆっくり話したいんだけど・・・行ける?」 「うん。…大丈夫。」 子猫は頬を染めて頷いた。 それで、昭彦はその公園の入り口にあった公衆電話でタクシーを呼んだ。他の生徒達が寄らない店の方がいいだろう。子猫が援助交際をしている、などと噂されては可哀想だ。 タクシーはまだ空いてる時間帯だったようで、すぐに来てくれた。それで、昭彦は子猫と乗り込むと町の中心街へ向かうように運転手に告げた。 タクシーの中で、夕食はどうするのか、と聞いたところ、ずっと夕食は母親とは別にしている、と子猫が答えたので、それなら、と昭彦は子猫を食事に誘った。 田舎にしてはなかなか美味しいと気に入っている中華料理の店に連れていくと、子猫もきたことがあると言った。 「ここ、去年オープンしたらしいけど・・誰と来たの?」 昭彦が聞くと、子猫は表情を固くしてうつむいてしまった。 そーゆーことか。と思った途端、腹が立ってきた昭彦は席に座ったものの、立ち上がると、 「店を変えよう。」 と、さっさと出てしまった。そして、戸惑った顔でついてくる子猫に、 「他の男と入ったことのない店はどこ?」 と、少しきつい口調で言ってしまった。 「…わかんない…」 子猫は困ったように爪を噛む。 「つまり、町中の有名な所はみんな行ってるってことか。」 昭彦はため息をつくと、 「仕方ない。・・・私のアパートで手料理を御馳走しよう。」 と、泣きそうな顔になっている子猫に、優しく微笑みかけた。 それから、タクシーを拾うと昭彦のアパートへと向かった。 まさか、デート初日にアパートに連れ込むことになるとは、と危険なシチュエーションに昭彦の方が焦っていた。 タクシーは途中で降りて、料理の材料を近くのスーパーで買いながら、子猫の好みを聞いて材料を選んでいく昭彦は、料理が好きなことを殊の外強調して言った。 もしかしたら襲われちゃうかも・・・などと余計な期待はさせないように・・・。 逆に、・・・部屋に呼ばれたのに襲ってくれない・・・とイジケられても困る・・・。 あれこれと思いを巡らせながら、アパートに戻った昭彦は、子猫にやくざ関連を気付かせる物はないか、と部屋をさっと点検し、大丈夫なことを確認して子猫を部屋に入れた。 子猫はむしろ何もない部屋に驚いているようだった。 何もないのは当然だった。昭彦自身、ここで暮らすようになってまだ1ヶ月と経っていないのだ。 「男の一人暮らしなんてこんなものだろう?・・必要な物以外は邪魔なだけだしね。」 「そうなの…?」 「まあ、引っ越したばかりということもあるけどね。」 「あ…そうなんだぁ…。」 子猫は部屋を見回して頷いた。 「座ってTVでも見ててくれる?・・・エアコンつけたばかりでまだ寒いだろうけど・・・」 「料理なら猫も手伝えます。」 鞄を脇に置いた子猫が台所にくる。 「いや。狭いから・・・今日は私に任せてゆっくりしていなさい。」 「…はーい…」 子猫はちょっとガッカリしたように返事をしたが、居間のテーブルに座ると、鞄を引き寄せて教科書やテキストを出し始めた。 「ああ、宿題が出てたのか。なら、調度いい。こっちは気にしないで、勉強してていいよ。」 「…うん。」 子猫はテキスト集に視線を向けたまま、唇を尖らせて頷いた。 「久しぶりの学校で疲れただろう?」 「…うん。…でも、体育の時は保健室で休んでたから…。…ママが学校に、まだ本調子ではないので、って言ってあるから、具合が悪い時は休ませて貰えるの。」 「そうか。・・なら、少しは安心かな。・・・出来ればもっと充分休養を取れた方がいいとは思うけどねぇ。・・・留年するのは子猫も辛いだろうから、仕方ないのかなぁ?」 「…うん。…土曜日には補習授業もしてくれるって。」 「ほう・・・親切な高校だね。」 「…うん。」 子猫は嬉しくなさそうな表情で肩をすくめた。 昭彦は苦笑を噛み殺して、料理の準備を始めた。セーターの袖が気になるところだったが、袖をまくるのは避けた。手首近くまである彫り物を見られたくなかったのだ。 料理の下拵えを済ませた昭彦は時計を見て、マサの組に電話を入れることにした。 「わ・・私だ。わかるだろう?・・・いや、ちょっと接客中でね。・・・そう。・・・ああ、それで、用件だけで悪いが、仕事に少し遅れて行くようだから・・・うん。・・・いや、かしら・・ぁ・・浜田君でなくても構わないよ。・・・うん、そうだね。・・・じゃぁ、よろしく頼む。」 本当に用件だけの短い電話だったが、相手が相手だけに内心ひやひやしていた昭彦は、電話を切って振り返った時に、子猫の視線と目が合って焦ってしまった。 「…お仕事…?」 子猫が心配そうに聞く。その様子からは何も気付いていないようだ。 「ん?・・・あぁ、大丈夫だよ。」 昭彦は吐息を洩らしながら微笑んだ。 「…どんなお仕事なの?」 「雇われマスターってとこかな。けど、知り合いの店だから、けっこう融通がきくし、遅れても代わりの者がいるから心配ないんだ。」 「…そう…。…マスターなんだぁ…格好いいねぇ。…うふっ。」 目を輝かせて無邪気に笑う子猫に、昭彦の体温が上昇し汗をかいてしまう。昭彦は、 「いや、雇われだから・・・」 と、視線を反らして、また台所に戻った。 「ねぇ…今度、お店に連れて行ってぇ?」 子猫は興味を持ったようで、甘えた声で台所の昭彦に声をかける。昭彦は腕組みをして振り返ると、眉をひそめて首を振った。 「未成年者は入れない店だよ。」 「……………ケチ……」 子猫は小さく呟くと教科書を捲る。その頬が無意識なのかぷっくりと膨れている。 昭彦は、やれやれ、と小さく首を振って、料理の仕上げに取りかかった。 味見をしながらも、頭の中は子猫の男性関係に思いが飛んでしまう。無意識の動作があまりにも誘惑的なのだ。 小首を傾げて見上げる眼差しも、拗ねたように見つめる目も、警戒心を持たない無邪気な笑顔も、泣きそうに潤んだ目も、泣きじゃくる仕草も、尖らせる赤い唇も、遠慮ないほどに膨らませる頬も、全てが誘惑的だった。しかも、意識してそうしているのではないところが怖くさえあった。意識しての行為なら相手は限定されるだろう。だが、無意識に男性に甘えてしまうとしたら、本人が望まない相手さえ、その魅力の虜となってしまうだろう。 あの病院の男達もその魅力の虜となった餌食だったのだろうか。ふと、食虫花を思い浮かべる。甘い蜜で虫を誘い、食べてしまう花。子猫の花はどんな甘い蜜を溢れさせるのだろう、と思うと、たまらないほどに股間が熱くなってくる。 突きまくりたい。花弁に舌を這わせ、蜜を啜り、抉るようにこの熱い男根で奥深くまで突き上げてやりたい。どんな顔で感じるだろう。感じて感じて泣かせてみたい。繋がった腹の下で泣く子猫はどんなに可愛いだろう。 触れないで守る、なんて綺麗事だ。抱き締めてこそ愛せるものを。・・・そうは思っても、今は我慢するしかないのだ。 料理が焦げそうになって、昭彦は慌てて意識を戻した。 料理が出来たからテーブルの上を片付けるように言うと、子猫は簡単に積み重ねて座ってる横に置いた。 「勉強、きりがつかない?」 食事が終われば、もう帰るべき時間だろう。 「てゆーか…休んでいる間に溜まって分だから…山ほどあるの。」 「・・・って、入院中は勉強してなかったのかい?」 「…ぅぅぅ…先生と同じこと言うぅぅ…」 子猫は両膝を胸に引き寄せると両腕で抱え込んだ。 「・・・パンツが見えるよ。」 いや、見えそうで見えないが、冗談に流して指摘しないと、股間のモノが脈打ってしまう。 子猫はガバッとスカートで覆うと、耳まで赤く染めてうつむいた。 「私にわかる分なら教えてやってもいいけど・・・あまり遅くなると、心配するだろう?」 「…別に…」 「叱られるだろ?」 「…さぁ…」 「いきなり無責任な付き合い方は出来ないからね。食事が済んだら送って行こう。」 昭彦がそう言うと、子猫の顔が不安そうになり、頼りなげな視線が揺れた。 「どうしたのかな?」 「…ねぇ…昭彦がお仕事から帰るのを待ってちゃ…ダメ…?」 昭彦は思わず言葉に詰まった。 それから、テーブルに頬杖をつくと眉を曇らせて、 「仕事が終わるのは夜中過ぎなんだ。片付けをしたりすれば、帰るのは朝方になることもある。待ってるのは無理だよ。」 と優しい口調で説得するように言った。 子猫の心に冷たい風が吹き込んでしまったのだろうか。 「…そう…わかった…」 諦めたように言う言葉が、さよならを言うような響きを持っていた。 子猫はいったん脇に置いた勉強道具を鞄に詰め込み始めた。 「・・後でいいよ。・・・食事にしよう?」 昭彦は胸がざわつくのを隠して、優しく声をかけたが、子猫は何も答えなかった。視線を敢えて合わせないようにしているようでさえあった。 厳しいことを言い過ぎただろうか。相手が女子高生だと思い、なるべく常識を逸脱しないようにと自戒しながら接してきた行為が、子猫には冷たく感じてしまったのだろうか。 勉強道具をしまい終えた子猫はどこか余所余所しかった。 料理をテーブルに並べ、 「じゃぁ、食べよう?」 と、言っても、黙って頷くだけで、視線を一度も上げようとしない子猫に、昭彦は自分が拒絶されたような不安を感じていた。 子猫はご飯を一粒ずつ拾うようにゆっくり食べている。おかずを勧めても、勧めた時だけ箸を出すだけだった。話しかけても、簡単な返事を返すだけで、すぐに沈黙が続いてしまう。 とても恋人と食事をしているような状態ではなかった。 「味付けが気に入らなかったかな?」 「……ううん……」 「美味しい?」 「……うん……」 嘘やろ!ほとんど食べてへんやろが!・・と言ってやりたいとこだった。 料理を作って貰って食べるなら、普通もっと、義理でも美味そうにするものだ、と腹が立ってくる。だが、虚ろな悲しげな顔を見てると怒る気も失せてしまう。 「今度、もっと時間かけて美味しい料理を作ってあげよう。」 なるべく明るい口調で言ったが、子猫は何かを言いかけて声にならないまま、諦めたように黙り込んでしまった。 食事の後、タクシーを呼んで子猫を家まで送って行こうとしたが、バスの通りで降ろして欲しいと言われ、そうすることにした。 母親が帰っていることを気にしたのかも知れないからだ。退院そうそう男と会っていたとわかったら、あの母親がどれほど子猫を愚弄し罵倒するか、想像出来てしまう。病院での子猫を見る視線に汚らわしい物をみるような嫌悪感が含まれていることに、昭彦は気付いていた。 「明日夕方電話するから。」 と、言う昭彦に、子猫は、 「…御馳走様でした。」 と丁寧にお辞儀をして背中を向けてしまった。 すでに暗い夜道。気がかりでたまらない昭彦は少し行った先でタクシーを降りると、そっと子猫の後をついていった。見失わない距離から付かず離れずついて行く。 子猫が自分の家の玄関を、鍵を開けて入り、真っ暗だった家に明かりが灯るのを確認して、昭彦はやっと安堵の息を吐いた。 それにしても、こんな夜になっても母親が帰っていないとは、と、一人で寒い部屋にひっそりといる子猫の寂しさを思い、遣りきれなくなった。 それで、タクシーを拾う為、駅の方へ歩いていた昭彦は、通りかかった公園の公衆電話から子猫の家に電話をした。 −「…もしもし…?」 「子猫?・・・無事に着いたようだね。」 −「…ぁ…はい。」 「良かった。・・・子猫が元気がなかったから心配だったんだ。」 −「………ごめんなさい…」 「謝ってばかりいると、その言葉を禁止にするよ。」 冗談のつもりで言った言葉だったが、子猫は黙り込んでしまった。 「・・・ちょっと・・・気になったことがあって・・・いいかな?」 −「…長電話してると…叱られるから…」 子猫は電話を切りたそうに口ごもっていた。 「うん。そんなに時間はかからないから。・・・と言うより、簡単な話で・・・また、会ってくれるだろう?」 返事がなかった。 「・・・会って欲しい。・・・まだ、付き合い始めたばかりだろう?・・・お互い、思いに行き違いはあると思うし、それが誤解の場合はよくあることなんだ。」 返事の代わりに震える息が聞こえる。 今、泣かないでくれ。頼む。・・・手の届かない所で一人で泣かないで欲しい。 「今日は・・・済まなかった。・・・何も・・・君を楽しくさせてやれるようなことも話せなかったし・・・私の都合で振り回してしまった。」 −「……違…ぅ…ぅ…」 声が涙で震えている。 「今度会う時にはちゃんと考えるから・・・また、会ってくれるね?」 沈黙しか返らない。 「・・・子猫・・・愛している。・・・信じて欲しい。」 −「…猫は……きっと…ふさわしく…ない……」 泣きじゃくる息遣いの合間に途切れ途切れの声が聞こえてくる。 そうじゃないんだ、子猫。泣かないでくれ。頼むから。 「私には子猫しかいない。君との恋が自分には最後の恋だと思っている。だからこそ、大事に付き合いたいんだ。・・・わかって欲しい。」 −「………でも……」 「時間をくれないか?・・・お互いを確かめ合える時間を。」 −「……きっと……猫を…嫌いになる……」 いや、そうじゃないんだ。もっと怖がらずに甘えられる関係を築いてから、全てを見せたいんだ。 ・・・とは言えなかった。 「・・・私を嫌いになった?」 −「……ううん……」 「良かった。・・・嫌われたかと思って不安だったよ。・・・お互い・・・不安があるのはわかるよ。私も同じなんだ。・・・だから、不安を感じないくらい近付いてから、・・・恋愛関係を深めればいいんじゃないかな?」 遠回しな言い方だった。これでは子猫にはわからないかも知れない、と思った。 −「…今は…恋愛じゃ…ないの…?」 はぅぅぅ。やっぱりわかっていない。 「君がもっと元気になってくれないと・・・私は主治医にでもなった気分で・・・無茶をさせるより、安全を選びたくなってしまうからね。・・・恋愛は時には無茶を要求するものだろう?」 これも、・・・わからないだろうなぁ・・・。 −「……そうなんだぁ……」 くそっ!よう、わかったで。子猫の頭はその顔以上にネンネなんや。 「だから、私が主治医でいなくていいくらいに元気になってから・・・色んなことをしよう。・・・ね?」 −「……どんな…?」 はいはいはい。今はそこまででええわい。その先は秘密やで。 「遊園地とか・・・動物園とか・・・ハイキングとか・・・山登りとか・・・」 −「……山ぁ……元気でも…登りたくない……」 子猫が拗ねたような声で言った。が、取り敢えず涙は納まったらしい。 「買い物とかも連れて行ってやりたいが、体力がないと欲しい物も探せないだろう?」 −「……そんなに…欲しい物…ない……」 「私が買ってやりたい物が君の欲しい物なんだ。いいね?」 多少強引でもそう言ってやらないと、聞き分けがない駄々っ子のように、話しが終わりそうになかった。 −「……うん……」 どうにか子猫の機嫌も直りつつあるようだった。 「だから・・・また、会ってくれるね?」 −「…うん。」 昭彦は思わず大きく息をついて、空を見上げた。白い息が星空に消えていく。 「・・・今夜は星が綺麗だ・・・」 −「…そうなの?」 「・・・君の家の近くの公園から電話しているから、天気はそう違わないだろう?」 −「…えぇ?」 驚いた声の後、子猫のクスクスと笑う声が耳をくすぐる。今度は冗談が通じたようだった。 「夜道は心配だから、様子を見てたんだ。・・・家が真っ暗だったから・・・余計心配になって・・・電話を見つけたからかけてみた。」 −「…昭彦ぉ…」 「・・・寒くない格好をして、星空を見ることが出来る?」 −「…ぁ…うん…」 窓を開ける音が聞こえてくる。 昭彦はそこで、ピノキオの映画で聞いた『星に願いを』という歌を英語で歌って聞かせた。 歌い終わって、しばらく沈黙の後で、 −「…あきぃ…ありがと……」 子猫が涙ぐんで言った。 「それじゃ、窓を閉めて・・・寒くないようにして・・・お休み。」 −「うん。…お休みなさい。」 「楽しい夢が降り注ぎますように。」 −「うん。…昭彦にも。」 「クックッ。そうだね。・・・これから仕事だけど。明日の早朝にでも明けの明星の夢でも見よう。」 あ、と小さく言った子猫がまた小さな笑い声を洩らした。 昭彦はようやく安心して電話を切った。 駅へ向かう足取りは軽かった。スキップしながら、鼻歌を歌いたい気分だった。やっぱり、子猫が可愛くて愛しくてたまらなかった。昭彦は、星空を見上げ、白い息を大きく吐くと、駅への道を急いだ。 |
| <*9*> 「ファミレス」 |
<*9*>「ファミレス」 待ち合わせに調度いい店があった。 昭彦のアパートから歩いていける距離にあり、マスターをしている店とは反対方向だが、子猫の高校からのバスが通る通りに面していた。 二階建てのその店は、一階がCDやビデオの他に眼鏡や貴金属、携帯電話などを扱う店が入っていて、二階の半分にゲームやその関連の商品を販売するコーナーがあり、後の半分が漫画喫茶になっていた。 昭彦自身は漫画は苦手だったが、子猫が漫画もゲームも大好きっ子だったので、多少待たせるような時でも、退屈しないで待っていてくれる。それに、何より冷暖房完備で、定員の目が光っている空間であることが、子猫を一人でいさせても安心出来る場所となっていた。 日曜日。待ち合わせの時間は11時だったが、子猫は早めに来ていたようだ。それほど、減ってはいないジュースだったが、グラスに付いた滴で時間の経過がわかる。 「お待たせ。」 と言って、昭彦が隣りに座ると、子猫はハッと顔をあげ、編みかけの物を慌ててバッグに押し込んだ。 多分、クリスマスのプレゼントにしようとこっそり編んでいるらしかったが、夢中になると周囲が見えなくなるようで、何度かこうした光景は目にしていた。敢えて気付かないフリをし、聞かないでいる方が、プレッシャーをかけないでいいだろう、と思う昭彦だったが、心配なこともあった。 子猫の掌が最近、赤く荒れているようなのだ。 編み物をすると、常に毛糸が手の中を移動し、細かい毛先が毛穴まで刺激し潤いを奪っていくようだ。肌が薄くて敏感な子猫には辛い作業なのかも知れない。 特に子猫の掌は青い血管が透けて見えるだけでなく、肉の状態まで見えてしまいそうなほどに皮膚が薄かった。血色が良くなってきたのはいいが、指先が唇ほどに赤っぽく染まって血管の筋が指先まで走っているのが見えるのは、それだけでも哀れに見えた。 無理せんでや。どんな物かて、そこに子猫の気持ちが籠もっちょるだけで嬉しいねやさかい、こない真っ赤っかな掌になるまで頑張らんとき。 昭彦は子猫への愛しさが溢れてきて、心の中で呟いた。 「最近ゲームはしないのか?」 「…んー…ちょっと行き詰まってて…攻略本待ち…かなぁ…」 子猫は肩をすくめて笑うと、氷が溶けて薄くなったジュースをストローでかき回せながら飲んだ。 「なら、それまで他のゲームをしてたらどうかな?・・この前言っていた新作が出ているようだよ?」 「うん。知ってる。」 子猫は嬉しそうに、ニッコリした。 「クリスマスか、お正月に貰うお小遣いで買うつもりなの。ふふ。」 明るい大きな目が一層明るく輝く。 こうした表情は、まだまだお子ちゃまやなぁ。 昭彦はつられて笑みを浮かべると、 「お小遣いは別のことに使うといい。」 と言って、立ち上がった。 「え?…ぁ…でも…昭彦にはもういっぱい買って貰っちゃったもん。…そんなに…悪いし…」 子猫が困った表情で言う。 昭彦は子猫が欲しいと思うゲームは何でも買ってくれるのだ。欲しい、と言う訳ではない。ただ、ゲーム雑誌を見ながら話しをしている時、面白そう、とか、興味ある、と言っただけで買ってくれるのだ。昭彦があまりあれこれと買ってくれるので、子猫の方で新しいゲームの話題は避けるようになっていたほどだった。 「子猫がやってみて面白そうなら、私も挑戦してみるから。」 と、言う昭彦は、もう買うと決めてしまったらしい。 「…嘘ぉ……昭彦、いっつもそう言うくせに、全然しないじゃん。」 「内容がわかると興味がなくなってしまうらしくてね。」 昭彦は苦笑してから、 「ほら。薄いジュース飲んでるとお腹が痛くなるよ。」 と、ジュースを飲み干そうと努力している子猫を促して、席を立たせた。 「…はーい…」 子猫はフード付きのオーバーコートを羽織ると、編みかけの物をしまったバッグを肩に背負った。 ショルダーより大きめの肩に背負う布のバッグは高校生の流行りなのだろうか。ラフなスタイルはいいが、子猫にはもっと可愛い格好をさせたい、と昭彦はいつも思ってしまう。 「…でもね…今は他のことでも忙しいし…」 子猫は昭彦の後についてきながら、まだ買って貰うことに抵抗があるようで、戸惑った顔をしている。 その、他のことに根を詰め過ぎるから心配なんやないか。・・・それに、あんな寂しい家に一人でおるかと思うとたまらんで。 付き合うようになって、1ヶ月以上が過ぎていた。 その交際の中で知ったことは、子猫の救われないほどの孤独感だった。 もちろん、子猫よりも救われない環境にいる子供はたくさんいるだろう。厳しくても情けなくてもいいから親が欲しいと思っている子供もいる。貧しい暮らしの中で寒さに震えている子もいるだろう。そして、どんな逆境でも強く真っ直ぐに生きようとしている子供達もいるのだ。 苦労して成長してきた大人は、親に愛された記憶があるだけ幸せだと言う。だが、溺愛されて過保護に育った子は、そのことで心もひ弱なまま成長していないのだ。 本人にもそうした自覚があるから、寂しいと思っていても、なかなか言葉に出していえないし、愚痴る相手もいなかった。世界基準のような常識を得々と言い聞かされて、理解出来たとしても、それで寂しさを埋められる訳ではなかった。 それに、父親の溺愛が母親の生理的嫌悪感を生んでいるという事実は、他人には話せることではなかったし、当事者でなければわからない苦しみがあることを、昭彦自身もよくわかっていた。 苦しみや悲しみや寂しさというものは、評価基準があってその物差しで測って判断出来るというものではない。一人一人の立場や思いを受け止めて、初めて理解出来るものだと思う。 ゲームくらい、いくらでも買うたるがな。 子猫の母親は二階で物音がするのを極端に嫌っているという。だから、TVはイヤホンで聞くそうだ。それでも、うっかり楽しい番組で笑ったり、歌を口ずさんでしまうと、「ちゃんと勉強しているの?」と注意にきたりする。ゲームなら音を消して出来るし、無意識に声を発することもほとんどなくて済むらしい。 昭彦はゲームを買って、子猫に渡した。 「…ありがとぉ…」 はにかむように微笑む頬が赤らんでいる。 マサに買ってきて貰った漢方入り料理の効果が出ているのか、近頃の子猫は血色も良く、白い肌が生き生きと輝いている。頬の丸みも思わず頬ずりしたくなるほどに柔らかそうだ。 うーん。・・・よだれもんやなぁ。・・・赤ずきんを狙う狼か、肥えさせてから喰おうとするお菓子の家の魔法使いか・・・ 「ゲームのせいで勉強が遅れると・・責任を感じてしまうが・・・」 「勉強は補習で充分だよぉ。」 平日の夕方だけでなく、土曜日の午後まで補習が入っている子猫は、うんざりしたように言った。それから、 「面白かったら、昭彦もしてね?」 と、買って貰った言い訳のように言った。そうでも言わないと、買って貰うことの心の負荷が重いようだった。 「そうだね。」 昭彦は苦笑しながら頷いた。 昭彦は子猫にゲームを買ってやる度に、自分も興味があるから、と言って、そのゲーム用のゲーム機もアパートで出来るようにと買い込んでいた。たまにミニゲームでスロットなどがある時には、子猫に頼まれてコインを増やしたりした。スロットはボタンで停止させるシステムだったが、昭彦はほとんどいつも絵柄を揃えてしまっていた。動体視力がどうとかと説明してくれたが、子猫には必死で見つめると目が回りそうで真似出来なかった。 他に昭彦が手を出すのはレース関連のものだったが、すぐに最高タイムで優勝して、後は飽きてしまうのだった。 それで、結局そのゲーム機も子猫が遊びに行った時に使うことが多かった。 子猫は付き合い始めてすぐに昭彦からアパートの鍵を渡されていた。 補習が遅くまでかかって、子猫がアパートに来るのが遅くなる時は、昭彦が仕事に出てる場合もあるので、「鍵を開けて入って作っておいた夕食を食べるように。」、と言われていた。 子猫は食事の後、TVを見たり、ゲームをしたり、宿題をしたりして、最終バスが出てしまわないくらいの時間に帰宅しているようだった。 遅い帰宅でも母親は朝食の時に叱る程度らしく、言い訳も初めから信用してないので聞こうともしないと言う。母親には、子猫が誰と付き合うかより、子猫が洗濯と掃除と朝食の支度をきちんとしているか、が大事らしい。勉強のことを煩く言うようでも、普段は何も関心を示さず、成績表で判断して、その日は延々と非難と愚痴を繰り返すだけらしい。 そうは言っても、夜道の一人歩きを心配する昭彦は、防犯ベルや痴漢撃退スプレーなどを子猫に持たせていた。 ただ、子猫に携帯電話を持たせるべきか、どうしようか、迷ったが、持たせないことにした。夜は自分が仕事中はそうそう電話出来ないし、東竜会やマサの組に顔を出している時もある。それに昭彦自身のアパートにいるのだから、必要ならアパートに電話すればいいのだ。昼間は子猫には学校があるし、学校がない日には会えば済むことで、むしろ携帯電話は安易な誘惑を増やすだけのように思えたのだ。 こうして、子猫の毎日が昭彦の手中に握られていた。 実際にゆっくり会って話せるのは日曜日くらいではあったが、自分のアパートに毎日来ていることで、子猫が昭彦の中にすっぽりと入り込んだように感じていた。 子猫に夕食を出してやって出掛ける時でも、帰ってから料理が減っているのを見るのが楽しみだったし、食べてくれる量が日増しに多くなっていくのが嬉しかった。 気に入った料理は持ち帰ることもあって、「友達の家で頂いたの。」と朝食に出すと、母親も感心して食べるのだと言っていた。料理くらいで朝の小言がなくなるなら、毎回でも持っていかせたかったが、頻繁に続いても怪訝に思われてしまうかも知れない。 とにかく、昭彦の料理は使用している漢方だけでなく、昭彦の暖かい愛情がこめられていて、子猫の体を日々回復させていることは確かだった。 そして、その一方で、昭彦は子猫の休みに合わせて、外で会う機会を設けていた。 子猫の体調や食べられる量を考えると、昭彦が作った料理こそがベストだと思ってはいたが、長い時間を密室で二人だけで過ごす危険性を回避したい気持ちもあった。 それに、周囲に人がいる中でお互いを意識することも必要に思えた。 他の誰でもない、子猫を愛しているのだ、という思いをわかって欲しかったし、子猫にも、昭彦の存在を認識して欲しかった。自分がいれば他の男は必要ないのだ、とわからせたかった。 今のところはその計算も成功しているようで、子猫が他の男に視線を向けることはなかった。もちろん、昭彦も他の女性を見る必要もなかった。 子猫が可愛くてたまらない。子猫が愛しくてたまらない。 理由などいらないのだ。脳が子猫を自分のものと判断していた。魂が子猫を欲している。 どこが可愛い、何が愛しい、などという説明は後から連座するもののように思えた。他の誰かが同じ表情をしたとしても、これほど心が疼かないだろう。同じ境遇だったとしても同情するくらいだと思う。同じ言葉を言ってもこれほど体温を上昇させることはない。 子猫を手の中でころがして、怒らせたり泣かせたり喜ばせたり笑わせたり、全ての表情や仕草や心の動きを愛しながら見守っていたい。 子猫はわしのもんや。 他の誰かのものになることなど、到底許せることではないし、想像も出来ない。時々舐めるような視線で子猫を見ている男がいると、叩きのめしてやりたくなる。 今度子猫に触れる奴がおったら、その指を切り落としたるで。 昭彦は店を出ながら、すれ違った男が子猫を振り返って見取れるのを、心の中で蹴り飛ばしながら、 「クリスマスも近いことだし、お昼はKFCにしよう。」 とさりげなく子猫に微笑みかけた。 「うん。」 子猫は嬉しそうに頷き、昭彦の腕に手をかけた。 子猫は高級料理店で御馳走される機会が多かったらしいが、それでもファーストフード店の方が好きだと言った。料理の味付けや品揃えや安さということよりも、周りを気にしないでくつろげて、しかも幸せそうな雰囲気が漂っている空間が好きらしい。 御馳走した相手の詮索は、取り敢えずおいといて・・・。 ファーストフード店が好きでありながら、ほとんど利用したことがない現実が、子猫の寂しさを顕しているように思えた。 KFCやマック、モス、と言ったテイクアウトが出来て一人でも利用しやすい店は、夕食として買うこともあるようだったが、体調が低迷すると魚肉類を受け付けなくなるようで、しばらくは食べてなかったそうだ。 それに、レストランタイプの店はほとんど入ったことがないらしかった。家族で出掛けることがあれば一番利用されている店だろうし、高校生にもなれば友達同士で利用することもあるだろう。子猫の年齢で利用した回数が片手で指が余るというのは少なすぎる。 ファーストフード店が好きだと言う子猫には、ある種の憧れが含まれているのかも知れない、と昭彦は思った。 利用した時の淡い記憶の中で、そこここから零れる会話や笑い声。向き合った家族や恋人達や友達同士の楽しそうな笑顔。誰にも遠慮することなく、マナーに神経を使う必要もなく、時間を急かされこともなく、ゆっくりとボックス席に沈むように存在していられる。例えその笑顔がその場だけのものとしても、幸せそうな空間に自分も一緒に存在出来ることが嬉しかった、と思い出すように遠い眼差しで言う。 そんな子猫の話を聞いた時、昭彦は子猫を抱き締めて泣いてやりたかった。 自分の為に泣いたことはほとんど記憶になかったが、子猫にはいつも泣きたいほど愛おしくてたまらなくなった。 子猫は自分が寂しいからといって、人の幸せそうな様子を妬む気持ちがないらしい。人が好きで、人が幸せそうにしていると、子猫自身も幸せ気分になれるらしかった。 逆に悲しそうな人や怒った顔をしている人がいると、何があったのかと心配になるようで、食事の手が止まり無意識に子猫の顔までが悲しげになるのだ。 初めの頃は昭彦にはそうした行動がわからなくて、気になる男がいるのかと焦ってしまうこともあったが、相手が女性の場合もあって、気持ちが、そうした全然関係のない相手でも、重なってしまうのだと気が付いた。 子猫にはそんな、人の気分に同調してしまう感受性の強さがあった。 理解するより前に感じてしまうのだ。人の心が読めるほど観察力があるわけではなく、全てを疑ってかかるような猜疑心もまったくない。計算することも出来る子ではなかった。ただ、意識しなくても感じ取ってしまう。 気持ちを隠したい相手にはやっかいな子だろう。友達が出来にくいのもわかるような気がした。 昭彦としても、出来れば子猫の持っているイメージを壊したくなかったので、店に入る時には気を使っていた。 難しそうな客はいないか、怖そうな人種はいないか、雰囲気が暗く淀んでいないかを確認してから、席に座るようにしていた。 今日のKFCはやはりクリスマスが近いせいでか、予約ついでに寄っているような親子連れや若いカップルや友達同士で、店内は賑やかに溢れていた。 少し待って、ようやく席を見つけて座った時には、熱気でのぼせたような顔をした子猫が、満面の笑みを浮かべて、楽しそうにしていた。どんな表情でも愛しさに変わりはなかったが、やはり楽しそうにしていると昭彦自身も嬉しかった。 そう。しばらくは会話する声さえ聞き取りにくいほどのBGMと雑多な声の中でも、自分達だけの楽しい会話を成立させていたのだ。 が、女子高生くらいのグループと思える女の子達が近くの席に座り、周囲を気にしない大声で話し始めてから、子猫の表情が次第に暗く辛そうになっていってしまった。 「多少煩くても、気にしないで食べた方がいいよ。」 昭彦が顔を近付け、小声でそっと言うと、子猫は、 「…うん。…大丈夫。」 と、無理矢理笑顔を作って返した。 それでも、子猫の表情はどんどん強ばってしまうし、話しかけてもハッとして、聞き逃したことを済まなそうにしてうつむいてしまう。 「どうしたの?」 と聞いても、 「…ううん……何でもない……」 と口ごもるばかりだった。 原因は多分、いや確実にその女の子達の会話だろう。 そう考えた昭彦は、それまで完璧に無視していた彼女達の会話に耳を傾けてみた。怒ってる訳でも悲しんでいる訳でもなく楽しそうなのだ。が、敢えて言うなら、言葉がきつく乱暴で、会話の中に人を中傷したり嘲笑する言葉が溢れていた。 「そうそう。それでさ、あいつが超ーバカでニブイからさ、へべぇーよ、てめぇ、って言ってやったら、ブスって言うんだぜぇ。クソムカツクゥー!」 そう言って、きゃははは、と可笑しそうに笑うのだ。とても、女性らしいとは言えないが、それでもこの年頃はこうした話し方がしたいものらしい。 たが、子猫の食欲が落ちてしまっているし、これ以上ここにいることはいい影響とは言えなかったので、食べきれない分は持ち帰ることにして、昭彦は子猫を促して店を後にした。 公園まで気分転換に歩いて行き、アイスクリームの屋台が出ていたので、昭彦は子猫に買ってやることにした。子供だましのようだったが、子猫は昭彦の心遣いが嬉しい様子で、頬を染めながら、 「ありがとう。…さっきはごめんなさい。」 と言って、笑みを向けてくれた。 落ち着いて食べられるようにと、ベンチに座ってから、昭彦は、 「さっきは何が嫌だったの?」 と聞いてみた。 「…ん…何でもない…」 「って訳はないだろう?・・・煩かった?」 「…ううん…そーゆーのは気にならないけど…」 アイスクリームを舌の先で舐めながら、子猫は困ったように眉を寄せて、虚空を見るような表情になった。 「・・・子猫が気になるような悪口は言ってなかったように思うけど?」 「…うん…」 「何か気に障るような言葉があったのかな?」 「……てゆーか……」 「・・・ん?」 「……言葉が……怖いの……」 「ああ・・・確かに乱暴だね。」 昭彦が頷くと、子猫は、違う、と言うように首を振った。 「・・・違うの?」 「…乱暴な話し方は…けっこう聞き慣れてるし…いいんだけど…つーか…猫だって、人のことが言えるほど綺麗な話し方じゃないし…」 「子猫の話し方はとっても可愛いよ。」 そう言って昭彦が目を細めて笑うと、子猫は恥ずかしそうに今度は小さく首を振る。 「それじゃ、何が怖かったの?」 「……うん……知らない人へ対してでも……その人へ向けられる非難の言葉が……言葉そのものに含まれている…毒…みたいな……そうした言葉そのものが…怖いの……」 「・・・あぁ・・・そうだったのかぁ・・・」 昭彦は今度は本当に納得して頷いた。 一緒にTVを見るような時でも、子猫はお笑い芸人がヤラセでイジメられたりからかわれている場面になるとチャンネルを変えたがった。 あれはヤラセで、本人も承知しているし、それで収入もあるのだということを説明してやっても、そうわかっていてもあまりにも痛々しいから自分はそうした場面を見ないであげたいのだと言っていた。 いや、せっかく演じているのだから見てやる方がいいのでは?と昭彦自身はたいして興味はない番組だったが、一つの定義として言ってみた。それでも、浴びせられる言葉に毒があって怖いのだ、と子猫は頑なに拒んでいた。 他にも、怖いニュースなどを見ると、寝てもすぐに夢で同じような恐怖体験を味わってしまうようで、何度も怖さで目を覚まし、結局寝れなくて夜明かしでゲームに没頭してしまい、寝不足になることがあるらしい。 子猫のそんな壊れやすいガラスのような心を愛していた。が、自分が歩いてきた道を思う時、昭彦は子猫に拒絶されてしまうかも知れない、と思い苦しくなった。 善人のフリが必要なら、いくらでも善人ぶってみせよう。 ・・・だが、この体に彫り込まれた入れ墨は隠しようもなかった。 どうすれば、こんなに繊細な子猫に、怖がらせないで自分を受け入れて貰えるだろう、と考え込んでしまった昭彦は、腕組みをして大きくため息をついていた。 「…ごめんなさい。……ホント…神経質で嫌な子だよね。」 子猫は昭彦のため息に申し訳なさそうに体を小さくして頭を下げた。 「こら。子猫を悪く言うことは禁止したはずだろ?」 「……だって……」 「子猫は何も悪くないんだから、謝っちゃいけないんだ。いいね?」 「……だけど……」 「私の方が謝るべきなんだ。・・・つい、考え事をしてしまって・・・ね。」 昭彦がそう言って苦笑すると、子猫は不安な色が消えない大きな目で、不思議そうに昭彦の顔を見つめた。 子猫が聞いていいものか、どうかも迷って言葉を失っていたので、 「・・・私もかなり人を傷つけて生きてきたからね。」 と、自嘲気味に言った。と、子猫は目を見開いて、 「そんな…そんなこと……誰でも経験してると思うけど?」 と抗議するように言った。 昭彦はちょっと驚いて、え?、と表情で尋ねると、子猫は、 「…だって……神様じゃない限り…そうしようと思ってなくても…誰かを傷つけてしまうことって…誰にでもあるでしょう?」 と、言いにくそうに悲しげな表情で言った。 「・・・確かに・・・それはあるだろうが・・・」 「…それに……傷つけるって…承知していても…どうにもならずに…傷つけてしまうことだってあるもん…」 子猫は涙ぐんでうつむいてしまった。 今度は昭彦が聞くに聞けない状況になっていた。 「…猫も……承知で傷つけちゃったことあるし……人の生き方や考え方をどうこう言える資格ないし……人の生き方をどうこう言うこと自体が…違うと思うから……昭彦が…どんな生き方をしてきたとしても…今の昭彦が好きだから…それでいいの。……それに…昭彦…すっごく優しくて…温かいもん。……さっきの人達のことも…別に嫌いじゃないし…そうやって楽しく話せる人って…ある種…凄いなぁって感心しちゃう。……ただ…言葉そのものが…苦手なの。……言葉が胸に突き刺さるようで…息苦しくなっちゃうだけなの。……だから、やっぱり…昭彦に嫌なことを思い出させた…猫がいけなかったの。…ごめんなさい。」 自分の意見を言うのが苦手な子猫が必死でここまで語ったのは、昭彦を誤解から苦しめたくないと思ったからだろう。 昭彦は子猫の思いが切なく、愛おしかった。 「ありがとう。・・・子猫はいい子だね。」 昭彦は子猫を愛しい、可愛い、と思いつつ、あまりにも懸命に話すことに集中した為、アイスクリームがすっかり溶けて、子猫の手をベトベトに汚してしまっているのが、意地らしくて可笑しかった。 もう、ハンカチで拭ったくらいでは対処しきれないだろう。 本当は舐めて綺麗にしてやりたい所だったが、 「気持ちはよくわかったから・・・取り敢えず・・・その手を洗ってこよう。」 と、言った。子猫は拗ねたように口をへの時にして、 「…ぁぃ…」 と小さく答えた。 |
| <*10*> 「聖夜の贈り物」 |
<*10*>「聖夜の贈り物」 12月24日、クリスマスイブの日が高校の終業式だった。 子猫は、「イブは泊まれるようにするね。」と、耳まで赤く染めて言っていた。昭彦は、まだ早いと思いつつも、子猫からそう言ってくれた気持ちが嬉しかった。 ただ、アパートに一晩泊まって”何もない”状態はきっと子猫を悲しませるだろう、と思うと、何か違う形で夜を一緒に過ごせるように考えなければならなかった。 聖夜に結ばれることを、昭彦も考えない訳ではなかったが、この前の子猫の話を聞いて思い留まることにしたのだ。 怖いものなどないと思うてきた。・・・全てを運命やと思えば、どんなことかて受け止められる。・・・けど、今は子猫を失うのが正直怖い。運命やなんて諦めきれへん。 昭彦は子猫が、「今の昭彦が好きだから、どんな過去があってもいいの。」と言ってくれていても、それがどこまでの許容範囲で言ってくれたのかがわからなかった。 まだ、16歳やで。半熟卵にもならへん歳やがな。殻を割ってみたら、温泉卵みたいに白味が崩れてもうた、なんて冗談にもならへん。取り返しがつかんようにならんよう、今は大事に温めとく時期や。 怖いよりも好きな気持ちを選べるようになるまで、そして子猫にとって自分が掛け替えのない存在になるまでは、昭彦には手が出せなかった。 イブ当日。 昭彦は午前中に東竜会に用事があって、昼まではどうしても時間の都合がつかなかった。それで、子猫と昼にいつもの漫画喫茶で待ち合わせをした。 少し遅れて来てしまった昭彦は二階への階段を駆け上った。 が、漫画喫茶に子猫の姿はなく、ゲーム売り場だけでなく一階売り場も全て探したが、子猫の姿はなかった。 これまで子猫が約束に遅れることは一度もなかった。むしろ、本を読む時間が欲しいからと、いつも早めに来ていたのだ。 昭彦は漫画のストーリーのいい加減さについていけない所があって、読む気にはならなかった。子猫は時々涙さえ浮かべてストーリーに入り込んでしまうことがあったが、昭彦には不思議な光景だった。 どうせ待つなら入り口のブースの所で缶コーヒーでも飲んでいる方がいい、とガラス戸越しに見える駐車場や通りを眺めていた。 1時間以上が経過して、昭彦は子猫に何かあったんじゃないか、と不安になってきた時、通りに泊まった車から子猫が降りてきた。そして、車を運転している男に頭を下げると、うつむきがちに店の入り口へと歩いてきた。 昭彦は思わず店から飛び出していた。 「子猫!」 子猫にぶつかりそうになりながら昭彦が厳しい口調で言った。 驚いたように顔を上げた子猫の目が明らかに泣いた後だとわかる赤く潤んだものだったことが、一層昭彦を焦らせていた。 「誰と一緒だったの?」 車を追いかけたかったが、すでに走り去ってしまっていた。 「……知り合い……」 子猫は視線を逸らすようにうつむいて口ごもりながら答えた。 「それは答えになっていないな。知り合いじゃなかったら困るだろう?・・どんな知り合いなのかを聞いているんだけどね。・・ん?」 なるべく声を荒げないように気を付けて聞く。 「……ごめんなさい……」 泣きそうな震えた声で言う子猫に、こうした通りで問いただすのは無理と判断した昭彦は、 「アパートで話そうか?」 と言って、子猫が手にさげていた荷物を持ってやった。 アパートへは歩いて15分ほどかかったが、店内で周囲の視線を気にしながら話すことではないように思えたのだ。 子猫は毛糸の手袋をはめた手で口元を押さえながら、荷物を持って先を歩く昭彦の後に従った。 落ち合ったまま出掛けようとしていた昭彦は部屋を暖めておかなかったので、午前中留守だったこともあり、部屋はすっかり冷え込んでいた。 「部屋が暖まるまでコートは着ていなさい。」 昭彦は子猫が入り口でオーバーコートを脱ごうとするのを止めて言った。 「…うん…」 子猫は頼りなげな声で返事をすると、居間の冷え切ったカーペットに座った。コートを着たまま室内で座るのは居心地が悪そうで、肩を小さくしている。 「今、暖かい飲み物を入れるからね。」 昭彦はホットカーペットのスイッチを入れて優しく話しかけた。 厳しく問いただしたい気持ちはやまやまだったが、泣きそうな顔の子猫をこれ以上追いつめても、何も答えられなくしてしまうだけに思えたのだ。それよりも、ゆっくりと時間をかけて聞いてやる方がいいだろう、と昭彦自身のはやる気持ちを押さえていた。 「少しは暖まったかな?」 「…うん…」 子猫は昭彦の入れてくれたココアを掌で包むように飲んでいた。毛糸の手袋が熱さを緩和して、ココアがミニ湯たんぽ状態になっていた。 湯気が毛糸の帽子から出ている前髪にかかって毛先がふわっと揺れる。 「・・・落ち着いた?」 昭彦は自分用に入れた緑茶をゆっくりと飲みながら聞いた。 「…わかんない…」 子猫は潤んだままの目で大きくため息をついた。頬や鼻先が赤っぽくなっているのは寒さのせいだけではないだろう。 「けっこう部屋も暖まってきたから、コート脱いでも大丈夫だよ。」 「…ぁ……うん…」 子猫はココアのカップをテーブルに置くと、言われたようにフード付きのオーバーコートを脱ぐ始めた。毛糸の帽子と手袋も外して、コートと一緒に昭彦が置いた荷物の側に置いた。 子猫の荷物は泊まれるように用意した物を入れたバッグと、おそらく昭彦へのプレゼントが入っているだろう紙袋の二つだった。荷物を持ってやる時、チラッと上から赤い大きなリボンがかかっているのが見えた。 当初の計画では、そのまま駅に向かい列車に乗る予定だった。 が、子猫が遅れて来た時点で買っておいたチケットの列車の時刻を過ぎてしまっていた。そのことは怒るつもりはない。計画は子猫には話していなかったし、列車に乗ることも秘密だったのだ。列車の時間があるから遅れないように、と言っておかなかった責任は自分にある、と昭彦は思っていた。 ただ、知りたいのは遅れた理由とあのスーツの肩だけ見えた運転手との関係だ。 「そろそろ・・・話して貰えるかな?」 昭彦は子猫にもう一杯ココアを作ってやってから、静かに話しかけた。 子猫は湯気の立つ入れ立てのココアをぼんやり眺めていた。 「・・・どうして遅れたの?」 「…遅れて…なかった…けど…」 眉を曇らせた子猫が唇を噛む。 「…お店に入ったら…彼が声をかけてきて…話がしたいって言うから…」 「・・・彼?」 無意識だったが昭彦の眉間にシワが刻まれていた。 「…元カレ…」 昭彦は一瞬目の前が赤く染まった気がした。体中の血が怒りに沸騰する。表に出すまいとするものの、頬が痙攣する。 「…昭彦には…彼と話してるとこを見られたくなかったから…それで他の店で話すことにしたの。」 「別れた奴と何を話すことがあるんだ?」 怒りを抑えようとしても言葉がきつくなってしまう。 「…それは…わからなかったけど…どうしてもって言うから…」 子猫の声が悲しそうに震えてくる。 アホんだら!悲しいんはわしの方やで! 「・・・で?・・・何を話したんだ?」 「…奥様と…別れたって…」 ・・・??!! 昭彦はあどけない顔の子猫から零れ出す言葉の重大さに返す言葉が見つからず、腕組みをして、うつむいたままの子猫の顔を見つめた。 「…でも…別れてから…またノイローゼになった奥様が…」 子猫はここで一度言葉を切るとしばらく言いにくそうにしていた。 目に涙が溢れてくる。子猫は苦しそうに顔を歪めて目を閉じた。 「…自殺してしまったって…」 昭彦は沸騰していた血が一瞬で凍結したように感じ、息がつまりそうになった。 「…付き合っていた頃も…猫のせいで…流産しちゃってて… … …今度は奥様まで… … …猫は… …二つの命を奪ってしまった…罪深い子なの…」 子猫は顔を両手で覆うと声をあげないように泣いた。自分には泣く資格もないと思うのか、グッと歯を噛みしめて、肩を震わせている。喉も激しく震え、押さえきれない嗚咽が手の中から洩れてくる。 昭彦にとっても子猫の話はショックを受けるものだった。事実そのものよりも、子猫がそれを言うことが衝撃だった。 確かに子猫から男を狂わせるほどの魔性を感じ取ってはいたが、16歳というまだまだ子供と言うべき年齢でそこまで魔性が表に出ていたとは思っていなかったのだ。 「・・・なにも・・・子猫が原因とは限らないだろう?」 昭彦は泣くことも許せないほどに自分を責めている子猫を、これ以上責める気持ちがなくなっていた。それよりも、どうしてそうなったかの事情がさっぱりわからないのだ。 子猫は昭彦の言葉に両手で顔を覆ったまま激しく首を振った。 「…猫が悪いのぉ…」 「・・・けど・・・子猫は別れたことも知らなかったんだろう?」 子猫はしゃくりあげていて黙っていた。 「・・・知らなかったんだよな?」 昭彦がもう一度確認すると、小さく頷いた。 「つまり子猫が別れた後で、そいつは離婚したんだろう?」 「…そう…だけど…」 「で、・・・子猫が別れた理由はなんだったんだ?」 「…彼が…浮気したから…」 「だったら、そっちの女が原因って可能性だってあるじゃないか。」 「・・でも…浮気は遊びで…それに…取引先に紹介する子を見つけたりって…仕事に利用していたから…」 「子猫もそうなのか?!」 子猫はようやく顔から手を離し、悲しげに首を振った。 「…猫には本気だって言ってくれたの。」 「信じられるんか?」 「…だって…そうゆう浮気なら奥様も認めていたんだもん。」 「・・・ほう・・・」 「…でも…猫に本気になったのが…許せなかったって…」 「勝手な言い分だな。浮気を認めていれば、いつかは自分よりも好きになる女が現れて、亭主の気持ちが移ってしまうと考えてなかったっていうのか?・・そこまで自信家とは・・呆れるね。・・・結局その自信が亭主の浮気を止められず、たまたま子猫に本気になっただけやろが。」 あ・・・語尾に大阪弁が・・・。 昭彦は大きく息をして、気持ちを落ち着かせることにした。 「…亡くなった方を…非難しないで…」 子猫は辛そうに言った。 「だったら、別れた後まで子猫を苦しめないで欲しいね。だいたい、何でそんなことを子猫に話す必要があるんだ?苦しめるとわかっていて、言う必要があるのか?」 「…猫と…やり直したいって…」 「はぁぁぁ??」 「…別れてすぐに連絡しようと思ってたんだって。…だけど…そんなことがあって連絡出来ない状況だったって。」 「離婚したからって、それが理由で別れた訳じゃないなら、やり直すも何もないだろうに・・・」 「…うん…」 「それも今頃になって・・・」 「…彼も奥様のことには責任感じてて…猫のことは諦めていたらしいけど…たまたまお店で見かけたら、声をかけずにはいられなかったって…」 「なら、子猫に会う為に店に来たってことじゃないんだな?」 「…うん。…お子さんへのプレゼントを探してたみたい。」 「あ?・・・子供?」 「…うん。…お仕事が忙しかったから、頼まれてた物を買いそびれてあちこちの店を探してたらしいの。」 「・・・子猫はプレゼントのついでかい。・・・はん、呆れるね。・・・で、子供のプレゼントついでに、子猫にも辛いお話をプレゼントしてくれたって訳か。・・・最低の男だな。」 昭彦は吐き捨てるように言った。 「…そんな言い方しないで…」 「そいつを庇うのか?」 昭彦が眉をひそめて顔を覗き込むようにすると、子猫は困った表情で小さく首を振った。 「…彼だって…苦しんでたんだもん。…だから…仕事に没頭することで、その苦しさから逃れたかったって。…でも…お子さんのことはすっごく愛してる人だから…」 「だったらプレゼントだけ買えばいいだろ。」 「…昭彦は…別れたら…すぐに忘れられる?…もう別れた相手って思ったら…わりきれる?」 そう言って昭彦を見つめた子猫の目は、悲しみを湛えた湖のように透明に澄んで揺れていた。 何て綺麗な目なんや。これだけの過去を背負いながらも、心は穢れを知らないままや。 「・・・本気で惚れてたら・・・忘れられないだろね。」 昭彦はふと一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。 「…だから…彼も、思わず声をかけてしまってた、って。…彼もきっと辛かったから、誰かに愚痴りたかったんだと思うの。…でも、彼の周囲で事情を知っている人達は彼が泣くことは許さなかったのかも。」 「男には自分の責任を受け止めるべき時があるさ。」 「…女にはないの?」 「知らん。・・・子猫が直接何かしたんか?違うだろ?・・そんな話は後でいい。問題にしているのは、そいつのことだ。」 「…ごめんなさい。」 「それで、子猫はどう返事したんだ?」 「……え?」 「よりを戻したいって言われたんだろ?」 「・・あ…うん。…それは…猫も…罪を感じてるし…すぐには受け止めきれないほどに重い事実だけど…お互いを支え合える時期は過ぎてしまったの、って…」 子猫は苦しそうに息継ぎをした。 「…今…すごく好きな人がいて…もう気持ちは戻せない、って…」 昭彦は目を閉じて顔を上に向けた。 良かった。・・・それさえ聞ければ、もう充分や。 再び目を開けた昭彦の眼差しは優しさに溢れていた。 「わかった。もう、それでいい。・・・話してくれてありがとう。・・・辛いことまで聞いてしまったが、聞かないでいるよりは良かったと思うよ。子猫の苦しみがわからないままでは、私も辛いからね。・・・ただ、その男が話したことはやはり許せないな。一人で抱えきれない罪の意識を子猫に背負わせることで、やり直す理由を押しつけているようじゃないか。」 「…そんなこと……だって…つき合えないって言ったら、わかってくれたもん。……きっと…彼も泣きたかっただけだと思うの。…自分を責めない相手の前で…」 「罪を背負うても、男は承知で覚悟して生きるものだ。」 「…女は?」 「いや・・・だから・・・男は女を守るべきで、その為ならどんな罪もいちいち女に披露したりせずに黙って背負うべきだと言ってるんだ。・・・女は・・・何があっても・・・男に甘えてればいい。」 「…それって…変…」 子猫は思いきり眉を寄せて目を瞬かせた。泣き腫らした瞼が重そうで、残っていた涙がポロリと零れて頬を伝う。 何て可愛いんや。こない可愛い子にどないな罪があるっちゅうねや。 「変でいいよ。私がそう思ってるだけのことだからね。」 昭彦はそう言うとクスクスと笑った。そして、 「だから、子猫は何も考えずに私に甘えていればいいんだ。」 と微笑んで子猫を見つめた。 「…昭彦ぉ…」 子猫がまた泣きそうに目を潤ませる。 「もう泣かないこと。・・・結局彼だって娘の為にプレゼントを買ってただけのことだし、私達には私達の聖夜がある。それを壊す権利が誰にあるっていうんだ?・・そうだろう?」 昭彦は気分を変えるようになるべく明るく言った。 けれど、子猫は悲しげにうつむいてしまう。 「……猫には…聖夜を…過ごす資格…ない……」 「聖夜は誰にでも訪れるものだよ。・・・カレンダーの通過点と言ってしまえばそれまでだが・・・子猫には私というサンタクロースもいることだし、堂々と胸を張ってればいい。」 「…そんなの…無理だもん…」 「聖夜に資格がいるならそれこそ不公平きわまりない。もっと悪どい奴等だって聖夜には善良な顔をする。・・それでいい。束の間の善良さでも救われる誰かがいるなら。・・元々幸せな人々の為にサンタクロースが存在した訳じゃないだろう?貧しさや悲しみや苦しみに喘ぐ人々を救う為に存在したんだ。・・・子猫の心が、今、苦しみに喘いでいるなら・・・私が子猫のサンタクロースになる資格は・・・充分あると思うね。」 そう言って昭彦は立ち上がった。 「少し遅れてしまったが、出掛けよう。」 子猫は促されるまま半分魂が抜けてしまったように力無く立ち上がった。すぐに元気を出せ、と言う方が無理だと思った昭彦は、そっと見守っていた。 駅から昭彦は電話をしていた。 それから、取り敢えず行き先までの乗車券はあるので、すぐに出る特急に乗り込んだ。通路まで人が溢れているような状態で、空席を見つけることは無理だったので、乗降口のスペースで立っているしかなかった。 いくつかの駅で乗り換えて、目的の小さな田舎駅に到着したのはすっかり日が暮れた後だった。 それでも、電話しておいたので4WDの車が迎えにきてくれていた。 「少し予定が狂ってしまって、手数をかけました。」 「いえいえ。堀田さんから充分お持てなしするように言われておりますので、何でも言い付けてください。」 初老の男はそう言って人の良さそうな笑顔で頭を下げた。 車の中で子猫がわけがわからないような顔をしていたので、 「堀田さんは私の知り合いでね、今夜は堀田さんの別荘を借りているんだ。」 と昭彦が説明した。 「暖炉に火を入れておきましたし、部屋は暖まってます。どうぞゆっくりされてください。」 運転をしながらそう言った初老の男は、かなりの山を登った先にある別荘で昭彦と子猫を降ろすと、下の村にある自分の家へと帰っていった。 ログハウスになっている別荘に入ると、暖かい空気が木の香りとともに包み込んでくれた。 昭彦は荷物を置くと、火の勢いが弱まっている暖炉の薪の状態を調べて、新しい薪をくべ始めた。 火がまた勢い良く燃え上がったので、 「さて、少し薪を割ってこよう。」 と裏の物置の方へと出ていった。 「子猫は休んでいなさい。ずっと立ち通しで疲れただろう?」 と、昭彦は言ったが、子猫も行ってみることにした。 雪国は雪が踏み固められて地面になっていることを、雪の上に置かれた薪割りの道具で実感した子猫だった。 子猫がしばらく眺めていると、 「やってみる?」 と額に汗を滲ませた昭彦が言った。 「うん。」 と、笑顔で頷いた子猫だったが、見ていた時とは違ってオノの重さに体がよろけて、昭彦のように中心をスパッと割るような訳にはいかなかった。そもそも目の前に置いた木片にオノが当たらないのだ。 何度か挑戦して、ようやく木片にオノが刺さったものの途中で止まってしまった。 「もう一度そのまま振り下ろせば割れるよ。」 と、言って昭彦も手を添えてくれたので、やっと一つを割ることが出来た。 「まだ、することはたくさんあるから。」 と、後は昭彦が替わり、かなりたくさんの薪が出来たので、二人で抱えて部屋に戻った。 充分な薪も用意出来たのを確認した昭彦は、部屋の隅にあった荷物を暖炉の前に運んできた。 「…何?」 「まだ、プレゼントじゃないよ。」 昭彦はクスッと笑って言った。 「先にここへ送っておいた物だよ。聖夜の為にね。・・・この部屋に欠けている物がある。さて、それは何かな?」 そう言われて子猫が部屋を見回すと、何も飾りつけられてないもみの木が静かに佇んでいた。 あっ、と振り返った子猫に、昭彦は笑顔で、うんうん、と頷き、 「子猫にはツリーの飾り付けをして貰おうと思ってね。その間に私は食事を作ろう。・・・適当に買っておいた飾りだから好きにしていいよ。」 と、箱を開いた。 「えー…上の方…手が届かないよぉ…」 これまで飾ったツリーはもっと小さなものだったのだ。 「大丈夫。・・・そこに踏み台もあるから。」 昭彦は、困ったように頬を膨らませている子猫に、にっこりと笑うと、 「どうしても難しい時には手伝うから、頑張ってみようね。」 と、言って、自分は料理の準備の為に調理場へと行ってしまった。 飾り付けがこれほど大変な作業になるとは思わなかった。 電飾と一番上の星飾りは昭彦に手伝って貰ったが、後は何とか一人で頑張った子猫は、何とか飾れたと昭彦に報告した時にはぐったりと疲れてしまっていた。 「よく頑張ったね。」 と昭彦が誉めてくれたのと、電飾のスイッチを入れた時に煌めく光の豪華さに、子猫は疲れも忘れて嬉しくなった。 調度昭彦の料理も出来上がったので、テーブルに並べ、シャンパンを開け、 「メリークリスマス!」 と、乾杯をした。 かなり夜も遅くなっていて、かなりお腹が空いていた子猫は、いつもの倍くらいの料理を食べていた。 暖炉の前で食休みをしながら、チカチカと煌めくツリーを眺めて、 「せっかく苦労したのに…一晩だけの飾りじゃもったいないなぁ…」 と子猫が呟くように言うと、 「それを言ったら、花火はもっと悲惨だよ。」 と昭彦が苦笑した。 「でもね・・・一瞬でも、心に一生残るなら・・・それは素晴らしい価値があるだろう?・・・今夜、子猫が飾ってくれたツリーを・・・私は一生大切な思い出にするよ。」 暖炉の炎に照らされた昭彦の顔がいつもに増して、妖しいほどに美しく見えていた。黒目がちの目はいつも以上にキラキラと輝いている。 子猫はうっとりと見つめ、昭彦からほのかに香る麝香の香りに酔っていた。 静かに語る時間が過ぎていく中で、子猫は次第にドキドキと緊張をしていく自分に、頬を赤く染めていた。それでも暖炉の火で誤魔化しながら、昭彦の次の行動を待っているようだった。 「それじゃ・・・」 と言って昭彦が立ち上がった。 子猫がのぼせたような顔で見上げる。 「ちょっと出掛けよう。」 昭彦の言葉に子猫はキョトンとした顔になった。 「・・・連れて行きたい場所があるんだ。」 昭彦は優しく微笑んで言った。 もう真夜中だと言うのに、と怪訝な表情の子猫だったが、それでも言われるままに支度をし、寒いからと子猫のコートの上から更に厚手の防寒着を着込まされた。 昭彦もかなり着込んで、リュックに毛布までつけて背負った。 「…何処行くのぉ…?」 子猫が不安になって聞くと、 「行けばわかるよ。・・・天気が晴れてて良かった。」 と言って星空を眺めた。 子猫も毛糸の手袋で口元を押さえて白い息をはきながら見上げた。 「行くよ。」 昭彦に声をかけられて、子猫は後についていく。 「そんなに遠くはないから。」 と、昭彦はカンテラで照らしながら進んでいく。子猫も持たされた懐中電灯で足元を照らしながら進む。 昭彦の足跡の上を歩くようにしながらも、膝上まで埋まってしまう雪に足を取られて、何度も転びそうになりながら必死でついていった。 何処を目指しているのか、どれくらい歩いたのかを認識するのはもう子猫には無理だった。ただ、必死に昭彦の足跡をたどっていくばかりなのだ。 時々風が吹き抜けると、雪が高い所からバサバサッと落ちてくる。 別荘の裏手の森に入っていってるのだろうとは想像がついたが、それ以外は真っ暗で何もわからなかった。 毛糸の帽子の上からフードを被り、口元をマフラーで覆っていので、直接感じる寒さは目と額くらいだったが、それでもキンキンと冷たさが伝わってくる。 息を切らせ、ふらつく子猫が、もう歩けないと立ち止まろうとした時、 「ここだよ。」 と昭彦が言った。 何とか昭彦が立っている場所まで行って、隣りに並んだ子猫に、 「懐中電灯を消してごらん。」 と言った昭彦は自分も持っていたカンテラを消した。 辺りが暗闇に包まれた。 何もないただの暗がりのようだった。だが、次第に暗闇に目が慣れてくると、森を抜けて広い空間に出ていることがわかってきた。 「これ以上は進んではダメだよ。ちょっと先は崖だからね。」 昭彦は背負ってきたリュックを降ろし、毛布で子猫を包み込んだ。 「…昭彦……どうしてここへ来たの?」 「見てごらん、子猫。・・・ここからだと地平線まで星がよく見えるだろう?」 「…うん。」 「まるで星と地球が触れ合うようじゃないか・・・」 「…うん。」 「ギリシャ神話の神々が人々と深く関わり合っていた時代を思いおこされるようだろう?」 「…う…ん…」 子猫にはよくわからなかったが、ここがとても星空の綺麗な場所なのだということはわかった。 「…綺麗…」 「気に入って貰えた?」 「うん。…素敵な聖夜をありがとう。」 昭彦は毛布の上から着ぶくれしている子猫を抱き締めた。 「子猫・・・愛している。・・・この地上・・・この宇宙のあらゆる存在の中で・・・子猫だけを愛している。・・・私が存在する理由はどこを探してもみつかるものじゃない。何故なら、それはここにいる子猫の中にあるのだから。・・・こうして私の腕の中に子猫がいてくれることが、私の喜びなんだ。・・・満天の星空の下、静寂と地平線まで続く空間に包まれていても、・・・子猫といれば私は孤独ではない。・・・そう・・・やっと、私は孤独から解放される。」 「…あきぃ…」 「ずっと一緒にいよう。・・けっして離れずに・・」 「…うん。」 「だから・・・私の大切な子猫を責めたり苦しめたりしないで欲しい。」 「……昭彦……」 「子猫はどれほどの愛が欲しい?・・この星の数ほどの男に愛されたい?・・地上に存在するあらゆるものから愛されたい?」 「ううん。そんなこと思わないよぉ…」 「神様が自分を許してない、と思う?」 「……それは…わかんない……」 「ねぇ、子猫。・・・私達がこうして出会えたことが神様からの最高の贈り物と思えないか?・・・私はそう思っているよ。」 「猫も…昭彦に出会えたこと…神様に感謝してる。」 昭彦は優しく微笑んでゆっくり頷いた。 「だから・・・子猫は神様に充分愛されている子だよ。」 「…あ…き…」 子猫は胸が熱くなって涙が込み上げてきた。 「泣かないで、子猫。泣いたら涙が凍ってしまうよ。」 「…だって…」 子猫はポロポロと涙を零してしまっていた。 「あ・・・マジに凍るから・・・」 昭彦は慌ててカンテラをつけるとリュックからポットを出して、熱いレモネードを注いで子猫に渡した。 「熱いから気を付けて。」 「…っ…うん…」 「ほらぁ・・・言ってるそばからこれなんだからなぁ・・・」 「…だってぇ…」 「落ち着いてゆっくり飲みなさい。いいね?」 「うん…」 昭彦は子猫が飲み終わるまで、星空を指差しながら星座の説明をしてくれた。 来た道を戻って、やっと別荘に帰り着いた時には、子猫はクタクタに疲れきってしまっていた。 それでも日付が25日になったこともあって、プレゼントをお互いに開けてみよう、ということになった。 昭彦からのプレゼントは真っ白なミンクのコートと帽子のセットだった。 子猫は目を丸くして、 「これって豪華すぎるよぉ…」 と困った顔をしていたが、 「・・・気に入らなかった?」 と昭彦が不安そうに聞いたので、 「ううん。…すっごく嬉しいー!…ありがとう!」 と笑顔でお礼を言った。 「…でも…猫のプレゼントが…ヘボすぎるかも…」 今度は子猫が不安そうに言った。 子猫のプレゼントは模様編みが綺麗なベストだった。 「あ…別に時間がなくてベストにした訳じゃないよぉ…だって…昭彦は外へ行く時にはいつもキッチリ決めてるから…だから…お部屋で着るなら…セーターより楽かなぁって…」 昭彦は輝かせた目を細め、 「そこまで考えて・・あんなに一生懸命編んでくれたのかぁ・・・。ありがとう、子猫。最高に嬉しい贈り物だよ。」 と言うと、感心したように手の込んだ模様を見ていた。 「…昭彦…最高がいっぱいあるみたい…」 「ん?」 「…だってさっきも最高って言ったもん。」 「クックックッ。それとこれとは最高が違うだろ。」 「…ふーん…」 「これを編む為に真っ赤っかになった子猫の手も・・・最高に可愛いよ。」 「…ぁ…知ってたの?」 昭彦が頷くと子猫は恥ずかしそうに膝を抱えて顔を隠してしまった。 しばらくそうしたままでいるので、 「子猫?」 と昭彦が呼びかけたが、子猫の返事はなかった。 そばに寄ってみると、疲れ切っていた子猫は小さな寝息をたてていた。 冷え切ったからだが暖まり、心までぬくぬくと暖まった子猫の寝顔は、穏やかに幸せそうな笑みを浮かべていた。 昭彦はそっと子猫の体を横にしてやると、頭にクッションをあてて毛布をかけてやった。 そして、可愛い寝顔の頬に、そっとキスをし、 「メリークリスマス・・・子猫。」 と囁いた。 |
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