§U−1§「惚れた理由」
7月初旬。
早朝の爽やかな風が通り抜けるマンションの通路に、白い半袖のYシャツも眩しい青年が、凛々しい顔立ちに笑顔を浮かべて立っている。
ピンポ〜ン♪
「お早うございます!」
チャイムを鳴らしてから、玄関ドアの前で明朗な声の挨拶をする。
ドア越しに「ハーーイ…」と小さな返事が聞こえ、青年は笑みを深め一歩下がって、返事の相手を待つことにした。
御門鷹麿。
帝高校三年の彼は、およそ1ヶ月前、色々一悶着があった後、どうにか白鳥比奈との交際をお互いの周囲に認めて貰えたのだった。
以来、毎朝こうしてヒナの住むマンションまで迎えに来る。
ヒナのマンションから帝高校までは歩いて10分程度で、こんなに早朝に家を出る必要はなかったが、御門に早朝練習がある為、仕方なくヒナも付き合っている。
カチャ・・・
「…おはよぉ…」
玄関ドアが開いて、まだ眠そうなヒナが夏の制服姿で出てきた。
冬は黒いワンピース型だが、夏期間はベストとスカートに別れている。
赤いリボンが特徴で、質素と可愛さが調和し、衿の白さが清潔感を感じさせる制服である。
「あぁ・・・お早う。」
御門はヒナの姿に眩しそうに目を細めると、もう一度挨拶を返した。
ヒナは玄関ドアに鍵を掛け、
「お待たせぇ。」
と、はにかんだ笑みを浮かべて、長身の御門を見上げた。
「ん?・・・今日は誰もいないのか?」
いつもなら、控え目な笑顔の母親か鬱陶しい兄がヒナより先に玄関ドアを開けて、御門に声を掛けるのが通例となっている。
「うん。ママはいつもの旅行で、お兄ちゃまは出張中なの。」
ヒナは鍵を鞄にしまい込みながら答えると、エレベーターに向かって歩き出した。
ふわっと甘く芳しい香りが、サラサラのヒナの髪から流れてきて、御門の鼻孔と心をくすぐる。
(うぉおおおーーーッ!チャンスかも知れないぞぉぉッ!)
御門は思わず拳を握って、不敵な笑みを浮かべた。
「…マロ?」
ヒナが立ち止まって振り返り小首を傾げると、サラサラの髪が揺れる。
「あ・・・じゃぁ、行こうか。」
御門は冷静を装い、エレベーターへと微かに上気した顔を向けた。
付き合い始めて1ヶ月。
これまでの御門なら考えられないことだが、まだまともに手を繋いだことがない。
もっとも登下校時にまで手を繋げるとは思っていないが、何度か街での買い物に付き合っているのに、手を握るチャンスがつかめないでいる。
それというのも、御門が荷物持ちになってしまうことと、ヒナの片手がアイスクリームやクレープ等で塞がっている場合が多々あるからだ。
そうした訳で、デートらしいデートはまだしていない。
まあ、御門が剣道部と弓道部で、目下、高校総体に向かって猛練習中であることも、デートの時間を持てない理由の一つではある。
けれど、もう一つの理由は、ヒナの兄が「高校生らしい真面目な交際なら認めよう。」と渋々承諾したものの、頻繁にマンションに泊まりに来ていて、朝から迎えに来る御門に睨みを効かせていることも原因だった。
その為、旅行好きなヒナの母親が留守でも、門限は午後7時と変わらず、マンションの中に招き入れて貰える機会もなかった。
御門が折角のチャンスに、どうやってヒナと二人だけのシチュエーションに持って行こうか、と思案していると、エレベーターボックスの壁に寄り掛かっていたヒナが、小さなあくびを漏らした。
ヒナの重そうな瞬きに、御門がクスリと笑う。
「寝不足?」
「…ぁ…ぅん…昨夜は祥子ちゃんと遅くまで電話してたからぁ…アフッ…」
「あぁ・・・手芸部の早坂君ね・・・」
御門は上の空で聞き流し、策を練ることに夢中の様子だ。
御門の素っ気ない返事には慣れてるヒナは、
「タウンストゥリートに新しく出来たお店のアイスクリームがスッゴイ美味しいんですって。いつもビーズとか買ってるお店の近くだから、今度の日曜日に材料を買いがてら、絶対食べようって盛り上がっちゃって。…ウフッ。」
と、勝手に昨夜の電話での話題を話す。
「・・・へぇ・・・って、おいッ。」
「ぅん?」
「今度の日曜日はデートしよう、って言っておいただろ?」
「……そだっけ?…道場に行くって聞いたような……」
「だから、道場での練習は午前中で切り上げるから、午後からデートしよう、って言ったんだ。覚えててくれよ・・・ったく。」
「…ぅ……Bhooooo!!…テスト期間中にそんなこと言われても…忘れる。」
思い切り頬を膨らませたヒナは、一階に到着してドアが開いたエレベーターから、さっさと降りていく。
「あ・・・おい・・・」
御門も後に続いてエレベーターを降りると、ヒナに並んだ。
昨日まで期末試験期間だったから、どうにか終わった開放感から、友達との久々トークで盛り上がってしまったものは仕方ない・・・と、御門も気持ちを切り替えることにした。
そして、
「まぁ、忘れてたなら仕方ない。・・けど、そっちの約束は断ってくれるだろ?」
と、柔和な口調の中にも半強制的ニュアンスを込めて言った。
「…ヤ…」
意外と強情なヒナが即決で却下する。
「や・・って・・・あのなぁ・・・今度の日曜しか俺的にフリーな時間が取れないんだぞ?後は夏休みに入っても、全国大会が終わるまでは休みなしになるし。」
(・・・ヒナに門限さえなければ、夕方からのデートも出来るんだがなぁ・・・)
御門は朝の眩しい光に眉を寄せた。
朝方まで降っていた雨で濡れた道路が、照り返している。
じきに梅雨明けだろう。
「祥子ちゃんと試合の応援に行く計画は立ててるもん。」
「・・・それは嬉しいけど・・・そうじゃなく、二人で過ごしたいだろ?」
「だってぇ…約束破りたくないもん…」
俯きがちに答えたヒナは、白いレースの縁取りのハンカチで、鼻の頭を押さえた。
それからハンカチを顔の前で振って扇ぐ。
「・・・・・暑いのは苦手か?」
「…ぅん…」
「・・・・・暑い時のアイスクリームは美味いんだろなぁ?」
「うん♪」
「・・・・・俺よりもいいか?」
「…エヘ…」
「そこで肯定すんぢゃねぇぇぇ!」
御門が拳骨をヒナの頭にそっと押し付けると、「キャハッ!」と弾けるように笑ったヒナが駆け出した。
折れた肋骨もどうにか完治し、最近やっと走れるまでになった。
御門は幼子のような無邪気さで走るヒナの姿に、胸いっぱいの甘酸っぱい恋しさを脹らませ、いつしか笑顔で追い掛けていた。
(可愛くてたまらない俺のヒナ・・・)
禊ぎと謝罪を込めて丸坊主にした時から、少し伸びてきた御門の黒髪に風が抜ける。
(今・・・この一瞬の歓喜が、これほどに愛しい・・・)
御門は、焦ることはないさ、と切ない恋心に言い聞かせた。
御門は、退院したヒナが高校復帰した時から、下校時になると、ヒナをマンションまで送ってから、高校に戻り部活動に参加するようにしている。
ヒナが怪我をした理由が理由だけに、学校側も特例として御門の付き添い下校を認めている。
ヒナは、10分で帰れるから必要ない、と主張するが、その短い道中でも御門は心配でたまらなかった。
すっかり過保護な彼氏になってしまった姿を露呈しても、御門人気が衰えることがないのは、御門自身のカリスマ性によるものかも知れない。
一方ヒナは、人形のような可愛いさがあり、入学当時から、男子生徒達の間では評価されていたが、その反面、女生徒達からは反発も強かった。
けれど、色々な事件があって知られるようになった性格が、徐々に女生徒達からの好感も得られるようになったようだ。
全ての性格が見えてる訳ではないが、少なくともヒナが、控え目ではあっても卑屈ではなく、天然な鈍さはあるものの純粋らしい、と認められてきている。
―――ヒナが怪我をした一連の事件は、傷害事件として問題になっても不思議はないものだった。
度重なる嫌がらせからして、陰湿なイジメ事件だとマスコミなら騒ぐだろう。
ヒナが精神的に脆い少女だったなら、不登校や自殺にまで発展したかも知れない。
身内なら怒って然るべきだし、兄の雄志が「告訴する!」と言うのも無理はない。
それでも、ヒナが精神的幼さとは対照的に、意外と冷静な思考力を持てるのも、常日頃、兄から様々な裁判事例を聞かされることによって、培われてきた判断力と知性によるものとも言える。
兄:雄志のヒナへの溺愛を除けば、弁護士である雄志は非常に正義感が強く、有能かつ優秀で道徳心の強い男なのだ。
無責任な両親への反発と、幼くして家庭内放置という見えない虐待状況にあった妹への哀れさから、妹を守る固い殻になる決意をしたことが、多少性格を彎曲させてしまっただけのことだ。
そんな兄でも、ヒナの涙の訴えには敵わない。
煮えくり返るはらわたをどうにか抑えて、加害者が犯罪者にならずに済む穏便な解決策を提示した。
そして、ヒナを襲撃した女生徒達は自主退学して、離れた土地の高校に転校して行った。
京極沙也香は初めから関知しない姿勢を貫いていたので、事件以前と変わらない態度を通している。
沙也香が暗黙の了解をしていたことは、本人の胸の内に封印された。
御門は沙也香のペンケースを見つけて以来、優美で気品漂う微笑みの裏に隠された冷酷な策士としての一面に気付いていたが、元を正せば自分の責任でもあるし、御門自身もそうした二面性ある性格で、”同類”だったな、と思う程度である。
ヒナが沙也香をどう思っているのか、聞き難さもあってそこまでの会話はしてないが、ヒナ本人は必要がない限り沙也香に近付かなくなった以外、手芸クラブでも普通に接している。―――
こうして1ヶ月も過ぎれば、不穏な空気が漂っていた高校内も、新緑の香る爽やかな風に払拭され、明るい声の飛び交う場に戻るものだ。
御門には、ヒナのギブスが取れてからは尚更に、御門の愛する帝高校が明るくなったように感じられる。
そして、あまり人に対して自己表現が出来ないヒナが、ようやく皆から受け入れられるようになったことが、御門自身の人気が変わらないこと以上に嬉しかった。
何故こうもヒナに惹かれるのか、御門にもよく理由がわかっていない。
ただ、ヒナを見ていると無性に守りたくなってしまうのだから仕方がない。
案外、ヒナ兄の妄執のような溺愛ぶりを、一番理解出来るのも御門なのかも知れない。
ヒナは未だに何を考えているのか判らない部分が多く、とろけそうな甘露飴のような目はどこか寂しそうな憂いを透明な眼差しの奥に潜めている。
ひ弱な印象と、一方で、懸命に生きようとする姿は、本当に小さな雛鳥のようだ。
巣からこぼれ落ちたヒナを見つけ、親鳥の代わりをしたくなったのか、餌付けして手乗りのペットにしたいのか、育てて食べるのを楽しみにするのか、御門自身にもわからない。
それでも、これまでの支配欲や溢れる欲望と引き替えにしても、手に入れたかったヒナだった。
さて、話は戻り、梅雨明けも間近の初夏のこの日。
部活動で後輩を指導した後、道場をハシゴして自己鍛錬に励んだ御門が、自宅であるマンションに戻ったのは、夜10時過ぎだった。
―――御門も高級マンションでの一人暮らしが長い。
ヒナと違って、電車で数駅先の繁華街に近い場所にある。
河畔に面した広い公園も近くにあり、遊びや買い物に便利であると共に、運動やペットの散歩などが気軽に出来る、快適な住空間である。
母親と暮らしていた豪華なマンションは広すぎたし、愛人だった母親の生活臭が残った場所が嫌で、自分で探して移ったマンションだ。
寝室や浴室を調教用に改装し、口説き落とすには最適なムード溢れるリビングや、勉学に励むスペースとしての書斎も、全て御門の好みを反映させている。
・・・つまり、到底ヒナを招待出来るような部屋ではなかった。―――
暗い部屋の明かりを点けて、御門は溜息まじりに部屋を見回した。
まだ御門の本性をヒナに晒したくない以上、自宅に誘えないのは必至。
だが、このままではヒナとの距離が一向に狭められない。
(・・・ヒナと同じマンションに空き部屋はないかなぁ・・・)
鬱陶しい兄貴に睨まれるだろうが、ヒナと会う時間が増えれば苦にならない。
どうにかして、ヒナとの距離を縮めて、甘いひと時を持ちたい!・・・と思う御門だった。
「ただいまぁ、ヒナぁ・・・」
飾り棚に置かれたヒナ似のぬいぐるみ人形を抱き締めて、スーリスリと頬ずりをした御門は、すぐ横の電話が鳴っているのを無視して浴室へ向かった。
テープに録音してある御門の留守を告げるメッセージが流れた後、
―「ミカド?何で連絡してこないんだ?店にも全然顔出ししないし、何やってんだ?みんなミカドに会いたがってるぞ?俺もちょっと相談したいことがあるし、出て来れないか?いつもの店で待ってるから来てくれ。いいな?」
と、男の苛立った声が聞こえる。
御門はちょっと立ち止まって眉を寄せたが、そのまま浴室へと入った。
電話の相手はわかっている。
―――御門の夜の顔とは馴染みの男で、九十九忠彰(つくもただあき)という名前だけは堅そうな28歳の男である。
名前負けというか、実際は定職を持たず、俗に裏物と言われる怪しい商品の販売をしているが、ギャンブル好きで、ほとんどヒモのような生活をしている。
その九十九の恋人:八代弘美(やしろひろみ)は、バー『八雲』のママで、元は御門の母親がママをしていた銀座のクラブ『桐壺』のホステスだった。
九十九も承知していることだが、御門はかつてこのヒロミと関係があった。
クラブ『桐壺』は現在、元No.1ホステスだった小野田渚(おのだなぎさ)が任されているが、ナギサとも御門は関係があった。
ヒロミもナギサも現在33歳で、当時から、お互いに御門との関係を知っているにも関わらず、仲が良いのが、不思議な二人である。
まあ、当時の御門の年齢を考えれば、独占出来る相手とは思わなかったのかも知れない。
が、ともかく、先に店を辞めたヒロミとはその後すぐに別れていたものの、つい最近まで、ナギサとの関係は続いていた。―――
そうした事情で、全ての関係を清算した御門が、携帯電話をナンバーも一緒に買い替えたのを機会に、彼等から距離を置いていたのは当然だった。
熱いシャワーで汗を流し、さっぱりした御門がリビングに戻ると、
―「ミカドーッ!俺を無視するたぁ、いい根性だぜッ!」
と、何度目かの留守電に怒りをぶつける声がしていた。
かなりアルコールが回ってきたのか、大人げない言い様で、御門は苦笑を洩らす。
が、
―「お前がロリに走ってるって噂を聞いたぞッ!落としたら俺に回せッ、この野郎!」
と、九十九が叫んだ時、思わず受話器を取り、
「貴様ッ!っざけてるんじゃないぞッ!」
と、怒鳴り返してしまった。
―「・・・な・・なーんだ・・ハハ・・・いるならサッサと出てくれよ。」
御門本人の声を聞くと、途端に意気地がなくなる。
年齢は10歳も下の御門が、九十九には兄貴的存在だった。
「さっき帰ったばかりだ。無理を言うな。」
御門が不機嫌に答える。
―「それにしたって携帯は通じねぇしよぉ・・・」
「携帯は買い換えた時、番号も新規にしたんだ。」
―「だったら教えといてくれよ。」
「その必要はない。用がある時は『八雲』に行けば済むことだ。・・・が、当座、そっちに用はないな。」
―「んなこと言わずにさぁ・・・いい物が手に入ったんだぜ?女がヒーヒーと泣いて喜ぶヤツさ。電話じゃ詳しく話せねぇから、店に出て来いよ。」
「だから、今の俺には必要ない、って言ってるだろ。」
―「・・・・・何だよ、冷てぇな。・・・つーか、買って貰わねぇと俺も困っちまうんだ。これまで、いい関係できたんじゃねぇか。俺にお前ぇを脅すようなマネはさせんなよ?」
九十九は切羽詰まったような卑屈さで言う。
御門は眉間にシワを寄せ、
「俺を脅してみろ。・・・三日以内にどぶ川に貴様の亡骸を浮かせてやるぞ。」
と、声を低めて呻った。
―「・・・ウゲッ・・・冗談に聞こえないから怖ぇよなぁ・・・」
「誰が冗談でこんなつまらんことを言うか。」
―「・・・・・スマン・・・・・ちょっと早急に金が入り用で・・・手持ちの物を捌きたかったんだ。・・あ、けど、物はホント悪くねぇぜ?」
九十九の必死な口調に御門は溜息を吐いた。
「ハァァ・・・いくら必要なんだ?」
―「え?・・・ぇっと・・・100万ばかし・・・」
「わかった。融通してやる。」
―「ぉえっ?!・・・マジか?」
「今回だけだ。次はないからな。」
―「ああ、わかってるさ。」
「支度して『八雲』に行くから、30分後に会おう。」
御門はそう言うと、額から流れる滴を首に掛けたタオルで拭きながら受話器を置いた。
バー『八雲』は雑居ビルの3Fにあるこぢんまりした店だ。
御門は夜の顔に合わせた服装で、バイクを雑居ビルの脇に乗り付けた。
開襟の黒いスーツを着こなし、短めの髪をワックスで立てたヘアの御門は、到底高校生には見えない。
覗き込めばヘソまで見えそうなほど開けた胸元に、プラチナのペンダントが揺れる。
男慣れした女なら、思わず手をその胸元に差し入れて、割れた腹筋に触れてみたくなるだろう。
ドアを開けて店に入ってきた御門に、客達が一斉に注目する。
男連れの女性客が、御門の美貌に息を飲み頬を赤らめてしまっても、連れの男には文句が言えないほどの色気を纏っている。
「ミカド様・・・お久しぶりですわね。」
店のママであるヒロミが、カウンター越しに悲しげな笑みで呼び掛けた。
カウンターには九十九が座って待っている。
「最終学年ともなると色々忙しくてな。今は大会に向けて夜まで練習の日々だよ。」
酒とギャンブルと女浸りの奴とは違う、と皮肉を込めて、九十九を睨みながらママのヒロミに答えた。
「えぇ。きっとそうでらっしゃるだろうと思っておりましたわ。」
眩しそうに目を細めたヒロミの頬が、ポッと上気する。
「・・・チェッ・・・ミカドは本性を隠すのが上手ぇからなぁ・・・」
九十九が片目を眇めて御門に視線を投げ、グラスの酒をあおった。
「能ある鷹は爪を隠すものだ。」
聞き流すように答え、御門は九十九の隣りに座った。
「鷹・・・ねぇ?・・・悪魔の爪なんじゃねぇのか?クックックッ。」
卑屈な割に、言いたいことを言う九十九である。
この程度の皮肉ならミカドが笑って流すことを承知しているからだ。
「ほぅ・・・光栄だね。」
案の定、御門は片頬に不敵な笑みを浮かべ、ヒロミが差し出したおしぼりで、指の長い手をゆっくりと拭った。
思わずヒロミが生唾を飲む。
しなやかに動くその長い指に、何度昇天させられたことか・・・。
御門と一度でも関係を持った女性なら、御門の指の動きに、体が芯から疼いてしまうだろう。
「お飲物は何がよろしいかしら?・・ウーロン茶?それとも梅サワーがいい?」
自分も喉の乾きを覚えたヒロミが御門に尋ねた。
「梅サワー?・・まだ、自分で作ってるのか?」
「えぇ、もちろん。これがないと夏を乗り切れないわ。ノンアルコールだから二日酔いにもいいでしょう?フフッ。」
「じゃぁ、せっかくだから、それを貰おう。」
御門が優しくヒロミに笑いかけて答え、
「ヒロミは本当に家庭的なんだよな。・・・コイツにギャンブル癖がなければ、結婚して幸せな家庭を持てるのに・・・」
と、九十九の頭を軽く小突いた。
「ってぇなぁッ!・・・ヒロミ!別れた奴の機嫌ばっか取ってんじゃねぇぞ?」
九十九は空になったグラスを突き出して怒鳴る。
「何言ってるのよ。タッちゃんが呼び出したんじゃない。」
ヒロミは小言を言いながらも、九十九に新しく水割りを作ってやる。
どうしようもない男に尽くしてしまうのは、ヒロミの性分なのかも知れない。
まだ中学生だった御門にも尽くしていたし、同僚のナギサと気まずくならないようにと身を引いたヒロミだった。
そうしたヒロミの性格を、少し強気なナギサも認めていたのだろうか。
狡い生き方が出来ないヒロミの不器用さが、何故か今は愛おしく感じる。
だから、しょうもない九十九でも100万の大金を融通してやろうという気になったのだ。
ほんのり甘く、清涼感のある酸味が喉に心地良い梅サワーを、静かに味わいながら、御門はヒロミの幸せを願わずにはいられなかった。
「・・・で、なぁ?・・・金は持ってきてくれたのか?」
九十九が焦れるように切り出した。
御門は無造作に札束をズボンのポケットから鷲掴みに取り出し、
「次はないぞ。」
と、念を押して渡した。
途端に眠そうな目を見開き、爛々と輝かせた九十九が、
「ヘヘッ。さすが兄貴だ。感謝するぜ。」
と、指に唾を付けてお札を数え始めた。
「やっぱ、ある所にはあるもんだねぇ・・・っと・・忘れちまう・・・ヒィフィミィ・・・」
「・・・ミカド様・・・ごめんなさいね・・・」
ヒロミがカウンター越しに頭を下げる。
御門は笑って首を振り、梅サワーをお代わりする為、グラスを差し出した。
九十九は百枚数え終わると、
「ふぅッ・・・助かったぜ。返済の期限が迫っててヤバかったんだ。」
と、席から腰を浮かせたが、
「あっ・・・と、そうそう、最高の媚薬があるんだぜ?」
と、思い出したように言った。
御門は思いきり渋面を作り、
「必要ない、って言ってるだろうが。」
と、答える。
「なら、最新式バイブはどうだ?アナル用もあるし・・・」
「もうそっちは卒業したよ。」
「卒業?」
「そう。後は受験とその前の大会に向けて全力投入するのみ、だな。」
御門が涼しい顔で梅サワーのグラスを傾ける。
席から立ち上がった九十九は訝しそうに御門の横顔を眺めている。
「・・・へぇ・・・やっぱり噂は本物か・・・」
「噂?」
御門の眉がピクリと動き、片眉を吊り上げて眼球の移動だけで九十九を視界に捉える。
ゾクリッ、とする雰囲気が御門から立ち上り、九十九は背筋に冷たい汗が流れた。
「・・・けどョ・・・ケツの青いガキに夢中だって・・・」
「ケツが青いかどうか、まだ見てないから知らないが・・・相手は普通の高校生だ。高校生同士の清い交際をロリータと言うのか?え?」
御門の不機嫌な声には不気味なドスが籠もる。
「プファッ・・・ハハ・・・清い交際って・・・」
そう言って笑いかけた九十九が、表情を強ばらせた御門に言葉を詰まらせる。
それから気まずそうに咳払いをすると、
「じゃぁ・・・これ持って事務所に顔出してくるわ。」
と、そそくさと店を出て行った。
「・・・本当にごめんなさいね。迷惑かけちゃって・・・」
九十九が店を出てから、ヒロミが溜息まじりに言った。
「ヒロミが代わって謝ってやる必要はないだろ?」
「・・・えぇ・・・でも・・・」
「あの金だって、どうせ焼け石に水だろうし・・・いずれはこの店だって持ってかれるぞ?そうなる前にどうにかならないのか?」
「・・・えぇ・・・」
「尽くせば尽くすほど落ちて行く奴もいる。風俗に売られたら、それでお終いだろう?」
「わかってるけど・・・そうなったらそれはそれで仕方ないと思ってるし・・・」
御門は眉間を指で押さえた。
カチャリ、と腕時計が鳴る。
御門の手首には高級ブランドの腕時計がしてあった。
「・・ぁ・・・それ、使ってくれてたの?」
ヒロミが嬉しそうに言う。
かつて一流ホステスだった時に、御門にプレゼントした物だった。
御門は浮かない表情の顔をヒロミに向け、腕時計を外した。
「・・・ぇ・・・?」
一瞬、ヒロミの顔が曇る。
「これはまだ使う資格がないと思ってしまっておいた物だ。九十九のいる前でヒロミに渡すと、すぐに換金されるだろうから・・・。」
「・・・返すってこと?」
「万が一、九十九がヒロミを売るようなことをしたら、その時はこれを換金して逃げろ。その時の為に内緒で持っていて欲しいんだ。」
「・・・ミカド様・・・」
「返すんじゃない。俺が貰ったヒロミの優しさで、今度はヒロミ自身を守って欲しい。・・・俺ももう店には顔を出せないしな。」
御門の優しく冷たい言葉を、ヒロミはじっと噛み締めていた。
それから、
「・・・そぅ。・・・わかりました。・・ありがとぅ。」
と答えて時計を受取り、ハンカチで包んで自分のバッグに納めた。
「それじゃ、そろそろ失礼しよう。」
御門がそう言って、腰を浮かしかけた時、
「ぁ・・・もう少しだけ・・・お話させて?」
と、ヒロミが一心に願いを込めた眼差しで御門を見つめた。
「ん?・・・相談ごと?」
御門はイスに座り直し、頬杖を着いた。
「そうじゃないの。・・・でも、もうあまり来れないって仰るなら・・・せめて今夜だけは、ミカド様を見ていたいから・・・」
九十九を身を滅ぼすほどに愛していても、御門への淡い恋慕が消えないヒロミの切ない想いに、御門は軽く肩を竦めて、
「・・・まぁ、いいさ。」
と、苦い笑みを返した。
もう自分にはどうしてやることも出来ない。
そう思うと、むしろ目の前にいることが残酷のように思えてならなかったが、ヒロミは無邪気なほどに嬉しそうな顔をした。
狭い店だが、バーテンダーとホステスが一人いる、それなりに客が入っているバーである。
ヒロミは接客を二人に任せて、御門に並んでカウンターに座ると、
「今夜はとことん、酔っちゃおうかなぁ・・・」
と、凭れ掛かった。
「体壊すぞ?・・・今夜くらい飲まないでいろ。・・・代わりに俺に酔えばいい。」
「・・・酔っていいの?」
「酔ってみろよ。」
うそぶく御門と探るような流し目のヒロミが、間近に見つめ合う。
視線が絡み合い・・・ほどなく二人は吹き出して笑った。
見ないようにしていたバーテンダーが奇妙な顔をしている。
ヒロミは手を振ってバーテンダーを遠ざけると、
「相変わらず大人びたセリフを言うのね。」
と、体を起こし、煙草に火を点けた。
「こんな世界で育ってきたからな。常識じゃない世界が俺には常識だった。」
御門は溶けかけの氷を口に入れ、ガリガリと音を立てる。
「・・・だった?」
ヒロミは煙草の煙を細く吐き出した。
御門は即答を躊躇い、また氷を頬張った。
「・・・ふぅん・・・ミカド様を変えるほどに惚れさせた子なんだぁ・・・」
さり気なく言いながらも、語尾が細く震えて消える。
「自分を変えるのは、自分の意志以外の何物でもないぞ。受動的に変わっていくのは本当の姿じゃないだろ?」
ヒロミにも、今の状態を抜け出して欲しい、と願いを込めて言う。
「・・・みんながみんな・・・ミカド様のように強い意志がある訳じゃないわ。」
ヒロミはそう言って、煙草を灰皿に押し付けて消してから、
「もう私の話はいいの。ねぇ・・・それより、ミカド様の好きになった相手のことを聞かせて?」
と、また凭れ掛かった。
「・・・噂って・・・どんな噂なんだ?それに、誰から聞いた?」
ヒナのことを迂闊には話せない、と懸念し、御門から質問をする。
すると、ヒロミがクスクスと思い出し笑いを零した。
「あん?」
「クスッ・・・だって、ミカド様が剃髪したってナギサさんが嘆いてたから・・・」
噂の出所はナギサか・・・と、御門は頬杖の手で口元を押さえて溜息を吐いた。
ナギサとははっきり切れてなかった為、ケジメを付けるべく一度会って話をしたのだ。
ヒロミの話では、その後ナギサがこの店で、泣きながら酔い潰れるまで愚痴っていたらしい。
「ナギサさんねぇ、男を狂わせるテクニックはまだ衰えてない、って。どうして自分が切られるのか納得出来ない、って言ってたの。だから、SMに飽きてロリータに走ったに決まってる、って。」
「・・・・・ぉぃぉぃ・・・・・」
ナギサ本人がいない所で抗議しても始まらないので、御門は呆れ顔に苦渋の色を浮かべて苦笑するしかない。
「・・・ぅぅん。・・・ナギサさんだってわかってるのよ。」
新しい煙草に火を点けたヒロミが、遠い目をして煙りを吐く。
「ミカド様が、常に何かを求めて苦しんでらっしゃったこと・・・」
「・・・こらこら・・・それじゃ悲壮感いっぱいだな。・・・そんなんじゃないさ。ただ、自分を変えたくなっただけのこと。これまでの生き方自体を否定する気はないよ。・・・そこで愛してきた女達もね。」
最後のセリフをヒロミの耳元で囁く。
ヒロミは目眩がするほどの疼きに、御門の肩で目を閉じた。
御門は、ヒロミの指から落ちそうになっている煙草を摘み取り、灰皿に捨てると、そっとヒロミのコメカミにキスをした。
優しく労るように温かい、けれどそれ以上はない・・・御門のキスに、ヒロミの目尻から涙が一筋零れた。
「・・・私も・・・あの頃が一番幸せだったなぁ・・・」
目を閉じたまま、ヒロミが呟く。
御門は肩を貸しても抱き寄せることはしない。
それでも、
「今この時こそを幸せに生きてくれ。・・・心からそう願うよ。」
と、真摯な声で言った。
「・・・そうね。・・・そうよねぇ・・・」
頼りなげに答えたヒロミは、カウンターテーブルの上に置かれていた御門の手に、自分の手を重ねた。
荒れた指先で御門の繊細な長い指をなぞる。
そして、遠慮がちに掌に触れてみたが、御門は握り返さなかった。
わかっていたことでも、過去は戻らないと実感する。
甘えたい優しさは幻影なのだと、自分に言い聞かせ、
「・・・ありがとう。・・・もう、いいわ。」
と、イスから立ち上がり、
「タッちゃんが戻ってきたら、また叱られちゃうから・・・」
と、笑ってみせた。
「そうか・・・」
(あんな奴に叱る資格があるのかッ?!)
そう思いながらも、
「それじゃ・・・体は大事にしろよ。」
と、言って店を後にした。
店を出た御門は、すぐに自宅に戻る気になれず、闇雲にバイクを飛ばした。
気が付けば、遠くの波間に点滅する灯りが見える埠頭まで来ていた。
・・・俺だって嵐の真っ只中に生きてるんだッ!
・・・だからこそ、俺は俺の灯台を見つけた・・・
・・・遠すぎて微かな灯りしか見えない・・・
・・・その微かな灯りさえ、時々霧に霞み、嵐に見失う・・・
・・・それでも俺は灯りに俺の希望を見出したんだッ!
「なぁ・・・俺だって切なくてたまらないんだぞ?・・・生きてりゃ、みんな切ないものらしい。・・・ヒナを見てるとなぁ・・・当たり前のことを当たり前に感じられるんだ。・・・非常識が常識という闇の中で育った俺が、普通のことを普通に感じることが出来る。・・・好きでたまらないのに、触れることが出来ないもどかしさ。目の前にいるのに抱き締められない苦しさ。・・・ああぁ・・・全てが切なく愛おしい。・・・好きだから相手を想う。そんな当たり前の感情が、俺には新鮮だった。」
御門は暗闇に沈む海に向かって呟く。
ヒロミの何故?という問い掛けに、答えられなかった答えを語るように。
・・・ふと、御門は自分が泣いていることに気付いた。
「ククッ・・・涙ってゆうのは海の味がするんだな。」
万民を救う善人にはなれない。
だから、せめて自身に忠実に生きたい。
気持ちを切り替えた御門は、再びバイクのエンジンを噴かし、帰路を飛ばした。
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