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mikado







§U−6§「アクシデント」


 それは突然の衝撃だった。

 剣道の試合中、対戦相手の出した突きが御門に払われ、勢いがついたまま逸れた竹刀の先端が御門の左肩を直撃した。
 普段ならどうということもないシーンだった。
 けれど、グラリと態勢を崩した御門の左手が、ダラリ、と力を失して竹刀から離れた。
 と、その時・・・

 ≪≪《《《《「キャァァァァァァァァァーーーッッ!!!」》》》》≫≫

 切り裂くような悲痛な叫びが、体育館に響き渡った。

 空間と時さえも一刀両断にするかのごとき凄まじい悲鳴だった。
 体育館の中にいた人々は全て、試合中だった生徒達や審判達も、呆然と固まった。
 それから、恐る恐る声の方へ視線を向け、凍り付いた少女の姿を見出した。
 少女は青白い顔で目を大きく見開き一点を見つめている。
 視線を追っていった先に、御門の異様な姿があった。

 ダラリと左腕を垂らした御門が、片手で竹刀を持ち、左側に傾いてバランスを崩している。
 どうにか踏ん張って倒れることは免れたが、大きく肩全体で荒い息をしている。
 こんな姿は、御門に限って有り得ないことだった。
 ”瞬殺の御門”と呼ばれる男がそれほどのスキを見せている。
 だが、対戦相手までもが固まっていた。

 御門はすぐに左手を竹刀に戻し、態勢を建て直したが、相手が動揺していて竹刀を構えることさえ出来ない様子だった。
「気にするな!向かって来い!」
 試合を続行しようとする御門に、対戦相手は後ずさりする。
「・・・ですが・・・御門さん・・・」
 面をつけた相手が審判や周囲をおどおど見回している。
 御門に注目していた人々は、相手の動揺ぶりを不審に感じて、御門を注意深く観察していた。
「・・・ッヒッ・・・ち・・血だッ!」
 誰かが叫んだ。
 御門の紺色の胴着と小手の隙間が赤く染まっている。
 やがて、血を吸いきれなくなった胴着からも真っ赤な血が滴り、体育館の床にポトリ、ポトリ、と落ちていく。

 慌てて主審が試合を中断させ、御門に走り寄った。
「君ッ!どうしたんだ?!」
「大丈夫です。もう一度テーピングし直せば、試合は継続出来ます。」
「・・・しかし・・・」
「お願いします。応急の止血をする猶予をください。試合を続けさせてください。」
 御門が懇願する間も血は滴っている。
「・・・気持ちはわかるが・・・無理はするな。」
 主審は帝高校剣道部の顧問を手招きする。
 御門の怪我を知らなかった顧問も、青ざめた顔を強ばらせ、御門に駆け寄った。
「お願いします、顧問。ここで立ち止まる訳にはいかないんです。」
「・・・御門君・・・君はこの状態で試合していたのか?・・・なんて無茶を・・・」
 御門はすでに今日、三試合を勝ち抜いていた。
 後二勝すれば、全国大会に出場出来るのだ。
「どうしても・・・倒さなければならない相手がいるんです。お願いします。」
 主審と顧問は困った顔を見合わせ、取り敢えず、傷の手当てをするよう促した。

 渋々防具をはずした御門は、予想以上の出血があることが判明してしまった。
 胴着がぐっしょりと濡れて重く、肩に手拭いを押し当てると、白い手拭いが見る見る赤く染まっていく。
「・・ッ・・・こ、これは・・・ダメだ!・・誰かッ!救急車を呼べッ!」
 御門を取り囲んでいた関係者の中にいた大会責任者が大声で怒鳴る。
 もう、御門の意見は受け付けられない。
 無念さに歯軋りした御門は、屈辱感に項垂れた。

「マロッ!……マロ…マロ……マロォ……」
 いつの間に二階の観覧席から降りてきたのか、先刻悲鳴を上げた少女が取り囲んだ人達を押し分けて御門に近付いた。
「あ・・こ、こら。ここは関係者以外は・・・」
 審判の一人が静止しようとするが、少女には御門しか見えてない様子で、スルリと静止を擦り抜けた。
「おい!」
 審判が声を荒げると、
「済みません。俺の関係者なもので・・・許可してやってください。」
 と言いながら、座っていた御門が立ち上がった。
「君!?座っていた方がいいぞ!」
「いえ。これくらい大した傷ではありません。元々、血の気は多い方ですし・・・だから・・・ヒナも心配するな。な?」
「……マロォ……」
 御門がヒナに優しく笑って見せると、ヒナはたまらずに御門の胸にしがみついた。
 ヒナの真っ白いワンピースも血に染まっていく。
 紺色の胴着に染み込んでいた血が、ヒナの白いワンピースを一気に赤く染めていく様は、異様な禍々しさがあった。
 取り囲んでいた人々は息を飲み、言葉を失った。
 試合を断念させられた御門の左腕は、もう力が入らずにダラリと垂れ下がっている。
 それでも自由が利く右手で、胸にしがみついているヒナを抱き締める。
「…マロ……マロ……」
「大丈夫だ。すぐ治るから・・・俺はいつもヒナの側にいるから・・・」
 優しく宥めてヒナの髪に頬ずりする御門の顔は、白んで疲労の影が浮かんでいた。
「救急車はまだかッ!」
 誰かが叫び、阿鼻叫喚に体育館は包まれた。

 ようやく到着した救急車にはヒナも一緒に乗り込んだ。
 と言うより、御門もヒナも互いにしっかりと手を握り合っていて離さないので、一緒に乗り込むしかなかったのが本当のところだったが・・・。
 ヒナの服は、すでに赤いワンピースかと思うほどに御門の血を吸い込んでいる。
 大量の出血が心配される中、御門はヒナだけを見つめ、
「・・心配するな・・・俺はここにいる・・・」
 と、うわごとのように繰り返していた。


 連絡を受けて雄志が朋子と病院に駆け付けた。
 ヒナは赤く染まったワンピースのまま、手術室の前で踞り、膝を抱えて石のように固まっている。
 すぐ側には、応援に来ていた東郷が困り顔で佇んでいた。
 少し離れた控え室には顧問や剣道部の主将など、関係者が沈鬱な表情で手術が終わるのを待っている。
 雄志は、
「この度は妹がお騒がせして申し訳ありません。」
 と、頭を下げて挨拶してから、ヒナにゆっくり歩み寄った。

「・・・ヒナ?」
 声を掛けても反応がなく、顔を膝頭に押し付けて隠している。
「ずっとこうなんです。看護士さんが着替えるようにと検査着を貸してくれたんですが・・・」
 説明する東郷に雄志は、うんうん、と頷き、
「一樹君にも済まなかったね。」
 と、軽く肩を叩いた。
 それからヒナの前に屈むと、
「ヒナ。このままでいてはいけない。みんなを心配させてしまうよ?」
 と、頭を撫でながら話し掛けた。
 ヒナは虚ろな顔を上げ、視線の定まらない目で兄をぼんやりと眺めた。
「朋子が着替えを持ってきたから、部屋を借りて着替えておいで。いいね?」
 兄の言葉だけはどうにか聞こえているらしく、ヒナが虚ろなままコクンと頷いた。

「じゃぁ・・・行きましょう?」
 朋子がヒナの両肩に手を添えて立たせ、看護士に頼んでおいた部屋へとヒナを連れて行く。
 魂の抜け殻のようになったヒナは、自分が何をされているのかも判らない状態で、朋子に着替えさせて貰う。
 朋子は黙々とヒナの顔や腕に付いた血糊を拭き取ってやった。
 どうにか見られる姿に戻ったヒナは、また手術室の前に来ると、同じ位置に踞る。
 今度は雄志も、見守るしかない、と思ったのか、東郷に交替してヒナの側に付き添うことにした。

 手術が終わり、御門が麻酔で眠ったままICUに運ばれた。
 怪我の縫合よりも、大量の出血での影響が心配されたからだ。
 それでも、当面は様態の変化はない、とのことで、
「後は本人の体力次第ですが・・・まだ若いですし、大丈夫でしょう。」
 と、医師が笑顔で断言してくれたので、心配して集まっていた人々は、ようやく安堵の息を吐いた。
 一人、二人、と関係者が帰る中、ヒナはICUの前から動こうとしない。
 医師の説明がわからないのか、信じられないのか、御門の側を離れることを拒んでいる。
 が、ICUは面会や付き添いが認められない。
 雄志は根気強く説明し、ヒナを納得させて、家に連れ帰った。
 朋子と東郷も一緒に、ヒナが暮らしているマンションへと同行した。


 雄志はヒナに入浴させて、まとわりついていた血の臭いを洗い流させた。
 そして、春先まで飲んでいた精神安定剤の余りを飲ませ、ヒナが寝付くまで側にいてやった。
 朋子と東郷は、途方に暮れた顔のヒナの母親と向き合ってソファーに座り、居心地の悪さを紛らす手段も浮かばないまま、ぼんやり雄志を待っていた。

 やっとヒナの部屋から出てきた雄志は、
「今の状態のヒナを放ってはおけない。当分、僕はこっちに泊まるから、朋子は一樹君を家に送ったら、自宅に戻って着替えを持ってきてくれ。」
 と、言った。
 朋子は半分ホッとし、半分諦めの笑みを浮かべて、
「わかったわ。」
 と、お尻に根が生えそうだったソファーから立ち上がった。
 何をしていいか判らない膠着状態が解かれたのはいいが、一樹は明らかに不服顔で口を真一文字に結んでいた。
 朋子は、一樹が何かを言い出さない内に、と弟を急かしてマンションを後にした。


「姉貴!何で何もかも言いなりなんだ?」
 駐車場に停めておいた車に乗り込んだ途端、東郷が姉の朋子に怒鳴った。
「え?言いなり?」
「そりゃ、ヒナちゃんが心配なのはわからなくもないが・・・おばさんがいるんだし、雄志兄さんが泊まることはないだろ?」
 東郷の声が大きくて、朋子は片手で耳栓をし、
「そんなに怒鳴らなくても聞こえるわよ。」
 と、注意してから車を発進させた。
 朋子は車が流れに乗るまでは運転に注意を向けていたが、怒った表情で前を睨んでいる東郷の横顔を見て苦笑すると、
「・・・けどねぇ・・お義母さんにはヒナちゃんが心を開かないでしょ?・・・あんなにショックを受けてるんだもの、雄志さんが側にいてあげるしかないじゃない。」
 と、さっきの質問に答えた。
 東郷は大きく溜息を吐き、
「だから、それはわかってる。ただ、いつまでもこうした状態が続いてたら、結局はいつまでも変わらないんじゃないのか?・・・俺に愚痴るだけでなく、少しは本人に文句を言ってやればいいだろ。」
 と、眉間にシワを寄せた。
「弟だから愚痴れるんじゃない。それに、暇潰しになるし・・・クスッ。」
 朋子は深刻な話になるのを避けたいのか、軽く答えている。
「・・・姉貴。・・・俺はヒナちゃんも可愛い妹だと思うが、姉貴も大事なんだ。・・・俺の自慢の姉貴を略奪しておきながら、不幸せにしたら、俺が許さない。」
 東郷は真剣な態度を崩そうとしない。
「略奪って・・あんたねぇ・・・」
 朋子は弟一樹の頭を小突いてから、
「私は充分幸せなの。だって、全て承知で結婚したんだし、雄志さんを今も尊敬して憧れてるし、選んで貰えて結婚出来たことが夢のように嬉しいの。」
 と、真面目な顔で言った。

「ねぇ・・・雄志さんがどれほどモテてたか、知ってる?」
「・・・さぁ・・・」
「私と同じ職場にも夢中だった子がいるし、雄志さんの仕事関係とか・・・高校や大学で机を並べていた人達だけじゃなく、先輩や後輩からも慕われてたのよ?・・・てゆーか、今も相談に来たりしてるようだし・・・ね。」
「それでも雄志兄さんは姉貴を選んだ。それは単に、それだけの魅力が姉貴にある、ってことじゃないか。」
「・・・んー・・・どうかなぁ・・・私より美人はいっぱいいるし、家柄がいいとか、仕事が出来るとか、もっと色々な条件を満たして尚かつ性格もいい・・・って女性も周囲にはたくさんいたと思うけど・・・」
「だったら、姉貴が好みに合ってた、ってことだろ?」
「そぉーかなぁ・・・」
「姉貴は充分に魅力的だぞ。自信を持てよ。」
「バーカ。誰が自信ない、なんて言った?」
 朋子はまた東郷の頭を小突いた。
「そうじゃなく、ね・・・雄志さんは、自分を理解して付いて来てくれる相手として、私を選んでくれたのよ。」
「・・・理解して?」
「そう。”我慢”じゃなく”理解”。・・・彼が好き。でも、彼にはお兄ちゃん子の甘えん坊の妹がいる。彼に気に入られる為には、面白くないけど我慢しよう。・・・じゃダメなの。」
「・・・まぁなぁ・・・」
「それとね、雄志さんは、恋愛感情を剥き出しにしたりする女性は、苦手だったみたい。・・・彼の持論は、”仕事が出来る出来ないより、仕事にどれだけ責任を持てるか、が大切なんだ。”って。」
 いきなりそう言われても、と言いたそうな顔で、東郷は首を捻る。
「フフッ。つまり、いくら仕事が出来ても、それを自分を売り込む道具にしたり、仕事の話し中に色気を出しまくったり、場の空気を読めないような相手は、仕事自体も期待出来ない、ってこと。・・・逆に、お茶を出す仕事でも、相手を自分の好みで判断するのではなく、誰に対しても適切な態度で接客出来る人がいる会社は、信用度も高い、ってこと。・・・わかる?」
「・・・まぁ・・・何となくは・・・」
「つまり彼にとって周囲にいるのは常に対等な人間なのよ。ただ、仕事上の立場がそれぞれ違うだけで、”責任を持って自分の務めを果たせる”ってことが、人としての基本だと思っているから、そうしたことをそっちのけにしてるような相手は、個人という対象にすらならない、ってことなの。」
「・・・けっこうキツイなぁ・・・」
 東郷が腕組みをして顔をしかめる。
「あら、そう?・・けど、私は雄志さんのそーゆー所が大好きなんだもの。いいじゃない。」
 フフフッ、と朋子は楽しそうに笑う。

「・・・それがどう”我慢”と”理解”の話に関係あるんだ?」
 難しい話が苦手な東郷が、結論を要求する。
「あん。せっつかないでよ。」
 朋子はいつもの”暇潰し”と同じ調子で明るく話を続ける。
「だからね・・・”我慢”するくらいなら関わられるのも迷惑なだけ。”理解”することで同じ意識を持てれば、一生一緒に人生を歩む相手として、どんな時でも手を取り合っていける、って思ってるみたい。・・・多分。・・うん・・きっとそうだと思うんだけど・・・」
「何だか曖昧な言い方だな。」
「だって・・・その辺は推測だから・・・」
「・・・アテにならない話か・・・」
「てゆーかねぇ・・・私がどれくらい雄志さんを理解してあげられるか・・・その辺が今後の課題かしらねぇ・・・」
「・・・課題って・・・姉貴・・・学生でもあるまいに。」
「何言ってるのよ。結婚したからって妻として100%完璧になれるってものじゃないでしょ?理解だって足らない時があるし、たまに誤解したりすることもあるし、・・・とにかく、私は今の状態でも納得してるんだから、余計な心配をして波風立てないでよ。いいわね?」
 そう言われてしまっては東郷にも返す言葉が見つからない。
「・・・わかったよ。」
 と、不承不承に答えた。

 それからしばらくは姉の雑談に適当に相槌を打っていたが、家が近付いてきた時、
「・・なぁ・・・それじゃ、雄志兄さんにとってヒナちゃんは、やはり対等な人間、って見ているのか?」
 と、気になっていたことを聞いた。
 朋子は、
「何を今更言ってるのよ。対等な訳ないでしょ?ヒナちゃんは特別な存在なの。あったり前でしょうに。」
 と、即答して笑い飛ばした。
「けどなぁ・・・そうしたら言い分に矛盾があるだろーがよ・・・」
 東郷がブツブツと呟く。
「どうしてわかんないかなぁ・・・あんただって小学校の時に自分で育てた朝顔を、特別に綺麗だの、可愛いの、と言ってたじゃない。」
「そ・・それは・・・レベルが違うだろ?」
 東郷が顔を赤らめて恥ずかしそうに姉を睨む。
「そう。全然レベルが違う、ってことは、雄志さんのヒナちゃんを思う気持ちだって、実際に心血注いで育てた雄志さんの立場になってみなければ、理解出来ないほどに重く大きなものだ、ってことよ。」
「・・・あぁ・・・そうか・・・」
「それを、いつかは妹に勝ってやろう、なんて思ってたら大間違い。妹は一生大事な妹であり続ける存在。それでいいのよ。・・・これって、普通お姑さんとかに当てはまる考え方かもね。ま、その点、私はそうゆう苦労がなくて楽だわぁ。フフフッ。」
「・・・たいした”理解”だわ・・・確かに。」
「フフン。・・でしょう?・・なんてね。・・・けど、もう一つ、雄志さんにとって特別な存在があるの。・・・わかる?」
「・・・姉貴か?」
「ピンポーン!大正解でーす。」
「はいはい。どうもご馳走様。」
 結局最後は朋子にノロケられた気分になり、東郷はわざとらしく耳の穴を掻いた。

「だったらもう電話で愚痴ってくるなよな。」
 家の前に停まった車から降りながら東郷が言うと、
「いいじゃない。退屈なんだから。」
 と、朋子は小悪魔的にウインクをした。
「・・・退屈って・・・てめぇ・・・こっちは受験生で忙しいんだぞ。」
「けどね、私にも弟ってものは特別な存在なのよ?」
「・・・姉貴・・・」
「一緒に遊ぶ分には楽しい友達とか後輩でも、うっかり愚痴ったりすると、その場では・・そんなことないですよぉ・・仲がいいって評判じゃないですかぁ・・とか言ってても、陰では・・最近うまくいってないみたい・・なんて噂されちゃうものなのよ。・・・その点、弟はそーゆー気遣いもいらないし・・・ね。」
「・・・あっそう・・・その点ね・・・」
「じゃ、納得して貰えたら、これでね。私も忙しいのよ。」
 そう言って、朋子は窓から手を出して振り、実家には寄らずに車を発進させた。
 走り去る車を眺めながら、
「・・・逞しさが増したな・・姉貴・・・」
 と呟き、ふと、似合いの夫婦かもな、と思いつつ家の中へと入った。



 三日後、御門が一般病棟に移され、ヒナも面会出来るようになった。
 雄志に連れられ、御門の病室を訪れたヒナは、
「…クフン……マロォ……」
 と、ベッドを起こして座っていた御門の胸に飛び込んだ。
 雄志がすかさず、
「ヒナ、御門君は怪我をしているんだ。負担をかけてはいけないよ。」
 と注意すると、
「いやぁ、お兄さん。もうすっかり元気になりましたから、心配ないです。」
 と、御門が満面の笑みでヒナの髪を撫でた。
 雄志が目を眇め、
「・・・思ったより頑丈そうで・・・良かったな。」
 と、嫌味っぽく言う。
「だから前から俺はタフですよ、って言ってるじゃないですか。アーハーハー♪」
 御門はここぞとばかりにヒナに頬ずりをしている。
 雄志は一応見舞いに来ている立場として、御門の復活を祝わなければならないが、どうにも気に食わなくてならなかった。
「・・・面の皮の厚い、血の気の多い無鉄砲な奴でも、不死身ではないと思い知ったかと思ったが・・・相変わらず減らず口の多い奴だな。」
「ハッハッハー♪そんなに誉められると照れますよ。」
「誉めてない。」
 雄志は、御門に抱きついてその胸に顔を埋めているヒナの姿を正視出来ず、窓際まで歩いて行って外に視線を向けた。
 それから、
「・・・何はともあれ、無事で良かった。・・・ヒナに好きだと言っておきながら、そう簡単に死なれては困るからな。」
 と、真面目な口調で言った。
「・・・ご心配、お掛けしました。」
 今度は御門も真摯に答え、雄志の背中に向かって軽く頭を下げた。
 顔を合わせれば憎まれ口の応酬をする二人だったが、目を合わせなければそれなりの常識は弁えているようだった。

 多少儀礼的とはいえ雄志への挨拶を済ませた御門は、
「・・・ヒナ・・・ごめん・・・心配させて・・・」
 と、胸で震えているヒナに優しく囁いた。
「…グスッ……怪我してるのに…無茶するから……」
「・・・うん。」
「…グシュッ……ヒナ…黙ってるのが辛かった……」
「・・・うん・・・ごめんな。」
「お医者様が、後数ミリずれてたら命の保障はなかった、って言ってたのに……」
「・・・うん。これからは少しは医者の言うことも聞こう。」
 ヒナと御門は二人だけが知っている話をしている。
 どうやら御門が怪我した理由も、その後の処置も、ヒナは知っていたようだ。
 だからこその悲鳴だったのだ。
 雄志は窓の外を見ながらも、聞き捨てならない会話に聞き耳を立て、眉を顰めた。
「少しじゃなく…ちゃんと聞いて。」
「・・・うん。・・・そうしよう。」
「…余計傷を深めて……全然平気じゃないじゃん。」
「・・・う・・・ヒナぁ・・・反省してるから・・・」
「マロが…マロがいなくなったら…やなの……」
「・・・ヒナ・・・わかってる。」
「ホントにホントに嫌なの。」
「うん。わかってるから・・・な?」
「…前に…死んでも側にいて、って言ったけど…それは、ずっとずっと遠い先の仮定のことであって…やっぱり生きて側にいてくれなきゃ嫌……」
「わかってるよ、ヒナ。・・・ありがとう。」
 胸から顔を覗かせて懸命に訴えるヒナの可愛さに、御門は胸が熱くなった。

 ―――長い間、御門は妾腹の子としての負い目があった。
 意識しない、気にしない、関係ない、と突っぱねてきたが、心の奥底にひた隠しにしてきたコンプレックスは消すことが出来なかった。
 だからこそ、自分を磨き鍛え上げることで、自己を確立させたかったのだ。
 現実には御門が疎まれた記憶はない。
 が、心のどこかで、自分はいらない子なのではないか、という焦燥感を抱えていた。
 母親の自分への愛情さえ、何かを得る為の代償として大事にされてるような気がしていた。
 代償=物としての価値しかなかったら、魂の置き場がない。
 自己という魂の居場所を確立させる為に、御門は常に嵐の中で闘ってきたのだ。
 ・・・そこで見出したヒナという少女・・・
 彼女もまた魂の居場所を探していた。
 自分の中にその居場所を持てたら、これほどに強い存在理由はないだろう。
 彼女の為にも自分はここに存在しなければならない。
 ・・・もう・・・いらない子としての負い目はなくなる・・・
 そんな打算もあった。
 けれど、ヒナを知るほどに愛しさが深まっていった。
 ヒナは、細い指が折れそうなほど、必死にしがみついてくる。
 無心に、何の打算もなく、縋り付いてくる。
 (・・・俺が守ってやる!)
 ヒナへの愛に触発され、いつしか御門の中の打算は消えていた。
 と同時に、打算の必要もなく、御門のコンプレックスも消えていった。―――

「・・・ヒナ・・・俺はここにいる。どこにも行ったりしないさ。」
 ヒナの白い額にそっと口づけをした御門は、
 (・・・くぁぁーーッ・・・もっと熱いキスがしたいぞぉぉーーッ!)
 と、心で叫んだ。
「・・・あ・・・雄志さん。外は暑かったでしょう?喉が乾いてないですか?」
 御門は視線を雄志の背中に投げ、声を掛けた。
「いや。別に。」
 雄志は背中を向けたまま答える。
「せっかくお見舞いに来て頂いたのに、何も用意してなくて・・・談話室には飲み物の自動販売機もあるんですが・・・まだ病室から出る許可が下りないんですよねぇ・・・」
 暗に「買ってきてくれ」と言わんばかりだ。
「気にするな。」
 そう答える雄志は、「その手は喰わん。」と、御門の考えそうなことを察知していた。
 (・・・クソ兄貴ッ!・・・ちょっとは気を利かせろ!)
 (誰がお前とヒナを二人きりにするもんか!)
 見えない光線がぶつかり合って火花を散らす。
「…ぁ…じゃぁ、ヒナが飲み物を買ってくるね。」
 御門の力強い鼓動を聞いて安心したのか、半べそから笑顔になったヒナが御門の胸から起き上がった。
「え・・おい・・・」
「ああ。それじゃ、購買で牛乳を買って来て貰うかな。どうも自動販売機の物は好きになれないんだ。」
 御門が引き留める前に、雄志がわざわざ病院の正面玄関脇にある購買で買うように指示をする。
「うん。…マロは?」
「いや・・」
「彼も血が足りないようだし、ジュースより牛乳がいいだろう。」
「そっか。わかった。」
 ヒナは肩から掛けていたポーチからハンカチを出して目と鼻を拭うと、
「すぐに買ってくるから…」
 と、赤らんだ顔で笑った。
「ゆっくり行きなさい。病院は具合の悪い方達が多いから、走ったりするものじゃない。注意深く、ゆっくり歩くように。」
「ぁ…はーぃ。」
 ヒナは兄と御門に小さく手を振ると、病室を出ていった。


「・・・ヒナぁ・・・」
 御門は情けない声ですでに姿のないヒナを呼ぶと、ガックリと項垂れた。
 雄志は厳しい表情で振り返り、手近にあったイスを持って御門のすぐ横に置き、腰を下ろした。
「・・・何です?・・・ヒナを人払いして密談ですか?」
 御門が胡乱な目で雄志を睨む。
「まだ肝心なことを聞いてなかったからな。」
 雄志は腕組みをすると、真正面から御門を見据えた。
「・・・・・何か?」
「そもそも怪我の原因は何だ?大会での騒ぎで有耶無耶になってしまっているようだが、元々は君が怪我を隠して出場したことが問題だろう?・・と、それを問う以前に・・・君が何故怪我をしたのか・・・どうやらヒナも事情を知っていたようだと聞いては、黙っている訳にはいかない。」
「・・・・・そうでしょうね・・・」
 御門も多分そのことだろうと予想がついていた。
 雄志が敢えてヒナを購買まで行かせた理由。
「・・・彼女を巻き込んでしまって・・申し訳ありません。」
 御門は、誤魔化すべきではない、と覚悟を決めて頭を下げた。

「ヒナがポツリと言っていた。・・ヒナが悪いの・・と。だが、それ以上は堅く口を閉ざして何も言ってはくれない。ヒナはもう私に心を見せてはくれないんだ・・・」
 そこで雄志が重い溜息を吐いた。
 それから、
「何も言ってくれなければ、私も対処しようがない。心を閉ざして脅えていても、もう私には何もしてやれない。・・・だから、君に聞くしかない。」
 と、苦渋に満ちた声で問い質した。
「いえ。彼女には何ら責任はありません。・・・自分と関わっている者が絡んできたせいですから。・・・むしろ、彼女には怖い思いをさせてしまった、と反省しています。」
「ふむ・・・君と関わりのある者とは?」
 雄志はイスの背もたれに寄り掛かり足を組む。
 まるで警察の事情聴取のようだが、御門は大人しく神妙な顔をしている。
「直接的な関係はそう深くもない相手ですが・・・色々と事情が入り組んでまして・・・ヒナが戻るまでに説明しきれそうにありません。」
「・・・ヒナには聞かせたくない事情、って訳か?」
「出来れば・・・」
「だが、ヒナはその場にいたんだろ?」
「・・ええ。・・・二人で映画を観た帰りだったので・・・」
「ならばヒナも警察から事情は聞かれただろう?それだけの怪我をして警察が無視してるとは思えないが?」
「はい。・・ただ・・相手が麻薬中毒症状で、喚いてる言葉もほとんど意味不明だったものですから、・・・と言うか・・・ぶっちゃけ、父の知り合いが手を回しまして、”通りすがりの凶行”ということで処理されるようです。」
「・・・なるほど。そうゆう訳か・・・」
「・・・はい。」
 雄志は眉を顰めて声にならない呻り声を漏らした。
 その手の話はゴマンと聞いている。
 警察が必ずしも清廉潔白な正義ではないことも。
 だから弁護士も、どれほど白日の元で正義の旗を挙げたい、と願っても、駆け引きに負けたら、「負けは負け=正義は我が掌中になし」と判を押されてしまうのだ。

「・・・麻薬中毒で、凶器を振り回して怪我を負わせた加害者・・・となれば実刑は当然だな。過去の犯罪歴にもよるが、10年以上の懲役刑が下されるだろう。・・・問題は心神耗弱を問われて責任能力のあるなしをどう判断するか、だが・・・」
「・・・奴は確実に俺を狙っていました。目的をしっかり認識していた以上、心神耗弱はないでしょう?」
「しかし、”通りすがりの凶行”ならば、それを主張出来ないだろう?」
「・・・そうですね・・・」
 御門も眉間にシワを寄せて沈痛な顔になる。
「・・・俺は、証言しても構わないんですが・・・」
「君の異母兄の意向か?」
「・・・おそらく。」
 雄志は再び呻って目を瞑る。
 確かに、ヒナが帰ってくるまでに終わりそうな話ではなかった。
 雄志もヒナにはなるべく怖い話を聞かせたくない。
 世の中には関われば関わるほど、危険に足を踏み入れてしまうことになりかねないものが、たくさんあるのだ。
 社会の矛盾や理不尽さはある程度理解出来た方がいいが、女の子が知らなくていい世界もある。
 まして、そうした裏社会に御門も関わっていると知れば、ヒナの抱え込む不安が増大しかねない。
 知ったからといって何も出来ない以上、知らずにいた方がいい、と思う点で、御門と雄志は意見が一致しているようだった。

 しばらく瞑想していた雄志が目を開け、
「一度、君の父親の知り合いという人物に会ってみたいな。」
 と、御門に言った。
「わかりました。雄志さんに連絡を取るよう、話しておきます。」
「ああ。・・だが、弁護士事務所へはマズイな。私の携帯に連絡してくれるように頼むよ。」
 雄志はそう言って、ポケットから名刺を取り出し、裏に携帯ナンバーを記入して御門に渡した。
「では早速。・・今夜にでも電話がいくと思いますが、かまいませんか?」
「今夜は打ち合わせがあるが・・・電話なら大丈夫だろう。話は直接会ってからにしたいので、と都合を聞かせてくれるように伝えておいてくれ。」
「はい、わかりました。」
 事務的な会話はあっさりなほどスムーズだった。
 お互いにお互いの立場を知っていたし、相手を理解する冷静な判断力も備わっている。
 ここで感情論になると面倒なことを知っている、とも言うが・・・。


「おまたせぇ〜〜♪」
 何も知らないヒナが、ビンの牛乳2本とフルーツ牛乳1本を、大事そうに胸に抱えて戻ってきた。
「ヒナぁ〜〜・・・寂しかったぞぉ。」
 御門が急に甘えた声を出し、雄志がムッとする。
「はぁぃ♪冷えてるよぉ〜♪」
 ヒナは雄志と御門に牛乳を渡し、ベッドの端に座った。
「ヒナぁ・・・こっちに座れよ。」
 御門が自由の利く右側へヒナを手招きする。
 が、そこにはすぐ目の前に雄志が座っている為、座りにくい。
 御門が、(どけよッ!)と言わんばかりに雄志を睨む。
 雄志は、(目の前でいちゃつこうなんて100年早いッ!)と、冷笑を浮かべて無視をする。
「ここでいいよぉ…喉乾いちゃったしぃ……」
 ヒナはビンの蓋を開けようと爪で引っ掻いている。
「ヒナ。貸してごらん。」
「ぁ…ぅん。」
 雄志は、左手が使えない御門に、見せつけるように手際よく蓋を開けてやる。
「・・・・・チッ・・・」
「あぁ、そうか。君のも開けてやろうか?」
「けっこうです!」
 御門はガブッと蓋に歯を立てて、強引にこじ開け、ペッ、と蓋を吐き出した。

「あ、待って、待ってぇ。…マロの早い回復を祈って…」
 ヒナが牛乳瓶を掲げる。
 御門と雄志は苦々しい笑みを浮かべながらも、ヒナの発案に付き合い、牛乳瓶を掲げた。
「カンパァーイ♪」
「「・・・カンパーイ・・・」」

 …コクッコクッコクッ……
「ハァァ……美味しぃ……ウフッ♪」
 ・・・ゴクゴクゴク・・・・・
「フゥゥ・・・ヒナが胸に抱えていた牛乳は特に美味いな♪・・・何かおっぱいの味が・・・」
 ・・・コクンコクン・・・バシッ!・・・コクン・・・
 雄志がヒナの目が離れた一瞬、御門の頭を思い切りひっぱたいた。
「・・ッテェェ・・・」
「ぇ…マロ?…ケホッ…傷が痛むの?」
 フルーツ牛乳に咽せそうになりながら、ヒナが心配そうに御門を見る。
「あ・・・いや・・・何でもない。大丈夫だよ。・・ハハ・・・」
「…ならいいけど……」
「怪我をいいことに甘えてるんだろ。放っとけ。」
 雄志は片目で御門を睨みながら、涼しい顔で牛乳を飲み干した。
「・・・・・(クソ兄貴!クソ兄貴!クソ兄貴!)・・・・・」
「早く怪我を治せよ?・・・御門君。」

 当分、御門と雄志の関係は、友好的にはならないだろう・・・。