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子猫白書U




<51>〜<55>



<51>
[退院して]
<51>退院して

 玄関から部屋に入るなり薔薇の甘い香りに満たされた。リビングのドアを開けると鮮やかな赤の世界が目に飛び込んできた。
「う・・わぁぁ・・・」
子猫は立ちすくんで目を疑った。部屋中が深紅の薔薇で埋め尽くされていたのだ。
「昭彦ぉ・・・これって・・・何?」
「周さんからの退院祝いや。・・説明は後にして・・も少し前行ってや。後ろがつかえちょるで。・・ソファーにおとなしく座っとき。」
子猫の入院中の荷物を持った昭彦が子猫の後ろに立ち止まってため息を吐いた。子猫は薔薇の間を縫ってソファーに辿り着くと、まだ目を丸くしたまま腰を下ろして部屋を見回していた。
「すっげぇっすねぇ。」
昭彦に続いて橋本がぬいぐるみを包んだ風呂敷を抱えて入ってきた。
「これはこれは・・・クスクス。」
最後に入ってきた石橋も荷物を抱えたまま呆れ顔で苦笑した。
「・・・で、このぬいぐるみはどうしますかぁ?」
「取り敢えず・・ベッドの上に投げておいて貰おか。・・・寝室もこれに近い状態やでなぁ。・・しょうもあらへん。」
「寝室もなんすか?!・・ほぇ・・・」
「感心してないで早く行け。花は倒すなよ。」
石橋に急かされて、橋本は顔が埋もれそうになりながら荷物を掲げ、薔薇を倒さないようにカニ歩きで寝室へ向かった。

「それにしても・・・これじゃぁ息苦しいんじゃないっすか?」
昭彦の入れたコーヒーを、テーブルの上の花をよけて、そっと置いた橋本が改めて部屋を見回して言う。
「空調は清浄機も完備されとるで窒息することはないやろけどなぁ。何しろ朝、出掛ける間際やったから、部屋に運び込むのが精一杯やったわ。・・・二人とも帰る時、好きなだけ持ってったらええ。」
「え・・・いいっす。遠慮しときます。・・・あの周大人の贈り物を横取りしたなんて思われたら、恐ろしいっすよ。たはは。」
「何や、根性ないのぉ。・・・石橋はどないや?」
「そうですねぇ。・・では、ひと抱えだけ頂きます。子供が小さくて暴れ盛りですので、玄関くらいにしか、花は飾れないので。」
「そうかぁ。・・・しゃぁない。マサの店にでも飾らせるか。」
「ああ、それ、いいっすね。若頭のぬいぐるみだって荷物になってるんすから。あっは。」
「言葉が過ぎるぞ。」
石橋が橋本をたしなめる。
「でも、物を贈るにも限度があるんじゃないっすか?」
「橋本!」
「クックックッ。まぁ、ええ。橋本の意見にも一理あるで。」
「だからと言って、軽く見る態度は頂けません。」
「そうやなぁ。・・・周さんの場合は、欧米人へ贈る機会がぎょうさんあるで、日本の住宅事情を考えへんかったんやろ。」
「ああ、確かに。あちらの家は大きいですからねぇ。」
石橋が納得顔で頷いた。そこに、果物を剥いて盛り合わせた皿を持って、子猫がキッチンから戻ってきた。子猫は置き場所に困って、お皿を乗せたお盆を持ったまま、昭彦の隣りに座った。昭彦は一つ一つを石橋と橋本に手渡して、自分と子猫の分を花をよけて置く。
「ありがと。」
と小さく昭彦に言った子猫は、お盆を脇に置くと、
「どうぞ。頂き物ですけど召し上がって。」
と言って、昭彦が入れてくれたミルクたっぷりのカフェオレを飲み始めた。
「すみません。退院そうそうにお手数かけまして。」
石橋が姿勢を正して頭を下げる。
「いいえぇ。こちらこそ、お世話になっちゃって、ありがとうございます。入院中は度々奥様が来て下さって、色々助けて頂いたんですよぉ。よろしくお伝え下さいね。」
と、言って子猫も頭を下げた。
「そう言って頂けると妻も喜びます。女房の奴が子猫さんは女でも惚れたくなる可愛い方だって・・・いや、ウチが男の子二人なので、女の子を欲しがってたものですから。」
「あははは。石橋さんの奥様、まだ若いもん。これから出来るでしょ?」
「いやいや。もう、すっかり母親専業で・・・」
「えー・・・そんな職業ないと思うなぁ。女はいつだって女で、愛されたがってるんだもん。あんなに素敵な女性なんだから、浮気なんてしてないで、大事にしなきゃ。今度、猫の前で浮気に走ったら言いつけちゃいますよぉ。ふふふ。」
「・・ったたた。・・・参りました。」
「お!女同士の同盟っすね。あははは。」
「クックックッ。怖い伏兵が現れたなぁ?」
「参りました。」
石橋が再びそう言って困った顔をしたので、昭彦も子猫も橋本も笑い出し、石橋もつられるように笑った。
 しばらく和やかに話していたが、
「あまりゆっくりもしちょれんねや。」
と昭彦が時計を見て言った。
「そうですね。」
と石橋も襟を正した。
「せやけど、このまま子猫を花に埋もれさしとくんも心配やなぁ。急ぎ、マサのとこの誰かに取りに来て貰おか。」
「はい。」
石橋がポケットから携帯を取り出す。それを見ながら、
「・・・もったいないなぁ。」
と子猫が呟いたので、番号を押そうとしていた石橋の手が止まった。
「ずっとこのままにはしとけんやろ?」
昭彦が子猫の肩を抱き寄せて、こめかみにキスをした。
「だって・・・お店に飾ってもインテリアの一部にすぎなくて・・・誰にも見られず誉められず枯れていくだけじゃ、お花が可哀想じゃん。」
「ベッドの上かてぬいぐるみやら人形やらで寝る場所もあらへんのや。せめて半分に減らさんことにはどうにもならへんで。」
「・・・うーん・・・ポプリとかに出来ればいいんだけどなぁ。」
子猫がまだ納得出来ずに愚図っていると、
「あ!それなら自分の彼女が作り方知ってるっすよ。よく花束を貰うから、やっぱりもったいないって言って作ってましたから。」
と橋本が言った。
「今日は仕事はないはずなんですが・・住んでるのが隣りの県なんで、少し来るのに時間がかかるかも知れないっすけど、来させて手伝わせますが・・・」
「そうだな。すぐに連絡して確認してくれ。・・来れるようなら、ウチの奴も手伝いに来させますから・・・どうでしょう?」
「そやなぁ。そうして貰えるか?」
「はい。」
石橋と橋本はそれぞれに連絡を取りだした。子猫は急に動き出した展開に呆気にとられていた。組織の上に立つ人の恋人でいるというのはこうゆうものなのか、と他人事のように感心してしまった。そして、組織が厳しい掟があればあるだけ、そこに所属する男を恋人にした時、自分の意志に関わらず要求される義務が付随するのだろうか。
 だから、昭彦は組織に戻ったのか。関わらないようにしても切れない縁なら、外側にいるより内側にいた方が子猫にとって安全であること。そして、組織で誰も口出せないだけの力を得るには、自分が組織の大きな財源になること。その為に、周との取引きを本格化させようとマサを中国へ行かせたのだ。本来ならもっと大きな組織とする取引きを昭彦にさせている、と周が話していた。そこから生まれるお金は子猫には想像出来ないほどのものなのだろう。そうやって、組織の者、組長でさえ意見出来ないほどの力をつけた昭彦の、そうせざるを得なかった理由が子猫なのかも知れない。
 そう思うと子猫は自分の存在が怖くなった。何気なく言った言葉が、相手の都合も関係なく呼び出させてしまうなんて。
「橋本の彼女は2時間ほどで来られるそうです。ウチの奴には留守中のお手伝いもするように言っておきましたので、1時間後には伺えると思います。」
石橋が連絡の結果を報告した。
「そんなぁ・・・だってお子さんはどうするのぉ?」
「女房の実家が近いので預けられますから、大丈夫です。」
「・・・だけどぉ・・・」
「悪いなぁ。すまんがそうして貰えれば安心やで。・・子猫もあれも嫌やのこれも嫌やちゅうてたら埒があかんやろ?」
昭彦は戸惑い顔の子猫を膝に抱き上げると、宥めるようにキスをした。
「どうぞ、お気遣いなく。ウチのは子猫さんのファンですから。」
「そうっすよ。自分の彼女も一度子猫ちゃんに会いたいって言ってたんす。今も喜んですぐに来るって言ってました。」
「・・・なんでぇ?」
昭彦の腕の中で肩にもたれながら、子猫は半信半疑の上目遣いをした。
「あ・・・いえ・・・あははは。」
「じろぉぉぉ・・・あやすぃ〜・・・」
「いや、本当なんっす。・・実はこの前喧嘩した時、つい・・子猫ちゃんのことを出して誉めちゃったもんすから。」
「えー。そしたら猫を調べに来るんじゃん。・・・うぅぅ・・・猫・・・ミジメかもぉ。」
「そんなことないっすよ。子猫ちゃんみたいに可愛く甘えたら、自分ももっとドクターのように大事にする気になる、って言ってやったんす。」
「クックッ。そらええ心掛けや。子猫はホンマに可愛いでぇ。」
「・・・昭彦さんは・・もっと大人になれってゆーくせにぃ。」
「あれはわしも、いつ子猫をさらわれて殺されんかと苛立っちょった時やったでなぁ。周さんはどんな手を使うても、自分の目的を果たす人やで・・・その、周さんをここまで態度変えさせたんは子猫自身や。・・・今はマサに負けんくらいのファンらしいで。子猫に移植する心臓が必要になったら、いつでも用意しちゃるっちゅうとったわ。」
「・・・嫌ぁ・・・」
子猫は昭彦の肩に顔を隠してしがみついた。
「今やのうて、必要になったらやがな。」
「それは心強いですね。心臓は適合するタイプを探すのが大変らしいですから。」
「そやな。・・せやから適合するまで10でも100でも用意させるっちゅうてな・・」
「嫌ぁぁぁーーー!」
子猫が肩に顔を埋めたまま首を振って怖がるので、
「そうならんのが一番やがな。な?」
と、背中をトントンと軽く叩いて宥める昭彦だった。橋本が思わず、
「ひぇぇ・・・10や100って言葉を聞くとさすがにゾッとするっすね。」
と、言うのを、
「シッ!」
と、強ばった表情の石橋がたしなめた。が、石橋自身も周の得体の知れない怖さに、改めて背筋の凍る思いを感じたようだった。100の移植に最適な心臓を用意するには、その数10倍数100倍の生きた心臓から探さなければならないのだから。

 子猫がすっかり怖がってしまったので、石橋夫人が来るまで、昭彦達は出掛けることが出来なかった。石橋夫人は穏やかな笑みを浮かべて、子猫に話しかけてくれたので、子猫も少し気持ちが安らいだようで、ようやく仕事に出掛けていった。
 橋本の彼女の礼子という女性は約束通りの時間に現れた。石橋夫人がマンションの下まで迎えに出てくれた。センスのいい、おしゃれな服を着こなした美人で、そのスタイルの良さに圧倒された。手足が異様なほど長く感じる。レースクィーンだけあってあか抜けているし、明るい笑顔が印象的だった。
「子猫さんですか?・・キャァー!可愛いー!私ファンなんですよぉ!」
と抱きつかれても困惑してしまう。子猫は圧倒的に明るい人の前では言葉が出なくなってしまうとこがあった。でも、間に石橋夫人が入ってくれて、どうにか会話を成立させることが出来た。そして、薔薇の花の量が半端ではないので、さっそくポプリ作りに取りかかった。礼子はポプリだけでなく、鮮やかな色を残したまま作るドライフラワーも教えてくれて、今度食用の薔薇を貰った時にはジャムの作り方も伝授しますね、と明るい笑顔で言った。
 昼頃から始めた作業は夕方までかかって、ようやく部屋のスペースを取り戻せるまでになった。すぐには完成しないのも部屋の隅に整理された。使わない茎の部分をゴミに出したので、かなり部屋の中がすっきりした。
 礼子は橋本に電話して会う約束をしたらしく、それじゃぁ、と嬉しそうに帰っていった。石橋夫人は子猫の夕食を一緒に作ってくれてから、帰っていった。それぞれにお礼を言って見送った子猫は、夕食を食べる気にはなれず、寝室へと向かった。そして、ベッドにまだ山積みになっていたぬいぐるみの中に潜り込んで、そばにあったいくつかを抱き締めた。朝、退院してからずっと忙しかった疲れが出た子猫は、そのままぬいぐるみに埋もれて眠ってしまった。
<52>
[お盆]
<52>お盆

 これほど過激なセックスをして、どうして一度も発作が出ないのだろうと、子猫自身が不思議に思ってしまう。子猫の発作は気紛れで、理由や原因がつかみにくいらしい。それで、検査もあれこれと要求されてしまう。そんな検査を嫌だなぁと思うと熱を出したり、胸が苦しくなったりと、拒否反応が出てしまう。精神的要因が多いとはいえ、子猫がそうしようとしてそうなるのではなかったが、結果として、子猫の気紛れに左右される為、子猫の母親をして「我が侭病」と言わせしめていた。

 昭彦は腕の中の子猫を満足そうに見つめている。
「・・・そんなに・・・見つめちゃ・・・ぃゃ・・・」
少し泣いた後の鼻声で子猫は拗ねたように言う。終わったばかりののぼせた顔は自分で見ても恥ずかしく感じるのに、それに加えて泣いた後の腫れた顔はもっと恥ずかしい。なのに、昭彦は子猫が半ば夢の中を漂っていた時から、ずっと飽きもせずに眺めているのだ。
「ええがな。・・・可愛いてたまらんねや。」
「目が・・熱・・ぃ・・・」
子猫は天井の鏡で確認してみる。遠くを見るような潤んだ目がゆっくり瞬きをする。力無く剥き出しになった白い体に、昭彦の濃紺の腕が蛇のように巻き付いている。開きかけた足にも昭彦の足が絡まっている。昭彦の体は筋肉質に締まった男らしいもので、広い肩幅と形のいいお尻が子猫のお気に入りだった。
「クックッ。自分に見取れちょんのか?」
子猫の首筋を昭彦の赤い舌がチロチロと舐める。
「・・ん・・・違うよぉ。・・・昭彦を見てるのぉ。」
濃紺と朱に彩られた中央には黒とも灰銀とも形容しがたい勇猛な獅子が佇む。汗ばんだ体は彫り物全体をより鮮明に映し出し、生々しくさえ感じる。まるで、極彩色の大蛇の化身のようだ。
 と、いきなり昭彦が起きあがると、子猫の頭に回って、膝で顔を挟むように座った。
「え?・・・何?」
戸惑う子猫を無視して、昭彦は子猫の両足をつかんで自分の膝まで引っ張り上げた。二つ折りにされた子猫は自分の足の間から苦しそうな顔を覗かせている。
「あきぃ・・・苦し・・ぃ・・・」
頭の上まで両足を引き上げられて、お尻が浮いて、全てが鏡に晒されてしまっている。子猫は恥ずかしさに目を背けた。
「ちゃんと見ぃ!・・いつもそう言うちょるやろ!」
「・・・だって・・・」
「綺麗な花やないかぁ。蜜たっぷりの大輪の花とほころんだ控えめな蕾。」
愛されたばかりの花弁は柔らかな内側の花びらを波打たせ、無理矢理押し広げられた蕾も赤く濡れている。
「まんことアナル・・どっちも綺麗な赤い花やで。クックックッ。」
どちらにもたっぷりと昭彦のミルクが注ぎ込まれた証のように、白濁液が溢れ出ている。
「・・・あきぃ・・・許してぇ・・・」
「わしからの退院祝いの花やで。よう確認せなあかんやろ?」
子猫は情けない格好で見せつけられる陰部がヒクヒクと誘うように痙攣するのを半分泣きそうになって見た。
「・・・わかったからぁ・・・くすん・・・ぐしゅん・・・」
「なんや、泣き虫やなぁ。」
とからかうように言いながら、やっと昭彦は子猫の足を離してくれた。
 再び、子猫を腕枕して胸に抱き締めた昭彦は、
「明日からお盆やなぁ。」
と、唐突に話題を変えて言った。子猫は泣きべその顔を昭彦の胸に擦りつけていたが、ん?っと顔を上げた。昭彦はその額にキスをしてから、
「実家に顔出して、線香上げて来んとあかんやろ?」
と、子猫の顔を覗き込む。
「昭彦の実家?」
「アホ。子猫のやがな。・・・わしはもう縁が切れちょる。」
「なら・・・猫だって・・・」
「それにわしの二親はそれぞれ好き勝手に再婚しちょって健在なんや。わしが顔出す方が迷惑やろ。・・・子猫は大事なパパなんやろ?」
「・・・うん。」
「そしたらちゃんと線香上げな、あかんで?」
「・・・うん。」
母親の顔を思い浮かべると気が重くなる。今回の入院中、一度も様子を見にくることがなかった母親なのだ。
「わしも一緒に行っちゃるでな。」
「え・・・いいよぉ。」
「そうもいかん。ケジメはつけんとな。」
「ママ・・・昭彦にヒドイ事を言うかもよ。」
「かまわん。線香だけ上げさして貰うたら、ええねんや。」
「だったら、お墓に行けばいいじゃん。これまでもそうして来たのにぃ・・」
「何ゆーちょるんや?お盆は仏さんの魂が家に戻るんやろが。留守の墓行ってどないすんじゃ。」
「・・・信じてるの?」
「形式を守るんが大事なんや。」
「・・・ふーん。」
子猫にはまだ昭彦の性格が把握出来ない部分があった。
 『水戸黄門』は最高のドラマや、と言って毎週かかさずビデオに録画して見ているし、ジブリ映画は必ず手に入れて何度も繰り返し見る。子猫が『ほたるの墓』は可哀想すぎて見れない、と言うのを、名作だから絶対見ないといけない、と言って無理矢理見せられた。子猫が泣くのと一緒に涙を流しているのを、昭彦にも心の痛みがわかるんじゃん、と言えば、わしが殺したわけやないで、と言って笑ってから、勝ち目のない戦争を意地で続けた国家と生きる為に優しさを失った国民と弱者は踏みつぶされる不条理な社会への怒りの涙やないかい、と言う。どこか涙腺が違う神経に繋がってるのだろうかと子猫の頭は混乱させられてしまう。
「線香上げた後、わしは祭への顔出しがあるんや。」
「えー、なら猫も行きたいー。」
「子猫はママとゆっくりしとったらええやないか?」
「やぁだぁー。昭彦とお祭り行くのぉ。」
「半分は仕事で話さなならん時間があるで、退屈するかも知れんで?」
「いいよぉ。屋台まわっていっぱい買っちゃうからぁ。ふふふ。」
「しゃぁないなぁ。」
「わぁーい。ふふ。・・あ、・・ねぇねぇ、浴衣着てこうね?」
「・・・そやな。子猫がそれでええなら、そうしよか。」
「うん。」
夏休み前に作った浴衣がまだ袖を通さないままだったのだ。昭彦の浴衣姿もまだ見たことがなかった。母親の冷たい目にはいつも傷ついてしまう子猫だったが、その後の楽しみが出来て明日が待ち遠しくなった。昭彦はまた子猫の嬉しそうな顔を飽きもせず眺めている。子猫は昭彦の頬にそっと手を伸ばして、
「愛してる。」
と言って、眠りに誘われるまま目を閉じた。
「お休み。愛しとるで。わしの子猫。」
昭彦は子猫の額と鼻にキスをして、布団を肩までかけると、頬ずりをしながら眠りにつくようだった。眠いのに眠れない微睡みの向こうから、昭彦の規則正しい息遣いが聞こえてきた。子猫は安らぎを感じて、フッと微笑みながら、深い眠りに落ちていった。

 久しぶりの自分の家はやはり懐かしく感じる。変わらない佇まいを見るとパパの子猫を呼ぶ声が聞こえてきそうな、不思議な哀愁があった。父親を亡くしてからの日々は寒々としたものだったが、それでも見えない父親の存在に守られていたのだと、離れた今になって感じるのだった。
 門から玄関までの石畳のスロープには打ち水がされていた。蔓のない朝顔の鉢が両側にいくつか並んでいる。こうした一般家庭は夏の風情が生きているものだと改めて感じる。今のマンションの環境では、意識して季節を取り込まないと、知らない内に通り過ぎていってしまいそうだった。それにしても、子猫が一緒に暮らしていた頃は、ここまで庭や玄関まわりの手入れを気にしているようには見えなかった。そう思うと、自分がいなくなってほっとしてるのかと、穿った目で見てしまう。
 子猫がチャイムを鳴らすのを躊躇っていると、玄関の扉が開いて、身だしなみを整えた母親が顔を出した。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
母親はそう言って頭を下げると昭彦を中へと招き入れた。子猫は無視されたままだったが、状況が把握出来ないまま、後について家に上がった。
 仏壇のある和室には豪華な花と高価そうな果物籠が飾られていた。昭彦は先に子猫に線香を上げさせると、続いて仏前に背筋を伸ばして座り、スーツの内ポケットから厚みのある熨斗袋を出して供えてから、ゆっくり線香をあげた。
「お花や果物まで頂きましたのにすみません。」
と、お茶を和室のテーブルに置きながら母親が丁寧に頭を下げた。
「いえ。ほんの気持ちばかりです。」
昭彦は薦められた座布団に座りなおして、立ったまま所在なくしている子猫にも座るようにと促した。
「本当に礼儀も知らない子で恥ずかしいです。」
「いやいや。きちんとご教育が行き届いたしっかりしたお嬢さんですよ。」
「そうでしょうか?・・・ご迷惑をおかけしてないといいんですけど・・・」
関係ないじゃん、と子猫は母親の白々しさに心の中で呟きながら、ため息まじりに冷たい緑茶を飲んでいた。
「先日も入院騒ぎを起こしてご迷惑をおかけしてしまったようで、申し訳ありませんでした。何から何まですっかりお世話頂きまして、ありがとうございました。」
そう言って母親が深々と頭を下げたので、
「ママ、知ってたんだ。」
と思わず言ってしまった。
「子供の入院には保護者の同意が必要なので連絡したんだ。ただ、発作も軽くすんだし、検査するだけだったから、仕事をされて忙しい母上を煩わせることもないと、任せて頂くようにお願いしたんだ。」
「ふーん。」
「すみません。私も何かと忙しくて、説明を忘れていたようです。」
「いいえ。助かりました。この子の発作は我が侭病ですから。」
「いえ、原因は確かにあるそうなんですが、・・・精神状態で体調が左右されるのは誰にでもあることですから。」
そんなことどうでもいい、と子猫はお茶のグラスを持ったまま立ち上がると、廊下に出て窓から外を眺めだした。ようするにママは、面倒な入院の世話をしてくれたことと、高そうな花や果物を届けてくれ、更に線香代として厚い袋を供えた昭彦に、あれだけやくざを軽蔑している心を隠して、愛想を振りまいているのだ。昭彦もはなから承知しているからこそ、礼儀を通そうとしているのだろう。何て不毛な会話だろう、と思うと、とても子猫にはその会話に入っていけなかった。

 そうそうに家を後にした子猫は、橋本の運転する車の中で何度も大きなため息を吐いた。ため息を吐く度に悲しくなってきて、涙がこぼれた。
「子猫・・・」
昭彦が子猫を膝に抱き上げキスをする。
「過去は振り返っても戻らん。子猫はわしが幸せにしちゃるで・・・パパの思い出は思い出として、心の宝箱にしまっとき。子猫はわしと生きればええんや。」
「・・・うん・・・」
「ママはまだ自分が生きることに必死なんや。まだまだ女やで、自分が一番可愛くてもしゃーないやろ。・・・けど、いつかは、子猫がホンマはええ子なんやっちゅうことに、気付く日も来るでな。」
昭彦の全てを察した優しい言葉に、子猫は大粒の涙がぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。大きな愛に包まれて、子猫はこの幸せな時が永遠であるようにと、祈らずにはいられなかった。
<53>
[祭と昭彦]
<53>祭と昭彦

 に・・似合いすぎる。子猫はサラシを巻いた昭彦の姿を目と口を丸くして見入っていた。
「どうも、これをせんと、落ち着かんでな。」
と、浴衣に袖を通しながら昭彦が言った。襟元を緩めに合わせ、博多帯をビシッと締めた姿もまた素敵だった。すでに浴衣を着込んでいる子猫は昭彦の支度を感激して見とれながら眺めていた。
「どやろな?」
「すっごくいいー!もぉー最高ぉー!超かっこいいよぉー!」
「クックックッ。そうかぁ?子猫もめっちゃ可愛いでぇ。」
「・・・猫はそんなに似合わないもん。胸大きくて・・帯で目立っちゃうし・・・」
「そこがまた可愛いんやないかい。」
「そうかなぁ?・・・でも、昭彦と浴衣でお出かけ出来れば満足なの。うふっ。」
子猫の嬉しそうな顔に昭彦は少し表情を曇らせて、
「・・・ほんまにええんか?」
と確認するように言った。
「え?・・・何でぇ?」
子猫はキョトンと目を瞬かせて聞いた。
「これやがな。」
そう言って昭彦は手を前に差し出した。手首のすぐ上まで覆われている彫り物が袖では隠し切れずに見えている。
「あ・・・そっか・・・」
これまで昭彦は外出する時には必ず手首まで隠れる服を着て、襟も開かずに彫り物を隠してきたのだ。浴衣の襟元からも角度によって、はっきりと彫り物が見えてしまう。
「・・・ごめんなさい。猫が一緒に浴衣着たいって言っちゃったから・・・」
「わしはかまへん。ただ、子猫がわしと一緒やと怖がられるよってな。」
すまなそうに項垂れる子猫に昭彦は優しく微笑んだ。
「猫だって気にしないもん。」
子猫はムキになって言い切った。
「なら、ええ。」
昭彦は満足げな笑みを浮かべて、子猫にキスをした。

 子猫の実家への挨拶を午前中に済ませたものの、気持ちの沈む子猫を昭彦は抱いて癒してくれた。それで、浴衣に着替えて出掛けたのは、午後3時を過ぎていた。
 祭の開かれる町へ行く前に、組の事務所に寄った昭彦の浴衣姿を見た組員達は、映画のワンシーンを見るようだと興奮して褒めちぎった。子猫が組事務所に足を踏み入れるのは、誘拐された時を除いては初めてのことだったので、昭彦の後ろに隠れるように小さくなっていた。
 昭彦は会長(組長)他幹部達と話があるからと、子猫は奥の会長専用の応接室へ通された。ふかふかの絨毯と見覚えのある調度品に、誘拐された時に連れてこられた場所であることに気付いた。組員が集まっている表事務所では子猫が怖がるだろうとの、会長の配慮だったが、一人でじっと待っているのも妙に落ち着かなかった。
 と、そこへ白い子犬を抱っこした、セーラー服の少女が顔を出した。
「こんにちはぁ〜。あなたが子猫さんなんだぁ〜。」
どこか間延びした甘えた話し方をする少女は子猫の隣りに座ろうとした。が、いきなり子犬が呻りだしたので、
「こらこら、レディ、ダメよ。シーシー。」
と言って向かい側のソファーに座り直した。子猫が呆気に取られていると、
「ごめんなさい。この子ってぇ〜猫が大っ嫌いなの。子猫さん、猫飼ってる?」
と言った。
「あ・・はい、飼ってます。」
訳がわからないまま、そう答えると、
「あはは。やっぱりねぇ〜。きっとその猫の臭いが子猫さんからしたんだと思うの。ごめんなさいねぇ〜。」
と少女が笑ったので、子猫は、
「いいえ。」
と、つられて微笑みながら首を振った。
「何かぁ〜ペットショップにいた頃、猫に思いっきり〜シッポを囓られて以来、猫嫌いになっちゃったんですってぇ〜。だからぁ〜、猫のいない家限定ってあって、いくらか安くなってたんだぁ〜。・・パパは他の犬にしたら、って言ったんだけどぉ〜・・奈々も猫は大っ嫌いだから丁度いい、って言ってぇ〜買って貰ったのぉ〜。ふふふ。」
「・・・そうですかぁ・・・」
一方的にそう言われても、パパって誰?って感じである。
「あ、そっかぁ〜。奈々だけ子猫さんを知ってるんだっけぇ〜?」
「・・・ええ。多分。」
子猫が困ったように苦笑して頷くと、少女は吹きだして笑い出した。
「きゃはははは。そかそっかぁ〜。あははははは。」
子犬がつられてキャワンキャワンと吠える。
「シーシー、レディ、おとなしくして。・・えっとぉ〜、奈々は奈々。パパはぁ〜ここの組長してるのぉ〜。」
「え?・・・お嬢様?」
「あははは。違う違うよぉ〜。んっとねぇ〜、2ヶ月前からのぉ〜パパの愛人なのぉ〜。それでぇ〜パパから子猫さんのことも聞いてたのぉ〜。よろしくねぇ〜。」
「あぁ・・そうなんですかぁ。よろしくお願いします。」
子猫はやっと少女がどうゆう関係でここにいるのかを理解した。が、愛人という少女と会長の歳の差を考えると、すぐには信じがたい思いがしていた。
「子猫さんは高2でしょう?」
「はい。」
「じゃぁ、奈々と一緒じゃぁ〜ん。仲良くしようよぉ〜。」
「え・・・あ・・はい。よろしくですぅ。」
雰囲気からの印象は中学生だった。背も150そこそこの小柄な感じで、来ているセーラー服も見たことがないタイプだったのだ。
「あの・・奈々さん。高校はどちらなんですか?」
仲良くするにも話のきっかけがわからず、取り敢えず当たり障りのない普通の会話をしようと、聞いてみた。
「いやぁ〜ん。言えないよぉ〜。子猫さんと比べられるのは嫌だもぉ〜ん。」
奈々は拗ねた上目遣いで体を左右に動かす。
「猫は・・・辛うじて留年を免れている程度ですから・・・」
「県立でしょう?・・てゆーかぁ〜・・・かろ・・かろう・・・わかんないよぉ〜。」
「たいしたことないって意味です。」
子猫は困って、力なく笑みを浮かべた。
「そのセーラー服が可愛いから、どこかなぁ?って思っただけなの。」
「きゃははは。これぇ〜?これはぁ〜パパがどっかから買ってきた物ぉ〜。奈々の高校はブレザーだからぁ〜つまんないんだってぇ〜。」
「あぁ。・・・ブレザーも可愛いと思うけど、そのセーラー服もとっても可愛いですよ。奈々さんに似合ってて。」
「そぉ〜?やっぱりぃ〜?・・ふふ。他にもあるけどぉ〜今はこれが一番のぉ〜お気に入りなのぉ〜。」
奈々は子犬を脇に座らせると、セーラー服のリボンを直し始めた。それから、上目遣いに子猫を見て、
「子猫さんはどうして浴衣なのぉ〜?」
と小首を傾げて聞いた。
「お祭りに行くことになってるから・・・」
子猫はちょっと恥ずかしそうに袖を直した。手首には小さな巾着の紐が通されている。下駄の鼻緒と同じ絞り柄が気に入っていた。
「えぇ〜?どこぉ〜?どこでぇ〜?奈々ぁ〜聞いてなぁ〜い。」
奈々は頬を膨らませて、また体を左右に揺らせる。駄々っ子の表情はどうしても中学生くらいにしか見えない。子猫も昭彦にはこんな顔で甘える時があるのかも、と思うと、昭彦が少し大人になるように言うのも仕方ないかぁ、と思ってしまう。そんなことを考えている間も、奈々はお祭りに行きたがってしつこく聞いてくる。子猫は彼女が同行することになったっら、と思うと、せっかくのデートがつまらなくなりそうで詳しく話す気になれなかった。それで、
「・・場所はまだ聞いてないの。ごめんなさい。」
と、お祭りの話題を切り上げようとした。が、奈々は、
「えぇ〜、ズルゥ〜イ!奈々も行くぅ〜!」
と、ますます体を揺すった。
「あ・・・でも・・昭彦さん、半分はお仕事だって・・・」
「でもぉ〜子猫さんは行くんでしょう?」
「・・・うん。」
「奈々も行きたぁ〜い!・・あ、パパにお願いしてこよぉ〜っと。」
奈々が席を立ってドアに向かうのを、白い子犬が追いかけるように後について行った。その時、ドアが開いて飲み物の入ったグラスを二つ、お盆に乗せた男が入ってきた。奈々がぶつかりそうになって後ずさりしたので、足元にいた子犬を蹴ってしまった。子犬はキャンキャン吠えながら走り回っていたが、子猫の足元でピタッと止まるとまた呻りだした。
「なにしてるのよぉ〜!いきなりぃ〜!」
奈々が男に怒鳴っている。男はお盆を持ったまま、
「すんません。お二人に飲み物を出すようにと言われたもんすから。」
と下げた頭を気まずそうに掻いていた。
「・・・奈々さん・・・レディちゃんを・・・お願い。」
子猫はじっと動かないようにして、子犬を興奮させないように静かに言った。が、男にまだ文句を言いたげだった奈々がそのままの勢いで、
「あっ!こら、レディ!ダメ!」
と叫んだ。子犬は弾かれたように、子猫の浴衣の裾に噛みついた。今朝、出掛ける前に、居間のテーブルに浴衣を並べて置いておいた時、仔猫のパトラがその上にちょこんと座っていたのを思い出した。それぐらいで臭いがついてしまうものなのか、犬の嗅覚の鋭敏さなのか、子猫は引っ張られる裾を懸命に押さえていた。
「こら!やめろ!」
男が慌ててお盆をテーブルに置くと、子犬をつかんだ。子犬はそれが気に入らなかったのか、男の手に噛みついた。
「うわぁぁぁ!」
男が情けない声を出して手を振ったので、子犬は男から離れたが、次の瞬間、子猫の足首に噛みついた。
「ぁ・・くぅッ・・・」
「バカァァァー!なにやってんのぉー!レディ!」
奈々が急いで子犬を抱き上げたが、子猫の足首には4つの牙が食い込んだ傷が出来て、そこからくるぶしへと紅い血が伝っていった。子猫はとっさに絨毯を汚してしまうのが気になって、巾着から出したハンカチで傷を覆った。
 騒ぎを聞きつけて、会長と昭彦と他の男達が部屋に入ってきた。昭彦は、子猫が手で押さえているハンカチが血で紅く滲んでいるのに気付いて、
「どないしたんや?」
と駆け寄り、子猫の足を屈んだ自分の膝に乗せた。
「あ・・浴衣、汚しちゃうよぉ。」
子猫が足を降ろそうとするのをつかんで、
「アホッ!そないなこと気にしちょる場合か!」
と怒鳴ってハンカチをどかした。そして、傷口に舌打ちをすると、口をつけて血を吸い出した。
「動物の噛み傷は雑菌だらけやでな。」
と、言った昭彦は、4カ所の噛み傷を一つ一つ血を吸い出しては、口をハンカチで拭った。それから、会長が持ってこさせた救急箱を開いて、改めて消毒して薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻いた。
「ありがとぉ。」
手際の良さに感心しながら、子猫は嬉しくなって、そう言って笑った。が、昭彦は無表情に、膝上までむき出しになって太股が見えそうになっていた、子猫の浴衣の裾を直すと、ゆっくりと立ち上がった。無表情のままに向けられた視線の先には、奈々に抱かれてシッポを振る子犬がいた。
「ごめんなさぁ〜い。いきなり驚かされちゃってぇ〜・・・」
と、言いかけた奈々だったが、昭彦の無言の威圧感に言葉を詰まらせた。昭彦がゆっくりと近付いていくと、子犬がまた呻りだした。奈々は青ざめて後ずさりしようとしたが、
「諦めや。ドクターの逆鱗に触れてもうたで。」
と言った会長の言葉に、ビクッとして泣きそうな顔を会長に向けた。会長は顔をしかめてため息を吐きながら首を振った。
「・・いやぁ・・・」
奈々が抱き締めた子犬を、昭彦は首をつかんで取り上げると、高々と上げた。キュゥ〜、と小さな声が洩れた後に、微かな鈍い音が続いた。子犬の首が異様に伸びて、頭が後ろに垂れ下がった。昭彦は失敗したぬいぐるみのように異様な形になった子犬を床に投げ捨てると、今度は目を眇めて氷の視線を奈々に向けた。
「ひっ・・」
奈々はストンと床にしゃがみ込んだ。昭彦から漂うすさまじい冷気に、泣くことも忘れて立ちすくんでいたが、とうとうあまりの恐怖に腰が抜けてしまったようだ。
「あきぃ・・・」
子猫が駆け寄って、背中から昭彦を抱き締めた。昭彦の動きが一瞬止まり、目を閉じて一呼吸してから、肩越しに振り返って子猫を見た。子猫と視線が合った時、いつもの優しい昭彦の眼差しに戻っていた。
「足は大丈夫なんか?」
「うん。もう、平気。」
子猫は目の前で起こった悲しい出来事に胸が痛まないはずはなかったが、昭彦の行為を否定せずに全て受け入れようと覚悟して、涙の滲む目で微笑んだ。
「ほな、ぼちぼち祭に行こか?」
「うん。」
子猫は嬉しそうに頷いて、昭彦の腕につかまると昭彦の浴衣の袖に顔を擦りつけた。そっと涙を拭いたかったのだ。部屋を出る時、一度昭彦から手を離すと、振り返って深々と頭を下げた。声に出しては言えなかったが、昭彦が自分の為にしたことを謝りたかった。子猫が頭を上げた時、会長が、わかってる、というように頷いてくれた。
 部屋の外では石橋がいつも通りの表情で待っていた。橋本は額に脂汗を浮かべながら、口の端で無理に笑みを作っていた。

 お祭りの開催される町は、まだ明るい内から人で賑わい、そこここから太鼓やお囃子の音が聞こえていた。昭彦が用事を済ませるまで、子猫は橋本と御神輿の通るのを眺めていた。特設会場ではお囃子の競技会が開かれていて、酔いの回った赤ら顔のお爺さんが、自慢の喉を楽しげに披露していた。橋本が屋台で何か買おうか、と言ってくれたが、子猫は昭彦さんに買って貰うから、と断った。
 用事が済んだ昭彦が、
「お待っとさん。・・ん?なんや、まだ何も買うてへんのんかぁ?」
と手首に巾着だけを下げている子猫を見て言った。
「好きなもん、買うちゃりて、橋本に小遣い渡しといたんやで?」
「だってぇ・・・昭彦に買って貰わなきゃ、意味ないもん。」
やっぱりそーゆーことか、と内心思いながら、子猫が拗ねた上目遣いで言うと、
「クックックッ。甘えん坊やなぁ。」
と言いながらも、愛しさの溢れた目を笑顔で細め、衆目の中子猫を抱き締めキスをした。石橋と橋本にとっては慣れた光景だったが、昭彦の浴衣姿に任侠映画のスターを重ねていた他の男達は、目のやり場に困っているようだった。
 案内をする、という地元の男を断り、側を離れる訳にはいかない、と言う石橋にも離れてるように指示して、昭彦は子猫と二人の時間を作ってくれた。
「祭はええなぁ。みんなの顔が輝いちょる。金持ちもそうでない奴等も関係あらへん。この時ばかりはみんな一緒や。一人一人が祭にかかせない存在であり、尚かつ独立した存在であって誰の干渉も受けへん。みんな自分が楽しければええし、人が楽しんでるのもええ。平和そのものやがな。祭が楽しめんようになったら、人は終わりやで。」
人波の流れのままに歩きながら昭彦が言った。
「・・うん。」
子猫は昭彦としっかり手を握りながら、昭彦の横顔を見ていた。昭彦の話す言葉にはいつも人への愛があった。自分の為でもなく、誰の為でもない、切なくなるような人類愛だった。だからこそ、害をなす存在として自分を憎んでいるのだ。そして、それでも負け犬にはなるまいと孤高の狼としての道を歩いている。子猫は何があっても昭彦についていきたい、と手を強く握った。昭彦の心を見失わないように、昭彦の生き方にはぐれないように。
 昭彦は子猫が欲しがる物をクスクス笑いながら買ってくれた。綿菓子、風船のヨーヨー、べっこう飴、ハート形のふわふわ浮いた風船、キティちゃんのお面。
「ほんまに子供やでぇ。」
と、からかうように笑う昭彦だったが、金魚すくいの所で立ち止まると、
「わしはこれがいっちゃん得意なんや。ま、見ててみぃ。」
と少年のような真剣な目で挑戦し始めた。が、何度か失敗すると、
「なんやねん。おっちゃん、これぇイカサマとちゃうかぁ?」
と文句を言った。店の男は昭彦の腕の模様に怖じ気づきながらも、
「そ・・そんなことあるもんかい。」
と自分で3匹ほどすくって見せた。昭彦は舌打ちして、
「なら、もう一回勝負や。」
と黒目がちの目を輝かせて言った。どうにか5匹を捕獲して、
「ま、こんなもんやろ。昔と紙が違うてやりにくいわ。」
と小袋に入れて貰った金魚を子猫に渡しながらも、2匹勝ったことに満足そうな昭彦だった。
 そして帰りがけ、屋台の合間にあった八百屋で大きなスイカを買った。
「そんなに大きいの、食べ切れないよぉ。」
と子猫が呆れて言うと、
「一晩冷やして、明日の昼飯にしよや。」
と嬉しそうに言った。
「わしはスイカがいっちゃん好きや。こんな美味い物は他にないで。」
と、大きなスイカを大事そうに下げている昭彦をため息まじりに眺めて、昭彦だって子供じゃん、と思いつつ、新しくまた買った綿菓子を舌の先で巻き取るように食べる子猫だった。
<54>
[花火大会]
<54>花火大会

 送り盆の夜は毎年花火大会が開かれる。小さい頃はパパに連れられ何度か見にきたことがあったが、ここ数年は音だけを聞いて、花火大会だったのか、と気づく程度の関わりしかなかった。川を挟んで旧市街地と新市街地が囲んでいる為、多くの花火見物の人達で賑わっていて、交通規制に渋滞、人の流れのすごさはお祭り以上のものがあった。
 今年は昭彦が花火を間近に見れる料亭を予約しておいてくれた。橋本は早めに迎えに来たものの、途中からいっこうに車が進まなくなってしまったので、昭彦と子猫は車を降りて歩くことにした。今夜も浴衣で、昭彦と手を繋いで歩いていた。すれ違う人は初め何気なく視線を向けただけだったが、昭彦の彫り物に気付くと、ギクッと一瞬息を飲み、目を反らしてなるべく離れようとするか、眉をひそめてうつむいた。
 昭彦は気にするでもなく、下駄で歩く子猫の歩調に合わせて、ゆっくり歩いてくれていた。子猫も昭彦と繋いだ手の優しさが嬉しくて、人目など気にもならずに、遅くならないようにと懸命に歩いていた。道順は昭彦がわかっているようだったが、子猫には馴染みのない道だった。
「あらっ!昭さん!」
人混みでもわかる、明るい澄んだ声がして、昭彦が立ち止まった。
「よう。来とったんか。」
子猫は昭彦の顔を見上げて、その視線を追った。40歳前くらいに見える綺麗な女性がシックな浴衣姿で近付いてくる。その後ろには、20代の若い娘が二人。娘らしい華やかな浴衣姿で様子を伺うように見ている。その内の一人は子猫も面識があった。
「昭さんも花火見物にいらしてたのね。ふふ。・・・そちらが・・子猫さんかしら?」
中年の落ち着きはあったが、まだ華やかな美しさを留めた女性が、にこやかに子猫へ目線を移して、
「初めまして。春江と申します。」
と静かに頭を下げながら言った。
「あ・・はい。・・・初めまして。」
子猫は昭彦から手を離すと、慌ててお辞儀をした。
「冬美と夏美も一緒なんだな。夏美はもう大丈夫なのか?」
昭彦が言葉を変えた。
「ええ、お陰様で。今はもう仕事も始めてるんですよ。」
「それは良かった。」
昭彦が二人の娘を見ながら頷いた。冬美はどこか寂しげに口元にだけ笑みを浮かべていたが、夏美はムッとした顔で子猫を見ていた。子猫も春江と夏美に会うのは初めてだったので、春江と少し離れて立っている二人の娘達を交互に見ていた。
「花火はどこで見るんだ?」
「河川敷まで行こうと思ってたんですけど、どこも通行規制のようで・・・」
「そうだろうな。・・ふむ・・・」
昭彦は懐から携帯を取り出して電話をかけた。
「あぁ・・東竜会の藤村です。・・・いや、今向かってるとこなんだが、・・・後3人、頼めるかな?・・・うん。・・・そうか。・・・ありがとう。・・じゃぁ。」
と、電話を簡単に済ませると、春江に向かって、
「これから『清陵庵』へ行くとこだが一緒に行くか?」
と言った。春江は目を輝かせて微笑みながら、
「あら、よろしいんですか?・・ご迷惑なら私達のことはいいんですのよ?」
と首を傾げた。ほんのちょっとの動きにも色香が匂い立つようだった。さすがは昭彦が長年付き合ってきた相手だと、子猫の心に嫉妬の炎が点った。
「子猫にも君や娘達のことは説明してあるんだ。いずれは会うこともあるだろうと思っていたが、いい機会じゃないかな?・・それに冬美とはもう面識もあることだし。」
そう言った昭彦が子猫に顔を向けた。
「・・・うん。」
子猫は昭彦の手を握りなおして、うつむきがちに小さく頷いた。
「クックッ。おへそが背中にいったかな?・・・まあ、その内慣れれば、機嫌も直るだろう。・・・場所は知ってるだろうが、一緒に行こうか?」
「ええ。お願いします。・・・冬美、夏美、御一緒させて頂くから。」
春江が呼ぶと二人の娘が近付いてきて、
「こんばんは、パパ。・・子猫さん、お久しぶり。」
「こんばんは、パパ。・・・初めまして、子猫さん。」
とそれぞれに挨拶をした。子猫は、
「どうも・・・」
と口ごもりながら頭を下げた。
 それから、昭彦と子猫を先頭に、春江、冬美と夏美と続いて、料亭へと向かって歩き始めた。人混みがあったこともあって、料亭に着くまではほとんど会話もなかった。

 料亭『清陵庵』は門構えは質素な作りになっていたが、奥行きがあって、植木の静かな佇まいを抜けて奥へ進むと、年代物だが手入れの行き届いた立派な建物が姿を現した。
 出迎えた女将に案内されて、二階の奥の部屋へ行くと、石橋夫婦とマサと数人の男達が先に着て待っていた。昭彦と子猫に続いて、春江達親子が部屋に入ると、マサは一瞬固まった後、苦笑を洩らして、首のコリをほぐすように首を回した。石橋は表情を変えずに片眉をピクリと上げ、そっと夫人に耳打ちした。石橋夫人は夫の耳打ちに目を丸くしたが、気遣わしげに子猫をそっと見た。
 昭彦は窓際の空いていた席に座り、子猫を横に座らせた。反対側にマサと石橋夫婦が座っていたが、気を利かせた石橋が春江達に席を譲り、子猫の横に移動した。マサの隣りに春江、夏美、冬美と並んで座った。それで、子猫の正面が春江になったが、隣りに座った石橋夫人がそっと子猫の手に手を重ねて微笑んだので、少し気が楽になった。
 女将の丁寧な挨拶に、昭彦が、
「急に無理を言って、済まなかったね。」
と言うと、恰幅のいい女将は、
「いいえ。東竜会の皆様のお引き立てあっての清陵庵でございますから、何なりとお申し付け下さいませ。・・・後、お一人様がお見えになられていらっしゃらないようですが、そろそろお料理をお運びしてもよろしゅうございましょうか?」
と愛想よく言った。
「そうしてくれ。・・橋本はまだ車で立ち往生してるようだ。」
「先ほど連絡がありました。やっと動き出したと言ってましたから、じき来ると思います。」
石橋がそう言ったので、
「そうか。なら、始めてよう。」
と昭彦が頷き、女将が、
「かしこまりました。」
と頭を下げて部屋を出ていった。

 昭彦から春江達親子の紹介と一緒に来た経緯が簡単に話されたが、この場で面識がなかったのは石橋夫人だけのようだった。子猫の知らないマサの舎弟達とも顔なじみのようで、春江は気心の知れたゆとりを感じさせながら今夜のお礼を言った後、
「娘達がひとかたならぬお世話になりました。」
と石橋に頭を下げた。石橋は、
「いやいや。すっかり元気になられたようで、よかったですね。・・今夜のお嬢様方はまた一段とお美しくていらっしゃる。」
と言ってから、
「もちろん、母君である春江さんの美貌あってのことですが。」
と付け足したことで、密かに夫人から股をつねられていた。
 そうこうする内に、料理が運ばれ、橋本もやっと参加して、一見和やかな宴会が始まった。花火が上がるまでには時間があったので、窓はエアコンを効かせる為に障子が閉まっていたが、窓の外は川が見渡せるらしく、斜め正面に花火をみることが出来るということだった。
 だが、子猫はもう、花火が見たいのか、見たくないのか、わからなくなっていた。春江をなるべく意識しないようにと思いながらも、ついつい目がいってしまう。モスグリーン地に青紫の桔梗が所々に咲いている浴衣は、いなせな縞柄の帯で引き立って、シックでありながら春江の華やかさを際立たせていた。ほんのり香る麝香が昭彦の移り香のようで腹が立つ。42歳と歳を聞いても信じられない色気がある。しかも印象は控えめで柔和で嫌味がなかった。昭彦との会話でしばらく交流がなかったことが伺えたが、子猫を気にしてか遠慮がちに話ながらも、気を許した相手同士の和やかさが一層腹立たしかった。しかも、昭彦の援助があったとはいえ、昭彦が服役中、女手ひとつで二人の子供を育てながら、ずっと待ち続けたのだ。穏やかさに隠れた気丈さと、昭彦への熱い思いが伝わってくるようだった。
 子猫は食が進まず、箸も止まりがちだった。夏美が”パパ”を連呼しながら、始めたばかりという仕事の苦労話をしていた。冬美も時々甘い声で”パパ”と呼ぶ。しかも、二人ともマサを”マサおじさん”と呼ぶのだ。積み重ねられた年月を否応なく感じさせられてしまう。
 子猫はもう義理でも意地でも笑みを作ることが出来なくなっていた。席を立って、窓へ行くと障子を顔分だけ開けて、そこへ顔を隠すようにして外を眺めた。窓ガラスに映る姿さえ、春江達を見たくなかった。夜の7時近いはずなのに、まだ薄明るかった。川は青みがかった灰色の波をたててゆったりと流れていく。川の手前は『清陵庵』の植木で隠れて様子が見えなかったが、対岸の土手にはかなりの人が寿司詰め状態に座っているのがわかる。その上の通りには屋台の灯りが並んでいた。
「子猫。」
昭彦が呼んだが、子猫は振り向かず、返事もしなかった。
「花火は8時からだそうだ。待ち遠しいからといって外を見てても仕方ないだろう?こっちへきて座ってなさい。」
昭彦がそう言うと、冬美がクスッと笑って、
「そう言えば、夏美も昔パパに同じこと言われてたわね。」
と言った。
「えー、言わないよぉ。ヒドイなぁ。ねぇ?パパ?」
「さぁ、どうだったかなぁ。迷子になるな、とは言ったかも知れないが。」
「パパァ!・・そんな子供じゃなかったでしょう?ねぇ、パパァ?」
「お転婆だったことは確かだな。クックックッ。」
「そうそう。でも、それは今でも変わらないみたいよ。パパ。」
「冬ネェがおとなし過ぎるんじゃん。」
二人の娘の話に気を取られて、昭彦は子猫を呼んだことも忘れているようだった。二人の会話が無数の棘となって背中に刺さる気がする。
「ほらほら、二人とも。もう少し静かに・・・落ち着いてお料理を頂きなさい。」
春江の気遣うような言葉はもっと鋭い痛みがあった。子猫は障子をピシャッと閉めると、部屋の入り口へ向かって歩き出した。
「子猫?どこへ行くんや?」
大阪弁で言う昭彦に、子猫はムッとして振り向きざま、
「おしっこッ。」
と言って睨んだ。が、言ってすぐに「トイレ」と間違えたことに気付いて、耳まで真っ赤に赤面してしまった。冬美と夏美が顔を見合わせて苦笑するのが視界の端に映った。すぐに背中を向けて出て行こうとしていた子猫に、昭彦は、
「なら、拭かんと戻りや。わしが舐めて綺麗にしたるさかいな。」
と言った。この言葉にマサの舎弟がウケてしまって吹き出して笑った。子猫は駆け出したい気持ちをこらえて部屋を出ていった。

 洋式のトイレの蓋を開けないまま座ると、子猫は一気に声を上げて泣き出した。浴衣の袖で顔を覆っても、嗚咽する声は押さえようがなかった。昭彦が悪いんじゃない。冬美や夏美が悪いのでも、まして春江が悪いのでもない。自分の心の狭さが悪いのだ。子猫だけがあの場の雰囲気を壊しているのだ。わかっていても、嫉妬が体の内側を焦がしていく。真っ黒になった心がどんどん子猫を悪い子にしていってしまう。子猫は何とか声を漏らすまいと歯を食いしばって泣き続けた。
「子猫さん?」
ドアがノックされて、石橋夫人の声がした。
「子猫さん?・・・そこにいるんでしょう?・・・大丈夫?」
子猫は嗚咽が止まらず、答えられなかった。ぐっしょり濡れた袖で鼻と口を押さえてじっとしていると、再び呼ばれた。
「ねぇ、・・・子猫さん・・・出てきて欲しいの。」
子猫はしゃくり上げながら黙っていた。
「具合が悪いの?・・・苦しくて出られないんじゃなかったら、出てきて。・・・具合が悪くて動けないのなら、ここの人を呼んで助けて貰うわね?」
どっちを選択しても、ここから出ない訳にはいかなかった。子猫は諦めて鍵を開けると袖で顔を隠すようにして個室から出た。
「あらあら・・・どうしたの?」
と言いながら、夫人は子猫にハンカチを渡してくれた。子猫は小さな声で、
「済みません・・」
と言って、袖を離し、ハンカチで鼻と口を押さえた。
「子猫さんがいないと藤村さんが寂しそうよ。」
夫人は子猫が泣いていたことも、泣く理由も承知しているように、優しい笑みをたたえて子猫の背中をさすった。
「・・・昭彦さん・・・猫をバカにするんだもん。」
子猫はそう言うとまた涙が溢れてきて、ハンカチで目を押さえた。
「あら、そう?・・・私には藤村さんが子猫さんを、可愛い、可愛い、って言ってるように聞こえたわよ。ふふ。」
「・・・だって・・・春江さんの前で・・・子供扱いして・・・」
「そうねぇ、春江さんは大人よねぇ。・・・でも、それは当然じゃないかしら?・・だって、子猫さんの歳を倍にしてやっと私の歳になるのに、その私より更に8歳も年上なのよ。私から見ても、やっぱり大人の女性として敵わないなぁって思うもの。」
「・・・だって・・・すごく素敵で・・・魅力的で・・・」
「ええ、本当に素敵な方よね。・・・でも、素敵な人で良かったでしょう?」
夫人の言葉に子猫は、え?、と顔を上げる。
「だって、子猫さんの大好きな藤村さんが、かつて好きになったって人が、ものすごぉーく嫌な感じの人だったら・・・かえって嫌じゃない?」
「・・・それは・・・」
子猫は涙で潤んだ目で戸惑った顔をした。
「藤村さんが一度は好きになった女性が、嫌味で意地悪で独善的で、しかも全然綺麗じゃなかったら・・・ガッカリするでしょう?」
子猫はそうゆう女性をイメージして、確かに嫌だろうなと考えながら、ゆっくり頷いた。夫人はそんな子猫ににっこり微笑んで、
「あんなに素敵な人だけど、藤村さんは子猫さんを選んだんだもの。自信を持って胸を張っていればいいのよ。・・・ね?」
と肩を撫でた。
「きっと・・・辛いのは春江さんやお嬢さん達の方なんじゃないかしら。・・・だから、無理に明るく振る舞ってような気がするけど・・・」
「・・・そうでしょうか?」
「さぁ。・・ふふ。人の気持ちはわからないから断言出来ないけど。」
子猫はため息を吐いて、
「・・・過去の重みを・・・自慢されてるみたいで・・・」
と言うと唇を噛んだ。
「そうねぇ・・・過去でも辛いわよね。・・・私も主人に浮気されると辛いし、長く続いた女性のことを思い出すと今でも胸が痛くなるもの。」
夫人は驚いた顔で見つめる子猫に苦笑すると、
「ちょっと、場所を変えましょう?トイレだと誰が来るか、わからないから。」
と言って、子猫を促した。

 石橋夫人は子猫を誘って1階へ降りると、すれ違う仲居に、
「少しお庭を散歩させて頂けないかしら?」
と言った。仲居は、
「それでしたら、東の中庭をご利用下さいませ。」
と言って案内してくれた。そして、サンダルを用意してくれて、また元の仕事に戻っていった。庭に降りた夫人は、
「こうゆう料亭だと立入禁止のお庭もあるみたいよ。離れを利用したり、秘密の会合を開く人達は神経質になるようだから。」
とこっそり耳打ちをした。子猫はなるほどぉ、と頷いた。
 東の中庭は薄闇に包まれ始めていた。石灯籠が灯って足元を照らしている。
「あれは・・・待宵草かしら?・・・子猫さん、ご存知?」
夫人の問いかけに、子猫は首を振った。
「そう。・・若い人は知らないわね。日が暮れるのを待って咲く花なのよ。」
夫人はそう言うと、植木の影にひっそりと咲く黄色い花を、少しの間ぼんやり眺めていたが、子猫の方を向くとフッと笑みを浮かべた。
「私が主人の浮気に気付かない女に見えた?」
子猫はどう答えていいか迷いながら、
「猫は・・・まだ・・・よくわからないです。・・・あ・・でも、石橋さんはとっても愛妻家だって・・・」
と言葉尻を濁した。
「ええ。とても大事にしてくれているわ。・・・でも、大事にすることと浮気は別みたい。だって、極道ですもの。・・・芸能界の次に、綺麗な女性とたくさん知り合うチャンスがある職業じゃないかしら。しかも、お金と時間が割と自由になるとしたら、弱みを持つ女性なら簡単に落とせるでしょう?・・・そしてね、何故か綺麗な女性ほど、人知れず弱みを持ってるものなのよ。」
「・・・そんなぁ・・・でも・・・浮気してるってわかるものなんですか?」
子猫の素朴な疑問に夫人は肩をすくめた。
「きっと全部はわかってないでしょうね。・・でも、わからないようにしてくれるなら、仕方ないと思ってるの。隠そうとするってことは、まだ私の方が大事だから知られたくないんだって思って。・・・だけど、付き合いが長くなると、相手の女性が自分の存在をわざとわからせようと、うっかりしたフリで痕跡を残すのよ。」
「あ・・・」
子猫は胸がチクリと痛んだ。子猫も妻子ある男性と恋をしたことがあった。その時、そうした気持ちがまったくなかったとは言えなかった。
「・・・それって・・・ヒドイですよね。」
子猫は呟くように言った。
「そうねぇ。・・・だけど、主人を怒ったのは一度だけ。一度、まだ下の子が赤ちゃんの時に、後部座席で遊んでいて、女性が残していったピアスを口に入れて怪我をしてしまったの。・・幸い口の中だけで済んだから良かったけど、もし飲み込んでいたらと思うと、・・今でもぞっとしてしまうわ。」
子猫は息を飲んだ。夫人は話を続けた。
「その時は本気で怒って、主人に言ったの。あなたの仕事と遊びが子供に害をなすなら、私は子供を守る為、あなたと別れて母親として生きます。って。・・・そしたらね、主人が・・・父親として、夫として、家庭を大事にする。って約束してくれたんだけど・・・女としても君以上に愛してる存在はいない。って、言ってくれたの。」
子猫は感動して何度も頷いた。
「だけど・・・未だにちょこちょこと浮気してるんだから・・・ほんっとに、極道の男って子供みたいだわ。」
そう話終えると、夫人は子猫に苦笑してみせた。子猫はつられるように笑みを浮かべた。夫人の言った「極道の男は子供みたいだ」という台詞が、昭彦に重なって、何故か頷けてしまったからだ。もちろん、それが全てとは思わなかったし、夫人の石橋を見る眼差しにこもった敬愛の情を思えば、夫人自身にとってもその台詞が全てではないだろう。
「どう?・・・落ち着いた?」
夫人は子猫の頬にそっと手をあてた。
「一時の感情で大事な物を見失わないでね?」
「はい。・・ありがとうございます。」
夫人は手を離して、微笑みながら頷いた。
「腹が立ったら、一度視点を変えてみると、気持ちが楽になることもあるのよ。夫だから父親だからって、あれもこれもこうしてくれなきゃ納得出来ない、って思わずに、・・・もし、子供だったらって思うとね、あんなこともこんなこともしてあげたい、って思うようになるの。」
子猫はなんて素敵な母親なんだろうと、感激して石橋夫人を見ていた。そして、母親になるとこんなに綺麗なんだ、と羨ましく思った。母親としての自信が、女性としても輝きを与えているのだろうか。とすれば、春江にも共通する美しさなのかも知れない。でも、子猫の母親は?そんなことを思いながら、自分が母親になれる日が来るのだろうか、と不安も感じていた。

 子猫と石橋夫人が部屋に戻ると、窓の障子が全て外されていた。外もすっかり暗くなって、いよいよ花火が上がるらしい。部屋の明かりも半分に落とされていたのは、子猫にとって救いだった。子猫は夫人から借りたハンカチを濡らして絞り、泣き腫らした顔を冷やしてから戻ってきたが、何とか鼻の赤みは薄くなったものの、熱っぽい潤んだ目は隠しようもなかった。
「間に合うたようやな。じき始まるで。」
と、さり気なく言った昭彦の言葉は甘い響きがあった。遅くなった理由を問わないところから、昭彦なりに察しているようだった。
 子猫が自分の場所に座ろうとした時、昭彦が座布団一枚分後ろに下がって、子猫の腕をつかんだ。
「え?・・何?」
子猫は石橋夫人の話に感動してはいたが、すぐには素直になれず、昭彦とは顔を合わせずに座ろうとしていたので、不意をつかれて後ろによろけた。
「戻ったら、綺麗にしちゃるっちゅうたやろ?」
え?!子猫は声に出せないまま固まった。
「わしの膝ぁまたぐように立ってみ。」
と昭彦が腕を引いた。子猫は震えた。二人だけの空間の中では、たまにそうされる時もあって、初めてのことではなかったが、これだけの人が同じ部屋にいるのだ。
「早うせんかい!」
昭彦が語気を強めて言うと、子猫の体がビクンと反応して、もう逆らえなくなってしまう。子猫は言われるままに昭彦の膝をまたぐようにして、顔のすぐ前に立った。昭彦は子猫の浴衣の膝あたりをつかむと、始め上に引き上げ、それから左右へと開いた。座布団一枚下がった昭彦の位置だと、部屋にいる他の人達からは広げた浴衣の中までは見えない。たくし上げられた浴衣からはみ出た、子猫の膝から下が見えているだけだった。
「いつもと同じや。・・ほれ、足を肩に乗せや。」
言われて、子猫は右足に体重を移して、左足で昭彦の肩を踏むような体勢で、高く足を上げた。二つ折りになった膝頭が腕の付け根まで上げられたことで、子猫の左足がほとんどむき出しの状態になった。昭彦は頭を傾けて子猫の開かれた股の奥へと顔を埋めていった。
「・・・ぁ・・・」
昭彦の舌先がクリトリスに触れた時、思わず息を漏らして天を仰いだ。目を閉じてなすがままに身を委ねる。女は和装では下着をつけないものだと言われ、そうしていた。部屋に戻る前にトイレに寄って、おしっこを本当にした時、股に伝うのを気にしながらも、昭彦の言葉を冗談と思っていても、言われるままに拭かずに出てきた。
「ええ子や。・・びしょびしょにおしっこが残っちょるでぇ。」
昭彦がくぐもった声で言い、音を立てて啜る。子猫は恥ずかしさで全身が赤く染まっていくように感じながらも、昭彦の奴隷である自分を自覚していた。子猫の全てが昭彦のものなのだ。怒っている時でさえ指示に逆らうことが出来ない。
「・・・ぁ、ぁ、・・・」
昭彦が更に奥の蜜壺まで舌を伸ばして吸い始めた。感じて仰け反った子猫はバランスを崩してよろけそうになった。
「おっと・・・これ以上やって失神してまうと困るわな。」
昭彦は顔を浴衣から出して、つかんでいた浴衣を離して子猫の体を支えた。子猫の足首を持って自分の肩から降ろしてやると、子猫を膝に抱きかかえ、
「お前の蜜や。舐めて綺麗にしぃや。」
と言って、濡れた口まわりを子猫に舐めさせた。
 ひとつのショーが終わった時、ようやく、『ドォーーン!!』と空気を震わせるほどの大音響を立てて、花火が空高く舞い上がり始めた。呆気に取られて息を飲むように見守っていた人達は、呆然としたまま夜空に咲く花火に視線を向けた。
「こないなことしちゃるんは子猫だけやで。」
昭彦は子猫の耳にそっと囁いて、キスをし、そのまま膝に抱きかかえて花火を眺め始めた。子猫も昭彦の肩にもたれながら、花火をぼんやり眺めていた。いくつもいくつも上がる大輪の花火はまるで夢の世界のように虹色に煌めいていた。
<55>
[二学期]
<55>二学期

 夏休みの後半、昭彦と過ごした2週間は不思議で妖しい夢のような日々だった。日常からはかけ離れた、ありのままの淫獣となって過ごした時間だっただけに、新学期の朝、制服を着ている自分が不思議でさえあった。クローゼット一面を覆う鏡に映る制服姿は、背景の、まだ乱れたままのベッドと重なり、獣の本性を隠しきれていないように見えた。思わず、シッポを隠すのを忘れて化身してないかと確認してしまう。シッポをつけているはずもないのに。

 登校する前にもう一度、洗面台の鏡で違和感はないかと確かめた。いつもの夢見がちの気弱そうな目が覗いている。夢見がちなのは、人と視線が合うのが怖いから、通り過ぎる人達を風景のようにしか捕らえられないだけなのだが、それでいて、話す人をじっと見つめてしまうから、いつも誤解が生じてしまう。
 子猫はため息をついて、目を閉じた。体中が疼いている。研ぎ澄まされた感覚が肌に触れる全ての物に反応してしまう。うなじやあごにかかる髪がさらさら揺れて触れるだけで乳首が立ってくる。突起した乳首がブラジャーにあたって、押される感覚に子宮が疼く。熱くなったままとろけそうな秘部はびくんびくんとうねりを強めて収縮を繰り返す。溢れる蜜がショーツを濡らし、ピッタリと張り付いてくるから、また感じてしまう。
 子猫は両腕で胸を抱くようにして、制服の中に淫獣を押し込めようと深い息を繰り返した。
「何やっちょんねん?・・もう時間やで?」
エプロン姿の昭彦が、涼しげな顔に、苦笑をかみ殺した奇妙な笑みを張り付けて、腕組みをして子猫を眺めていた。
「・・・昭彦ぉ・・・」
子猫は恥ずかしさで顔が火照ってくるのを感じて、情けない声を出す。
「何や?」
「・・・猫ぉ・・・どこも変じゃない?」
「どこが変やねん?・・ちゃんと普通の高校生やがな。」
「・・・なら・・・いいけどぉ・・・」
「クックッ。まあ、登校日に行けへんかったで、久しぶりの学校で夏ボケが直らへんやろけど、今日は午前中だけやろ?・・頑張ってくるんやな。」
「・・・うん。」
子猫は上目遣いに昭彦を見つめながら、昭彦の普通に話す淡々とした表情が不思議に思えた。あの2週間の昭彦は絶対的支配者だったのに。
「子猫・・・」
昭彦の手がすっと伸びて、子猫の頬に触れる。子猫は思わず、ビクッとして目を閉じ、肩をすくめた。
「アホ。・・・日常には日常の生活があるやろ?」
甘く囁く声が、フッと笑う息とともに、顔にかかったと思うと、優しく唇が重ねられた。愛おしむようにゆっくりと唇が動き、子猫の唇を包んだ。それから、離れ際、
「徐々に普通の生活に慣らしちゃるで、今日は何とか頑張りや。ええな?」
と、言った。子猫は目を開けて、潤んだ眼差しで頷いた。

 昭彦がしばらくは車で通学するようにと言ったので、子猫は従うことにした。夏休み中に入院したことを理由にして、母親から学校への許可願いを出すように手配してくれたので、門の前に車を停められるようになっていた。
 本当の理由は、極度の敏感症になっている子猫を、無防備に外へ出したくないという昭彦の配慮だった。子猫も人とピッタリ密着して乗るバスに、今は乗る勇気がなかった。
「今日は午前中だけやで、間違えんようにな。」
「はい。かしこまりました。」
下まで送りに出た昭彦の注意に、子猫専用につけられた運転手が、緊張気味に頭を下げて返事をした。昭彦よりもかなり年上で、元々はタクシーの運転手だったという男は、自分よりも若い雇い主でも礼儀を尽くすタイプの人物らしい。
「帰りは寄り道させんと送り届けてや。」
「はい。承知しております。」
「送ったら、ちゃんと中入るのも確認するんやで。」
「はい。心得ております。」
「ほな、頼むわ。」
「はい。それでは、行ってまいります。」
運転手はまた深々と頭を下げて、車に乗り込んだ。昭彦は、後部座席に納まって待っていた子猫に軽く手をあげて見送ってくれた。子猫も投げキスをすると笑って手を振った。

 高校に着き、昇降口で上履きに履き替えていると、
「猫先パーイ!」
と松木麗奈が抱きついてきた。身長の高い麗奈に抱きつかれると、顔が胸に押しつけられるように感じる。女性としては肩幅があったが、やはり感触は男性と違って柔らかい。
「麗奈ぁ・・・いきなりビックリするじゃーん。」
子猫は頬を赤くしながらやんわりと肩を押し返した。
「今日も朝から暑くてうだってるんだからぁ、・・・離れてなさい。ふふ。」
赤面してしまった自分を残暑の残る陽気のせいにして、革靴をしまった。
「だってぇ・・・あ、麗奈が持ちます。」
麗奈が子猫の鞄とバッグを取り上げるように持った。そして、
「それと・・・ちょっと話が・・・」
と言って、子猫の手をつかむように握って歩き出した。
 体育館に通じる通路の手前に、普段はあまり使われていない準備室のような部屋があった。麗奈はそこに子猫を引き込むと、
「猫先輩、あんまりです。」
と、子猫の荷物を床に置いて、詰め寄ってきた。
「ちょっ・・っなに・・・」
子猫は壁に追いつめられ、肩をすぼめて困った顔をした。
「だって、猫先輩。どうして、ずっと連絡取れなかったんですかぁ?川原部長に聞いても知らないって言うし・・・せっかく退院出来たんだから、今度こそ一緒に遊べるって思ってたのに・・・あんまりですぅ。」
「・・・ごめん。・・・ちょっと旅行に行ってたの。」
「旅行ってどこですか?」
「・・・う・・ん・・・どこだったかなぁ・・・」
「あー、言い訳なんですねぇ?」
「違う、違う。ホントにそうなんだけどぉ・・・どこかよくわかんない島みたいな所だったから・・・名前聞いてなくて・・・」
「じゃぁ、お土産下さい。」
「だから・・・そーゆー観光地じゃなかったから・・・」
「・・・ヒドイ・・・」
麗奈の目がくやしそうに涙ぐんでくる。
「ごめん。麗奈ぁ・・・泣かないでぇ。」
「だって・・・猫先輩は麗奈なんて、どーでもいいんじゃないですか。」
「そうじゃなくって・・・昭彦さんの都合もあって連絡出来なかったの。お土産買うような状況でもなかったしぃ・・・でも、みんなのことを忘れてた訳じゃないから・・・ね?」
「猫先輩・・・」
麗奈がまた子猫をヒシッと抱き締めた。子猫は困惑して目を閉じた。背中にまわされた麗奈の腕がくすぐったい。肩をつかむ麗奈の指先がぞくぞくするほど刺激的だ。
「猫先輩と一緒に合宿したかったです。応援にも来て欲しかったです。一緒に映画観ようって言ってたじゃないですかぁ。海だって一緒に行きたかったです。買い物だって・・・何でもいいから猫先輩と一緒に・・・」
麗奈は子猫の髪に頬を擦りつけながら耳元ですすり泣くように言う。息が耳にかかってうなじを熱くする。
「・・・ごめん・・・」
ミントの香りがする麗奈の腕の中で、顔を真っ赤にしている子猫は、圧迫される息苦しさに喘ぎながら言った。
「猫・・先輩・・・いい匂い。・・・柔らかくって・・気持ちいい。」
熱く囁く麗奈の体が小刻みに震えてきた。
「・・・麗奈ぁ・・・」
どうなだめようかと言葉に迷いながら言いかけた時、口を塞がれた。麗奈がキスをしてきたのだ。子猫はビクンと震えたが、逆らえなかった。
 初めは遠慮がちに重ねられた唇が、次第に吸うように動き、ついに子猫の唇を割って舌が滑り込んできた。朝練の後に欠かさず食べるというレモンの酸っぱさが口いっぱいに広がってきて、子猫ははしたなくよだれを溢れさせてしまった。それを麗奈が吸い取って飲み込む。更にねだるように舌を絡めてくる麗奈の手が、子猫の胸をそっと揉み始めた。
「・・ん・・・ん・・・」
子猫はわずかに首を振って逃れようとしたが、麗奈の親指が突起した乳首を見つけて、丸く擦ってきたので、思わず仰け反り気味に悶えてしまった。
「・・可愛い。」
感じて喘ぐ子猫の顔を、うっとりと見つめる麗奈の頬も上気していた。
「・・・やめて・・・お願い・・・」
子猫がかすれる声で小さく言うと、乳首をキュゥっと摘まれる。
「あ・・・ん、ん・・・」
下半身まで疼いて、子猫は抵抗する気力をなくしてしまう。それでも、これ以上を許す訳にはいかなかった。
「昭彦さんに叱られちゃうよぉ。」
昭彦の名前を出すと、麗奈の表情が悲しげになった。
「・・・わかってます。・・・猫先輩の気持ち・・・」
「麗奈・・・麗奈のこと好きだけど・・・昭彦さんを裏切れないの。」
子猫の言葉に麗奈は苦しげに頷いた。
「麗奈の一方的な片思いなのはわかってます。」
「・・・んー・・・そうゆうことでもないんだけどぉ・・・」
「え?」
「・・・麗奈のこと、後輩として以上に好きだもん。」
「猫先輩・・・」
「カッコイイし・・明るいし・・憧れちゃう。」
「じゃぁ・・・」
「でも、ダメ。猫は昭彦さんの物なの。そして、昭彦さんは自分の所有物である猫に、他の人が触れるのを許さないの。」
「・・・物って・・・変です。それじゃあ、猫先輩の気持ちはどこにあるんですか?」
「もちろん、昭彦さんに身も心も捧げてる・・・つもりだよ。・・・ただ・・・猫って欲張りなのかなぁ。・・・みんなが好きなの。・・・特に、猫に優しくしてくれる人は、ぜーんぶ大好き。・・・って、ズルイよね。」
子猫は苦笑して肩をすくめてみせた。
「しかも・・・猫って・・・ちょっと撫でられるだけで、すぐにゴロゴロ喉を鳴らして懐いちゃうとこがあるから・・・てゆーか・・・はっきり言えば淫乱な子なの。あははは。」
言ってて、自分の愚かさに、思わず笑ってしまった。
「そんなこと・・」
麗奈は否定しようと首を振って、語気を強めた。が、子猫は、
「ううん。そうなの。・・で、昭彦さんもそれを承知してるから、余計心配しちゃう訳。だから、気がきじゃなくって、普通以上に神経質になっちゃうみたい。」
と、反省猿のポーズをしてみせた。それから真面目な顔に戻って、
「だから・・・お願い。猫を好きと思ってくれるなら、触れないで。・・・拒めないまま、なすがままになって・・・結果、自分も相手も昭彦さんもみーんな傷つけちゃうの。」
と言った時、涙がポロンとこぼれて一筋頬を伝った。
「猫先輩・・」
麗奈は思わず抱き締めようとしたが、伸ばした腕を寸前で止めると、ゆっくり引き戻して唇を噛んだ。
「・・・わかりました。」
しばらくの沈黙の後で、麗奈が言った。
「嫌いで拒むんじゃなく・・・好きだからこそ、拒めないからこそ、触れないでくれって言われたら・・・我慢するっきゃないです。麗奈にとって大事な人を、どうして傷つけるようなマネが出来るでしょう。・・・好きな気持ちは好きなまま・・・ずっと猫先輩を見守っていきます。」
「麗奈・・ありがとう。」
子猫が感激で涙を溢れさせると、
「あ〜泣いちゃダメですって。こんな二人っきりのシチュエーションで、そんなに可愛く泣かれたら、理性が飛んじゃいますよ。」
と麗奈が苦笑しながら言って、子猫の鞄とバッグを持ちなおした。
「もう始まっちゃいますよ。・・さぁ、行きましょう。」
「うん。」
子猫はポケットからハンカチを出して涙を拭うと、笑顔で頷いた。

 夏休みの宿題のほとんどは早い段階で済ませてあったが、まだいくつか残っていた課題レポートの提出が間に合わなかった。今週中に提出がされないと成績が1ランク落ちると言われて、子猫は高校生としての現実に引き戻された。
 川原圭子が休み時間に子猫の教室にきて、どっぷりと落ち込んでいる子猫に、クスクス笑って、
「ラブラブなバケーションを過ごしたんだから仕方ないわねぇ。」
と言いながらも、
「手伝ってやろうか?帰りに家に寄ってく?」
と言ってくれた。飛びつきたい話だったが、寄り道禁止を言い渡されていることを思い出し、
「何とか一人でやってみるぅ。」
と元気なく答えた。
 せめて帰りに書店に寄って、資料になるような本を買いたかったが、それも諦めるしかなかった。それで、少しご機嫌斜めに黙り込んで、帰りの車に乗っていた。
 と、突然、
「あっ!!・・ックソッ!!」
と運転手が叫んだ。何事かと顔を上げて、子猫は呆然とした。フロントガラス全面が真っ赤に染まっていたのだ。
「伏せていてください!」
と叫びながら、運転手はハザードランプをつけ、窓を全開にして顔を出した。子猫は言われる通りにシートに身を沈めた。ドキドキしながらじっとしていると、いくつかのクラクションが鳴り響きながら過ぎていく音がした後、車が停止した。
「中の方が安全ですから、そのまま待っていてください。今すぐに連絡しますので、大丈夫です。何も心配ありません。」
と、言った運転手はエンジンを止めてキーを抜くと車を降りて行った。子猫は体を起こして、窓から外の様子を見てみた。前方が見えなくなったので、路肩に停止したらしい。かなり交通量のある道路での突然の出来事は、突発的事態に慣れてない運転手だったら事故になっていたかもしれない。
 舗道に人が集まってくる。運転手が携帯で電話をしている。
「警察に連絡したのか?」
精肉店の奥から白い調理服に前掛けをした男が出てきて叫んだ。
「今、ウチのが電話してるよ。」
隣りの青果店のオヤジがやはり大きな声で答えた。交通量の多い通りのせいか、皆大きな声で話すのだろうか。いや、職業柄かも知れない。というより、そんなことを考えている場合ではなかった。数人が車の近くに寄って観察していたが、その中の一人が窓ガラスを叩いて、
「おーい!大丈夫かぁ?」
と声をかけてきたのだ。電話をしていた運転手が慌てて、
「済みませんが、離れていて貰えませんか。」
と、後部座席の窓と覗き込んでいた男の間に割り込んだ。
「この炎天下に車の中にいたら伸びちまうだろう?」
「すぐに代わりの車がきますので、大丈夫です。」
「だったらエンジンかけといてやったらどうだ?」
「いえ。それが油性塗料のようなので安全の為には・・」
「なら、外に出てた方がいいだろう?」
押し問答のように言い争うのを無視も出来なかった。これ以上、中にこもっているのも不自然に思えて、子猫は反対側のドアを後ろから走ってくる車に注意しながら開けて外へ出た。
「あ!・・いけません。中にいらして下さい。」
「いいの。外で待ってるから。」
そう言った子猫は、ガードレールをどうやって越えようかと、立ち止まって考えてしまった。そのまままたいだら、クリーニングしたての制服を汚してしまいそうに思えた。が、数メートル後ろに途切れてる場所を見つけて、そこから舗道に入ることにした。そして、ぐるっと回ってきて、車の前の方もガードレールが切れていることに気付いた。赤く染まったフロントガラスを見たくなくて後ろに回ったのが失敗だったな、とたいした問題でもないことを考えたりしていた。人だかりの後ろの方に所在なく立っていると、運転手が駆け寄り、
「気を付けてください。明らかにお嬢様を狙った攻撃です。」
と小声で耳打ちをした。
「え?」
「詳しくは後で。」
運転手は周囲を気にして手短にそう言うと、子猫を舗道の隅に促し、車道から見えないように立ちふさがった。どうして?と、子猫は運転手の背中に圧迫感を覚えながら考えていた。



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