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子猫白書U




<終章>



<終章>
[旅立ち]
<終章>旅立ち

 渓流のせせらぎのほとりに、子猫はずっと屈み込んで流れを眺めていた。透明の澄んだ清らかな水が丸い石の上を滑るように流れ続けている。中央では段差があるのか白い飛沫を上げている箇所もあり、細かい霧となった飛沫が朝の眩しい光に虹色に輝いている。

 絶えることなく流れ続ける透明な水は、まるでこの世に映し出された人の魂にも思える。丸い石が魂の触れる小さな世界とするなら、そこを通過していく魂は後から後から同じように揺らめきながら流れ去っていく。丸い石は何事もないように、関わる記憶も持たないまま存在し続ける。誰が生きようと死んでいこうと変わらない世の中のように。でも、まったく関わりがない訳じゃない。尖っていただろう元の姿が柔らかく丸く削られてそこにあるのだから。
 あの激しく飛沫をあげるのは激しく生きる男達なのだろうか。段差があれば飛沫も一層激しく上がる。この世に不平等がある限り、差別がある限り、激しく抵抗して戦う男達の姿のようだ。激しくぶつかり合って、透明な魂は白い血をまき散らす。血飛沫は遙か彼方からの慈しみの光の中で美しく虹色に煌めいて消えていく。

 子猫は虹の煌めきを追って視線を上げていく。高く澄んだ青い青い空へと虹の行方を追っていく。・・・と、強烈な太陽の光に目を射られる。
「あかん・・・」
昭彦が子猫の視界を掌で遮った。
「あかんで。太陽を直に見るもんやない。」
子猫は不思議そうに声の方に顔を向けた。昭彦が優しい眼差しに不安そうな影を落として見つめている。
「強すぎる光を見たら、あかんで?」
「・・・うん。」
子猫はふわっと微笑んで、また流れに視線を戻した。

 かれこれ一時間以上もそうしているだろうか。散歩に出たまま戻らない昭彦と子猫を、皆心配していたが、せせらぎのほとりにしゃがみ込んだ子猫と、子猫をじっと見守っている昭彦の姿を見つけて、声もかけられずに様子を伺っていた。
 時々、昭彦に声をかけられて子猫が無邪気に微笑みを返す。平和な光景ではあったが、昨夜のことを思うと、子猫の何の翳りも濁りもない笑顔が皆の心に痛かった。

 見守る人々の長い沈黙の中、渓流の音だけがシンとした深い森林に響いていた。と、スーッと動く影があった。篠原涼子がゆっくりと二人の側に近付いていった。
「・・・子猫さんの具合はどうですか?」
涼子の言葉に眉をひそめた昭彦が顔を向けた。
「・・・済みません。・・・子猫さんと、少しお話させて頂けませんか?」
昭彦は考えたまま答えを出せないようだった。涼子は昭彦のいる反対側に子猫と並ぶように屈み込んだ。
「・・・子猫さん?・・・わかる?・・・ううん・・・わからなくてもいいの。・・・辛いことがいっぱいあると、心だって耳を塞ぎたくなっちゃうよね。・・・でも、聞いて欲しい。子猫さんにだけ・・・聞いて欲しいの。」
子猫は涼子の顔をじっと見ていたが、そっと手を伸ばすと頬を撫でた。涼子は静かに微笑んで見せた。笑みを浮かべる口元が微かに震え、目に涙が滲んでくるのを、堪えながら、
「ううん。大丈夫。泣いてないから・・・心配ないから・・・ね?」
と言った。それでも子猫は無心に涼子の頬を撫でていた。涼子は子猫の手を握って自分の膝に置くと、大事そうに両手で包んだ。
 涼子が何を話したいのか、昭彦にはわからなかったが、自分がいることで話辛そうなのに気付き、黒岩を手招きすると、
「子猫が水に引き込まれないように見ていてくれ。」
と言って、見守っていた人達の方に歩いてきた。
「どんな具合なんや?」
竜崎が小声で聞く。
「・・・わからん。・・・朝、気が付いたら、寒いのに窓開け放して川を眺めちょった。声をかけると、あそこへ行きたい、っちゅうて無邪気に笑うんや。・・・機嫌直してくれたんかと思うたが・・・帯もろくに結べんまま部屋を出ようとしよる。・・・寒い言うても聞けんようやで・・・」
昭彦の声が苦しそうに震えてくる。
「わかった。・・・もうええ。」
竜崎は昭彦の肩を、しっかりしろ、というように一度強くつかんでから離した。石橋夫人が両手で口元を押さえ嗚咽を漏らさないように泣き出してしまった。石橋が夫人の震える肩を抱き寄せた。

 子猫は自分の手が涼子に握られているのを不思議そうに見ていた。
「私ね、子猫さんが大好き。だって、こんな私を友達みたいに受け入れてくれたんですもの。」
涼子は子猫の手を離すと、微笑みながら子猫の髪を撫でた。子猫は嬉しそうににこっと笑い返した。
「・・・私ね、すごく嫌な子だったの。・・・教育に携わる者が言うようなことじゃないけど・・・人との付き合いを知らないっていうか、集団に混じれない子だった。両親は真面目で普通に厳しくて、成績第一主義?・・よくある一般的家庭かも。ふふ。・・・だけど、私は自分の意志を出せない子だから、言われるままで逆らうことも知らず、親に隠れて自由を満喫してる人達から見たら、嫌な優等生だったんだろうなぁって思う。」
涼子がうつむくのを子猫が覗き込む。
「親の言うまま、教師の勧めるまま、枠組みの中でしか生きられず、思いきり声を出して、笑ったことも泣いたこともなかった。・・・しっかりしてるのか、してないのか、そんなこともわからない。道は逸れないけど、空気みたいに存在をつかめない自分に、時々、フッと・・・消えても変わらないな、って思ったりしてた。」
子猫がまた涼子の頬を撫で始めた。涼子は子猫が自分の話を理解しているのか、様子を伺った。だが、子猫の目には何も映ってないようだった。ただ、涼子の心の悲しみだけを感じ取っているように頬を優しく撫でている。子供が痛いところを無意識にさするように・・・。それでも、涼子は子猫が理解しなくても話したかった。
「恋をしても、自分を上手く出せない私に、相手はすぐに飽きて去っていった。誰も私を見てはくれない。・・・そう思っていた時に川本さんに出会ったの。・・・辛いこともあるけど、私を見て、叱ってくれて、命令してくれて、誉めてくれる。この人だけは自分の存在を認めてくれてるんだって思うと、嬉しかった。生きている実感が湧いたの。・・・もちろん、他の人にもそうしてる事実は辛い。たった一人の存在になりたい。その為なら、どんなに過酷な命令でも受け入れる。誰も出来ないことだってしてみせる。そして誉めて貰えたら・・・幸せ。・・・でも、きっとみんな川本さんの奴隷はそう思ってるんだろうな。・・・だから・・・寂しくない、なんて嘘。悲しくない、なんてあるはずない。」
涼子はもう一度、子猫の手を握った。
「だから、子猫さんが、側にきて甘えてくれるのが嬉しかったの。丸くなった猫ちゃんを抱っこしてるみたいに、そこにいてくれるだけで温かくなって、寂しい気持ちが癒された。・・・だから、子猫さんはそのままでいいの。誰かになることも、誰かに勝つことも必要ないの。そのままで、可愛くって、温かいんだもん。・・・お願い。・・・ずっと、変わらないで子猫さんのままでいてね。」
涼子は子猫の手に頬ずりをした。こぼれた涙が子猫の手を濡らした。と、子猫も泣きそうになって、目いっぱいの涙を溜めた。
「あ・・・ごめんなさい。・・・悲しい涙じゃないの。子猫さんが好きっていう涙だから、何も心配しなくていいの。ね?」
涼子はハンカチを取り出すと、濡れた手と子猫の涙を拭き取ってやった後、自分も涙を拭って、にっこりと微笑んだ。それでも、子猫が心配そうに覗き込み、悲しそうに涼子を見ているので、
「川にも匂いがあるのねぇ。」
と視線を渓流に向けて言った。
「オゾンとマイナスイオン・・・科学的な言葉じゃなく・・・ただ、その流れの側にいるだけで気持ちいい。それでいいじゃない。ねぇ?」
そう言って笑いかけると、子猫もやっと笑顔になって、
「うん。」
と答えた。多分、そこで返事をするのが、涼子に必要なのだと感じ取ってのものだろう。・・・今はそれでいい。無理をすることはない、と涼子は思った。傷はゆっくりしか治せないものなのだから。

 子猫の側に屈み込んでいた涼子が立ち上がった。話が終わったのだと理解した昭彦が、子猫の元へ戻ろうとした時、竜崎が肩をつかんだ。
「わしにも少し話をさせて貰えんかのう?」
昭彦は眉を曇らせ、
「今の子猫は・・・多分何を聞いても理解するんは無理やで。」
と言ったが、
「それでもええんや。・・・頼むで・・・」
と、竜崎が言うので、昭彦はため息をついて頷いた。
 涼子は子猫の側に佇んで昭彦を待っていたが、代わりに竜崎が来たことに少し驚きながらも、黙って会釈をすると戻っていった。竜崎も軽く頭を下げた後、子猫の横に座った。朝露の残る雑草が冷たかったが、気にせず深呼吸した。
「ホンマに空気がええのう。」
竜崎はそう言って、子猫に微笑みかけた。子猫もつられるように微笑んだ。
「・・・うんうん。・・・お嬢ちゃんはええ子やのう。」
竜崎は子猫の頭をよしよしと撫でた。

 竜崎はしばらく光を乱反射しながら流れる渓流を眩しそうに眺めていた。
「飛沫はええのう。舞い上がり、飛び散り、変化し続けて、ずっと見ていても飽きんわ。」
子猫は竜崎の視線を追うように水飛沫に目を向けた。
「・・・わしにとってのドクもそうかも知れん。・・・今、細いことを言うても仕方ないやろし、わしがドクに惚れとるのも事実やで・・・それを謝るのも変やしのう。」
竜崎は自分が話したいこともよくわかっていなかったが、気持ちだけは伝えたかった。言葉を探すように自分の顎を撫でながら、ゆっくり話し始めた。
「・・・昭彦はわしの宝や。・・いや・・わしの生き様を見守る菩薩かも知れん。・・・ようわからん。クッフフッ。済まんのう。理屈は苦手なんや。・・・けど、我慢して聞いてくれな?」
竜崎がそう言って子猫に笑いかけると、子猫もまた微笑んだ。
「昭彦も悲しい子でなぁ・・・わしは・・・わしの一生をかけて昭彦を幸せにしてやりたかった。・・・もちろん、今かてそう思っとる。・・・昭彦・・・昭彦・・・昭彦と名を呼ぶだけで、胸が苦しくなるわ。どんなに恋しくて、その名を誰もいない虚空に向かって繰り返し呼んだか知れん。」
竜崎は開き加減の膝を抱えるようにして項垂れると、思わず噎ぶように涙をこぼした。逞しい肩が切なげに震える。子猫はふわっと顔を近付けると、肩に頬ずりを始めた。竜崎は少し顔を動かし、目を閉じて無心に顔を擦り付ける子猫を、涙で霞む目で見ていたが、また項垂れて何度か大きく息をした。
「・・・昭彦はホンマはええ子なんや。・・・こんなわしさえ守ろうと尽くしてくれる。・・・誰に理解されんでもええ。わしがわかってやればええ。そう思うてきたが・・・昭彦は、わしといると自分さえ無くして尽くそうとしてまうんや。・・・それでも一緒に生きれるなら、わしが守ってやれた。・・・何でずっと一緒にいれんかったんやろのぉぉ。・・・今でも悔しいてたまらんわい。」
竜崎は男泣きに泣いた後、浴衣の袖で顔を拭うと、また水飛沫に目を向けた。
「一時期、昭彦はわしを毛嫌いするように避けて拒絶しておってな・・・それが、わしを思うてのことやて・・・ホンマはわかっとったが、どうにも手が出せんかった。・・・ずっと死にたがっとるようにさえ思えた。・・・もう、そーゆーとこは頑固っちゅうか、我が侭っちゅうか・・・いくら言っても聞いてくれん。」
竜崎は大きくため息をついてから、子猫にフッと笑顔を向けた。
「それが・・・お嬢ちゃんと出会ってから、なんや嬉しそうでのう。・・・よう笑うし、ようしゃべりよる。子供の頃かて滅多に声出して笑う子やなかったのに・・・」
ふと、竜崎は足元に目を落とすと、
「けどな・・・たまに笑うとそれがまた可愛いてのう・・・心がくすぐられるようやったわ。」
と、呟いて遠い記憶にしばし思いをはせているようだった。子猫は目を閉じて竜崎の膝に頭を乗せると、小さく規則正しい息をし始めた。竜崎は子猫の髪を優しく撫でてやった。
「・・・それぞれに違う道を歩く。・・・これも運命やったんかも知れん。・・・けど、そうであっても、わしは昭彦に幸せでいて欲しい。笑って生きていて欲しい。・・・せやけど・・・わしではダメなんや。・・・お嬢ちゃんでないとのう。」
竜崎は子猫の髪を撫で続ける。
「・・・頼むわ。・・・昭彦を幸せにしたってくれ。・・・笑っている昭彦を思う方がええ。・・・死に場所探して藻掻き苦しんでる姿はもう見とうない。・・・昭彦の地獄を・・・お嬢ちゃんの柔らかい羽で光の場所に連れてったってくれ。・・・頼むで・・・の?」
竜崎は返事を期待した訳ではなかった。ただ、今でも後ろ髪を引かれるように昭彦への思いを断ち切れない自分に言い聞かせるように言ったのだ。この子が昭彦に必要なのだ。それなら、この子もわしが守ってやる。・・・そう心で誓いを立てた。その気持ちを伝えたいと、
「昭彦を頼むな?」
ともう一度言った。だが、子猫からの返事はなく、気が付くとスースーと寝息が聞こえてきた。泣いたり思い出に浸ったり、ぼんやり考え事をしながらの話に、退屈になった猫のように膝で眠ってしまったのだ。それでも、竜崎は子猫が自分の膝で寝息をたてていてくれるのが嬉しかった。それこそが、言葉では言えない絶対的な信頼なのだと、子猫の自分への労りという愛情なのだろうと感じた。そして、竜崎もまた子猫を愛おしく思うのだった。

 昭彦は竜崎の様子に、いつまでも大きなガキのまんまやで、と半ば呆れがちに眺めていたが、竜崎が困った顔で振り向いたので、ん?、と近付いていった。
「済まん・・・話が長すぎて・・・寝てもうたわ。」
「・・・アホ・・・」
昭彦はムッとしてそう言ったが、口元には微かな笑みがあった。そして、子猫を愛しそうに抱き上げて、無邪気な寝顔にキスをした。子猫が睫毛を微かに震わせ、目覚めそうになったが、
「寝とったらええ。体が冷えちょるで、部屋に戻ろな?」
と優しく言って、またキスをすると抱きかかえて歩き出した。子猫は昭彦の麝香の香りに包まれ、落ち着いた気分になったようで、笑みを浮かべるとまた寝息を立て始めた。

 子猫の混濁した意識はすぐには回復しなかった。それで色々検討し、竜崎や矢木沢の薦めもあって、海外で療養させることにした。日本で暮らすのは昭彦にも義務や責任を果たさなければならない拘束が出てくるし、立場からいっても、また子猫を危険に巻き込まないとは言えなかったからだ。
 襲名したばかりの会長だったが、昭彦は若頭のマサに譲ろうとした。だが、マサは、
「なに言うてまんのや?わしがドクターの子守りせんかったら、誰に務まりまっかいな。ヘッヘッヘッヘッ。地獄の果てまで付いていくて決めちょりまんがな。地球の果てなら近いもんでっせ。」
と、さっさと同行することを決めてしまっていた。
 それで、石橋を会長代行とし、石松を若頭として石橋を助けるように頼んだ。まだ、石橋を会長にするには、古くからの重鎮が納得しないだろうと予想されたからだ。代行を務める中で、会長に必要な実力をつけていけばいい。いつか、古株も納得するような立派な会長に、石橋ならなれるだろう、と昭彦も竜崎も思った。それに伴って、石橋夫人も姐代行となった。賢夫人と誉れの高い石橋夫人なら、充分にやっていけるだろう。

 更に、同行を希望する者達が三人いた。
 一人は川本で、
「自分は会長の男としての全てに惚れてます。共に生き、お役に立てられたら、本望です。自分を連れて行って下さらないのなら、ストーカーになって後を追いかけます。ジプシーになろうとも、浮浪者になろうとも、追いかけて・・追いかけて・・・」
と終いには涙ぐむ始末で、
「それと涼子も連れて行きます。奥様のお側でお世話出来る者がいた方がきっとよろしいのではないかと・・・」
と言った。
「おいおい・・・彼女にも都合があるだろう?そこまで勝手なことを命令するのは行き過ぎじゃないのか?」
と昭彦が眉をひそめて注意すると、
「涼子を妻として同行します。夫の赴任先に妻が同行するのは当然じゃないっすか?」
と、川本は食い下がって引かなかった。
 とにかく涼子の気持ちも確認してから、ということになったが、川本からそのことを話された涼子は感激で真っ赤になって泣き出しながら、何度も頷いていた。そして嬉しそうな笑顔で川本の胸に飛び込んだ。川本は照れたようなしかめっ面をしていたが、涼子の肩を包むように抱いた表情には、もう奴隷ではない一人の女性を見守るような優しさがあった。
 ここまで言われると、断る理由もなく、子猫の為にも確かに涼子の存在はありがたいと思った昭彦は、涼子の両親に頼み込み、一週間で川本と涼子を結婚させてしまった。
「女房になった以上、彼女を大事にするんやでぇ。」
と昭彦に言われた川本は、
「もう、女は涼子だけでいいっす。会長に恋してる方が楽しいっすから。これから一緒に冒険出来るなんて、こんな面白いことってないっすよ。」
と、目を輝かせて言った。
 そして、もう一人が黒岩だった。言葉数が少なく感情表現が苦手な黒岩が、同行するの一点張りで、その固い意志はテコでも動かせないようだった。
「まあ、行き先はまだ決まっとらんが、人のあまりいないような場所がええやろ、と相談しちょるとこやし、男手はあった方がええかも知れん。よろしく頼むわ。」
と、昭彦が言うと、
「会長ぉぉ!!どこまでもお供致しますっっ!!!」
としがみついて泣き出したのだった。
 後になってマサが、
「あんさんも因果に嵌っちょったかいのう。どっちにも惚れてもうたんやろ?・・・ヘッヘッヘッ。わてに隠すことあらへんで。・・・わてもどちらのお人も好きでたまらんのや。・・・ドクターは最高に綺麗な男や。見た目だけやあらへんで。何もかもが楽しいくらいに綺麗なんや。・・・ほいで・・・子猫はんも何もかもがふわふわで綺麗なんや。・・・楽しいて、側を離れられへん。・・・の?」
と、黒岩に言った。黒岩は真っ赤になって、
「押忍っ!」
と短く答えたのだった。

 昭彦が言ったように、目的地は特に決めずの旅立ちだった。ただ、もう完成された文明社会は避けることにした。規定の枠組みでは、昭彦の獣の血が問題を起こすのではないかと、竜崎も心配した結果だった。
 矢木沢コンツェルンの貿易船に乗って、好きな所で降りて、しばらく自由にしたらいい、ということになった。一応名目は矢木沢貿易市場調査団ということで、生活物資や必要なお金は送られることになっていた。
 港に見送りに来た石橋は、遠退く船をいつまでも眺めていた。船の姿が見えなくなっても、遙か彼方の水平線を、置いてきぼりをくらった子供のように、口をへの字に結んで、目にいっぱいの涙を溜めて、そうしていれば自分も行けるんじゃないかと、まだ諦めきれない様子で佇んでいた。
「・・・きっと帰ってらっしゃいます。これっきりなんてこと、あるはずないじゃありませんか。・・・こんなにも慕っている私達みんながいるんですもの。・・・ね?・・・慎吾さん?」
と、石橋夫人は優しく夫の背中をさすった。
「子猫ちゃんもきっと元気な笑顔で・・・可愛い赤ちゃんを産んで、見せにきてくれる日が来ますとも。・・・きっと・・・。だって、そう信じてなければ・・・私だって寂しいです。」
「蓉子・・・」
石橋はうんうんうん、と力強く頷いて、高校時代から憧れ続けて、妻になった夫人を抱き締めたのだった。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 会議を終えて、社長室に戻ってきた竜崎に、秘書が午後の予定を確認するように告げた。それから、
「川本涼子様からのエアメールが届いております。」
と言って手紙を差し出した。
「ボケェ!それを早う言わんかい!」
竜崎は、それまで疲れたような顔をしていたのを、パッと目を輝かせて、奪うように手紙を取ると、秘書を部屋から追い出した。そして、ソファーで眠っていたシッポのない猫をお腹に抱いて、足をあげて肘掛けにもたれるように座ると、手紙を開けた。

§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

(前略)
 お願いした医療物資をあんなに沢山、届けて頂きましてありがとうございました。
 ご心配頂いていた少年は、無事回復へと向かっております。藤村様の適切な処置と奥様の熱心な看護で、少年は傷以上に負った心の傷も癒え、今では元気な笑顔を振りまいております。
 この一件以来、原住民の方々は藤村様をお医者様(と言うようり神様のお使い?)だと思い込んでしまい、助けて欲しいと訪ねてくるようになってしまいました。元々、シャーマンが呪いで治療(?)していた場所なので、医療免許など問題にもなりません。それに、藤村様の技術の素晴らしさや知識の豊富さに、一応医学を学んだ私でさえ驚嘆と敬服を感じております。
 しかも、藤村様は原始文明や古代文化にも詳しくていらっしゃっる上、こちらに来てからも熱心に学んでいらっしゃるようで、すっかり原住民の方々との会話はマスターされてしまいました。それで、
「呪いにも伝えられてきただけの意義がある。」
と、おっしゃって、シャーマンとの交流を深め、古くから伝わる薬草や鉱物などの研究も始められたようです。藤村様の薬学における知識は、私も知らなかったことが多く、教えて頂く毎日です。ただ、
「兄さんやあるまいし、何でこのわしが人助けなんてしちょるんや。」
と、あまりにも頼ってくる人達の多さにぼやいたりされておりますが、苦しんで頼ってきた人達が感謝して笑顔で帰っていく姿を見る奥様の嬉しそうな笑顔に、それなりに満足されていらっしゃるようです。
 私も非力ながらお手伝いさせて頂ける毎日がとても楽しいです。

 夫(川本)は、この前お話したように、今も部落周辺の警護をしておりますが、時々密猟者退治のようなことも頼まれるようで、ライフルを背負って黒岩さんと意気揚々と出掛けていきます。日本でそんな姿を見たら、警察に取り囲まれてしまいますよね。警察に睨まれる立場だったのに、ここでは警察の代わりに守る立場になっているのですから、不思議な気もします。
 でも、夫も黒岩さんもとても毎日が充実しているようで、楽しそうなのが、嬉しいです。

 マサさんはまるで貿易商人のように、こちらの代表の方々から頼りにされてしまっていて、段々商才も長けてきつつあるようです。原住民の人達をいつの間にか仲間にして、鉱物発掘調査なども手がけ、藤村様の興味を煽っているような所があります。藤村様も、
「デカイ鉱脈見つけたら億万長者やぞ。」
とからかいながら、
「未発見の薬も見つけられるかも知れんで、しっかり頑張りや。」
と応援しています。
 それと、マサさんをとても崇拝している女性がいて、何かと身の回りの世話をしたがってるんですよ。若くて綺麗でとても感じのいい女性なので、マサさんもまんざらでもないようです。そのうち、恋が芽生えるかも知れないですね。
 奥様もその方ととても仲良くされてらして、現地の料理を教えて貰ったり、奥様が教えたりと、言葉が通じないのに、いつも笑い声が絶えません。奥様のお陰で私も仲良しになれて、声を出して笑うのがこんなに楽しいのだと実感しています。

 奥様の記憶はまだ完全には戻ってらっしゃらないのですが、日々の暮らしには、感動と感謝があれば充分なのだと教えられます。
 みんなで囲む食事時、奥様が満天の星の美しさに微笑まれて見取れてらっしゃると、藤村様はテーブルを外に用意されて、
「今夜は星の宮殿でのディナーやで。」
と楽しそうに仰います。奥様はそんな時、本当に愛らしく微笑まれ、藤村様を感謝と愛情を込めてうっとりと見つめられます。そんなお姿を拝見する私達も幸せを一緒に感じることが出来る喜びを噛みしめております。
 もちろん野性の猛獣には警戒が必要ですが、夜目の利く藤村様に恐れをなしているのか、まだ襲ってくることはありません。もっとも、いつ猛獣が来ても、むしろ楽しみに待っている夫のライフルが闇に照準を合わせているのですが。

 あ、でも、ここより少し離れた所ですが、人を襲うことを覚えたはぐれライオンに原住民の人達が困っていると、怪我をしてきた人から聞いた時には、藤村様も参加されて見事仕留めていらっしゃいました。夫は少し悔しそうでしたが、
「やっぱりドクターは凄い人だ!」
と感激して、その時の様子を嬉々として話してくれました。初めて食べるライオンは・・・獣臭くて、奥様にも不評でしたが・・・毛皮は暖炉前の敷物として利用しています。

 最後になってしまいましたが、私個人のお願いの本も届けて頂いたことに感謝致しております。ここでは本が本当に貴重ですので助かります。
 本と言えば、ここでは文字を知らない人達も沢山いて、本を不思議そうに眺めていました。私も少しずつ、藤村様からこちらの言葉を習っておりますので、もう少し理解出来るようになったら、子供達に読み書きの楽しさを教えてあげられたらと思っています。

 楽な生活ではありませんが、こうして何もない所で暮らしていると本当に大切な物が見えてくるように思います。その意味では、奥様はここでの暮らしのパーソナリティなのかも知れません。洗濯物が風になびくだけで嬉しそうなんですもの。

 竜崎様はじめ、矢木沢様、その他御協力ご支援下さる皆様には、本当に心からの感謝にたえません。
 竜崎様のお心を思う時、あまり楽しい日々をつらつらとご報告するのも申し訳ないと思いつつ、ご心配をおかけするよりは、とこうしてしたためております。

 ですが、竜崎様もきっと楽しみにして頂けるご報告を、次回には出来そうです。まだ、申し上げていいものかどうか、判断に迷いますが・・・奥様のご様子から、嬉しい知らせを聞くことの出来る日が近いのではないかと思われます。
 ここからの移動の大変さを思うと、こちらでご出産される他ないと思われ、奥様のお体のことを思うと不安もありますが、藤村様がついていらっしゃいますし、きっと元気な二世の誕生になるのでは・・・って、ここまで書いたら、もう報告しているようなものでしょうか?
 安定されたら、ちゃんとご報告致しますので、もう少しお待ち下さいませ。

 それでは竜崎様皆様のご健康とご活躍を祈願しまして締めの言葉とさせて頂きます。

                           かしこ  川本涼子

§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 竜崎は笑みを浮かべたり、時々涙ぐんだりしながら、猫の背を撫でてやりつつ読んでいた。が、最後の方になって、もたれていた肘掛けから頭をガバッと上げると、
「おい!矢木沢を呼べ!」
と大声で秘書を呼びつけた。シッポのない猫はびっくりして飛び降りた。
 秘書が何事かと駆けつけると、
「わしも行くぞ!出産祝いを持って行くんや!そしてライオンを仕留めて喰ってやるでぇ!」
と、秘書には意味不明のことを目を輝かせて叫んだ。
「矢木沢様は今スイスの国際会議に出席されてらっしゃいますが・・・?」
「さっさと会議を終わらせて来い、っちゅうんや!」
「・・・個人的なことではないので・・・いささか無理かと・・・」
「無理でも何でもええ!わしは行くちゅうたら絶対行くでぇぇ!!」
「行くって・・・どちらへ?」
「夢の楽園や!」
そう言った竜崎は、ソファーに戻って訝しそうな視線を投げている猫を抱き上げると、高く掲げて、
「爺やぞぉーー!」
と嬉しそうに言った。

                      『子猫白書U』終わり






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