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子猫白書U




<56>〜<60>



<56>
[善意と悪意]
<56>善意と悪意

 昭彦の賢明な判断で現場に迎えに来たのは橋本と子猫の母親だった。先に到着していた警察官が運転手から事情を聞いていたが、母親が来たこともあって子猫は名前と住所を聞かれるだけで、必要な時には来て貰うこともある、と言われながらも、すぐに帰ることが出来た。運転手も子猫に言ったことや、仕掛けた相手のことを曖昧に隠したので、警察は不良か暴走族のイタズラと思ったようだった。事故にもなっていなかったので、車の持ち主である運転手が被害届けを出すだけで、公的には済んでしまった一件だった。

 だが、それで済むはずがなかった。運転手が昭彦に説明した話によると、子猫を高校で乗せた時から尾行していたバイクだったらしい。付かず離れず、様子を伺うような所があった、と後になってみれば思い当たる。が、特に変わった動きもなかったので、普通に運転していた所、あの交通量の多い道路に出て、子猫の乗っている車の前後に他の車が接近したと思うと、いきなりバイクが追い抜きざまに丸い塊を投げて行ったと言うのだ。ワイパーにその玉の残骸がひっかかっていた。それから判断すると、ゴム風船のような物に油性ペンキを大量に詰めてぶつけたのだろうと思われた。あきらかに事故を誘発させようと意図されたものだったのだ。しかも、運転手がナンバーを見ようとしたが、プレートは黒く塗りつぶされていた。黒いライダースーツに、黒いフルフェイスのヘルメットの二人組というだけでは探しようもなかった。

 怒っている大人が二人。一人はもちろん昭彦だったが、もう一人、子猫の母親が金輪際やくざとは没交渉にすると宣言した。いきなり職場に迎えに来られ、問答無用に駆り出され、挙げ句に警察から事情を聞かれるハメになって、指示された通り自分が頼んでおいた運転手だという嘘までつかされたことで、元々潔癖症の所があった母親は、
「やくざなんかに関わるから、こんな目に合わされるのよ!あなたが反省して改心しない限り、二度と家には入れないし、今後どんな連絡があろうとも関知はしません!」
と言ってのけた。昭彦は、
「ヘタしとったら死ぬかも知れへんかったんやぞ!娘の心配もせんと何ごちゃごちゃいうとんねん!自分の体裁ばかりで、母親の気持ちも持てへん鬼か!」
と、今度ばかりは怒りを抑えられないようだった。
「今度のことで、子猫にどないな非があるっちゅうねん!被害者やないかい!・・・わしも親に捨てられた。そりゃあ、わしはこないな生き方しか出来ん極道や。捨てる方にも言い分は立つやろ。・・・けどな、子猫は何も悪いことをしとりゃせんのやぞ!・・・そない捨てたいいうんやったら好きにせい!子猫はわしが守ったるさかいな!せやけど、二度と母親面さらすんやないで!われの冷え切った心を子供のせいにすんやないで!」
子猫の母親は昭彦の怒声を凍り付いたような横顔で聞き流した。
「やくざに偉そうなこと言われたくないわね。・・帰ります!」
「おう!足はまだ二本ついちょるんや!とっとと帰りくされ!けど、そのやくざに喧嘩売ったちゅうこと忘れんやないで!二度とわしの前にその面見せんなや!次に顔合わした時にはブチ殺したるでな!」
蒼白になった母親が後ろも振り返らずに立ち去ったのは当然だったろう。

「警察に任してたまるかい!ガキのイタズラで済まされたらたまらんで!大事故にもなりかねへんかったんや!わしがこの手で生きたままミンチにしてくれるわ!」
そう怒ってみても、何も手がかりはつかめなかった。
 昭彦は念のために周凰明にも確認したらしい。周は昭彦にはどんな協力も惜しまないと言い、子猫には心が慰められるようにと再び大量の薔薇を贈ってよこした。前回貰った薔薇のポプリで作ったクッションや枕で、今も部屋中に薔薇の香りが溢れているというのに、再び橋本の彼女の礼子や石橋夫人に手伝って貰って、新たにポプリ作りに励むことになってしまった。ただ、今回は昭彦が異常なほど警戒心を強くしていた為、石橋や橋本、他昭彦の舎弟数名が動員されて、一万本はくだらないと思える花を一本一本調べさせるという念の入れようだった。
 また、東竜会系の各組の動向を探ったり、周辺の別の系列の各組の様子も探らせたようだった。更には、県内とその周辺の暴走族にも当たりを入れたが、やっと出てきたのは捨てられてあったバイクだけだった。黒く塗りつぶされたプレートから持ち主を捜すと、盗難されたバイクだったことが判明し、足取りは完璧に消えてしまった。

 その一件以来、再び子猫が自由に外出することは出来なくなってしまった。高校と病院の行き帰りには、ボディーガード的に昭彦から直接杯を受けた舎弟が、いつも同行するようになっていた。けれど、あれ以来何も変わったことは起こらなかったし、それほど警戒は必要ないようにも思えたが、昭彦に言わせると、
「あれだけ用意周到に計画を立てて狙ってくる相手が、そう簡単に諦めるはずがないやろ?息を潜めて、確実なチャンスを狙うちょるだけや。油断したらやられるで。」
ということらしい。
 だが、子猫にはどうしても昭彦達とは別行動で動かなければならないことがあった。高校の修学旅行である。今、高校での一番の話題だったし、思い出を共有することで卒業してからの意識が違うように思えた。中学の修学旅行が行けなかっただけに、高校ではどうしても行きたかった。もっとも中学時代は、小学生時代からのイジメの継続もあって、孤立して友達もいなかったし、行った方が辛くなっていたかも知れない。けれど、高校では圭子も京子も一緒なのだ。クラスは違っていたが、自由行動の時には一緒に買い物をしよう、と誘われている。麗奈にもお土産を買ってきてやりたかった。
 初めは絶対的に許さない構えだったが、子猫の行きたがる理由をじっと聞いていた昭彦は、旅行の日程表を借りると二日ほど答えを保留した後、行くことを許可してくれた。

 旅行の日程は9月25日から28日までの3泊4日で、行き先は大阪と長崎。25日は観光バスで大阪まで行き、大阪城や道頓堀を見学の後、宝塚歌劇場で観劇して旅館に宿泊。26日は新幹線とJRを乗り継いで長崎へ向かい、長崎駅から観光バスでグラバー園やオランダ坂や大浦天主堂等の観光地巡りをし、旅館に宿泊。27日は午前中いくつか観光地を回ってハウステンボスのホテルで昼食。荷物をホテルの部屋に置いた後、夜9時まで自由行動となる。28日長崎空港から羽田まで空路で東京へ。空港から観光バスで都内観光をした後、帰郷する。
「それにしても随分欲張りな行程やなぁ。」
修学旅行を経験したことがない昭彦が、子猫が貰ってきたしおりを眺めながら、呆れたように笑った。
「長崎がメインやったら九州だけにしちょったらええのに。」
「どうしても宝塚が観たいって人達が生徒だけでなく先生にもいるみたい。」
「そんなもんは個人で行けばええやんか。」
「そんなこと猫に言われても・・・でも、猫も大阪寄れるの、嬉しいなぁ。」
子猫は昭彦に寄りかかって、顔を肩に擦りつけて甘えながら言う。
「たこ焼き食べるんだぁ。・・お土産に買ってこれたらいいのにね。」
「たこ焼きかぁ・・・昔さんざん喰うたから、もうええわ。」
「懐かしいでしょう?何か買ってきて欲しい物ある?」
「なんも。・・・それより、道頓堀で迷子にならんか、心配やで。ちゃんと先生の後について行かなあかんで?」
「んっもぉー・・・小学生じゃないんだからぁ・・・」
「クックックッ。せやかて今でも方向音痴やがな。」
昭彦は子猫の前髪を指で遊びながら額にキスをした。
「バスやら新幹線やら飛行機やらとまぁ忙しいこっちゃ。しかもハウステンボスから空港へは船やなんて乗り物見物みたいやな。」
「うん。きっとそれもあるんじゃない?何しろ田舎者だもん。新幹線とか飛行機なんて乗ったことない人けっこういるし、そーゆー経験も出来るようにってことなんじゃないかなぁ。」
「ほう?」
「わかんないけどぉ・・・ふふ。都会で育った昭彦には不思議でも、ずっと田舎にいる猫達には色んな乗り物に乗れるのも嬉しいんだよぉ。」
「そないなもんかのぉ。・・・けど、飛行機とか大丈夫やろか?」
「大丈夫っ。そんなに心配しないでよぉ。酔い止めのお薬もちゃんと貰ってきたし、先生も問題はないって言ってくれたんだもん。」
「医者の言うことなんかあてになるかい。警察と同じや。何か起きない限りは動かへん。」
「だって・・そーゆー職業じゃん。」
「ふん。・・・ま、そこを利用するのもやくざやけどな。クックッ。」
「・・・そんな自虐的な言い方・・・昭彦だってホントは正義感強いのに・・・」
「そーゆー職業やで、しゃぁーないわ。」
昭彦は笑ってそう言うとしおりを子猫に返した。
「ま、そんだけ詰まった日程やったら、子猫を狙う連中も手は出せんやろ。」
「もぉぉ・・・まぁだ言ってるぅ・・・」
「お前は危機感がなさすぎや。・・・クックッ。そないなとこも可愛いんやけどな。人の善意しか見ようとせぇへん。・・・せやから子猫には人の醜い裏側は見せとうないねん。なんも知らんまんま、わしの膝の上でまぁるくなっちょったらええ。」
昭彦が子猫を抱き締めて首に唇を這わせながら笑うと、くすぐったさとぞくぞくする感覚に感じて、体がとろけそうになる。昭彦の言ったことに、善意と悪意の境界線はどこなんだろう、と思いながら愛撫に喘ぎ声をもらす。
「ぁ・・ん・・・猫だって、悪意くらいわかるもん。」
「クックッ。子猫の言うちょるんは自分を嫌ってるやろ、っちゅう程度のもんやろ?・・・人の心には好き嫌いだけやのうて、もっとおぞましい魔物も住んどるんや。」
「・・・よくわかんない・・・」
「せやろ?クックックッ。わしに言わせたらな、嫌いっちゅう感情やて善意のうちなんやで。」
「・・・ますますわかんない・・・」
「やから、わからんでええのんや。」
昭彦はそれ以上の会話を望まなかった。子猫を本格的に愛撫し始めて、子猫も考えることを投げ出して愛撫に溺れた。
<57>
[パトラ]
<57>パトラ

 土曜日、高校が休みだったので、子猫は修学旅行に必要な物を買い揃える為にデパートへ出掛けることにした。その時、仔猫のパトラをペット病院に連れて行った。パトラは、子猫と昭彦が夏休みの後半マンションを留守にしている間に、爪を抜く手術をしたのだが、以来元気がなく食欲も落ちていたので診て貰うことにしたのだ。
 先にペット病院に立ち寄ると、獣医が、
「入院するほどではないですが注射と点滴をしましょう。」
と言った。数時間パトラを預けることになったので、その間に買い物を済ませてしまおうと、子猫達はデパートへ向かった。

 子猫の乗る車はあの一件で買い換えることになったのだが、安全性の高い外車を薦める昭彦に対し、子猫はどうしても国産の目立たない車にして欲しいと頼んだ。運転手はとっさの機転が買われ、そのまま彼が任されることになった。
 運転手の名前は川野保。40代後半の実直そうな人だった。子猫にはいつも人の良さそうな笑顔で挨拶をしてくれる。が、昭彦とは刑務所で知り合った仲だという。川野は妻の浮気から家庭不和となり、賭け事に溺れるようになって多額の借金を背負ってしまったらしい。会社もクビになり、離婚。子供達は母親と暮らすことを選んだという。その妻がほどなく浮気していた男と再婚し、子供達と共に幸せそうな家庭を持った。裏切り者が何故幸せな一家団欒の時を過ごせるのか。ホームレスとなって徘徊するようになったのは自分自身の弱さだろう。それでも、暖かそうな家から聞こえてくる笑い声が許せなかった、と罪を犯した理由を同室になった昭彦に話したのだった。
「藤村さんには命を助けて頂いたんです。」
ある時、川野がそう言った。刑務所の中の生活は、よくドラマで放送されるような甘いものではないという。刑務官も役者が演じるほど親切でも公正でもない。満足に歩けないほど具合が悪くても仮病だと冷笑され、死にかけてやっと医務室で寝ることが許されるのだ。が、医務室から戻らない仲間の方が多いくらいだという。それは医療刑務所に移されたからではなく、助からないことが多いからなのだそうだ。そして川野も、昭彦が応急処置をした後、刑務官に掛け合ってくれなければ、盲腸が破裂して命をなくす所だったらしい。表沙汰にはならないが、服役中に盲腸で亡くなる人達がかなりいるということだった。
「それに、娑婆に戻っても行く当てがないと言っていた私を、出所の時迎えにきてくれまして、運送会社にお世話してくださったんです。自己破産して無一文の私に、何かと入り用だろうと、出所祝いだから気にせず受け取れ、とお金まで・・・。今回、私の運転の腕を見込んで頼みたいっと仰って頂いた時には、少しでもお役に立てれば恩返しが出来ると思い、喜んでお引き受け致しました。・・・お嬢様のことは命に代えてもお守り致します。」
と、晴れやかな笑顔で言った川野は、本来の運転好きな心を取り戻しているようだった。命と同時に魂も救われる。それはマサもそうだったし、他にもそうした人達がきっといるのだろうと、子猫は思った。昭彦はそーゆー神秘的にも思える度量があったのだ。

 デパートの中には黒岩という頑丈そうな男が同行した。川野は車を離れてる間に細工されることを警戒して駐車場で待っていた。
「ねぇ・・・」
店内に入ってほどなく、子猫はふと立ち止まった。そして、斜め後ろにピッタリとついてくる黒岩を見上げて言った。
「お願いですから、そんなに張り付かないでくださいませんか?」
「ですが、これが自分の仕事ですから。」
横にも縦にも前後にもビッグな黒岩は困ったような顔で答えた。柔道五段、空手三段、合気道二段という猛者を睨みあげるのは気持ちのいいものではなかったが、客も店員も眉をひそめて遠巻きに見ている状況が恥ずかしかったのだ。
「だって、あんまり側に張り付かれてると、猫が補導されてるみたいなんだもん。しかもそんなにしかめっ面してぇ・・・せめてにこやかにして頂けません?」
「え・・・こ、こうですか?」
プッ!っと子猫は思わず吹き出してしまった。黒岩が無理に作った笑顔を見た時、『ゴーストバスターズ』という映画に出てくるマシュマロマンを思い出してしまったのだ。マシュマロマンは子猫の大のお気に入りで、パパに頼んで何度もビデオを借りて貰った覚えがあった。映画の中で”ボーイスカウトでマシュマロを焼いて食べたのを思い出した”という台詞があって、それで初めて子猫はマシュマロを焼いて食べる方法があることを知ったのだった。
「・・そうね。・・・そんな感じかも。」
子猫は笑いをかみ殺して言った。黒岩は子猫の態度を訝しがりながらも、何とか”にこやか”でいるように務めて、後ろについてきた。大人を笑うのは失礼だと思っても、笑うまいと意識すればするほど可笑しさが込み上げてきてしまう。平常心、平常心、とすました顔をしても、すぐに発作的に笑ってしまう。それで思わずエスカレーターで降りそこねて、前のめりになってしまった。
「子猫さん!」
黒岩は子猫のサマーセーターのハイネック部分をつかんだ。大柄の黒岩に襟首をつかまれた小柄な子猫は、捕まったイタズラ猫のように情けない姿だったろう。黒岩はすぐに手を離したが、服の乱れをなおしながら子猫は抗議した。
「なにも首をつかむことないじゃん。」
「すいませんッス!・・・その・・子猫さんに触れないようにつかむ場所がとっさに思いつかなくて・・・」
あ、そうか、と子猫はノースリーブのサマーセーターを着ていることに気付いた。大きな体を恐縮そうに腰を折り、頭をかいてる姿を見るとかえって申し訳なく思ってしまう。
「ごめんなさい。不注意でした。今度から転ばないように気を付けます。」
子猫がペコッと頭を下げて言うと、
「あ・・いえ。・・・自分はこれが仕事っすから。」
と、黒岩はマシュマロスマイルをした。
「でも、仕事なら別にどこをつかんでも問題ないんじゃない?・・・こんな格好で来ちゃった猫もいけないんだし・・・」
「うぅぅ・・・いざとなったら、そうせざるを得ない場合もあるとは思いますが・・・最大限、最小限ですむよう努力します。」
「・・・そう。・・・じゃぁ、猫も転ばないよう最大限の注意をします。」
「はい!よろしくっす!」
まだ20代だと聞いていたが、どう見ても30歳は過ぎてるように見える黒岩に、頭を下げられる自分は何なのだろう、と寂しさが過ぎった。生まれついてのお嬢様なら威厳も気品もあって、当然と受け止められるのだろうけれど、子猫には気が重くなるだけだった。でも、しかたないかぁ。猫を大事にしてくれるのは、みんなが昭彦をそれだけ慕ってるってことだし、昭彦がみんなから好かれるのは猫にも嬉しいことだもん。と思いなおして、買い物リストのメモを確認する子猫だった。

 何事もなく買い物を済ませた子猫は立体駐車場専用のエレベーターに乗り込んだ。他にも客がいて、狭いエレベーターだった為、大柄な黒岩が買い物袋をいっぱいに下げているのを、中年の夫婦が迷惑そうに見ていた。その時、ガクンッ、とエレベーターが止まると同時に真っ暗になった。
「何よぉ?どうしたの?」
一瞬の沈黙の後、中年の婦人が不安そうな声で言った。
「どうした?非常灯はつかないのか?」
と、夫の方がライターを出して火を付けた。
「失礼します!」
黒岩が荷物を置いて、代わりに子猫を抱きかかえた。四角い室内の隅に屈み込んで、子猫をその腕の中に隠すようにして抱き包む。
「おい!何やってんだ?そんなことしてる場合じゃないだろ!」
中年の男が苛立った声で言ったが、
「何があってもこの方を守るのが自分の仕事っす。万が一の時でも、自分がクッションになって守るっす。」
と、岩のように固まって動かなかった。
「万が一って何よ!」
中年の婦人が悲鳴に近い声で叫んだ。
「放っとけ!頭がいかれてるんだ。」
婦人の夫が舌打ちしながら言って、非常ボタンを押し続けている。
 押し黙って動かなくなった黒岩の腕の中は、意外にもゆとりがあって、息苦しさは感じなかった。背中も足も頭も覆われたようにガードされているのに圧迫感はなかった。ただ、体勢が少し苦しかったので、子猫はもぞもぞと動いて腰と背中の位置をずらした。
「少し辛抱していてください。・・どんな衝撃でも必ずお守りしますから。」
と子猫の耳元で微少な声で囁く黒岩は、腕と自らの頭で子猫の頭部をガードしているようだった。ゆっくりと呼吸する黒岩の息が顔にかかる。
「チッ!・・ライターが熱くなっちまった。」
と中年の夫が言って、火が消えた。再び真っ暗になった。
「どうするの?ねぇ、どうなるの?」
「ボタンはずっと押しているんだがなぁ。」
「それも電源が切れたんじゃない?」
「そしたら非常ボタンの意味がないだろ?・・・だいたい非常灯がつかないなんてメンテナンスがいい加減すぎる。ここを出たら抗議しないとな。」
「そうよ。ちゃんと言った方がいいわ。」
中年の夫婦は仲がいいらしい。夫は冷静な性格で婦人は夫を信頼しているようだ。仲がいいご夫婦っていいなぁ、と、ふと思ってしまってから、
「うー・・・」
と、小さく呻いた。こんな時に人の観察をしてしまう危機感のない自分に自分で呆れてしまう。
「大丈夫。怖がらないで。」
黒岩がまたほとんど息だけで囁き、子猫の頭を撫でた。子猫が脅えて呻いたと勘違いしたようだ。訂正するのも場違いに思えて、
「・・・うん。」
と頷いた。頷いてから少し顔を上げようとして、黒岩の頬あたりに唇があたってしまった。
「あ・・ごめん・・・」
「大丈夫です。」
そう言いながら黒岩の体温が上昇したように感じた。子猫が座っている黒岩の太股の筋肉が盛り上がってお尻にあたる。子猫はくすぐったさに身動いでお尻を動かした。が、間の悪いことに今度は別の盛り上がったモノにあたってしまった。慌てて移動しようとしたものの、極めて狭い中では思うようにいかない。むしろ前以上に密着してしまって、盛り上がったモノの固さを実感してしまった。抱き包まれた時からの体の疼きは、もうたまらない程に子猫を痺れさせているのだ。蜜壺から溢れ出る愛汁がショーツをグッショリ濡らしている。子猫は熱い息を思わずもらし、黒岩にしがみついた。
「・・・怖がらないで。・・・大丈夫。」
囁く黒岩の息も熱くなっていた。子猫を撫でる手が、髪から頬、うなじ、肩へと優しく移動する。子猫は無意識にお尻を黒岩の太股に擦りつけていた。初めはマーキングのように。それが、丁度具合良く花陰を押し上げる筋肉を見つけてしまって、子猫はショーツが食い込んでくるのも気にせずに、強く擦りつけ始めてしまった。後から後から溢れ出る蜜を黒岩のズボンが吸い取っていく。
「・・・ぁ・・・」
子猫が思わず声をもらしそうになった時、
「いつまでこうしてればいいの?」
と、中年の婦人が涙声で言った。
「たいていすぐ回復するもんだよ。」
「酸素は大丈夫なの?熱くてたまらないわ。」
「エアコンが止まったから熱いのは仕方ないが、通風口はあるから酸素がなくなる心配はないさ。」
「・・・そう・・・」
婦人が震える息を吐いた。と、明かりがパッと灯った。
「あ!ついたわ!」
ゴトンとちょっと振動があって、エレベーターが動き出した。
「良かった、良かった。」
中年の夫が言ってほっとした笑顔になった。黒岩はそっと立ち上がると、子猫がちゃんと立てるように補佐した後、床に置いてあった荷物を持ち上げた。そして、さりげなく体の前を隠すようにした。子猫はうつむきがちに両手で頬を押さえて、その腕で突起した乳首が薄いセーターに浮き上がっているのを隠した。
 エレベーターの扉が開くと、デパートの人間と思える人達が平謝りに迎え出た。さっそくに、中年夫婦は文句を言い出したが、子猫と黒岩は挨拶もそこそこにその場を離れた。

「・・・トイレ寄りたい。」
と子猫が小さく言うと、
「・・・自分も行っていいっすか?」
とすまなそうな声で言った。子猫は頷いてすぐにトイレに駆け込んだ。我慢出来なかった。洋式トイレに入ると、開いていたトイレの蓋を閉じ、その上に片膝を乗せた。それからショーツを少し下げて、いきなり指二本を熱く湿った膣へと挿入した。感じすぎていたから前戯の必要もなかった。クチュクチュと外にまで聞こえそうな音がする。
「・・ぁぁ・・はぁ・・はぁ・・ぁぁ・・・ん、ん、・・・」
乳首が千切れそうなほど突起してしている。片方の手でセーターとブラジャーを同時にたくし上げ、ぷるんぷるんの胸を揉む。痛くてたまらない乳首もつまんで揉みほぐす。
「ん、ん、・・・ぁぁぁ、ぁ、ぁ、・・・」
目を閉じて、声を出さないように熱い息で喘ぎながら、黒岩が同じようにトイレで、あの太くて固い塊を扱いている姿を思い浮かべてしまった。ダメ!!
「・・・あき・・・あき・・・」
子猫は呪文のように昭彦の名前を呼んで、昭彦の指使いを思い出しながら、Gスポットを刺激した。
「んあぁぁぁぁ・・・」
強烈な快感に声が出てしまう。これ以上は危険、と理性のカケラが警鐘を鳴らす。子猫は昭彦に抱き締められ愛撫される自分をイメージしながら、激しく指を動かし、
「あ、あ、あぁぁ・・・イクゥゥゥーーー・・・」
と、呻くように言って一気に登り詰めた。荒い息を整える喉が張り付きそうに乾いている。強い締め付けに痺れている指をゆっくりと引き抜く。あの夏のバカンスで、昭彦は目の前で子猫にオナニーをさせた。そして、「オナニーしたら、必ずその指を舐めるんやで。」と言って、昭彦が許すまで舐め続けさせられた。その時のことを思い出しながら、指を舐めた。唾液が出てきて、少し喉が潤った。
 が、そうそうゆっくりもしていられなかったので、子猫は個室から出て洗面台で手を洗った。幸い誰も他に人がいなかったので、子猫はほっとして顔も冷たい水で洗った。目が潤んでいるのは仕方ないな、と諦めて外へ出ると、婦人用トイレの入り口で、黒岩が他の客が入るのを睨みを効かせて押しとどめていた。
「黒岩さん・・・」
子猫が呼びかけるとマシュマロスマイルで振り向いて、
「あ・・お待ちしてました。」
と、やはり潤んだ眼差しで言った。が、すぐにビシッと姿勢を正し、
「では!姐さん!お供します!」
と言って頭を下げた。足止めされて不満顔だった客が驚いた顔をして後ずさりした。子猫は苦笑してその人達に頭を下げ、
「お待たせして、ごめんなさい。」
と言ってその場を立ち去った。黒岩は来た時と同じように斜め後ろをついてくる。喉が乾いてたまらなかった子猫は自動販売機でポカリを買った。それでも1/3程で充分だったので、残りを黒岩に差し出すと、
「すいません。」
と、受け取った途端に飲み干した。ほっと息をついて缶を捨てる後ろ姿に、
「あ、間接キスだ。」
と、からかうように言ってやった。冗談で流さないといられないような緊張感が二人の間にあったからだったが、黒岩は本気で驚いたようで、
「か・・勘弁してください。殺されるっす。」
と情けない声で言った。
「冗談じゃん。・・猫は昭彦さん一筋だもん。」
と断言した。そう言うことが黒岩を安心させるとわかっていたから。
「そうっすよね。」
黒岩はほっとして頭を掻いた。
「うん!」
子猫もにこっと笑って、あの閉じ込められた空間での出来事を心の奥に押し込めることにした。

 駐車場では川野が、なかなか戻らない子猫達を心配して、不安そうな顔で待っていた。それでも、川野の別れた女房が買い物好きで、よく待たされていた為、女性の買い物というのは時間がかかるものだ、と思っているようだった。それで、特に聞かれることもなかったので、エレベーターが一時止まったことは話さなかった。
 もうパトラも迎えに行っていい時間になっていたので、他には寄らずにペット病院へ向かった。子猫が受け付けの所に行くと、助手の女性が不審な顔で言った。
「どうかされましたか?」
「あの・・パトラを引き取りに来たんですけどぉ・・まだですか?」
「え・・・・・でも・・・・・先ほど代わりの方が引き取りに来られましたけど。」
「代わり?」
「ええ。何でも子猫さんが具合が悪くなって来れないからって。」
そんなバカな、と思いつつ、
「それっていつですか?」
と聞いた。助手の女性は困った顔で時計を見ながら、
「そうですねぇ・・・40分ほど前でしょうか・・・」
と答えた。呆然と立ち尽くす子猫の後ろで黒岩がすぐに電話で昭彦に確認を取った。だが、昭彦は誰にもそんな指示はしていないと答えたようだ。
−「ドアホ!!そもそも子猫が具合も悪ぅないのに嘘言うちょるんや!すぐに嘘やと気付かんかい!」
黒岩の携帯からの怒声が子猫にも聞こえてくる。
「すんません!すんません!!」
黒岩は顔中に汗を吹きだして、頭を下げて謝っていたが、
「ドクターっす!」
と子猫の前に携帯を差し出した。
「あきぃ・・・」
子猫の泣きそうな声に、昭彦は声のトーンを落として宥めるように話した。
−「今泣いちょたかてどうにもならんやろ?・・他の者を調査に行かせるさかい、子猫は帰って待っちょればええ。ええな?」
「・・うん・・・」
子猫は不安な気持ちのまま頷いた。

   どうしてパトラを誘拐したんだろう?どうして?誰が?何の為に?この前のペンキを投げつけた人達がまた嫌がらせにしたんだろうか?どうして子猫を狙う必要があるんだろう?そんなに恨みを買うようなことをしたのだろうか?
 部屋で一人で待っていると疑問ばかりが次々と湧いてくる。不安で悲しくて寂しかった。黒岩は昭彦の指示で部屋の玄関を外側でガードしているだろう。いつもはマンションの中にまで入ることはなかったが、今日は誰も部屋に近付けないようにと言われたからと、玄関まで送ってくれたのだ。だから、今すぐに誰かが襲ってくるという心配はなかったが、相手の正体がつかめないだけに、漠然とした恐怖に包まれていた。
 昭彦は早めに帰ってきてくれた。帰るなり、子猫は昭彦に飛びついて泣きだした。泣き出してから、石橋と橋本も同行していることに気が付いたが、もう止まらなかった。泣きじゃくってキスをせがんで体ごと擦りつけた。
「可愛がっちょっただけにパニックになるんもしゃぁないわなぁ。」
子猫を抱き締め、求めに応じてキスをしながら、石橋達に向かって言った昭彦は、
「悪いけどちょっと時間貰うわ。少し落ち着かせへんと・・・この子がまいってまうでな。」
と子猫を抱き上げた。
「他の者への連絡頼むで、何かわかったら言うてくれ。」
「かしこまりました。」
石橋はごく普通に軽く頭を下げた。橋本は、
「いってらっしゃい。」
ときっちり頭を下げて言った。
「どこ行くねん?アホ。」
「あ・・え・・いや・・・」
真っ赤になって下げた頭を上げられないまま口ごもっている橋本に、
「まぁ、ええ。」
と苦笑して言った昭彦は子猫を抱いて、寝室へと入って行った。

 その夜のことは子猫にはよくわからなかった。ただ、泣きながらしがみつき、貪るように昭彦を求めていたような、曖昧な記憶しかなかった。抱かれながら眠ってしまったのか、繰り返す絶頂の中で意識を失ったのか、翌朝になって目が覚めるまでの記憶が途切れている。
 目が覚めた時、優しく見守っていた昭彦が、
「もう、そないに思い詰めたらあかんで?」
と言った。子猫はそれでまたパトラのことを思い出して涙が溢れてきてしまった。昭彦は、
「ほーら、言っちょるそばから、また泣くもんやないで。」
と言いながらも、子猫をそっと抱き締めてキスを繰り返し、
「パトラも犯人も必ず見つけ出しちゃるでな。この落とし前はきっちりつけちゃるで、もう少し辛抱して待っちょってや。」
と宥めるように甘く囁いた。昭彦の眼差しは労るように優しかったが、その瞳の奥には怒りを灯した強い輝きがあった。
 子猫が眠ってる間、昭彦はあちこち手を尽くして調べていたようだったが、依然犯人の姿は見えてこないようだった。憤りをぶつける相手が雲のようにつかみ所がなく、耐えていたのは昭彦の方だったのかも知れない。次第に全身を包む空気が鋭敏に研ぎ澄まされていくようで、冷たい妖気を立ち上らせていた。
<58>
[箱]
<58>箱

 憂鬱な日曜日を魂が抜けたようにぼんやりと過ごした。良く晴れた残暑の残る陽射しが眩しく世の中を照らしていたが、子猫の心には重い雨雲が垂れ込めていた。いつもなら、足元にじゃれついてくるパトラ。小さなぬいぐるみのように愛らしかった仔猫。無防備にお腹を上にむけて、微かに笑うような表情で眠る姿が天使のようにさえ感じたこともあった。いることが当たり前になっていたから、その存在のない部屋が広く感じた。
 昭彦は子猫を気にしながらも、抜けられない仕事があるからと、出掛けていった。
「修学旅行の準備でもしとったらええ。少しは気が紛れるやろ。」
と昭彦は言ったが、子猫はこんな気持ちで行っても楽しめるはずがない、と思うとため息ばかりが出てしまう。それでも、行かない訳にもいかないだろうな、と荷物を確認しながら詰めたものの、後は頭痛がしてきて、ベッドで横になると夜まで眠ってしまった。

 深夜、子猫がお風呂から上がったバスローブ姿のまま梨をかじっている所に、昭彦が帰ってきた。昭彦の表情には厳しいものがあった。
「子猫、昨日デパートでエレベーターが止まったんやて?」
「あ・・うん。」
「何で言わへんかったんや?」
「何でって・・・だって・・・パトラのことで忘れてたもん。」
忘れていたのは本当だった。子猫は梨の汁が垂れてくるのを気にしながら、不思議そうな顔をした。昭彦は眉間にしわを寄せて、
「あれも誰かが故意に仕組んだことやったらしい。」
と言って歯ぎしりをした。
「・・・そうなの?」
子猫は梨を頬張ったまま止まってしまった。
「ああ。誰かが回線をショートさせたらしいわ。誰かはまだつかめんけど、警察も動いちょる。警備員が不審な二人組の男を見たっちゅうとった。」
「・・・二人組かぁ・・・」
子猫は梨をしゃりしゃりといわせて噛むと飲み込んだ。昭彦が額を指先で押さえながら、子猫にうろんな視線を投げてきた。子猫は目をパチクリと瞬きながら、また梨を囓った。
「・・・子猫。」
「うん?」
「わしが真面目に言うちょる時に梨はないやろ?梨は!」
「え・・・何で梨がダメなのぉ?」
「しゃりしゃり言うて全然聞いちょらん。しかも汁は垂らすわ、美味そうやわ・・・真面目に話しちょれんがな。」
昭彦は子猫から囓りかけの梨を取り上げると、思いきり頬張って、しゃりしゃりと食べ始めた。
「あーん・・・ちゃんと聞いてたのにぃ。」
「今日はめっちゃ忙しかったで、ほとんど何も喰っちょらんのや。」
芯だけになった梨を子猫に渡してそう言った昭彦は、疲れたようにネクタイをゆるめた。
「じゃぁ、何か作ろうか?・・チャーハンかお茶漬け。」
「お茶漬けがええな。お茶は渋めやで。」
「うん。わかった。」
子猫は昭彦の頬にキスをしてキッチンへ行った。鮭を焼く間に野沢菜を刻み、キュウリの浅漬けを小皿に盛った。昭彦はおかわりして二膳食べると、お茶を湯飲みですすりながら、
「美味かったで。」
と言った。それから、
「ペット病院にパトラを引き取りに行ったのは子猫くらいの女やったそうや。」
と、唐突に話を戻した。
「ま、主犯やないやろけどな。どうせ事情も知らんと頼まれたっちゅうくらいの役割やろ。・・けど、警備員に目撃されたんもまだ若い奴やったそうやし、今回の一件は組織がらみやのうて、どこぞの不良がやっちょることのようや。」
「・・・そうなんだぁ・・・」
「組織の方が分かりやすいんやが・・・どの道、逃がさへん。だいたいの影は見えてきたんや。必ず報復しちゃるでな。」
「・・・報復って・・・パトラは・・・もうダメなの?見つからないの?」
「どやろ・・・何かに利用するつもりやったら、まだ生かしちょるやろな。」
「なら助けられる?」
子猫の顔がパッと明るくなった。
「利用するっちゅうんは、まだ子猫が狙われちょるっちゅうこっちゃで。あまり猫ばかり気に掛けて、自分の守りを忘れとったらあかんやろ?」
「・・・だって・・・」
「それに・・・この一連の犯人はこっちの手の内を知りすぎちょるようや。・・・そこが気になる。・・・せやから、子猫も油断しちょったらあかんで。ええな?」
「・・・うん。」
子猫はパトラがまだ生きてる可能性があると聞いて、どうか無事に戻ってきますように、と手を合わせて祈らずにはいられなかった。

 月曜日の朝、川野の運転する車から降りると、圭子が、
「おはよぉー!」
と元気な笑顔で声をかけてきた。
「おはよ・・・」
子猫も返事をしたが、笑い返そうとしても力なく口元が歪んでしまう。
「どぉしたのぉ?」
圭子が顔を覗き込むようにしたので、子猫は、
「ううん。何でもない。」
と答えた。昭彦関係の内輪のことは圭子でも話せなかった。圭子はその辺も承知しているようで、気にしながらも話題を修学旅行に変えてくれた。
「道頓堀では自由時間があるじゃん?目一杯美味しい物食べようと思って、食べ歩きの本買っちゃった。ふふ。・・昼休みに京子も誘って、もっとも効率良くお店を回れるコースを検討しようねぇ。」
「たこ焼き食べれたらいいじゃん。」
「甘い甘い。大阪の食文化はそんなもんじゃないって。それにお土産だって、食べ物関係なら大阪で買った方が絶対いいよぉ。」
「そっか・・・生八つ橋も食べたいかも。」
「それは京都じゃん。・・あ、でも、売ってるかもね。」
そう言って笑った圭子は今度は宝塚の話を始めた。圭子もかなりの宝塚ファンのようでスターの名前を嬉しそうに次々と出した。
 圭子の話が終わらないうちに昇降口に着いたので、また昼休みに、と約束してそれぞれの靴箱へと別れた。子猫が上履きを取ろうとすると、その上にお弁当箱くらいの箱が置いてあった。なんだろう?と手に取り蓋を開けて、息が止まった。見ている物の存在が信じられなかった。血の気が引いていき、箱を手にしたままストンッとその場にしゃがみ込んでしまった。
「子猫さん、どうし・・・・・キャァー!」
同じクラスの美香が箱を覗き込んで叫んだ。その声でみんなが集まってきてしまった。
「どうしたの?」
「うわっ!何これ!」
「いやぁー!」
しゃがみ込んだ子猫を取り囲む人達をかき分けて圭子が側に来た。子猫が真っ青になってガタガタ震えてるのに気付き、
「猫!しっかりして!薬は?・・猫!」
と言いながら、子猫の鞄を開いて発作用の薬を探し出した。そして、子猫の口を開けさせて薬をスプレーした。
「誰か保健の先生を呼んできて!それと担架も!・・関係ない人は教室に行きなさい!」
てきぱきと指示する圭子の声が遠い耳鳴りのかなたで聞こえている。目の前の視界が暗く霞んでいる。けれど、今この状態で倒れるわけにはいかない。
「・・大丈夫・・・ただの貧血だから・・・」
子猫は箱を腕の中に隠すように持って、どうにか口を動かして言った。
「猫?・・本当に?・・救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「・・・ダメだよぉ・・・お願い・・・呼ばないで・・・」
「本当に大丈夫なんだよね?猫が自分でちゃんとわかってるなら呼ばないから。だから、安心して。保健の先生にもそう説明するから。」
さすがに病院嫌いの彼氏を持つと心得たものだなぁと感心してしまう。
「・・あはっ・・・翔の教育が・・・行き届いてるねぇ・・・あはは・・・」
「何言ってるの。私が翔を教育してるとこだよ。」
そう言って苦笑する圭子の顔が次第にはっきり見えてくる。薬の効果があらわれてきたようだった。
「圭子・・・これ・・・」
子猫は震える手で箱に蓋をすると圭子に向けた。
「・・・預かって・・・先生に・・・見られたくないの・・・」
「え・・・でも、これ・・・」
「パトラの・・・シッポ・・・」
圭子は目を見開いて絶句した。圭子自身はまだ直接見たことはなかったが、子猫の話題にはいつも出てくるので名前は知っていたのだ。それと、子猫がとても可愛がっていることも。
「わかった。」
そう言った圭子は急いで箱を受け取ると、
「ほら、用のない人は教室行きなさい!ホームルームが始まるでしょ!・・それと無責任な噂はしないこと!人としての良心を持ってね!」
と言った後、自分のバックの奥に箱をしまい込んだ。
 その場を立ち去っていく生徒の代わりに別の慌ただしい足音が聞こえてきた。担架を持った男性教師二人と保健の先生が駆けつけてきたのだ。
「猫・・大丈夫だからゆっくり休んでいてね。・・昼休みにね。」
圭子が耳元でそっと囁いた。
「ありがと。」
子猫はほっとして目を閉じた。

 子猫は午前中ずっと保健室のベッドで休んでいた。時々うつらうつらと微睡みながら。それでも眠ることは出来なかった。眠りかけると、いきなり目の前にパトラをつかんだ手が現れ、大きなハサミでシッポを切るのだ。パトラの悲鳴、飛び散る血飛沫。あまりにもリアルにまざまざと閉じた目に映し出された。その度にビクッと意識が戻る。その繰り返しに、発作は治まったものの、別の痛みが胸に蓄積されていった。
「失礼します。・・様子見に来ました。ちょっといいですか?」
圭子の声がした。
「あ、いいわよ。落ち着いたみたいだから。・・・じゃぁ、ちょっとお昼休みの間見てて貰えるかしら?」
「はい。大丈夫です。」
「それじゃ、お願いするわ。」
保健の先生はそう言うと保健室を出て行ったようだ。
「猫ぉ・・・どぉ?」
カーテンを開けて圭子が顔を見せた。手にはバッグを持っている。
「あ・・圭子ぉ・・・ありがとぉ。」
子猫はゆっくり起きあがろうとした。
「いいよ。寝てて。」
圭子はそう言ったが、子猫は、
「ううん。もう大丈夫だから。」
と、起きあがった。圭子が枕を他のベッドからも集めてきて背中に当ててくれたので、子猫は寄りかかることが出来て、感謝の笑みを浮かべて、
「ありがと。」
と言った。圭子は笑って首を振ってから、
「これさぁ・・どうしようかと思ったんだけどぉ・・気にしてると思って持ってきてみたよ。今、見たくないなら帰りまで預かっておくけど・・・」
とバッグをちょっと上げてみせた。
「猫のことだから、見なくても食事出来る状態じゃないと思って。・・・だけど、ちゃんと気持ちがしっかり持てないなら返さないよ。どうする?」
「うん。・・もう・・平気。覚悟・・てゆーか・・現実として受け止めてるから。」
「ホント?」
圭子が確認するように顔を近づけて目を覗き込むので、子猫はうんうん、と頷いてみせた。それで納得してくれた圭子が、バッグから箱を取りだして、子猫に渡した。覚悟はしていても、いざ箱を手にすると手が震えてくる。子猫は深く深呼吸してから、そっと蓋を開けた。
「・・・パトラ・・・」
箱の中で”し”の字に丸まった小さなシッポ。根元の黒く固まった血が痛々しい。子猫はそっと指先でなぞってみた。柔らかで滑らかな感触がそのまま残っていた。パトラはもう生きてないのだろうか?そう思うと涙が込み上げてくる。
「猫ぉ・・・そんなに眺めててもさぁ・・・」
「・・・うん・・・」
子猫は蓋を閉じる前に手に取って頬ずりがしたくなった。それで持ち上げようとしたが、血が敷いてあった紙にこびりついて張り付いてしまっていた。どうしようと上げかけた時、更にその下に封筒のようなものを見つけた。え?っと思ってから、子猫は圭子の前で調べることを躊躇った。圭子を巻き込む訳にはいかない。
「ちゃんと家に連れて帰ってあげなきゃ。」
子猫はそう言って、蓋を閉じると、ベッドの横に置いてあった自分のバッグに閉まった。
 箱をしまってからは、圭子は翔との付き合いについて話し出した。お昼休みは京子とも一緒に修学旅行の相談をしよう、と言っていたが、今の状態では子猫が旅行に行けないかもしれない、と感じたのだろう。旅行の話を出さないようにしていてくれた。そんな心遣いが嬉しくて、子猫も暗くなる気持ちを見せないように努力した。

 保健の先生が戻って、圭子は教室に帰って行った。
「子猫さんはどうする?自宅の留守番電話にはメッセージ入れておいたんだけど・・・帰っても一人じゃ大変でしょうしねぇ・・・」
「もう少し休んでいてもいいですか?」
「それはかまわないわよ。ここで休んでいて、お迎えの車が来た時帰るのでも。その方が安心かしらね。」
「・・・はい。」
「じゃぁ、何かあったら声かけてね?」
「はい。」
先生は子猫の熱や脈拍を調べてから、カーテンを閉めて、自分の机に戻って行った。キャスター付きのイスが軋む音がして、子猫はふぅっと息をついた。
 子猫はそっと音をたてないように起きあがると、バッグをとって、さっきしまった箱を取りだした。そして、箱の下に隠すように入っていた封筒をつまみ出した。封筒にも血がこびりついていたが、糊付けはされてなかった。血がついた為に舐めるのを躊躇ったのかもしれない。中には四角に折り畳んだ紙があった。広げてみると、
 『汝 我の痛みを知れ!
  捜し物を得たければ 指示に従え!
  以下の場所へ 一人で来ること!
  今日午後4時 ○○町○○番地○○工場裏○○倉庫
  秘密厳守! 守らぬ時 命は消える!』
と書かれてあった。
「汝・・・我の痛み・・・」
子猫は小さく呟きながら、一人の顔が浮かんできた。
「・・・そっか・・・」
でも、どうしよう?午後4時というのも中途半端な時間だった。いつも車が高校へ迎えに来る時間が4時なのだ。それからでは間に合わない。というより、一人で行かなければならないし、途中まで送ってくれと言って承知する川野でもなかった。つーか、秘密厳守だし、と子猫は考えてしまった。そして、これは「車の迎えが来る前に早退して来い」、と言ってるのだと理解した。確かにそうでもしなければ、子猫が一人で行動出来るはずもなかった。昭彦の言っていたように、内情に精通しているなぁ、と思いながらも、それも当然だなぁ、と納得していた。

 子猫は保健の先生に、
「やっぱり、帰って家で休むことにします。」
と言って、早退の手続きをした。
「お迎えの車に連絡しなくていいの?」
「帰ったら、自分でしますから・・・」
「でも、バスじゃ負担にならない?・・呼べないの?」
子猫は困って、
「えっと・・・時間指定なので・・・」
と曖昧に言うと笑って誤魔化した。
「そう。・・ならタクシー呼びましょうか?」
あんまり心配してくれるので、子猫はそうして貰うことにした。○○町の駅で降ろして貰えば、荷物を預けておくことも出来るし、午後4時近くまでの時間を潰すことも出来る、と思ったこともあった。
 命は消える、と書いてあった。ということはパトラはまだ生きているんだ、と子猫は気持ちを引き締めて、タクシーに乗り込んだ。
<59>
[倉庫]
<59>倉庫

 ここだ。子猫は手にした紙の字と、鉄筋がむき出しになった古い建物に書かれた、消えかけた字を比べて確認した。時間は3時55分。早すぎず遅くもなく丁度いい時間だろう。子猫は背筋を走る悪寒と全身の震えを感じていた。けれど、今度のことは自分が何とかしなければいけないことなのだと腹をくくっていた。それは、パトラへの愛情だけではない、別の重い責任を感じていたのだ。

 震える手をぎゅっと握ると、子猫は錆びて塗装のはげた通用口の扉を開けた。ギィーッと渋い音がして、埃臭い空気がたちこめる、暗い倉庫の中に踏み込んだ。まだ夏の勢いのままに照りつける外の明るさに慣れた目は、しばらく中の様子を把握出来なかった。息苦しさを感じる熱気があった。
「あっはははっ!見ーろ、俺が言った通りだろ?」
上の方から声がする。
「いい子ブリッコはちゃーんと言いつけを守って、一人でやってきたぜ!」
積み上げた木箱のような上に人影があった。
「ふ〜んだ。お兄ちゃんの自慢話なんて〜どぉ〜でもいいのぉ〜!」
可愛い甘えるような声が人影の後ろからして、影は二つになった。
「・・・奈々さん。」
そうなのだ。今度のことには彼女が関係していると感じたからこそ、一人で来るしかないと心に決めたのだ。
「そりゃねぇだろー?俺の優秀な頭脳あればこそ、そいつを引っ張り出せたんだからな!ちったぁー兄ちゃんに感謝しろよ!」
「わかったからぁ〜早くやっちゃってよぉ〜!」
目が慣れてくるに従って、二つの影がはっきりした姿になってきた。三段重ねの木箱の上に、仁王立ちになった男は、ダボダボのニッカに地下足袋、薄紫のニッカに合わせた色のTシャツの袖を肩までたくし上げている。その横で木箱から足を投げ出して、ぶらぶらと揺らせながら座っている少女が奈々。昭彦に子犬を絞め殺された彼女である。髪を二つに分け頭の上でしばっている。チェックの短いスカートに白いブラウス、揺れる足にはルーズソックスという服装は自分の高校のものなのだろう。
「奈々さん・・・レディちゃんのことは謝ります。・・・だからパトラを返して?」
子猫は奈々を見上げなから木箱に近付いた。
「ふ〜んだ!・・自分が可愛いセーラー服だからってぇ〜偉そうにさぁ〜!」
「別に偉そうにしてるつもりないですよぉ・・・」
確かに子猫の通う高校の制服は可愛いと評判だったが。
「レディちゃんのことは・・本当に悪かったって思ってるの。・・・謝って償えることじゃないかもしれないけどぉ・・・でも、こんなことしてたら・・・」
子猫はまた木箱に近付こうとした。
「おっと、動くんじゃねぇぜ!・・・ふん!償いはちゃんとしてもらうさ!」
「きゃはははは!やっちゃえ〜やっちゃえ〜!」
子猫はどう言えばいいだろうと唇をかんだ。が、思案する前に、人の気配を感じてハッとした子猫は、視線を左右に動かした。子猫の左右に二人ずつ、薄笑いを浮かべた男達がじりっじりっと近づいてくる。
「どう償えって言うんですか・・・?」
子猫は奈々の兄に向かって言った。
「はっはっはー!女に償えることって言やぁ一つしかねぇーだろが!」
「わかりません・・・」
子猫は不可解な顔で兄を見ていた。
「ったま悪ぃーなぁ!女の価値っちゃーまんこしかねぇだろ!・・・はっはー、相当いい具合のまんこしてんだってなぁ?男、手玉に取ってデカイ面してんだってぇ?・・・どんだけの名器とやらか試さして貰おうってぇーんだよ!」
奈々の兄が笑うと、子猫の左右の男達も舌なめずりをしながら笑いをもらした。
「・・・そんなぁ・・・そんなこと・・・関係ないじゃないですかぁ・・・」
子猫は息が震えてくるのをこらえて言った。
「っせぇー!俺の可愛い妹を泣かしゃこんくらいは当然なんだよ!」
「わ〜い!お兄ちゃんカッコイイ〜!」
奈々が足をバタバタさせて笑う。
「奈々さん・・・どうして?・・・会長さんは承知なの?」
「パパなんてぇ知らなぁ〜い。新しい犬買ってやるってぇ〜そればっかなんだもぉ〜ん。・・・なぁ〜にさぁ〜!パパの方が偉いはずなのにぃ〜なぁ〜んで奈々が我慢しなきゃなんないのよぉ〜!こんなの絶対許せない〜!」
奈々は思いっきり頬を膨らませた。
「それは・・・」
「それにす〜ぐあんたのことを誉めるんだもぉ〜ん。・・可愛子ぶってさぁ〜・・猫なんかだぁ〜い嫌い〜!」
子猫は話し合いのしようがないことを悟った。けれど、ここまで来た以上、パトラはなんとしても助けたい。
「・・・パトラはどこにいるんですか?ここに来れば返して頂けるんですよね?」
「用が済みゃー返してやるぜ!・・おう、その箱見せてやんな。」
奈々の兄の言葉に一人の男が後ろの方から段ボール箱を持ってきた。箱を揺らすと中から”ミュ〜ン”と小さな鳴き声がした。
「パトラ?!」
子猫が箱に手を伸ばそうとすると、スッと間に入った男が子猫を突き飛ばした。子猫はコンクリートの床にしりもちをついた。
「きゃははは、変なかっこぉ〜。」
子猫は両膝がむき出しになったのを急いでスカートで隠した。強打した尾てい骨がジーンと痛んですぐには立ち上がれなかった。座ったまま奈々を見上げ、
「奈々さん・・・パトラを返してください。・・・お願いします・・・」
と言うと、正座しなおして、手をつき頭を下げた。
「お願いしますぅ。」
「知らなぁ〜い。だってぇお兄ちゃんがど〜してもあんたとやりたいって〜言うんだもぉ〜ん。」
「はははー!そりゃー何万人にひとりっちゃやりたくもなるぜぇ!」
子猫は顔を上げて、
「そんなの・・聞いたことないですぅ。・・・誰が言ったのかわかんないけどぉ・・・」
と目に涙が滲むのをグッと押さえて言った。
「それによぉー、人前でまんこ舐められんのが好きなんだってなぁー?」
え?!それはどこからの情報なんだろう?子猫の脳裏に花火大会の夜の顔ぶれが過ぎった。あの中に裏切り者がいるとは思えなかった。昭彦が会長に話すはずもないし、他の誰だって、会長よりも昭彦に近い人達だ。
「もぉ〜、お兄ちゃんの友達の話はどぉ〜でもいいからぁ〜!」
子猫が呆然としていると、奈々がじれったそうに言った。けれどその言葉が子猫にまた新たな謎を引き起こした。奈々の兄の友達とはどうゆうことなんだろう?
「おう、わかった、わかった。けどよぉー、こーゆーんはなぁ、じっくりなぶってやるんがおもしれぇーんだぜ?」
子猫はムッとして立ち上がった。
「あなたになぶられる理由がわかりません。パトラを返してください。」
「バーカ!はい、そうですかって返す奴がどこにいんだよ!オメエがちゃんとゆーことききゃぁ返してやるっつってんじゃねぇか!」
「そんな一方的なこと言われても・・・」
「テメェ、自分の立場ってのがわかってねぇーのか?テメェーにゃ選ぶ権利なんかねぇんだぜ!言うこときかなきゃ、その箱の中身をぶった切ってやるぜ!」
「だぁ〜からぁ偉そうだってぇ言ったんじゃぁ〜ん。奈々が一番偉いパパの彼女なんだもぉ〜ん。奈々が一番じゃなきゃいやなのぉに〜!」
何の話をしてるんだろう。わかっていても、子猫には理解出来なかった。追いつめられた状況なのはわかっている。でも、どうしてそうなのか、納得出来ない。とは言っても、どうにかしなきゃ、と子猫は周囲を見回した。
「はっはー!逃げよーったって無駄だぜぇー!」
左右の男達がにじり寄る。子猫は思わずセーラー服の胸元を押さえた。にやけた男達が子猫の体を舐めるように見ている。
「抵抗したきゃしてもいいぜぇ?はっは、泣き叫ぶ奴を犯すのもおもしれぇしなぁ!・・・あ、そーだそーだ、ビデオ用意してあんだろーな?」
「おう!スタンバイ、OKだぜ!」
一人の男が手をあげて、小型ビデオを見せた。
「・・・ビデオ・・・?」
「こーゆー実録物ってぇのは高く売れるのさー!はははは、遊べて金になりゃ、いい商売だぜぇー!」
子猫は血の気が引いていった。
「・・・こんなこと・・・昭彦が許すはずない・・・」
呟くように言った言葉を聞いた奈々が、
「ほぉ〜ら、またあいつのこと言ってるぅ〜!」
と忌々しそうに言った。
「だからぁ〜パパの方が偉いんだから〜あいつに文句は言わせないのぉ〜!バ〜カ!」
「・・・会長さんだって・・・こんなこと・・・認めるはずないもの・・・」
「パパは奈々に夢中なのぉ〜!もぉぉ〜!あったまにきたぁぁ〜!早くやっちゃってよぉぉ〜!」
「そうだな、話すんのも疲れてきたぜ!・・ジ・エンド・・だぜ!」

 奈々の兄の言葉で男達が子猫に手を伸ばしてきた。
「触らないで!!」
子猫は叫んだ。男達は、そんな頼みを聞く耳はない、とばかりに鼻で笑っている。子猫は数歩下がって左右の男達を一度に見れるようにした。
「おいおい、逃げたら猫の命はねぇーんだぜ?」
子猫が後ろに下がったことを逃げの態勢に入ったと思ったらしい。兄は木箱の上からひらりと飛び降りた。子猫は更に後ずさりした。
「おい。」
兄があごをしゃくるようにして、男達に後ろに回るように指示をした。三人の男が子猫の後ろに回り、一人が横でビデオを撮り始めた。
 子猫は迷っていた。いっそ彼等の要求するままに受け入れてしまおうか、と。それが償いだというなら、それでもいい。簡単なことだ。バージンでもなく、一人の男だけに操を立てて生きてきた訳じゃない。前の男と別れた去年の夏は、ゆきずりの相手にさえ抱かれた。心の空白を体で埋めたかった。次々と手当たり次第に男をあさり、甘え、抱かれ、捨てた。今更惜しむ純潔などどこにもない。それで済むなら、それで全てが丸く収まるなら好きにすればいい。だけど・・・。
「どーしてわかんないんだろう・・・」
子猫はため息まじりに言った。子猫の声のトーンが変わったことに、奈々の兄は怪訝な顔をした。脅えるでもなく、泣くのでもなく、哀れむような眼差しに見つめられて、一瞬戸惑ったようでもあった。が、
「っざけんじゃねぇー!」
と叫ぶと同時に子猫の顔をしたたかに叩いた。子猫がよろけるのを後ろに回った男が抱き留める。脇から胸をわしづかみにして、
「ヒュゥ〜!こいつ、でっけぇ〜!」
と胸をつかむ指に力を入れた。子猫は赤面して体温が上昇していく。もがいても男の強い力から逃れるだけの強さはなかった。
「・・離さんかい!ドアホ!」
子猫の口から大阪弁が飛び出した。意識して言った訳じゃない。無意識に昭彦に救いを求める気持ちが言わせたのだろう。それでも、胸をつかんだ手を、思わずゆるめさせる効果はあったようだ。子猫は素早くその手からすり抜けると、振り向きざまに男の頬をひっぱたいた。
「ってめぇー・・」
「猫が・・やくざの女と承知で手ぇ出すなら、出したらいいじゃん!」
子猫につかみかかろうとしていた男が、ギクッとして動きを止めた。
「バ〜カ!奈々がいいって言ってんだから〜いいんだよぉ〜!」
「奈々さん!」
子猫はもう一度正面を向いて、木箱の上の奈々に言った。
「どうしてそうした発想になるの?この人達にちゃんと説明してあるの?それに、奈々さんもお兄さんも、こんなことしてどうなるか、わかってやってるの?」
「ケッ!妹のゆーよーに、マジに偉そうーじゃねぇか!」
「でしょでしょぉ〜?ほぉ〜んと腹立つぅ〜!・・・あのねぇ〜パパは今の奥さんとは別れて〜奈々と結婚するって言ってるんだからぁ〜!」
「そーゆーことだ!はっは、つまり組織の頂点ってやつに立つんだぜ!下の者は親には逆らえねぇーだろが!」
奈々がベーっと舌を出す。その兄は得意げに笑ってる。
「・・・だから?」
子猫は兄を睨み付けた。兄は舌打ちをして、
「ったくよぉー、わかんねぇーのか?」
と言って説明をしようと口を開きかけた。が、その前に、
「わかってないのはそっちじゃん!」
と、子猫が叫んだ。それから、ひと呼吸おいて、
「・・・会長さんは確かに奈々さんに夢中なのかもしれないけど。・・・子を思わない親に、頂点に立つ資格はない。・・それくらいのこと、わかってる方だと猫は思ってる。」
と言った。奈々の兄は腕組みをして、片眉を上げた。
「お兄ちゃ〜ん!そいつぅ訳わかんないよぉ〜!」
「奈々さん・・・親は子を思ってこその親でしょう?一方的に無理ばかり言う親じゃ、子だってついていけないよ。・・・でも、会長さんは子を思ってる親だからこそ、犬を諦めることで昭彦の怒りを収められるならって、奈々さんにも我慢するようにって、言ったんじゃないの?」
「なんで奈々が我慢しなきゃいけないのぉ〜?なんでレディを諦めなきゃいけないのぉ〜?そんなのわかんなぁ〜い!」
「ふん!テメェーの男の方が偉いってぇー勘違いしてんだぜぇ、きっと!」
「どっちが偉いとか、そんなこと考えてないもん。でも・・・昭彦は親は絶対だって言ってた。だから、そうゆう意味でなら会長さんが偉いんでしょうね。・・だけど、問題はそんなことじゃないんだもん。」
「何が問題だってぇんだよっ!」
兄が苛立って不機嫌に声を荒げた。
「昭彦は・・」
子猫は一度、大きく息を吸ってからゆっくりと言った。
「昭彦は・・・阿修羅。・・・天部にあらざるものと言われ、悪鬼と恐れられながら・・・護法善神となった、阿修羅。・・・悪鬼として生まれ、悪の道を極め、悪の世界に生きても・・・正義を知り、人を愛し、誠を尽くす。・・・それをみんな知ってるから、恐れもし、崇拝もし、愛してるんだと思うの。・・・そして、愛するほどに、また恐れて・・・」
子猫の澄んだ透明な声が倉庫中に浸透していく。それはまるで神託を告げる巫女のようだったのかもしれない。子猫を取り囲む男達の表情が青ざめたものに変わっていった。奈々の兄も頬をひきつらせていた。
「・・・多分、会長さんも・・・」
その場の空気が変わっていった。ただ、一人を除いて。
「なによぉ、その五歩前進ってぇ〜?パパが愛してるのは奈々なのぉ〜!」
「奈々さん・・・」
子猫はため息をついて、祈る思いで奈々を見つめた。
「護法善神・・人の善悪を知り、人の道を守る存在ってことだよ。」
「は・・ははは・・・外道のくせしてよぉ・・・よく言うぜ!」
ひきつった顔で無理に笑おうとするが、とても笑っているようには見えない。それを自分でもわかるようで、逆に怒りを増大させていく兄の目に、狂気の色が見え始めた。
「昭彦だって、それくらい承知してるもん。でも・・」
「ご託はそれまでだぜ!おい!やっちまいな!」
兄が叫んでも男達は動かなかった。
「さっさとやれってんだよ!ぐずぐずしてっと金払わねぇぜ!」
男達が顔を見合わせている。その中の一人が、
「けどよぉ・・・だいぶ話が違ぇじゃねぇか。」
と言うと、別の男も、
「ああ、まったくだ。俺達のバックには東竜会の組長がついてるってよぉ。だから何しても平気だって言ってたんじゃねぇのかよ!」
と愚痴っぽく言った。
「こんな女の戯れ言がなんだってんだ!聞くこたぁねぇ!俺が責任持ってやっから、計画通りにやれってんだよ!」
「どんな責任?」
子猫は体を横向きにずらして、兄と男達を交互に睨んだ。
「マサさんが言ってた。猫に手を出したら、足三本なくなるって。両足と真ん中についてるものが切られる覚悟がいるって。・・・冗談だと思った。でも、昭彦ならやりかねないって、みんなは思ってるみたい。・・・だから、組の人達はみんな猫を怖がって近付かないんだよ。・・・本当かどうか、猫にはわかんないけど・・・だけど、もし・・・本当だった時に、どんな責任がとれるって言うの?」
男達の顔が蒼白になっていった。女が考えるよりもずっと、真ん中のモノを切られるという想像は、恐ろしいものがあるようだ。
「猫がひとりで来たのは・・・これ以上のことをして昭彦を怒らせて欲しくなかったから。昭彦の中の阿修羅を目覚めさせて欲しくなかったから。」
「・・チッ・・・偉そうに・・・」
「わからないの?・・ねぇ・・・どうしてわからないの?猫は猫の為に誰にも犠牲になって欲しくないから言ってるんじゃん。だから、お願いしてるんじゃん。・・偉ぶってるんじゃないもん。」
「・・っせぇんだよ。俺はオメェの気持ちなんか知らねぇ。俺は俺の綿密な計画を遂行するだけだぜ。」
歯ぎしりするように言う兄の言葉は微かに震えているようだった。
「お兄さん・・奈々さんが可愛いんでしょう?大切なんでしょう?それなら、もうやめようよぉ・・・ねぇ?」
「バ〜カ、バ〜カ!猫なんか大っ嫌い〜!」
「奈々さん!奈々さんだってお兄さんが好きでしょう?大事でしょう?猫を嫌いなのは構わない。でも、お兄さんを思うなら、けしかけないで。お願い。」
子猫は言いながら涙が溢れてきた。もうこれ以上、何をどう言えばいいか、わからなくなっていた。自分が相手を苛立たせ、傷つけているのだろう。自分が自分のありのままに存在するだけで人を傷つけていく。これほどの罪があるだろうか。そんな生き方しか出来ない自分が嫌になる。だから、愛されることで、生きる免罪符が欲しかった。・・だけど、もう・・・。
「・・・猫が憎いならいっそ殺して。」
子猫は涙をぽとぽと埃のたまったコンクリートに落としながら言った。
「そうすれば・・・もう何も見ないですむもん。・・・昭彦の悲しむ顔もママの蔑む顔も。・・・昭彦を困らせないですむし・・・昭彦に切り刻まれるあなた達も見なくてすむ・・・」
ガチャン!と音がした。ビデオを持っていた男が床に放り投げたのだ。
「じょ・・冗談じゃねぇーぜ。・・・こんなのやってられっか。」
「お・・俺も降ろさして貰うぜ。」
「俺ももうごめんだぜ!金なんかいらねぇ!」
「お・・俺達は関係ねぇからな!何も知らなかったんだ!・・いや、騙されてたんだ!」
男達は後ずさりしながら、そう言うと、後は入り口に向かって走り出した。
「テメェー等!裏切んのかよ!」
「っせぇー!テメェも妹もイカレてんぜ!」
男達はドアを開け放したまま、逃げ去って行った。

 薄暗かった倉庫の中がいくらか明るくなった。荷物や壁の形がはっきりする。子猫はそれで段ボール箱に気が付いた。駆け寄って閉じられていた蓋を開ける。
「パトラ・・・」
力無く横たわっていたパトラが目を微かに開けて、”ミュ〜ン”と答えるように鳴いた。子猫が抱き上げようとした時、
「まだ用事は終わっちゃねぇー!」
と、後ろに引き倒された。仰向けに倒れた子猫の上に、奈々の兄が馬乗りになった。手にはナイフを持っていた。
「死にてぇなら、お望み通り殺してやんぜ!へっ!けど、心配してくんなくてもよぉ、テメェがいなくなりゃ証拠隠滅ってもんよ!俺の優秀な頭は足跡を残すようなヘマはしてねぇんだよ!誰にも見つかりゃしねぇぜ!」
ぎらつく目でそう言った兄は子猫の喉元にナイフをつきつけた。
「わ〜い、お兄ちゃん、カッコイイ〜!」
子猫に押され気味になって黙っていた奈々が元気を盛り返したように笑った。子猫は、もういい、と目を閉じた。
ブスッ、ブスッ、・・・セーラー服の胸元が引っ張られる感覚に子猫が目を開けると、兄がナイフで布を持ち上げるように、中央を切っていた。夏用の白いセーラー服を切り終えると、今度はスカートのベルトをつかんで切り出した。少し手こずりながらもウェストの芯を切り離すと、スカート生地も下まで切っていった。
「せっかくだからよぉ。オメェの体を味わわして貰うぜぇ。」
兄は真ん中の切れたスカートを左右に開いて、また馬乗りになると、セーラー服もゆっくり開いた。小さな薔薇の刺繍がフリフリレースを縁取っているブラジャーを見て、兄が生唾を飲み込んだ。
「ヘッ・・・生意気なくせに可愛いじゃねぇーか。」
そう言って、ブラジャーも谷間の中央をつまみ上げて、ナイフで切り離した。プルンと大きく柔らかそうな胸が露わになる。弾力のある胸はその豊かさをそのままに、二つの山をかたどって、ピンク色の乳首を押し上げている。
「こりゃーいい眺めだぜ・・・」
兄の喉が何度も音をたてる。
「もぉ〜お兄ちゃんのエッチィ〜!そんなの早くやっちゃって〜早く殺しちゃお〜よぉ〜!」
奈々が苛立った声で言った。
「ちょっと待ってろって・・・」
声に熱い息がまじる。兄はナイフを持たない方の手で子猫の胸を脇の柔らかな曲線から乳首へとなぞった。感じやすい部分に触れられて、子猫の乳首が次第に固く立っていってしまう。
「オメェ・・こんな時でも感じてんのか?」
子猫は唇を噛んで横を向いた。兄はまた喉を鳴らすと、乳首をつまんだ。ビクンッと反応して胸が揺れる。
「可愛いやつだな・・・」
そう言って乳首をつまんだ指を舌で舐めた。それから体を下へずらし、馬乗りだった足を、子猫の足を両側に開げさせて、その内側に置いた。胸を露わにされ、大股を開かされた子猫はこんな状況でさえ感じ始めてる自分が悲しかった。行為が済めば殺されるのに、蜜まみれになった死体はさぞかし不様だろう、と思ってしまう。そう思いながらも、花弁がぴくん、ぴくんと誘うように痙攣する。
「もう濡れてんのかよ・・・ヒクついて・・・そんなに欲しいのか?」
兄の声が甘くかすれていた。
「もぉ〜やらしぃ〜お兄ちゃんなんか嫌い〜!」
「っせぇ!待ってろって言ってんだろ!」
「ふ〜んだ!もぉ〜知らな〜い!」
奈々は兄と子猫に背中を向けると、ポケットからゲーム機を出して遊び始めた。自分を可愛がっているとわかっていても、その兄が他の女を抱くのは面白くないのだろう。音量を最大にしたらしく電子音の曲が倉庫に響く。
「・・ったく、ガキだぜ。」
兄はにやにや笑って、再び子猫の股間を見て、舌なめずりをした。
「さて・・・どう切ればいいかな・・・」
と独り言をいいながら、陰毛の脇からショーツをつまみあげると、ナイフで切り離していった。横と縦に切って、ついに子猫の陰部を露わにした。
「これが・・・噂のまんこか・・・」
兄はナイフを脇に置いて、子猫の両股を押し広げながら股間に頭を近付け、覗き込むようにした。指先で花唇を押し広げ花弁を咲かせる。
「ッスッゲェー・・・」
そう言って、兄はしばらく子猫の蜜壺の奥まで見ようと指先を駆使していたが、
「蜜が溢れてきて・・・たまんねぇぜ・・・」
と、吸い付いてきた。子猫は両手で顔を覆った。お願い、感じないで。喘ぎ声を出さないで。と自分に言い聞かせながら。

 じゅるじゅると音をさせて啜っている。子猫は目を固く閉じた顔を覆いながら、声を出すまいと必死にこらえていたが、背中が浮き、足のつま先が反り返っていくのを止められなかった。快感の渦が駆け上がってくる。もう、ダメ、っと思った時、
「・・・あきぃ・・・」
と昭彦の名前を呼んでいた。ごめんね、昭彦。猫がバカだったよね。涙が後から後から溢れ出す。顔を覆う手の端から涙が零れて伝う。
ドカッ!バシッ!ベシッ!ボコッ!
っと音がして、下半身の圧迫が消えた。バサッと何かが体を覆い、抱きかかえられた。麝香の香りが子猫を包み込む。子猫が顔を覆っていた手を離して目を開けた。目の前には昭彦の苦渋の顔。
「昭彦ぉぉぉ・・・」
子猫は昭彦の首に腕を巻き付けてキスをねだった。上唇、下唇、顎のラインに、頬も鼻も目も、全てに吸い付くようにキスをする。子猫を抱き上げている昭彦はしばらく好きにさせていたが、子猫が再び唇に唇を重ねてきた時、顔をグッと押しつけて強く口を吸った。吸いながら舌を激しく絡めてくる。子猫もそれに応えて舌を激しく絡めた。
ボキッ!グシャッ!バコッ!ベチッ!
容赦なく殴りつける音はまだ続いている。
「いやぁ〜〜!やめてよぉ〜〜!」
と奈々が叫んだ。子猫はキスをしながら目線を奈々に向けた。奈々は木箱の上で真っ青になって震えていた。男が横の段になっている所から上にあがり、奈々の腕をつかんだ。
「やぁ〜〜〜!何すんのよぉ〜〜〜!パパにいいつけるからねぇ〜〜〜!!」
そういいながら、奈々はつかんだ男の頭をゲーム機で叩いた。
「やかましいで、おとなしくさせぇ!」
マサの声がする。もう一人男が上がって、奈々の口を押さえた。二人の男達に押さえつけられた奈々が下に降ろされてきた。
「ドクター、そろそろ場所変えへんと・・」
「ん・・そやな。」
昭彦は子猫から唇を離して頷くと、
「続きは夜まで待っとき。ええな?」
子猫の耳をそっと囓りながら囁いた。子猫は、
「うん。」
と答え、目を閉じて昭彦の肩に頭をもたれた。もう、何も見ない。後のことはどうでもいい。昭彦に全てを任せよう。子猫は大きく息をついて昭彦の首筋に鼻を擦りつけた。
<60>
[けじめ]
<60>けじめ

 昭彦は橋本の運転する車で子猫をマンションに連れて帰った。
 倉庫から救い出された子猫は帰る車の中、昭彦の腕に包まれて小さく丸くなったまま、ずっと目を閉じて昭彦の心臓の鼓動を聞いていた。昭彦もほとんど何も話さず、腕の中の子猫にそっと頬ずりをしていた。セーラー服を切り裂かれた子猫を昭彦の麝香の香る背広が覆っていた。上着は袖を通していたので切られた胸元を合わせればよかったが、スカートは車に乗り込む時、石橋がむき出しの足を隠すように掛けてくれた。それから石橋も橋本も貝のように押し黙っていた。
 シッポを切られた仔猫のパトラは、かなり衰弱しているからと、連れて帰りたがる子猫に言い聞かせ、あの場からすぐにペット病院に連れていかれた。奈々とその兄はマサ達が他の場所へ移動させたらしい。その為か、マンションに着くと、すぐにまた出掛けなければならないからと、橋本はそのまま車で待機し、部屋には石橋が同行した。

 時間がないと言いながらも、昭彦は子猫を浴室へ連れていき、たっぷり泡立てた柔らかいスポンジで体を隅々まで洗ってくれた。奈々の兄が夢中でしゃぶりついた秘部に昭彦の手が触れた時、それまで落ち着きを取り戻していた子猫が、再び泣きじゃくり始めた。
「もう、忘れや。」
と言った昭彦は、子猫の肩を抱き、その部分を洗う間中、熱いキスをしていてくれた。昭彦の優しい指の感触とふわふわで滑らかな泡の感触よりも、もっと甘く優しい昭彦の想いが、子猫の痛む心を洗い流してくれるようだった。
 ローズソープの香り立つ真っ新な子猫を、大判のタオルで包んで抱き上げた昭彦が、居間に入ってくると、
「あ、ちょっと待ってください。今、ドクターに伺ってみます。」
と、石橋が携帯の相手に言った。
「なんや?」
少し不機嫌そうに昭彦が言うと、
「例の女が会長を呼べと喚いてるそうです。」
と石橋が事務的に答えた。
「呼んだらええ。一応、話ぃ通すんが筋やろ。」
そう言って昭彦は子猫を抱き上げたまま寝室のドアを開けた。そのままドアを閉めずに、子猫をベッドに寝かせると、
「会長が来るまでは傷つけんように気ぃつけぇちゅうとき。」
と、居間の石橋に言った。
「わかりました。」
と返事の後で、石橋が携帯の相手に伝えてる声がした。
「髪ぃ乾かしてやれへんかったなぁ。」
と、昭彦が子猫の髪に乾いたタオルを押し当てながら言ってキスをする。子猫は包まれていた大判のタオルから腕を出して、昭彦の手を握って頬ずりをした。
「少し眠った方がええ。発作起こしとったっちゅうに無理したらあかんやないか?・・ん?」
「え・・・?」
子猫は、どうして知ってるんだろう、と問うような目をした。
「ウチの奴に来させましょうか?」
石橋が寝室の入り口に顔を出した。
「そやなぁ・・・」
昭彦は子猫に薄い羽毛布団を掛けてやりながら思案するように言った。
「大丈夫だよぉ。」
子猫が少し唇を尖らせると、
「わしはすぐ出掛けなならんで、ついててやれへんねんで?」
と心配そうに頬を撫でる。
「ひとりでいられるもん。」
「・・・遅うなるかもしれへん。」
「ちゃんと待ってるからぁ・・・」
寂しかったが仕方がない。昭彦が、遅くなる、と言う言葉の奥に潜む意味が、なんとなくわかってしまうから。子猫はゾワッと悪寒を覚えて、布団の端を握りしめると、顔を隠すように引き上げた。
「ほな、ええ子にしちょるんやで。」
昭彦は子猫の頭を撫でて立ち上がると、
「ああ、そうや。圭子っちゅう子に後で電話しときや。」
と言って、クローゼットから新しいスーツを出して着替え始めた。
「圭子?」
子猫は布団から顔を出して聞き返した。
「あの子がお前の行き先を教えてくれたんや。・・心配しちょるやろ。」
「どうして圭子が?」
「箱をお前に渡す前に調べたらしいわ。」
昭彦は、ワイシャツのボタンを留めながら、そう言い、
「けど・・・何でそのまま渡すんや。・・・ボケが・・・」
と呟くと眉間にシワを寄せた。が、子猫が戸惑った表情をしたので、クルッと背中を向けてネクタイを締め始めた。背中を向けても、沸き上がる怒りに肩が盛り上がっていくのがわかってしまう。歯ぎしりが低く聞こえた。
「そっか。圭子が・・・。今日は二回も助けられちゃったなぁ。」
子猫はなるべく明るく言った。昭彦が時々、子猫以外の存在に厳しすぎてしまうので、子猫の方が焦ってしまうことがよくあったのだ。
「・・・そうだ。・・・あのシッポ・・・どうしよう・・・」
箱のことを話していて、子猫は荷物を駅のロッカーに預けていたことを思い出した。箱の中にあった手紙だけを取りだして倉庫に向かったので、シッポの入った箱はそのままバッグの中にあるはずだ。そのことを昭彦に話すと、
「鍵はどこにあんねや?」
と、身支度を整えた昭彦が聞いた。
「スカートのポケット・・・」
そう子猫が言って、起きあがろうとしたので、
「石橋。確認せい。」
と、子猫を寝かしつけながら言った。石橋はすぐに、浴室の前に脱いだものと一緒に置かれてあったスカートから、鍵を出して戻って来ると、
「ありました。」
と言って、鍵を見せた。昭彦はチラッと見て頷き、
「荷物は取りに行かせるで心配あらへん。・・箱はわしが預かちゃるさかい、もう忘れるこっちゃ。」
と、キスをして言った。
「・・・でも・・・パトラの・・・」
「そうかて、もう繋がらへんのや。しゃーないがな。」
「・・・だって・・・」
「したら、剥製にして、キーホルダーにでもさしたろか?」
「え?・・・どうしよぉ・・・?」
子猫は考えもしなかった提案に、真剣に悩み始めた。剥製なんて可哀想。と思う一方で、でも、きっと可愛いだろうな。とも思ってしまう。悪趣味なのかな?と思いながらも、大切な記念になるんじゃないか?とも思うし。答えが決められずに迷ってる子猫に、
「まあ、ゆっくり考えたらええ。どっちでも、わしはかまへんのやし。」
と苦笑した昭彦は、
「答えが出るまで預かっちょくわ。他の荷物は夜、持ってきちゃるでな。」
と言って、もう一度、子猫にキスをすると立ち上がった。
「おとなしゅう寝とるんやで?」
「うん。」
子猫はふわっと微笑んで、小さく手を振って見送った。

 昭彦達が出掛けていってから、子猫はしばらく目を閉じて眠る努力をしていた。けれど、今日の出来事が繰り返し繰り返し浮かんでくる。自分のとった行動は正しかったのか、間違っていたのか。初めから昭彦に話していれば良かったのかも知れない。でも、それじゃ、あんまり無責任じゃん。子猫は横向きになって枕の端をぎゅっと握った。
 奈々の悔しい気持ちも理解出来る。ただ、それを抗議する手段が過激すぎて、昭彦を怒らせてしまっていた。だから、昭彦が怒りを爆発させる前に話し合いがしたかったのだ。
 でも、圭子がもし箱を調べていなかったら、子猫は今、こうして生きてはいなかっただろう。そもそも、あの時、発作で倒れなければ、あの箱の存在さえ誰も知ることはなかったはずだ。そう考えれば、奈々の兄があれほど、自分の作戦は完璧だ、と自慢するのも当然と言えた。
 でも、逆に圭子があの場に居合わせなかったら、学校側はきっとすぐに救急車を呼んでいただろう。そして箱は、学校に残されたなら警察の手に渡っていたかも知れないし、病院に荷物として持っていかれたら、医者が警察に届けるか、放置されたら駆けつけた昭彦が見つけたかも知れない。
 運命は微妙な偶然の積み重ねが、大きく方向を変えてしまうものなのだろうか。と、すれば、仮説を立てることは、今を生きる上では虚しい努力なのだろうか。結局は、こうなった今をそのまま受け入れていくしかないのかも知れない。そして今、子猫に出来ることは、生きてもう一度昭彦の胸に抱かれることが出来たことへの感謝だけなのかも知れない。
 けれどそれでいいのだろうか。生きるのではなく、生かされてるだけなのか。誰に?神様?運命?
 子猫は漠然とした寂しさを感じて、枕元のクマのぬいぐるみを胸に抱き寄せた。クマの耳を指でつまみながら頬ずりをする。そうする内に少しだけ気持ちが安らかになっていき、疲れきっていた心を休息の眠りへと誘ってくれるのだった。

 夜10時を回った頃、子猫は目が覚めた。遅い時間だとは思ったが、昭彦に言われたように圭子に電話をした。ずっと心配していたと言う圭子は、
−「良かったぁー!」
と泣きそうな声で言った。
−「呼び出し状を見つけた時に捨てちゃえば良かったのか、もっと早く誰かに連絡すれば良かったのか、って色々悩んじゃったよぉ。・・・だけどさぁ・・・きっと警察には話せないことだろうし、昭彦さんに連絡しようにも連絡先を知らないし・・・」
圭子の話は15分近く止まることがなかった。よほど不安な気持ちを抱えていたのだう。子猫はうんうん、と相づちをして聞いていた。
−「それで、パトラちゃんはどうなったの?」
「あ、うん。返して貰えた。」
−「そっかぁ。良かったねぇ。・・でも、大丈夫だったの?」
「うーん・・・きっと元気になるって昭彦が言ってるから大丈夫だと思うんだけどぉ・・・今、病院に預けてあるから・・・」
−「そうなんだぁ・・・でも、昭彦さんがそう言うなら大丈夫だよ。」
「うん。」
−「元気出してね。」
「うん。ありがと。」
−「あ、肝心なことを聞きそびれちゃったよぉ。猫はどうなの?体調はどう?」
「全然平気。」
−「まあねぇ・・・まさか抜け出すとは思わなかったもん。それだけのことをやっちゃえるくらい元気になったのを喜んでいいのか、嘆いたらいいのか・・・」
圭子はまた、あれこれと話し始めた。子猫が昭彦の許可がないと電話もなかなか出来ないので、圭子はここぞとばかりに話し込んでいる感じだった。
 子猫の体調が良さそうなので、話題は修学旅行へと移っていった。なるべく自由時間の時には一緒に会えるようにしよう、と相談したり、持っていくお小遣いや自由行動の時の私服の相談などへも話は及び、ようやく区切りがついて電話を終えた時には、夜中の12時を過ぎていた。

 夜中1時近くなって、昭彦が戻ってきた。飛びつこうとした子猫は後ろからマサと石橋もついてきていることに気付いて、慌てて伸ばした腕を引っ込めた。
「お帰りなさい。・・・どうしたの?」
昭彦の疲れ切った表情とマサの難しそうな表情、そして石橋の何故か晴れやかな表情に子猫は困惑した。
「ちーと問題が起きちょってな、まーたすぐに出掛けなならんねんや。」
と子猫のバッグと鞄を手渡しながら、昭彦がため息まじりに言った。
「けど、一度戻ってやらへんと、お前が余計な心配してまうで戻ったんや。・・この荷物もないと明日学校行けへんやろしな。」
「・・・そうなんだ。・・・ありがとう。」
「荷物置いてきたら何か喰わしてや。」
「あ、うん。」
子猫は鞄とバッグを寝室に置いてくると、キッチンで三人分の夜食を作り始めた。ご飯が足らなかったので、肉と野菜をたっぷり入れた焼きそばと合わせて、ソバ飯を作った。
「どうぞぉ。」
と出すと、
「おー、こりゃ懐かしい。美味そうでんなぁ。ヘッヘッヘッ。」
と笑顔で言った。
「ソバ飯ですね?ウチでも作りますよ。子供達が好きなので。」
と石橋もにこやかに言い、
「御馳走になります。」
と頭を下げた。昭彦は眉間にシワを刻んだまま、黙って食べ始めた。
「・・・気に入らなかったぁ?」
お盆を胸に抱え込んだ子猫が不安そうに聞いても黙っていた。マサがポンポンと昭彦の膝を軽く叩いたので、ん?と顔をあげた昭彦は子猫の表情に気付いて、
「ああ、済まん。考えごとしちょったんや。めっちゃ美味いで。」
と苦笑した。
「・・・ふーん。」
子猫はため息ついて背中を向けると、梨をデザートに出そうとまたキッチンへ行った。食べやすくカットして皮を剥いていると、
「ドクター、決まったことやし、悩むことあらしまへんで。」
と言うマサの声が聞こえてきた。
「そうですよ。義理も筋も通したんですし、会長の気持ちも変えられないでしょう。」
石橋も賛同して言う。
「せやけどなぁ・・・子猫が可哀想やで。」
え?猫が?と子猫は耳を澄ませた。
「まあ・・・そうでんなぁ。子猫はんにはまぁだ荷が重いでっしゃろなぁ。」
「補佐する者はいくらでもおります。子猫さんなら大丈夫ですよ。」
「まだ、高校生なんや。ちゃんと卒業さしてやりたいがな。」
「それはドクターのお考え次第だと思いますが。普段の生活にはさほど影響はないんじゃないでしょうか?」
「・・・今度のような危険が増えるっちゅうことは確かや。」
「・・・それは・・・そうですね。」
石橋は声の調子を落として頷いた。
「守ろう思うたら、守れる。・・が、表に出んようにしちょると今度のような隙をつかれることかて考えられるやろ?」
「・・・確かに。」
「けんど、今ぁドクターに対抗しようっちゅうヘタレはおらんでっしゃろな。ドクターには関西だけやのうて中国にもバックがあるんでっさかい。ヘッヘッヘッ。」
一体何の話だろう?と子猫は皮を剥きながら気になって仕方がなかった。
「あぅっ・・」
子猫が小さく叫んだ。左の親指から血が滲む。
「何やっちょんねん!」
昭彦が急いで救急箱を持ってきた。
「大丈夫だもん。」
子猫は親指を口にくわえながら頬をふくらませた。
「ったくアホやなぁ。包丁持っとる時は気ぃつけなあかんて、いつも言うちょるやろ?」
「うー・・・」
「ほれ、見してみ。」
昭彦は子猫の切り傷を消毒して、バンドエイドを巻いた。
「後はわしがやるで、そっちで座っちょれ。・・・子猫にも話さなならんやろ。」
子猫はドキッとして立ちすくんだ。
「なぁんて顔しちょんねや?」
「・・・だってぇ・・・」
「心配あらへん。そない怖い話とちゃうで。」
と言った昭彦は子猫のお尻を撫でた。
「あん・・・」
子猫は仕方なくマサと石橋のいるソファーに座った。

 梨を器に盛って昭彦がソファーに戻ってきた。
「よりにもよって梨をデザートにしよる子やで。・・ホンマに・・・」
「ヘッヘッヘッ。ソバ飯の後にはさっぱりしてええですがな。」
マサは笑ってひとつつまんだ。
「私も梨は好きですよ。」
石橋も手を伸ばした。子猫はにっこり笑って、自分もひとつ取った。昭彦はため息をついて仕方なさそうに梨をつまんだ。みんなが梨を囓ると、一斉にしゃりしゃりと音がした。頬が膨らみ、しゃりしゃり、しゃりしゃり。
「・・プゥーッ!・・ック・・・はは・・・なるほど。」
石橋が吹き出して言った。マサも声を出さないで爆笑している。昭彦はそやろ?と言う顔で髪を掻き上げた。
「しゃーないで、さっさと喰うてから話さな、真面目な話になれへんで。」
と言うので、みんなはあるだけの梨を急いで平らげた。しゃりしゃり、しゃりしゃりと音を響かせて。
 やっと落ち着いて、お茶を啜りながら昭彦が切り出した。
「わしが東竜会を引き継ぐことになったんや。」
「・・・・・え?」
「会長になられるということです。」
石橋が明るい声で言った。子猫は目を丸くして昭彦の横顔を見つめた。昭彦は湯飲みをテーブルに置くと、子猫を膝に抱き上げ、
「っちゅうことは、子猫が姐や。」
と言って、頬にキスをした。
「・・・え?・・え?・・・なんで?」
そこで石橋が説明を始めた。
 今度の一件を会長は土下座して謝罪したという。奈々のしでかしたことは頭を下げて許されるような簡単なことではないということも承知している、と。
 老いらくの恋と笑ってくれてもいい。が、それでも奈々が可愛い。我が侭なとこも、少し足らないところも、娘のようでたまらない。それで甘やかしたのも問題だったのだろう。いずれは結婚して親子のように暮らしたいとは思っていたが、自分が会長である内はその性格を思うと出来ないことも承知していた。こんな不様なマネをしても女の命乞いをするなんて、自分も落ちたものだと思う。もう、これ以上、会長として組員を束ねていく気力が失せた。すっぱり引退して、奈々と楽しく暮らしたい。どうか、後を引き継いで欲しい。
 そう言った会長は、持参の小刀で小指を切り落としたのだそうだ。
「・・・ぇ・・・」
子猫は息を飲んだ。昭彦は子猫をやんわり抱き締めて言った。
「わしは会長が何言うたかてあの女だけは許さへんて思うちょった。杯返すことになっても、破門になろうとも、わしの子猫にしたことのケジメはつけさす、っちゅうてな。・・・けぇど、そこまでして助けたってくれ、言われたら・・・聞かん訳にはいかへんねん。親にエンコ飛ばさすなんてことはあっちゃならんこっちゃ。世間の常識は関係あらへん。裏には裏の掟があるんや。女一人の命より、親の小指の方が大事やねん。・・・そこまでされたら聞くしかあらへん。」
子猫はうんうん、と頷いた。奈々が助かったとわかってほっとする思いだった。
「ですが、それからが問題でした。」
「え?」
「彼女はこともあろうに、会長が退くと聞いて怒り出したかと思うと、会長の彼女でなかったら付き合う意味がない、と言って、・・・ドクターに自分を愛人にしてくれと言い出したんです。」
「ホンマにアホなオナゴじゃわいのぉ。」
マサは伸びた髭を気にするようにあごを撫でながら言った。額からこめかみに走る傷が今夜は異様に赤く見える。子猫はドキドキしながら昭彦の胸にしがみついた。
「あの女は自分で自分への引き金を引いたんや。」
昭彦が冷たく言い放った。
「ええ。男が土下座をし、指まで詰める気持ちを理解してなかったですね。会長は見る見る表情を強ばらせ、懐から拳銃を取り出すと彼女の頭を打ち抜いたんです。」
子猫は昭彦の肩に顔を押しつけた。聞きたくない、聞きたくない。言わないで。
「もう、やめぇ。それ以上は言わんでええ。」
昭彦は子猫の背中をトントントンと軽く叩いて宥めながら言った。
「はい。済みません。」
「しゃぁーけど子猫はん、ケジメでっさかい今度ばかりは堪忍だっせ。これを隠しては話が進まれへんよってな。」
マサも済まなそうに言った。昭彦は頷いて、
「せやで。」
と子猫の震える首筋にキスをした。それから、
「もう、そないなったら会長が退くことあらへんて言うたんやが、わしの時代は終いや。ちゅうてな・・・どうあってもわしが引き継がなならんくなったんや。」
と言って子猫の顔を上げさせた。
「どや?・・・ついて来れるか?」
子猫は震える息で昭彦を見つめた。昭彦の黒目がちの瞳が覗き込むように見ている。
「・・・うん。」
子猫はそう答えて、小さく頷いた。
「ほーかぁ。ええ子やでぇ。」
昭彦が厳しい顔をほころばせて笑った。
「いややゆうても、承知さしたるて思うちょったけどな。クックックッ。」
そう言って子猫を抱く腕に力を入れると、熱い舌を絡めてキスをした。子猫も昭彦の舌を夢中で吸った。
「・・・ほな・・・ぼちぼち・・・」
あまりにも長いキスに、マサが咳払いをしながら言いにくそうに言った。昭彦はやっと唇を離して、
「無粋なやっちゃで。・・なぁ?」
と笑いながら、子猫のうっとりして上気した頬を撫でた。

 昭彦達が出掛け間際、
「ねぇ・・・そしたら会長さんは捕まっちゃうの?」
と子猫が聞いた。昭彦もマサも石橋も目線を交わしてから、クスッと笑いをこぼした。
「そーゆー心配は子猫がせんでええねや。・・・けど、まぁ・・そうはならん、とだけ思うちょったらええ。」
そう答えた昭彦は、見上げる子猫の額にキスをした。
「ほな、まだ朝には時間があるで、少し寝ときや。いつものように川野が迎えにくることになっちょるで、何も心配せんで学校行くんやで?ええな?」
「うん。」
昭彦はそれ以上を話すつもりはないらしい。奈々の兄についての話題は一切出ることがなかった。子猫ももう、それ以上を聞かないでいいと思っていた。男の世界なのだ。しかも厳しい掟でバランスをとる闇の世界。子猫に出来ることは、暗闇の中、昭彦を見失わないようについていくだけ。ひたすらに信じ、麝香の香りに包まれて。



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