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子猫白書U




<16>〜<20>



<16>
[文芸部]
<16>文芸部

 春の陽光が傾いて、日中は暑く感じるようになってきた日差しを和らげていた。子猫は文芸部の部室からぼんやり校庭を眺めながら新入部員が入れてくれたコーヒーを飲んでいた。文芸部に所属しているものの、去年入部そうそう3年の部長にいきなりキスをされて以来、あまり顔を出していなかったが、その部長が卒業したこともあって、川原圭子にもっと参加するように誘われたのだ。同じ学年の圭子とはクラスは違っていたがけっこう仲が良かった。文化系だけに毎日部活動があるわけではなかったが、昼休みには部室で一緒に昼食をとり、コーヒーを飲みながら昼休み中秘密の会話で楽しむ特権が2年になって獲得出来て以来、いっそう親密になっていた。6月の文化祭が終わるまでは3年生が部長をすることになっているが、今の部長は去年子猫に迫った前の部長とレズビアンの関係にあった為、部員からは嫌われていたし、本人も前部長が卒業してからやる気をなくしていて、ほとんど部室には来なくなっていた。それも子猫には部室に顔を出しやすくなった理由でもあった。

 この日文芸部では文化祭に参加するテーマとその時出版する文集のスポンサー依頼についての話し合いがもたれていた。文集は学校の近くの印刷工場に作って貰う本格的なものだったので、その制作費を学校周辺の商店や塾・レッスン教室等の広告を文集に載せることで寄付して貰っていた。発行部数は1000部で半分は生徒や学校関係者に無料で配られ、残りを文化祭で販売して部費にあてていた。
 文化祭のテーマは「増加する未成年犯罪への検証」として、今後の転回としては昭和の頃の有名な未成年犯罪をあげる一方で、平成になってからの犯罪も比較対照して違いを探り、生活環境やモラルの変化等を検討し、今後自分達はどうしていけばいいか?という問題提起をしよう、ということが前回までの話し合いで決まっていた。
 今日は調査する分担や警察の人からも意見を頂けないか?といったことを話していた。一つの教室を借りて展示する以上興味を持たれるディスプレイを狙わなければならないし、そうすることで文集の売れ行きアップも図りたいのだ。文集に載せる物は自由で各部員期日までに提出することになっている。が、展示物は何日か休日を潰さないと仕上げられそうもなかった。その為に調査や草稿は早めにしたいという意向だったがなかなか意見がまとまらなかった。

 部長がやる気をなくしている為、副部長の圭子はひとりで苦労を背負い込んだ顔をして部員達に調査の分担を割り当てていた。
「じゃぁ、猫は警察の方に聞いてみてね。・・・こらこら、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるけどぉ・・・警察はヤダぁ・・・」
「何でよぉ?」
「だってぇ・・・警察ってぇ・・・好きくないんだもん。」
「好き嫌いの問題じゃないの。ちゃんと頑張って貰うからね。2年が中心になって頑張らないと文化祭への参加さえ危ないんだから。」
「でもぉ・・・警察はなぁ・・・」
「うちの部で一番可愛いのは猫なんだから、その色気で警察の人を悩殺してきなさい。」
圭子は笑いながら言った。
「それとスポンサー回りも一緒に行って貰うから。去年もそうだったけどぉ、不景気でどこも渋り傾向なんだから、猫の魅力をフルに利用させて貰わなきゃね。」
圭子の独断的な言い方に新入部員もクスクス笑っていた。
「いつも一方的なんだからぁ・・・」
子猫はふくれ顔をしてそう言ったが、圭子のさっぱりした気性には好感を持っていた。

 だいたいの分担も決まり、今日はこれまでにしようということになった。1年生はコーヒーの後片付けや部屋の掃除を始めた。コーヒーは文芸部ということもあって、こだわりの挽き豆で入れていたし、カップはそれぞれが自分のお気に入りを置いていた。
 圭子が途中まで一緒に帰ろうと子猫に言ったので、ふたりは揃って部室を後にした。
「お疲れ様でしたー!」
1年生の中で一番身長の高いショートヘアの部員が元気な声で言った。それにつられて他の新入部員も慌てて挨拶をした。圭子と子猫も、
「お疲れ様ですぅ。後はよろしくね。」
と答えた。
 昇降口の所に来て、圭子がクスクスと笑い出した。子猫は急に笑う圭子を不思議に思って、
「どうしたの?」
と聞くと、圭子が顔を近付けて小さめの声で言った。
「あの麗奈って子ねぇ、猫に憧れてるんだってよ。」
「えぇー・・・ウッソォー・・・」
「本当だって。バスケ部にも入ってるのに、猫が部活に出る日は文芸部の方に出来るだけ参加するようにしてるらしいよ。」
「でもぉ・・・憧れられる要素ってないぢゃん。」
「まぁ・・・恋に近いかもね。猫のことを可愛い可愛いっていっつも言ってるらしいから。クラスにバスケ部の子がいてそっちでも噂してるみたいよ。」
「うぅ・・・そーゆーのはヤダなぁ・・・」
「去年のことがあるもんね。それはわかってるよ。もし、猫に言い寄ろうとしたらピシッと忠告するから大丈夫だよ。」
「・・・うん。」
「でもさぁ猫ってそれ系の魅力があるのかもね。私って全然レズ気ってないけどさぁ、猫って可愛いなぁって思うし・・・キスしたいならしてあげようか、って思わず思っちゃうもんなぁ。」
「して欲しいって思わないから遠慮しとく。」
「あはは、冗談だって。猫には熱々の彼氏がいることくらい知ってるしね。首回りは注意してるみたいだけどぉ・・たまに座ってるのを上から見るとキスマークが見えちゃってるよ。」
「え・・・マジ?」
「気をつけないとぉ先生にまで見つかる危険性ありだから注意しなよ。」
「うん。そーするぅ。・・・うぅ・・・」
「あの子も知ってるはずだからきっと憧れてるだけで手は出さないと思うし・・気にしない、気にしない。」
「うん。・・・はぁぁ・・・でもキスマーク見えちゃうんだぁ・・・気をつけよぉ・・・」
「そうそう。ま、高校生でセックスくらい当たり前だけどさ。」
「え・・・圭子も経験済みだっけ?」
「私はまだだけどね。」
「真面目なんだぁ・・・」
「モテないだけですぅー。なんてね。」
圭子が明るく笑ったので子猫もホッとして笑った。モテないはずはないと思えるくらいの美人で、しかも成績もトップクラスの圭子は、大胆な発言が多いわりには真面目で、また真面目でありながらも寛容でもあり、子猫は密かに尊敬していた。

 圭子が今日これから数件スポンサーを回りたい、と言い出した。数十件にお願いしても広告を載せてくれるのは半分くらいしかないと言うのだ。去年もかなり常連だった店から断られたという話で、その中には潰れて行方がわからない場合もあった。宣伝効果はあまりあてに出来ない本当に寄付的ものだったが、それを聞くと心が痛む、とため息まじりに圭子が言った。
「うちも商売してるから他人事じゃなくてさぁ・・・子供が通ってるならまだしも、全然関係ないとこに寄付するくらいなら、小遣いアップしてくれぇって、私がその家の子なら言ってるかもね。」
「そうなんだぁ・・・厳しいねぇ・・・」
「猫のとこだってお母さんだけなんでしょう?大変じゃない?」
「多分ね・・・よくわかんない・・・」
「わかんないってことは大丈夫ってことだよぉ。うちなんてもぉ毎日のようにお金の心配とかの話ばっかしてるんだぁ。」
「そっかぁ・・・でもそれはご両親がでしょう?」
「あぁ・・そかそか、ごめん。まさか子供相手にそうは愚痴言えないよねぇ。うちはさぁ、狭い家の中で言い合いしてるからどうしても間に入って仲裁したりとかってあるからねぇ・・・そうした話題にも口出ししちゃうんだけどさ。」
「ふぅーん・・・」
大変なのかなぁ、と思う反面、何でも話し合える家族がいるのは幸せかも、と子猫は思った。そうした意味では子猫の母親は寂しいのだろうか、とも思ったが、子猫には母親との壊れた関係を今更修復しようがなかった。それに初めに子猫を拒絶してひとりの殻に籠もったのは母親の方なのだ。取り残された孤独を母親は理解しているのだろうか。と、そんなことを思いながら子猫は圭子について歩いて行った。

 最初のお店は学校の近くにあるパン屋さんだった。そこは子猫達の高校の生徒が多く利用している店で快くスポンサーになることを承諾してくれた。
「ありがとうございます。サイズは例年通りです。広告のレイアウトは去年のも保存してありますが、もし新しいものを載せる場合には顧問の鈴木までご連絡下さい。また、頂きにうかがいます。本当にいつもありがとうございます。」
会話のほとんどを圭子が進めて、子猫は初めと終わりに挨拶しただけだった。店を出てから子猫は、
「猫がいなくても大丈夫じゃん。圭子ってしっかりしてるぅ。」
と言った。圭子はひとつ決まって少し安心したようだったが、
「何言ってるのぉ。まだまだこれからだよ。だいたいあの店が断るようじゃ、どこも断って当然ってくらいの店じゃん。部活帰りとか昼でも買いだしとかで利用してるんだもん。」
と、次の店の場所をメモ帳で確認しながら言った。
 次の店は花屋さんだった。ここは卒業式や入学式の式典で学校が利用する他、華道部がいつも花を買っている店だった。文芸部とは直接関係はなかったが、そうした協力も必要経費と思っているようで、事務的に承諾してくれた。花屋だけでなく学校周辺の店はいくらか学校の恩恵を受けていたので、どこも同じように承諾してくれ、思っていたよりも早く数件を回ることが出来た。
 が、青果店に来て事情が変わった。
「悪いけどその金額はうちには厳しいよ。広告載せてもお客さんが変わるとも思えないしな。」
「えっ、そうなんですか?・・・あ、でも去年までは御協力頂けたようなんですが・・・」
「去年おたくの家庭科の先生変わっただろ?」
「はい。」
「それまで調理実習ではうちのを使って貰ってたんだけどねぇ、その先生が大手のスーパーに変えてうちに注文こなくなったしさ。」
「あ・・・そうですかぁ・・・」
圭子は確実と思っていた店だっただけに残念ですぐには諦められなかった。こんな時に助けが欲しいとばかりに子猫に目線を動かした。子猫は挨拶をしたものの圭子が説明をしている間にそこの野菜や果物を眺めていた。
「うわぁー・・・このイチゴぉ・・・超艶々ぁ・・・美味しそうだなぁ・・・」
そう呟く声が弾んで周りにまで届いていた。奥から赤ちゃんを背負った女性が出てきて、
「毎朝主人が市場で選んでくるんですよ。」
と笑顔で説明してくれた。
「どうりでぇー・・スーパーのと全然違うー。超ー美味しそう・・・」
真剣にイチゴを見るあまり子猫はやっと顔をあげて、説明してくれた女性に笑いかけた。
「あぁぁぁー可愛いぃぃぃ!赤ちゃん可愛いぃぃぃ!」
子猫が肩から見えていたあかちゃんの顔を覗き込んで感激する様子を圭子は半ば呆れて眺めていた。普段の学校では見られない明るい笑顔だった。
「いいな、いいなぁ。赤ちゃん可愛くてぇ・・こんな美味しそうな果物に囲まれててぇ・・いいな、いいなぁ。」
「そうですか?ふふ、でも一応売り物ですからねぇ。」
子猫があんまりあけすけに羨ましがるので、苦労だってあるだろうその女性も何だか嬉しそうに笑顔で応えていた。
「そっかぁ・・でもぉ野菜もすっごく美味しそう。ちょっと買ってっちゃおー。・・・ねぇ、圭子ぉ、買い物してっていい?」
子猫が唐突に圭子の方を見て言った。圭子は呆れたまま笑って頷いた。
「いいよぉ。そっかぁ・・・猫は働くママの代わりに食事も作ってるんだぁ。」
「あ・・・まぁね・・・でもぉ彼氏に作ってあげるのぉ。」
「ほうほう。大胆によく言うわ。今高校生として活動中って忘れないでよね。」
「あ、そかそか。ごめん。」
子猫はそう返事をしながら、もうあれこれ野菜と果物を選んでいた。
「バス停が逆方向だったからこっちってあまり来たことなかったんだぁ。こんないいお店があるって知らなかったなぁ。今度からここに寄ってから帰ろうっと。」
子猫は会計が済むまでしきりに赤ちゃんをあやしていた。
「お待たせぇ。ごめんね。」
子猫が買い物袋を下げて言うと、圭子は苦笑して、
「いいって。主婦は大変だよね。」
と店を一緒に出ようとしていた。と、さっき広告を断った店の主人が、
「うちの品物の良さを誉めてくれたお礼にスポンサーになるよ。」
と言ってくれた。子猫と圭子は顔を見合わせ、
「ありがとうございます。」
と頭を下げてお礼を言った。

 夕闇が迫っていたので、圭子が今日のところはここまでにしよう、と子猫をバス停まで送ってくれた。圭子は家がわりと近かったので徒歩通学だったのだ。バスの時刻表を見ると20分は待たなければならなかったが、すぐに車が近付いてきてふたりの前で停まった。外車でスモーク窓の車に圭子は驚いて子猫の腕をつかんで数歩後ろに下がったが、
「子猫ちゃん、あんまり遅いから迎えにきたっす。」
と窓を開けて顔を出したホスト風にも見える男に更に驚いていた。
「え?・・あ、猫の彼氏?」
「違う、違う。」
子猫は圭子にちょっと笑ってみせてから、
「・・・正次さん、昭彦さんは仕事でしょう?今日は部活に出るから遅くなるって言っておいたんだけどなぁ・・・」
と車に近寄った。と、その時後ろのドアが開いて昭彦が降りてきた。
「あきぃ?・・・どうしたのぉ?」
子猫は半日会わないだけで懐かしさを感じてしまった。それは、普段にはない状況だったせいもあったのだろう。仕立てのいいスーツを着こなし、微かに麝香の香る男らしい姿に飛びつきたい衝動をやっと押さえていた。
「マサが戻ってきたからうちに呼んだんだ。子猫にもお土産を買ってきたらしいぞ。・・・ん?買い物してたのか?いくら部活でも遅すぎるから心配になってきてみれば・・・」
子猫から買い物袋と鞄を取り上げるように持つと、
「そちらのお嬢さんは?」
と子猫に説明を求めた。子猫が名前や部活の内容をざっと説明すると、
「では、家まで送って行こう。」
と、二人を後部座席に乗せて自分は助手席に回って乗り込んだ。圭子は呆気に取られながらも家の場所を説明した。
 5分もかからないで家に着いて圭子を降ろすと、昭彦が後ろの席に移ってきた。
「マサさん帰ってきたんだぁ。ふふ。お土産って何かなぁ?中国だとぉチョコってことはないだろなぁ。」
子猫は圭子にさよならを言った後、隣りに座った昭彦にもたれかかるようにして嬉しそうに笑っていた。
「ドアホ!何言うてんじゃ!こない遅ぅなるて言わんかったやろが。どんだけ心配したと思うとるんや。遅くなる時にはちゃんと電話せい!」
「あぅぅ・・・ごめんなさいぃぃ・・・」
急に態度が変わった昭彦に子猫は当惑しながらしがみついた。泣きそうな顔で昭彦を見上げる唇に昭彦の唇が重なった。
「んー・・・気持ちいい・・・」
「何寝ぼけたこと言うとんねん。」
言葉はまだ荒かったが、口調は優しいものに変わっていた。
「だってぇ・・・いっぱい歩いたからぁ疲れちゃったんだもぉん・・・」
子猫は鼻声で甘えながらスーツの肩に顔を擦りつけた。
「そないことせんかてわしがいくらでも寄付したるのに・・」
昭彦の声がますます甘くなる。
「それじゃ意味がないんだってばぁ・・・継続が大切なんだから・・・」
子猫は今度は首筋に顔を擦りつけていた。昭彦の喉仏が上下する。
「なかなか学生も大変やなぁ・・・ん?」
昭彦の超甘い囁きが耳にかかる。
「うん・・・」
子猫は鼻と唇で昭彦の顎をなぞり頬をすべり鼻にキスをして唇まで愛撫していき、自分から膝に登って肩に腕を回すと熱い舌を絡ませていった。そうしたまま、昭彦のマンションまでずっと激しいキスをする子猫を、正次はバックミラーでチラチラと見ていた。
 子猫が昭彦の腕に絡みつくようにして車から降りるのを目にして、
「随分調教されたもんっすねぇ。」
と感心しながら昭彦に言った。昭彦は当然と言う顔をしながら、
「まだ、こんなもんやないで。」
と笑った。
<17>
[お土産]
<17>お土産

 マサは部屋で留守番をして待っていた。子猫は初めてこの部屋に鏡が取り付けられた日のことを思い出して笑った。
「お帰りなさぁーい。ふふ。またマサさんにお留守番させちゃったみたいね。待たせちゃって、ごめんなさい。予定外の挨拶回りが入っちゃったから。」
「ヘッヘ。わてのことなど気にすることあらへん。けど、高校にも挨拶回りっちゅうのがあるとは驚きでんな。ヘッヘッヘ。」
マサは相変わらず近寄りがたい恐ろしげな雰囲気を漂わせていたが、子猫はもうそれを怖いと感じることはなかった。
「スポンサー回りって言うべきかなぁ。ちょこっと冗談でしたぁ。ふふふ。」
子猫は無邪気に笑って、簡単に遅れた理由を説明した。
「でねでね、すっごく美味しそうなイチゴ買ってきたからぁ、調度良かったぁ。いっぱい買ったし、そのまま食べる他にデザート作ってあげるね。」
「わしはそのままだけでええで。」
子猫があまりマサに愛想を振り舞くので少し剣呑として昭彦が言った。
「だってぇお土産貰うんだもん。これくらいサービスしなくっちゃ。ふふ。」
「何やねん。物につられるんかい。」
呆れたように言いながらも昭彦は優しく苦笑していた。

 子猫は一度寝室へ行って制服をエプロン姿に着替えてきた。すでにキッチンでは昭彦が手際よく料理を仕上げていた。昭彦は料理が好きと言うだけあって子猫よりも腕が良かった。子猫が横の開いてそうなスペースでイチゴタルトを作り始めると、並んだ姿を見ながら正次が、
「ドクター、まるっきり新婚さんじゃないっすか。」
とからかった。
「そしたら新婚さんの邪魔するもんやないで。」
とソファーでくつろいでいるマサにたしなめられ、肩をすくめた正次はソファーに座って、マサと先にお酒を飲み始めた。出来上がった料理は次々とテーブルにはこばれ、先にソファーに落ち着いた昭彦も含めて三人は中国での話をマサから聞き始めた。
 マサが中国へ行ったのは昭彦に頼まれた用事をする為だったらしく、昭彦の向こうの友人のことなどにも触れていたが、用事の内容自体は話すことを避けているようでもあった。
「周さんも会いたがっちょりましたで。近いうちにこっちに来たいっちゅうとりました。」
「周さんって誰っすか?」
「周さんっちゅうたら・・・まぁ、大物やけどな。正次は知らんでええで。わてかてドクターと周さんが個人的な友達っちゅうんでなければ会えん相手やで。」
「へぇ・・・すごいっすね。どうしてドクターは友達になれたんっすか?」
「まだ大阪にいた頃のことや。元々は向こうのおやっさんの知り合いやったが、わしが薬に詳しいからっちゅうて会う時に一緒さして貰たんが始まりやな。でぇ、漢方に興味あるて言うたら中国まで遊びに来いて誘われて、一年近く周さんのとこで勉強さして貰たんや。珍しく日本贔屓の人情味ある人やったなぁ。それにわしがこっちに来ても、わしを息子のように思うっちゅうて色々便宜を図ってくれちょるんや。」
「そうだったんすかぁ。・・やっぱ頭いいと友達が広がるっすねぇ。」
正次が感心して頷くと、マサはいつにも増して不気味な笑みをもらした。
「ヘッヘッヘッ。それだけやないで。周さんはドクターの性格が自分によう似とるっちゅうてお気に入りなんや。・・・こっちではもう足を洗っちょることを残念がっちょりましたで。何なら自分のとこに来るようにて言うちょりやした。」
「ドクターの性格・・・っすか・・・」
正次は強ばった顔に無理矢理笑みを張り付けた。
「似とるっちゅうても全然規模がちゃうがな。到底あの人の域には達し得へんで。」
「へっへっ。そうでんな。・・けど、周さんが言うにはまぁだ地獄を見るのが少ないせいやっちゅうて、充分自分の手足になれるちゅうとりやした。」
「手足か。クックッ。手足にはなりとうないなぁ。いつ削ぎ落とされるかわからんで。」
昭彦がそう言って苦笑すると、マサが含み笑いをしながら、
「確かにそうでんな。そうそう・・これをドクターへの土産にて・・・」
と言うと、手荷物の中から写真を出して昭彦に渡した。昭彦は眉を少し動かしただけで普通にその写真を眺めていた。
「何すか?何すか?俺にも見して下さいよぉ。」
反対側に座っている正次は腰を浮かせて見たがっていた。
「・・前ちょっとだけ付き合うた女の写真や。まだ元気そうやな。」
と自虐的な笑いを唇の端に浮かべて昭彦が言った。
「へぇ・・中国に行った彼女なんていたんすか?」
「いや、彼女っちゅうとこまで付き合うてへん。けど、面倒見てやっちょったのに渡す金が少ないて文句言うわ、他の女に迷惑かけるわでやかましいで周さんにプレゼントしたんや。接待に使う変わった女が欲しいっちゅうとったで。」
「そんなに変わってたんすか?」
「クックックッ。変わっとったんやない。変わらせるんや。」
そう言った昭彦が見終わった写真を正次に渡した。
「げぇぇぇ・・・」
正次は見るなり叫んで顔色を変えていった。写真を見る手が震えている。それでも何とか全部の写真に目を通すと、お酒を冷やのままコップに注いで数杯立て続けに飲み干した。
「へっへっへっ。そない無茶な飲み方するもんやないで。せっかく子猫はんの作ってくれちょるデザートが喰えんようになるでぇ。」
マサはからかうように言った。
「それくらいで顔色変えとるようではまぁだ甘いな。」
と昭彦も言ったが、子猫が写真に興味を引かれて近付いてくるのを見て素早く写真をマサに渡した。
「ここに置いとくわけにもいかんで、後で焼却しといてくれ。」
「へぇ、承知しやした。」
マサも手早く手荷物の中にしまい込んだので、子猫はどんな写真か見ることが出来なかった。
「えぇー・・・何で猫は見ちゃいけないのぉ?」
子猫がつまらなそうに言うと、
「マズイっす。子猫ちゃんは見ちゃダメっす。」
と正次が酔った口調で目に涙さえ浮かべて言った。子猫は少し不服そうに昭彦を見たが、昭彦が両手を軽く広げたのに合わせて、すっとその膝に座った。
「まだデザートは途中なんやろ?手伝うてやろか?」
昭彦が子猫の腰に腕を回して引き寄せ、額や鼻の先にキスをしながら目を覗き込んで聞いた。子猫は首を振って、
「もうほとんど完成だから大丈夫だよ。」
と切なそうな上目遣いで答えた。
「そしたらこっちで一緒に食事しようや。マサのお土産を早く見たいんやろ?」
子猫は思い出したように目を輝かせて頷いた。
「うん。そうする。」
嬉しそうな笑顔になった子猫は昭彦の唇に自分から求めてキスをしてから、
「じゃぁすぐに仕上げてきちゃうね。」
と言ってキッチンに戻って行った。

 子猫が昭彦に並んで座るとマサは嬉しそうに次々と包みを渡した。
「えー!これ全部猫が貰っちゃっていいのぉ?」
「ヘッヘッヘッ。何が気に入って貰えるかわからんもんであれこれ選んでもうて。」
「じゃぁ今選ぼうか?他にもあげたい人とかいるだろうしぃ・・・」
「そないなおなごはおらんですわ。ヘッヘッ。」
「ええやないか。貰っとき。」
「そうっすよ。遠慮することないっす。んで、気に入らない物があったらこっちにまわして貰えば一挙両得・・」
「あげないもぉーん!気に入らないなんてあるわけないじゃん。・・ありがとう、マサさん。デザートくらいじゃ申し訳ないけどぉ・・頂きますぅ。シェシェ。」
子猫は両手を拝むように合わせて、聞きかじった中国っぽい言葉でお礼を言ってみた。それが三人の男性には可愛く映ったようで、一斉に笑いをこぼした。
 子猫は一つずつ丁寧に包み紙をはがして見ていった。初めに出てきたのは透かし彫りになった薄い木を連ねた扇子だった。
「うっわぁー・・いい香りぃー・・・んー・・・」
「白檀いいますねん。扇ぐともっと香りがええようですわ。」
マサが細い目をますます細めて笑いながら説明してくれる。子猫はうんうんと頷いては言われたように試してみる。次の包みはお線香のようなものだった。
「これは?」
「それは香でんな。色んな香りがするっちゅうてようわからんで、適当に何種類か選んどるさかい、後でドクターに説明読んで貰てみちょくれやっさ。」
「うん。ありがと。」
また次の包みを開ける。今度のはかなり大きくて重みがあった。出てきたのは綺麗な刺繍が施された豪華な反物だった。
「わぁぁ・・・綺麗ぃぃ・・・」
「チャイニーズドレスは体にぴったりした方がええですし、日本でも仕立てるとこはあるよって生地だけにしときやした。好きなデザインで作っとくれやす。」
「そっかぁ、ありがとぉ。・・でもぉ・・どこに頼めばいいのぉ?」
「大丈夫や。わしが頼んだるで。いい物やないかぁ?気張ったな、マサ。」
昭彦が生地を眺めながら言った。
「ヘッヘッ。周さんの口ききで観光客用の値段よりみんな安ぅ買えましたんや。」
マサは照れくさそうに答えた。次の包みは大きかったが意外と軽かった。開けてみるとビーズがふんだんに縫い込まれたカーディガンだった。
「これも超ー綺麗ぃぃー!」
「今着るにはもう暑いやろけど次の冬にでも着とくれやっさ。」
「ありがとぉー!・・・こんなに豪華なものばっかり頂いてぇ・・・どうしよぉ・・・」
子猫は嬉しさで上気した顔で困ったように昭彦を見た。
「まぁ、そう度々行くもんでもないし、ええやろ。」
「そう?・・・ホントに何度も言って他の言葉わかんないけどぉ・・ありがとうですぅ。マサさん。」
「喜んで貰えればええんですわ。ヘッヘッヘッ。」
「俺も喜びたいっすよー・・マサのオジキィー!」
正次はひたすらお酒を飲み続けていて目が据わってきていた。
「われのんも買うちょるで今はおとなしゅうしとらんかい。」
マサはやれやれと首を振って言った。

 子猫へのお土産は他にもお茶や石鹸や刺繍ハンカチといった小物がまだまだあって、全部開けて見るだけでも時間がかかってしまった。正次はソファーに崩れるように座っていて時々ぼんやりしながらため息をついていた。
「ごめんね、正次さん。猫ばっかりで・・・正次さんもお土産あるっていうし、きっと素敵なものだから・・・楽しみだね。」
子猫はお土産を汚さないようにと寝室に置いてきてから、取りなすように言った。
「子猫ちゃんのせいなんかじゃないっすよ。あの写真・・・ああ・・気にしないで下さい。いいんす。そーゆー世界にいるんすから・・・」
「正次、余計なこと言うんやないで。子猫はんは堅気のお嬢さんなんやっちゅうこと忘れたらあかん。」
「関係ないじゃないっすかぁ!この世界堅気騙して落として血ぃまで啜るんが仕事みたいなもんじゃないっすか?」
「嫌やったら足洗えっちゅうとるやろ?われが抜けたかてどうもならんわい。・・子猫はん、すんまへんなぁ。正次の奴、悪酔いしたらしいですわ。今夜はこれで連れて帰りまっさ。」
マサは立ち上がって正次の腕をつかんだが、正次は振り払ってまだ言葉を続けた。
「堅気で俺に何が出来んだよ。学歴もないし、頭がいいわけでもない。かすかすの時給で惨めったらしく生きろってゆーんすか?」
「真面目に生きたいならそれが一番やろ。そやなかったら腹くくって覚悟せんかい。」
マサは次第に語気が荒くなってきた。子猫や昭彦への遜った言い方が地ではなく本物のやくざとしての片鱗が見えてくる。昭彦は他人事のようにクスクス笑って眺めている。
「生きるっちゅうことは喰うか喰われるか。弱肉強食やでぇ。負け犬でええならとっとと尻尾巻いて消えるこっちゃで。」
「クックックッ。ええこというなぁ、マサ。」
「あっ、すんまへん。わてがドクターに言われた台詞でしたなぁ。ヘッヘッヘッ。」
子猫は頭が混乱してきた。さっきの写真のことも気になってはいたが隠したものを追求するマネもしたくはなかった。が、気のいい正次が荒れて、柔和なマサがやくざの地を出して、昭彦は面白がっていて、子猫は自分が何処で何をしてればいいのかわからなくなっていた。せっかくデザートを作ったのに、と思った時、子猫はとっさに、
「あ、ねぇ、マサさん。帰るってまだデザート食べてくれてないじゃん。昭彦さんは絶対食べてくれないだろうし生ゴミになるか子猫のお腹のぷよぷよになるか・・・困っちゃうぅぅぅ・・・」
と言っていた。
「お?そやったなぁ。それがいっちゃん大事なこっちゃで。ふたりとも肝心なこと忘れとったらあかんやろ。」
子猫のまったく場にそぐわない言葉を昭彦が楽しそうに引き継いだ。
「あぁ・・・すんまへん。そうでんがな。わて、ずぅーっと楽しみにしとったんですわ。」
「子猫ちゃん・・・ぷよぷよなんすか?・・・お腹・・・」
「ち・・違うぅぅぅ・・・でもぉ・・・あきがぁ・・・ぷにぷにで可愛いって言ってから気にしてるのぉぉ・・・」
「何や、そないなこと気にしとったんかい。ガリガリよりええっちゅう意味やろが。」
「だってぇ・・・少し運動して腹筋つけるようにした方がいいってぇ・・・」
「それはまた別の話やで。あんまり柔らかい体やから激しくぶつかると壊しそうで心配やから言うたんや。」
「柔らかくて・・ぷにぷになんっすかぁ・・・いいなぁ・・・」
「もぉ・・・そこばっかり繰り返さないでよぉ・・・」
「可愛いんだからいいじゃないっすか。あまし筋肉モリモリってゆーのは俺苦手だし・・・この前女で腹が割れてる子を危うくナンパしちゃって怖かったなぁ・・・」
「・・・割れてる?」
「ほぉ、それはまだ聞いてへんなぁ。」
「そやなぁ。聞かして貰おか?・・子猫、デザート用意するんやろ?」
「うん。」
子猫は席を立ってキッチンへ向かった。

 子猫が紅茶を入れてタルトと生のままのイチゴも添えて持っていくまで、男達は正次のナンパした相手の話を談笑しながら聞いていた。
「んで、何とかホテルに入ったまでは良かったんすけどね・・・いざ服を脱いだら腹がわれてたってゆー訳っす。」
「ええやないかぁ。たまには変わった女落とすんも。」
「ダメっすよぉ・・・あれ見たら・・・小さく隠れちゃったっすから・・・」
「クックックッ。使い物にならないんじゃしょぉーもないなぁ。」
「ドクターはあるんすか?そーゆー腹割れ女と寝たこと?」
「いや。残念やけどないな。」
「良かったら紹介するっすよ。・・ってててててて・・・子猫ちゃん・・勘弁・・・冗談だから許して・・・」
デザートを持ってきていた子猫が正次の腕を思い切り抓ったのだ。
「もぉ・・昭彦さんを浮気に誘わないでよね。」
「違うって・・あーゆーのは抱いても浮気にはならないっすよ。後学の為の参考みたいなもんっすから。」
「それってどーゆー言い分なんだかぁ・・・あきぃ・・・」
子猫はもう一度正次の頭を軽く叩いてから、昭彦に拗ねた視線を投げかけた。
「どんな相手だろうと浮気はせんっちゅうとるやろ?」
「・・・うん。」
「お前と違うて誘惑には強いんや。」
「あー・・・何でぇ・・・猫が弱いみたいじゃぁーん・・・」
「多分弱いやろな。男なしではいられん体やで。」
「そんなことないもん。」
「まだ、自覚がないだけや。いっつも男欲しがっとるやないか?」
「・・・ひどぉーい・・・」
デザートをみんなの前にくばり終えた子猫は昭彦の隣りに座りながら頬を膨らませていた。子猫は本気で怒っていたし、昭彦の言い方がいつになく厳しいので悲しくなっていた。目に涙が滲んできてしまう。昭彦は子猫を膝に抱きあげて、胸に包み込むように抱き締めると、
「けなしたんやないで。そーゆーおまんこを持って生まれてもうた子やっちゅうたんや。まぁだ、自分の体のこともわからん歳やからしゃぁないけどな。」
と、髪を撫でた。子猫は昭彦の肩に頭をもたれかけて目を閉じた。そうしているだけで安心して落ち着けた。そして気持ち良くて、もうどうにでもなってもいい、と思うようなトランス状態になってしまうのだった。顔全体を昭彦の首筋や頬に擦りつけて甘え始めた。
「欲しいんやろ?」
「・・・うん。」
「けど・・まだ、ただいまのご挨拶してへんなぁ。・・ん?」
「・・・うん・・・」
「ここで出来るか?」
昭彦が子猫の顔を顎を持ってあげさせ、目を見ながら聞いてきた。子猫はうん、と頷きキスをすると、ずるずるっと下にずり落ちるようにして昭彦の両足の間に座った。正次とマサは息を飲んで様子を伺っていた。子猫は、帰ってきたまま上着は脱いでいたがそのままズボンを履いていた昭彦のベルトをはずし、ズボンのボタンもはずして、おもむろに昭彦の男根を掴み出すとしゃぶり始めた。
「クックックッ。そうや、ちゃんとご挨拶せなな。ええ子やで。」
昭彦は子猫の髪を撫で上げながら、呆気に取られている正次に笑ってみせた。
「女はこうせなあかんのやで。わかったか、正次?」
「・・・ぅぅ・・うっす・・・くあぁぁ・・・やっちゃうもんなんすねぇ。」
頭を上下に動かし、ちゅぷちゅぷと音までさせて夢中でしゃぶる子猫を、正次は目を見開いて見ていた。マサは含み笑いをこぼして鑑賞しているようだった。
 昭彦は時々大きく息をつくこともあったが、リラックスして普通に会話していた。正次とマサはデザートを薦められるままに口にしていた。
「どや?美味いか?美味いっちゅて貰えれば子猫も喜ぶで。」
「う・・うっす。美味いような・・味がわからないような・・・そっちの光景で頭くらくらっすよぉ・・・」
「何ゆうちゅるんや。デザートには最高の光景やでぇ。さすがドクターっちゅうもんや。」
「俺も女落とすより・・・本気で惚れたいなぁ・・・」
「力つけるこっちゃな。ハンパなうちは使い捨てされても文句も言えんやろ。ドクターのようにどこでも顔がきくようになれば誰も口出し出来んのや。」
「ドクターは特別じゃないっすか。俺はドクターみたいにはなれないっすよ。」
「アホ!ろくに知りもせんでわかった口きくもんやないで。ドクターかて何便も地獄見とるわい。・・・杯返したんやてケジメつけるのにおやっさんに迷惑かけとないっちゅうてのことや。せやから娑婆戻っても組に帰らんのをおやっさんも認めとるんやで。おやっさんはドクターに後をとらせたがっちょるっちゅうのに。」
「だったらおやっさんもドクターが命がけで守ろうとした彼女をやっちまうことなかったじゃないっすか・・・」
子猫の動きが止まった。と、
「やめんかい!」
と昭彦の怒声が響いた。
「そん時は女の為やない。迷惑かけたわしのケジメや。・・あの女がわしの為にならんのはわしもおやっさんもわかっとったんじゃ。けど、一度でも惚れた女には惨い仕打ちは出来んわしの甘さをおやっさんは嗜めたんやろ。あの女かてわしを裏切った時覚悟は出来てたはずや。でなければ世の中を舐めとった自分の責任や。・・まぁ、生き地獄を味わわんかっただけでも良かったやろ。・・それともあの写真のように手足もがれて性器だけの女になりたいと思うか?」
「・・・あれは・・・惨すぎっすよ・・・」
「まぁ・・・もう6年近く経ってもまだ生きとるっちゅうことはそれなりに大事にはされとるんやろ。」
「大事・・・っすか?」
「中国は昔から足を小さく固めてろくに歩けない状態にして育てたり・・男は象徴を削がれたりと体を変えて服従させるのが常識のとこやからな。・・・けど後何年でもないやろな。商品価値がなくなればそのまま海に捨てられ魚の餌になる末路やろ。・・・あの女はそうならんかっただけでもええっちゅうこっちゃ。」
「・・・生きたまま・・魚の餌っすか・・・ドクターはそれを承知でその彼女を行かせたんすか?」
「半端な気持ちで裏の世界にはおらんで。遊びやないんや。たまたま彼女は美人やったから商品になれたんや。生きたままあらゆる臓器を取られることかて日常茶飯事。狩る側になるか、狩られる側で脅えて生きるか、正次はどっちがええんじゃ?」
「・・・狩られるのはイヤっすね・・・」
「そしたら根性いれたれや。」
「・・・うっす。」
「ヘッヘッヘ。やっぱりドクターに言うて貰うんが一番でんなぁ。わてがいくら言うても屁理屈ばかりで逃げちょりまんがな。」
「ドクターは怖いっすよ。・・・マジで冗談にもならないっす。・・・そーゆーのを扱ってるのがつまり周さんってことなんでしょう?その人を友達と言えるドクターが俺には怖いっす。」
「正次!可愛がって貰てるのに何言うとんや?」
「好きっすよ。俺だってドクターが好きっす。好きだけど・・・めちゃめちゃ怖くてたまらないんっす。そうじゃないっすか?マサのオジキだって怖がってるじゃないっすか。」
「わては尊敬しとるんや。」
「もういい。二人ともそこまででやめにせい。・・・子猫がくわえたまんま失神しとる・・・」
正確にはまだ意識はあった。それでもトランス状態から錯乱に陥り脳が機能しなくなっているようで、何も考えられず体を動かすという意識もうせてしまっていたのだ。
 昭彦はぐったりした子猫を抱き上げて寝室へはこび、寝かせてやった。それから一度リビングに戻って、心配顔のマサと正次を帰すと、書斎から薬を持ってきた。水を口移しで何度か飲ませ、子猫の目が少し動いたのを見ると、持ってきた薬をまた口移しで飲ませた。子猫が少し眉を寄せたのを見て、
「大丈夫や。軽い精神安定剤やから心配あらへん。」 と優しく囁いた。そして子猫が寝息をたてるまでずっと子守歌を歌ってやっていた。
<18>
[悪夢]
<18>悪夢

 明け方、子猫は怖い夢を見て飛び起きた。起きてからも恐怖が続いていて息が乱れている。血の気が引いて体が冷たくなっていくように感じて、子猫は抱きかかえた膝の上に顔を押しつけた。
「どうしたんや?」
昭彦が目を覚まして子猫の背中をさすった。昭彦の手が触れた時、子猫はビクッとして体を強ばらせた。昨夜の記憶が曖昧で、いつ寝たのか、いつ服を脱いだのか、思い出せない。
「・・怖い夢でも見たんか?」
子猫が何も答えないので昭彦も起きあがって子猫を背中から包むように抱いた。
「わしがついとれば何も怖いことあるかい。・・・まだ起きるには早いやろ。もう少し寝ときや。」
子猫は昭彦の暖かい胸に抱かれて少しだけ緊張がほぐれたように思った。体の力を抜いて昭彦にもたれかかると、そのまま腕に抱かれて横になった。
「冷えとるやないか。・・寝相悪ぅしとったらあかんで。」
昭彦は軽く冗談っぽく言いながらも、子猫の肩が隠れるように布団をかけてやった。子猫は怠さを感じてすぐに眠くなってきた。昭彦の言葉に返事をする気力もなく、足をちょっと絡めると肩にもたれて目を閉じた。だが、意識が眠りに吸いこまれそうになった途端、ギロチンが真上から降ってきた。子猫はビクッと体を大きく震わせて眠りから引き戻された。
「どないしたんや?」
昭彦は子猫の肩を抱き、子猫の前髪あたりに頬ずりをしていた。子猫は力なく首を振り、また眠ろうと目を閉じた。が、やはりまた少しするとビクッと震えて目を開く。その度昭彦は子猫に聞いてきたが、子猫は夢に現れる光景があまりにもおぞましくて、言葉に出すことさえ怖かった。昭彦は深いため息をついた。
「昨夜の話が相当応えとるようやな・・」
子猫は黙ったまま小さな震える息をしていた。
「・・わしが恐ろしくなったんか?」
子猫は夢の地獄絵図に囚われてそこまで考えてなかった。ただ、恐ろしくないとも答えられなかった。元やくざだったのは承知していた。でも、足を洗って、今は堅気だと何度も言っていたのだ。今でもそんなに深い関わりがあるとは思っていなかった。それを思うと怖くないとは簡単には言えなかった。それでも、嫌いになったかと言えば、嫌えるはずがないとも思う。今でさえ体中で昭彦を愛していると疼き求めているのだ。子猫はどう答えていいか、わからないまま黙っていた。
「怖いなら怖いて正直に言うてええんやで。・・・わしかて自分を怖い人間やと思うとるんや。」
子猫は顔を上げて昭彦の顔を見た。子猫を見つめる優しい眼差しと出会い、胸がキュンと切なくなる。昭彦は子猫にゆっくりキスをしてから視線を天井の鏡に移した。
「わしが自分の中の残忍性に気付いたんは小学生の頃や。一度どれほどわしが冷酷なのか試してみよう思うて、近所の猫を捕まえて解剖したこともあった。・・フッ・・あまり詳しく言うて、また怖い夢の原因になってまうと困るし言わんとくがな。・・・その時ちっとも心が痛まんかったんや。それで、わしは自分の残忍さを自覚した。マズイやろ、と思うたで。何しろ、その頃のわしは毎晩親父を殺す計画を練ってたんやからな。子供の気晴らしかと思うとったが、このままではホンマに殺しそうや、て思うたんや。いくら何でも親殺しはあかんやろ、と理性的な方のわしが言うとった。・・それで母親と暮らしたい、て理由つけて親父から離れたんや。」
昭彦は特に子猫の言葉を待つでもなく鏡をじっと見ていた。まるでもう一人の自分と対話するように。
「母親は再婚しておったが、その連れがええ人でな、遠慮する母親の分までわしによくしてくれたんや。・・けど、母親がわしの中の残忍性に気付くのに、そう時間はかからんかった。同じ血ぃが流れとるんや。母親の中にも同じもんがあったのかも知れん。連れとの間に出来とった妹をなるべくわしの側に来させんようにしとったわ。・・・妹は父親似の穏やかぁな性格しとってなぁ・・・こんなわしを慕ってくれとったんやけどな。」
昭彦の表情が曇った。
「母親にはわからんかったんや。わしかて人の道や道徳っちゅうもんを大事に思う気持ちがあるゆうのんをな。まして親父や妹のようなええ人を傷つけたくない思いも強かったんや。・・・まぁ、評判の悪い奴等を更に顎で使うくらい悪になっとったわしを見たら、そう思えなくても仕方なかったかも知れんがな。・・・家を出て裏の世界に入ったんかて、大事な家族からわしを離す為やったようなもんや。・・・わしがわしの子供は欲しくない、言うたんはわし自身が自覚しとるこの性格のせいや。」
子猫は昭彦がそんなに残忍とは思えなかった。どうしてそこまで自分のことを悪く言うのかと不思議に感じて、昭彦を悲しい思いで見ていた。そんな子猫の気持ちを見抜いたように昭彦は言った。
「わしはわしが傷つけた相手を可哀想とは思わんのや。苦しめた相手に悪かったとも思わん。殺した相手にも済まんかったとも思うとらん。面白がる気持ちもないが、血のしたたるステーキをナイフで切り刻んで喰っちょる奴等と同じくらいの認識しかない。そこにはいかに綺麗に喰うかというマナーが存在しちょるように、わしのその行為もいかに確実で洗練されたものであったかという感覚でしか捕らえられんのや。・・おやっさん・・組長のことやが・・鉄砲玉に狙われた時かて、先に始末した後二度とそないマネをせんようにて、そいつの目玉抉って先方に送りつけてやったんやけどな、小さいスプーンしかなくて、もたついたのが失敗やったと思うくらいや。」
子猫は目を見開いて体を固くした。
「理屈ではわかっとるんや。ええことか、悪いことか。相手にかて家族はおるやろ、とかな。それでも、そーゆー世界に自分で飛び込んで来た奴や。殺るか殺られるかっちゅう時に殺る方に回ったとしてもそれは仕方ないことや。・・・けどな・・問題はそない思うこっちゃない。そない思うて自分の罪の意識を軽ぅしよう思うくらいなら可愛げもあるやろ。・・・わしはそう思うことさえ煩わしいと感じるくらい何の痛みもないんや。」
子猫は首を振った。
「嘘!・・・そんなの嘘ぉ!」
昭彦は自虐的な笑みを浮かべて子猫にキスをした。
「たまに痛感がない人間がおるのを知っとるか?・・冷たい、痒い、くすぐったい、ゆうんはわかるのに痛みだけが感じれない奴がおる。・・・わしの場合は心の痛感がないんやな。」
「そんなの・・・嘘だよぉ!絶対嘘ぉ!」
子猫は体が震えて涙が溢れてきた。
「心配せんかて、子猫を愛してる気持ちに嘘はないし、ちゃぁーんと感じとるで。ただ感じないのが心の痛みっちゅうもんなだけや。・・・まぁ・・理解しにくいやろけどな。」
「・・・わかんない・・・わかんないよぉ・・・」
「わしかて自分の不虞に気ぃつくんに時間かかったんや。同じ感覚を持っとる奴でないとよぉわからんやろな。人を愛することも悲しむ感情もあるのに・・・一方では痛みがわからん。・・・モラルもマナーも心得ちょるし、善悪の区別かてつく。義理人情かてちゃんと感じれるっちゅうのにな。・・・誰のせいでもない。環境がどうのこうのでもない。生まれた時からそうやったんや。・・・子猫のおまんこと一緒やな。」
「・・・うぅぅ・・・ますますわかんなくなったぁ・・・」
「せやからこんな危険な遺伝子は残さん方がええて、ずぅーっと思っちょったんやが・・・子猫のめちゃ痛がりな心と一緒になったら調度ええ具合になるかも知れんで。・・・わしがお前に惚れとるんは体だけやないんや。お前の痛いー痛いーて泣きっぱなしの心が可愛いてたまらんのや。泣きながらしがみつきよるんが愛しゅうてならんのや。・・・それが生まれつきのおまんこを一層強烈にしちょる。お前にきりきり締め付けられると、これが心の痛みっちゅうもんやろかと疑似体験した気にさえなるで。」
子猫はまた頭が混乱してきていた。目を閉じると大地がぐるぐる回っているように感じた。気分が悪くて体に力が入らなくなっていた。
「話が長くなってもうたな。・・・何便も目が覚めとっては休まらんやろ?ホンマはあまり使いとうないんやけど・・・また薬飲むか?」
「・・・うん・・・」
子猫はやっと頷いた。昭彦はまた書斎から薬を持ってくると口移しで飲ませてくれた。そして、薬の効果で子猫が眠りにつくまで、また子守歌を歌ってくれた。子猫は遠退く意識の中で、愛されてることだけは実感していた。
<19>
[愛の波間に揺れて]
<19>愛の波間に揺れて

 昼休み、子猫は持ってきたお弁当にはほとんど箸を付けずに、コーヒーばかり飲んでいた。川原圭子は食べ終わったお弁当箱をしまいながら、
「どうしたのぉ?元気ないじゃん。」
と笑いかけてきた。
「ちょっと・・・怠くて気分悪いんだぁ・・・」
子猫もお弁当箱をしまうことにして箸を置いた。朝方、悪夢にうなされた時、昭彦が飲ませてくれた薬のせいで、午前中ずっとぼんやりしてしまっていた。昭彦は子猫を寝かせておこうとしたらしかったが、何とか目覚めて起き出した子猫は、朝食もとらずに遅刻ギリギリで登校してきたのだった。子猫が支度する間に詰めてくれたお弁当が食べられないのは、昭彦に悪いと思いつつも喉を通らなかった。
「そっかぁ・・・出来れば今日もスポンサー回り、手伝って貰いたかったんだけどぉ・・・無理かなぁ?」
「わかんないけどぉ・・・多分、大丈夫。付き合うよ。」
「無理はしなくていいよ。猫は体が弱いんだしさ。」
「そんなに心配するほどのことじゃないから。ちょっと寝不足なだけ。」
「ほぉー・・寝不足ですか。それはそれは・・・」
圭子が意味深な笑みを浮かべて頷いた。
「なぁにぃ?」
「昨日はあれからお泊まりしちゃったんでしょう?」
「あはは・・・それは・・・内緒。」
「寝かせてくれなかったとか?」
「そんなんじゃないって。」
子猫はお弁当箱をしまってから、コーヒーをまたおかわりした。圭子だけでなく、子猫が昭彦と暮らしていることは誰にも話していなかった。
「ホント、そんなんじゃないの。」
そういえば、昨夜は一緒に暮らすようになってから初めてセックスをしなかった夜だった。あまりにも衝撃的な話にパニックを起こしてしまったからだ。思い出して子猫はまた身震いした。
「喧嘩でもしたの?」
子猫の顔色が青ざめてくるのを見て、圭子は真顔になった。
「やっぱり今日は付き合わなくていいよ。ホント、調子悪そうだもん。」
「・・・ごめんね・・・」
「私こそ悪かったなぁって・・・昨日約束あったんでしょう?心配して迎えに来させちゃって・・・ごめんね。都合悪かったら遠慮しないで言ってね。」
「あ・・うん。でも、約束ってことじゃなく・・・急に予定が変わったみたい。いつもはお仕事してる時間だもん。」
「そうなんだぁ。」
圭子もコーヒーを飲みながら興味深そうに聞いていた。
「でもぉ・・・猫の彼氏があんなに素敵な人だってぇ知らなかったなぁ。」
「クスッ、初めは正次さんを彼と勘違いしたくせにー。」
「だってぇ彼氏って言ったら、いくら社会人でもあのくらいかなぁって思うじゃん。それに彼だってイケメンだしぃ・・・」
「圭子の好みは正次さん?」
子猫は怖い話を忘れようと圭子をわざとからかうように言った。
「彼女がいなければ立候補したいかもね。・・・猫の彼氏も素敵だけどぉ・・私って大人すぎると緊張して言葉が出てこなくなっちゃうしぃ・・・だからスポンサー回りも猫に付き合って貰ってるんだしぃ・・・」
「そうなのぉ?・・何となく意外だぁ。ふふふ。」
「猫だってぇ意外だったよぉ。」
「え?・・・何が?」
「もっとぉおとなしいお嬢様かと思ってたぁ。」
「うっそぉー。」
「だってさぁ、詩とかだって可愛い感じが多いし、あまりみんなとはしゃぐってしないから。・・でも、意外と明るくてくったくないし、けっこう庶民的だったから。悪い方の意外性じゃないから安心して。ふふ。」
「そっか・・ありがと。」
「それに彼氏があんまり大人なんで、それも意外・・でもないかぁ。猫って甘えん坊って雰囲気あるもんね。だからビアン系とかおじ様系のうけがいいのかもなぁ。」
「昭彦さんはまだおじ様じゃないよぉ。まだ34歳だもん。」
「え?!・・・えぇー・・・40過ぎかと思ってたぁ・・・そっかぁ、ごめんごめん。・・・でもさぁ、雰囲気が重いって感じしない?威圧感みたいな・・・そこが魅力的なんだけど。」
「あぁ・・・あるかも・・・」
「何してる人なの?」
「んー・・・っとぉ・・・よくわかんない。」
子猫は笑って誤魔化した。確か雇われマスターだったと思うが、それだけでもないような感じがあったし、仕事のことには干渉しないように言われていたのだ。
 圭子はまだ聞きたがっていたようだったが、昼休みが終わる予鈴が鳴ったので、話を切り上げてそれぞれの教室に戻っていった。

 放課後、昇降口で圭子と待ち合わせしたものの、怠さの抜けない子猫は結局スポンサー回りはしないことにした。門のとこまで来ると、昨日のようにまた正次が車で迎えに来ていた。圭子ははにかんで挨拶したが、子猫は圭子が正次に関心があることを隠していた。正次がどんな男か、いや、どんな世界にいるかを知っているだけに、紹介するようなマネは出来なかった。
 圭子にさよならを言って車に乗った子猫は大きくため息をついた。
「元気なさそうっすね、子猫ちゃん。大丈夫っすか?」
「眠くなる薬のせいで怠いだけなの。・・でも迎えに来てくれなくて良かったのに・・・」
「ドクターが心配してたっすよ。昨夜はよく寝れなかったみたいっすね。」
「・・・怖い話は苦手なんだもん。」
「あれは俺にもキツかったからなぁ。写真なんてモロまんまで・・・あの光景が頭から離れてくれない。・・っくしょう!・・・子猫ちゃんも早く忘れちまった方がいいっすよ。」
「うん・・・そだね。」
子猫はシートにもたれかかって外の景色をぼんやり眺めていた。舗道を帰る他の生徒の横を通り過ぎながら、窓ガラス一枚隔てたこちら側には違う世界があることを感じずにはいられなかった。

 正次はマンションの玄関で子猫を降ろすとすぐに立ち去って行った。正次も暇ではなかったらしいが、昭彦が薬の残っている子猫を心配して頼んでくれたのだろう。昭彦も今日は忙しいらしくて、朝お弁当を作りながら、昼から出掛けると言っていた。一人で正次の車に乗るのは初めてで、スモークガラスの高級外車のお迎えは高校生としては場違いに思えて居心地が悪かった。高校の先生に見られてもマズイしなぁ、と部屋にむかいながら思う子猫だった。

 シャワーを浴びてバスタオルを巻いた子猫は、寝室のベッドにぐったりと横になり、天井の鏡を眺めた。赤いバスタオルの裾がはだけて薄い陰毛が見えている。そこからあまり筋肉のないひ弱そうな白い足が二本。もっと脆弱な白い腕が二本。一人では広すぎるベッドの中央で、糸の切れた操り人形のように力無く放棄されている。
 思い切ってバスタオルを広げてみた。裸体で十字架を作ると、まるで血の上に浮かび上がる蝋人形のような気がした。申し訳程度に生えてる陰毛以外には体の毛はなかった。元々毛が薄い方だったのを、昭彦がエステセットを買って手入れしてくれるようになって、ますます磨きをかけた陶器のようにつるつるで輝く肌になっていた。足の爪まで形よくカットして磨いてくれている。猫可愛がり状態は付き合い始めて半年以上経った今も変わらない。肉体関係を持ってから変わったことと言えば、昭彦の独占欲と嫉妬心が強くなったことくらいだろうか。それでも、護身用に(あるいは浮気防止に)買った貞操帯は、当初は高校へ行く時も子猫に装着させるつもりだったが、一度試してみた時、子猫が一日トイレを我慢して泣きそうに帰ったのを見て、諦めてくれたようだった。
 昭彦の事を考えていると体が疼いてくる。子猫は自覚のないまま胸を愛撫していた。丸い胸のすぐ下には二度の手術の痕がある。一部分はつれたようになって醜く歪んでいる。売り物にはならない体。(売ることはないだろうけど。)子猫は急に寂しさに襲われて、両足を胸につけるように折り曲げ、両腕でかかえ、胎児のように丸くなった。両膝に顔を隠して、小さく小さく丸まっていった。

 ちゃぷん、ちゃぷん。暖かい感触に包まれている。優しい指が顔にかかる髪を後ろへ流してくれる。そして、頬を撫で、首筋を撫で、肩を撫で、腕を撫でていく。ちゃぷん、ちゃぷん。もたれている肩と頬の間に、時折暖かい液体が揺れているようだ。
 子猫は頭を起こし、ゆっくりと顔を動かした。
「目ぇ覚めたか?」
昭彦が相変わらず、子猫の髪や頬を撫でながら言った。子猫はぼんやり昭彦の顔を見た。どうやら、子猫は昭彦に抱かれて湯船につかっているようだった。
「体冷え過ぎやで。・・・薬のせいで体温調節つかなくなってたようやな。そうかて、あないな格好で寝とるもんやないで。ちゃんと布団かけて寝ぇや。」
「・・・寝ちゃってたんだ・・・」
「意識もなかったんかい・・・やれやれ。今日は休ませよ、思うて薬を続けて飲ましたのに、無理するからそないなことになるんやで。」
「・・・ごめんなさい・・・」
子猫はそう言うと、昭彦にもう一度もたれかかった。事情がわかってホッとしたのだ。昭彦の首筋から喉仏へとキスをしていく。汗の匂いと入浴剤のジャスミンの香りが鼻孔を気持ちよく満たしていく。
「あ・・・もう、そんな時間?」
やっと頭が働いてきたようで、子猫は昭彦が帰ってきている、ということを認識できたのだ。いつも朝方に帰る昭彦がいるということは、もうすぐ夜が明けるのだろうか。
「ちゃうで。まだ、夜中前や。いっつも夜中の仕事やと心配やし、半分半分で昼間すませるようにしたんや。どうしても夜抜けられん時もあるけど、これからは一緒にいてやれる時間が増えると思うで。」
「そうなんだぁ!」
子猫は嬉しさに目を輝かせた。そんな子猫を昭彦は満足そうな笑みを浮かべて、愛しさを満面にたたえて見つめていた。
「ありがとう、あき。」
肩に腕を巻き付けて唇を重ねると、昭彦もこたえて舌を絡ませてくる。汗の入り交じったしょっぱいキスを何度も繰り返しすうちに、自然とお互いを求め合い、昭彦の腰にまたがるようにした子猫の中に、昭彦の硬直したモノがググッと入ってきた。
「ぅー・・・ん・・・ぁあぁぁ・・・あ・・・あ・・・」
体いっぱいに満たされた感覚に子猫は、体の芯が発火するような熱さを感じた。ちゃぷん、ちゃぷん。ゆっくりした動きにお湯が揺れて、跳ね返る。ちゃぷん、ちゃぷん。浮力で浮き上がりそうな体を繋ぎ止める錨のように、昭彦のモノは子猫の奥深くまで密着し離れない。
「ああぁぁ・・・あきぃ・・・愛してるぅ・・・」
ゆっくりじんわり感じながら、子猫は昭彦への愛を噛みしめていた。昭彦にどんな過去があろうとかまわない。昭彦が冷酷な鬼であったとしてもかまわない。今、こんなにも優しく自分を愛してくれている、最愛の男なのだ。こうして共にいられることが、こうして繋がって感じ合えることが、最高に幸せなのだ。昭彦の愛を信じてついていけばいい。ちゃぷん、ちゃぷん、と揺れるお湯の中で、昭彦という船を漕ぎながら、のぼせていく頭は昭彦の全てを受け入れていた。
「子猫・・・最高の女や。・・・わしの最後の女や。・・・死ぬまで離さへんで。死ぬ時は一緒や。・・・愛してる。愛してる。全身全霊で愛してる。」
昭彦は燃えさかる情熱を堪えようと苦渋の顔で喘ぐように呟いた。ちゃぷん、ちゃぷん、と揺れながら、二人はぎりぎりの限界まで快感に浸り、求め合った。愛の波間に漂う二人にはもはや神も悪魔も入り込めないようにさえ思えるのだった。全ての善と全ての悪が混沌の闇で入り乱れ、溶解し蒸散していくように思えた。揺れる波間で二匹の淫魔は絡み合って、めくるめくアクメの中をうねるように昇っていった。
<20>
[警察]
<20>警察

 中間テストは5月の下旬にある。それが終わればすぐに文化祭になってしまう。進学校だけあってみんなテスト勉強の時間はしっかり確保したい。となると5月の連休中にある程度の展示物を作成しておかなければ間に合わない。つまりそれまでに各自調査することになっている分担のレポートはきっちり仕上げておくように。と、副部長の川原圭子は厳然と命を下した。  子猫の担当は警察である。
「ごめん。本当は付き合ってあげたいんだけど、1年の子達は初めてでわかってないから、引率して図書館行って教えながらまとめなきゃならないの。一応警察へは顧問から取材の許可取って貰ってあるし、訪問日時も決めて貰ったから、後は少年課の上田さんって人のとこ行けばいいだけなの。取材の趣旨内容も話してあるから、行くだけでいいんだし、ひとりでも大丈夫でしょう?ま、魅力振りまいて頑張ってね。」
と、圭子は軽く肩を叩いた。後ろめたいことがなくても警察署は行きにくい場所である。しかも、子猫の場合、保護観察中で前科三犯の元やくざと不純異性交遊をし、現役やくざとお友達関係で、未認可の薬をたまに飲んだりして、思いっきり後ろめたいのだ。気が滅入ってくるほど荷が重い。けれど、圭子にきっぱり宣告されては逃げようもなく、子猫はため息まじりに力無く笑うしかなかった。

 土曜日の放課後、子猫は一度マンションに戻って鞄を置くと、制服姿のまま警察へ向かった。制服ならすぐに取材と察して貰えるだろうし、子猫も一種の鎧を纏っているように思えた。これは取材なのだ、高校生としての課外活動なのだ、と言い聞かせながら、早鐘のように打ち付ける胸を落ち着かせる努力をしていた。
 それでも、いざ警察署の前に立つとなかなか入る勇気が出てこなかった。思っていたよりも人の出入りは多かったが、時々物々しそうな人の行き交いがあると気後れてしまう。子猫の脇をサイレンを鳴らしたパトカーが通り過ぎると、立ち眩みしそうなほど心拍が上がっていた。
 約束の時間が迫ってきたので仕方なく、子猫は勇気を振り絞り警察署の玄関を入っていった。制服を着た警察官があちこちにいる。枠で囲った向こうは広いフロアに机がたくさん並んでいたが、子猫には何処が少年課なのか、すぐにはわからず戸惑っていた。振り絞った勇気もすぐに消えてしまっていた。場違いな侵入者を伺うような視線が投げられている気がしたが、確認することも出来ずにいた。
 そんな子猫に中年の婦人警官が近付いてきた。
「どんな御用かしら?」
子猫はビクッとしてその女性の顔を見ると、穏やかな笑顔を子猫に向けていた。
「あ、はい!高校の取材で、少年課の上田さんという方にお話を伺いに来ました。」
「そう。約束してあるの?」
「はい。確か・・・そうかと・・・」
「じゃぁ、ちょっと待っててね。今、確認するから。」
女性は優しくそう言って、近くの事務仕事をしていた人に何事かを指示した。子猫はドキドキする胸を押さえながら血の気が引くような寒気を感じながら待っていた。それほど時間的な経過はなかったと思うが子猫には居心地の悪い長さだった。
 中年の婦人警官は子猫の方に振り返ると、ニコッと笑って、
「確認取れました。待ってるそうよ。案内するわね。」
と言って、子猫に並んで二階へと連れて行ってくれた。案内されたのは小さな部屋がいくつか並んであるうちの一つで、中は簡単な応接セットがあった。上田さんの姿はまだなかったが、
「すぐに来るそうだから、ちょっと待っててね。」
と言って子猫に座るよう促し、婦人警官は立ち去っていった。
 ほどなく、上田さんらしい人物がコーヒーを三人分トレイに乗せた若い婦人警官を伴って部屋に入ってきた。
「やぁ、ご苦労さん。私が上田、彼女は部下の青木婦警だ。ははは、若い子と二人っきりになるのも失礼だと思ってね。彼女に同席して貰うことにしたんだ。」
上田さんは屈託のない笑顔で気さくに話しかけてくれた。子猫は緊張しながらも、少しホッとして、
「よろしくお願いします。文芸部の夢野子猫です。この度は取材に応えて頂きましてありがとうございます。」
と立って挨拶をした。下げた頭を上げて上田さんを見ると、うんうん、と頷いていた。そして子猫に座るようにと手を差し出した。若い婦人警官はコーヒーをテーブルに置くと、少し離れて座った。チラッと子猫が見た時、視線が合ってしまったが、その婦人警官も優しそうな笑顔を浮かべていた。
 そうなのだ。何も警察は怖い所ではないのだ。後ろめたい者や敵意を抱く者だけが警戒し脅威を感じるのだ。子猫は必要以上に怖がるのは不自然なのだと腹をくくり、ごく自然な態度で相対するように努力した。質問する内容は圭子がメモ帳に箇条書きにしてくれていた。子猫はそれを聞いて、メモをとればいいだけなのだ。
 上田さんは終始和やかに、愛里がメモを取る時間も見てくれながら、親切丁寧に今の未成年犯罪の悪質化と蔓延する誘惑の危険性について説明してくれた。そして警察でも資料として取り上げ紹介している関連の本等も見せてくれた。一通りの取材を終えると握手までしてくれ、若い婦人警官が玄関まで送ってくれるといった親切さだった。
 子猫は警察署の敷地から出ると大きく息をついて笑顔になった。後は模造紙に書き写す為の下書きをレイアウトを考えながら作れば、取り敢えずの責任が果たせるのだ。圭子に相談して今紹介された本も展示するようにすれば効果があるかも知れない、と考えながら歩きだした。

 帰りに買い物をして、マンションに戻った子猫は、気の重い責任を果たせた嬉しさで、珍しく歌を口ずさみながら夕食の支度をしていた。今日は早めに帰ると昭彦も言っていたので、一緒に食事が出来る、と腕を振るっていた。
と、マンション入り口の呼び出しフォンが鳴った。セキュリティーシステムで小型画面に顔が映る。そこにはうつむきかげんの正次がいた。
「あれぇ?正次さん?どぉしたの?」
正次はハッとしたように顔をあげると苦笑した。
−「ドクターはまだっすか?今夜こっちに来るように言われてたんすけど。」
「もうすぐかなぁ?・・・早めに帰るって言ってたけどぉ・・・」
−「ちょっと早く来すぎちゃったみたいっすね。・・・どうすっかなぁ・・・」
「なぁに?」
−「いやぁ・・ちょっと車を修理出してて友達に送って貰ったんで・・・」
「そっかぁ。じゃぁ上がって待ってれば?」
−「いいっすかぁ?またドクターに叱られないっすかねぇ・・・」
「だってぇ、仕方ないじゃん。大丈夫だよぉ。」
−「そうっすか?・・・じゃぁ・・・」
正次はあまり気乗りしない様子だったが、上がって待つことにしたようだった。子猫はマンションの玄関のロックをはずした。
 ほどなく部屋の方のチャイムが鳴り、子猫は玄関のドアを開けに行った。自動ロックなので鍵がないと入れないようになっているのだ。腕を振るった料理は少しでも多くの人に食べて貰えると嬉しいものだ。昭彦だけでももちろん嬉しいが、自分では友達を作れない子猫は、たまに賑やかな食事も楽しいと感じていた。きっとマサさんは昭彦さんと一緒に来るのだろう、と思いながら、笑顔でドアを開けた。
 と、そこに立っている正次の両脇から知らない男が二人正次を押しのけるようにして入ってきた。子猫は訳がわからず、呆気にとられていた。男達は、
「ちょっと一緒に来て貰おうかぁ?」
と凄味のある声で言うと、子猫の腕をつかんだ。
「乱暴に扱うなよ!後でドクターが怒るぞ!」
正次が声を荒げて言う。
「え?・・・どーゆーこと?」
「ええから来いっちゅうとんじゃ!」
男はそのまま子猫を連れて行こうとする。
「ちょっと待って下さい。今、料理してて火がつけっぱなしだから。」
電磁調理器を火と言えるかはわからないが、そのままにすれば焦げるのは同じだろう。
「正次。お前が残って留守居してろ。」
「・・・うっす。」
「え?正次さん?」
正次は苦しそうな顔で子猫の視線から顔を背けた。二人の男は子猫を挟むようにして部屋を出た。子猫はもがいて後ろを振り返ったが、無常にも自分のいるべき部屋のドアはゆっくりと閉まっていった。その時ハンカチが口に当てられたかと思うと目が霞み、意識が遠退いていった。

 強烈な異臭に咳き込んで意識を戻した子猫は、しばらく自分がどうなってるのかがわからなかった。息苦しさに周囲を認識する余裕がなかった。
「おう、水を持ってきてやれや。」
「おやっさん、こんなガキに気ぃ使うこたぁねぇっすよ。」
「ええから言われた通りにせんかい。ボケェ!」
「す・・すんません!」
子猫は咳き込みながら、焦点の定まらない目で声の方を見た。何処かの居間だろうか?ゆったりとしたソファーに年輩の男が座って子猫を見ている。男の背後には数人の男が立っていた。子猫はまた激しく咳き込んで下を向いた。毛足の長い絨毯が目の前にあった。子猫はどうやら絨毯の床に寝かされたらしい。子猫の背後にも数人の男がいるようだった。子猫は半身起きあがったが、激しい頭痛にまた床に崩れるように突っ伏した。
「おらおらおらぁー!しゃんとせんかい!」
背後で太い声が子猫に降りかかる。
「そう、脅さんでええ。」
また年輩の男が言った。ほどなく水を入れたコップが持ってこられ、子猫の前に出された。子猫はどうにか起きあがり、座り込んだ状態で水を飲んだ。少しずつ水を飲みながら息を整えていくのを、年輩の男はじっくりと眺めていた。さほど大柄ではなかったが貫禄を感じさせる体型で重厚な雰囲気があり、薄くなった頭頂部がシャンデリアの細かい光を反射させていた。
 子猫が落ち着いたのを見て、年輩の男が声をかけた。
「それで、お嬢さんに来て貰ったんはなぁ・・」
ゆっくりと諭すような話し方だった。子猫は姿勢を正して正座すると真っ直ぐに向き合うように見つめた。その様子に男の口元がフッと和んだように見えた。
「今日お嬢さんが警察に行ったのを見たって言ってる奴がおってなぁ・・」
「はい。」
子猫はそれがどうしたのだろう?と不思議そうな顔で男をじっと見ていた。
「そのことは認めるんだな?」
「はい。」
周囲の男達が殺気立つ気がした。でも、子猫はどうしてそれがそんなにいけないことなのかがわからなくて、困惑の表情になった。
「何で行ったのかな?」
「え・・部活動で・・・」
「あ?」
「高校の文芸部の部活動で・・・」
子猫はまた咳をして残っていた水を飲んだ。
「誤魔化しはいかんやろぉ?」
横からまた太い声が脅すように言ってくる。子猫は泣きそうになって口を尖らせた。周囲の男達は子猫がとんでもない失態をしたと思いこんでいるようだった。唯一話がわかって貰えそうなのが詰問をしている男だけのように思えて、子猫はひたすら男の目を見て訴えかけた。年輩の男は苦笑して、
「どうゆうことか、ちゃんと説明して貰わないことにはなぁ?」
と言った。子猫はまた水を飲んで息を整えると、部活動と今日の取材の内容を説明した。説明が進むにつれて次第に表情を固くしていった男は、説明が終わって残っていた水を飲み干した子猫から視線を反らして横の誰かを睨んでいた。
「言い訳じゃないっすか。最近のガキは口がたちやがる。締め上げねぇと本当のことなんて言わねぇっすぜ。」
睨まれた男は子猫に近付こうとした。
「やめんかい!」
怒声が飛んだ。轟く声に部屋の中がシンとした。子猫もビクッとして、今まで頷きながら聞いてくれていた男の変貌した表情を恐々と見つめた。それに気が付いた男は苦笑しながら表情を和らげ子猫に近付いてきた。
「すまんかったなぁ・・・どうも誤解があったらしい。」
と、子猫の体を支えるようにして立ち上がらせると、ソファーの方に抱きかかえるようにして連れていき、座らせてくれた。
「おやっさん!簡単に信じるもんじゃありやせんぜ!前の女だってさんざんいい加減なことをぬかしやがってたじゃないっすか!」
「本当かどうかも見ぬけんでどうする?それ程疑うなら・・おい、正次が部屋にいるんだったな?・・この子がメモしたってノートを持ってこさせろ。・・お嬢さん、悪いが疑いを消せない奴等もいることだし、メモを見せて貰えるかな?」
「あ、はい。」
子猫はメモ帳のしまってある場所を言った。男は元のソファーに戻るとあらためて自分が組長であることを子猫に言った。組長は子猫に飲み物を持ってくるように立っていた男に指示し、
「おい、誰かケーキ買ってこい。」
と言って子猫に笑いかけた。それから、正次にも連絡をするように言って、困ったようにため息をついた。
「まいったな。こちらの早合点でドクターを怒らせる結果になってしまった。お嬢さんにもすまんことをしたなぁ。・・・やれやれ・・・面倒なことになったもんだ。」
子猫は周囲の急変した様子にまた戸惑いながら、この人が昭彦の言っていたおやっさんなんだぁと納得をした。そして、もうどうでもいいから早く帰して欲しいと内心思った。

 子猫が希望したミルクティーを飲んでる間にケーキが届き、とても食べきれない程子猫の前に並べられた。他にもフルーツの盛り合わせ等も組長が持ってこさせ、あれこれと薦めてくれた。子猫は手をつけないのも失礼かと思い、小さめのケーキを選んで食べ始めたが、まだ頭痛と吐き気と咳き込み過ぎた喉の痛みで味は全然わからなかった。
 部屋の外が騒然とした。何かを叫ぶ声も聞こえた。組長は一瞬眉間にしわを刻んで目を閉じた。子猫のいる部屋のドアが乱暴に開けられ、昭彦が現れた。子猫は嬉しくて涙ぐんで立ち上がろうとした。が、昭彦に続いて数人の男達がなだれ込み、組長も立ち上がったので、子猫は昭彦のそばに駆け寄るチャンスを逸してしまった。
 昭彦の目は氷が燃えてるような冷たい色をしていた。手には子猫のメモ帳を持っている。それを組長が立っている前のテーブルに投げ出して、
「これが証拠のメモ帳や。どや?文句あるか?」
と冷たく言い放った。
「まぁ、そう怒らんでくれ。運悪くお嬢さんを警察で見かけちまった奴がいて勘違いしちまったようだ。怒る気持ちはわかるが・・・」
昭彦は組長の言葉を無視するように脇を通り過ぎると、子猫の前まできて抱き締めた。
「すまんかったな。怖かったやろ?可哀想な思いをさせてもうたで。」
と子猫の髪を撫でてキスをした。子猫はその場の異様な雰囲気を感じていた。その場に居合わせた男達や組長さえもたった一人の昭彦を恐れているようなのだ。昭彦の次の行動を待つようにまんじりともしない空気があった。子猫は泣きたい気持ちでいっぱいだったが、それが昭彦を逆上させてしまうかも、と思うと泣くことが出来なかった。
「あ・・でもケーキ御馳走になったの。」
子猫の言い方はまるで客としてお呼ばれされたようなのんびりした響きがあったらしい。
「何寝惚けたことをゆうとんじゃ。誘拐されたっちゅうのをわかっとるんか?」
昭彦は抱き締めていた腕を緩めて子猫の肩を優しくつかむようにして顔を覗き込みながら言った。
「え?・・・そうなの?」
一層無頓着な言い方だった。怖くなかったはずがなかった。ただ、何故か昭彦がきてくれるという確信があったし、昭彦が来てくれれば問題はすぐに解決するように思っていたのも確かだった。そうした思いが頭を巡ると嬉しくなって、子猫は照れたような笑顔になった。
「いや、ドクター。誘拐と思わんで貰えんかなぁ。ちょっと説明を聞こうと思うただけでな。」
「正次を使うて騙し、無理矢理連れて行くんが誘拐やのぉて何やっちゅうねや?しかも、わしに事前に洩れんように、マサを県外の用事言うて遠ざけるっちゅうマネまでさらしとるやないか?」
「しかしなぁ、時が時だっただけに・・・それはわかってくれんかなぁ?」
「あかん。」
「ドクター・・」
「いや、この子の前ではそっちの話はせんといてくれやっさ。この子にはわしの仕事は一切言うちょらんのや。」
「あ・・ああ、わかった。そうだったんか。いや、ますます悪いことをした。」
昭彦は子猫がひとまず無事だったことで、少し落ち着きを取り戻してきたようだった。
「このことは後できっちり話つけさして貰います。納得いかへん時はわしは今後一切の協力はせんと思うちょってくれやっさ。おやっさん。」
「・・・うむ・・・」
「今日はこの子を早く連れ帰ってやりたいんで、これで失礼しますわ。」
昭彦は子猫を抱き上げると、遠巻きに様子を伺っていた男達を冷たく見回した。昭彦の体から発する威圧感で男達は押し退けられるように後ずさりした。昭彦はもう一度視線を回すとゆっくりした足取りで部屋を出ていった。



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