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Boy







★7★『Star Boy』





 ・・・ん・・・甘い匂いが・・・・・
 駐車場に車を停めた直人は、トランクを開けて買い物の荷物を下ろそうとした手を止めた。
 顔を上げ辺りを見回すと、駐車場に隣接する小さな公園の梅が、境の金網越しに枝を伸ばしている。
 かなり小振りな梅の木で、細い枝に小さく白い花がポツポツと咲いている。
 まだ一分咲きにも満たないほどなのに、ほのかに香りを届けてくれる。
 直人は、早春の冷たい空気の中で、懸命に咲いて甘く香る梅が、華やかな桜より好きだった。
 (・・・ありがとう・・・)
 小さな白い花を愛おしく眺め、そう心の中で呟くと、香りを讃えるように目を閉じて深呼吸をした。


 この所、仕事は順調だ。
 日が延びて春めいてきたせいなのか、何となく皆の表情も明るくなってきた。
 忙しさは相変わらずだが、直人は部下達の為に、週一で定時帰りの日を決めている。
 定時帰りでも、冬の間はすでに夜の暗さだったのが、今は明るさが残っている。
 たったそれだけの違いかも知れない・・・。
 それだけの違いなのに、ネオンライトを浴びて帰宅するより、自分が地球の大地と関わって生きていることを実感する・・・。
 (・・・太陽の光とは偉大なものだな・・・)
 フッ、と微笑んだ直人は、買い物袋が三つは入る超特大のトートバッグを軽々と肩に担ぎ、気分良くいつものマンションの階段に向かった。

 と、階段の登り口にソラが踞って座っていた。
 膝に顎を付け、小さく体を前後に揺らしている。
 明らかに沈み込んでいるとわかる表情は、胸が痛くなるほど寂しげだった。
 (・・・?・・・一体どうしたんだ?)
 いつもは強気な顔をしているが、ごく稀に見せる儚げな少年の顔は、無垢な透明さを感じさせる。
 寝顔の幼さとはまた違った趣があり、直人にとっては密かに楽しみだったりするが、ソラ本人は一番見られたくない顔らしい。
 それがこんな場所で、心を投げ出すように踞っているのだから、何かあったに違いない。
 (・・楽しんでいる場合じゃないな・・・)
 直人は肩のトートバッグを置いて、ソラの前にしゃがみ込んだ。

「・・・ソラ?」
 呼び掛けて初めて気付いたのか、ソラの揺れていた体が止まり、ゆっくりと顔を上げて直人と視線を合わせた。
 そこには脅えたように、深く青い瞳が揺れていた。
「・・ん?・・・どうしたんだ?」
 直人は、ソラの手に重ねるようにして膝に手を乗せた。
「・・・・・別に・・・・・」
 ソラは、ツイッと視線を逸らし、口を”へ”の字に曲げて答えると、いきなり立ち上がり、階段を駆け上って行ってしまった。
「・・あ・・・おい、こら・・・」
 (・・・・・・・・ハァァ・・・・・荷物持ちくらいしてくれ・・・・・)
 買い物のたびに悩まされる飲み物類。
 ミネラルウォーターはケース単位でまとめ買いをするようにしたが、牛乳とオレンジジュースとグレープジュースは新鮮な方がいいので、その都度買うことにしている。
 (・・・この重量の半分以上がお前の腹に収まるんだぞ・・・)
 直人は頭上を遠離る足音に、恨めしそうな溜息を吐いた。

 (いっそオレンジだけでも箱で買うか?)
 トートバッグを肩に担ぎ、10階までの階段を登りながら、ふと思い付く。
 ジュースだって搾り立ての新鮮な方がいいに決まってるし、何より箱買いをすると玄関先まで届けて貰える。
 だが、ソラが一日に消費する一リットルのジュースを絞るのに、どれほどのオレンジが必要だろうと想像してみた。
 ジュースに出来るのは中味だけだし、一個でコップ一杯は無理だろう。
 直人の頭の中で、山積みになっていくオレンジの皮を思い浮かべ、(無理無理・・・)と首を振り断念した。
 だいいち、山積みしたオレンジが腐り始めでもしたら最悪だ。
 柑橘類が腐った時の異臭は、耐え難いものがある。
 卵の腐臭の次に直人の嫌いな臭いで、そのせいでシトラス系の香りは使わない。
 果実が豊富な土地柄で、皮も土に還すか、他の生物が食べる環境にあれば可能かも知れないが、街中での生活ではパックのジュースで満足するしかない。

 (・・・近い内、ソラとどこかに出掛けるか・・・苺狩りとかなら日帰り出来るしな・・・)
 スキューバーダイビングスクールは、3月からのコースを申し込んであるが、実際に潜れる南洋の海にはすぐに連れて行けない。
 先日依頼を受けた大きな仕事が当分忙しく、連休中は休めそうにないのだ。
 が、夏休みには絶対長期休暇を取りたい、と思う。
 「ほぉ〜?・・・長期休暇なぁ?何処へ行くんだ?・・・どうせなら、行きっ放しで帰って来なくてもいいぞ?君がいない間に会社がどうなってるか、わからんしなぁ・・」と、ゴルフ焼けした部長にチクチクと嫌味は言われそうだが・・・。
 立場は課長、扱いは平社員、文句だけが社長の甥っ子という、頭を押さえつけられながらの嫌味は毎度のことだ。
 諦めの心境で何でも黙って聞いてしまう直人の人柄が、部長としては気に入ってるらしいが、直人本人からすれば”目を付けられている”としか言い様がない。
 (・・・まぁ、いいさ・・・)
 ソラの様子が気になった直人は階段を登る足を速めた。


 ようやく10階に到着し、重い荷物を持ち替えて凝った首を回した直人は、再びソラの姿を目にして眉を曇らせ足を止めた。
 とっくに部屋に入っているだろうと思ったのに、玄関ドアに寄り掛かり足元のタイル張りになっている床を蹴っている。
「・・・ソラ?・・・・・鍵を落としたのか?」
「・・・・・いや・・・」
 ソラはポケットから鍵を出してドアを開け、中に入っていく。
 (・・・一体何があったんだ?)
 考え込みながらゆっくりと歩いていた直人の鼻先で、ドアが閉まった。
 (・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「ソラッ!お前なぁ〜・・・」
 自分の鍵で玄関ドアを開けた直人は、大股にリビングに進み声を荒げた。
 だが、カウチで膝を抱えて踞り、体を前後に揺らしているソラの姿を見た途端、怒りが何処かに飛んでいった。
 よく小さな子が、不安や寂しさを紛らすようにする仕草に、似ていることに気付いたのだ。
 (・・・こんなソラは・・・初めてだ・・・)
 とは言え、ソラの今の態度では、事情を聞こうにも話してくれそうにない。
 直人は声を掛けることを諦め、買い物の荷物をそれぞれの定位置に納めて、夕食の支度に取り掛かった。


 いつもなら、自分から「なぁー、ナーオ、なぁー、聞けよ。」と、その日のことを話すソラが、貝のように口を閉ざし、視線も合わせないようにして食事を済ませた。
 それからまたカウチで膝を立て、ぼんやりしている。

「ソラ。・・ほら、ジョギングに行くぞ?」
 ジャージに着替えた直人は、体を左右に捻ってツイスト運動をしながら、さり気なくソラに声を掛けた。
 ソラは煩そうな上目遣いで直人を睨む。
「今日は昼間暖かかったからなぁ・・・公園の大きな梅の木も綻んだかも知れないぞ。帰って来た時、駐車場でも金網越しに、小枝を伸ばした梅が花を開いて香ってたんだ。向こうの公園の大きな梅の木なら、もっといい香りがするぞ。」
「…………イカナイ…………」
「・・・ソラ・・・」
 直人は小さく溜息を吐く。

 (・・・どうすりゃいいんだ・・・?)
 小さな子は苦手だった。
 自己主張はあるのに、意思表示が出来ない子供は、言葉の代わりに愚図って癇癪を起こす生物、に見える。
 その延長線に”悪ガキ”がいるようで、これまでずっと意志の疎通を放棄して、関わらないように避けてきた相手だった。
 だが、考えてみればペットといった類も、伝える言葉を持たない。
 ただただ訴える眼差しを向ける・・・。
 でなければ、丸くなって自分の作った見えない殻に閉じ籠もり、痛みが去るのをジッと耐えている。
 きっと、ソラも何処かが痛くてたまらないのだろう。
 そう思うと、直人の心までが、軋むような痛みを覚えた。


 あまり横幅がないカウチに、割り込むように座った直人は、隅に追いやられて膨れっ面をしているソラの肩を抱き寄せた。
 ソラの柔らかい髪にキスをして、頬をそっと押し当てながら、
「どうしたんだ?・・・僕がここにいるのさえ・・・お前には見えないのか?」
 と、囁いた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 待っていてもソラからの返事はない。
 首を傾けソラの顔を覗くと、ソラは絨毯に落とした視線を虚ろに彷徨わせている。
 直人は、少し乱暴にソラの頭をつかんで胸に押し付けた。
「…ナッ……ヤメッ…ロ……」
「ここにお前の居場所があるだろ?」
 抵抗しようと藻掻くソラに、力強い声で言ってやる。
 と、ソラはビクッ、として動きを止めた。
 直人はソラの頬が自分の胸にピタリと添うように押し付け、それから手の力を抜いて優しく髪を撫でた。
「・・聞こえるだろ?・・・ドクッドクッ、と小さな鼓動が囁いている。・・・”ここにある、お前の居場所は、いつもここにある”・・・小さいが着実に休むことなく打ち付け・・そう囁き続けているんだ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ナァーォ・・・・・」
 掠れた声で鳴いたソラが目を閉じた時、ポトリ、と大粒の涙が一滴、零れ落ちた。

 どれほどの時間が経っただろう。
 ずっと目を閉じて、直人の胸に頬を押し当てていたソラから、《…スゥー…スゥー…》・・・と寝息が聞こえてきた。
 しばらくはそのままソラの肩を抱きかかえていたが、ソラの疲れたような寝顔が気になり、ベッドで体を伸ばして寝かせてやることにした。
 起こさないように、そぉ〜っと背中と足に腕を差し込み、抱き上げた。

 (・・・・・何でこんなに軽いんだ・・・?)
 身長は直人の鼻先くらいまであり、近い内に越されてしまうかも知れない。
 年齢からみれば、かなり筋肉の発達はいい方で、腹筋も直人ほどではないが割れている。
 確かにスリムと言えば言えるが、スリムなりにバランス良く発達している。
 (・・・厚みがないのか・・・)
 はぁ〜ん・・・と直人は納得した。
 やはりそこは未発達な少年の華奢な所だ。
 ダブダブ系の服で実際の体格より大きく見えるように誤魔化しているが、手足の長さに比べた胴体が追いついていないのだ。
 (・・・あるいは体質か・・・)
 ソラと同年齢でも、もっと逞しく骨太な少年はいくらでもいる。
 華奢な造りでありながら、やっと筋肉をスリムな体に貼り付けているから、これほど綺麗な流線型の造形に見えるのかも知れない。
 けれど、それが体質ゆえの造形美だとするなら、これだけ強気のソラには屈辱的なハンデだろう。
 直人は、強がるソラの根底にあるコンプレックスを見てしまった気がして、抱き上げたソラの白い額に思わずキスをしてしまった。
 (・・・・・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・)
 自分で自分の行為が恥ずかしくなり、顔が真っ赤になった。
 (・・・ね・・猫だってそうじゃないか!)
 ずぶ濡れになった猫の情けない貧相さと無理矢理重ね合わせ、
 (猫だけにジャンプ力はある。・・・充分じゃないか。・・・ただ、あのコンクリートの塊が乗った蓋は押し上げられなかっただけ・・・)
 と、そこまでイメージして苦笑し、ソラを寝室に運んでいった。



 喫茶『MilkyWay』。
 直人は片手にコーヒーカップを持ち、片手に携帯を持って操作している。
 カップを持った手は途中で止まり、携帯の画面を見ながら何度目かの溜息を吐いた。
 今日はまだ一通もソラからのメールが届いていない。
 問い合わせしてみても”着信なし”の文字・・・。
 (・・・・・ハァァ・・・・・)
 ようやく諦めた直人は、携帯を置いて頬杖を着き、コーヒーカップを口に運んだ。


 ――今朝、出勤前の慌ただしい中での会話が蘇る。
 ソラが落ち込んでいた理由を、コソッ、と打ち明けたのだ。
 「・・・友達が遠くへ行っちゃうんだ・・・」
 「・・友達?」
 「・・・公園で知り合った・・・キャラメルくれた友達・・・」
 (キャラメル…って・・・ママじゃなかったのか・・・)
 小さい子の母親だと言っていた相手は別にいたらしい。
 (何しろ、あの時はソラが酔っぱらってて、まともな受け答えが出来る状態じゃなかったからなぁ・・・)
 「・・そうか・・・で、遠くって?」
 「・・・わかんないけど・・・もうキャラメル貰えないくらい遠いみたいだ・・・」
 「・・聞かなかったのか?」
 「だから聞いたって。またキャラメルくれるか?…ってさ。」
 (・・・キャラメルって…お前・・・・・)
 「・・・・・わかった。じゃぁ、帰りにキャラメルを買ってきてやるから、もうそんなに落ち込むな。ん?」
 「・・・違うんだ。・・・キャラメルくれる・・彼女の手の温もりが好きだったんだ・・・」
 ソラが怒って頬を膨らませる。
 ……ズッキィーーーンッ……
 直人の胸が締め付けられる。
 (・・・ソラの初恋か・・・?)
 「・・・好きなら・・会いに行けばいい。」
 「だから遠いって・・・つーか・・・ナーオ、何か勘違いしてないか?」
 「・・・好きなんだろ?」
 「ああ、好きだ。けど・・・友達って言葉がわからないのか?」
 (・・・・・・・・・・わからない・・・・・・・・・・)

 ソラと話し込む時間はない。
 こんなことなら昨夜の内に話してくれたら良かったのに、と思っても後のまつりだ。
 「なら帰ってきてから説明してくれ。今は聞いてやる時間がないんだ。」
 「・・・聞かなくていいよ・・・」
 ソラは冷めた口調で言い、席を立った。
 「ソラ。どうしてすぐに背を向ける?・・聞いてやりたくても朝は時間がない、ってことをわかってくれてもいいだろう?」
 「ああ、わかってるぜ。ナーオは”仕事”ってゆー友達がいて、そいつとの付き合いで忙しいもんな。」
 「・・・は?・・・仕事は友達じゃないぞ?」
 「いつも側にいて、いつも気に掛けて、ずっと付き合ってるじゃないか。なのに友達じゃないのか?・・別に仕事に恋してる奴、とは言ってないだろ?」
 「・・・仕事がそんなにいいものか?時にはウンザリする時もあるのに・・・」
 「じゃぁ、嫌々してるのか?仕事が好きじゃないのか?嫌いで友達になれない仕事を、自分自信が納得出来ないなら、しなきゃいいだろ。」
 「・・・そんなに社会は甘くはないぞ。」
 「嫌だって、辛くたって、しなきゃならない仕事があるくらい、俺だって知ってる。だけど、ナーオは違うだろ?社会と戦ってる訳じゃないだろ?嫌でもやるのは戦いなんだ。好きで付き合うのは友達なんだ。」
 直人は呆然とした。
 言われてみれば確かにソラの言う通りに思える。
 かなり強引な論法だし、矛盾もつつけばいくらでも出そうだが、言いたいことが理解出来ないこともない。
 自分に当てはめれば、好きで選んだ職業であり、建築のデザインをすることは楽しい。
 「・・・・・友達・・かも知れないな。」
 (・・・ソラはまだ自分の生き方がわからないのか?・・だから余計に居場所がないのだろうか・・・)
 「・・なら・・料理の腕でも磨くか?差し当たり今夜の夕食でも作って貰おうかな?」
 「・・・・・俺・・・家事とかとは・・・友達になれないし・・・戦いたくない・・・」
 (・・・・・・・・・・・・・・・・・それはどんな言い分だ・・・・・)
 ――結局最後は、ソラの言い分がわからないまま、話が終わってしまう、いつものパターンだった。


 会社に遅刻しそうになって駆け込んだが、いざ仕事を始めても、ずっと気になって仕方がなかった。
 うっかりミスや見落としが続いて、部下達からは怪訝な顔をされ、部長にはいつもの冷やかし口調の嫌味を言われてしまった。
 (・・・いっそ遅刻しても、もっとちゃんと話し合えば良かった・・・)
 直人は、また大きな溜息を、カラになったカップに零した。

「おかわり、差し上げましょうか?」
 マスターの声に、ハッ、として顔を上げた。
 と、同時に意識が現実に戻った直人は、周囲の気配が変わっていることに気付いた。
 昼休みで来ていた会社員やOLの姿はほとんどなく、午後のティータイムを楽しむ主婦やデパートなどの派遣社員の姿がチラホラと見える。
 直人が『MilkyWay』に来た時間がいつもより遅かったせいもあり、普段見ることのない店の表情にちょっとした違和感を感じた。
「・・・そうですね。お願いします。」
 一度は、会社に急いで戻らなければ、と腰を浮かした直人だったが、どうにも気分が乗らなかった。
 そんな時は何をやっても上手くいかない気がして、こんなことでは”友達”(=仕事)にも悪いな、と思うことにした。

 新しく湯気の立つコーヒーを一口啜り、
「・・・あぁ・・・いい香りです。・・本当にマスターの入れてくださるコーヒーは美味い。」
 と言って、笑みを浮かべた。
「ハハッ。佐田さんに誉めて頂けるとは光栄です。」
「・・ぇ・・・いつもそう言ってるじゃないですか・・・?」
「ですから、余計に嬉しいのですよ。私自身もそれでよく妻に叱られますが、親しくなると、つい思っていることを言わないで済ませてしまうようです。」
「・・・・・なるほど・・・」
「それに時には、その場の挨拶代わりに、誉めてくださるお客様もいらっしゃいますしねぇ。」
「・・・・・はぁ・・・・・」
 (・・・僕もそんな時があるだろうか・・・あるかも知れない・・・)
 直人に後ろめたさが過ぎった。
「ハハッ。いえいえ、佐田さんはそんなことはないですよ。・・・それに、佐田さんにはいつもその表情で伝えて頂いてますから。」
「・・表情・・ですか?」
「ええ。とてもいい笑顔をなさいます。」
「・・ぁ・・いや、それは・・・本当に美味いんですよ。・・・参ったな・・・」
 直人は照れ臭くなって、コーヒーに視線を落とし、またゆっくりと含むように飲んだ。
 無意識に笑みが浮かぶ。
 (・・・ぁ・・・・・)
 直人がチラッ、とマスターに視線を向けると、マスターは他の客の注文に応えながら、直人に軽くウィンクをして微笑んだ。
 (・・・・・フフ・・・・・)
 それだけのことが、直人の凹んだ心を脹らませてくれた。

 サボリを決め込み、3杯目のコーヒーを楽しんでいた直人は、マスターの手が空く時に少しずつソラのことを話した。
 マスターは、時にクスクスと笑みを零し、時には「ハッハッハッハ。」と声を出して笑ってから、「おっと失礼・・」と周囲を気にしながら布巾で口元を押さえた。
「・・・本当に手の焼ける猫なんですが・・・」
「そうですねぇ・・佐田さんのご苦労はよくわかりますよ。わかりますが・・何とも可愛い猫さんですねぇ。娘が飼いたがる気持ちがわかりました。」
「・・ぁー・・・美夜子ちゃんでしたね?・・・そう言えば、猫が大好きだと、集めた猫グッズを見せて貰ったことがありました。」
「ええ。・・・ただ、妻が動物アレルギーなので飼ってやれないんですよ。」
「・・・ぁぁ・・・なるほど。」
「クスッ・・・今度、御一緒に店にいらしてください。・・・実は私も・・・猫好きなんです。」
「・・・・・・・・・・は?」
「あ・・・ご心配なく。本物の猫が・・という意味ですよ。」
「・・プッ・・・わかってます。よーく。」
 直人は自分もそうなのだと、言いたげに大きく頷いてみせた。



 休日、直人は少し足を伸ばして、ソラを苺狩りに連れて行ってやった。
 どうせなら美味しいイチゴがいいだろう、とネットで調べて、ドライブがてら出掛けたのだ。

 数日沈み込んでいたソラも、高速に乗ると窓を全開にし、
「うぉーッ!すっげぇーッ!」
 と、喜んで頭を出すので、
「こらッ。何が飛んでくるか、わからないから危ないんだぞ。頭を出すなッ。」
 と注意し、どうにか席で大人しくさせるのに苦労した。
 それでもまた、
「ハッハァーーッ!キャァーーォッ!」
 と、訳のわからない奇声を発し、腕を出そうとするので、ただでさえ速度が出ていて運転に注意を払わなければならない直人は、途中のドライブインで休憩した時点でグッタリと疲れていた。

「・・・ハァァ・・・お前なぁ、運転する方の身にもなれよ。」
「フェ?・・・運転を盛り上げてやってるんだぞ。アイツ等はみんなそうやってたけどな?」
 特産らしい団子を頬張りながら、ソラがケロリとして言う。
「アイツ等って・・・」
 (・・・そんな奇声を出すのは暴走族くらいだぞ・・・)
「・・モグッ・・・ングッ・・・あのキス魔の野郎の仲間・・・ケホッ・・・」
 (・・・やっぱり・・・)
 団子が胸につかえたソラに、持っていたお茶を飲ませ、
「・・・盛り上げてくれる必要はないから大人しくしてろ。」
 と言って、背中の代わりに頭を軽く叩いた。
「・・・・・チェッ・・・・・」
 ソラは缶のお茶を一気に飲み干し、手の甲で口を拭って、カラになった缶を直人に戻した。
 (やれやれ・・・)
 直人は缶をゴミ箱に捨てて来ると、停まっていた大型バイクを熱心に眺めているソラを呼び、車を発車させた。


 苺狩りを提供している栽培ハウスは、家族連れで賑わっていた。
 男二人連れというのは、何となく気恥ずかしいものがあったが、ソラが久し振りの笑顔で喜んでいるので、直人も周囲の視線が気にならなくなった。
 ソラが笑顔でいてくれるのが嬉しい。
「なぁー、なぁー、ナーオ。ここのを全部食べてもいいのか?」
「そりゃ、食べられればだが・・・」
「よしッ、挑戦するぞぉー!」
 青い目をキラキラ輝かせてイチゴの葉を掻き分ける。
 明るいソラの髪は混雑した中でもよく目立つ。
 イチゴを食べる時も次のイチゴを探しているのか、髪の毛だけがゆらゆら揺れる。
「ぅぉッ…モグモグ・・・すっごい甘いぞ。ほら、ナーオも食べろよぉ。」
 屈んでいた頭を上げてソラが直人に呼び掛ける。
 と、目の中の青い光がキラッと反射する。
 そんなソラを見ているだけで、胸がいっぱいになり、イチゴの甘い香りに酔ったせいもあって、あまり食べられなかった。

 甘く噎せ返る匂いと温室ハウスの暑さを避けて、直人はソラより早く外へ逃げ出した。
 外の休憩場で、吹き抜ける風に甘い酔いを醒ましていると、ソラが猛ダッシュで駆けて来た。
 柔らかい髪が風になびき、白い頬が微かに上気し、青い目が遠くからでも印象的に輝いている。
 直人は目を細め見取れてしまってから、気まずげに視線を逸らしたが、休憩場にいた全ての人々の視線もソラに釘付けになっていたので、少しホッとした。
 (・・・ま、男女を問わず、美しい存在には魅了されるものだな。)
 そう納得したが、そうなると今度はやけに熱心に見ている視線が面白くない。
「なぁ、なぁー、ナーオ・・」
 息を切らして目の前に来たソラの、白い額に浮かぶ汗を、ゆっくりと自分のハンカチで拭いてやる。
 そうするだけで、自分の美猫だと主張出来るようで、小さな満足感に浸る。

「なぁー、イチゴさぁ、お土産に出来るらしいぞ。」
「そりゃまぁ、出来るだろうな。」
「カード使えるかなぁ?」
「ん?・・・うーん・・・こーゆー所は無理だろう。持ち帰りしたいなら買うが・・・?」
「お土産だよ。みんなにお土産。」
「みんな?・・・って、誰だ?」
「えっとぉ・・・」
 ソラは空に顔を向け、指を折って数え始める。
 一度閉じた指が開いていく。
 (・・・・・・・・・・何か・・・嫌ぁ〜な予感が・・・・・・・・・・・)
「えっとなぁ・・・8人か9人・・・友達がいるんだ。あ、古本屋のオヤジにもやろう。フフッ。」
「・・・友達なのか?」
「だって最近立ち読みさせてくれるし・・・」
 (・・・クククッ・・・それだけの理由が何とも可愛い・・・)
「クスッ・・・わかった。好きなだけお土産にするといい。」
「ぇ・・・いいのか?じゃぁ、お土産用のパック貰ってくるな!」
「あ、ソラ。僕も3つ頼む。」
「OK!」
 駆け出すソラを見ながら、直人も立ち上がった。
 (うん。帰りに『MilkyWay』に寄ってみよう。イチゴの土産を持って行けば、ソラも話しやすいだろう。)


 そんな帰りの高速。
 まだ陽射しが強く、トランクに入れるのが心配されたイチゴを車内に置いたが、完熟の甘い香りが充満してしまった。
 匂いに過敏らしい、と自覚した直人は、酔いそうになり窓を全開で走るしかなかった。
 ソラは風を受けるのが楽しそうで、バイクと併走すると奇声を発してVサインをする。
 数台でツーリングしているようなバイカーは笑ってVサインを返してくれるが、一度暴走族らしい集団に囲まれた時は、片手運転にヒヤヒヤしながらソラの口を押さえつけていた。


 やっとの思いで辿り着いた『MilkyWay』。
 カウンターの中を見ると、マスターの姿はなく、従業員の源川司(みながわつかさ)が笑顔で迎えた。
「いらっしゃい、佐田さん。お久し振りっすね。」
 午後から店に出てくる司とは、仕事帰りに立ち寄る時に、いつも顔を合わせていた。
 ソラと同居するようになり、帰りに店に寄らなくなっていたので、直人も久し振りだった。
「やぁ、司君。元気そうだね。」
「やだなぁ・・俺はいつも元気っすよ。たまには帰りにも寄ってくださいよ。佐田さんに会えないと寂しいじゃないですか。」
 司がクスッと笑って流し目を送る。
 と、ソラが直人の前に顔を出し、
「お前、誰だ?」
 と、下から睨み付けた。
「こら・・・この店で働いている源川司君だ。仕事帰りとかに以前はよく来てたが、今は昼休みだけで会う機会がなかったから・・・久し振り、なのさ。」
「・・・ふーん・・・」
 ソラはカウンター席に座り頬杖を着くと、まだジッと司を見ていた。
 直人もソラの隣りに座り、コーヒーとクリームソーダを注文した。

「・・マスターはお休み?」
「はい。今日は結婚記念日だそうで、一日デートだそうっすよ。」
「・・・そうかぁ・・・」
「何か・・・?」
「いや、たいした用じゃないが・・・」
「じゃぁ連絡してみますよ。」
「いやいや、それは悪いから・・・気にしないでくれ。」
「大丈夫ですって。さっきマスターが帰宅されたらしく、顔を出そうか、って電話があったんです。今日はそれほど混んでないから、平気です、って言っちゃったんすよねぇ。」
 司が申し訳なさそうに頭を下げた。
 直人は迷っていたが、完熟のイチゴだけに新鮮な内がいいように思え、
「・・・そうか・・・何だか悪いようだが・・・そうしたらソラも連れて来ました、と伝えて貰えるかな?」
 と頼んだ。
「わかりました。」
 そう答えた司が、すぐに電話を掛ける。
「・・・俺?・・・俺が何?」
「クックッ・・・ソラのコロッケメールを見せたら、会いたいってな・・・」
 短く端折って説明する。
「え〜〜・・・マスターもコロッケが好きなのかぁ?・・・けど、イチゴだし・・・」
「きっとイチゴも好きだろう。」
 直人は含み笑いをしてコーヒーを一口飲んだ。


 ほどなくマスターが家族でやってきた。
 稀に店に顔を出す奥方と娘の美夜子も一緒だ。
「わぁ〜可愛い〜。」
「あら、ホント〜。」
 ソラを挟み込むようにして夫人と美夜子が明るい声を出した。
 ソラはキョトンとして青い目を丸くしている。
「シッポはないのねぇ・・・フフッ」
「ママったらぁ・・・耳だって人と同じに変身してるんだから、ある訳ないじゃない。ウフッ。」
 (・・・マスター・・・一体どんな説明を・・・)
 直人はぎこちない笑みを浮かべ、頬を指で掻いた。
「ハッハッハッハ。こらこら、ソラ君が困ってるじゃないか。」
 マスターはいつも以上に大らかに笑い、
「まぁ、向こうの席で、ゆっくり話でもしましょう。」
 と、奥のボックス席を勧める。
「・・・はぁ・・・」
 直人は取り敢えず、土産のイチゴを渡した。

 その間に、ソラは先に夫人と美夜子に拉致され、二人に挟まれて席に収まっていた。
 ソラは、向かいに座った直人を、チッ、という顔で睨んだが、美夜子と携帯の話題で意気投合し、楽しそうに話し出した。
 早速アドレス交換をし、お互いに画像の撮りっこをする。
 夫人もそれぞれの画像に一緒に収まり、画像チェックをするたび、
「あら〜、これじゃダメよぉ。もう一度撮り直してね。」
 と、笑顔で注文をつける。
 そんな様子をマスターはニコニコしながら眺めているので、直人も(ま、いいか。)と、取り残された男同士で世間話などをして時間を過ごした。


 すっかり遅くなった帰りの車中、ソラはリクライニングを倒して眠っている。
 マスター一家にとうとう最後まで猫と思われたソラは、面白がって「ニャーニャー」と言い過ぎ、寝言まで「…ムニャ……ニャー……」と言っている。
 (・・・・・マスター一家・・・恐るべし・・・・・)
 直人はソラの寝顔に一日の疲れも忘れ、零れ出す笑いが止まらずに車を走らせた。

「ソラ・・・起きろ。・・・着いたぞ。」
「……ムニャ〜……ニャダ……」
 直人は、やれやれ、と首を振ると、車を降りて助手席に回りドアを開けた。
「起きてごらん。・・・星が綺麗だぞ。」
「・・・・・んー・・・・・」
 目を擦り、仕方なさそうに車から降りてきたソラも、星を見上げるとフワッと笑みを浮かべた。
「・・・綺麗だなぁ・・・なぁー、ナーオ?」
「・・・・・あぁ・・・・・本当に綺麗だ・・・・・」
 直人はソラを見つめながら答える。

 と、ふわりと梅の香りがほの甘く漂ってきた。
「・・・わかるか?・・・梅が香っている・・・」
 直人に言われて、ソラが目を閉じ深呼吸をした。
 (フフ・・・同じことをしているぞ・・・)
「・・・・・そっか・・・これが梅の香りなんだ・・・・・いい匂いだな・・・」
 ソラはまだ目を閉じたままでいた。
 直人は無性にソラを抱き締めたくなったが、星を見上げ切ない想いを押さえ込んだ。
 (ソラは夢の猫・・・手の届かない星の猫・・・・・SORA.....You are Star Boy..........)

                       『Star Boy』......end......