子猫白書
| <56> [対峙] |
<56>対峙 第二第四土曜日は学校が休みになっていた。土曜日には部活動をする部もあったが、子猫は文化系を選んでいたので特に参加する予定もなかった。それで、家の用事を朝早いうちに終わらせると、萩原の借りてくれているマンションに出掛けてきた。萩原とは夜に会う約束になっていたが家にいるよりもこっちの部屋にいる方が気持ちが開放される気がした。子猫は窓を開けて新鮮な春の空気を部屋に入れると、掃除や片づけをした。天気が良かったので布団を干し、シーツとカバーを近くのコインランドリーで洗濯することにした。そのコインランドリーはすでに何回か利用していたので、もう何の抵抗もなく普通に利用出来た。 乾燥が仕上がるのを待つ間、並びのコンビニで買い物をしていると、隣りの部屋にいた大学生が入ってきた。 「あれ?おひさしぶりです。」 「やぁ、またきてるんだぁ。もう定住?はは。」 「違いますぅ。休みだからお掃除とか・・洗濯しにきたんですぅ。」 「そかそか。」 「え・・っと・・・まだ、あそこにいるんですか?」 「いや。やっと先輩が部屋を開けてくれたから、そっちに引っ越したんだ。」 「そうですかぁ。良かったですね。・・それじゃ・・何でここに?」 「そのアパートもここの近くなのさ。この辺は学生が多いんだよ。」 「あぁ・・そうなんだぁ・・・」 「それに俺、ここのバイトだから。」 「えぇ・・・知らなかったぁ・・・」 「部屋に籠もってばかりいると世間が狭くなるぞ。あっは。」 意味ありげに笑う大学生に子猫はちょっと口を尖らせて見せた。 「はは。でも、マジここでバイトしてるから、これからはもっと買い物にきてくれよな。」 「なんでぇ?」 「俺が会いたいし・・ははは。」 「エッチィ・・・」 「何でそうなるんだぁ?ププッ・・・やっぱ君って面白い。でもあの部屋を出たのはホッとしたような・・とぉーっても残念なような複雑な思いだなぁ。」 「やっぱりエッチじゃん。」 「あたりかまわず派手によがり声出してる方が悪いんじゃんか。」 「しぃー、しぃー、しぃー。・・・っもぉ・・・」 子猫は焦って人差し指を唇にあててみせながら睨んだ。 「おっと・・ごめん、ごめん。」 「悪いと思ったら、何かサービスして。」 「無茶言うなよ。商品は私物化出来ないくらいわかるだろ?」 「じゃ・・・何か奢って。ふふ。」 「しょうがないなぁ・・・じゃぁソフトクリーム俺の軽い財布から出してやるよ。」 「わぁーい。サンキュ。」 子猫は買い物の精算を済ませた後も奢って貰ったソフトクリームを舐めながら、しばらく大学生と話をしていた。大学生は一度奥へ行ってコンビニの上着を羽織ってくるとレジで子猫を相手にしていた。が、混んできたこともあって、子猫はそれじゃ、とコンビニを出てコインランドリーに戻った。洗濯物はもう乾燥まで出来上がっていた。 部屋に戻ってシーツとカバーにアイロンをかけた子猫はフゥっと息をつき、絨毯に寝転がってコンビニで買った雑誌を眺め始めた。ペットボトルのお茶を飲みながら、サンドイッチを食べようか迷っているところで、ドアがノックされた。誰だろう?と心当たりのないまま生返事でドアを開けて、子猫は息を飲んだ。 「こんにちは。・・少しお話がしたいんだけど。」 そこに立っていた女性は子猫の返事を待たずにドアを奪うように開けて中に入ってきた。子猫は数歩後ずさりして呆然としていた。 「こんなとこまで借りて・・・」 女性はドアを閉めて部屋にあがると、部屋の中を汚いものでも見るように眺めまわし、干してある布団に気が付くと表情を険しくした。 「・・・何か・・・御用ですか?」 やっと言葉を発した子猫に女性は冷たい視線を投げかけた。無理もないだろう。その女性は萩原の妻だったのだ。一度だけデパートで萩原と一緒にいるところを見ていた。30歳は過ぎていたが華やかな美人だった印象が残っている。今、目の前で子猫を睨んでいる彼女は、いくらかやつれたようにも見えたが、充分に美しさは保っていた。 「座って話ましょう?・・このソファーにかけていいかしら?」 「あ・・どうぞ・・・」 小さめのソファーに腰掛けた可奈子から少し離れて、子猫は絨毯の上に正座した。どう言えばいいのだろう、何を話せばいいのだろう、萩原は自分との関係を奥様には話していないはずなのに、と子猫はうつむいて考えを巡らせていた。緊張で強ばる背中を冷たい汗がつたう。 「どんな話かはもうわかってるでしょう?」 可奈子の声はため息まじりだった。子猫は膝の上の手をギュッと握りしめた。 「別れたって言っておいて・・・本当に困った人・・・」 それは子猫が答えることではないように思えて黙っていた。 「今さら隠そうとしても無駄よ。ちゃんと調査して証拠もあるんだから。第一ここを知ってるってことがもうみんなわかってるってことなんだもの。」 「そうですか・・・」 だからどうだと言うのだ。子猫の心が次第に冷たく凍っていく。 「あなた、自分が何をしているか、わかってるの?」 「何を・・・ですか?」 子猫は顔をあげて可奈子の視線を見返した。恋をしているだけだ、と言いたかった。 「やっと高校生になったんですって?・・ったく恐ろしい。中学生のくせに大人を誘惑して平和な家庭を壊すのがそんなに楽しいの?どうかしてるわね。」 可奈子の言い方は一方的でとても話し合いになるとは思えなかった。子猫はまたうつむくと小さくため息をついた。 「主人が若い子と遊ぶのは知ってたのよ。でも、それは仕事がらみで、・・・何より家庭を一番大事にしてくれていたし、知っていても敢えて黙っていたの。なのにあなたは遊びのルールを破って家庭の領域まで侵略してきたわ。これはもう黙って許してる訳にはいかないの。」 勝手な言い分だと思った。が、自分に罪がないとは言えない子猫は言い返したい言葉を飲み込んだ。 「主人は子供をとても愛してるのよ。家庭だって大事にしてる。・・・今はあなたに騙されているかも知れないけど・・・あなたの価値なんて制服を着ている間だけじゃない。」 ズキッとする言葉だった。子猫は奥歯を噛みしめて耐えようとしていたが、押さえられずに涙がポトポトと落ちてきた。 「私、主人を愛してるの。主人だって私を愛してくれているわ。・・・あなたにどう言ってるかは知らないけど・・・昨夜も激しく抱いて・・・二度も私の中で燃焼したのよ。」 子猫は頭に血がのぼり、耳鳴りがしてきた。体がガタガタと震えてくる。夫婦である以上その関係が気になってはいたが、ずっと考えないようにしていたのだ。それをつきつけられて子猫は激しい嫉妬と焦燥で目眩を感じていた。 「あなたのしていることは犯罪なのよ。しようと思えばあなたを訴えることだって出来るのよ。・・・そうなれば、せっかく入った高校も退学になるだろうし、あなたのお母様も世間の恥さらしになるでしょうね。」 そんなことはどうでもいい、と叫びたかった。でも、母親にまで迷惑をかけると思うとやはり言えなかった。何も言えない子猫を可奈子は見下し、勝ち誇ったように言った。 「別れなさい。ルールを守るうちなら私もことを荒立てるつもりはなかったけど・・・あなたのことはもう絶対に許す訳にはいかないの。あなたも高校生になって責任ってことがどうゆうものかはわかっているはずよね?・・・あなたのせいで・・・子供を産めない体になったのよ。・・・もう・・違う行き方は私には出来ないの。これ以上私の人生を壊さないで。これ以上ボロボロにしないで頂戴。」 子猫は正座したまま体を前に屈めて頭を絨毯に擦りつけた。頭を抱えるように祈るように両手をすぐ上で固く握りしめて泣いた。祈りを捧げるイスラム教徒のような姿勢のまま子猫は体を震わせて泣き続けた。 「泣いたって罪は消えるものじゃないわよ。別れなさい。もう、それしかあなたには選択肢はないのよ。」 可奈子の声が冷たく頭の上から突き刺さる。それでも子猫は別れるとは言えなかった。 「別れるって約束しなさい。・・でなければ今度はあなたのお母様のとこで言わせて貰うわよ。あなたみたいな子を放置している親にだって責任はあるんだから。」 子猫は呻くように泣いて抗議した。 「嫌らしい。泣いて誤魔化さないで欲しいわね。そんなに苦しんでるふりしたって・・・私の方があなたの何十倍・・何万倍も苦しんでいるのよ。」 そうかも知れない。そうなのだろう。妻としてこれほど悲しいことはないだろう。母親としてこんなに苦しいこともないだろう。そして女としてこれ以上に辛いこともないだろう。その原因が子猫だと言うのも仕方ない気がした。子猫には何も言い訳出来なかった。それでも、どうしても別れるという言葉は言えなかった。 可奈子はどうしても子猫の口から別れるという言葉を聞きたいらしい。子猫がひたすら口を閉ざしているのが気に入らないようで、何度も同じように責め立てては答えを迫った。子猫は屈み込んだまま泣くことしか出来なかった。もう、顔をあげて可奈子を見ることは恐ろしくて出来そうもなかった。耳鳴りと目眩で吐き気を感じながら、帰ってくれ、と祈り続けた。と、携帯が鳴った。萩原は会社を出る時に電話すると言っていた。もう、そんな時間だろうか、と顔を上げると可奈子が携帯の鳴っている方に立ち上がって行こうとしていた。 「ダメェェェェーー!」 子猫は悲鳴に近い声で言いながら立ち上がると、可奈子より先に携帯をつかんだ。 「よこしなさい。どうせそれは主人のものじゃないの。」 可奈子は子猫から取り上げようとつかみかかってきた。 「ダメなのぉぉーー!」 「渡しなさい!契約してるのもお金を払ってるのも主人なんだから、あなたに使う資格なんてないのよ!」 「いやぁぁぁーー!」 もみ合う間に携帯の呼び出しが途切れた。 「渡しなさい!この泥棒猫!」 「ダメェェェーー!」 子猫は携帯を胸に抱えるようにして抱き締め、屈み込んだ。可奈子は近くにあった雑誌を鷲掴みにすると子猫を叩き出した。 「何て子なの!何てずうずうしい子なの!」 「いやぁぁぁーー!」 子猫がかすれた声で叫んだ時、ドアが開いて二人の男が部屋に飛び込んできた。一人が叩き続ける可奈子を羽交い締めにして押さえ、もう一人が子猫を助けるように抱き起こした。 「大丈夫か?」 それはコンビニでバイトをしている大学生だった。彼は子猫を可奈子から離すようにしてベッドに寄りかからせると、可奈子に向かって言った。 「いい加減にしろよ。この子だけの責任じゃないだろ?」 「何なの?あなた達は誰よ!離しなさい!」 「奥さんが暴力を振るわないと言うなら離しますよ。」 可奈子を押さえている男は子猫も知らなかったが雰囲気から見て同じ大学生のようだった。 「関係ないのに立ち入らないでよ!離しなさいったら!」 「僕は彼女とは友達なんでね。関係なくはないし・・関係ないとしても見過ごせないな。」 「何て汚い子!主人以外にも男がいるなんて!最悪だわ!汚れてるわよ!」 「勝手なことを言うな!友達だって言っただけだろ。はっきり言えば隣りの住人だよ。あんたの方が近所迷惑なんだよ。」 可奈子が言葉の攻撃に変えたのを見て、可奈子を押さえていた方の男が手を離し、子猫の側で守るように立っている彼に並んだ。 「悪いことをしてるのはその子なのよ。ここは主人が借りている部屋だし、その子が持ってる携帯は主人の物なの。権利は妻の私にあるのよ。」 「殴りかかる権利もあるって言うのか?え?」 「何も知らない部外者が口を挟まないでよ。私がその子にどんな酷い目に遭わされてるか知らないくせに。」 「知りたくもないね。あんたと関わりのある旦那がいないとこで一方的な言い分だけ聞かされたって公平とは言えないし、くだらないさ。それにこの状況であんたがこの子に暴力を振るってたのは間違いない行為だしね。」 可奈子は唇を震わせながら二人の大学生を睨んでいた。子猫はしゃくりあげながら肩で息をしていた。胸の携帯が薄暗くなっていく部屋で明かりを灯していた。 「ん?・・・携帯・・・通話になってるんじゃないか?」 初対面の方の男が気が付いたように言った。子猫はハッとして携帯を耳にあてた。可奈子の顔が青ざめていくようだった。みんな子猫が何を言うのかと待っていたが、子猫は体も息も震えて何も言葉が出せないようだった。 「ちょっと貸して。・・大丈夫だよ。すぐ返してあげるからね。」 コンビニの学生の方が子猫の前にしゃがんで携帯に手を出してきた。子猫は不安そうに顔を見上げたが、彼の優しい笑みに警戒を解いて、そっと携帯を渡した。 「もしもし。聞こえてますか?・・・はい。・・・そうです。隣りの・・・はい。・・・いえ・・・友達がここの前を通りかかったら責め立てる声と泣き声がしてたそうで、僕のところにどうしようかと言ってきたんです。僕の部屋にはよく遊びにきていた奴だったので、だいたいの状況は知ってましたし。・・・ええ、そうです。・・・それで彼女では危なっかしかったので来てみたら・・・そうです。・・・はい。・・・はい。・・・いえ、大丈夫です。・・・はい。わかりました。・・・それはやめた方が・・・奥さんがまた逆上しますよ。・・・そうですね。・・・はい。お待ちしてます。」 彼は携帯の通話をそのままにして子猫に渡した。それから可奈子の方を向いて、 「今こっちに向かってるそうです。」 と静かに言った。可奈子は唇を噛んで、携帯を握っている子猫を睨みつけた。 「ここにおたくの旦那さんが来るまで彼女を見てやっていて欲しいと頼まれましたので・・ここにいる理由が出来ましたね。」 「携帯を渡しなさい。私が直接主人と話しをするわ。」 「話しなら旦那がきてからでいいじゃないか。まぁ、落ち着いて座って待ってたらどうですか?」 「主人は私と話したいって言ったんでしょう?」 「いや。・・・彼女と話したいとは言ったけど・・・」 「何て嫌らしい子!汚らわしい!醜い悪女!」 「だからぁ・・いい加減にしろよ!文句なら旦那に言ってくれ。俺達はあんたの愚痴を聞く気はないんだ。」 可奈子は悔しそうに何度か地団駄を踏んだが、ソファーにドカッと座ると、ワァーッと泣き出した。子猫はビクッとして耳を塞ぐ。二人の学生は顔を見合わせてため息をついた。 「もう窓閉めないと寒いな。」 一人が言うのに従ってもう一人も、 「そうだよな。あぁーあ、布団冷えちゃったんじゃないか?」 と言いながら布団を入れてくれて窓を閉めた。 萩原が部屋に駆け込んでくると、一度は小康状態になっていた可奈子がまたヒステリックに泣き声をあげた。萩原は眉間に苦渋のしわを刻んで可奈子の肩に手を置いてたしなめた。子猫は震えながらほとんど無表情にその様子を眺めていた。ホントは泣いてすがって甘えたかった。萩原の温もりに包まれて何もかも忘れてしまいたかった。でも、奥様の前で甘える資格はないことを子猫は承知していた。 とても話し合いは持てる状態ではなかった。可奈子は壊れていたし、子猫は疲れ切って放心してるように見えた。仕方なく可奈子を自宅に連れて帰ることにした萩原は二人の学生に小遣いを渡して子猫を家まで送ってやって欲しいと頼んだ。コンビニの彼が金なんかいらない、と言うのをもう一人が、 「まぁ、貰っておこう。その方が彼女も彼も安心するだろう?」 と言って納めた。 萩原は何とか子猫と話をしたがっていたが、萩原が少しでもそばに行こうとすると可奈子が激しく身をよじって泣くのでどうしても話しかけることが出来ずにいた。二人の学生は、これ以上ここにいるのは両方の女性を辛くさせるだけだから、と先に子猫を連れて部屋を出ることにした。 部屋を出る時頼んだタクシーが割とすぐにきてくれたので、子猫はホッして乗り込むと行き先を告げた後、ぐったりとシートにもたれて目を閉じた。指定した家の近くの公園で子猫は二人の学生にお礼を言ってタクシーを降りた。家まで送ると言ってくれるのを、大丈夫だからと言って、そのまま別れた。子猫は二人を乗せたタクシーが角を曲がって見えなくなるまで小さく手を振って見送っていた。それから、しばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、ため息とともに肩を落とすと重い足を引きずるように家へと歩きだすのだった。 |
| <57> [彷徨う愛] |
<57>彷徨う愛 ほとんど眠れないままに日曜日の朝を迎えていた。萩原からは何の連絡もなかった。が、あの状況では連絡出来ないのも無理はないと思っていたし、そのことが萩原への信頼を失うことにはならなかった。ただ、辛かっただけ。 萩原の奥様が言ったことに子猫は何一つ言い返せるものがなかった。感情論は別としても、自分が家庭のある人を愛した結果がもたらした当然の報いと思えた。こんなにも人を傷つけたのだと見せつけられて、子猫は自分の罪深さに脅えた。 朝食を食べる気持ちになれず、窓から外を眺めていて母親が庭の草むしりをしているのに気が付いた。そこにも傷ついた母親がいる。子猫は服を着替えて降りていくと一緒に草むしりを始めた。母親は子猫が手伝い始めたのを見ると、 「じゃぁ、後はお願いね。」 と、いつものセリフを残して家の中に入ってしまった。しばらくすると身支度を整えた母親が出掛けて行った。子猫は独りぼっちで午前中いっぱいかかって庭の草むしりを終えた。 シャワーで汗を流し、ヨーグルトをキッチンで食べていると家の電話が鳴った。出るとそれは萩原からのものだった。 「え・・・どうしたの?」 −「どうしたって・・・ずっと携帯にかけているのに出ないから心配になったんじゃないか。」 「あ・・・ごめんなさい。ずっと庭にいたから・・・」 −「何してたんだ?」 「草むしり。芝生のとことかは手でとらないと綺麗にならないから時間かかっちゃって。」 −「そうか・・・偉いね。・・それで・・もう済んだのかい?」 「うん。今シャワー浴びて休んでるとこ。」 何でこんなに普通に話せるのか子猫は自分で不思議だった。朝、部屋で一晩中電話を待っていた時にやっとかかってきた電話だったら、泣き出していたかもしれない。 −「お母さんは留守なのか?」 「うん。どうして?」 −「いたら家の電話はおかあさんが取るんだろう?」 「・・かなぁ?・・そうとも限らないけどぉ・・・」 −「どうしようか迷ったんだが、どうしても君のことが心配だったから・・・」 胸がキュンと切なくなって遅れた涙が沸き上がってきた。子猫が言葉に詰まっているとさらに萩原が続けて言った。 −「これから迎えにいくから会って話をしよう。いいだろ?」 「・・・でも・・・」 −「どうしても会いたい。いいね?」 「・・・うん。」 言葉より確かな繋がりが欲しかった。それは萩原も同じだったようで、子猫を迎えに来た車がそのままラブホテルの門をくぐったのは自然の欲求だったと思う。言い訳も慰めもいらなかった。ただ、肌と肌を触れ合い、しっかりと結ばれたかった。 快楽を追求する行為もあれば、お互いを喜ばせたいと願う行為もあるが、この日の二人は苦しいほどに切なく求め合い確かめ合うような行為だった。途中、萩原は子猫の胸で泣いた。子猫も萩原と繋がりながら何度も泣いた。誰が何と言おうと、どんな非難を浴びようと、二人は確かに愛し合っていたのだ。 お互いの心と体に愛が満たされた時、ようやく静かな休息が訪れた。 「可奈子が随分酷い事を言ったらしいな。」 萩原はピッタリと体をつけて腕の中にいる子猫を愛おしそうに頬ずりしながら囁いた。子猫は萩原の胸に額と頬をつけたままかすれた声で小さく、いいの、と言った。 「全部話してくれないか?胸にしまっておくには辛すぎるだろう?どんなことでもいいんだ。君を一人で悩ませているのは僕にとっても辛い。・・・ゆっくり・・・少しずつでいいから・・・昨日のことを話してくれるね?」 子猫は何から話せばいいか、思い出すことさえ辛く、いっそ忘れてしまいたかったが、途切れ途切れに話し始めた。萩原は時々大きくため息をついたり、励ましたりして子猫からだいたいの内容を聞き出した。 「そんな強迫までしていたのか・・・」 子猫を犯罪者と呼び、訴えて世間の恥さらしにしてやる、と言ったことを聞いた萩原は怒りを露わにする一方で自嘲的な苦い笑いを浮かべた。 「可奈子には君を訴えることなんて出来ないさ。犯罪者なのは僕だからね。君は青少年保護法で守られているから大丈夫だよ。・・それでもどうしても訴えると言うなら捕まるのは僕で、社長としての肩書きだけでなく、職さえも失うことになるだろう。・・・例え可奈子が別れることを承知したとしても、もう生活費を出してやれる能力もなくなる。フッ・・そんな暮らしがあいつに出来るはずがない。子供のお稽古事で毎日嬉しそうに忙しがって、私立の幼稚園に入れたことで鼻高々、同園の母親達とブランドを競ってる暮らしを手放せるはずがない。・・・だから僕の浮気も見て見ぬふりをしてきたし、事を荒立てなかったのも結局は自分の為だ。それだけ計算高い女が墓穴を掘るようなマネはしないだろう。」 「・・・でも・・・ママに言うって・・・」 「君の母親が議員と親しくて訴訟好きだと言っておいてやるさ。この事実を知ったら訴えられるのは僕の方だとね。」 「でも・・ママは猫が不倫してるの・・もう知ってるじゃん?」 「君の母親も可奈子と同じ自分が大事人間だからね。自分が巻き込まれる時になったら、やっきになって怒り出すってタイプだろう?」 「・・・かなぁ?」 「ハハハ。何れにしろ、そう言っておけば可奈子は君の母親には会おうとも思わないさ。大丈夫。もう、可奈子には君や君の家の方へ口出しはさせない。」 「・・・うん。」 子猫は少しだけホッとして、心の重荷がちょっと軽くなったように思った。でも、それで自分の罪が消えるとも思えなかったし、自分が傷つけた結果はちゃんと受け止めるべきだと思っていた。 「その責任を問うならまず僕に問うべきだな。」 萩原はそう言って、子猫に自分を責めすぎないようにと言い聞かせた。 「可奈子自身のヒステリックな性格にも問題があるんだ。・・・それが僕を疲れさせていることも・・・だから君の無邪気さや穏やかさに惹かれ逃げ込んだということも・・・言い訳といわれようが確かにそうなんだ。そのことを可奈子も自覚するべきだよ。・・・流産やその後の経過は・・・たまたま運悪く不幸が重なっただけで・・・君だけに責任を問うことじゃない。」 「・・・でも・・・」 「とにかく、可奈子にはもう君を攻撃しないようによく説明するから・・・僕を信じてそんなに心を悩ませないで欲しい。・・・ん?」 「・・・うん。」 「二人の秘密の部屋を持ったことが、逆に可奈子の攻撃の照準を合わせるポイントにしてしまったようだ。・・・残念だけど・・・あの部屋は引き払おう。・・いいね?」 子猫はシクンと胸が痛くなったが、萩原の胸に頭をつけたまま小さく頷いた。 「ごめん。・・・でも、もう君を無防備の状態で一人にはしておけないよ。きつく言い聞かせたとしてもあの性格だ。いつ、可奈子が暴走するかわからないし・・・もう二度と・・・君の悲鳴を電話越しに聞きたくない。・・・あの時、車に飛び乗って必死で走らせながら・・・心臓が張り裂けそうだった。・・・隣りの学生が居合わせてくれて良かったよ。もっとも、そんな状況でなければ、逆に嫉妬して君を責めていたかも知れないけどな。ハハハ。」 「あの日、たまたま会って話したから・・・コインランドリーで洗濯してたら、並びのコンビニで会ったの。そこのバイトしてるんだって。」 「そうか・・・ちゃんと送って貰えた?」 「うん。あ・・でも・・家の近くの公園でタクシー降りたから。家まで送られるのは嫌だったの。」 「そうか。よしよし。ちゃんと警戒出来るようになったんだね。」 「え・・・そーゆー訳でもないけど・・・何となく・・・」 「いいんだよ。無意識にでもね。僕のことを思ってくれてるから、他の男性には無意識にも距離を置く。それだけ僕が君の中でいつも生きて存在してるってことなんだから。」 萩原はギュゥッと子猫を抱き締めた。 「・・・ぁ・・・ヒロォ・・・」 子猫が顔をあげて甘えるように目を閉じた。萩原はキスで応えてくれる。こんなに愛し合う二人に別れ話など出るはずもなかった。ただ、秘密の隠れ家を失い、また前のように待ち合わせして会う彷徨う愛の形に戻っただけ。そう子猫は思ったが、彷徨う愛の形と許されない愛のイメージが重なって、一抹の寂しさが過ぎった。 「抱いてぇ・・ヒロォ。・・また一つになりたいのぉ。」 「ああ。愛してるよ、子猫。可愛い子猫。僕の大切な宝物。」 萩原は子猫を抱いたまま仰向けになった。子猫は萩原に導かれ体を下げていく。結合部分が接触し、子猫は導かれるまま萩原の肉体の一部を奥深くまで挿入し結合させた。繋がることが大事というような、一つになったまま、結合の喜びを噛みしめ続けるような、お互いの存在を確かめあうものだった。子猫はメリーゴーランドの馬よりもゆっくりと体を揺らせた。そうしながら時々より強く確認しようと締め付けては固いものの存在を味わい身悶えた。 「ヒロォ・・・感じるぅ?」 「あぁぁ・・たまらなく感じてるよ。」 水藻のように揺れる子猫を萩原は陶酔しきった熱い眼差しで見ていた。子猫に性の喜びを教えたのもテクニックを教え込んだのも萩原だったが、その萩原さえも混濁酩酊するほどに子猫の体は開花されていた。 「もっと・・・もっと感じてぇ。」 リズムをつけて馬乗りになっている体を上下させるのと、腰をうねらせて回転させるのを交互に繰り返し、締め付けては緩め、また締め付けてはきつく吸い付き、翻弄した。萩原は額に手をあて、身を捩っては仰け反り、痺れたように足掻いては、呻いたり吠えたりした。自他ともに認める遊び人だった萩原は、こんなに醜くのたうち回るほど弄ばれることはなかった、と子猫に言ったことがあった。だから子猫には自分の全てをさらけ出せるのだと。剥き出しの魂で結ばれているのだと。 奴隷が主人を支配するなどあり得ないことかもしれない。が、それは奴隷が多数いて消耗されるだけの存在だった場合であり、一対一の関係では立場が逆転することもあるように思えた。だが、それでも子猫は翻弄しながらも自分は萩原の奴隷だと思っていた。求める愛の為なら命を捧げてもいい。愛されたい。その気持ちがある限り萩原は子猫の絶対的主人だったのだ。 「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁんんんん・・・」 子猫も快感が体中から溢れ出して、体を包むオーラまでも痺れているように感じた。 「ヒロォ・・溶けちゃいそぉぉ・・・ぁぁぁあああ・・・溶けてひとつになりたいぃぃ・・・」 「あぁぁ・・ひとつだよ。僕の魂も溶けて君の中に流れ込んでいる。」 「狂わせてぇぇ・・・溶けて燃焼して・・・ひとつになるのぉぉ・・・」 腰をたまらなく小刻みに上下させて身悶える子猫を萩原は起きあがり羽交い締めにした。 「燃焼させてやる。一緒にいこう。二人が一つになるとこへ。」 そう熱く囁いた萩原は猛烈な勢いで子猫を突き上げた。息をきらせ、喘ぎ、叫んで、二人は歓喜の世界を登り詰めた。虹色の光の渦に取り巻かれ、遠退く意識の中で子猫はいつまでも萩原にしがみつき、腰に巻き付けた足を離さなかった。萩原も迸りの最後の一滴までも搾り取られても、子猫を固く抱き締めたままの姿勢で離れなかった。 夜遅くなって、萩原に送られて子猫は家に帰った。途中、萩原はもう何度も繰り返した言葉を確認するように言った。 「もう、絶対可奈子には君を攻撃させない。離婚までには時間がかかるだろうが、君との関係は嫌でも認めさせるから。これからはもっと堂々と付き合っていこう。」 「・・・うん。」 「それから・・君は可奈子に言われたことをもう気にしないこと。無闇に自分を責めて苦しむことはないんだからね?」 「・・・うん。」 「僕が愛しているのは君だけだし、それは君が単に若いからだけじゃないってことを信じて欲しい。制服マニアは僕じゃないんだ。仕事に都合良く利用してきただけでね。まぁ、遊んでないとは言わないが、今は君以外の女に興味はないよ。」 「・・・うん。」 「何だかなぁ・・・うん、ばかりじゃないか・・・」 「だってぇ・・・もう何度も聞いてるし・・・返事しないと何度も繰り返すし・・・」 「だってぇ、心配なんだぞぉ。すぐ塞ぎ込むしー・・すぐ泣きそうになるしー・・」 萩原は子猫の言い方をマネして言うと、笑ってみせた。子猫もつられたように笑みをこぼした。 「冗談じゃなくさ・・君を失いたくないんだ。笑ってくれてもいいよ。正直言えば・・・君に捨てられるのが怖くなってる。」 「そんなぁ・・・」 「だってそうだろ?君は輝くほどに綺麗で可愛い。」 「あの・・・それは思い込み・・ってゆーか・・・贔屓目ってゆーか・・・」 「ミミズ千匹・・潮吹き・・スッポン・・雑巾絞り・・ロデオマイスター・・・」 「ヒロォォーー!エッチィィーー!」 「あははははは。・・・誰にも渡したくないよ。子猫は僕が掘り当てた最高の金脈。僕が丹念に擦り上げ磨き上げた最高の宝石なんだ。」 「いやぁーーん!・・・っもぉぉ・・・」 「子猫は僕のものだ。絶対離さない。いいね?」 「うん。猫も離れないもん。」 車が家の前に停まってもすぐには車から降りなかった。萩原がすぐには子猫を離さなかったのだ。熱いキスを繰り返し、ベッドで燃え上がった情熱を思い出させるように、胸を揉み乳首に歯を立てて小さな傷痕をつけた。 「離れていても心は子猫のそばにいることを忘れないで。」 「うん。」 「寝る前に電話して。」 「・・え?」 「寝る前に電話しなさい。」 「・・・どうして?」 「いいから。返事は?」 「・・・うん。」 「OK!いい子だ。はははは。それぢゃお休み。」 「お休みなさい。」 萩原はもう一度キスをして子猫を降ろすと、子猫が家に入るまで見送って車を発進させた。 |
| <58> [亀裂] |
<58>亀裂 宣言した通り、萩原は大胆に、というよりも堂々と子猫と会うようになった。彼が妻とどのような話し合いをもったのかはわからなかったが、子猫はもう聞くのをやめることにした。同情してみせても所詮は偽善でしかなかった。別れろ、と繰り返し詰め寄られた時、子猫は泣きながらも決して別れると言わなかった。額を床につけながら、その時、子猫は魔物が息づく闇を見ていたのかも知れない。子猫が別れると言わない限り、萩原が子猫から離れるはずがないことを、未熟な心で感じ取っていたのだ。彼の妻にもそれがわかっていたから、どうしても子猫に言わせたかったのだろう。そして子猫は自分の欲望を選び、悪魔に魂を売ったのだ。もう、傷ついている人に同情する資格はない。後は萩原が考えればいいこと、と割り切ることにした。 萩原は子猫が高校生になったということもあって、時々夜、親しい得意先の接待にも子猫を連れて行くようになった。すでに馴染みの社長は納得顔で歓迎してくれたし、新しく知り合った相手も羨ましがりながらも子猫の同席を喜んでくれた。萩原は得意そうに子猫に接待客の相手をさせた。煙草に火をつけたり、お酒のお酌をするくらいなら、子猫も笑顔で出来たが、手を握られたり、頬をつけてチークダンスをさせられるのにはまだ抵抗があった。だが、怒るにも怒れず、照れたように嫌がってみせても、おじ様達を喜ばせるだけだった。 それでも萩原の愛人としての立場を子猫は楽しみ出していた。5月の連休には招待されてゴルフのコンペにも参加した。それに先だって、萩原は子猫にゴルフ用具一式を揃えてくれ、何度か練習にも連れていってくれた。体も心も何もかもが満たされているようだった。春の日差しを反射する子猫の白い頬はいつでも嬉しそうにほんのり赤く染まって、すれ違う人達は男女を問わず羨望とも感心とも思える眩しそうな視線を投げかけた。それは愛らしい幼子につい視線を奪われてしまう感覚に似ていたようだった。そして子猫はそんな時、自分を自慢そうに見つめている萩原に、自分の選んだ男として甘えた笑みを送るのだった。 萩原は子猫をとても大事にしてくれていた。一緒にいる時愛されている喜びは常に満ち足りていた。だから子猫に萩原の家庭のことを聞く必要はなかった。萩原の妻は離婚だけは絶対にしない、という態度に変わったようで、二人が結婚出来るのは高校卒業よりも先になるかも知れない、ということだったが、愛し合い一緒にいれるなら急ぐ必要もないと思えた。 高校の中間テストが終わると季節は梅雨に入り、天気のすぐれない日が続いた。週末のゴルフも予定が立たなくなっただけでなく、萩原の仕事も忙しくなっていたようだった。 それでも子猫と過ごす週末には時間を作ってくれていたが、これまで3日と開かずに会っていた子猫には週末までの時間がたまらなく長く感じれた。それでついつい電話をしてしまうことが多くなり、一度大切な会議中だったらしく酷く叱られてしまった。それ以来、時々、電話をかけても出てくれなかったり、いきなり電源を切られるようになった。 不安と寂しさと焦燥に傷ついた子猫を萩原は週末になると優しく慰めてくれた。そして、 「いつまでも子供のままでいてはダメだよ。」 とたしなめるのだった。子猫もそう言われると自分の子供じみた駄々っ子ぶりが愛人としては失格のように思えて、もっとちゃんとした一人前の女性になりたい、と思うのだった。 7月に入ってすぐの期末テストが終わり、梅雨も明けた初夏の日差しが心を開放させてくれていた。夏休みまではまだ日にちがあったが、取り敢えず、もう勉強で悩む必要もなく、夏休みが終わるまでは高校生活の煩わしさを忘れられるのが嬉しかった。 また春休みのように一時的な部屋が借りられたらいいのに、と子猫は思っていた。夏休みには萩原が子猫の為に1週間ほど休みを取ってくれることになっていた。それで北海道をドライブしようと計画も立ててあった。が、それ以外の時間もなるべく一緒にいたかったのだ。 シャワーで汗を流し、バスローブのまま部屋のベッドで横になって、色々思いを巡らせていた子猫は、どうしても萩原に会いたくなってしまった。叱られてからはあまり電話をしないように我慢もしていたが、一度声を聞きたいと思うともうそれ以外の思考が働かないようだった。 ついに子猫は携帯のメモリーから萩原の名前を拾って電話をかけた。しばらく呼び出し音が続いたが、音が消え通話が繋がったようだった。子猫は嬉しくて一瞬言葉を躊躇した。と、 −「うーん・・・だぁれぇ?」 とまったく予想しなかった声が聞こえた。奥様にしては幼く、子供といっても幼児語ではなく、つまり全然知らない若い女の子が電話に出たのだ。子猫はかけた先を間違えたのかと慌てて電話を切ってしまった。が、メモリーから拾ってかけたのに、間違えるはずがなかった。それでも、今度は覚えている番号をひとつひとつ確認して押してみた。 −「もしもし?・・・ねぇ・・だぁれ?」 子猫が用心して声を出さないでいるとまた同じ声が聞こえた。これはどういうことなのだろう?萩原はどうしたのか? −「ああ!・・・つーか・・・これあたしんじゃないや!・・・きゃははははは。ごめんごめん。寝ぼけちゃってて間違えちゃいました。ごめんなさぁーい。」 子猫は絶句した。どういうことかと言えば、もうそうゆうことしか考えられなかった。萩原は電話の彼女とどこかのホテルにいるのだ。萩原は多分シャワーでも浴びているのか、愛された後に微睡んでいた彼女がうっかり萩原にかかってきた電話に出てしまったということだろう。推理が間違うことはないだろう。そうは思っても子猫にはこの事実が信じられなかった。 −「もしもし?・・・どうしますか?・・・ヒロパパに代わった方がいいのぉ?」 子猫が黙っているので相手も困ってるようだった。でも、事情がわかってもショックで声が出そうもなかった。子猫は無言のまま電話を切ってしまった。 それから1時間ほどして萩原から電話がかかってきた。子猫は放心したまま部屋の明かりもつけずに暗闇に視線をなげていたが、携帯を手に取ると通話ボタンを押した。 −「もしもし、子猫?」 萩原の焦りを隠せない声が聞こえた。子猫は携帯を耳にあてながら、その時初めて涙が零れてきた。返す言葉もなかった。どんな言い訳ももう通用しない。これまで忙しいと言っていた理由も、電話することを嫌がるようになってた理由もわかってしまったのだ。 −「子猫?・・・声を聞かせてくれないか?」 わざと黙っていた訳ではなかった。どうしても言葉が出てこないのだ。涙だけが後から後から流れ出る。感情が置いてけぼりになったように無表情のままに涙だけが止めどもなく溢れてきた。 −「会って話した方がいいかな?・・・きっと色々誤解をしていると思うんだ。これから迎えに行くから・・・」 「ざけんな!!バカヤローー!!!」 悲鳴のように叫んでいた。 「汚い面見たくもない!汚い声も聞きたくない!汚い息をかけられたくもない!汚い指で触られたくない!」 子猫は返事も待たずに携帯を机の角で数回叩いてガチャガチャと壊れた音をするのを確認した後、窓から思いっきり力を込めて外に投げ捨てた。庭の垣根にひっかかりそうになったが、どうにか道路にころがってくれたようだった。 肩で息をしながらベッドに戻ると、また涙が込み上げてきた。今度は呻くように声を絞り出して体中で泣いた。泣いて泣いて泣いて、砕けた心の破片がどうやってもつなぎ合わせることが出来ないことを感じていた。 |
| <59> [別れ] |
<59>別れ 喫茶店の奥まった席で、萩原は背中を丸めテーブルに両肘をつき、両手の中に顔を埋めていた。重い吐息の後、顔をあげた萩原の目は真っ赤にうるんでいた。 「どうしてもダメなのか?」 もう1時間近く話し合っていたが、萩原には子猫の口から出た別れを信じられないようだった。ここへくる前から子猫は何度も、もうつき合えない、と言っていた。子猫が携帯を壊したことで萩原は家の方に電話してきたが、子猫は迷惑だからもう電話しないで欲しい、と言っていたのだ。萩原はそれでも会いさえすれば、子猫の心を取り戻せると思っていたようだった。子猫の学校帰りを何度も待ち伏せしては、車に乗るようにと声をかけたり、腕をつかんで無理矢理ひっぱっていこうともした。けれど、子猫は萩原と二人だけになるのが怖かった。どう考えても萩原を許せる気持ちにはなれなかったが、心の支えを失って体がいっそう寂しさに枯渇していた。かと言って、体の欲望だけを満たすような行為は、今以上に心が傷つくように思えた。今でさえ本当はじっとしていることも耐えられないほど辛かったのだ。切り刻まれた傷口からは絶えず魂と言う透明な血が噴き出していた。指先が氷のように冷たくなっていた。 「徹底的に嫌われたなら諦めもつく。だが、君は僕を愛してくれているじゃないか。・・・そうだろう?」 言葉の合間にこぼれる息が震えている。 「君は僕を憎んではいない。嫌うことも出来ない。・・・ただ、許せないと感じているだけだ。それぐらい僕にはわかってるよ。・・・心から愛しているんだ。君の一部になりたいと思ってる僕には君の気持ちがよくわかる。・・・子猫。君は今だって僕を愛しているんだ。そうだろ?」 「・・・そうかも。・・・嫌うには時間がいるかも。・・・一生嫌うことはないかも。・・・だけど、・・・もう愛せない。」 萩原は眉間に苦しげな皺を刻んで、両手を握りしめた。 「・・・店を出よう。・・・ここではうまく話せないよ。」 子猫は首を振った。喫茶店でなら、と条件をつけて話に応じたのだ。 「こんなつまらないことで別れてしまうのか?・・僕も君もお互い深く愛し合っているというのに?」 「・・・つまらない?」 「何度も説明しただろ?・・・これまでそうしてきたから・・今でも僕に遊べる子を紹介して欲しいって言ってくる相手がけっこういるんだ。中には僕が真剣な恋愛の虜になってることをわかってくれる相手もいるが、遊べない話の通じない奴と思う相手もいて・・機嫌を損ねられると僕としても困る場合があるんだ。・・・もちろんそんなことをしなくても仕事だけを頑張ってやっていけばいいようになりたいよ。いずれはそれだけの実力をつけるつもりだ。・・・だが、まだ社長としての実績もなく不安定な僕にはどうしても後ろ盾がいる。多少汚い手を使っても、取り入っておく必要があるんだ。・・・その為に・・・仕方なかった。・・・君を傷つけてしまったのは反省している。・・・が、中には君に横恋慕してワザと言いがかりをつけてくる相手もいて・・・大変なんだ。」 「・・・奥様にもずっとそう言い訳してきたんだろな。」 萩原に言うでもなく子猫は呟いた。 「それで納得してきた奥様を捨てようとしているんだね。」 「君に惚れたからね。」 「・・・惚れてなかったら・・・猫は貢ぎ物になるとこだったんだ。」 「バカなことを。・・僕は紹介するだけで付き合うか付き合わないかは個人の問題だ。ただ、大抵お小遣いをたくさん貰えることを喜ぶ子の方が多いっていうだけのことさ。だから恋愛感情なんて生まれない。僕だけでなく相手の子もね。」 子猫はブルッと身震いして両腕を体を抱くようにつかんだ。 「君は違う。・・・初めから剥き出しの心をぶつけてきてくれた。ただ、心だけを求めて。君を誰かに紹介しようなんて思ったことはないよ。本当なんだ。信じてくれ。」 子猫は首を振って席を立ち上がった。 「ごめんなさい。・・・どう言われても・・・心は戻れないの。」 「子猫!」 萩原は立ち去ろうとする子猫を抱き締めた。懐かしい萩原の匂いが子猫を包んだ。だが、心が拒絶しているのを子猫は確実に感じた。子猫を抱き留める胸も抱き締める腕も知らない人のようにしか感じれなかったのだ。嫌悪感が込み上げてくる。 「いやぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーー!!!」 店中に響く声で叫んだ。 「子猫、落ち着け。子猫・・」 萩原は慌てて子猫の口を塞ごうとしたが、子猫が身を捩って嫌がるのを見て、店員が駆けつけてきていた。 「何をしているんですか?困ります!」 店員は子猫を片腕に抱きかかえる一方、反対の腕で萩原の胸ぐらをつかんで引き離していた。 「君こそ関係ないだろ!これはただの痴話喧嘩なんだ。放っといてくれ!」 「例えそうであっても店内で騒がれては困ります。今すぐ店を出ていって下さい。そうして頂けないのなら警察を呼びますよ。」 警察と言われて萩原はひるんだ。 「・・・わかった。もう、いい。」 萩原の言葉に店員が手を離したので萩原は舌打ちをして乱れた服装を直した。そしてレシートを取ると、 「もう少し時間が経って、君が落ち着くのを待つよ。」 と子猫に向かって言い残して店を出ていった。 子猫も店員にお礼を言って店を出た。冷房の効いた店内から外へ出た途端、夏の日差しが照りつけた。少し歩くだけで足の裏まで汗ばんでサンダルがすべってくる。一歩一歩が重く感じられて怠さが襲ってくるようだった。 (海が見たい。) 焼けた砂浜を歩いたらどんなに気持ちいいだろう。でも、子猫には海への行き方がわからなかった。東へ向かえば太平洋があるだろうか?それとも南?西へ向かえば日本海があるだろうか?それとも北?どんな電車に乗れば行ける?独りぼっちになった子猫はあまりにも未熟な存在でしかなかった。 (海が見たい。) たどり着いた駅の大きな時刻版を眺めても全然わからない。子猫は待合いロビーのイスに座って長い間放心していた。電車が到着した時だけ人の流れがいくらかあったが、それもすぐ胡散霧散に消えていく。広いだけの何もない構内。キオスクと人のいない民芸品店、塾へ行ってた頃よく食べたファーストフード店、立ち食いソバ屋。人影もまばらなら、たまに視線のすれ違う人も自分のことだけしか感心がないようで、忙しそうに用事を始める。子猫はそこにいつまでも座っている自分が惨めになっていた。座っていれば誰かが海に連れて行ってくれるなんてことがあるはずもないのに。 (壊れちゃえ。心も体も。何もかも。) 子猫は自分を呪いながら立ち上がって駅を出た。 「ねぇ、ちょっといい?」 出口で声をかけられた。振り返ると若い会社員風の男が照れたように笑っている。 「どうしたのかなぁって思ってさ。・・約束でもすっぽかされた?」 「・・・そんなところです。」 子猫は適当に答えた。 「そっか。ずっと座ったままでどうしたのかと気になってたんだ。」 ますますはにかんだように笑う。子猫はだから?と問いかける顔をした。 「良かったら・・・うさを晴らすのに付き合うよ。・・なんて・・本当は君が可愛いから誘いたかったんだ。どうかなぁ?」 「・・・ん。いいけど。」 「そっか!ありがとう。じゃぁ・・どこか店に入る?」 店、と言われても今の子猫には楽しい会話など出来そうもなかった。この胸の苦しさは誰にもわからないだろう。適当な慰めの言葉も欲しくはなかった。むしろ何も言わずに抱き締めて欲しかった。そう思った時言葉が出ていた。 「・・・ホテルがいいな。」 若い会社員はギョッとしたような顔をしてから苦笑した。 「それは・・僕としては嬉しいけどさ・・いきなりでいいのかい?」 「・・・海の代わり・・・」 「海?」 「潮騒の代わりに・・・あなたの鼓動で包んで。」 子猫の潤んだ目を驚いたような顔で見ていたが、 「・・・そうか。わかった。」 と苦しそうな表情で苦い笑みを浮かべた会社員は子猫の肩を抱いてタクシー乗降口へと促した。 知らない男に抱かれている。知らない男が体の中にいる。泣きたくなるほどの嫌悪感と、しがみつかずにはいられない切なさが交差して、狂いそうな心は子猫をより大胆にしていた。激しく腰を振り、きつく締め上げて、何度もいかせた。男がのたうち回り、全ての精魂を使い果たし、魂が抜かれてしまったかのようにベッドにぐったり倒れるまで絞り尽くした。 「はぁはぁ・・・君は魔女?・・・はぁ・・本当にこの世に存在してる子なのか?」 途切れ途切れの息で、ベッドを離れる子猫に問いかけた。怠そうな頭をやっと起こして霞む目を凝らすように細めている。 「・・・夢魔・・・夢の宮殿にしか住めない魔物かも・・・」 「夢魔?」 子猫はそれ以上は答えずに浴室へ行った。 一刻も早く汚れた体を洗い流したかった。彼が悪い訳じゃない。自分が不純なのだ。そんなことはわかっている。でも、今の子猫には誰にも心で抱かれることは出来なかった。どんなに心を向けられても、子猫には返せる心がなかった。壊れかけた心は今でも萩原を愛していたのだ。だが、愛すればこそ、もう二度と許せる日は来ないと思った。こうして裏切ることで心を壊したかった。利用するだけの対象の男には酷い仕打ちだとも思ったが、男にすがって甘えることしか子猫は知らなかったのだ。それなら、いっそ魔物と思われた方がいい。 シャワーを出て部屋に戻ると男は寝息をたてていた。そうとうこたえたらしい。子猫はそっと服を着るとそのまま一人でホテルを後にした。夜の生暖かい風が乾ききらない髪をなぞっていく。子猫は悪寒を感じながら孤独の闇に溶けていった。 −子猫白書第一部<中学編>− おわり |
[TOP]
[HOME]