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「景山 戒」
§56§「景山 戒」

 ミツルの受験日の翌日。
 ミルクはタップの練習を早めに切り上げて、地下アジトへ行くことにした。
 総裁室に顔を出すと、マサトは左右に人が立っているのを回り込むのが面倒だったらしく、机を飛び越えてミルクを抱き締めた。
「ミルク・・・昨日はすぐに連絡してやれなくて悪かったな。」
 顔中にキスを降り注ぎながらマサトが言う。
「ぅぅん……ミルが一人で気を回し過ぎて…空回りしてただけ……」
 ミルクは甘えた上目遣いでマサトのキスに応える。
 唇が肌に触れるだけで、心の片隅の蟠りがスーッと消えていく。
 今は甘えたくて甘えたくてたまらないミルクが、背伸びしてマサトの首に腕を回す。
 マサトがミルクの腰とお尻に手を添えて体をまっすぐ伸ばしたまま抱え上げる。
 ミルクは宙に浮いた足をマサトの足に絡ませて、うっとりと目を閉じてキスをする。

「おやおや。・・挨拶もなしにいきなり御馳走にありつこうという泥棒猫でしょうかね?・・・ボスが甘やかされるから、礼儀すら知らない。呆れた総帥夫人候補でいらっしゃる。」
 戒が皮肉たっぷりに呟く。
「候補じゃないぞ、戒。ミルクは俺の妻だ。よく覚えておけ。」
 マサトが抱えていたミルクの足を床に戻し、振り返って睨み付ける。
 戒は大袈裟に両手を広げて肩を竦めて見せてから、
「なんとまぁ、早計な・・・あ、これは失礼。」
と言うと、ミルクの近くまで歩み寄り、マジマジと顔を眺めてから、
「どうも特徴のない顔立ちでいらっしゃるので、覚えていられるか自信ありませんが・・・”一応”総帥夫人”候補”の女性の”一人”として、記憶に留めるよう努力致しましょう。」
と、片眉を吊り上げた冷たい眼で言った。
 ミルクは照れ臭そうにはにかみ、
「そんなぁ……まだ、そこまで考えないでくださいませ。ミルは子供ですからぁ、結婚なんて現実味が湧きません。」
と、笑顔で答え、
「ご挨拶が遅れて済みません。…景山さんの代理様。」
と、悪びれずに言った。
 戒は、冷たい視線に敵意を込め、
「私は代理という名ではありませんぞ。・・無礼な。」
と、抑揚のない低い声で言う。
「え…でも、まだ正式にご紹介して頂いてないから…お名前を呼ぶ方が失礼かと思ってました。気に障ったら、ごめんなさい。戒さん。」
 戒は返事が出来ずに目を眇めた。
 確かに、いきなり名前を呼ばれると、不愉快極まりなかった。
「・・・あなたは兄も名前で呼ぶのかな?」
「ぃぇ……でも、マサトさんもぉ……」
 ミルクはどう呼べばいいのか、わからなくなってマサトに視線を向けた。

「そうだな。紹介して呼び方を決めておこう。」
 ――マサトは、戒に睨まれても取り立てて変わった反応はせずに応対しているミルクに、意外というより、さもありなん、と思いながら見ていた。
 でなければ、マサト自身だけでなく、あの景山が心を許すはずがなかった。
 景山は穏やかで温厚な表面とは裏腹に、戒でさえ敵わない強かさがあり、虚勢や見栄が通じない相手であることを、近付く者は思い知るのだ。
 ”生き馬の目を抜く”と恐れられる景山が、あれほどミルクを可愛がるのは、何もマサトの女だからという理由だけではないだろう。――
 ・・・少しミルクの好きにさせるか・・・
 ・・・なまじミルクを庇おうとすれば戒がヘソを曲げ、それがミルクへの八つ当たりになるしな・・・
 マサトはしばらく口出ししないで見守ることにし、紹介だけしてやることにした。
「戒は景山の弟で、組織のNo.3だ。元親衛隊をまとめていた関係で、皆からはキラー将軍と呼ばれている。」
「…キラー将軍?…じゃぁ、ミルもそう呼べばいいのぉ?」
「いや、それは日常的にはマズイぜ。」
「だよねぇ?…じゃ、どうしてマサトは”景山”さんと”戒”さんって分けて呼ぶのぉ?」
「あぁ・・・親父が、景山には俺の影になれ、って意味を込めて、”カゲ”と呼び、ごろがいいせいか、”カゲ”に対して”カイ”って呼んでた時の癖みたいなものだな。」
「…ふーん……そーなんだぁ……」
 ミルクは明るい目をクルンと煌めかせながら、感心して頷く。
「”カイ”って響きがいいもんね。フフッ。なら、やっぱり”戒さん”って呼ばせて欲しいなぁ。」
「いいんじゃないか?・・なぁ、戒?」
 マサトが戒にほくそ笑みながら聞くと、戒は興味が失せた、とばかりに背を向け、
「・・・お好きにどうぞ。」
と答えてソファーに座った。

「ククッ。お許しが出たようだぜ、ミルク。」
「はーぃ。…それじゃ、戒さん。よろしくお願いしまぁーす。」
 ミルクは立っている膝の上に両手を揃えて、深々と元気良く頭を下げて挨拶をした。
「・・・私に話す時は、語尾を伸ばされないように。」
「ぁ…伸ばしちゃってましたぁ?…キャハ。お店の癖かなぁ?…ごめんなさぁ〜ぃ。」
「だから・・・・・フゥ・・・理解出来ない相手に何度も説明しても無意味ですね。・・・で?お店とは?」
「ご存知なかったですかぁ?…フフッ。ミルのママがケーキショップをしているんですぅ。ミルもそこをお手伝いしていたことがあって。……戒さんも是非ママのケーキを食べてくださいね。」
「・・・ケーキ・・・」
 戒の眉がピクリと反応する。
 ――実は戒は無類の甘党だった。
 特にケーキは、蛇窟島にいても毎週パリから届けさせるほど好物だった。――
 マサトは戒の反応にニヤリと笑みを浮かべたが、すぐに噛み殺して涼しい顔をした。
「俺にはよくわからないが、かなり美味いらしいぜ。」
 マサトが言うと、それまで控えていた若松も、
「甘い物が苦手なボスでも召し上がられるほどです。」
と、会話に参加してきた。
 戒は興味を持ったようだが、腕組みをすると怪訝そうに、
「それは甘くない、ってことなんじゃないか?」
と、ケチをつける。
「そうですねぇ・・そうした甘くない物もありますが・・・ですが、素材の味を生かしておりまして、同じ甘みでも薫り高い甘さというものを醸し出しているように思います。・・・私の説明よりも、将軍も一度召し上がられることをお薦めします。」
「・・・ほぅ・・・」
「若松も最近料理に凝っていて味にうるさくなってきたから、お世辞で言ってるんじゃないと思うぜ。・・買ってこさせようか?」
 マサトが気を利かせて言うと、
「・・・いえ。総帥夫人候補の御実家の様子を視察するのも必要かと。・・・自分の目で確かめさせて頂きます。」
と答えた戒が立ち上がった。
「そうか。・・若松。案内してやれ。」
「はい。」
 若松はマサトと戒に敬礼をしてから、笑顔になり、
「アリス様にもお土産を買って参りましょう。何がよろしいですか?」
と聞いた。
「ありがとぉ。…んと…ミルフィーユがいいなぁ。」
「畏まりました。」
 若松がそう答えてお辞儀をした時には、戒はすでにドアの所に立ち、
「若松。ぐずぐずするな。行くぞ。」
と言って、部屋を出ていってしまった。


 鬼のいぬ間・・・という訳ではないが、マサトはミルクを抱き上げて、隣りの”アリス姫の部屋”に連れていった。
 夢にまで見たミルク。
 夢ではない本物のミルクをようやく、この腕に抱き締めることが出来る。
 マサトはミルクの肌を求めて、制服を脱がせていった。

「、、、ぁ、、、ぃゃ、、、」
 胸の谷間に顔を埋められて、ミルクは頬を赤らめる。
 タップの練習で汗をかいているのが恥ずかしい。
 なのにマサトは顔をミルクのやわらかな肌に埋めるようにして擦り付けてくる。
「、、、汗かいてるからぁ、、、恥ずかしいよぉ、、、」
「ミルクの汗の匂いが、俺は好きだぜ。」
 丸い胸の膨らみを両脇から鷲掴みにし、いっそう丸みが強調された胸に唇を滑らせる。
 先端を指先でつまみ、クリクリと回して、交互に吸い付く。
 いつもよりつかまれる指に力が入っているようで、指先が当たる所が痛い。
「、、、ぁ、、、ん、、、」
 ミルクは羞恥心をどうにか耐えながらマサトの愛撫を受け入れている。
 抱かれている時だけ、マサトの女なのだという実感が湧く。
 色々な意味で凄すぎるマサトを、時々遠くに感じてしまう。
 近付こうとして必死で追いかけても、側に立ってみても、見上げるほどに高い存在だった。
 心に写るマサトは実物よりも更に偉大で大きかった。
 そして自分自身は子猫ほどに小さな存在だった。
 いつもちっぽけな自分に呆然と上を見上げて立ち尽くし、やがて踞って膝を抱え丸くなってしまう。
 マサトが抱き上げてくれるから、顔を正面から見られるし、抱きついてしがみつくことも出来るのだ。
 マサトの肌に触れ、温かい胸に顔を埋め、逞しい腕に包まれている時だけ、マサトの女としての自分を見つけられる。
 そこには、言葉では言い表せないほどの幸福がある。
 優しく満たされて、熱く発光する光に包まれた目映い世界。
 他にはなにもいらない。
 マサトと繋がり結ばれる時以上に欲しいものなんてない。
 マサトもマサトの注いでくれる愛も、大きすぎて抱えきれないほどなのに、他のものまで手を伸ばせるはずもなく、必要もなかった。
 ……でも……
 ミルクは幸せな時ほど不安になる。
 マサトが手を離したら、全てを失ってしまう。
 奈落の底まで滑り落ち、どんなに足掻いても這い出せそうもない。
 自力で立ち上がって上り詰めるだけの力が自分にはないことを、ミルクは知っている。
 マサトの愛があるから、自分が自分でいられるのだ、と思う。
「あぁ、、、、、マサトぉ、、、、、」
 マサトの蛇が体に押し入ってきた時、ミルクは目にうっすらと涙を浮かべていた。

「・・・ミルク?」
 マサトはミルクの奥深くに体を埋めて、包み込む柔らかな襞の動きを味わっていたが、ミルクの睫毛についた滴がキラキラと輝いていることに気付いた。
「・・どうした?」
 ミルクの前髪を後ろに撫でつけ、白く形のいい額にキスをする。
「、、、ぅぅん、、、」
 ミルクは長い睫毛を瞬きさせて、切なそうにマサトを見つめる。
「いきなり過ぎたか?・・痛い?」
 マサトの見当違いの心配が何だか可笑しくなって、ミルクはクスッと笑みをこぼす。
「ぅぅん、、ハァァ、、、気持ちいぃよぉ、、、」
 マサトにギュゥ〜ッ、としがみつく。
 ミルクの膣もギュゥゥ〜〜ッと蛇にしがみつく。
「うッ・・・相変わらずキツイなぁ・・・」
 マサトは苦笑し、
「けど・・・俺も気持ちいいぜ。」
と、ミルクの睫毛の涙をそっと吸った。
「・・動かして平気か?」
「、、、、、ぅん、、、、、」
 ミルクが恥ずかしそうに目を逸らして頷く。
 ・・・可ぁー愛ぃーぜぇッ!
 マサトは愛しさが爆発しそうなほど蛇が熱く脈打つのを、ミルクの蠢く襞の中で感じる。
 愛しさに目眩を覚えながら、ドクンドクン、、と跳ね上がる蛇を、ゆっくりと動かし始めた。

「あぁぁぁぁぁ、、、感じるぅぅぅ、、、、、」
 シュブリッ、、シュブリッ、、、
 擦られる感覚がたまらない。
「あぁ〜ん、、、とけちゃうぅぅ、、、」
「溶けていいぜ。・・・みんな俺が舐めてやる。ククッ・・・」
「、、、ミルぅ、、、よく甘い匂いがする、ってからかわれるからぁ、、、溶けたら甘いかもぉ、、、」
「お前の甘さならいくら甘くたってかまわねぇぜ。・・・つーか・・・誰がからかうって?」
 ・・・男じゃないだろうな?
 マサトがムッとして聞き咎める。
 ミルクは感じている苦悶の表情で、トロン、とマサトに目を向け、
「、、ン、、友達だよぉ、、、」
と、甘い息で答える。
「・・・男じゃねぇだろうな?」
 マサトは蛇の頭で、グイグイ、とミルクのカズノコ天井を突っつきながら詰問する。
 ……ぇ?
 ……嫉妬してる?
 ミルクはマサトのジェラシーが嬉しくなって、繋がった熱い部分から発火した熱が全身を駆け巡り、痺れる体を一層熱く燃え上がらせるように感じた。
「、、、ウフッ、、、ウフフフッ、、、女友達だよぉ、、、ウフフッ、、、」
「・・・なーんか、怪しい笑いだなぁ・・・」
 マサトは面白くなさそうに腰の動きを早める。
「、、ぁぁ、、、あぁん、、、、、ホントだもん、、、」
 ミルクは甘えて、スンッ、、と鼻を啜り、背中を浮かせて体を悶えさせた。
 その仕草、表情の可愛さに、マサトは股間の蛇を暴走させる。
「あッ、、、あぁぁ、、、あぁぁぁ、、、」
 ミルクは完全な陶酔に浸り、顔を左右に振っては何度も仰け反り、オルガズムの高波に飲み込まれていく。
「あぁぁぁ、、、いぃぃぃ、、、いくぅぅぅ、、、うぅぅぅ、、、」
 甘えて啜り泣くような高く澄んだ声に、マサトも発射の照準を一点に集中させていく。
 そして、体を起こして、
「いくぜ・・・」
と、ミルクの腰を両手でつかみ、激しく打ち付け始めた。
「あああぁぁぁぁ、、、、、いいいぃぃぃぃ、、、、、」
「俺の魂を・・・注ぎ込んでやるぜぇぇッ!・・・ぐぅぅぅーーーッッ!!」
 マサトは引き金を引いて、熱いビーム弾を迸らせた。

 重なるように倒れ込んだマサトは、ミルクを抱き寄せて腕枕をしてやると顔中にキスを降り注ぎ、ミルクのエクスタシーの痙攣が治まるまで、髪を撫で続けていた。

 気怠さの中、汗ばんだ体をピッタリ合わせて余韻に浸る。
 ミルクは逆上せてぼんやりする視界でマサトの蛇を眺め、指先で撫でている。
「・・・なぁ・・・さっき、何で泣いてたんだ?」
 マサトは天井に描かれた偽物の空と色とりどりの雲を眺めながら聞いた。
「、、ぇ、、、泣いてないよ、、、」
「・・・戒の嫌味で傷付いてたんじゃないのか?」
「、、ヘ?、、、戒さん、何か嫌味言ってた?」
 どうも会話が咬み合わない。
「戒はちょっと変わってるから、人から怖がられることが多いんだが・・・」
「、、、ふーん、、、でも、嫌味な感じはしなかったけどなぁ、、、」
 ミルクは撫でていた胸の蛇にキスをしてから、マサトに顔を向け微笑んだ。
「ミルぅ、、、けっこう戒さんが好きぃ、、、ウフッ、、、」
「・・・俺が言うのも何だが・・・舐めてかかると痛い目に合わされるぞ。・・・昨日も、危うく星野が死にかけた。」
「、、、、、え?!」
 マサトの言葉を聞いてから意味を理解して驚くまでに時間が掛かった。
「まぁ、わざとじゃねぇが・・・俺が飲んでいる毒エキスの蛇を星野に投げつけて、毒が付着している蛇の牙で肌に傷をつけちまった。・・・あの毒は猛毒で針の先ほどの傷でも命が危険になるからな。免疫のある俺や戒以外の者は即死しかねねぇ。」
「、、、、、それで今日、星野さんの右顔が腫れてたんだぁ、、、、、」
「若松がすぐに処置したし、俺の血は解毒作用があるからな。大したことにはならずに済んだが・・・」
「、、、、、何で星野さんが?」
「星野の態度が俺に対して不遜に見えちまったらしい。・・星野はそんなつもりはなかっただろうし、俺も別に気にしちゃいなかったが、戒には面白くなかったようだな。」
「、、、、、そっかぁ、、、、、」
「昔、俺のガードをしていた時の感覚で人を見ちまうらしい。自分と兄貴の景山以外は誰も信じられず、皆が敵に見えちまうから、つい攻撃的になっちまうらしい。」
「、、、、、そーなんだぁ、、、、、」
 ……マサト…そんな危険な時期があったんだ……
 ミルクはマサトの首根に顔を押しつけ、ギュゥッ、と抱きついた。
「・・・ミルク?」
「、、、、、だから、、、戒さんが好きなのかも、、、、、」
 ミルクの言葉がマサトにも意外で、よく理解出来なかった。
「・・・そんな話を聞いても、戒が怖くないのか?」
「、、、だって、、、ずっとマサトを守ってきてくれた人なんだもん。、、、だから、きっと、、、そのプライドがあるから、、、簡単には人を信じないんだろうし、、、今でもマサトが大好きでたまらなくて、、、今でも守りたくて、、、心配で、、、」
 ミルクが、ふわっ、と甘い息で笑みをこぼす。
「そんなにマサトを愛してくれている人だから、きっと好きなんだなぁ、って思ったのぉ、、、」
「・・・そうか・・・」
 マサトもフッと笑みを浮かべ、ミルクの髪に人知れず敬意を込めてキスをした。

 ――戒を理解出来る者は少ない。
 兄である景山とマサト以外では戒の率いるキラー部隊のメンバーくらいだろう。
 若松も最も優秀なキラー部隊のメンバーだっただけに、戒へは絶対の信頼と尊敬を抱いている。
 だが、あまりにも強い個性と非情さについていけない者も多い。
 組織の大半は恐怖から従っている者達ばかりだ。――
 ・・・ミルクは自分が安全だから、そう言っているんじゃない。
 ・・・自分に向けられる敵意が殺意に変わりかねないとわかった上で、そう言っているのだ。
 ・・・俺の為に・・・
 マサトに全てを捧げて愛しているから、例え自分の命を投げ出しても、マサトを愛し守ろうとする存在に敬意を持ち、感謝の気持ちを無意識に向けるミルク。
 ミルク自身にはそうした自覚はないが、マサトには理解出来る。
 ミルクの絶対的無心の愛がいつも自分を包み込んでくれていることを感じる。
 戒も若松も、勿論景山も、無心の忠誠を誓い尽くしてくれる。
 同じ思いが重なるから、ミルクは戒を理解し好意を持ってくれるのだろう。
 人を押し退け自分が一番になるのではなく、華奢な腕を精一杯に広げてマサトを取り囲む思いの全てを包みたいと願い、祈りを捧げる天使。
 そっと手を差し伸べた時だけ、嬉しそうに無邪気に甘えてくる。
 このミルクがいるから、自分が間違うことなく自由にどんな空も飛び回れるのだ。
 ・・・漆黒の空で闇雲にのたうち回った時もあった。
 ・・・赤く燃える空をがむしゃらに傷付きながら駆け巡ったこともある。
 ・・・犯した過ちもある・・・
 ・・・だが・・・ミルクがいれば、心にいつも目指す星の輝きを見つけることが出来る。
 ・・・愛おしくない訳がない。
 マサトは些細なことで嫉妬していたことが、スゥーッ、と消えていった。
「ミルク・・・愛しているぜ。」
 マサトは、腕の中にすっぽり隠れる小さな天使の大きな愛に包まれて、幸せというものを噛み締めながら囁いた。


 翌日。
 会社での仕事を終えて地下アジトに出向いたマサトは、机の上に置かれている写真を、ギョッ、として凝視した。
 猫耳と悪魔のシッポをつけたミルクが、ミニスカートを揺らめかせ太腿も露わにしているではないか。
 細いウェストとふっくらとした胸が強調されるような服。
「アリス姫のステージがどのようなものかと、・・・潜入調査致しました。・・・なんとも可愛らしいお姿ですね。」
 そう言って片頬で笑うのは、勿論得意げな戒。
 ・・・確かに可愛い・・・
 ・・・可愛いが・・・
「なんなんだぁぁぁーーッ!これはぁーッッ!!」
 ・・・可愛過ぎるのが問題だぞッ!
 ・・・太腿が白すぎるじゃないかッ!
「丁度いいアングルで写真を撮影している男子生徒がいましたので、フィルムを譲って頂きました。」
 いや・・・別名、強迫して奪ったとも言う。
「・・・クッソォーーッ・・・何て恰好なんだ・・・」
 マサトは写真を食い入るように見つめながら、悔しそうに呻く。
「いえ。他にも写真を狙って撮っている男子生徒はたくさんいましたよ。・・・アリス姫は人気があるようですねぇ。」
 ギリリッ・・・
 奥歯を噛み締めたマサトは、
「フィルムを全部回収しろッ!・・・ミルクは俺の女だぁーーッ!」
と叫んだ。
「・・畏まりました。」
 戒は怒りを爆発させているマサトを嬉しそうに目を細めて見てから、恭しく頭を下げた。

 戒が部屋を出てドアで耳を澄ませていると、マサトがミルクに携帯で怒鳴っている声が聞こえてくる。
 戒は、喉で笑うと静かにその場を立ち去った。

<57>
「卒業式…そして」
§57§「卒業式…そして」

 三月一日。
 この日はミツルの高校の卒業式であると共に、香蘭学園でも卒業式だった。

 ミツルの卒業式には母親の琉美江だけが参加する。
 琉美江が連絡したのか、ニューヨークの父親からは、昨日手紙と卒業祝いの小切手が送られてきた。
 言い訳の言葉はもうなかったが、父親としての誠意が感じられる文章が書かれてあった。
 今でも父親を許していないミツルだったが、母親にも恋人が出来たことで、以前ほどの敵意は感じなかった。
 それよりも、父親の愛人には子供も生まれているのに、一体いつまでこんな中途半端な状態でいるのか気になったが、ミツルの受験に遠慮して話を進めていないとも考えられた。
 まだ合格発表の日は先で、ミツル自身中途半端な気持ちの卒業式となった。
 ・・・春の花が一斉に芽吹く頃、全てが新しい展開へと動き出すのだろうか。
 ミツルは最後の制服に袖を通しながら思った。

 玄関前にはお祝いの花がいくつも並べられていた。
 高価な鉢植えは室内に飾られたが、大きな飾り籠に盛られた花々の山は外に置かれた。
「お兄ちゃん、ママぁ。写真撮るよぉ。」
 庭で待っていたミルクが、玄関に出てきたミツルに声を掛ける。
 山の様な花をバックに背負っての撮影に、気恥ずかしくなる。
 だいたい、この花はほとんど自分とは無縁の相手からの贈り物だった。
 マサトやマサトの知り合いだけでなく、マサトに個人や会社をアピールしたい人達からの捧げ物の類。
 ・・・クソッ。
 ・・・俺を巻き込むな。
 ミツルはカメラをかまえているミルクに応じて立ち止まったものの、不機嫌な顔をしていた。
「お兄ちゃん。そんなに緊張してないで、もっと自然に笑ってよぉ。」
 ミルクが顔からカメラを下ろして膨れ面をする。
 ・・・リスみたいによく脹らむ頬だな。
 ・・・泣き顔と膨れ面は昔のままだ・・・
 数日前も、「お別れ会のことでマサトに叱られた…」と真っ赤な顔で泣き腫らしていた。
 一年前・・・ミルクの写真を勝手に雑誌に載せた相手に謝罪を求めて、学園まで乗り込んでいったことを思い出す。
 今はマサトが自分以上に監視の目を光らせているらしい。
 もう自分の役目はないか、と思うと、たまらなく寂しさが過ぎるが、あのマサトだけにそうそう安心して託せない。
 ・・・やはり兄として見守っていかなければ。
 ミツルは、フッ、と目を細めて微笑んだ。
「OK!…あ、ママももっと寄ってぇ。」
 ミルクはカメラマンを気取り、シャッターを押す。
「アリス様。俺が撮りますから、アリス様もそちらに。」
 星野が横で声を掛ける。
「そぉ?…じゃぁ、お願いしまぁーす。」
 ミルクが嬉しそうに眩しい朝日の中を笑顔で駆けてくる。
 ・・・俺の妹・・・俺の天使・・・
 ミツルにもミルクは掛け替えのない天使だった。
「いいですかぁ?・・撮りまーす。」
 星野がそう声を掛けた時、ミツルはそっとミルクの肩に手を置いた。


 香蘭学園の卒業式。
 参列する父兄も来賓の面々も立派な人達ばかりだ。
 そうした人達が会場を見回して真っ先に姿を探すのは、何かと話題になるミルクだった。
 だから、ミルクが卒業生が入場する前の会場をそれとなく見回すと、誰彼となく視線が合ってしまう。
 ミルクは行儀の悪い所を見つかってしまったような恥ずかしさで、首を竦めて緊張に体を強ばらせる。
 ……何かみんな凄い服着てるなぁ……
 二年後にはミルクも卒業式を迎え、母親が参列するのだろうが、母親があんなに豪華な服を着ている姿を見たことがない。
 今日のミツルの卒業式も、地味なスーツの胸元に、高藤から送られたブローチを付けていただけだった。
 ……お小遣いを貯めて、ママに服を買ってあげたいなぁ……
 ……やっぱ、春休みにはまたバイトさせて欲しいなぁ……
 などと、式とは関係ないことで頭が一杯になっている。
 それでも、卒業生が入場し、式が進む内に、自分自身の一年間が走馬燈のように浮かんできた。

 ……友達と別れて一人違う高校に入学するのが、嫌でたまらなかった。
 …けれど、香織の元彼の上杉と再会し、チャレンジクラブを知り、ミツルの同窓生だった麗子とも親しくなれた。
 …学園生活を楽しく過ごせたのも、チャレンジクラブのお陰だ。
 …麗子部長を姉のように慕っていた。
 ……クラスには馴染めないと思っていたが、小百合と友達になれたことで、皆の輪の中にも入っていけるようになった。
 …小百合の兄の竜二とは不思議な縁があった。
 …小百合がミツルと結婚したら、竜二とは兄妹関係になるんだろーか?
 ……新しい出会いもあったが、親友との悲しい別れもあった。
 …その為にマサトとの関係を封印したこともあった。
 …別れてもずっと好きだったマサトと再会出来た時、全ての殻を脱ぎ捨てて飛び込んだ。
 …香織も再会した上杉と恋愛関係が復活し、今も爽やかな交際を続けている。
 ……パパの裏切りを知った悲しみが、今ではママの再婚と新しい命の誕生を待ち遠しく感じている。
 …本当に色々なことがあった一年間だった。

 ……てゆーか…パパとはまだ離婚してないよね?
 ……お兄ちゃんにはいつ妊娠のことを話すんだろぉ?
 ……それに…高藤さんは自分の家族をどうするつもりなんだろ……
 感慨深く一年を振り返っていたミルクは、色々なことがあったこの一年間より、先のことが気になりだして、粛々と進行する式とはまったく無関係な思案に没頭してしまっていた。

 卒業式が終わった後、少しだけ麗子と話す機会があった。
 チャレンジクラブのみんなで麗子のお見送りをしたのだ。
 女子部員は皆、麗子に抱きついて泣きじゃくる。
 男子部員もその回りを取り囲み、涙を滲ませた赤い目をしている。
「泣いてるんじゃないの。しっかりしなさい。これからはあなた達がチャレンジクラブを支えていくのよ?」
 麗子は涼しげな笑顔でみんなを見回して言った。
「・・麗子さんは俺達と別れることが寂しくないんですか?」
 男子部員の誰かが拗ねたように言う。
「何言ってるの。会おうと思えばいつだって会えるじゃないの。・・・それより、セーラー服とは今日が最後だと思う方が寂しいわよ。」
「・・・ぅぅ・・・麗子さん・・・」
「なーんて、冗談だけど。・・・でも、やっと色々なことに挑戦出来るって思うと、寂しいよりも楽しみなの。」
「・・・挑戦・・・ですか?」
「そうよ。みんなだって”チャレンジ”・・つまり”挑戦”するクラブ員でしょう?・・・私は、もっと広い世界で挑戦する時がきた、ってことなの。・・・だから、笑って見送って欲しいのよ。」
「・・どんな挑戦をするんですか?」
「そうねぇ・・・考えてることもあるけど、それはこれから探していくわ。」
 麗子は空を見上げて、潔いほどに綺麗な顔で微笑んだ。
 麗子の光を浴びる横顔が、どこかミツルに似ている、とミルクは思った。
「…麗子さんもお兄ちゃんと同じ所に合格するといいですね。」
 ミルクがふと言ってしまってから、まずかっただろうか、と唇を噛んだ。
「多分ダメだわ。」
 麗子は気にすることもなく、アッケラカンとして答えた。
 皆が、は?、と麗子の顔を見つめる。
「うーん・・・実はねぇ、自己採点した結果がかなり悪かったの。・・・でも、まだ後期の試験が残っているから、学部は違うけど、また頑張ってみるわ。」
「…そーですかぁ……」
 ミルクは申し訳なくなって頭を下げた。
「大丈夫よ。私は諦めてないから。・・・それに、滑り止めの私立の方は合格してるし、いくらでも選択肢はあるもの。」
「ぁ…そーですよね。」
 ミルクがホッと笑顔になると、麗子は、
「アリスも周囲に負けないで、しっかり頑張ってね。」
と言って、肩を叩いた。
「…はぃ…」
 ミルクは、麗子のようにはなれない、と思いながらも、小さく頷いた。


 家に帰ったミルクは着替えてすぐに出掛けることにした。
 ミツルと母親は謝恩会に出席することになっているし、その後ミツルは部活の後輩達に呼ばれているらしい。
 高校生になると家でのお祝いはしないのか、ミツルが男のせいなのか・・・。
 母親は「合格したら、本当のお祝いをしましょう。」と言っていた。
 母親も抱えている課題がいくつもあって、気忙しいのか、あまり感慨がわかないのだろうか。
 何となく寂しく感じているのが自分だけのような気がして、ミルクは浮かない顔をしていた。

 玄関を出て車に乗り込む時、視線を感じて道路に目を向けると、30歳前後の女性がミルクを見ていた。
 目が合うと顔を逸らして通り過ぎて行ったが、女性の顔に浮かぶ悲しげな表情が気になった。
 通行人が好奇心で覗き込むことはよくある。
 けれど、それとは明らかに違っていた。
 車庫から道路に出た車が、その女性を追い越すように通り過ぎていく。
 ミルクは後部座席から振り返って女性をしばらく眺めていた。
「お知り合いですか?」
 助手席の星野が声を掛ける。
「ぅぅん。……でも、ちょっと気になって……」
「そーですか。では、部下に付けさせて身元を調べてみましょう。」
「…ぇ……ぅ…ん……」
 ミルクは躊躇ったが、いつまでもモヤモヤとして気にしているよりは、その方がいいように思えた。
 星野はすぐに携帯で家のガードをしている部下に連絡した。


 そんなこんなで沈んだ気分のまま地下アジトに着いたミルクは、総裁室で景山の姿を見つけて、
「お帰りなさぁーぃ!」
と、歓喜の声を上げた。
 景山も嬉しそうに微笑み、
「ただいま帰りました。アリス様にお土産を買ってまいりましたよ。お部屋に置いてありますから、お楽しみに。」
と、穏やかな声で言った。
「わぁ〜ぃ!ありがとぉ、景山さん。」
 ミルクが手を叩いて小さくジャンプしながら言うと、
「兄さんまで甘やかして。・・・ここには女の我が侭を助長させる男しかいないのか?」
と、戒がボソリと文句を言う。
「アリス様なら、どんな我が侭でもお聞きしたいものだ。・・が、残念ながら、まだ一度も聞いたことがない。・・戒はあるのか?だとしたらラッキーだったな。」
 景山は表情を変えずにサラリと答える。
 そして、
「で?・・・どんな我が侭だったのか教えてくれ。さぞかし可愛い我が侭を仰られたのだろうな?」
と、まるで冗談でも聞くように尋ねる。
 戒は言葉に詰まり視線を逸らす。
 まだそれほど親しく会話する機会もない戒には、これが我が侭の実体だ、と答えられる材料がなかった。
「・・・まさか、根拠も確証もないことを口には出すまい?」
 景山の眼差しに厳しい光が宿る。
「・・・・・今に本性を見せるさ。」
 戒はそっぽを向いたまま、悔しそうに爪を噛む。
「見つけてから言うことだな。・・そう。本性を見つけられるくらい性根を入れて正面からぶつかったらどうだ?ボスもお忙しくアリス様も寂しくされておられることも多い。戒が話し相手になれば、アリス様も喜ばれるだろう。」
 景山がそう言ってミルクに優しい目を向けると、ミルクも嬉しそうに頷いていた。
「「ねぇ〜。」」
 小首を傾げて同時に出された声に、戒は思わず固まった。
 聞き違いか?と言いたげな顔をした戒の耳に、マサトの忍び笑いが聞こえてくる。
「戒。景山はある意味、俺以上にミルクに甘いからな。ヘタに文句を言うと後が怖いぞ。」
「・・・ボス・・・」
「ちょうどいい。景山と少し話があるから、隣りの部屋でミルクに付き合ってやっててくれ。」
 戒は露骨に嫌そうな顔をする。
「戒。ボスの命令だぞ。」
 景山が語気を強めて言う。
 戒は大きく溜息を吐いて、
「・・・いいでしょう。ただし、私はご機嫌取りは致しませんから。」
と不承不承に返事をした。

 『アリス姫の部屋』。
 小さなハート形のテーブルに山盛りのお土産が置かれてある。
 テーブルには置けない大きな物も脇に置かれてある。
「うわぁ……スゴーイ!…これってみんな中国で買ってきたのかなぁ?」
「・・・中国といっても香港はずっとイギリス領でしたから、本当の中国の印象とは違ってるかも知れないですね。」
 ミルクがテーブルの前に正座して座ったので、戒は反対側に片膝を立てて座り込んだ。
 膝に肘を置いて頬杖をつく。
「…そっかぁ……って、どう違うの?」
「中国は社会主義国として自由主義諸国とはずっと国交を持たなかったのです。唯一香港だけは本国中国と自由主義諸国との交易の架け橋になってきました。・・・言ってみれば、鎖国時代の出島、長崎といった感じでしょうか。」
「…あぁ…ねぇ……そかそか。」
 ミルクは感心して戒を見つめる。
「ですから中国の伝統的な工芸品も扱いますが、西洋文化の影響も受けた華美な物も多く、デザインにしても派手な物が多いようです。」
「そーなんだぁ。……戒さんって博識ぃ……」
「これくらい常識です。学校で習いませんでしたか?」
「えー……習ったっけ?」
「私に聞かれても、私の場合は中学以降は独学ですので、わかりません。」
「独学ぅ?……お兄さんも?」
「高校に在籍はしましたが、通う暇はありませんでした。兄も私も組織の訓練所を出てすぐの17歳で坊ちゃま・・・ボスのお側につきましたし・・・」
「ほぇ……」
 ミルクがひたすら感心して目を丸くしているので、
「お土産に興味はないんですか?」
と、片眉を聳やかした戒が言った。
「あ…そだったぁ。えへへ…」

 戒に促され、ミルクは一つ一つの包みを丁寧に開けていった。
 一つ開ける度に、感嘆の声をあげ、嬉しそうに笑う。
 景山のお土産は高価な物より可愛い物が多い。
「わぁ…見て見てぇ。このおくるみの赤ちゃん、鉛筆削りになってるぅ。フフフッ。」
「・・・実用性のない置物ですね。」
「え?でも鉛筆削りだよぉ?」
「・・・で、鉛筆を使ってますか?」
「ぅーん……あ、絵とかポスターを描く時に使う。…でも、使うのがもったいないくらい可愛いねぇ。飾っておくだけでもいいかも。ウフッ。」
 ミルクはおくるみの人形をテーブルに置いて頭を撫でると、次の包みを開け始めた。
「うわぁ…これって超綺麗ぃー。……でも何に使うんだろぉ?」
「それは香炉ですね。お香を焚くのに使うものです。・・・そこにあるのがお香じゃないですか?」
「…これ?……どうやるの?」
 ミルクがわからなくて香炉をひっくり返したりしているので、戒が使い方を示してやる。
 細く白い煙が上がると上品な香りが部屋を満たす。
「…煙なのにいい香りぃ……」
「これはムスクですね。いわゆる麝香です。・・・精神を安定させ、血流を促し体を健やかにする効果のあるものです。」
「へぇ……漢方ってスゴーイ。……綺麗で可愛くていい香りで、しかも体と心にいいなんて優れ物だよねぇ。」
 ミルクは目を閉じて、しばらく香りに浸ってから、また次の包みを開けた。
「……これはぁ?……おままごとセット?」
「それはウーロン茶を飲む為の茶器でしょう。」
「あー…そう言えば、CMで見たことあったぁ。そっかぁ、これがぁ……確か、上からお湯をかけてぇ……あれ…?」
 正確な入れ方を知らないミルクは、イメージだけで理解しようとしたがわからず、首をひねる。
「お入れしましょう。」
 戒は茶器を持って部屋を出ていき、ほどなく洗った茶器とお湯の入ったポットを持ってきた。
 別の包みにあったウーロン茶の葉をひとつまみ入れ、急須にお湯を注いで蓋をし、その上からお湯をかける。
 蒸らしてから小さな細い方の湯飲みに注ぎ、平たい湯飲みで蓋をするように被せ、クルッと転がして上下を逆にする。
 細い湯飲みの方をそっと上げて、
「これで先に香りを楽しみます。」
と、ミルクに渡した。
 熱心に見守っていたミルクは、ドキドキしながら細い方の湯飲みを受取り、鼻を近付けた。
「……ほわぁ……何とも言えない…いい香りがするぅ……」
「・・・そうですね。・・・この茶葉はかなりの物のようです。」
 戒は自分用の細い湯飲みを香って頷いた。
 それから、平たい方の湯飲みを手に取り、
「・・・では、こちらを味わってください。」
と、ミルクに差し出した。
「頂きまぁーす。……ぁ…ウーロン茶なのに…なんだか甘くない?」
「いい茶葉とはそーゆーものです。」
「そーなんだぁ。そんなに高級なのかぁ。……あ、ねぇ。そしたら、マサトさんとお兄さんのお話が終わったら、入れてあげて?…こんなに香りのいいウーロン茶を口に出来たら、疲れも忘れられそぉだもん。ね?」
「・・・よろしいですが・・・」
「ありがとぉ。ウフフッ。」
 ミルクが嬉しそうに笑うのにつられて、戒もフッと笑みを浮かべてしまう。
 が、すぐに眉をひそめ、騙されないぞ、と心で呟く。

 全ての包みを開け、飾れる物は棚に飾り、使う物は別の棚に置き、食べ物はテーブルの上に並べて、箱と包み紙を部屋の隅に片付けたミルクは、興奮醒めやらぬ火照った顔で、フゥッ、と甘い吐息をもらした。
「…でも、ホンット戒さんって色んなことをご存知なんですねぇ。それに話し上手で、学校の先生よりわかりやすいのぉ。フフッ。……やっぱ、景山さんとご兄弟だなぁって感じちゃう。」
「・・・兄と?」
「うん。戒さんのお兄さんも教え方がすっごく上手なのぉ。」
「ほぅ?・・・兄が何を教えたのでしょう?」
「アハッ…宿題とかぁ、試験勉強でお世話になってまぁーす。」
「・・・おやおや。いつも忙しぶっていながら、そんなことまでしてるのですか。」
「あ…でも、それはミルが切羽詰まった時に助けてくださるだけで、いつもは本当に忙しそうですよ。」
「フン。・・・でなければ困ります。総裁夫人候補の機嫌取りばかりしているようでは、下に示しがつきません。」
「ですよねぇ。……てゆーか、その候補っていうのは置いといて頂けませんか?」
「・・・どこに置くんです?」
「へ?……じゃぁ、倉庫にでも。クフフッ。」
 戒は、笑えない冗談とばかりに目を眇める。
「……ぅぅ……だって……まだ、そうした自覚も自信もないんだもん。……今はマサトさんが好きだから一緒にいたいだけで、それ以上のことって考えられないしぃ……」
「・・・・・困ったものですね。」
「…ゴメンナサイ……」
 小さな声で謝ったミルクが、ペコッ、と頭を下げる。
「ご自分の立場、気構え、覚悟といったものを、キチンと把握していて頂かないと、周囲の者達が迷惑しますよ。」
「……ぁぃ。」
「ボスはあなたぐらいのお歳の頃には、勉学を続け肉体を鍛え上げる一方で、立派に仕事をされてました。」
「……ぅん。……マサトさんって本当に凄い方ですよねぇ。」
 ミルクは両膝を胸に引き寄せ、膝頭に頬を押し当てる。
「当然です。坊ちゃまほどに優れた方は他にいらっしゃいません。」
 戒は顎を突き出すように上げ胸を張って答える。
 ミルクは顔を膝に倒したまま、ふわっ、と微笑んで戒を見つめる。
 ミルクと視線が合った戒は、
「・・・何です?」
と怪訝そうに睨む。
「……いいなぁ、って思って……」
「・・・は?」
「……よくわかんないけどぉ……マサトさんも…マサトさんを取り囲む皆さんも……素敵……」
「・・・はぁ?」
「……ぅぅ……だからぁ…よくわかんないから……もういい……」
 ミルクは膝を抱えたままファーマットにコロンと横になり、
「……ムスクのお香が効いたのかなぁ……眠くなっちゃったぁ……」
と、呟くように言うと目を閉じた。
 戒が呆れて絶句している間に、ミルクは小さな寝息をたて始めてしまった。
「・・・何て我が侭だ?・・・こんな態度があるか?」
 聞こえよがしに言った言葉も、もうミルクには届かない。
 戒は天を仰いで大きな溜息を吐くと、仕方なさそうに立ち上がり、ベッドから毛布を引っ張ってくるとミルクに掛けてやった。


 話し合いの済んだマサトと景山が部屋を覗いた時、ムートンのファーマットの床で眠っているミルクと、その傍らで手持ち無沙汰にトランプをしている戒を目撃した。
「・・・戒。何をしているんだ?」
「見ての通り、トランプだよ、兄さん。」
「・・・何か失礼はしなかっただろうな?」
「何言ってるんだ?・・・ったく、兄さんが土産で買ってきた香が効き過ぎて、眠くなったらしいぜ。・・・寝る子の子守りほど退屈なことはない。」
 戒の不機嫌そうな言い方に、景山は小さく苦笑する。
「なるほど。・・では、姫が起きておられた時には退屈しなかったのか。それは良かった。」
「・・・・・フン。」
「それで・・・姫の我が侭は発見出来たのか?」
「・・・・・いや・・・まだ・・・」
 戒はチラッとミルクの寝顔を一瞥してから、
「さて。そろそろお役ご免とさせて貰おう。」
と言って立ち上がり、
「後はボスのご随意に。」
と、マサトに膝を折って頭を下げてから、部屋を出ていった。

<58>
「いい子…」
§58§「いい子…」

 NK団連(日本経済団体連合)の常任理事として理事会に出席したマサトは、1時間も延長して閉会となった会議室から急ぎ足でロビーに向かった。
 ロビーで待機していた若松に声を掛け、玄関で車が来るのを待っている間も腕時計を見て時間を気にしている。
「ライダースーツで会議に出席出来るなら、こうしたタイムロスをしなくて済むのにな。」
 ピシッ、としたスーツがモデルのようにフィットしているマサトが愚痴る。
 長身でクールな顔立ちに、隙のない身のこなし。
 すれ違う女性が、ぽぉッ、と頬を染めて見取れるのも無理はない。
 ましてマサトがS商事会長と知ってる女性は、憧れと尊敬以上の恋心を抱いてマサトを見つめる。
 スーツの真っ直ぐなラインだけで、セクシーと感じてしまう男の色気が、最近増したように思える。
 そんな感慨に浸りながらマサトを見ていた若松が、
「では会長が前例を作られたらどうです?」
と、ニヤッ、として答える。
 二十代でHK団連の常任理事に納まったのは三人目らしい。
 それでも、超財閥の御曹司が会長の後を継いで常任理事に就任した前例を思えば、何の後ろ盾もなく実力だけで認めさせた男としては初めてだろう。
「出る杭は打たれる。まぁ、ここでは大人しくしているしかないぜ。」
 マサトは片頬で苦笑をもらし、また腕時計に目を落とした。

 何台か、別の出席者の車が通過し、ようやくマサトの車が玄関に停まった時、
「原田君。」
と、後ろから呼び止められた。
 振り返るとNK団連副会長で、某財閥企業グループの会長が笑みを浮かべて立っていた。
 ――某財閥企業を総括する会長:錦城君麿(きんじょうきみまろ)は、70歳を迎えようという年齢でありながら、背筋がピンと伸びた精悍な印象の人物だった。
 後ろに控える秘書二人の内、女性の方は20代と若く、錦城氏の愛人という噂だ。
 もう一人の男性秘書は40代で、いかにもエリートといった印象のする眼鏡を掛けている。――
「これは錦城会長。私に何か?」
「うむ。少し付き合って貰えんかな。・・急で悪いが、時間の都合をつけて欲しい。『蛇窟蘭』でどうだ?まだ早いがママに席を用意させたから。」
 錦城氏は口元にこそ笑みを浮かべているが、目の奥には暗い怒りの色があった。
 今終えた会議の席上、かなりNK団連の会長に食い下がって意見をぶつけていたので、その関係だろうか。
 ・・・断る訳にはいかないだろう。
「わかりました。御一緒にいかがです?」
 マサトは半歩下がって若松が開けている車のドアを示す。
「いや。私の車もそこに来ているから構わんよ。」
「では、後ほど。」
 マサトは礼儀正しく会釈して車に乗り込んだ。

 錦城氏の車が来ていたことはわかっていたが、一応の義理立てをしてみせたマサトは、車が動き出すと舌打ちをした。
 助手席に乗った若松は、
「手料理を用意して待っておられる姫が泣かれないといいですね。」
と、マサトの気持ちを推し量ってそっと言葉をもらす。
 マサトは窓の外の薄闇が広がり始めた春浅い空を眺め、
「・・・錦城会長の話はいつも長いからな。・・・ミルクには電話して、帰るように言おう。」
と、仕方なさそうに答えると、胸ポケットから携帯を取り出した。


「ウソォォォーーッ!!?」
 携帯に向かって叫んだミルクは、次の言葉が出てこなかった。
 ――嫌だ、と言って変更出来ることじゃない。
 仮にそんなことを言って、マサトが相手の誘いを断ったりしたらどうなる?
 それにマサトは、多少の無理や強引さで断れる用事なら、初めから断っていただろう。
 断れないからこそ、電話の向こうで「済まない。」と謝っているのだ。
 それを自分の我が侭でマサトが誘いを蹴り、大事な仕事相手を怒らせたりしたら、会社に損失を与えかねない。
 会社の損失で一番の被害を受けるのは従業員だろう。
 昇り龍のごとき躍進を続ける会社とはいっても、どんなことが切っ掛けとなってバランスを崩し、傾斜しかねない危険性をこの時代は含んでいる。
 今や老舗の大企業でさえ、不変の神話は崩れているのだ。
 そこまで考えなくても、とはミルクの立場では言えなかった。
 マサトの背負う物が大きければ大きいだけ、重ければ重いほど、マサトは個人であって個人ではなかった。――
 そうしたマサトを愛した以上、踏み込んではいけない一線は守らなければならない。
 ……そうしたマサトを愛した訳じゃないけど……
 ……愛した人がそうなんだから…仕方ないじゃん……
 ミルクは自分に言い聞かせて、
「……わかった。……作った料理は冷蔵庫に入れておくから……誰かに食べて貰ってね?」
と、言ってすぐに通話を切った。
 それ以上は言葉を続けられなかったし、通話を切ると同時に我慢していた嗚咽が込み上げてきてしまった。
 これから仕事という戦場に向かうマサトを、涙で見送れない。
 だから一方的に答えて通話を切るしかなかった。

 通話を切ったミルクは、昼間の間ずっとお日様に当てて干していたふかふかの布団に突っ伏した。
 以前、一日干していた暖かな布団に気付いたマサトが、「お日様の匂いがするな。」と嬉しそうに言っていた。
 以来、チャンスがあればいつも布団を干すようにしている。
 日常的に使わないマンションだけに、空気清浄機が作動しているといっても、風通しした後の空気の匂いは違う。
 高原の空気とはいかないが、それでも何となく季節の匂いを含んでいる気がする。
 だから雨の日でも、時々窓を開けて雨の香りに浸る。
 ミルクのそんな楽しみ方を、マサトも頬杖をつきながら、優しく目を細めて笑ってくれた。
 ベッドに顔を埋めたミルクの脳裏には、そこにいないマサトの顔が浮かんでくる。
 浮かぶ顔全てが悲しいほど優しい。
 戦う戦士の顔も知っている。
 阿修羅のように怒りを露わにする顔も知っている。
 闇を統べる強かさと狡賢さを秘めた澄まし顔も見てきた。
 それなのに……あんなに優しく穏やかに笑う……。
 ……向けられた信頼と愛情に応えなきゃね……
 ミルクはしゃくり上げながら、どうにか自分を言い聞かせて、ベッドから起き上がった。

 キッチンに行って、まだ温かい料理を鍋からタッパに移す。
 まだフタは閉めずに、その間に鍋やフライパン等、料理に使った器具を洗って片付けた。
 そして、熱が取れたタッパにフタをして、冷蔵庫にしまった。
 テーブルに用意してあった未使用の食器やグラスも、乾拭きして戸棚に戻す。
 ガスの元栓を閉め、ゴミを捨て、流しも綺麗にして見回す。
 来た時の何もない状態に戻ったのを確認して、ようやくミルクは息を吐いた。
 何かをしていなければ寂しさと折り合いがつかない。
 そんな気持ちだった。
 けれど、人気のない清潔なキッチンに戻ったら、余計に寂しさが込み上げてきた。
 ミルクは、もやもやとする心の霧が晴れず、どんなに理屈で納得させても込み上げてきてしまう寂しさで、胸が痛くてたまらなかった。

 部屋を出る前に、ガードラインと呼ばれるボディーガード用携帯ナンバーに電話する。
 ――これはその時の担当が自分専用の携帯の他に、持つことになっている携帯の番号だった。
 そうすることで、ボディーガードが誰に代わっても、ミルクは同じ番号で用件を伝えられる利点と、ボディーガードと個人的に親しくならずに済むマサト側の特典もあった。――
 マンション一階のロビーで待機していたボディーガードが、部屋の玄関チャイムを鳴らす。
 マサトの連絡を受けた景山からも、星野を通じてボディーガードに指示が出ていたので、その日の担当はずっとミルクの電話を待っていた。
 冷たい水で顔を洗い、泣き顔を隠したミルクが現れる。
 ミルクは微かな笑みだけ浮かべ、玄関の鍵を閉めた。
「参謀が、こちらに立ち寄られませんか、と申しておりますが?」
 ボディーガードがそう言うと、ミルクは笑みを深めて首を振る。
 景山からはミルクの携帯にも誘いの電話が入っていた。
「今日発売の欲しかったゲームがあるのぉ。こっちを優先したから、まだ買ってなくて…それを買ってから家に帰ります。」
 ミルクはなるべく明るく答えた。

 地下アジトは、マサトと約束している時ならまだしも、ミルク自身の気晴らしの為に行っていい場所ではないという思いが強い。
 組織の人達はみんな好意的で優しくしてくれるし、ミルクにとっては居心地のいい場所だ。
 けれど、だからこそ甘えないように心掛けていた。
 地下アジトはあくまでも職場なのだ。
 自分の時間をなかなか持てないマサト。
 一族のプライドの為、郷を守る為、仲間を導く為、夢を紡ぐ為、みんなを力強く率いる首領。
 そうしたマサトへの尊敬と感謝があるから、職場であり訓練施設であり、時には病院でもあるアジトに、マサトとミルクのプライベートな空間を作ってくれているのだ。
 部屋があるからではなく、皆の意識が作ってくれた空間だった。
 その気持ちに感謝して、普段は何の気兼ねもなく楽しく過ごしている場所だったが、思い上がった勘違いだけはしないように自分を戒めていた。
 マサトの愛が向けられる対象だからアジトにも出入り出来るが、自分自身の努力や実力でその権利を勝ち取った訳ではない。
 その意味では、アジトで顔を合わせる組織員の誰よりも劣る存在だろう。
 血反吐を吐くほどの努力や磨き上げた才能があればこそ、生え抜きの組織員たるのだ。
 そして、彼等はマサトの部下であって、ミルクは好意で仲間のように扱って貰えているだけ……。
 …決して傍観者のつもりはない。
 …思いを同じにする時もある。
 …命懸けで戦ってもいい、と思ってもいる。
 けれど、周囲がミルクを大事にしすぎることもわかっているから、忙しいだろう時には遠慮すべきだと思う。
 ミルクはやり場のない寂しさを隠して、帰路に着いた。


 都心のもっとも地価が高い通りにある『蛇窟蘭』。
 マサトと錦城がそれぞれの共を伴って店に入ると、
「錦城会長、お待ちしておりましたわ。」
と、アザミママが妖艶な笑みを浮かべて出迎える。
 銀色の着物に金糸で刺繍が施された黒い帯を締め、帯揚げ・帯締め・伊達襟を真紅で揃えている。
 袖口から覗く長襦袢も鮮やかな真紅色をしていて、手首だけでも色気を醸し出す。
「やあ、ママ。無理を言って悪かったね。」
 錦城は脂ぎった顔を綻ばせて、アザミの艶姿に見惚れながら言った。
 20代のそれなりに美人の女秘書が、うつむき加減にチラリと敵意を込めた視線を投げた。
 だが、アザミとは勝負にもならなかった。
 アザミがその気になれば、錦城はすぐにでも愛人を取り替えるだろう。
 現にアザミがいくらやんわりと断っても、錦城は頻繁に店に来てはアザミを口説いている。
 アザミは一度錦城の腕にそっと手を添えて入り口から奥へと促してから、スルリと身をかわしてマサトの横に並んだ。
「まぁ、今夜は原田会長もお連れくださいましたのね。」
 錦城にお礼を言って、アザミがマサトの腕に手を絡ませる。
「原田会長、ご無沙汰ですわね。もう少しでお顔を忘れそうでしたわよ?・・・ホホホ。」
 店ではマサトも一人の客にすぎない。
 ――アザミもマサトが拉致された一件は知っていて、ずっと心配していたので、マサトが戻った時にはアジトに無事の生還のお祝いに駆け付けていた。――
 だから、この場でマサト側に寄った意味は別にあった。
「おいおい、ママ。それはないだろう?」
 錦城が面白くなさそうに言うので、
「あら・・・クスクスッ。」
と、アザミが色っぽい流し目をして笑い、
「だって錦城様。恋人同伴でいらした男性の隣りには並べませんことよ?」
と答えた。
「う?・・・むむむ・・・」
 錦城は苦笑して、女秘書に「もう今夜は帰っていい。」と指示をした。
「・・まぁ・・・可哀想でしてよ?」
 アザミはそう言いながらも、錦城の横に並ぶと腕に手を掛け、
「お部屋は奥のVIPをご用意しましたわ。」
と、機嫌良く案内した。
 ――だいたい20代で70歳近い男性の愛人に納まるのは、お金目当てか誰かの差し金。
 錦城の妻は三人目でまだ40代と若く、後妻を狙える可能性は薄い。
 秘書をするくらいにキャリアがあるなら、お金以外の目的があることを警戒するべきだった。――
 それでアザミは、今夜のVIPルームでのマサトとの相談事に彼女を同席させないように、錦城の嫉妬を煽って女秘書を帰させたのだ。
 その辺はマサトも承知しているが、この店では錦城の方が常連で、マサトはたまに来る気紛れな客の部類に入るので、傍観者として振る舞っていた。

 VIPルームのゆったりとしたソファーに座った錦城に並んでアザミも座る。
「錦城様はいつものボトルでよろしいかしら?」
「あー・・・いや、そうだなぁ。せっかくだから新しいボトルを入れよう。」
「ウフッ。ありがとうございます。」
 アザミが軽く頭を下げると、錦城は満足そうにアザミの膝に手を置く。
 アザミは取り立てて気にせず、
「原田様も同じでよろしいでしょうか?」
と、距離を置いた話し方をする。
「ご相伴に預かります。」
 マサトは用向きで同席している立場から、口数も少ない。
 マサトの隣りに座った若松は、もっと押し黙っている。
 和やかとは言い難い雰囲気があり、お酒と肴が用意されると、
「それでは、私は席を離れておりますわね。」
と、アザミが立ち上がろうとした。
 すると、
「いや。ママはいてくれて構わんよ。ママはこの金子より信用出来るからな。ハッハハハ。」
と言って、錦城がアザミの手をつかんで引き戻す。
 金子というのは錦城の秘書のことだ。
「ホホッ。ご信頼に預かり光栄ですわ。・・ですけど、それが銀座で店を構える者の常識ですもの。信用を無くしては商売になりませんのよ。」
 アザミが体をしならせて優雅に笑う。
「いいねぇ。実にいい。・・・どうだ?・・そろそろ本気で考えてくれんかね?」
「まぁ、錦城様。今夜はそれが重要なお話でしたの?」
 錦城の手がアザミの手を撫でるので、アザミは母親が子供の軽い悪戯に笑みを含んで、睨むように視線を向ける。
「ハハハ。叱られてしまったかな?・・そこがまたいいねぇ。」
 一向に本題に入らない。
 かといって本題を急くような態度を取れば、このタイプの重鎮は機嫌を損ねてしまう。
 マサトはクールな笑みで錦城とアザミの様子を眺めながら、内心溜息を吐いていた。


 ミルクはゲームを買って家に帰ると、家政婦が作っていった夕食を一人で食べた。
 この所、母親は気分が悪いことが多く、仕事から早めに帰ると寝室に行ってしまう。
 ミツルはまだ合格発表の日も来ていないというのに、塾の友人:川端祐二の兄:川端孝一が勤めるWHNG(世界人権擁護団体)の事務所でバイトを始めていた。
 ミツルにとっては、大学受験も合格発表も一つの通過点に過ぎないらしい。
 バイトの後は道場に寄って、修練に励んでから自宅に帰ってくる。
 別に心のすれ違いがある訳ではなかったが、ミルクは取り残されたような気分になり余計に寂しさが募った。
 けれど、母親には健やかな赤ちゃんを産んで欲しいし、応援したい。
 ミツルの自立心も尊敬しているし、尊重したい。
 いくら寂しいからと言って、母親もミツルも、その捌け口のように文句が言える相手ではなかった。

 遅い夕食の後、入浴を済ませて二階の自室に上がる。
 寂しすぎて眠れそうもないので、新作のゲームをさっそく始めた。
 ミルクには過激なアクションのあるゲームは出来ない。
 地道に経験値を稼いでレベルを上げていくか、細かい作業を繰り返すようなゲームが好きだった。
 新作のゲームは、かなりお話の内容以外の遊びの部分が多く、会話の随所にジョークや笑えるネタが使われていた。
 ミルクは無表情に文字だけ拾い、ゲーム進行のヒントだけを探す。
 楽しい気分の時ならきっと声を出して笑っているだろう。
 けれど、今のミルクには笑う気力が残っていなかった。
 黙々とまるで義務のようにゲームを進めていく。
 そのことに大した意味もないのに、ゲームを自分に与えられた作業の一貫のように続ける。
 と・・・ふと、ゲームの文字が見えにくくなる。
 かなりゲームで酷使しているから画面ヤケでもしたのだろうか……。
 ミルクがTVの近くに寄って、せめて画面の汚れを拭おうとテッシュで拭くが、なかなか文字がはっきりしない。
 新しいティッシュを取ろうとして手を伸ばした弾みに、ゲームのコードを抜いてしまった。
 途端に画面が暗くなる。
 そして・・・暗くなった画面に映っていたのは、ボロボロと涙を溢れさせている自分だった。
 ・・・あまりにも自分を喪失しすぎていたので、涙が頬を伝っていることさえ気付けなかった。
 ミルクはTVの電源を切って顔を逸らした。
 そのまま絨毯張りの床を這うようにしてベッドに行き、布団の端から中にもぐり込む。
 体がすっぽりと布団に隠れる真ん中で、両膝を抱えて丸くなる。
 無意識に膝を噛み、嗚咽を殺す。
 ……寂しいよぉ……
 …………寂しいよぉ……マサトぉ…………
 ミルクは誰にも向けられない寂しさを抱き締めて、いつまでも涙を溢れさせていた。

<59>
「合格祝い」
§59§「合格祝い」

 ミツルの合格発表の日。
 ミツルは発表を見てから、入学手続きの書類を貰い、高校に報告とお礼の挨拶に立ち寄って、家に戻る予定を告げた。
「お兄ちゃん。それって合格するってことを100%前提にしてない?」
 ミルクが半ば呆れて言うと、
「自己採点でほぼ完璧だった俺が落ちる訳がないだろ。俺が落ちたら誰かの陰謀だ。」
との言い様に、
「誰かって誰よぉ?」
と、ミルクはクスクス笑い出していた。
 母親も同じように笑いながら、
「それじゃぁ、今日はケーキショップの方はお休みして、お祝いの用意をしましょう。」
と言った。
「あー…ミルも手伝いたいなぁ……」
「ミルちゃんは帰るの夕方でしょ?・・・フフ。今日はママに任せて頂戴。いつもミルちゃんに色々して貰ってるんですもの、今日はミルちゃんもお客様でいいわ。」
 母親もあまり不合格ということが念頭にないらしい。
 特別教育熱心だった訳ではないが、ミツルという自主的に高みを目指す息子を持ったお陰で、余計な心配事は少なくて済んでいるようだ。
「ママ、大丈夫なのぉ?」
「大丈夫よ。・・それに静江さんもいてくれるし・・ね?」
「そっかぁ。…うんッ。じゃぁ、ママの御馳走を楽しみにしてるぅ。」
 いつもより会話の弾む朝食だった。

 けれど、一人テンションの低いミツルが、
「わざわざお祝いなんてしなくていいよ。」
と、冷めた口調で言うので、母親とミルクは同時に眉を寄せて非難の視線を向けた。
 ミツルは思わずたじろいで苦笑する。
「バイトが休めないしさ。・・友達に誘われるかも知れないだろ?」
「夕食の時間まででいいのだから帰れるでしょう?今日の大事な日に誘う友達もどうかと思うけど、家でのお祝いより友達を選ぶと言うミツルさんもどうかしててよ?」
 さすがにいつもは控え目で微笑みを絶やさない母親も、ミツルの態度を叱った。
「お兄ちゃん。マサトさんだって合格したらお祝いに来るって言ってるのにぃ。」
 ミルクが頬を膨らませるのを、横目で睨み、
「・・それが嫌なんだよ。」
と、小声で呟いた。
 ――マサトがミルクにとって必要な存在であり、妹を大切にしてくれる聖騎士だというのは認めている。
 が、やむを得ずマサトの力を借りて友人の知り合いを助けた時に関わった、闇に属する人達の禍々しい空気というものに嫌悪感を感じた。
 力を貸してくれたことに感謝はしても、なるべく関わり合いたくない相手だ、と実感した。――
「ミツルさん。もう大学生になるのにそんな失礼なことを言うものじゃないわ。」
 そうしたマサトの裏事情をまったく知らない母親に言われたくなかったが、そこまで説明も出来ないので、
「・・わかりました。なるべく早く帰るようにします。」
と答えたミツルは、ムスッとして席を離れた。


「だから、そんな訳で今日はなるべく早く帰りたいの。」
 学校へ向かう車の中、ミルクは助手席の星野に、今日の夜に合格祝いのパーティーがあることを説明した。
「わかりました。では、早めにお迎えにあがります。」
「うん。それとね、星野さんも是非参加して欲しいの。」
「え?・・・俺も?・・・いいんですか?」
「星野さんは割とお兄ちゃんと普通に話せるでしょう?」
「あ・・はい。よく話し相手になって頂いてます。・・仕事でうまくいかなかったり、体を鍛える鍛錬が思うようにいかなくて落ち込んでる時など、どちらが年上かわからない程、色々アドバイスして頂いてます。」
 星野は照れ臭そうに耳の後ろを掻いた。
 が、ミルクの、
「マサトさんだけだと喧嘩になっちゃいそうで心配なんだもん。」
と言う言葉にギクリとする。
「え・・・あ・・・俺がいても・・・それはちょっと・・・」
「そこにいて頂けるだけでも雰囲気が違うと思うの。…お願ぁ〜ぃ。」
 ミルクは両手を顔の前で合わせ、体を前に傾けて甘える声を出す。
「ぅわ・・・あ・・・わかりました。わかりましたから・・・」
 ミルクの顔が近付いて焦った星野が慌てて承諾する。
「ウフッ。良かったぁ。ありがと、星野さん。」
 ミルクは嬉しそうに笑いをこぼすと、シートに背中をもたれて安堵の息を洩らした。
「・・・どんな服装で伺えばよろしいのでしょう?・・タキシードとかでしょうか?」
「ぇ?…クスッ。普通の恰好でいいと思うけどぉ?…だって、後は高藤さんが来るかなぁ、ってくらいだもん。」
「・・・・・高藤弁護士が・・・?」
「まだママから聞いてないけどぉ・・・だって、これから家族になるんだしぃ、呼ぶんじゃない?」
「・・・・・そうですか・・・・・」
 星野は声のトーンを潜めて曖昧に答えた。

 ――実は数日前にも高藤はマサトからかなり厳しく叱責されていた。
 星野が部下に尾行させた女――ミルクが気になっていた30歳前後の女性――は、高藤の妻だったのだ。
 離婚を前提とした別居に入ったはずだったし、妻側も納得している、と高藤は報告していた。
 その妻が何故ミルクの家の様子を覗いていたのか、とマサトは高藤を問い質した。
 すでに全ての歯車は、琉美江と高藤双方の離婚と、二人の結婚に向かって動き始めている。
 今になって問題が吹き出すような禍根があってはならない、と懸念するのは当然だろう。
 マサトは、「早急に対処しろ。」と高藤に命じ、それが解決するまではミルクの家に高藤自身近付かないようにと警告していた。
 あれから数日、まだ高藤からの報告があった様子はない。
 それを思うと、高藤が今夜の合格祝いのパーティーには参加出来ないだろう、と星野は予測していた。――

「…あ、ねぇ?……そー言えば、あの女性ってどんな人かわかった?」
 ミルクの不意の問い掛けに、星野は背筋を緊張させた。
「え・・・あ、いや。どうも部下が見失ってしまったようで・・・わかりませんでした。・・・済みません。」
「そっかぁ……そーなんだぁ……」
 ミルクは気になるものの、わからない以上仕方ないなぁ、と頷き、納得したようだった。
 そして、
「ミルもどんな服を着ようか迷っちゃうなぁ。…フフッ。だってぇ、マサトさんと久し振りに会えるんだもん。」
と、無邪気に笑った。
 ミルクはあの日、マサトと会う約束をキャンセルされてから、まだ会う時間が持てないでいた。
 メールや電話では話しているので、孤独感を背負うことはなかったが、それでも直接会って顔を見れるのが嬉しかった。
「会長もずっとお忙しかったようですからね。」
「…ぅん。……やっぱり大きな仕事をする人って、大変みたいねぇ。」
 ミルクは、フッ、と窓の外に視線を向けた。
 星野はその横顔があまりに透明で白く、弱々しげに見えて言葉が掛けられなくなった。
 ミルクはしばらく黙っていたが、窓を少し開けた。
 風が額に当たり前髪がサラサラと揺れる。
 微かに目を細めたミルクが、
「…ぁ……梅の香り……どこだろぉ……」
と呟いた。
 星野は周囲に視線を走らせ梅の花を探す。
 と、少し先のブロック塀から枝先が伸びているのを見つけ、ミルクに教えようと顔半分後ろを振り返ったが、
「……もぅ…春だねぇ……」
と、また呟いたミルクが、外を眺めながら何も見ていないことに気付き、梅のことは話さずに顔を正面に戻した。


 香蘭学園の昼休み。
 三年生がすでに卒業して教室が空いているせいか、昼休みでも何となく賑わいがない。
 ミルクはミツルに合格したらメールを入れておいて欲しい、と頼んであったので確認してみた。
―@「陰謀はなかったらしい。(笑)合格したぞ!」
 そっけない報告だったが、ミルクは小さくジャンプして喜んだ。
 そして、小百合にも小声で教えた。
「まぁぁ〜!」
 小百合は両手を胸の前で合わせ、
「おめでとうございます。・・ええ、きっとこうなると思っておりましたわ。」
と、目を輝かせて言った。
「ありがとぉ。」
 ミルクも嬉しかったので、満面の笑顔でお礼を返した。
「早速お祝いに伺わなければいけませんわ。本当に私、自分のことのように嬉しいんですもの。」
「アハッ。お兄ちゃん、今日もバイト行くって言ってたからなぁ…」
「え・・ええ、そうでしょうとも。ミツル様にとっては当然の結果でしょうから。・・あぁ、でも御立派ですわぁ。普通なら試験が終われば羽を伸ばそうとするでしょうに、次のステップへの挑戦をもう始めてらっしゃるんですのね。」
「…かなぁ…アハハ……」
 何を言っても小百合にはミツルを褒め讃える材料になるらしい。
「でも、夜はお祝いなさるのでしょう?」
「ぁ、うん。身内だけなんだけどぉ…」
 ミルクの気持ちの中にも小百合を招待したい思いはあったが、麗子が試験失敗宣言をしていたので、きっとダメだったろうと思うと、小百合だけを招待することは憚られた。
「私も伺いますわ。・・ね?よろしいでしょう?」
「…ぁ…ぇっとぉ……お友達とのお祝いはきっと日を改めてすると思うから……」
「あら、どうしてですのぉ?」
 小百合はミルクの腕をつかんで残念そうに揺する。
「…なんかね…お兄ちゃん…自分だけの合格は嬉しくないみたいで……今日のも乗り気じゃなかったの。…だから、友達とかもみんな合格したり、進路が決まってから、本当にみんなでお祝いをするんじゃないかなぁ。」
 苦し紛れの言い訳だったが、言ってみると本当にそんな気がしてきた。
「・・・そーですのぉ・・・」
 小百合は大きく溜息を吐いてミルクの腕を放した。
「みんなでお祝いする時には、小百合さんも招待するように言っておくから…ごめんなさい。」
「・・・わかりましたわ。パーティーにお邪魔するのは遠慮しておきます。・・・でも、お祝いのプレゼントは今日でなくちゃいけませんわ。お邪魔はしないけれど、プレゼントをお届けするくらいはよろしいでしょう?」
「……ぅん。」
 ミルクも、自分が小百合の立場だったら同じように思うだろう、と思う。
 直向きに思う気持ちは切なく苦しい。
 それでも相手に何かしたくてたまらない、と願う気持ちを押し返すことは出来なかった。
「良かったわぁ。実はもう用意してありますのよ。フフッ。」
「そっかぁ。うんうん。ミルもねぇ、用意してあるんだぁ。」
「・・ミルクさんは何を?」
 小百合は同じ物が重なることを心配してか、チラッと流し目で聞いてくる。
「あまり高価な物じゃないけどぉ…制服じゃなくなるから洋服が色々必要かなぁって思って、トレーナーを…」
「・・・まぁ・・・」
 小百合は微かに眉をひそめた。
「そんな消耗品ではお祝いの記念にはなりませんわ。」
「…ぅ……でも、きっと他の人から良い物が贈られそうだしぃ……」
「クスッ。ええ、まぁ、そうゆうこともありますわね。」
 小百合は安心したのと得意げな顔で頷いた。
「小百合さんが用意したのって?」
「それは・・・秘密ですわ。ホホッ。」
「あ、ズッルゥーイ。」
「ホホホッ。ミツル様がプレゼントを開ければ、ミルクさんだってわかるじゃありませんの。私はお聞きしなくてはわからないんですもの、ちっともズルくありませんわよ?」
「…ぅ…まぁね。うんッ。じゃ、その時の楽しみにとっておこうっと。フフッ。」
 ミルクと小百合は額がつきそうに顔を寄せて、クスクスと笑いながら話す。
 真っ赤な大輪の薔薇を真っ白な霞草が包んでいるように優しく華やかな雰囲気に、教室にいる生徒達はホゥッと溜息がちに見取れていた。


 皆がそわそわと待ち望んだ夜が静かに訪れる。
 もうすっかりミツルの合格祝いのパーティー準備は完了していた。
 広いリビングの大きめのテーブルには、幾つもの大皿で料理が用意され、ソファーやイスも中央を開ける位置にずらしてある。
 こうして場所を空けると20人くらいは入れそうなスペースがあった。
 後はマサトとミツルを待つだけとなり、母親も服を少しあらたまったドレスに着替えていた。
 ミルクは、白いレースがたっぷりと脹らんだスカートで、ウェストが赤い幅広のリボンでキュッと締められている膝丈のドレスを着ている。
 星野はミルクを迎えに来た時から、黒の三揃えのスーツを着てきていた。
 ――黒いスーツに白いワイシャツ、赤いネクタイを締めた星野の姿に、帰りがけの女子高生達が頬を染めてすれ違う。
 そして、少し離れてから数人で、キャッキャと笑い声だけが聞こえる内緒話をする。
 そんな状態だったので、ミルクを待っている間、すごく居心地の悪い思いをしていた。――
「ママ、マサトさんはもうすぐ来るって。」
 携帯で話をしていたミルクがそう言うと、
「ミルちゃん。来る、じゃなく、お見えになるって言ってね。」
と、母親が注意する。
「ぁ…はーぃ。…で、高藤さんはいつ頃お見えになるの?」
「それがねぇ・・・急ぎの仕事が入っていて、どうしても抜けられないんですって。残念だけど今夜はお見えになれないそうなのよ。」
「ぇー……そうなんだぁ。残念だねぇ。」
「・・・ええ・・・」
「じゃぁ…料理、余っちゃうかもよ?」
「ホホ。きっと大丈夫よ。ガードの皆さん、体を鍛えてらっしゃるから、きっとたくさん食べていただけるわ。」
「あ、そっかぁ。うんうん、そうだね。フフッ。」
 そんな会話をさり気なく聞いていた星野は、ドキッとしてウェストのベルトをこそっと緩めた。
 急なことだったのでスーツの用意がなく、細身の田代の服を借りてきたのだが、鍛えた筋肉が外見よりもついている星野には、些かきつかった。

 ほどなくマサトが到着した。
 玄関に迎えに出たミルクは、マサトの顔を見るなり抱きつきたいほどに恋しかったが、マサトの後ろに戒が控えていたので、目を丸くして瞬きを繰り返した。
 戒の後ろからは若松が、いつもより緊張の面持ちで入ってきた。
「いらっしゃいませ。今夜はわざわざお出で頂きましてありがとうございます。」
 ミルクもぎこちなく挨拶をして頭を下げた。
 チラリとマサトに視線を投げると、マサトは苦笑してウィンクしてみせた。
「まぁ、戒様もようこそお出で下さいました。」
 ミルクに少し遅れて玄関まで迎えに出た母親がそう言った。
「これはこれは、母君。この度はおめでとうございます。」
 戒は真っ赤なバラの花束を持参しており、母親に差し出した。
「え……ママ?」
「あら、私が頂いてよろしいのかしら?」
「勿論です。これは天才パティシエであられる母君へ、私の感謝の気持ちですので、どうぞご遠慮なく受け取ってください。」
「まぁ。ホホッ。ありがとうございます。さぁ、どうぞ。狭い家ですけど、奥へ。」
 母親は嬉しそうにバラの花束を抱いて、皆を奥のリビング兼客間へと案内した。

 戒の姿に驚いて直立不動で敬礼する星野は、
「今日のところは多目に見てやる。・・が、くれぐれも失礼のないように。」
と、戒に囁かれ、背筋が凍る思いに顔を強ばらせた。
 挨拶が飛び交うが、そこにいるメンバーを見渡せば、皆マサトの組織員である。
 ミルクはミツルが嫌がる気持ちもなんとなくわかった。
「ねぇ、ママ。戒さんと知り合いだったの?」
「ええ。毎日ケーキを買っていってくださって、喫茶店でも召し上がってくださるお客様がいらっしゃると聞いて、ご挨拶したら、マサトさんのお知り合いの方だって・・・」
「そーなんだぁ。戒さんって景山さんの弟さんで、マサトさんのガードをずっとされていらしたそうなの。」
「ええ。それもお伺いしたわ。お話が楽しい方なので、休憩する時に御一緒させて頂いたりして、色々お聞きしたのよ。」
「…ほぇぇ……」
 思わぬ所で交友が広がっているものだ。
 ミルクは感心して頷きながら、マサトの側に行きたいのに行けない焦れったさを感じていた。

 と、そこにまた玄関のチャイムが鳴る。
 ミツルはチャイムを鳴らさないので、誰だろうと玄関に出ると、
「ごめんくださいませ。」
と、小百合がミンクのコートを羽織って現れた。
 コートの裾からは豪華なドレスが覗いている。
 小百合は、ミルクの母親に、
「この度はミツル様の合格おめでとうございます。」
とお辞儀をしてから、ミルクに、
「ミツル様は?」
と尋ねた。
「あ…お兄ちゃん、まだ帰らないのぉ。」
 ミルクが帰りの遅いミツルのことを不服そうに言うと、
「まぁ、・・そうでしょうね。バイトと言っても責任のあるお仕事に変わりませんもの。ミツル様ほど優秀な方でしたら、頼まれることもきっと多いのでしょう。仕方ありませんわ。」
と、納得顔で頷き、
「では、少しだけ待たせて頂いてよろしくて?・・やっぱりプレゼントは直接渡したいですわ。」
と、甘えるように言った。
 ミルクもマサト関係の人達ばかりになるよりはいいだろうと思い、
「ママ、構わないよね?」
と、小百合に加勢した。
 母親も明るく笑って、
「ええ。どうぞ。お上がりになって。」
と、小百合を招き入れた。

「あら。原田会長様もお見えなのね。・・あ、当然かしら。ミルクさんの婚約者ですものね。」
 小百合はリビングに入ると、ミンクのコートをおもむろに脱いで、ミルクに手渡し、マサトの前に進んで手袋を嵌めている手を差し出した。
「これは、レディー。お久しぶりですね。」
 マサトは銀の光沢のあるスーツで軽く腰を折ると、小百合の手を取り儀礼的にキスをした。
 ミルクは目を丸くしてその様子を見ていたが、プーッ、と膨れながらコートを玄関に置きにいった。
 戻ってきたミルクにマサトが笑みを向けたが、ミルクはツンとそっぽを向いた。
 だいたいの事情がわかる若松や星野は、可愛らしい嫉妬に失笑しそうになって口元を隠した。
「ミルクさん。そこのコンポは故障してますの?何も音楽が流れていないなんて、パーティーではあり得なくてよ?」
 小百合のセリフに、ハッ、とした母親が、
「まぁ、気付きませんでしたわ。ごめんなさいね。」
と、CDを選び始めた。
「お母様。ワルツをお願いしますわ。」
 小百合は曲をリクエストしてから、
「原田会長様ならレディーに恥をかかせないでしょうね?踊ってらっしゃる姿を拝見しましたもの。踊れないとは言わせませんことよ?」
と、手を差し出した。
 マサトは片眉を寄せて困った顔をしながらミルクに視線を向けたが、ミルクは眉を吊り上げながら「どうぞ。」と声を出さない口だけで答えた。
 ”美しく青きドナウ”が流れ始め、マサトは小百合の手を取って踊り始めた。
 中央にスペースを開けた場所で踊るマサトと小百合を、ミルクや他の人達は周囲で眺めているといった状況となった。
 豪華な本格的ドレスを着こなし、ピンと背筋を伸ばして踊る小百合は、いかにも上流階級のお嬢様然としている。
 踊る足取りも軽やかで、マサトのリードにピッタリとついていく。
 マサトも渋く光る銀のスーツがシャンデリアに映えて、クルリと回転する時に舞い上がる上着の裾が、大人の雰囲気を醸し出していた。
 マサトの表の顔は、こうした華やかな世界でも周囲に気圧されない紳士なのだと、今更のように感じる。
 気圧されないどころか、貴婦人の熱い視線を一身に浴びそうなほどに颯爽として美しい姿だった。
 ヨーロッパの社交界での方が人気があるという噂は聞いたが、何だか納得してしまう。
 ……小百合さんが見た時、踊りの相手をしてたのって誰だろぉ……?
 ミルクは人形のように表情もなく、ぼんやりと眺めていた。

「はぁ・・・スッキリしましたわ。ちょっと出がけに家で嫌なことがあって、ムカムカしてましたの。・・・ミルクさんも踊って頂いたら?」
 上気して微笑む小百合が、ミルクに声をかけた。
「ぇ……ミルはぁ……まだ苦手なのぉ……」
「あら、そんなに難しく考えなくていいのよ?・・苦手意識で逃げていても、自分がつまらなくなるだけですわ。ミルクさんなら愛らしいから、きっとダンスの申し込みが殺到してよ?」
「……ぅー……でもぉ……」
 ミルクが渋っていると、
「では、私が教えて差し上げるわ。」
と、小百合がミルクの手を取って引き寄せた。
 マサトは一瞬眉をひそめたが、相手が同級生の女の子では、と諦めたように口の端を引き上げた。
 ミルクもダンスはマサトに少し習ったが、まだ華麗に踊れるほど修得していなかった。
 小百合にリードされ、ゆっくりと足を動かす。
「もっと姿勢を良くして胸を張った方がいいのよ。」
 小百合は足運びを教えながら上半身の身のこなしや表情まで指摘する。
 華麗な花と可憐な花のワルツに、男達は自然と和やかな雰囲気になって、観賞するように眺めていた。
 初めは仕方なく踊っていたミルクも、少しずつ調子が出てくるにつれ楽しくなっていた。
 小百合の明るいオーラは周囲まで照らすように感じる。
 息が弾むようになる頃には、小百合とミルクは向き合わせた顔を近づけて、お互いに笑いをこぼしていた。
「クスクスッ。小百合さん、ミルぅ、もうダメぇ。」
「ウフフッ。ミルクさんったら、まだまだダメよ。」
 そんな会話を交わしながら踊る少女達。
 まるで泉のほとりに集まった天女達の姿を垣間見るように、甘くくすぐったくなるような光景だった。

 いつもと変わらずに帰ってきたミツルは、リビングから流れる曲に顔を覗かせる。
 そして、小百合とミルクのワルツを踊る様子を、しばらく呆れて眺めていた。
 ふと視線を感じて目を向けると、壁に寄り掛かって腕組みをしているマサトと目が合った。
 ミツルは姿勢を正して目礼した。
 空気が微妙に動いたせいか、踊りに夢中になっていた小百合とミルクもミツルに気が付いた。
「お兄ちゃん、お帰りぃ。」
「ミツル様。お待ちしておりましたわ。希望大学への合格、おめでとうございます。」
「・・どうも。」
 ミツルが気まずそうに挨拶をすると、
「ミツルさん、皆様お待ちかねですよ。せっかくお出で頂いてるんですから、失礼のないようにね。・・すぐに着替えてらっしゃい。」
と、母親が注意した。
「・・・わかりました。・・では、失礼して着替えて参ります。」
 ミツルはその場の人達にゆっくり会釈をして、顔を引っ込めた。

 ミツルがジャケット風のスーツに着替えて降りてくると、早速合格祝いパーティーが始まった。
 みんな、それなりにお腹を空かせていたので、お祝いの乾杯を済ませると、母親の用意した料理に舌鼓を打った。
 参加者はそれぞれの予算に応じてプレゼントをミツルに渡した。
 ミルクのトレーナーもミツルは喜んでくれた。
 小百合は、
「これからはスーツを着る機会も増えるでしょうから。」
と、カフスとネクタイピンのセットをミツルに渡した。
 マサトはシンプルな万年筆だったが、
「それは発信器がついているから、常に持っていて欲しいな。」
と、言い添えた。
「発信器ー?!」
 ミツルが抗議するように声を大きくして聞き返すと、
「別にお前の行動を監視しようなんて思っちゃいないぜ。ただ、何かあった時に役立つし、携帯をOFにしたまま出歩いている時に、首根っこを押さえてやれるからな。」
と、笑いを含んで答えた。
 ミツルが思い切り顔をしかめて睨むのを、
「携帯を持っていながら連絡が取れないでどうする?それでも一家の家長か?あまりミルクを不安にさせてばかりいるようだから、緊急の連絡の時にはそれで場所をつかんで耳元で怒鳴ってやろうと思ってな。」
と、皮肉たっぷりに言って笑みで返した。
 若松は腹筋を鍛える不思議な棒を渡し、戒はマジシャンがテーブルマジックでよく使うトランプを、星野は一番無難な図書カードを贈った。
 仕事で顔を出せない高藤からは高級な腕時計。
 何故か景山からは一流ブランドのお仕立て券が戒に託されて渡された。

 小百合とミルクの踊りで、マサトもミツルも牙を剥き出す気が逸れてしまったようで、割と和やかなまま合格祝いのパーティーは終焉した。

<60>
「決壊のアリア」
§60§「決壊のアリア」

 週末、10日ぶりのデート。
 先週のデートがキャンセルになってから一週間、ミツルの合格祝いには来てくれたが、マサトはずっと忙しそうだった。
 景山も忙しそうで、星野の話では数日アジトを留守にしていたらしい。

 ――実を言えば景山は、かなり傷の回復した竜二を蛇窟島まで送ってきたのだ。
 そしてその帰りに香港に立ち寄り、天龍No.3にその後の報告を聞いてきていた。
 マサト拉致の一件・・・というより、天龍の首領である李白龍暗殺事件の首謀者であるNo.6は、調査によって陰謀の事実が判明し処刑されたということだった。
 行方不明だったNo.2は残念ながら、李白龍と一緒にいた為に抹殺されていたらしい。
 李白龍の後を継いで首領となったNo.3は、白鈴には制裁をせずに入院させた。
 制裁をしても精神が錯乱した状態の白鈴には意味がないだろう、ということと、やはり大恩ある李白龍の血筋には手が出せないという気持ちがあるようだ。
 それでも隔離された部屋に監禁されているので、もう白鈴が表舞台に立つ日は来ないだろう。
 黄長仁の子息二人を母親と共に手元に引き取り、生活の安定と充実した教育を施して、将来は黄長仁の残した会社を継がせると、改めて約束をした。
 S商事と公華中央商社もこれまで通りの取引が出来るように取りはからって貰えた。――

 数日の間に地球を一周するほど駆け回って帰ってきた景山は、マサトが錦城から持ち込まれた相談事に奔走する間の組織運営に、休む暇なく取り掛かっていた。
 怪我をして帰国した島田はようやく仕事に復帰したが、福島はまだアジトの医療施設で入院していた。
 ただ、そのことはミルクには伏せられていた。
 マサトが今回危険に遭遇していたことは、ミルクには話さないようにと、マサトから箝口令が出されていたのだ。
 そういつも危険を感じさせては、ミルクの神経が参ってしまうだろうというマサトの気遣いだったが、それだけに説明出来ない部分で、ミルクを寂しくさせていることも、マサトの中では気懸かりだった。
 それで、なるべく時間を作るからアジトに来ていて欲しい、とミルクを呼んだのだ。


 コンコン・・・
 ミルクの部屋をノックして、ミツルが顔を覗かせた。
 ほとんど支度を終えていたミルクが、
「あれ?お兄ちゃん、どうしたの?」
と聞くと、
「麗子が入院しているらしいんだ。バイト前に見舞いに行こうと思うんだが、ミルクも行くか?」
と言った。
「えー?!…麗子さんが?!…どうして?」
「前期の試験の後で、結果が思わしくなかったらしく、後期には頑張る、と言ってかなり無理をしていたらしい。」
「……そーなんだぁ……卒業式の時は明るく話してたから、そんなに追い詰められてたなんて思わなかったけど……」
「麗子は人に弱みを見せたがらないからな。発表の時会わなかったから、家の方に電話してみたら、入院してたって訳なんだ。」
「そっかぁ……ぅん。じゃぁ、ミルもお見舞いに行くぅ。」
「・・・いいのか?」
 おしゃれをしたミルクの様子に、これからマサトとのデートだと気付いたようだった。
「…うん。…お昼は時間の都合が出来たら一緒にしよう、って感じだから……」
「・・・へぇ。そんなに忙しいのか?」
 ミツルが、ミルクの目に掛かりそうだった前髪を、指先で脇に寄せてやる。
 近頃ミルクの元気がないことは気付いていた。
 原因がマサトにあると想像はついたが、自分が口出しし過ぎることをマサトが嫌がることもわかっていたので、黙っているしかなかった。
「…そーゆー時もあるよね。社会人だし……」
「まぁな。・・・じゃぁ、行くか。」
「うん。」
 ミルクはバックを持つとミツルと一緒に部屋を出た。


 麗子は自宅近くの総合病院に入院していた。
 部屋を訪ねた時、点滴をしながら参考書を見ていた麗子は、照れた様子で起き上がり、
「わざわざお見舞いなんていいのに・・・」
と言いながらも、ミツルに嬉しそうな笑顔を向けた。
「麗子さん…無理しないで寝ててください。」
「もう大丈夫なのよ、アリスちゃん。・・・ん、ちょっとね、風邪気味だったのを無理したら脱水症になっちゃっただけだから・・・」
「…そうならいいですけどぉ……」
「それにしたって倒れるほど根を詰めても意味ないぞ。体調が悪くなれば実力の半分も出せなくなる。」
「・・・はい。」
 麗子はミツルの厳しい言い方でも感激しているようで、目にうっすらと涙を浮かべた。
 ミルクは席を外した方がいいだろうと、持ってきた花を花瓶に生けるからと病室を出ていった。
 時間を見計らってゆっくりめに病室に戻ると、ミツルが麗子の肩に手を置いて、そっと撫でている所だった。
「とにかく、道は一つとは限らないんだから、焦ったり落ち込み過ぎないことだ。」
 甘いシーンではあったが、ミツルのセリフは相変わらず固い。
 それでも麗子には何よりの励ましだったようで、当初の青ざめていた暗い顔が和らいで赤味が差しているように見えた。

 あまり長居をしても、ということでミツルもミルクと一緒に麗子に別れを言って、病室を後にした。
 ミルクのガードはミツルも一緒ということもあり、病院のロビーで待っている。
 ミルクは麗子の気持ちも小百合の気持ちもわかるだけに複雑な心境で、ほとんどミツルと話すこともなく病院の通路を歩いていた。
 エレベーターで一階に降り、診察室の前を歩いていると、見覚えある人物を見かけた。
 ミツルも気付いて眉をひそめる。
 ただ、ミツルが不機嫌な顔になったのは、そこに高藤の姿を見つけたからだったが、ミルクが驚いて足を止めたのは、高藤の隣りに例の30歳前後の女性がいたからだった。
 高藤は腕組みをして足元に視線を落としていたので、まだミツルとミルクに気付いていなかった。
 ミルクは足を止めてから、ミルクに声をかけようとしたミツルの腕をつかんで、通路の曲がり角まで引っ張っていった。
 ミツルはミルクが驚いて足を止めるほどのことだろうか、と不審に思っていたが、唯ならぬ様子に黙って従うことにした。
 通路の角に姿を隠したミルクは、そっと顔を覗かせて様子を伺っている。
「・・・どうしたんだ?」
 ミツルが声を潜めて聞く。
「……あの女性……家の前にいたの。」
「・・・どの女性?」
「ほら…高藤さんの右隣りの女性。」
 ミツルはミルクに習ってそっと顔を覗かせて確認し、また顔を戻してから、
「だから?」
と、訳が分からないといった顔をした。
「…ぇ…だって……」
 ミルクがミツルを振り返って拗ねたように口を尖らせた時、「高藤蓉子さーん。」と、良く通る看護婦の声が隠れている二人の耳にも届いた。
 再びそっと覗くと、高藤が例の女性の肩を抱くようにして一緒に診察室の奥へと入っていった。
 しかも産婦人科の診察室なのだ。
「……奥様……?」
 ミルクは小さく「ぁ」と開いた口を手で押さえた。
「・・・チッ。見ろ。高藤なんて所詮そんな奴じゃないか。」
 ミツルは侮蔑を込めた声で言った。
「……ぇぇぇぇぇ……そんなぁ……」
 母親の妊娠を知らないミツルは軽蔑すれば済むかも知れないが、ミルクにとっては大問題だった。
 琉美江の出産前には琉美江と高藤を結婚させる、とマサトが言っていたのだ。
 当然母親もそう思っているだろう。
 ……もう、高藤と奥様の結び目は切れている、と……
「あんな奴とはもう縁を切るべきだ。お袋にもそう言ってやろうぜ。」
 ミツルが忌々しそうに言う。
「そんなぁ……ダメだよぉ、お兄ちゃん。……お願いだから、このことはママには黙っていて。」
「お袋はいいように利用されてるだけじゃないか。」
「違うッ。……きっと違うの。・・・そんなんじゃないもん。」
「けどな・・・」
「お願い、お兄ちゃん。マサトさんに聞いてみるから……ね?」
 ミルクが両手を顔の前で合わせて、ミツルの顔を見上げる。
 その必死な眼差しに、
「・・・わかったよ。・・・けど、どんな弁解をしようと、俺はお袋とアイツのことは絶対に認めないからな。」
と言って、
「気分が悪い。もうここを出ようぜ。」
と、ミルクの手をつかんで大股に歩き出した。
 ミルクは高藤夫人のことが気になっていたが、追求も出来ないだろうと諦め、手を引かれるまま小走りにミツルについていった。


 ミツルとは病院で別れ、ミルクは専用の車で地下アジトへ向かった。
 あの場での追求はとても出来なかったが、ミルクは高藤夫人のことが気になって堪らなかった。
 星野はあの女性については、「わからなかった。」、と言っていた。
 疑いたくはないが、わからないでは済まない相手のように思う。
 ミルクはじっと前を向いて考え込んでいたが、視界に助手席のガードの頭が映った時、ひらめいた。
「ねぇ……高藤夫人、お加減はどうなのかしら?」
「・・・え・・・あ・・・はぁ?」
 いきなりミルクにそう言われて、ガードは返事に詰まったようだった。
 ガードが振り返ったので、ミルクはなるべく”もう知っている”という顔で会話を続ける。
「あの女性が高藤夫人だって、マサトさんから聞いたの。何でもお体の調子が悪かったんですって?」
「あぁ・・・そうですか。・・・まあ、ショックでしょうが・・・」
 ガードはミルクが知っているなら、と返事をしてきた。
「そうよねぇ。やっぱり女性ですもの。」
 ……別れようとしている夫の子供を身籠もるなんて……
 ミルクがそう思いながら頷くと、
「流産して、しばらく入院されてたようですね。・・・まだ情緒不安定だったんでしょうか。」
と、すっかり信じきったガードが言った。
 ……え……流産?!
 ミルクは息が止まり、耳を疑った。
「ですが、もうご心配はありません。アリス様の方へご迷惑をかけることはないと思いますので。」
 ……そーゆー問題じゃないでしょう?!
 そう思いながらも、ミルクは、
「……そぅ……」
とだけ、答えた。
 ――間が悪かったのだ。
 他のガードならそこまでの事情は知らなかっただろう。
 たまたま彼が、星野に言われて尾行し調査した本人だっただけに、詳しい事情まで知っていた。――
 ミルクはもう言葉も出ずに、震える口元を手で隠すように覆っていた。


 地下アジトのミルクの部屋に入るまでは、どうにか冷静を装った。
 が、ガードと離れて部屋で一人になると体が震え出した。
 ……流産?
 ……それっていつのこと?
 ……どうしてそんなことに?
 ミルクはクロスさせた手で両腕をきつくつかんでいた。
 ……ケーキショップがオープンして4ヶ月以上が過ぎている。
 ……その前からだって別居しようとしていたんじゃなかったの?
 ミルクは大きく頭を振った。
 今、高藤のことを責めても意味がない。
 ……酷い……酷すぎる……
 母親に幸せになって欲しいとは思うが、その為に誰かを不幸にしていいわけがなかった。
 もちろん、そんな綺麗事では済まないことぐらい、ミルクにだってわかってる。
 けれど、一方では生まれてくる赤ちゃんの為にと結婚を進める中で、別れなければならない妻がせっかく授かった赤ちゃんを生むことが出来ずに失ってしまったなんて……。
 そんな二重の不幸を受けなければいけない理由など夫人には何もないだろう。
 作為的なことではなかったと思いたい。
 別れを言い渡されたストレスが、体に影響したのだと思う。
 いくらなんでも、それが誰かの陰謀のはずがない。
 そんなこと、あってはならないことだ。
 そうは思っても、高藤夫人にしてしまったミルク達の罪は、作為的でないにしても同罪だった。
 でも、ミルクにはまだ妊娠するということや、妊娠した状態がどんなものか、精神的な影響がどれほどあるものなのか、よくわかっていなかった。
 ……ドクターに聞いてみよう……
 ミルクはふらりと立ち上がると、部屋を出て診療室へと歩き始めた。

 いつも本郷がいる診察室のドアをノックしたが返事はなく、ドアを開けて覗いてみたが誰の姿もなかった。
 もしかして竜二の回診をしているのかも、とICU室を訪ねることにした。
 竜二の見舞いはマサトと一緒の時以外は許可されていなかったが、今探しているのは本郷なのだから、とミルクは自分に言い訳をした。
 けれど、ICU室も薄暗く誰の姿もなかった。
 ベッドは布団が片付けられ、使用されていない機械類がカバーを被って並んでいた。
 考えてみれば、色々あって半月以上見舞いに来れなかったことに気付き、順調に快復して一般病室に移ったのだと思いついた。
 一般病室に行くと、看護婦の声が洩れてくる部屋があった。
 ミルクはやっと見つけることが出来たと、ホッとして、ドアをノックした。
「はい?・・どうぞぉ?」
 看護婦の声にミルクはドアを開けて中に入ったが、そこで目に入った相手に眼を見開いて固まった。
「・・ア・・アリス様・・・」
 福島が感激した顔でミルクを見ている。
「……福島さん?……どーしたのぉ?!」
 ミルクはベッドに駆け寄り、泣き出しそうになって聞く。
「え・・・あ、いや。たいした怪我じゃないッスから・・・」
「……怪我?……だって、島田さんと上海に行ってたんでしょう?」
 そこまではマサトが上海に発つ前に聞いていた。
「あらぁ、ご存知なかったんですかぁ?・・・島田さんもお怪我なさって、ずっと入院されてたんですよぉ。」
 新人の看護婦が得意げに眉を上げて言った。
「……島田さんも?!」
 ミルクは上海で何かがあったのだと感付き、血の気が引いていった。
「……それで……戒さんが……」
「さぁ、それは存じませんけどぉ・・・何かご用ですか?」
「…ぁ……あの……ドクターがいらっしゃらなくて……竜二さんも……」
「竜二さんなら退院されて蛇窟島へ静養に行かれましたよ。ドクターはケアとリハビリをあちらの医師に指導するので、参謀より後に戻られるそうですけど?」
「あ・・あぁ・・ダメっすよ。アリス様がご存知ないことを簡単に口にしちゃ・・・」
 福島が焦って看護婦に注意するが、もう遅かった。
「……そうですか。……お仕事中、お邪魔してごめんなさい。……福島さん、…早く良くなってね。」
「・・・アリス様・・・ありがとうございます。」
 福島は、頭が膝に掛けてある布団につくほど深く頭を下げて礼を言った。
 ミルクはぎこちなく微笑んで病室を立ち去った。

 ミルクは呆然として歩いていた。
 部屋に戻るという意識はそこになかった。
 視界がグルグルと回るようで見る物全てが歪んで見えた。
 頭の中で思考もグルグルと回っていた。
 何も知らなかったミルクに、一度に多くの事実が突き付けられたのだ。
 もう何からどう考えていけばいいのか……。
 ……考えなきゃ……
 ……ちゃんと考えなきゃ……
 ミルクはふらふらとふらつきながら彷徨うように歩いていた。
 ……高藤夫人の流産……
 ……マサトの上海行き……
 ……怪我をして帰ってきた福島さんと島田さん……
 ……戒さんと帰国したマサト……
 ……病院に高藤弁護士といた夫人……
 ……いなかった竜二さん……
 ……景山さんが留守にしてたって…そのことだったの?
 ……ドクターは蛇窟島からまだ帰らない……
 ……違う…違う……
 ……考えなきゃいけないのはそれじゃない……
 ……でも……
 ……マサトも危険だったってこと?
 ……だから戒さんが……
 何も知らされてなかったのだ。
 一度にそんなに多くの事実を突き付けられても、ミルクに考えが纏まるはずがない。

「・・・ミルク・・・ミルク・・・おい、ミルク?」
 何度か呼ばれて、ミルクはようやく声の方に目を向けた。
「……マ…サ…ト……」
「どうしたんだ、ぼんやりして?・・・遅くなって悪かったな。」
 マサトがミルクに微笑みかける。
 途端にミルクは顔をくしゃくしゃにして涙を溢れさせた。
「え・・・おい!どうした?」
 マサトが数メートル先から駆け寄り、ミルクを抱き締めようとする。
 が、途端に、
「イヤァァァーーー!!マサトなんか嫌いぃぃぃーーー!!」
と、火がついたように泣き叫び出した。
「・・・ミルク・・・」
「嫌い、嫌い、嫌いぃぃぃー!大っ嫌いぃぃぃーー!!」
 途方に暮れたマサトがミルクをどうにか抱き上げても、ミルクは握った拳を所構わず振り下ろす。
「イヤァァー!離してぇぇー、離してよぉぉーー!もぉぉ、イヤなんだからぁぁーー!!」
 ミルクは泣きじゃくりながら悲しく叫ぶ。
 何も教えてくれなかった。
 何も話してくれなかった。
 ……でも、それだけじゃない。
 マサトと自分を根底として、多くの人達を傷付けてしまうことが悲しかった。
 それだけにミルクの叫ぶ声は悲しかった。
 マサトを責めるよりも、全てが悲しくてたまらない響きに満ちていた。
 マサトにもそれが感じられた。
 泣き叫ぶ理由はまだ聞いてないからわからないが、それでもミルクの悲しむ魂の声が痛かった。
 マサトはこの場で宥めることを諦め、黙ってミルクを抱き上げて連れて行く。
「イヤなのぉぉーー!!離してぇぇぇーー!!もぉぉ、嫌いなのぉぉぉーー!!」

 ミルクの泣き叫ぶ声はやまないまま遠ざかっていく。
 ミルクの目にはもう捉えることが出来なかったのだが、マサトと一緒に景山と戒も居合わせていたのだ。
「嫌い、嫌い、嫌いぃぃぃー!大っ嫌いぃぃぃーー!!」
 角を曲がって姿は見えなくなったが、まだミルクの声は聞こえている。
 景山が痛々しげに眉を曇らせ、
「・・・戒。・・・姫に手を出すなよ。」
と、釘を刺した。
 景山は、ミルクがマサトを罵倒していることを、戒が怒るのではないかと心配になったようだ。
「ほぅ?・・・何故私が手を出すと?」
 戒は眉を聳やかしてそう言ってから、景山のジロッと睨む視線にフッと表情を和らげた。
 そして、芸術家のような遠い眼差しになり、
「・・・あれは・・・アリアだ。」
と、呟くように言った。
「・・・アリア?」
「そぅ、アリア。・・・あれほど切々と、好きだ、好きだと訴える歌はまさにアリアだよ、兄さん。」
「・・・ふむ。」
「かのマリア・カラス以来、これほど胸に響くアリアを聞くことはなかった。」
「・・・確かに。」
 景山は戒と同じ遠い眼差しになり、目を細めると、戒の肩に手を置いた。
「素晴らしい姫だね、兄さん。」
「・・・クスッ。・・・だろう?」
 兄と弟は顔を見合わせて笑うと、ゆっくりと歩き出した。