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Boy







★3★『Pet Boy』



 翌朝、直人はこのマンションルームのスペアキーをソラに渡してやった。
 渡す、と言うより、テーブルの上に置いて、
「ここのカギだ。お前用に渡しておくから、外へ出る時は忘れないようにしろ。」
 と、言ったのだが・・・。
 ソラは、バターとマーマレードを塗ったトーストに囓りつきながら、カギをじっと見ている。
「スペアを作るのは大変なんだから、なくさないようにしてくれよ?」
「・・・なぁー・・・これって変じゃないか?」
「ん?・・・あぁ。溝がないだろ?これは特殊加工のカギで、電子信号の暗号が入ってる物なんだ。それに反応してロックが開く。だから、このマンションのドアはプロのカギ師でも開けられないのさ。」
「・・・へぇ・・・サクッ・・・モグモグ・・・なくしたら?」
 (なくすなって言っただろうに・・・)
「管理人がマスターキーを持っているから、この部屋の住人だという証明をして開けて貰う。で、なくした時用にそのスペアキーがある、という訳だ。」
「・・・・・俺の証明は・・・ない・・・・・」
 (だから、なくすな!)
「その時はどこかで電話を借りて、僕に電話してこい。電話の掛け方、わかるか?・・受話器を取って数字のボタンを押し、呼び出し音が鳴るのを聞いて待ってれば相手が出る。」
 直人が身振りまで付けて説明するのを、ソラは目を眇めて眺めていたが、
「・・・なぁー・・・掛け方知ってても、番号がわからなきゃ掛けようがないだろ?」
 と、冷めた口調で言った。
 直人は、カッ、と赤面し、
「・・・・・番号は後でメモしてやる。」
 と、ボソッと呟き、トーストを口に頬張った。
 つい、猫だと思って余計な心配をしてしまう。
 ソラは牛乳を飲みながら横目で、直人を冷視している。
 青く透明な目が何を言いたいのかまで、わかりようもない。
 直人は頬張り過ぎたトーストを、コーヒーでようやく喉を通過させた。



 奇妙な同居人が出来て、数日が経過した。
 ソラは、”用事を言いつけられない限り何もしない”という姿勢で、気ままに日常を暮らしている。

 カギを渡してやったことで、日中はその辺を自由に散歩しているようだ。
 一緒に食事をする時などに、散歩で見つけた場所や発見したことなど、直人に話して聞かせる。
 「気に入った」と言っていた古本屋へも、行くたびに追い払われるというのに、懲りもせず日参しているらしい。
 他にも日当たりのいいベンチで昼寝をしていて、幼稚園帰りの子供を連れて遊びに来ていた優しそうな母親と、仲良くなれたことも話した。
 「ンフフッ・・子供のキャラメルを俺にも分けてくれたし、あの公園もお気に入りだな。」と嬉しそうに話す。
 (・・・お前・・・猫の姿に戻って散歩してるのか?)
 と、思わず聞きたくなるほど、色々な場所を徘徊し、色々な人間の様子を観察している。

 (・・・そう言えば、ソラの服はここへ来た時に着ていた物しかないしな・・・)
 ”部屋の中で過ごす時、上半身だけでも裸ではいないこと”というルールのお陰で、奥から引っ張り出した直人のインナーを普段着にしている。
 が、「トレーナーは肩が落ちて邪魔だから嫌だ。」と言って、半袖短パン姿なので、長くてツルツル肌の手足が剥き出しになっている。
 (・・・コホンッ・・・いや、そんなことより・・・だ。)
 いくら何でも半袖短パンといった薄着で出掛けはしないだろう。
 外は冷たい風が吹き付ける冬。
 新しい年になって「新春」「初春」などと言葉の上では春を使っても、本当の春はまだまだ遠い。
 毎日同じ服で出掛けるのでは可哀想だ。
 歯ブラシや下着くらいならコンビニやスーパーでも買えるが、着替えが数着は必要だろう。


 土曜日の夜、仕事から帰った直人は、いつものようにソラの近所探索報告を聞いてやってから、
「明日は日曜日で仕事も休みだし・・デパートに買い物に行こう?」
 と言った。
「・・・え・・・俺も?」
 ソラが不思議そうな顔をする。
「一緒に行かなければ、サイズも好みもわからないだろ?」
 ソラは青い目を一層青く丸くし、
「俺の?・・・あー・・・けど、俺・・・財布ないし・・・」
 と、困ったように呟いた。
「心配するな。それくらい買ってやれる程度の稼ぎはあるよ。」
 直人は、フッと柔らかな笑みを浮かべた。

 同窓生の男達のほとんどが家族を養っていることを思えば、目の前の少年(猫?)を養っていくことくらい負担にはならない。
 実家の父は開業医でまだまだ現役だし、妹が婿取りをしたので跡継ぎの心配もない。
 一頃は「結婚しろ。」と煩く言っていた母も、妹夫婦に赤ん坊が産まれたことで、今は孫に夢中だ。
 お陰で自由気ままな暮らしが出来る。
 世間では30歳を越えて結婚しない者達を「負け組」というらしいが、そんなつまらない事で勝ち負けを決める奴等とは、初めから話が合わないし議論しようとも思わない。
 人の評価より、自身の充実こそが直人には重要だった。
 躰を鍛えるのもその現れであり、仕事に責任を持つのもその為と言える。
 かつて仲間だった連中からも変わり者扱いをされると、傷付くこともたまにはあるが、それでも今の生活に悔いはない。
 ・・・時たま虚しさや寂しさに凹むことはあっても、この部屋から星空を眺めていると気持ちが安らぐ。
 そして、今・・・満天の星空の夜に拾った猫も同居している。


 直人はいつ見ても穏やかなソラの寝顔を、しばらく眺めていた。
 ソラの寝顔は、曇りそうな心から黒雲を吹き払ってくれる。
 あまりにも安心しきった無心の寝顔に、余計なことを考えることさえ忘れてしまっている、とも言える。

「・・・ニャァ〜ン・・・」
 直人は小さな鳴き真似をして呼び掛けてみた。
 と、ソラが寝返りをうち、直人の肩に額を押し付けてきた。
 ドキッ……
 (猫だ、猫・・・猫もこーゆー仕草をするじゃないか。)
 直人は天井を睨み、深呼吸をしながら自分の脳にインプットする。
 男のくせに綺麗すぎるのが困りものだと、溜息を吐いて目を閉じた直人は、肩から伝わる温もりを愛おしく思っている自分に戸惑っていた。
 (ま、猫ってゆーのは可愛いものさ。)
 そう納得させて、直人は眠りの扉を押し開けた。



 日曜日。
 元々市街地に建っているマンションなので、デパートにも歩いて行く。

 少し遠回りになるが、ソラがよく行くという公園を通って行った。
「なぁー・・・知ってるか?ここに大きな桜の木があるんだ。満開に花が咲いたらスゴイだろなぁ?」
「あぁ・・・桜の前には梅も咲く。いい公園だよな。」
 この公園はジョギングする時に立ち寄るので、直人もよく知っている。
「・・・ふーん・・・梅かぁ・・・どの木だろ?」
 ソラが辺りを見回すので、指差して教えてやる。
「ほら、あの木だ。桜に負けずに大きな木だろ?・・花が咲き始めるといい香りだぞ。まだ早春の冷たい空気を甘く満たしてくれるんだ。」
「へぇ・・・春が待ち遠しいね。」
 ソラが冷たい風に前髪を揺らしながら目を細める。
「そうだなぁ・・・」
 直人は冷たい風も、春を待つ楽しみを含んでいるように感じて、不思議と心地良かった。
 ソラの額が光を受けて白く輝いている。
 冷たい空気を通って届く光に、微かな暖かさを感じる。
 (・・・ふむ・・・ゆっくり歩く散歩もいいもんだな・・・)
 直人は、ふと、ソラと手を繋ぎたい気持ちになったが、どう見てもそれは第三者的に不審過ぎるので諦めた。


 デパートでの買い物は、予想以上に大変だった。
 ソラの服だけのつもりが、色々な売り場を見るとあれもこれも必要に思えて、つい買いすぎてしまった。

 両手にいくつも脹らんだ袋を持って歩く。
 が、ソラは直人が追いつかないほどあちこちのテナントを見て回っている。
 それもそのはず・・・ソラは一つも荷物を持ってないのだ。
 そのことにやっと気付いた直人は、
「こら。ほとんどお前の買い物なんだぞ。半分くらい持ってくれてもいいだろ?」
と、ソラの背中を追い掛けながら言った。
 ソラは、ん?、と振り返り、直人をマジマジと眺めてから、
「・・・あー・・・そっかぁ・・・」
 と、間延びした呑気な声で返事をし、
「なー・・・まだ買う物、あるのか?俺、荷物持って売り場を歩きたくないし、ペットショップで動物見ながら荷物番しててやるよ。な?」
 と笑った。
 (・・・まったくアテにならない奴だ・・・)
 直人は、ヒクヒクと片眉を痙攣させ、
「持ってかれないように、ちゃんと番をしてろよ?」
 と、ソラの提案を聞いてやることにした。
 せっかくデパートまで来たのだから、スーパーとは違う食材を買っておこう、と思い付いたのだ。

 一度ペットショップまで一緒に行き、直人だけ地下の食品売り場へと向かったが、
 (こんな大荷物になるなら、車で来た方が良かったかも知れない。)
 と、途中で行き先を変更し、タクシーでマンションまで戻った。
 それから自分の車をデパートに走らせ、駐車場に停めて、食品売り場での買い物をした。

 時間が余計に掛かってしまったが、ペットショップに行ってみると、ソラが熱心に熱帯魚を見ていた。
 青い目でジッと魚の姿を追っている顔は、猫のままだ。
「・・・欲しいのか?」
 側に行って、そっと話し掛けると、
「んー・・・可愛いなぁ・・・」
 と、うっとりして答える。
「喰わずに面倒見るなら買ってやるぞ?」
 半分からかうように言ったのだが、
「ホント?・・ワァゥ!!・・・じゃぁ、喰わない!」
 と、目を輝かせて答えた。
 (・・・本当に喰う気だったのか・・・?)
 謎だが、直人は店員を呼んで、ソラが気に入った魚の他に水槽や海水など、必要な物を一式買い揃えた。

 定員が大量の荷物に苦笑し、「お手伝いしますよ。」と言って、駐車場まで台車で運んでくれたので、助かった。
 ソラは相変わらず手ぶらで付いて来ていたが、駐車場に来てから首を傾げ始めた。
 そして、そこに直人の車があることに驚いた顔をした。
 直人は、熱帯魚の入った袋をソラに渡しながら、
「・・・やはり、文明の利器は利用するものだな。」
 と、車を取りに戻ったことを説明した。
「あっはは・・・なんだ、そっか。」
 助手席に乗り込んだソラは、熱帯魚が入っている酸素で脹らんだビニール袋を、大事そうに抱えて笑った。
「随分待たせてしまって悪かった。」
「いいさ。置いてかれても帰り道はもう覚えてるし・・・」
 何気ない言葉なのに、直人の胸がキュンと鳴った。
「・・・・・バカ・・・・・置いていく訳、ないだろ・・・・・」
「だな。どっちでもいいけど・・・」
「・・・・・ソラ・・」
「なぁー・・・早く帰って水槽に入れてやろうぜ?」
「・・・・・あぁ。」
 直人は奇妙な不安感を覚えながら、キーを回した。


 デパートの駐車場までは台車があったから良かった。
 が、問題はマンションの駐車場から10階の部屋までだった。
 とても一度では運べそうにない。
 ソラが、
「なぁー・・・エレベーター使おうぜ?」
 とゴネたが、
「トレーニングと思って階段で運べ。」
 と却下した。
 ソラは目を眇めて無言のまま背中を向けたが、「チッ!」と、聞こえよがしの舌打ちをした。
 けれど、いざ運び始めると、直人が二度10階まで階段を上がる間に、ソラは三度部屋に荷物を運び込んでいた。
 猫だけに敏捷性はある。
 (・・・いや・・・猫と限定するのはどうかと思うが・・・)
 どうりで徹底した掃除もこなせるはずだ。

「・・・それだけ運動能力があるなら、荷物持ちくらいすればいいのに・・・」
 いささか疲れた直人が、運び込んだ荷物の整理を後回しにして、コーヒーを飲みながら愚痴ると、
「タラタラ荷物持って歩くのが嫌いなんだ。」
 と、水槽の説明書を見ながら宣う。
 (・・・・・・・・・・・・・・・・はいはい・・・)
「・・・なぁー・・・早く水槽に移そうよぉ。」
 (・・・・・・・・・・・・・・・・はぁぁ・・・)
 直人は、休日開けに疲れた顔で出社してくる、所帯持ちの気持ちが理解出来た。


 熱帯魚が水槽で泳ぐまで、ソラは他のことが目に入らない様子で、セッティングに夢中だった。
 直人も付き合ってやっていたので、食事を作る暇がなかった。
 それで、
「やったー。出来たぞー。」
 と、ソラが嬉しそうに水槽を覗いた時には、
「良かったな。」
 と、答えてやった直人は、力なく笑って溜息を吐いた。
 ソラはしばらく水槽を眺めてから、
「・・・なぁー・・・」
 と、鳴き始める。
「腹減ったんだろ?・・・僕もだよ。」

 それから直人は、食事を作るか、食べに行くか、究極の選択をした。
 また地上に下りれば、当然上がらなければならない。
 簡単な物を作ってしまった方が楽にも思える。
 が、熱帯魚という同居人(魚)が増えたことで、ソラも直人も気分が昂揚していた。
「水槽完成のお祝いに、ラーメンでも食べに行くか?」
「イェーィ!」
 ソラも親指を立てて賛成する。
 ソラの弾けるような笑顔を見ると、直人も元気が湧いてくる。
「よし!じゃぁ、行こう。」
「俺、餃子も食べたいなぁ・・・」
「何でも好きな物を食べるといいさ。・・・水槽眺めながらヨダレを垂らされるのも困るからな。」
「・・・えー?・・・俺、ヨダレ垂らしてないぞ?」
「そぉーかぁ?・・・クスッ・・・シッポが獲物を狙う時みたいに、左右に振れてたがなぁ?」
 不思議と言葉が先に出てくる。
 昂揚した気分のせいもあるが、ソラに振り回されているうちに、考え込むのが面倒になったのかも知れない。
「シッポって・・・ぁ・・・・・いいや。早く行こうよ。」
 ソラも何か抗議しようと口を開き掛けたが、どうやら面倒になったようで、先に玄関へと向かう。
 直人もイスから立ち上がり、後に続いた。


 そう有名でなくても長く続いている店というのは、そこそこ美味しいものだ。
 ソラはチャーシューメン、直人は塩ラーメンを選び、他に餃子二人前と、炒飯と野菜炒めを一人前ずつ注文した。
 彼女とのデートではこんなに注文したことはない。
 やはり男二人での食事はテーブルが賑やかになる。

 二人ともかなり空腹だったので、無言で食べ続けた。
 料理の皿が空き始めて、直人は箸を置くと、充実した時間に満足そうな笑みを浮かべた。
「・・あれ?ナァーオ、餃子が残ってるじゃん?」
「・・・もう、キツイ。ギブアップだ。」
「・・なら、俺が貰っていいか?」
「あぁ。」
「ンフッ・・・それじゃ・・・パクッ・・・んー、ウマイ!」
 ソラは炒飯や野菜炒めも残さずキレイにしていく。
 店の主人がカウンターの向こうで、ニコニコ笑っている。
 いい光景だ。
 ソラを中心に周囲に明るい笑顔が広がっていく。
 (幸せを呼ぶ招き猫・・・近からずも遠からず、ってとこか・・・)
 直人は満腹感に眠くなってきて、あくびを噛み殺した。
 (荷物の整理は後にして、帰ったら日向でひと眠りしよう・・・)


 会計を済ませて店を出た直人は、ソラに誘われて古本屋に立ち寄ることにした。
 食後の腹ごなし、といった具合にゆっくりと歩く。
 と、少し賑やかな通りに出た時、いきなりソラが立ち止まったかと思うと、クルリと体を反転させた。
「・・・ソラ?」
 直人もその場に立ち止まる。
 ソラは眉を曇らせ、直人の腕を掴むと、歩いて来た方へと引っ張るように歩き出した。
「うぁッ・・・ちょ、ちょ、ちょっと・・・こら・・・」
 体を反転していない直人は、後ろ向きで歩く羽目になり、焦ってまともに言葉が出ない。
「・・・お・・おい・・・こら・・・」
 ソラに腕を掴まれた状態では向きも変えられない。
 取り敢えず腕を振り解こうとした時、
「カイト?!・・・カイトッ!」
 と、呼ぶ声が響いた。
「カイト!・・・カイトだろ!」
 そう叫ぶ男は、ソラの背中に視線を張り付けながら、向かってくる。
 (・・・・・カイト??)
 直人は後ろ歩きという不自然な態勢で、ソラの顔に目を向けた。
 ソラは怒ったように口を真一文字に結び、足を速めた。
 直人は足が縺れそうになり、腕を振り解く。
 と、ソラは直人を残し、走り出した。
「カイトッ!・・・待ってくれ、カイトッ!」
 ソラを違う名で呼ぶ男も走ってくる。
 男は40歳前後で、歳のわりにお洒落な服装をしている。
 柔らかそうな前髪を目元まで下ろし、走る風に揺らせながら追ってくる。
 直人は訳もわからず、男に追いつかれないように、ソラの後を追って走り出した。

 十字路の角を曲がる時、チラリと背後の男を確認した直人は、自分が男から怖い目で睨まれていることに気付いた。
 (・・・・・何なんだ?!)
 直人は走る速度を上げながら、不安と焦燥に駆られ、(カイト?・・カイトって?)とその名を心の中で繰り返していた。


 男が付いて来ないことを確かめてから、直人はマンションに戻った。
 玄関を開けると、ソラのスニーカーが乱雑に脱ぎ捨てられていて、戻っていることに少し安堵の息を吐いた。

「・・・ソラ?・・・なぁ・・・」
 ベッドに突っ伏して、枕に顔を埋めているソラ。
「・・・あの男・・・知り合いなのか?」
 返事は返らない。
「・・・カイト・・・って・・・お前なのか?」
 ソラは枕の端を、ギュッ、と握り締める。
 (・・・・・やっぱり・・・そうなんだな・・・・・)
 ソラに自分の知らない名前がある、と思うと胸が締め付けられるように痛くなる。
 (・・・違う名前があることは、承知していたはずだ。)
「・・・ソラ・・・・・」
 今は何を聞いても答えないだろう。
 直人はベッドに腰を下ろし、顔を上げないソラの髪を、そっと優しく撫でてやった。
 (・・・誰にだって過去はあるさ。・・・だが、お前は・・・僕のソラだ・・・)
 直人はソラの髪を撫で続け、ソラがソラで有り続けるようにと祈っていた。



 何日かが、多少のぎこちない違和感と、普段通りの会話と生活の中、経過していった。
 お互いに「カイト」という名前とあの男については触れなかった。
 ソラはあまり散歩に出なくなったが、その分、水槽を眺めている時間が出来た為とも思える。

 (それでいい。・・・何も知らなくても、ソラがソラなら・・・それでいい。)
 直人は、出会ってからまだ日の浅いソラとの生活が、なくてはならない欠かせない日々に思えてきていた。
 当初はあまりの横柄さと我が侭ぶりに呆れもしたし、その態度は相変わらずなのだが、不思議とソラの言動が神経に障ることはなかった。
 気を使っているようでもなく、ごく自然体でありながら、自分の居場所をしっかり見つけている。
 むしろ、変に気を使われると、気を使われていると感じることで、直人も気を使い疲れてしまう場合があった。
 女性相手では特にその傾向が強かったように思える。
 逆に、相手の気持ちなどお構いなしに、自己主張だけする女性も苦手だったが・・・。

 ソラが我が侭に見えるのは、ただ素直に自分の要求を口にしているだけなのだ、と直人は思うようになった。
 そして根底に、生活基盤を知らないだけ、という不可解な謎もあった。
 (・・・まぁ・・・猫だから・・・)
 と、思う逃げ思考は置いておくとしても、人間同士であっても、違う環境で育てば常識が常識でない場合もあるし、非常識を常識と思っている場合もある。
 その違いを理解さえすれば、決して我が侭ではないのだと判ってくる。
 そこが、相手の気持ちを無視する押し付けがましい主張とは、違うところだ。

 何にせよ、直人はソラとの共同生活が気に入っていた。
 そして、ソラを失いたくない、と思うようになっていた。


 ソラは本当に(よく飽きないなぁ・・・)と感心するほど水槽を眺めている。
「・・・なぁー・・・海っていいよなぁ・・・」
 生クリームたっぷりの白いコーヒーが入ったカップを持って、水槽の前に座り魚の泳ぐ姿を追う。
「そうだな。・・・今度ドライブに行こうか?」
「・・・泳げる?」
「この寒さじゃ、沖縄あたりまで行かないと泳げないだろ。沖縄は飛行機でないと・・・それに日帰りは無理だろうしな。」
「・・・沖縄・・・いいなぁ・・・」
「どうせ休暇取って行くならハワイもいいぞ。」
「・・・・・なぁー・・・行く気がないのにからかってるだろ?」
「クスッ・・・そんなことはないさ。・・・まぁ、春か・・・夏には・・・」
 ソラは返事をせずに、ズズゥーッ、とコーヒーを啜る。

「・・・なぁー・・・海の中に潜ったことあるか?」
「・・・・・いや・・・・・」
「いいぞぉー。・・・夏に行けたら、俺が潜り方を教えてやるよ。」
 (猫が潜るのか?)
「・・・猫に教えられたくないな・・・ダイビングスクールにでも通うか・・・」
「あ、それ、俺も行ってみたい!」
「・・・もう潜れるんだろ?」
「ちゃんと習ったことはないし・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・そんなことだろうと思ったよ・・・」
 直人は苦笑し、仕事の帰りにスクールの案内を貰ってこよう、と考えながらコーヒーを啜った。


 寒い一日だった。
 一日中どんよりと雲っていたが、夕方には真っ暗になってみぞれが降り始めてしまった。

 直人は傘を差して車から降り、スクールの案内を脇に抱えて階段を登った。
 普段、マンションの階段を使う住民はほとんどいない。
 2階に住んでいる住民でさえエレベーターを使っている。
 お陰で傘のしずくで濡れることもなく、直人は乾いた階段を10階まで登って行った。

 玄関を開けて中に入った直人は、「ただいま。」と言おうとして、ソラの靴がないことに気付いた。
 この前の買い物の時に買ってやった新品の方だ。
 「雨が降ったらこっちは履けないよなぁ。」と嬉しそうに言っていたから、出掛けた時はまだみぞれが降ってなかったのだろう。
 直人が帰宅した時にソラが出掛けていることも、何度かあったので、
「・・・濡れてなければいいが・・・」
 と呟き、万一そうなった時にすぐに体が温められるように、風呂に熱い湯を張り、夕食の支度をすることにした。

 夕食の支度が一段落付いて、キッチンのテーブルに座り、壁の時計を見上げる。
 いつもなら、もう戻っていい頃だ。
 (みぞれだけに濡れるのが嫌で、どこかで止むのを待っているんだろうか?)
 気になり出すと急に心配になる。
 直人はシチューを煮込んでいた火を止め、近くを探してみることにした。


 ソラがよく話す場所を順繰りに探していく。
 そして、桜と梅の大きな木がある公園も確認しようと足を踏み入れた時、人の声が微かに聞こえた。
 底冷えのする暗闇を照らす、外灯からの明かりも、みぞれで弱々しい。
 散歩をするような物好きはいないだろう。
 聞こえる声はソラのものではなかったが、直人は嫌な予感がして、声の方へと近付いて行った。

「カイト・・・戻ってきてくれ。お前がいないとダメなんだ。・・・カイト・・・」
 嫌な予感は的中した。
 この前、ソラを追っていた男だ。
 ソラの姿もある。
 外灯のわずかな明かりでハッキリしないが、男はソラの両肩を抱くようにつかみ、顔を近づけて訴えている。
 ソラは顔を背けるようにして項垂れ、無言のままだ。
 それぞれの細かい表情までは判らないが、男の声は辛そうに震え、ソラは強ばらせている体の線で頑なに拒絶しているのが察せられた。
「・・・カイト・・・お前が心配でたまらない・・・また、一緒に暮らそう?・・・な?・・・カイト・・・」
 男はソラの頬を掌で撫で顔を覗き込む。
「・・・もぅ・・・・・もう、俺に構うなッ!!」
 男がソラを抱き締めようとした時、突然、キッ、と男を睨んだソラが叫んだ。
 そして、男の抱擁を振り解き、背中を向けて走り出した。

 呆然と立ち尽くしていた直人は、ソラが自分の方に向かって走ってくるのを、凍り付いたように見ていた。
 ソラは直人には気付かず、足元に視線を落としている。
 が、途中で悲しげに歪んだ顔を上げ、唇を噛みしめた。
 目にいっぱい浮かべていた涙がみぞれと一緒に頬を伝う。
 「・・カイトォー・・・」と名を呼ぶ男は、そんなソラの顔を知らないだろう。
 ボロボロと涙を零し、白い息を吐く唇が悲しげに震えている。
 直人まで辛くなるソラの表情だった。

 ソラは直人の近くまで来て、やっと直人に気付いた。
 一度足を止め、肩で息をしながら、今度はゆっくりと側まで歩いてきた。
 何も言わず、涙で濡れた顔を直人の肩に押し付けた。
 傘を差さない方の手で、ソラの濡れて冷たい髪を撫でてやると、ソラを追ってきた男の足が十数メートル先で止まった。
 男は憎悪を込めた視線を直人に向けていたが、直人が動かせる首だけで頭を下げ目礼をすると、ハッ、とした男も姿勢を正し、頭を下げた。
 顔を上げた男の表情は憔悴仕切ったような悲哀があった。
 直人はもう一度会釈をすると、ソラの肩を支えるように抱き、男に背中を向けた。
 傘を少し後ろに倒し、男の視線からソラの姿を隠してやる。
 ソラはようやく顔を上げ、袖で涙を拭うと、黙って直人に並び歩き始めた。


 マンションまで何も話すことはなかった。
 部屋に上がると、そのまま風呂場に連れていき、
「よく温まってから上がれよ。」
 と言ってやる。
 理由を問い質そうとは思わない。
 ・・・と言うより、聞かされるのが怖かったのかも知れない。

 ソラが風呂に入っている間にシチュウーを温め直す。
 パジャマを着て首にタオルを掛けたソラが、キッチンテーブルの席に座る。
「・・お腹が空いただろ?」
 …コクリ……
「シチュウーあるぞ。食べるか?」
 …コクリ……
 何を考えているのか、ぼんやりと視線を落としているソラに、湯気の立つ温かいシチューをよそってやる。
 ソラはスプーンで一口すくって、…ハァァ…と小さく溜息を吐き、口に入れた。
「・・ちゃんと煮えてるかな?・・途中で火を止めたからなぁ・・・」
 直人も向かい側に座り、一緒にシチューを食べ始めた。

「ん・・・大丈夫そうだな。・・・いっぱい作ったから、お代わりしろよ?」
 直人は返事を期待せずに一方的に話し掛けていた。
「あ、そうだ。スキューバダイビング・・ちゃんと教えてくれるスクールがあったぞ。・・ネットで調べたんだが、現場に行く用があったから、ついでに回って資料貰ってきたんだ。・・食事が終わったら見てみないか?」
 言葉か空回りしていくような虚しさがあったが、黙っていられなかった。
 黙っているとあの男の切なげな顔が浮かんできてしまう。
 「また、一緒に暮らそう?」と切なげに訴える男の声が・・・。

「・・ラスクを砕いて入れると美味いぞ。」
 直人がラスクを取ってソラのシチュー皿に入れてやろうとした時、
「・・・ヒロムって心配性なんだ・・・」
 と、重い口を開いた。
「・・・・・ヒロム?」
 直人は強ばった表情で動きを止める。
「・・・前の飼い主・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・?!」
 (・・・あぁ・・・・・そうだったのかぁ・・・・・)
 薄々そんな予感はあったが、認めるのが怖かった。
 直人は動揺する気持ちを誤魔化すように、ラスクを囓り始めた。

「・・・飼い主ってヒロムは思ってないだろうけどな・・・」
 (・・・・・恋人か?……ザクッ…)
「俺が怪我してた時に、手当してくれた。」
「・・・・・犬にでも追い掛けられたか?……ガリッ…ガリッ……」
「クスッ・・・ちょっと俺を仲間にしたがってるバカな奴等がいるのさ。・・・ま、似たようなものかも・・・」
 フッ、と見えたソラの笑みに、胸がキュンと甘酸っぱくなる。
「まぁ、犬は群れるが、猫は単独行動が好きだもんなぁ?」
「クスクスッ・・・言えてるし・・・」
 ソラはまた笑うと、シチューを食べ始めた。
「いいや。これ、食べてから話すよ。・・・せっかく美味いのに、冷めたら勿体ないもんな。」
「・・・そーゆーことだな。」
 直人は、ソラが笑ったことで少しホッとして、頷いた。
 ソラはさっきまで泣きべそを掻いてた割に、二杯もお代わりして食べ、
「あー、美味かったぁー。」
 と、大きく伸びをしてから、膨れた腹を撫でた。


 ソラが、「ナーオが風呂から上がってから話す。」と言うので、なるべく早めに風呂を上がってきたのだが、ソラはカウチでTVを観ていて、
「あん・・・これが終わってからにしてくれよ。」
 と、ケタケタ笑いながら言った。
 直人はお笑い番組を、ジーッと眺め、今頃泣いて一人酒を飲んでいるかも知れない男に同情を感じていた。

「何で同情なんだよ?」
 やっと事情を話し始めたソラは、直人が洩らした言葉に、ムッとして言い返した。
「・・・いや・・・事情は判らないが、あの状況では・・・」
「だから、今から話すんじゃないか。」
「・・・済まん・・・」
 ソラは、フゥーッ、と大きく息を吐いて、視線を直人から自分の足元に移すと、
「・・・ヒロムはさぁ、人が良くて優しくて心配性なだけだよ・・・」
 と、静かに言った。
 声がわずかに震え、明るくして見せても本当は辛い、内心の葛藤が見え隠れする。
「・・・ソラ・・・カイトというのが、お前の本当の名前か?」
「・・・・・好きに呼んでいい、って言ったら、ヒロムがそう付けた。」
「・・・そうか・・・」
 直人は安堵の息を吐いた。
「・・・だったら立場的には俺と似たようなものか・・・」
 心の中で思うことだったが、直人は言葉にして言った。
 ソラがはっきり言わないで、自分まで何も話さないと、全てが適当になりそうに思えたからだ。

「・・・助けられたのはそうだけど・・・ヒロムとナーオは全然違うと思うぞ。」
「・・・・・どーせ俺は優しくないよ。」
 ソラのあの男への評価が気に障っていたらしい。
「・・・ナーオだって優しいさ。・・・ただ・・・ヒロムは家族がいるから・・・」
「・・・・・家族?」
「奥さんと娘さんが一人・・・って言っても別居中だったけどな。」
「・・・・・だった?」
「ああ。奥さんと和解して、もう一度やり直すことにしたんだ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 直人は聞けば聞くほど判らなくなっていった。
 さすがにここまで判らないと言葉も出ない。
 (一体お前とはどーゆー関係なんだ?)
 一度言いかけたが、息を吸って引っ込め、また呻りながら考え込んだ。
 まるで恋人同士のような会話だった。
 男は縋り付き、ソラは涙を隠して冷たく突き放す。
 (完璧な恋愛ドラマモードだったじゃないか!)

「・・・・・奥さんと子供さんの為に身を引いたのか?」
「あ?」
 ソラが片眉を聳やかす。
「・・・あのなぁー・・・俺がもう一度やり直せるようにって、両方の気持ちを愛し合ってた頃に引き戻してやったんだぞ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・はぃ?」
「・・・だってさぁ・・・ヒロムって毎晩自分の娘の写真見ながら自慢するんだもん。で、なかなか顔も見れない、って泣くし・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ほぅ・・・」
「だから、奥さんの浮気の一度や二度、許してやれ、って言ったんだ。で、あんまり情けない恰好でいるから、もう一度奥さんが惚れるくらいのいい男になれ、って、俺がお洒落な服とか選んでやったり・・・あーもー・・・何でその苦労が判らないかなぁ・・・」
「・・・そう言われても知らないし・・・」
 ”し”で終わるソラの口癖を真似る。
 ソラは目を眇めて直人を見てから、溜息を吐いた。
「・・・手当してくれたし、・・・当座行くアテがない、って言ったら泊めてくれたし・・・力になりたかったんだ。」
「・・・・・ほぉ・・・けっこう、やるな、”猫の手”。」
「・・・ヒロムは俺を猫とは思ってないし・・・」
 ソラはそう言ってから、口を手で押さえた。
 直人は、フッ、と片頬で笑う。

 ソラはムクれてからちょっとの間黙り込んだ。
 それから、真面目な顔になって、
「・・・でも・・・猫なんだよ・・・結局俺は・・・」
 と、悲しそうに呟いた。
「・・・悲しいかな・・・ずっと人間で暮らしてるけどな・・・」
 (・・・うーん・・・意味がわからない・・・)
「悲しいなら猫に戻ればいいだろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・俺・・・・・人間だし・・・・・」
「・・・・・え?」
「だからなぁー・・・俺はずーっと人間だって言ってんだろ?」
「・・・・・そうかぁ?」
 直人は腕組みをして考え込む。
「・・・ナーオがどうも勘違いしてるらしいから・・・そーゆーことにしといたけど・・・さ。」
「・・・・・勘違い?」
「だって、勝手に”俺は騙されないぞー”とかって言ってたじゃん。」
 直人は、ズンッ、と体が沈んだ。
 どうやら腰が抜けたらしい。

「・・・ハァァ・・・けどさ・・・結局俺は猫と同じさ。拾われた猫なんだ。・・・なぁー・・・どっちが大事だ?自分の娘と猫と・・・あんなに愛しく思い続けていた愛娘だぜ?しかも、父親としても責任があるじゃないか。・・なぁー?」
 直人の耳にソラの声が遠く感じる。
「・・・・・そりゃ・・・一緒に暮らしていた時間は楽しかったよ。心配性で、いっつも俺が誰かにイジメられてないか、って、俺の後を付いて来るのはちょっとウザったかったけど・・・。けど、それだって、本当は娘が心配なのを俺にすり替えてただけなんだ。・・・・・自分の本当の娘と一緒に暮らせるようになったんだから、もう俺のことは放っとけばいいのに・・・・・」
 ガンガン、と頭痛がしてきた直人は返事が出来ない。
「俺を養子にして一緒に暮らしたい、なんて言い出すんだぜ?・・・ヤバイだろ?・・・俺、親いるし・・・それにヒロムの奥さんだって、変に誤解するじゃないか。奥さんから見れば俺はれっきとした男なんだしさぁ・・・あ・・・いや、誰から見てもそうか・・・ククッ・・・”猫だ”って信じ切ったのはナーオくらいだ・・・クククッ・・・」
 (・・・あぁ、そうさ・・・どうせ俺は夢見がちな奴なのさ・・・クソッ・・・)
 直人は目眩もしてきて、グラッと横に倒れ込んだ。

「あ・・あれ?!・・・なぁー・・・ナァーオ・・・ナァーオ?」
 ソラの鳴き声が聞こえる。
 (・・・やっぱお前は猫だ。誰が何と言おうと猫だ。・・・You are Pet Boy!!!)

                       『Pet Boy』......end......