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Boy







★6★『Dark Boy』




 直人も携帯電話の機種替えをした。
 ソラがメール友達を見つけたらしく、時々画像や動画を送っているのが気になって、結局自分もそれを受信出来るタイプにしたのだ。


 仕事中はマナーモードにしているので、昼休みに会社近くの喫茶店で昼食を摂った後、香りのいいコーヒーを味わいながらメールをチェックする。
 ここの喫茶店のコーヒーが美味いのは、豆の仕入れを厳選していることと焙煎が上手いからだろう。
 直人が家で使用するコーヒー豆も、ここで購入している。

 喫茶店の名前は『MilkyWay』。
 首都で生まれ育ちながら星空が好きで、この地方都市に定住してしまったマスターらしい命名だ。
 BGMで流れる曲はノスタルジックなアメリカンフォークソング。
 直人の歳でもリアルタイムでは聞いたことがないような曲が流れるが、不思議と郷愁を感じる。
 まだ開拓途中だった広い平原で、見上げただろう星空が浮かんでくる。

 マスターは43歳。
 直人より一回り年上で、可愛い妻と大学生の娘がいる。
 家は別にあり、普段直人が家族に会うことは滅多にないが、夏休みには娘の美夜子がバイトで店を手伝うので、直人も面識があった。
 おっとりとした一家で、こんな家族はいいなぁ、と直人も思う。
 マスターの性格が反映するのか、店の雰囲気も落ち着いていて、直人には仕事の合間の憩いの場所となっている。


 ナポリタンを食べてから、濃いめのコーヒーを頼み、携帯電話をポケットから取り出す。
 店内は、”携帯電話での通話はご遠慮ください”と断りがあるが、メールは特に規制がなかった。
 メールチェックといっても、まだ直人のメールアドレスを知っているのはソラだけで、迷惑メールでない限り着信全てソラからのメールだ。
 しかも文字を打ち込むのが面倒だからと、ほとんど画像だけ、という訳のわからないメールだった。
「・・・プッ・・・クックックッ・・・・・」
 カウンター席で急に笑い出した直人を、マスターが首を傾げて見ている。
 直人は、「申し訳ない」とマスターに向かって片手を立てて軽く頭を下げ、笑みが零れる口元を手で覆った。

 ソラからのメールは5通。
 どうやって見つけたのか、そして、どうやってここまで登ったのか、高い木の枝に巣作りをして卵を温めている小鳥の様子を写したのが一枚。
 見下ろした神社の屋根・・・ということは、相当高い木に登って写したことになるが、毎日何処かしら高い所に登っているようなので、(猫の習性か・・・)と驚かなくなってきている。
 直人を思わず吹き出させたのは、次の3通。
 ○×肉屋の揚げ物コーナーの全景、揚がったばかりのコロッケの山、更に近付いてアップになったコロッケ。
 (よほど食べたかったんだな・・・)
 直人は、―@「夕食用にヒレカツを買ってくれるか?コロッケも2個までなら食べてよし!」―とメールしてやった。
 コロッケのアップ画像は20分ほど前のものだから、もうその場にはいないかも知れないが、ソラならすぐに駆け付けるだろう。

「・・・プーッ・・・クククッ・・・・・」
 思った以上に反応は早く、コロッケを熱そうに食べるソラの画像が、直人のメール直後に届いた。
 (・・ずっと店の前で見てたのか?)
 そんなに食べたかったのなら、渡してある小遣いで買えばいいのに、と思うが、ソラは自分の欲しい物を自分で買う習慣がないらしい。
 買って貰えない、ということは、欲しがってはいけないのだ、と勘違いしてるのだろうか・・・。
 確かに、破格の御曹司らしいソラにとって、必要な物も欲しい物も周囲の者達が買って用意してくれていたに違いない。
 だから、ソラが自分で物を買うのは、人の為であり、プレゼントくらいだったのだろう。
 「一週間も一緒にいなかった」と言うあのジャラジャラ総革男は別として、ソラを「カイト」と呼んでいた男はソラ(カイト)を猫可愛がりに可愛がっていたような雰囲気があった。
 「・・・ヒロムは優し過ぎるから・・・」と呟くように言ったソラの声が耳に残っている。
 服の着替えから箸の上げ下ろしまで手伝ってそうな男・・・
 尽くせるだけ尽くすかのように盲愛していただろう男・・・
 あの男も、ソラが欲しがる前に何でも買ってやっていたのかも知れない。
 男を突き放した後で、ソラが男に見せないようにして流した涙は、冷たいみぞれの中であまりにも悲しげだった。
 (・・・・・・・・・・・・・・・・)
 直人は眉を寄せ、眉間を指で押さえた。


「佐田さん・・・コーヒーがはいってますよ?」
 目の前で声が聞こえ、直人は顔を上げた。
 マスターがカウンター越しに微笑んでいる。
「・・ぁ・・や、どうも・・・スミマセン。・・・一人笑いは不気味ですよね。ハハ・・・」
 直人は照れ笑いを浮かべ、濃いコーヒーを口へ運んだ。
「いいえ、とてもいい顔をされてましたよ。好きな方が出来ましたか?」
「・・・いえ、そんな特別な相手では・・・・・」
 (いや。ある意味、特別な存在かも知れないが・・・)
「そうですか・・・ですが、いつもどこか寂しげな影があった佐田さんが、この所随分楽しそうなので、恋でもされてるのかと思ってました。ハハハ。」
「・・・寂しげ・・・でしたか・・・。マスターは、ご自身が幸せな家庭を持っておられるから、独り者が皆寂しげに見えるんじゃないですか?反感買いますよ?・・クスッ。」
「ほらほら。そうやって、ジョークで返される。ハッハッハッ。・・・やはり明るくなられましたよ。」
 マスターの笑顔があまりにも自然体だったので、直人も何だか素直な気持ちになり、畏まった鎧を外したくなった。

「・・・ちょっと変わった猫を飼いまして。・・・ほら。」
 直人はコロッケを囓るソラの画像をマスターに見せた。
 顔を前に出して携帯の画面を覗き込んだマスターは、伸ばした首を、ハテ?、と傾げてから、元の場所に戻った。
「・・・ネコさん・・ですか?・・・可愛らしい方ですね。」
「マスターまで誤解しないでくださいよ?僕は本当に、魔法で人になった猫だと思っていたんですから。」
 直人は細めた目でウィンクしてみせた。
「・・・ほぅ・・・」
「あまりにも星が綺麗な夜でしたので・・・そんな不思議もありかな、などと思ってしまいました。・・・実際には・・ちょっと変わった人間の少年でしたが・・・」
「・・・なるほど・・・わかる気がします。」
 マスターはまた自然体に微笑み頷いた。
「・・・・・とても・・いい子なんです。」
「なるほど、なるほど。」
 うんうん、と頷くマスターに、直人は少し疑いをかけるような流し目を送り、
「やっぱり怪しいと思ってます?」
 と、片頬に笑みを浮かべて聞いた。
「いいえ。・・・どんな対象であれ、愛する心を持てるのは幸せなことです。恋愛でなくてもいいじゃないですか。・・・私は星に恋してますから。」
 そう答えたマスターは声を小さくして、
「これは妻には内緒ですよ?」
 と、ウィンクをした。
 直人はクスクスと笑い、
「なぁに、奥様はとうにご存知でしょう。」
 と頷きながら答え、コーヒーを飲み干すと、午後の仕事に向かう為、席を立った。


 ソラのことを理解してくれる人が出来たことが嬉しかった。
 どんな理解かは判断がつかないが、”恋愛ではない愛”と言ってくれたマスターの言葉が、直人にとって(我が意を得たり)だったのだ。

 ・・・ただ、本当に恋愛感情抜きなのかは自信がない。
 今でもソラに見取れて時間が経つのを忘れてしまうことがある。
 お風呂あがりの桜色に染まった肌を見ると、ドキドキしてしまう。
 そして、輝きを灯した深く青い透明な目に見つめられると、跪いて傅きたいほどの気持ちになる。

 あの暴走族の男が寝込みを襲った気持ちが理解出来てしまうのは、危険な心理かも知れない。
 直人もソラの寝顔を眺めながら、どうやっても前に落ちてくるソラの前髪を、出来ないとわかっているのに何度も後ろに撫でつけて遊んでしまう。
 飽きもせずに繰り返していると、前髪にくすぐられた額がむず痒いのか、ソラが寝ながら額を綺麗な指で掻いたりすると、もう可笑しくて声を押し殺して笑っている自分に、・・・ふと気付いて呆れてしまう。

 だいたい、肌が綺麗すぎるし、ほんのり赤味のある唇が柔らかそうだし、ツンと形のいい鼻もつまんでみたくなるほど可愛い。
 むげに襲わないのは、大人としての理性が働くだけのこと・・・。
 そして、奪おうと一方的自我を解き放てば、バランスを崩して全てを失ってしまう。
 (金の卵を産むガチョウの話と同じか・・・?)
 切り裂いて得ようとしてもそこには何もない。
 得ようと欲するだけが、愛ではないだろう。

 ソラから何かを得ようとは思わない。
 ただ、愛していたいのだ。
 ・・・愛せることが嬉しい・・・
 だから・・・失うことが何より怖い・・・。

 (今度、時間がある時に、ゆっくりマスターと話してみようか・・・)
 自分自身の感情さえわからないのでは、あの男とたいして変わらない。
 (自分もまだまだ未熟ということだな・・・)
 仕事での行き詰まりは何度も味わってきたが、心の未熟さなど気にしている余裕もなかった。
 自分自身を振り返ることが多くなったのも、ソラがもたらしてくれた幸福の種だ。
 自分を再認識した先に、新しい何かを見出せる気がしてくる。

 直人はもう一度、ソラの画像を見てから、会社へと入って行った。



 会社帰りに買い物をしていて、ふとチョコレートが特別に陳列されているのに気付いた。
 もう前からそこに特設コーナーは出来ていたのを、気にも留めなかっただけなのだが、昼間マスターとあんな会話をしたせいか、直人もソラにチョコレートを贈りたくなってしまった。

 (どうせなら手作りチョコにしよう。)
 妹のチョコ作りを手伝ったこともあり、うろ覚えながら作り方を記憶している。
 チョコレートを貰う立場から言っても、手作りチョコレートは嬉しかった。
 直人は、女性客ばかりの売り場で怪訝な視線を投げかけられながら、あれこれと材料を買い込んだ。

 チョコレート作りは渡すまで内緒にしたい。
 だが、今回挑戦するトリュフは、作り方は簡単でも固める時間がかかる。
 仕事が休みになる日曜日に作ろう、と決めたが、ソラに気付かれてしまうだろうし、どうしたものか・・・。



 そんな小さな悩みを胸に抱えつつ、日曜日がやってきた。
 (バレンタインデーは明後日・・・どうしても今日中に作りたい・・・)
 直人は、ソラに何か用事を頼もうか、と思案していた。

 日曜日の朝は、ジョギングとストレッチをしてから、シャワーを浴びて朝食になる。
 シャワーは食事の支度をする直人が先に使い、ソラは水槽の魚達にエサをやり、その様子を眺めて待っていた。
 ソラの番になり浴室へ入って行ったはいいが、食事の用意が全て整ったのに、まだソラが出て来ない。
 (いくら何でも長すぎるんじゃないか・・・?)
 直人は、ふと不安になり浴室を覗いてみることにした。

「・・ッゲフッ・・・ブファッ・・・・・」
 ドアを開けた途端、直人は仰け反って息を止め、手で鼻を覆った。
「・・・ソ・・ソラ・・・何ヒテルフファ・・・ゴフォッ・・・」
 ソラは腰タオル姿で大きな鏡の前に立っていたが、直人に気付き、
「・・・・・・・・・・・・・・・・ん?」
 と、顔を向けた。
 直人は可能な限り後ずさり、鼻を覆ってない方の手で、前方の空気を左右に振り分けている。
「・・・ナーオ?」
「・・ソラ・・・この強烈な臭いは何なんだ?」
「何って・・・ナーオのトワレだろ?」
「・・・え?・・・・・まさか・・・・・?」
 直人は恐る恐る鼻から手を退かして臭いを確かめてみた。
 言われれば、確かに直人が普段使っている匂いと同じようだが、指先を湿らせて耳の後ろと手首に擦る程度の匂いとは、圧迫感が違い過ぎる。
 同じ匂いで何故ここまで強烈な悪臭になるのか・・・。
「・・・お前・・・一体どれくらい使ったんだ?」
 息苦しさに目眩を感じながら、直人が目を眇めて聞いた。
「アハッ。ローション代わりに体中に塗ってみた。」
 (塗るなぁーーーッ!)
「・・・シャワーを浴び直せ。でないと、食事抜きにするぞ。」
「え〜〜〜・・・」
 直人は反論を聞かずにその場を立ち去った。
 これ以上その場にいたら、吐きそうなほど胃がむかついていたのだ。


 シャワーを浴び直したソラがキッチンテーブルの席に座った。
 何だかまだ匂いが立ちこめている気がする。
 さっきの匂いで鼻の感覚が狂っているのか、判断がつかない。
 何にせよ、到底物を食べる気が起きなかった。

 ソラは平気な顔でバターとマーマレードを塗ったパンを囓っている。
「・・・ソラ・・・お前、匂いが判らないのか?」
「え?・・・判るぜ?」
「・・・判るなら何であの強烈な悪臭の中で平気なんだ?・・・と言うより、よく悪臭になるほど体に塗りたくれるなぁ?」
 言いながら直人はムカムカと吐き気がしてきた。
 今も匂ってるのか、思い出した匂いなのか、軽い目眩の中で香りの消えたコーヒーを啜る。
「そんなに強かったかなぁ・・・」
「絶対的に強い!・・あんな中で息が出来るのが不思議だ。」
「・・だって・・・毒素が入ってないから、いいかと思ったんだ・・・」
「トワレに毒素が入っててたまるか!」
「・・・・・そんな怒らなくたっていいじゃん・・・サクッ・・ブツブツ・・・」
 ソラはパンを囓りながらブツブツと言葉にならない文句を呟く。
「大体だなぁ、食事前に香水をつけるなんて非常識だぞ?」
「・・・・・だって俺・・・腐った死体や肥溜めの側で食事したことあるし・・・」
 (・・・・・・・・・・・・・・・・ゥプッ・・・)
 直人は絶句し、胃液が逆流しそうになった。
「・・・どこにそんな・・・」
 吐き気で言葉にならない。
「凄い嵐の後さぁ、ビルくらい大きなクジラの死体が着岸して・・・あの時は大変だったぞぉ?・・臭いに誘われたサメが群で押し寄せて暴れるし、解体して食べようにも色々な菌に汚染されてないか調べなきゃならないし、半端な量じゃないしさ・・・外側や内臓がどんどん腐ってくし・・・あの時は俺もつい弱音を吐いて・・・叱られた・・・」
 (・・・・・クジラの死体か・・・ホッ・・・・・)
 取り敢えず”人”ではないことに安心したが、今度は魚の腐った臭いや内臓の悪臭までが想像するだけで漂ってくるようで、直人は完璧に青ざめグロッキー寸前となっていた。
「・・・とにかく・・・食事時に・・・香水や・・・そうした話は慎んでくれ・・・」
 フラリと立ち上がった直人は、足元がおぼつかない状態で寝室へと逃げ込み、ベッドへ倒れた。


「なぁー・・・大丈夫かぁ?」
 ヒンヤリとした感触と冷たい呼吸に、朦朧としていた直人の意識がハッキリしてきた。
 目を開けようとして開かず、条件反射的に顔を手で触れた直人は、冷たく絞ったタオルが目から鼻先まで覆っていることに気付いた。
 冷たいタオルで冷やされた空気が、鼻孔を通って肺を清涼感で満たしてくれる。
 タオルを少しズラして目を開けると、ソラが心配そうに覗き込んでいる。
 (・・・ソラ・・・お前がしてくれたのか・・・)
 直人は笑みを浮かべ、ソラの白く緊張した頬を指先で撫でた。
 ソラの青い目が不安げに影を差している。
 瞬きをすると、湖面を風が渡るように揺らめくのは、泣くまいと堪える涙のせいか、静かに美しい青を湛えている。

「・・・ごめんな。・・・俺ってどうもニブイらしくて・・・ナーオが匂いに敏感で嫌がってるってこと・・・すぐに判らなかったんだ・・・」
「・・フフッ・・気にするな。・・・空腹なところに・・・調子が悪かっただけだろ・・・」
「・・・けど・・・俺・・・・・」
「お前のせいじゃないさ。・・それに少し休んでいれば、すぐ良くなる。・・・そんな顔して心配するなよ・・・男としての僕の威厳がガタガタになるぞ?ハハ・・」
「・・・・・元々・・威厳ないし・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ソラ〜〜・・・」
「アハッ、なーんてな。けど、ダメージが少なそうで良かった。」
 (・・・ダメージという言葉の響きまで屈辱的だ・・・)
 直人はタオルを動かし目を覆った。
「あ、タオル・・冷えてるのに替えてやるぜ。」
 《…シャバッシャバッ…カラン……》
 (・・・カラン?)
 直人がタオルを上げて顔を横向きにすると、ソラが洗面器から別のタオルを出して絞っているのが見えた。
 ソラの指先が赤くなっている。
 (・・・氷まで入れて冷やしてくれたのか・・・)
 直人はソラの気遣いが嬉しくて、タオルの上から目を押さえて深く息を吐いた。

「なぁー、新しい方が気持ちいいぞ。」
 ソラが直人の手を退けてタオルを替える。
 ムンズと無造作につかまれた手首がゾクッと冷える。
 (・・・微妙に無神経だったりするなぁ・・・)
 直人はソラの子供らしさが可愛くて、クスクスと笑みを零した。
「・・・あ?」
「・・いや。・・・ありがとな。」
「遠慮するな。困った時は助け合わないとな。・・・さて・・・じゃぁ、俺は出掛ける用意があるから、・・ゆっくり休めよ。」
 何とも偉そうな言いようだ。
 (・・・ちょと待て・・・助け合いと言いながら、出掛けるのか?)
「・・・散歩か?」
「・・ンフッ・・・内緒ぉ〜・・・クフフ・・・じゃぁな。」
 ソラの声は、もうドアの所に移動していた。
「・・・おい?」
 直人がタオルを外して頭を上げた時、《バタン!》と虚しくドアが閉まった。
 (・・・何だったんだ・・あの笑い?・・・・・トワレ・・・?)
 普段はそんなことをしないのに、今朝に限って体中に塗りたくったトワレと、何か関係しているように思える。
 (”助け合い”はどーしたぁーーッ?)
 「内緒」と言って笑った声が、妙に嬉しそうだった。
 ……ジリッ……
 直人の胸の何処かが、焦げる痛みを感じた。



 吐き気も治まり、直人は気を取り直してチョコレート作りを始めた。
 ソラが出掛けた理由が気になってはいたが、ソラに内緒でチョコレートを作りたかった直人にとっても都合が良かった。

 中の生チョコはラム酒とオレンジリキュール二種類の香り付けにしよう、と直人は鼻歌まじりにチョコを刻んだ。
 生クリームを温めながら刻んだチョコを溶かし、完全に溶けた所で香り付けのお酒を入れる。
 (・・・ぅーん・・・こんなもんだったかなぁ・・・?)
 妹の手伝いをしたのは、もう10年以上前になる。
 手順は覚えていても量加減がわからない。
 直人は試しに小さなスプーンにすくい、味見をしてみた。
 (・・・まったく匂いがしない・・・足りなかったか?)
 直人は首を傾げて何度も味見をしながらラム酒を加えていった。
 (いい加減、香りがしてもいいはずだがなぁ・・・)
 チョコレートと混ざると香りが分かり難いのかも知れない。
 直人は納得出来ないものの、オレンジリキュールの方も作り始めた。

 固まりかけたら二つのスプーンで一塊りを丸め、クッキングシートを敷いたトレーに並べていく。
 ラム酒入り生チョコとオレンジリキュール入り生チョコ、違った食感が楽しめるようにラム酒の方には砕いて細かくしたアーモンドを塗した。
 冷蔵庫で30分冷やしたら、手で丸く形を整えてやり、再び冷蔵庫へ。
 その間に周りを包むチョコレートを溶かす。
 妹に出来上がりを分けて貰った時、パリッとしたチョコの中からとろける生チョコの味わいが絶妙で、それほど好きでなかったチョコを続けて3個食べていたのを思い出し、ソラならもっと喜んでくれるだろうと、直人は完成が近付くにつれ自分自身が嬉しくなっていった。

 が、最終段階になって問題が発生した。
 コーティング用のチョコが足らなくなってしまったのだ。
 パウダーシュガーかココアパウダーを塗してしまうという手段もあるにはあるが、周りのパリッとしたビターチョコがあるから、中の甘い生チョコがいきてくるのに・・・。
 直人は、考えても仕方ない、とビターチョコを急いで買ってくることにした。


 10階の階段を駆け下り、公園先のフードショップまで急ぎ足に向かう。
 公園先のフードショップは、スーパーでは扱わないような輸入品や高級食材を売っている。
 直人は贈り物にする時以外は買い物をしたことがないが、グルメ嗜好の主婦の間では人気がある店らしい。
 (どうせなら本格的なチョコでコーティングしよう。)
 大股に歩く直人の足取りは軽かった。

 公園前を通り過ぎる時、何気なく中を眺めていた直人は、ソラの姿を見つけてドキッとした。
 歩く速度を落とし、様子を伺う。
 ソラは、携帯で誰かを写しているようだった。
 ……ドキンッ!!
 淡いモヘアのワンピースを着ているのは、間違いようもなく女性だ。
 後ろ向きなので顔までは判らないが、柔らかそうな髪が肩先で揺れている。

「…ぁあん……ミコったらぁ……クスクスッ……もぉぉ…ダメよぉ……」
 春風のように甘く響く優しい声・・・
 直人は何故か唾を飲み込んだ。
 ソラはその女性に色々注文をつけているようで、恥ずかしがる女性が「…ィャィャ…」と首をゆっくりと振り、後ろ向きになった。
 (・・・何て柔らかな表情で笑う少女だろう・・・)
 直人は、女性の明るい目の輝きと可愛らしい笑みに、引き込まれるように見取れていた。
 と、女性が風で顔にかかった髪を華奢な指先で梳き上げた。
 ……キラリッ……と光ったのは左の薬指。
 (結婚している女性かぁ?!)
 直人は目を丸くして息を飲んだ。
 (・・・そー言えば・・・小さな子供の母親と仲良くなった、と言っていた・・・)
 直人は無性に腹が立ってきて、二人の姿を無視するように、フードショップへと急いだ。


 フードショップで目的のチョコと珍しい果物を買っての帰り道。
 公園の方を見ないようにしよう、と決めていたのに、つい視線が向いてしまう。
 結婚指輪をはめた女性とソラは、ベンチに座ってお弁当を食べている。
 (・・・な・・・何をしてるんだぁぁーーッ!)
 《…ガサゴソガサゴソ……》
 肩を戦慄かせている直人の手に持った買い物袋が、小さく音を立てる。
 聞こえはしないだろうが、直人は自分の体を木陰に隠すようにして、しばらく二人を観察した。

「…フフッ……はぃ、ミーコ……ぁ〜ん?」
「あーーん・・・パクッ・・・ンフフッ・・・ウマイぃ〜・・・」
「そぉ?……良かったぁ〜…いっぱいあるのよぉ〜…フフッ…」
 (・・・昼間からいちゃついてるなッ!)
 そう心の中で叫ぶ一方で、女性のあまりの無垢な愛らしさに胸が疼いてしまう。
 妻とか母とか思えない可憐さでありながら、ソラを包み込む優しいオーラは慈愛に満ちている。
 (・・・しっかし・・・”ミーコ”だってぇ?・・・ソラの奴、あの女性にも猫だと名乗ってるのか?・・・俺の”タマ”は拒否しながら・・”ミーコ”ならいいのか?)
 そうゆう問題でもないように思うが、他に怒りの持って行き場がなかった。
 ……ジリッ、ジリッ、ジリリ……
 胸の奥が更に焦げ付き、燻した臭いが直人の体中を駆け巡るようだ。

 直人は悔しさと惨めさを振り切るように、マンションまでの帰り道を駆け抜けた。
 荒い息遣いでマンションルームの玄関ドアを開けた直人は、靴を脱ぎながら買い物袋を床に叩き付けた。
 (何が”自分の居場所”だ・・・しっかり彼女を見つけてるじゃないか・・・)
 ・・・人妻に恋してるから辛いのだろうか・・・
 (わからない・・・)
 ・・・こんなのは裏切りだ・・・
 (どうして裏切りになるんだ?)
 いくつもの思考が頭の中をグルグルと回る。
 直人は肩を落として、大きく溜息を吐くと、
「・・・怒ってみたところで・・・しょうがないじゃないか・・・」
 と呟き、
「さぁ・・・チョコレートを完成させよう。」
 と、自分に言い聞かせるように言った。



 直人がトリュフを完成して、使った道具を片付け終わった頃、ソラが浮かない顔で戻ってきた。
「・・・お帰り・・・コーヒー飲むか?」
 直人はリビングの窓際のソファーで、入れたばかりのコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
 ソラは黙って直人の向かい側に座り、大きく息を吐くと、片膝を立てて頬杖をつき窓の外へと視線を投げた。
 (・・・恋煩いか?)
 直人は眉を聳やかし、自嘲的な笑いを浮かべた。

 と、いきなりソラが直人の方を向き、
「・・・なぁー・・・何かチョコの匂いしないか?」
 と質問をした。
「・・さぁ・・・気のせいだろ。」
「俺はこれでも嗅覚はいいんだぞ?数百種類の匂いは判別出来るし・・・」
 (それでよくあの激臭の中にいられたものだ・・・)
「もっともドラキュラは数千種類だから・・・敵わないけどな・・・」
 直人は興味がない、とばかりに音を立てて、新聞のページを捲った。
「なぁー・・・ナァーオ・・・チョコレートぉ・・・・・」
 今度は直人が返事をせずに、新聞記事を読み耽っている。
「・・・・・チェッ・・・・・あー喉が乾いたぁ・・・牛乳飲もぉ〜モォ〜モォ〜・・・」
 (・・・フン・・・牛に転職か?)
 と、そこで直人は冷蔵庫にチョコレートをしまってあることを思い出した。
 一応箱の中に入れてあるが、本当にソラの嗅覚が鋭敏だとするなら、見つけてしまうに違いない。

「あ・・僕が持ってきてやろう。帰ったばかりで疲れてるだろ?」
「ん?・・・全然。」
 ソラは気にも留めず、キッチンへと進む。
「いや・・今日は陽射しが暖かかったから、公園だと汗かいたんじゃないか?」
 (・・・・・・・・・・・・・・・・あ・・・)
 直人は言ってから、(しまったぁーッ!)と焦って、汗が噴き出した。
「・・・あれ?直人、何で知ってるんだぁ?」
 ソラは隠す素振りもなく冷蔵庫の扉を開けた。
「・・・・・ちょっと買い物で通り掛かったからさ・・・・・」
 (・・・結局白状してしまった・・・)
「・・・・・・・・・・・・・・・・ふーん・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ソラは牛乳をパックごと飲みながら、チラッ、と冷蔵庫の中へ視線を流した。
「お前・・女性といただろ?」
 気を逸らさせようとした言葉が虚しく無視される。
 いや、無視とは言わないかも知れない。
 ただ、ソラの興味が冷蔵庫の中の箱に向いてしまっただけだ。


「・・・あぁぁぁーーーーーッ!やっぱ、チョコあるじゃん!」
 直人は額に手をあて項垂れた。
 バレてしまえば、もう話し掛ける必要もない。
「バレンタイン用のチョコだからな。一個だけにしろよ。」
 そう言うと、ソファーに戻って、また新聞を広げた。
「・・モグモグ・・・ぅーわッ・・・これ、美味いぞー!・・・なぁー、なぁー、もう一個ぉ〜〜・・いいだろぉ〜〜?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ダーメ。」
「何でだよぉ?こんなにいっぱいあるんだからぁ・・いいだろぉ?」
「だから、バレンタイン用のチョコだって言ってるだろ?今食べる物じゃないぞ。」
「・・・・・誰にやるんだ?」
「・・・さぁ・・・・・内緒だ。」
 直人は少し仕返しをしてやりたかった。
 が、ムッ、としたソラが、いきなりバクバクと食べ出した。
「あッ?!・・・おい!」
 ソラは次々と口に放り込んでいく。
 そして、次第にソラの顔が赤くなり、目がトロンと据わってきてしまった。
 (・・・・・・・・・・・・・・・・え?)
 直人はソラの異変に、サーッと血の気が引いた。

「ソラ!もう止めろ!」
 ソラは益々顔を赤らめ、頭をフラフラさせている。
「・・ッばかッ・・・それはソラの為に作ったんだ。・・・が、誤ってお酒を効かせ過ぎたらしい。だから、もうそこで止めておけ。」
 今飲んでいたコーヒーもいつもほど香りがないと思っていたが、直人の嗅覚がバカになっていたらしい。
 それで、チョコレートに入れるお酒の量を多くしてしまったのだ、と気が付いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・俺の?」
 ソラはプーッと頬を膨らませ、
「・・・っんだよぉ・・・早く言えよなぁ・・・」
 と、目を眇めて呂律が危ない様子で言った。
 それから、牛乳を飲もうと1リットルパックを傾け、鼻から顎へと溢れさせ、服にまで零してしまう。
「・・・ップハッ・・・ケフッ・・・っんだ、こるぁぁぁ〜・・・」
 牛乳パックを目の位置に掲げ、睨み付ける。
 (おいおいおい・・・・・)
 直人は慌ててソラに駆け寄り、体を支えつつ汚した場所を拭いてやる。
 ソラは直人の腕の中でグニャリと体の力を抜き、
「・・・クフン・・クフン・・・ナーォがぁ・・・意地悪言うからぁ・・・クフン・・・」
 と、半泣き状態になってしまう。
「わかった、わかった・・・僕が悪かったよ・・な?」
「・・・・・クフン・・・クフン・・・・・・・・・・・・・・・・ぶーーーーーん・・・・・」
 (・・・意味がわからん・・・)
 直人はソラを寝室に連れて行き、ベッドに寝かせることにした。


 朝、直人の頭を冷やした洗面器とタオルが、今度はソラの役に立っている。
 氷も水に浮かせて、冷やしたタオルを額に乗せてやると、
「・・・・・F−18乗った時ぐらい・・・気持ち悪ぅ・・・・・」
 と、弱々しい声で呟いた。
 (・・・F−18?・・・聞いたような・・・え?・・って、ジェット戦闘機のF−18か?!)
 直人は真偽を問うよりも、ソラの状態が心配だった。
「・・・スマン・・・水飲むか?・・いや、飲んだ方がいい。アルコールの血中濃度を下げないとな?」
 直人はペットボトルに差したストローをソラの唇に付けた。
 ソラは素直に《…ゴクッ…ゴクッ…ゴクッ……》と飲んで、「ハァァ・・・」と息を吐いた。

「・・・ナァーォ・・・なぁー・・・俺が嫌ぃ…か?」
「・・嫌いなら・・・バレンタインチョコをわざわざ作らないだろ?」
「・・・けど・・・内緒にした・・・・・」
「・・それは・・・お前だって彼女とのデートを内緒にしてたから・・・」
「・・・彼女?・・・she her her・・・」
「いや・・・だから、ガールフレンドなんだろ?・・例の・・・」
「・・レイの・・Girlfriend?・・・・・・・・・・・・・・・・大魔王が憤激するぞ・・・・・」
 (・・・酔ってて話にならないか・・・)
 直人はソラのタオルを新しく絞ったタオルと取り替えてやる。
「まぁ、いい。・・・話は後にしような?・・眠れるなら少し眠った方がいいぞ。その方が楽になるからな。」
 脈拍は落ち着いてきているし、意識もハッキリしている。
 急性アルコール中毒までは心配ないだろう。
 少し静かに寝かせてやろう、と腰を浮かした直人の気配を感じたのか、
「・・・ぃゃ…だ・・・ここに…いろ・・・」
 と、ソラが毛布から手を出し、見えない先に伸した。
「・・・・・ソラ・・・・・」
 直人はソラの手をそっと握ってやった。

「・・・公園で見かけたのなら・・・声を掛ければ良かったのに・・・。ナーオに会ってみたい、って・・・言ってた・・・」
「・・お前が内緒だって言ったんだぞ?」
「・・・だって・・・照れるじゃん・・・」
「だったら・・・僕は遠慮する・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ケチ・・・・・・・・・・・・・・・・」
 (だぁぁぁーーッ・・・・・訳わかんないぞ!)
「お前の彼女に会ったって、仕方ないだろうが?」
「・・・・・何?・・・どーゆー意味だ?」
「だから・・・小さな子供のいる優しそうな母親と仲良くなったんだろ?」
「・・・・・昔から仲いいぞ?」
「どれくらい昔だ?」
「生まれた時から・・・」
 (・・・・・・・・・・・・・・・・??)
「何でそうなる?」
「だって、俺のママだもん。」
「はぁ?」
 直人は急いで頭の中の記憶を、公園で見かけたところまで巻き戻してみる。
 いくら若く見えるとしても、どう見積もっても二十歳前半がやっとだろう。
「・・・お前が産めるか?・・お前、15歳だろ?」
「俺さぁ、ママが16歳で生んだんだよなぁ。・・・あぁ・・ってことは、直人と同い年じゃないかぁ?」
 (同い年?・・・16歳で母親ぁ??)

 あまりにも無謀な説明に、少し叱ってやろうか、と思った時・・・直人の遠い記憶の中から16歳当時のセンセーショナルなニュースが蘇った。
 ――ひと頃マスコミでかなり騒がれた結婚があった。
 (そうだ!確か相手は○商事会長・・・確かに符合する・・・)
 マスコミを避けるように外国へ行ってからは、まったく表に出ることがなかったので、人々の記憶から消えたのだが・・・。――
 (・・・ソラが「母親は妖精」と言ってたな・・・)
 そうかも知れない・・・
 そうとしか例えようがないほどに、人としての気配が希薄だった・・・。


 直人はしばらく呆然として、握ったソラの手を見ていた。
 スベスベな肌で綺麗な長い指をしている。
 いかにも少年らしい繊細さを感じる手だ。
 夢も希望も、どんなものでも掴み取れそうでありながら、未熟な脆さも感じさせる。
 (・・・・・可愛い”猫の手”だ・・・)
 どんな思いを背負ってここまで流れてきたのだろう。
 直人は静かに微笑み、ソラの手を撫でた。

「・・・・・ミーコ・・・」
 ……ピクッ……
 寝ているかと思ったソラの手が反応する。
「・・・ミーコ?」
 直人が繰り返し呼ぶと、ソラがいきなり上半身を起こした。
 タオルが落ちて、思い切り不機嫌そうなソラの顔が現れる。
「違う!俺は命、命<いのち>と書いて<ミコト>だ!」
 (・・・やっと本当の名前がわかった・・・)
 直人は嬉しさから、顔がにやけてきてしまう。
「笑うなぁー!・・・それに俺を名前で呼んでいいのは、パパとママだけだ。」
 (・・・別に変じゃないのに・・・ククッ・・・何を照れてるんだ?)
 直人はムキになるソラが可愛かった。
「じゃぁ・・・他の人達は何て呼ぶんだ?」
「・・・弟は”にーたん”・・・パパの仲間は”若君”とか”ルシー”・・・」
 (”ルシー”?・・・あぁ、”ルシフェル”だから・・・)
「・・・何で”ルシフェル”なんて名があるんだ?・・・いくらニックネームにしても、悪趣味だろう?」
 ソラは唇を噛んで躊躇ってから、
「・・・いつか、月に行ったら・・・火星でもいいけど・・・そこはきっと闇世界だから、そこでの呼び名を”ルシフェル”にしようと思ってさ。」
 と、ツンと顎を上げて答えた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・そうか・・・・・・・・・・・・・・・・」
 直人はゆっくり頷いてから、マジマジとソラを見つめた。
 (・・・やっぱりわからん・・・・・・・・・・・・・・・・Why do you wont to be "Dark Boy"?)

                       『Dark Boy』......end......