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<61>〜<65>





<61>
「猫」
§61§「猫」

「イヤぁぁ!もぉぉ……マサトなんか嫌いぃぃー!!」
 泣き叫んで暴れるミルクをどうにか『アリス姫の部屋』まで運び、ベッドに押さえつける。
 頭を大きく振るので腕でやんわりと挟むようにして、頬や額にキスを繰り返す。
「、、、ぅぅぅー、、、グシュ、、、バカぁぁ、、、」
 キスを繰り返す内に、ミルクの抵抗も弱まっていく。
 10日も触れ合っていなかったマサトの温もりを感じて、ひび割れた心に優しさが染み込んでくる。
 マサトはようやく落ち着いてきたミルクの唇にそっと唇を触れ合わせた。
 触れては離し、離しては触れ、何度もキスを繰り返す。
「、、、ん、、、グフン、、、エグッ、、、ヒック、、、」
「ミルク・・・ずっと寂しい思いをさせて悪かったな?」
「、、、、、ん、、、、、」
 ミルクは目も鼻も真っ赤になった顔で、顎を引いた上目遣いにマサトを見つめ、唇を尖らせて頷く。
「けどな、ミルク。・・・俺のここにはいつもミルクがいたぜ?」
 マサトがスーツの上から胸を叩いた。
「、、、マシャトぉ、、、」
 ミルクは鼻を啜り上げながら、マサトのスーツの生地を撫でた。
 そして両手を、覆い被さっているマサトの胸に伸ばして、もぞもぞとネクタイを外しにかかった。
 ポイッ・・・と、外したネクタイピンを放る。
 カコンッ・・・と何処かに当たって落ちる音がする。
 ・・・おいおい・・・三千万のブルーダイヤだぞ・・・
 マサトは腹筋をわずかに震わせて笑いをこらえた。
 ミルクはそんなこともお構いなしに、ネクタイの結び目を解くことに専念している。
 マサトがいつもキツメに締める為、なかなか解けない。
「、、、ムゥゥーー、、、」
 ミルクがムキになって、力ずくで千切ろうと引っ張ったので、マサトは前のめりになる。
「こうすりゃいいんだよ。」
 仕方なくマサトが途中までキュキュッとネクタイを緩めてやり、どうにかミルクはマサトからネクタイを外すことが出来た。
 ポイッ・・・ベルサーチのネクタイも何処かに飛んでいく。
 マサトは愛おしくミルクの髪を撫でながら好きにさせていた。
 常に一緒にいた小物に嫉妬の八つ当たりをするほど、寂しがらせてしまったのだ、と思う。
 ミルクは、スーツのボタンを外し、ワイシャツのボタンも上から順に、もどかしげに細い指先で外していく。
 ズボンに差し込んである部分をグイグイと引っ張り出してはボタンを外し、やっとマサトの胸が露わになった。
 ミルクは両手でマサトの滑らかな肌を撫で回して、やっと気持ちが納まったのか、マサトの顔に視線を戻した。
 そして甘えた顔でキスをねだる。
 マサトはようやくお許しが出た気分で、ミルクを抱き締めて、熱いキスをした。

 こうなれば、もうマサトのペースでもミルクが嫌がることはないだろう。
 マサトはミルクが息継ぎ出来る程度にキスを時々移動させては、また熱い舌を絡めて甘い口を吸った。
 氷のように冷たかったミルクの肌が、しっとりと汗ばんできた所で、徐々に服を脱がせていく。
 ミルクを脱がせながら、マサト自身も平行して服を脱ぎ捨てていく。
「、、、ぁ、、ぁ、、、マサトぉ、、、」
 ミルクはマサトの温かい肌に頬を押し当てて目を閉じる。
「ミルク・・・」
 今は言葉はいらなかった。
 話すことは後で良かった。
 萎縮して縮んだ心と体の隙間を埋めるように、抱き締め合う。
 マサトの焦がれる熱い体をミルクのヒンヤリとした肌が包み、ミルクの凍える冷たい体をマサトの熱い肌が包む。
 お互いの心が流れ出し交差する。

「、、、ん、、、痛ぃ、、、」
 ミルクが少し体を引く。
 溜まりに溜まった欲望が、マサトの股間から突き出るように伸び上がり、コチコチの蛇の頭がグリグリとミルクの腹部を圧迫していたのだ。
 ムギュッ!
 ミルクが蛇の胴体を思い切り力を入れて握った。
「・・痛ゥッ・・・・・悪かったから・・・もっと優しく扱ってくれ。」
 ムギュムギュゥ〜〜〜ッ!
 蛇の胴体が太くて指が回らないので、指先で皮をたぐり寄せて掌の中に押し込もうとする。
 ビンビンに充血して固い状態でそれは少し辛い。
「クゥッ・・・頼む。・・・優しく撫で撫で・・・な?」
 マサトは、拗ねて尖らせているミルクの口に、チュゥ〜ッ、と音をさせてキスをする。
 ミルクは小さく息を吐くと、手の力を緩めて、そっと撫で始めた。
 マサトもミルクの胸を愛撫しながら首筋や肩に唇を這わせる。
 股間の位置を動かせないので、首を傾けて届く範囲のキスに留めるように注意する。
 ミルクは段々手遊びが楽しくなってきたようで、微妙な指使いで蛇を刺激し始めた。
 人差し指と中指に透明な我慢汁を絡ませ、蛇頭全体にまんべんなく塗りたくる。
 滑りが良くなると一層巧みな指使いで刺激してくる。
 我慢汁が後から後から溢れ出し、塗りたくる範囲が蛇の胴体の伸び上がる根元にまで及んだ。
 そうなると今度は手首に捻りを効かせたスナップで扱く。
 下から上へと掌を滑らせて扱き上げながら、最後に親指の腹で裏筋を擦る。
 裏筋を親指で擦りながら、先端までいった二本の指先で縫い目や窪みもスリスリと撫でる。
 それを繰り返されるとさすがに、
「うぅぅ・・・ミルク・・・それは強烈過ぎるぜ・・・」
と、マサトが呻くように喘ぐ。
「、、、プーンだ、、、」
「・・・あのな・・・出しちまっていいのか?・・・一人で先にいっちまうぞ?」
 マサトはかなり本気でそう言った。
 すると何を思ったか、ミルクはマサトの腕の中からスルリと抜け出し、ベッドを降りると、ドレッサーからピンクのリボンを持ってきた。

「上向きになって、、、」
 ミルクは女王様気取りで裸体の腰に手を当てて、言い放つ。
「・・・はいはい。」
 マサトは仰向けになり、頭の後ろで腕を組み合わせた。
 ミルクはマサトの逞しい体によじ登ると、両足を広げて跨ぎ、マサトの膝あたりにお尻をつけた。
 それから、ピンクのリボンを股間の蛇の根元に巻き付けて、ギュッ、と縛った。
 マサトは、クククッ、と喉で笑う。
 一度見たSMショーを覚えていたらしい。
 ミルクは丁寧に縛って余った部分を蝶結びにすると、
「可愛い〜、、、」
と、蛇頭を撫で撫でしてから、おもむろに口でくわえ込んだ。
 チュポッ、、チュポッ、、、
 ソフトクリームでも舐め始めるかのように楽しそうに舌を這わせたり、大きく口を開いてくわえる。
 カリ下から吸い上げて、口をすぼめながら先端まで唇を滑らせ、チュルン、と口から出す。
 マサトはゾクゾクする快感を、ミルクを眺めながら味わっていた。
 ミルクの、両手で蛇竿の根元を握っている様子は、猫というより大きな骨を貰って喜んで囓っている犬のようだ。
 可愛いのはいいが、ミルクが縛ったリボン程度ではマサトの暴発は抑えきれそうもなかった。
 ミルクに付き合ってしばらくは我慢してやっていたが、どうにも堪えきれなくなり、
「ママゴト遊びはそこまでだ。」
と、頭の後ろの腕を前に伸ばした。

 体を少し起こして膝に座っているミルクの腰をつかみ、前に引き寄せる。
「、、、ぁ、、、ん、、、」
 マサトの胸に倒れ込んだミルクのお尻を滑らせるようにして、蛇頭を蜜が溢れて滴っている花陰部へと押し込んだ。
 ズブリッ、、、とめり込む。
 グ、、グググ、、グゥゥゥーッ、、、
 ミルクの腰を押さえ込んで、蛇の胴体を奥まで挿入していく。
「あぁぁぁぁ、、、、、んっんーーッ、、、、、」
 完全に満たされた瞬間、ミルクは弾けたように起き上がり、大きく背中を反らせた。
「あぁん、、、あぁぁん、、、ハァハァ、、、あぁぁぁぁん、、、」
 腰を前後に振って、花弁をマサトの陰毛に擦り付ける。
 脳天を直撃した電撃に体中がビリビリと痺れる。
 蝶結びにしたリボンがクリトリスを刺激する。
「・・・リボン・・解くぞ?」
「、、あふっ、、、気持ちいいのにぃ、、、」
「後が痛くなるだろ。・・皮膚の方が敏感なんだぜ。」
 マサトは、ミルクが興奮しすぎて自分を傷付けないようにと、リボンを解いて外した。
 蜜でグッショリと濡れたリボンを掌に包み込み、そっと香りを楽しむ。
「・・・いい匂いだぜ・・・」
 マサトが目を閉じて呟く。
「あぁー、、、いやぁ〜ん、、、ダメぇぇ〜、、、」
 ミルクは体を前に傾けて、リボンを取り返そうとするが、
「これはもう俺の物だ。手を出すな。」
と、ピシャリッ、と手を叩かれてしまう。
「、、、、、くふん、、、、、」
 ミルクは拗ねて膨れ顔をしたものの、繋がった部分から耐えず沸き上がる快感に意識を取られ、次第にうっとりと陶酔し始めた。

「あぁぁ、、、ぅふん、、、あぅん、、、くふっ、、、」
 ミルクは体を上下に弾みをつけて、快感を貪りだした。
 その様子は馬を軽く小走りさせる貴婦人のようで、騎乗位とはよく言ったものだ。
 ズンズンズンズンッ、、、
 と、奥を刺激される度に、ジンジンジンと痺れが強まっていく。
 甘痒いような切なさと、暴力的なほどに存在を誇示される痛みが、螺旋に絡まり合って体中に広がっていく。
「あぁぁぁぁぁ、、、あぅぅん、、、気持ちいいよぉぉぉ、、、」
 鼻に掛かる甘い声で啜り泣くように喘ぐ。
 マサトは、これ以上愛おしくさせるな、と狂気に近い熱情で思う。
 溜まっていた欲望を我慢していた思いはマサトの方が強かった。
 それを無邪気に弄ばれて舐められて、可愛く腰を振って締め付けられて、どうにも堪えようがなくなってくる。
 ・・・はぁぁ・・・可愛すぎるぜぇ・・・
 ・・・けど、今日はお泊まりOK!だったな・・・
 ・・・まだ昼だし・・・今夜は思う存分・・・・・クク・・ククク・・・・・

「クッソォーッ・・・我慢出来ねぇぜ!」
 マサトはミルクの両腕をつかんで、思い切り腰を跳ね上げ始めた。
 大人しかった名馬が、いきなり暴れ馬となった。
 ミルクの体が大きく弾み、ズズンッ、、ズズンッ、、、と子宮を押し上げられる。
「あぁぁぁぁぁーーーッ、、、、、イクッ、、、イクゥッ、、、イッチャウゥゥゥッッ、、、」
 ミルクは仰け反って弓なりに背中を反らせた。
「俺もイクぜぇぇぇーー!」
 ズンズンズンズンッ、、、
 ズチャッ、、ズチャッ、、ズチャッ、、、
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーん!!」
「ハグッ・・グゥゥゥーッ!!」
 熱いスペルマが勢い良く迸る。
 ドクンドクンドクン、、と注ぎ込んでいる充足感に、マサトは大きく深呼吸した。
 そしてミルクを胸に抱き包み、額にキスをして、重なった体をベッドに横たえた。


 しばらく繋がったまま、ミルクはマサトの胸で恍惚としていた。
「、、、、、ハァァ、、、、、熱ゅ、、、、、」
「ククッ。・・・昼飯が喰えなくなるから、続きは夜にするか?」
 マサトはミルクの前髪を撫で上げながら優しく言った。
「、、、、、ぅん、、、、、」
 まだ繋がっていたい思いはあったが、ミルクにも話したいことが色々あったので、名残惜しそうにゆっくりと体を離した。
 溢れ出してくるマサトのエキスを、ティッシュでそっと拭う。
 ジワァーン…と満たされた熱さが嬉しい。
 二度ほどティッシュを新しくして拭いた後、両足を閉じて胸に寄せると、コロンとマサトに寄り掛かった。
 マサトの胸を枕にして、大きく息を吐く。
「・・・ん?」
 マサトはおかしな恰好で横になったミルクの髪を、指で梳くように撫でた。
「、、、マサトがねぇ、、、まだココにいるみたい、、、」
「・・・本物が目の前にいるだろーが・・・」
 苦笑したマサトが、ミルクの腕を解いて引き寄せ、体を真っ直ぐ添わせるように抱き締めた。

 肩に顔を乗せたミルクがマサトと見つめ合う。
 何も言わずに、じっとひたすら見つめている。
「・・・どうした?」
 マサトが囁くように聞く。
「……マサト……上海で危険だったんでしょ?」
 マサトは目を逸らさず表情も変えずにいたが、一瞬固まったのをミルクは見逃さなかった。
「……ぅぅぅ……やっぱり……」
 ミルクの目にジワッと涙が浮かぶ。
「・・・何でそのことを?」
 マサトは観念して認めることにした。
 本来マサトはミルクには何でも話してきたのだ。
「…福島さんが入院してたし…島田さんも怪我して入院してたって……」
「チッ。・・・あの看護士は色気ばっかで役に立たねぇなぁ・・・ったく。」
 事情がわかってマサトは忌々しそうに舌打ちした。
「……話を逸らさないで。」
「・・・はい。」
 マサトはホールドアップの真似をして、手を肩先に挙げてみせてから、
「色々事情があったんだよ。」
と、溜息を吐いた。
「……それで蛇窟島にいた戒さんが駆け付けてくれたんだ?」
「まあな。・・・今回のことでは、俺も許せねぇことがあって、汚ねぇ仕事になるだろう、って思ってたから・・・」
「…SSSの人達は?」
「アイツ等も来たが、悪魔の仕事の命令は戒じゃなきゃ出来ねぇ。」
「……そーなんだぁ……」
「SSSの連中でもキツかったみたいだぜ。遊んで発散してからじゃねぇと、まともに人の顔が見れねぇんだろ。・・・けど、そろそろ顔を出すんじゃねぇかな。クックックッ。」
「ぇ…ミルが会ってない人も来る?」
 話が微妙にズレている・・・
「んー・・・ワードは来るな。・・・後・・メンテはちょっと凹んじまったハッカーをタブに任せられれば、来るかもな。」
「……そー言われてもぉ…わかんないよぉ……」
「会えばどんな連中かすぐにわかるって。・・・あ、若林も来るぜ。戒の部下だった若松を除いてはアイツくれぇだな。戒の仕事だろうと平然としてられるのは。」
「…へぇ?」
 ミルクが目を輝かせる。
「・・・おい。・・・何なんだ、その目は?」
「ぇ……だって……若林さんってマサトと喧嘩するから面白いんだもん。」
「そりゃ残念だな。アイツは猫被りが得意だから、戒の前じゃ絶対にボロは出さねぇぜ。」
「クスクスッ……そーなのぉ?」
「ああ。ガキの頃からな。だから今でも無傷だろ?アハハッ。」
 マサトが愉快そうに笑うので、ミルクも口元を押さえて吹き出した。
「…ププッ。じゃぁ、星野さんは猫被りのコツを教えて貰うといいかもぉ〜。」
 いつの間にか笑い話になりそうな展開だ・・・
「・・・あのな・・・お前の方がかなり上手いと思うぜ?」
「…ぇー……」
 ミルクが膨れ顔で睨むと、マサトが顔を近付けて額同士をくっつけ合わせる。
「ま・・・お前のは自覚がない天然だがな。」
「にゃぁ〜。」
「ほぉ〜ら・・・シッポが出てきそうだぞぉ〜・・・」
 間近で見つめ合い、お互いに笑いを洩らしている。
 マサトはミルクに隠していたことが間違っていたことに気付いた。
 どんな危険だろうと、話すことで信じる気持ちを強く持てるのだ。
 黙っているから余計不安にさせた、と納得し反省した。
 ・・・ミルクはもとより承知している。
 ・・・俺が闇に生きる者だと・・・。
「愛してるぜ、ミルク。」
「……ん……ミルもぉ……」
 静かに唇を重ね合わせ、愛を確かめ合う。

 ゆっくりと波立っていた心が穏やかになっていく。
 穏やかになった心は鏡のような湖面と化していた。
 カラカラに乾いてひび割れていたのが嘘のようだ。
 けれど・・・その湖面に悲しみに沈んだ瞳が写し出される。
「……ぁ……」
 唇を離したミルクが叫んで息を飲む。
「何だぁ?」
 解決したと思った途端に、また泣きそうな顔をされて、マサトは大きくわざとらしい溜息を吐いた。
 そろそろ胃袋が空腹を訴え始めている。

「…今日ね…ここへ来る前に麗子さんのお見舞いに行ってきたの。」
「・・麗子?」
 マサトは仕事からあがったばかりで、まだガードの報告を聞いてなかった。
「チャレンジクラブのぉ…部長だった麗子さん…」
「ああ・・・で?」
「…ぅ……ちゃんと聞いてる?」
「・・腹減った・・・」
「真面目な話してるのにぃ!」
 ペシンッ!
 強かに腹の上で寝ている蛇を叩かれ、
「・・・ッ・・クゥゥ〜〜ッ・・・何でコイツを叩くんだよッ?」
と、マサトもムッとして睨む。
 が、ミルクの頬に涙が伝っていることに気付き、
「わかった、わかった。ちゃんと聞くから・・・な?」
と、ミルクをギュッと抱き締めて、額にキスをしながら髪を撫でた。

 優しくあやされて、ミルクは話し始めた。
「……帰りがけに見ちゃったの。……高藤さんと奥様……」
 さすがにマサトの表情が変わる。
「…奥様……流産されて入院してたんでしょ?」
「・・・・・らしいな。」
「…知らなかったの?」
「俺だって万能じゃねぇぜ?・・・中国の問題を解決しなきゃならねぇし、表の方でも頼まれ事をしなきゃならねぇ。部下の動向全部を常に把握はしてられねぇだろーが。・・・その為に景山がいるが、今回は景山も出張することが多くて報告を聞けなかったそうだ。」
「……そっか……」
「それに高藤も、女房が流産して病院に運ばれるまで、妊娠してたことも知らなかったようだぜ。」
「…じゃぁ……高藤さんの子供じゃないの?」
「いや。心当たりはあるとさ。」
「……別居してても……Hするんだ……」
「知らねぇよ。別居する前のことか後かまで。」
「…でも……入院してたのは最近なんでしょう?」
「・・・・・ああ。病院に運ばれたのが1ヶ月くれぇ前で半月前まで入院してた、とか言ってたが・・・退院してからも情緒不安定で産婦人科と心療内科に通ってるそうだ。」
「……そぅ……」
 ミルクは震える息を吐いて、涙をマサトの肌で拭った。
 マサトはそっとミルクの髪を撫でながら、
「・・・なぁ・・・どんなに気の毒だと思っても、口出し出来ねぇことだってあるんだぜ?・・・高藤に任せておくしかないだろ?」
と、諭すように言った。
「……でも……家まで来たってことは…何か話したいことがあったのかも……」
「・・・あるいは、意趣返しにお前のお袋を狙ったか・・・」
「…ぇ?」
「そーゆー考えもあるだろ?・・・みんなを善意ばかりで考えるな。」
「……ぅ…ん……」
「じゃぁ、この話はこれで終わり。・・・シャワー浴びて、飯を喰いに行こうぜ。」
「……ぇー……」
「男女間のことは当事者じゃなきゃわかんねぇだろ?」
「……だって……マサトが色々命令する時だってあるじゃん。」
 チクリと痛い所を突かれる。
 いつの間にかミルクも闇の中で目が利くようになったらしい。
「クッ・・・・・悪魔猫ッ!」
「にゃぁ〜ん。」
「・・・そんなに気になるなら好きにしろ。俺は悪いが構ってらんねぇ。お前と会う時間をこれ以上割かれたくねぇぜ。」
「はーぃ。」

 ミルクは自分が動く許可を貰えたので、何とかあの悲しい眼差しに光を差すことは出来ないかを考えてみることにした。
 ただ、今は考えている余裕はなさそうだった。
「・・・ったく。・・・俺だってなぁ、色々面倒事をこなさなきゃならねぇんだぜぇ?・・・だいたい本気になったのは高藤の勝手じゃねぇか。何で物事のバランスってもんがわかんねぇんだ?・・・幹部にしてやるって言ったのに、惚れた女と暮らしたいって言い張りやがって・・・」
 と、ブツブツ愚痴っている完璧無敵のボスがいる。
 ミルクは、フフッ、と笑みを浮かべ、
「ミルもお腹空いたぁ〜。」
と、マサトの腕に顔を擦り付けた。
 泣いたカラスよりも変わり身の早い、猫の目ミルクの片鱗が覗く。
「・・・・・お前・・・・・戒に似てるかもな。」
「…ぅにゃん?」
 あどけなく小首を傾げるミルクは、まさに可愛さ弾ける天使の顔をしていた。

<62>
「ガード交替」
§62§「ガード交替」

 月曜日の朝。
 学校へ登校するミルクを迎えにきたガードに、ミルクは目を丸くした。
「…ぁ…あれ?……戒さん、どーしたのぉ?」
「おはようございます、アリス姫。今日から私がガードの全権全責任を受け持つことになりましたので、よろしくお願い致します。」
「ぁ…はぃ。よろしくお願いします…って、星野さんはどうしたのぉ?」
「・・フッ。あの男は不適任ということで役を解かれました。」
「えーッ?!……あんなに一生懸命にしてくれてたのにぃ……」
「ボスが決められたことです。ここで事細かく説明しておりますと遅刻致します。母君にご挨拶されたら、出掛けましょう。」
 きっちりスーツで身を固め、背筋をピンと張った戒にキッパリと言われ、
「…はぃ。」
と、答えるしかなかった。
 ガードなのか躾係なのか、ミルクは…ガードの存在だけでも気が重かったのに…、と朝から憂鬱な溜息を吐いた。


 春浅い早朝から、地下アジトのトレーニングルームでは、サンドバッグを叩く音が響いていた。
 ・・・チクショー、チクショー、チクショー!!
 ・・・誰を恨むのでもない。
 ・・・ただ、ひたすらに不甲斐ない自分が悔しいだけ・・・。
 そう思いながらも、目から汗より熱いものが込み上げてくる。
 Tシャツの袖で汗を拭いながら、目の熱いものも拭う。
 そして再び、肌が割れるほどの勢いでサンドバッグに拳をぶつける。
 風を切る腕が空気を振動させる。
 サンドバッグを鏡に己の弱い心を見据えて睨み、繰り出す拳は呻りをあげて重い袋にめり込む。
 早朝練習にトレーニングルームへと顔を出した他の組織員達は、鬼気迫る星野の姿に声も掛けられなかった。

 ――倉庫街の一角にある社員寮。
 ここには地下へ降りるエレベーターがあって、直接地下中央へ行けるようになっている。
 まだ誰も起き出す気配がない薄暗い早朝。
 星野は、ベッドの中で蛇窟島の海鳴りを懐かしく思い出していた。
 ・・・みんな頑張ってるかなぁ・・・
 蛇窟島で共に育った仲間の顔も浮かぶ。
 ――――――――
 訓練と学業の合間の自由時間、仲間とはいつも一緒でよく遊んだ。
 海は波が荒く海流も早いし、森に一歩踏み込めばそこはもう危険な野性生物が潜むジャングルだった。
 が、冒険好きな少年達は果敢に挑む。
 そこで役に立つのが、大人達から常に注意されていることや仲間同士の結束。
 ここは気を付けろ、こーゆーことはするな、と言われる言葉はそのまま命に繋がる。
 大人達からの注意を軽くみた故に、現実に友達を失って思い知らされることもあり、少年達も充分心得ていた。
 それと大切なのがチームワーク。
 個人プレイはどんなにその者が優秀でも、他へ迷惑をかけることがしばしばある。
 逆に一人が全員の負担になる時もある。
 能力差があるのは当然だったが、それでもたった一人で出来ることより、力を合わせてすることの成果の方が大きい。
 凸凹な個々が力を合わせるにはどうすればいいか、と少年達は悩み葛藤する中で、お互いを補い合い高め合うことの意義と、チームワークの大切さを学ぶのだ。
 だから、離れ離れになった今でも、心は友と繋がっている気がする。
 中でも優秀だった星野は、仲間達から「俺達の夢も背負ってると思って負けるなよ!」とエールを受けて日本に赴任したのだ。
 ――――――――
 それでも、訓練と現実では対処や機転の効かせ方が全然違う。
 ・・・戸惑い迷うことばかりだ・・・
 星野は、そろそろ起きよう、と深く深呼吸をした。
 と、そこに景山参謀からの使いが来て、呼び出しを受けた。
 急ぎ身支度を整えて参謀室へ出向くと、すでに仕事中の参謀の姿があった。
 倉庫街近くのS商事所有のマンションを住居としている参謀は、泊まり込みでない限りは毎朝出勤してくる。
 ピシッ、と一糸の乱れもなく支度を整えている参謀に比べ、自分の姿のいい加減さが情けなく思えた。
 更に、「アリス姫のガードはもうしなくていい。引継、並びに今後の処遇は、ボスがお見えになってからにするから、それまでは待機していろ。」と言い渡されてしまった。
 ・・・数々の失敗はしてきたと思う。
 ・・・部下達の管理も行き届かなかったとも思う。
 ・・・その為にアリス姫に秘密を知られ、少なからぬショックを与えて泣かせてしまった。
 自分の至らなさは重々承知しているし、解任されても当然だろう。
 星野はそう思って、唇を噛んで黙って頭を下げた。――

 ・・・クッソォォォーーーッ!!
 ・・・俺は何をやっているんだッ!!
 拳をぶつけても、ぶつけても、自分への怒りが治まりそうもなかった。
 サンドバッグが赤く滲み、手の皮膚が爛れて血まみれになっていることに気付いた。
 星野は乱暴にテーピングして血止めし、今度は縄跳びを始めた。
 つま先から少し前方の床に視線を落とし、一心不乱に跳び続ける。
 ・・・自分の軟弱な根性を、どうやれば鍛えられるかわからない。
 と思う星野は、せめて、体を鍛え上げることで己の弱さを追い出したかった。
「おぅ!頑張ってるな。」
 聞き覚えのある懐かしい声が、深く埋没した意識を呼び戻す。
 星野は縄を跳びながら後ろを振り返って見た。
 空耳かも、と思っていたのだ。
 だが、そこには確かに声の主が立っていた。
「若林副隊長殿!」
 星野は今度こそ現実なのだと理解し、縄跳びをやめて正面を向くと若林に敬礼をした。
「よう。・・随分練習に気合いが入ってるな。」
 ニヤリ、と口の端を引き上げて笑みを浮かべた若林は、指二本で軽く敬礼を返した。
「いえ。自分はまだまだです。」
 星野は何故かジュワッ、と込み上げてきてしまう涙を悟られないように、うつむいて答えた。
「フフン。・・こりゃ、相当落ち込んでるな?」
 ・・・えっ?
 星野が、どうしてそれを知っているのか、と驚いて顔を上げる。
 若林は片頬に笑みを浮かべてウィンクをすると、
「その話もあるし・・・お前の悩みも聞いてやりたいしな。ちょっと休憩にしよう。」
と言ってから、
「朝食はまだだろ?・・俺も機内でずっと寝てて喰い損ねた。食堂の焼き魚定食でも久し振りに喰うかな。アハハハ。」
と、声を出して笑い、伸びをした。
 星野も若林の明るいオーラを浴びて、自然と笑みが浮かび、
「ついて来い。」
と言われた命令に、
「了解!」
と、元気良く答えた。

 社員食堂はピークを過ぎて、けっこう空いていた。
 若林と星野は食堂の隅に席を取り、共に焼き魚定食を食べる。
「フン。みみっちい魚だぜ。・・お前も、ジャックアイランドの豪快な浜焼きが懐かしいだろ?」
「・・・それは・・・自分に、もう島に帰れ、と言うことですか?」
「あ?・・・何をそんなにイジケた言い方をするんだ?」
「・・・島は懐かしいです。・・・でも、任務に失敗して解任された、なんて情けない帰還はしたくありません。」
「はぁ?・・・なーんか誤解してるようだな。」
「誤解じゃありません。・・・今朝、ガードの任務を解かれました。」
「フム・・・まぁな。ガードとしては最適任者が現れたし、仕方ねぇだろ。」
「最適任者?・・・どなたですか?」
「何だ、それも聞いてなかったのか。」
「・・・はい。」
「お前の後任は戒殿だ。」
「将軍?!」
「シーッ。・・・俺もちょっと意外だったが、本人も乗り気らしいぜ。クッフフフ。」
 若林は可笑しそうに笑ったが、星野は笑う気分になれなかった。
「・・・そうですか・・・」
「けど、その前に・・お前のことは面倒を見てやって欲しい、と連絡を受けていたぜ。」
「・・・ご迷惑をおかけして済みません。」
「バーカ。迷惑って何だ?それはこれからじゃねぇのか?」
「・・・はぁ・・・」
 星野は意味がよくわからないまま頷いた。
 若林は苦笑して、
「わかった。お前にわかるように説明してやるよ。・・の前に、喰っちまおうぜ。」
と、残りのご飯にお茶をかけて綺麗にさらった。
「あ、はい。」
 星野も、物が喉を通る精神状態ではなかったが、どうにか残さないように食べきった。

「食休みに日光浴でもしようぜ。」
と、若林に誘われて、星野は日本に来て初めて倉庫の屋根に登った。
 上り階段がある屋上などではない普通の倉庫なので、二人とも荒技で登っていった。
 かなり仕立てのいいスーツを着ていた若林だったが、お構いなしに埃っぽい屋根に寝そべった。
 星野も並んで横になる。
「・・・いいな、青空は。」
「はい・・・」
「暗い穴蔵ばかり見てると視野が狭くなるぜ?・・たまには空に心を飛ばしてやれ。」
「はい・・・」
 星野は若林の話す説明が気になって、心の手足まで伸ばせずにいた。
「もっとも都会の空は晴れるほどくすんで見えるな。」
 ふと、呟くように言った若林の言葉には、悲しい響きがある。
 若林の故郷、覇羅蛇村の空は胸が痛くなるほど青い、と聞いたことがある。
 星野も蛇窟島の南国の青空を思い浮かべた。

 若林は大きくあくびをしてから、
「ふわぁ〜・・・眠くなっちまうなぁ。・・フフ。昨夜・・女との名残の夜が効いてるぜ。」
と、意味深なセリフを言って、
「・・・はぁ・・・」
と、返事に困っている星野に、
「ま、焦らさずに話してやるか。」
と、優しく笑いかけた。
「お願いします。」
 星野はホッとする一方で、何を言われても素直に受け止めよう、と気合いを入れる深呼吸をした。
「お前のことを頼まれた、って言えばわかると思ったんだが・・・つまりお前はSSSのメンバー候補として、俺の元で訓練と経験を積む、ってことだ。」
 ・・・SSS??
 星野は眉を寄せて意味を探る。
「嬉しくないのか?お前がSSSを目指している、って聞いてるぞ?一歩近付くってことだろうが。ん?」
「・・・・・え?・・・本当にそう受け取っていいんですか?」
 星野は寝ていた上半身を起こし、若林の顔を見つめる。
「別の意味があるのか?」
「・・・え・・・でも、自分は失敗ばかりして・・・」
「注意されたからって、それを一々失敗したと思うもんじゃないぜ。抜かりはなかった。配慮もした。それでもまだ足りなかったかも知れない。・・が、それを失敗とは言わないぜ。」
「・・・ですが・・・自分が至らないばかりに・・・」
「謙虚なのはいいが、ヘタに自分を卑下して自己責任を問い過ぎると、逆の過ちを犯すぞ。」
「・・逆の過ち・・ですか?」
「つまり、コイツは見込みがある、と注意してやる。それは、コイツならもっと高みを目指せると思うから注意するんだ。」
「・・・そうでしょうか・・・」
「だが、常に’失敗したから注意された’と思ってると、一度登ったものを降りて足元の基礎を見返したくなる。」
「・・・はい。」
「で、これがダメだ。あれがダメだ。と基礎を弄りすぎてみろ。どうなる?」
「・・・基盤が緩みます・・か?」
「そーゆーことだ。ヘタに自分を責めて縮こまってもそこまでの男で終わってしまうしな。」
「・・はい。」
「より高い所へと向かう者に、充分気を付けろ、と注意するんだ。だったら、素直に注意されたことに気を付けるようにすればいいじゃねぇか。・・違うか?」
「仰る通りです。」
「ウム。わかったな?」
「はい!」
「よしよし。」
 若林も体を起こし、星野のサラサラの髪を撫でてやる。
「それになぁ、SSS候補に失敗ばかりの未熟なヤツがなれる訳がないだろ?・・もっと自信を持て。」
「はい!ありがとうございます!」
 若林は、うんうん、と笑顔で頷いてから、ニヤッ、と笑って、
「・・ここだけの話だが、いい事を教えてやろう。」
と言った。

「・・・えッ・・・」
 星野は聞いてもいいものかと動揺する。
 若林はその反応に可笑しそうに喉を震わせ、
「ったく、純な奴だぜ。・・そこが、お前のいい所だがな。」
と、星野の鼻先をつまんだ。
「・・うぅ・・・ふぁにふんふぇふかぁ・・・」
「ククク。・・だいしたことじゃねぇさ。・・・我等が姫君は魂の声をお聞きになられる。」
「・・はい。」
「で、見ちまったものは見なかったことには出来ねぇ。」
「・・・はい。」
 ・・・だから、醜い現実は隠して差し上げたかったのだ。
 星野は立てた膝に腕を乗せてうつむいた。
 が、それに対して若林が言った、
「それもいいだろうさ。」
という言葉に目を瞬かせる。
「・・・え?」
「俺達がそれをしてたら前進出来ねぇ。・・が、こぼれた悲しみを誰かが拾ってくれりゃ、それはそれで気が安らぐ、ってもんだ。・・・総帥も冷酷と言われるが、自身との葛藤は他の比じゃねぇんだぜ?」
「・・はい。それはわかります。」
「以前はあんまり煮詰まってる時とか、わざと構ったりもしたが・・・今は姫が総帥の全てを包み込んでくださる。」
「はい。」
「その意味じゃ、姫の方がお前より根性座ってるな。」
 星野は唖然と口を開けていたが、わかるような気もしてきて、
「・・・かも知れません。」
と頷いた。
「全てって意味は・・あのキラー将軍でさえ愛してるってことさ。並みの神経じゃ出来ねぇが、俺達が世界中を敵にして世界中から憎まれても、姫だけは俺達を愛してくださる。・・・言ってみりゃぁ、総帥の姫君は総帥の魂の故郷であり・・・俺達の魂も帰れる場所があるってことさ。」
「・・・わかる気がします。」
「もっとも、自分が惚れた女が故郷だっていいんだがな。アハハ。生憎、俺には特定の彼女が出来なくてなぁ。」
「・・自分も・・女性は苦手ッス。」
「お前はこれからだろーが。・・それに、それだけ可愛い顔してりゃ、女達が放っとかないぜ?」
「・・あ・・いや。勘弁して欲しいッス。」
「クッフフフ。けど、・・ボスがお前からキラー将軍にガード責任者を替えたのも、その辺の心理があるんだぜ?」
「・・・え?」
「姫君があちこち出歩きたがってる以上、ガードは貼り付かなきゃならねぇ。・・けど、中国の一件もあってガードを中途半端の奴には任せられねぇ。となれば、お前が常に側に貼り付くことになる。・・可愛いお前がな?」
「・・・いや。アリス姫には俺なんか眼中にないッスから。」
「バカ。当然だろ。」
 若林は軽く頭を叩いた。
「それでも気になるのが、男の嫉妬ってとこだな。・・・まぁ、キラー将軍なら家族みてぇなもんだから、総帥も安心出来るってことだろうぜ。」
「ハァァ・・・そうだったんですか・・・」
 星野は納得してわずかに笑みをもらした。

「お前、ヤバかったんだって?・・・気の毒になぁ。まだ、ちょっと傷が残ってるじゃねぇか。」
 若林がそっと星野の頬を撫でた。
 掠った程度の傷だったが、毒の為に腫れ上がり治りが遅れていた。
「え・・あ・・大丈夫ですッ。」
 星野は照れ臭そうに耳を赤くした。
「真っ直ぐ過ぎるのも、時には壁に激突しかねねぇぞ?・・俺みてぇに要領よくなることも、必要な場面場面があるってもんだ。・・それこそ”もぐら叩き”みてぇにな。」
「・・・もぐらを叩く?・・・狩猟の余興ですか?」
「あ〜?・・・お前、日本に来て半年以上経つってのに、”もぐら叩き”も知らねぇのか?」
「・・・済みません。」
「クックックッ。・・・よし!じゃぁ、今日は俺が遊びに連れて行ってやるぜ。」
「え・・・でも、自分は・・・」
「お前はもう俺が預かったんだ。・・それに、総帥も夕方にならねぇと、こっちには来れねぇらしいぜ。・・いいか?遊ぶことも修練になると思え。」
「・・・あ・・はい!」
「よーし。」
 若林は倉庫の高い屋根の上に立ち上がり大きく伸びをした。
 星野も真似て伸びをした。
 陽射しがさっきよりも暖かく感じられる。
 落ち込んでいた心が、今は今日の空のように晴れ渡っている。
 そして、これからの日々を思ってわくわくしてくるのを、押さえきれない星野だった。


 一方、ミルクは・・・。
 助手席にキチッと座っている戒の横顔を、後ろの席からチラチラ見ていた。
「・・いかがなさいましたか?」
 戒がミルクの何度目かの溜息の後に聞いた。
「…ぁ……ぅん。」
「何でも仰ってください。遠慮はかえって失礼な場合もありますよ?」
「…ぅ……はぃ。」
 モジモジしていたミルクは、意を決したように表情を引き締めた。
「あのね…実はね……」
「コホン。出来ましたら、”ね”で区切らないようにお願いします。」
「……ぁぃ……」
「どうぞ。・・・続きを。」
「はぃ。……今日、…か明日にでも、高藤弁護士の奥様と会えないか、って思うんですけどぉ……」
「なるほど。わかりました。高藤の細君に連絡してみましょう。ですが、今日すぐに、というのはあちら側の都合もあることですので無理ではないかと思われます。特に小さい家族がいるようですし。」
 ミルクは意外な顔で戒を見ていた。
 頭ごなしに反対されるかも、と覚悟していたのだ。
「あちらの家に伺うのも失礼でしょう。子供達を前にしては言いたいことも言えないでしょうから。・・S商事でゲストルームとして年間契約をしているホテルの一室がありますので、そこを話し合いの場所に指定しましょう。・・それで、よろしいですか?」
「ぇ……いいんですか?」
「総帥夫人たる姫君が使用して悪いはずがないでしょう?」
 戒はわずかに振り返り、片眉を吊り上げて自信たっぷりに答える。
 ……総帥夫人って……
 ミルクは困ったように笑みを浮かべた。
「アリス様がそれでよろしければ、そう致しますが?」
「ぁ、はぃ。…じゃぁ、お願いします。」
「畏まりました。」
「あ…ありがとうございます。」
 ミルクは取り敢えず、高藤夫人に会える、とホッとしたので頭を下げてお礼を言った。
 ……戒さんってスッゴォーイ!
 ミルクはドキドキしながら即断即決の会話に興奮を覚えていた。
 考えてみれば、戒は組織のNo.3なのだ。
 権限も発言力も一組織員とは比べようもない。
 ……凄い方がガードになっちゃったぁ……
 ミルクは感心と感嘆と感謝に体が震えてきた。
 一つ一つ本部に連絡してマサトに伺いを立ててから許可を貰って・・・と、しなければならなかったことが、戒に相談すればスムーズに運ぶ。
 ……ちょっとお得かも……
「…フフッ……」
 ミルクは窓の外に顔を向け、心強い味方が出来た気がして、笑みをこぼした。

<63>
「姫」
§63§「姫」

 水曜日。
 ミルクも高校が早帰りだったこともあり、高藤夫人も仕事が休みだということで、会って貰えることになった。
 ――高藤は充分な生活費を渡していて、夫人が仕事をしなければいけない切羽詰まった理由はなかったが、子供を保育園に預けられるようになってから仕事をするようになっていた。
 職場はアトリエで、パート勤めの夫人の仕事は受け付けと電話番くらいのものだったので、退院してほどなく病院に通いながら仕事にも復帰していた。――

 都内某ホテルのスペシャルスィート。
 豪華なスローイングルームがあって、オリエンタルな色調と家具調度品で揃えられている。
 置かれた高級そうな壺や彫像、どこかで見た気がする著名な絵画が飾られているのは、それなりのVIPを招待した時などに使用される部屋の為だろう。
「……ほぇぇ……」
 ミルクは家に戻って着替えてからホテルに来たが、部屋に先に入って待つことになり、室内の豪華さに感嘆の声を洩らした。
「姫君がそのようにキョロキョロとされるものではありませんよ。」
「…だってぇ……この壺ぉ……何でここに置いてあるのぉ?」
「柱と壁の段差をカバーする為でしょう。」
「……ふーん……そーなんだぁ……」
 マリンブルーのトルコ石をモザイクのようにビッシリ埋め込んで磨き上げた壺は、いかにも高価で重そうである。
「…綺麗ねぇ……」
「お気に召されたなら同じ物を届けさせましょう。」
「へ?…ミルの家に?」
「はい。造作もないことです。」
「…戒さんにすればそうでしょうけどぉ…ミルの家に置いても…邪魔っぽいかも。てゆーか、床が抜けちゃうかもぉ。」
 ミルクは自分で言って、自分で受けて笑う。
「アリス様よりは重いかも知れませんが、ミツル殿よりは軽いでしょう。」
「…そーかなぁ?…ちょっと持ってみようかなぁ……」
 ミルクが本気で壺の重さを確かめようかと、持ち方を考えていると、
「おやめください。つま先にでも落としたら大変です。・・じき、高藤夫人も参るでしょう。座ってお待ちください。」
と諫められてしまった。
「……はぃ。」
 ミルクはショボンとうつむき、戒が指で示すイスに座った。

 高藤夫人との約束は午後3時。
 ホテルに到着したら下のロビーで待機している戒の部下が、この部屋まで案内してくる手筈になっている。

 ――戒はミルクのガードになってから、これまでのミルク専属ボディーガードを数名入れ替えていた。
 要所要所のポジションリーダーと専属運転手をキラー部隊員に替え、警戒範囲を広げると共に強化していた。
 マサトの膝元にいれば、ミルクだけでなくマサトの緊急時にも対応しやすい。
 ガードに従事するキラー部隊員は、定期的に蛇窟島で特殊訓練を積んでいる部隊員と入れ替えていけば、実戦的感覚と変化する社会への対処法を学ぶことも出来る。
 蛇窟島の責任者だった戒の代わりに、その任務に就いた財前には気の毒な気もしたが、戒がキレて問題を起こすことも少なくなるだろう、とマサトも景山のこうした提案を享受したのだった。
 景山は弟:戒の気性を熟知した上で、ミルクなら戒を暴走させないことを予見してた。
 まだ戒が就任して数日ではあったが、かつてマサトのガードだった頃の生き生きとした表情が垣間見え、予見は正しいと確信した。
 しかも本来の保護意識が遺憾なく発揮されるに留まらず、唯でさえ頼りないミルクの教育官としても目覚めたようだった。
 戒が、「兄さん。私がアリス姫の眠れる血筋を呼び起こしてみせるよ。そして、どの王族の姫君にも劣らぬ気高き姫として、我が主人:闇の覇王に傅かせよう。」と、熱意を持って語った時、景山は「まぁ、頑張れ。」と苦笑を隠して頷いた。――

 トントン・・・トントン・・・
 ノックの音がしたので、戒が席を立ってドアの向こうのウェイトルームへと向かった。
 ミルクが緊張して背筋を伸ばして待っていると、
「失礼します。」
と、顔色の悪い高藤夫人がうつむきがちに部屋に入ってきた。
 顔色が良ければもう少し若く見えるだろう、と思える顔立ちで、30歳前後に見える。
 実際は高藤より4歳下の32歳だそうだ。
 戒は夫人の後ろに従うように戻ってくると、夫人にミルクの前の席を勧めた。
「ぁ……初めまして。」
 ミルクは一度席を立ってお辞儀をし、夫人が同じように頭を下げて座るのを確認してから座り直した。
 戒は、ティーセットがすでに用意されていたので、紅茶の葉を吟味しながらポットに入れ、熱い湯を注いでから、小さいスプーンで味見をした後、カップに注ぎ入れた。
 ミルクと高藤夫人は座ってからしばらく黙っていた。
 お互い言葉を探しているように視線を逸らしている。
 戒がそれぞれの前に入れた紅茶を置き、自分は傍観者であることを意思表示するように、イスを少し引いて座った。

「・・・原田様の婚約者の方が、私にどのようなご用でしょうか?」
 高藤夫人が抑揚のない静かな声で切り出した。
「…ぁ、はぃ。…あの…この前、家の前にいらっしゃいましたよね?…ぇっと…あの時はどなたか存じ上げず、挨拶も出来ないままで失礼致しました。」
 ミルクがペコッと頭を下げる。
 夫人は何も答えず黙っている。
「…それと…知り合いが入院している病院でお姿をお見かけしました。……余計なお世話でしょうけど…御加減はいかがですか?」
「・・・良くも悪くも、関係ないと思いますけど。」
「ぁ……そうですよね。」
 ミルクは気まずいだろうことはわかっていたので、落ち着く為に紅茶に手を伸ばす。
 ソーサーを持って胸の前でカップのえをつかんでから、戒の方を向いて、
「入れて頂いて済みません。頂きます。」
と、微笑んで言ってから、啜るようにそっと一口飲んだ。
「…ぁ、…美味しい…。戒さん、入れ方が上手ぅ。」
 ミルクが笑顔でそう言うのを、戒は”当然”とばかりに眉を聳やかせて、ゆっくり自分の紅茶を飲む。
 ミルクは夫人に向き直り、
「外は寒かったですか?…紅茶、温かくて美味しいですよ。体も温まります。どうぞ、冷めない内に……」
と、笑みを浮かべ夫人にも勧めた。
 けれど、夫人は黙って何も答えない。

「……あの……」
 ミルクは紅茶をテーブルに戻すと、遠慮がちに聞いた。
「…高藤さんは…充分良くしてくれてますか?」
 夫人が顔を上げ、露骨に眉をひそめて嫌そうな顔をする。
「…奥様の話をよく聞いて、答えてくれてますか?」
 ミルクが続けて尋ねると、
「それこそ、あなたには関係のないことでしょう?」
と、夫人が少し苛立って言葉を返してきた。
「もちろん、直接的にはそうだと思います。…でも、高藤さんには多方面でお世話になってますし、…母の調子が良くないこともあって、始めたばかりのお店の方も、色々カバーして頂くことが多いので、高藤さんも忙しいのではないかと…」
「・・・・・お母様・・・・・妊娠されてるんですよね?」
 夫人が上目遣いに胡乱な視線を投げてきた。
「……はぃ……」
 ミルクが申し訳なさそうに頭を下げるのを、夫人は冷たい眼でじっと睨み据える。
「・・・・・高藤の子でしょ?」
「……それは……ミルには答えられないのですが……」
「隠さなくていいのよ。高藤に言われたんだから。・・・子供が生まれるのにいつまでも中途半端でいたくないから別れる、って。」
「……そーですか……」
「皮肉なものね。私も妊娠してたのに。・・・もう・・・流れてしまったけど・・・」
「……伺いました。……本当に…残念です……」
「上面の親切ごかしはやめて欲しいわ。」
「……済みません。」
 ミルクは深々と頭を下げた。
「子供がいるから一緒になる。子供が流れたから別れる。そんなのおかしいでしょ?・・・私、別れませんから。」
「……はぃ。」
「高藤が何を言っても、私負けませんから。」
「……はぃ。」
「今度の子は・・流れてしまったけど・・・高藤には自分の子がすでに二人いるのよ?その責任があるでしょう?」
「……仰る通りです。」
「何が、本気で好きになってしまった、よ。今まで散々色んな女性と付き合ってきたじゃない。・・・と言うより、仕事で必要な関係だ、って言ってたわ。」
「……それは本当だと思います。」
 ミルクは小さく溜息を吐きながら頷いた。
「あなたの母親だから・・・これ以上有利な関係はないから、そっちを選んだんじゃない。」
「……それは……そう思われても仕方ありません。」
 ミルクはまた深々と頭を下げた。

「高藤夫人。それは事実を誤認されてますぞ。」
 戒がマサトへの侮辱に繋がる内容にクレームをつけた。
「戒さん……」
 ミルクが、言わないでくれ、と首を振る。
 今、夫人に必要なのは、事実を突き付けることではない、とミルクは思う。
 夫人にも、自分の言い分が全て正しい、とは思えない後ろめたさがあるようで、震える指でカップを持つと、カラカラに乾いた喉へ一気に紅茶を流し込んだ。
「・・ッ・・・コホッ、、コホッ・・・」
 少し咽せて咳き込んだ夫人に、ミルクがテーブルを回って駆け寄り、ハンカチを差し出して背中をさすった。
「放っといてよッ!」
 夫人が意外に強い力でミルクを突き飛ばした。
 戒の奥歯が、ギリッ、と鳴る。
「…ごめんなさい。」
 そう言ったミルクは自分の席に戻る時、戒の前を通りながら、
「…戒さん。…紅茶のおかわりをお願いします。」
と、そっと戒の手に自分の手を重ねて、戒だけに見える笑顔で頼んだ。
 その笑顔が、…承知してることだから大丈夫…と言ってるように見えて、手に触れたミルクの掌の柔らかい感触に、泡立つ心がスーッと引いていくように感じた。
「・・畏まりました。」
 戒はおもむろに席を立つと、新しく紅茶を入れる用意を始めた。
 ミルクはイスに座ると、自分の残っている紅茶も飲み干した。

 高藤夫人は息が落ち着くと、ミルクをキツク睨んだ。
「・・・あなたに呼び出されてわざわざ出向いて来たのだって、あなたが高藤の上司の婚約者だからじゃない。・・・一体、その優位な立場を利用して、私に何をさせたいの?」
「…ぇ……何って……」
「母親の為に・・・私が高藤と別れるように、説得したいんでしょ?」
「……ぁ…そっか……そう思ってしまわれますよね。…うまく説明出来なくてごめんなさい。」
「・・・・・違うの?」
 夫人が目を細めて、ミルクの顔を凝視する。
 ミルクは、ペコリペコリと何度か頭を下げてから、失敗したぁ、と照れたような笑みを浮かべた。
「・・・・・だったら、そっちの言い分も言いなさいな。」
「ぁ…はぃ。済みませんでした。……ぇっと…奥様の仰るように、高藤さんが原田家の顧問弁護士事務所から独立されても、マサトさんの部下であることは変わってないようです。」
「今更のことよ。・・高藤は原田様の下僕ですもの。」
「……とても仕事熱心な方だと伺ってます。」
「どうでもいいわ。・・・それで?」
「はぃ。……普段でもお仕事の忙しい高藤さんに、他のこともお願いしてしまっている現状なので……奥様の体調が優れない時に、ちゃんと配慮が行き届いているかと気になったものですから……」
「・・・意味がわからないんだけど?」
「…ぁ…ぇー……奥様も仰るように、マサトさんとの繋がりから、高藤さんはミルやミルの家族には、…きっと普通以上に気を使ってしまうと思うんです。」
「でしょうねぇ。」
「…はぃ。…それで…そのしわ寄せが奥様に及んで、ご迷惑をお掛けしているんじゃないかと思いまして…ミルに何か出来ることはないかと……」
「・・・・・へぇ・・・・・」
 夫人がミルクを上下に視線を動かして観察する。

 夫人はしばらく黙ってミルクを眺めていた。
 それから、投げ遣りな溜息を吐くと、
「・・だったら、母親に高藤と別れさせなさいよ。・・ついでに子供も始末して欲しいわね。」
と、冷たい声で言い放った。
 ミルクは目を見開いて夫人を見ていたが、ジュワッ、と浮かんだ涙を隠すようにうつむいた。
「……そうですよね。……そう仰りたいお気持ちは…わかります。……ただ、母であってもなくても、ミルには人に何かを強いる資格も権利もないと思っています。」
「ほら、御覧なさい。偉そうなことを言ったって、結局何も出来ないんじゃない。」
「……一つだけ……母にはお願いしましたが……」
「プレゼントのおねだりかしら?」
 言い方にトゲがある。
 夫人は完全にミルクを子供扱い始めたらしい。
「……母は……奥様に申し訳ないから、と…せっかく授かった子供を諦めるつもりでいました。……それを、どうか生んで欲しい、と願ったのは…ミルです。」
 今度は夫人が目を見開いた。
「・・・・・嘘よッ!」
「……ミルに母の気持ちを代弁する資格はありませんので、ここでは控えさせて頂きますが、…一つの事実として申し上げます。…母は確かに、高藤さんにも打ち明けずに諦める、と言ってました。……それがどうしても悲しくて……生んで欲しい、とお願いしました。」
「・・・何でそんな余計なことを言うのッ?」
「……この世に生まれてくる…どんな命に罪があるでしょう?……罪を背負って生まれてくる命は…人でも動物でも自然でも…決してないと信じています。」
「・・・・・綺麗事だわ・・・・・」
「いいえ。」
 この時ばかりはミルクは静かながらキッパリと答えた。
「命は……この世という地獄に生まれてきて、苦しみ喘ぎながら魂を燃やし尽くして、神の門を叩くのだと思います。……この生き地獄は…魂を昇華させる為の長い修行の道なのだと……思う時があります。」
「・・あなたに・・・あなたに地獄の何がわかるって言うのッ?!」
「…ええ。……ミルにはわからない。……だけど…マサトさんやお仲間の皆さんを見ていると…そう思わずにはいられないんです。……そして…高藤さんや…母や…奥様も……」
「・・・・・この世の地獄・・・・・」
 夫人は呆然として呟いた。
「…ミルは子供です。…まだ、本当の世間は見えていませんし、こんなことを言える資格も良識もないとは思います。……ですが…感じずにはいられないんです。……あまりにも悲しみが多くて……悲しい魂に満ちていて……だけど…どんな魂も皆…キラキラと輝いているんです。……だから…どんなに辛い世界でも、命は生まれてくるべきで、愛されるべきで、生きるべきなのだと……思わずにはいられません。」

 暫しの沈黙。
 戒さえも動きを止めて静聴している。
 ポロッ、と夫人の目から涙の雫がこぼれ落ちた。
「・・・あなたは・・・こんな私でも愛してくれるの?・・・流れてしまった子でも・・・愛してくれるの?」
「愛という僭越な言葉では失礼なので控えますが…とても大切な存在だと思っています。……本当に…お子様のことはお辛かったと思います。……母や高藤さんのことにまでは口出し出来ませんが…ミルの出来る範囲で、極力お力になれたらと思っております。」
「・・・そんなこと・・・」
「何でもします。…今はまだ学校があって昼間は動けませんが、じき春休みになりますし、ミルで出来ることならどんなことでも致します。…お手伝いでも、お使いでも、…少しでも奥様のお体が楽になるように、お役に立てることがあったら、どうか何でも仰ってくださいませ。」
 夫人は返事の代わりに、大粒の涙を溢れさせた。
「・・・生まれてくるべき・・・愛されるべき・・・生きるべき・・・・・そんな言葉、掛けて貰ったことない。・・・・・流れた子にも・・・言ってやれなかった・・・・・」
 夫人は震える息で何度か大きく深呼吸した。

 それから、
「・・・私・・・誰も愛さなかったかも知れないわ・・・」
と、自分の心情を吐露し始めた。
「…ぃぃぇ…そう思い込んでしまってるだけです、きっと……」
「・・・寂し過ぎたのね。・・・あんまり寂しくて・・・みんな冷たい人にしか見えなくなっていたわ。」
「……奥様……」
「私、両親が早くに亡くなって、父の兄である叔父の家庭で育ったの。父が親兄弟の反対を無視して、家を飛び出して母と一緒になったせいで、叔父夫婦は・・一応義務だから育ててやるが、問題は起こすな・・って、厳しい態度しか向けられなかったの。」
 ミルクはじっと夫人を見つめながら、グッと胸元の服をつかんだ。
 ……あぁ……この方も…悲しい魂なんだ……
 と、思うと、胸が痛くてたまらない。
「代々裁判官を勤める家柄で、躾が厳しかった、ということもあるけど、・・・父や母のことをこれ以上悪く言われたくなくて、私も意地になって勉強したわ。」
 ミルクは、うんうん、と頷く。
 ずっと、自分が泣いちゃいけない、泣く資格はない、と戒めてきたものが崩れそうになり、顔を苦しげに歪ませながら……。
「・・・でも、法律は好きになれなくて、大学は外語大に進んだの。・・そして、叔父の知り合いの外資系企業の弁護士事務所で通訳や翻訳の仕事をしていたの。」
「…ぅわぁ…スゴイですねぇ。キャリアガールなんだぁ。」
 ミルクが尊敬するように言うと、夫人はわずかに笑みを浮かべた。
「・・・何も遊びを知らない・・・つまらない女よ。」
「そんなことないです。…才能は努力して積み重ねた上に開花する、って兄にいつも言われるんですけどぉ…ミルには、努力出来る才能もないみたいです。」
「お兄様が?・・・そぅ・・・御立派な方なのね。」
「はぃ。…とても。…で、出来損ないの妹は…ミルですけど…いっつも叱られてばかりです。」
「そうなの?・・・こんなに可愛らしいのに・・・あ、そうか。可愛いから心配で、つい文句を言ってしまうのかしらね。」
 夫人はミルクの素直な態度に、気持ちをかなり解してきたようで、会話も和んだものになってきていた。
 それでも、
「・・・私も兄弟がいれば、少しは変わっていたかしら、ね。」
と、呟いた時に、また表情は暗く沈んでいった。

「・・・高藤と結婚したのは、その外資系企業とS商事との接点の中で、持ち込まれた縁談だったの。・・好みか、そうでないかなんて関係なかった。叔父にとっても好都合な縁談だったから。」
 そう言われてミルクは首を傾げた。
「そうね。・・・あなたにはわからないかも。人を魂で見てる方だから。」
 夫人は、フッ、と笑った。
「でも、世間では原田様は時代の寵児で、今を時めくS商事の会長。その方の個人事務所の方ともなれば、色々な面で有利だと、大抵の人は思ってしまうものなのよ。」
 ミルクは、なるほど、と溜息まじりに頷いた。
「叔父の家を離れられるのは嬉しかったけど、さして期待はしてなかった。・・・そして、期待しない通りの結婚生活だった。・・・だって、愛されてない、ってすぐに気付いたし、すぐに別の女性との関係を知ることになったから。」
 ミルクは苦しそうに眉を寄せた。
「いいのよ。・・・世間にはそーゆー結婚もあるの。世間体だけの為に家庭を持つ人がいるの。・・・高藤もそうなのだと思っただけ。」
「…でも…お子様がいらっしゃるのに……」
「・・・ええ。・・・夫婦の務めは果たす、って高藤は言ったわ。妻として尊重し、家族が円満に暮らせるよう努力する、とも言ってくれたし、私もそれでいいって思ってたみたい。・・・だって、人から見れば、私なんて羨ましい部類らしいから。」
 ミルクにはわからなかった。
 ただ、力無く首を振る。
 と、その時、戒がそれぞれのカップに紅茶を注いで、
「少し冷ましましたが、まだ熱いですからお気をつけください。」
と言ってから、ミルクの前に跪き、
「少し心を解されなさいませ。思い詰め過ぎても良くありませんよ。」
と、小さく囁いた。
「…ありがとぉ…戒さん。」
 ミルクもそっと小声で礼を言った。

 夫人も長く話していたので、喉を潤す為に紅茶を啜って一呼吸置いた。
 そして、また話の続きを始めた。
「・・・確かに・・・高藤は見た目もいいし、収入も並みの弁護士より遙かに多額でいい暮らしが出来たわ。子供達にも良き父親として接するよう務めてくれた。・・・でも、生活は安定していても、心が満たされなかったのね。私も母親としての義務をある程度果たしてからは、自分の楽しみを見つけたくなったの。・・と言うか、家庭という箱から外へ出て、思い切り伸びをしたかったんだと思うわ。」
 夫人は自分の心を見つめるように一点をじっと見ている。
「義務だけは果たす関係。お互いを利用しつつ、それぞれが勝手な方を見ている関係。・・・なのに・・・高藤から本気で好きになった相手が出来たと聞かされた時、初めて裏切られたと思った。・・・愛を裏切られたんじゃないの。お互いが不幸でいることで納得している関係を裏切られたって。・・・愚かでしょ?」
 ミルクは何も答えられない。
「・・・だから・・・子供は二人でいい、と避妊するよう言われて飲んでいたピルを黙ってやめて、わざと誘って妊娠するようにしたの。・・・子供に義務的にしか接することが出来ない、ダメな母親なのに・・・夫を不幸に引き戻したくて子供を望んだ。・・・どうかしてたわ。」
 ミルクはもう堪えきれなくなって、ブワッ、と涙を噴き出した。
「…どうか、もぅ……それ以上…ご自分を傷付ける言い方はなさらないで…ください……」
「・・・・・・・・・・私の為に・・・泣いてくれるのね・・・」
 夫人もミルクが膝に置いていったハンカチで目頭を押さえて泣いた。

 泣きながら吐露する。
「・・・素直に・・寂しい・・って言えば良かったのよね。・・せっかく夫婦になったんですもの。・・・もっと、真剣に・・必死に・・主人に縋って甘えれば良かったのね。・・・今やっとわかったわ。」
「……きっと……これから、です。」
 ミルクはそっと、そう言った。
 断言や約束は出来ないが、それでも母の性格なら、この事実を知れば高藤から身を引くだろうことは予測出来た。
 夫人にもミルクの、言葉には出来ないが言いたいことや、言わずにいる気持ちが伝わったらしい。
 顔を上げて、救いを求めて彷徨う魂のままの表情でミルクを見つめた。
 そして、柔らかな笑みを浮かべると、ゆっくりと首を振った。
「・・・もう、いいんです。・・・今、主人を取り戻しても、お互いに不幸を続けるでしょう。・・・私は私を愛してくれる人を見つければいいんです。・・・あ、いえ。その前に・・・子供達を母親としてしっかり愛してあげたい。私みたいに寂しさで固まってしまった子ではなく、あなたのように優しい子になれるよう愛情を注ぎたい。」
「……奥…様……奥様も充分お優しい方です。」
 ミルクはブルブル震えながら涙を零す。
 戒がまた側にきて、自分のハンカチを渡した。
「…ありがと……」
 ミルクは涙と鼻水でベショベショの顔を覆うように拭いてから、チーンッ!と鼻をかんだ。
 ・・・・・・・・・・。
 戒は片眉を軽く上げてから、自分を納得させるように小さく肩を竦めた。
 スッキリしたミルクは、
「…まだ…結論を出すのは早計です。……奥様がこれ以上悲しいお立場に苦しまずに済むよう…今度は周囲の皆が真剣に考える時なのだと思います。」
と、言ってから、
「…一度…お側にいって…抱き締めてもよろしいですか?」
と、申し出た。
 夫人は、え?、と驚いた顔をしてから、また涙を零して頷いた。

 長椅子に座っている夫人の横にミルクも座った。
 そして、肩を抱くように腕を回し、夫人の髪に頬を押し当て、ギュゥーーッ、と抱き締めた。
「…どうか…くじけず…生きてください。……そして…幸せになってください。」
 と、祈りを込めて囁いた。
 これをするから男は誤解してしまうのだ。
 ミルクにとっては、幼い頃に息のない小さな子猫を抱き締めたのと変わらない気持ちだったが、今はもうふっくらと柔らかな胸があるという自覚がない。
 それでも女性なら問題はないだろう、と・・・接近状態を警戒しながらも、戒は様子を見守っていた。
 夫人は自分よりも華奢なミルクにもたれ掛かり、声を上げて泣いた。
 寂しかった思いの丈、孤独だったこれまでの悲しみを、吐き出すように噎び泣いた。
 ミルクも一緒に涙を零しながら、ずっと抱き締めていた。



 数日後。
 ミルクの元に信じられない報告が届いた。
 ……高藤さんと蓉子夫人の離婚が成立した?!
 ミルクは耳を疑い、慌てて地下アジトへと駆け付けた。
 総裁室には、マサトと景山兄弟と高藤がいた。
 高藤の顔を見るなり、ミルクは詰め寄っていった。
「高藤さんッ!どーゆーことなのッ?!また、奥様に酷いことを言ったんじゃないでしょうねッ?!」
 高藤はミルクの剣幕に気圧され気味に、
「いえ。決してそうでは・・・彼女の方から離婚して欲しい、と言ってきたのです。」
と言ってから、
「彼女が、お嬢様・・あ、・・アリス様にくれぐれもよろしく、と申しておりました。その内、家の方にも遊びに来てください、とも。」
と、言い添えた。
 ミルクは詰め寄ったまま固まり、じっと高藤の顔を見上げていたが、
「…………本当なの?」
と、聞き返した。
「はい。随分明るい表情で、前向きに生きたいから新しい一歩を踏み出したい、とか。」
「……でも……まだ体調だって良くないでしょうにーッ!」
 ミルクが眉を寄せて睨む。
「もちろん、離婚後も様子を見つつ援助していきます。子供達は私の子であることは一生変わらないのですから。その母親も健在であってこそですし・・・」
「…………そぅ……」
 ミルクはまだ何となく納得出来ない蟠りがあったが、大きく溜息を吐いて振り返った。
 シン、としすぎているマサト達が気になったのだ。

 と、マサトが指先で手招きしている。
「……ん?……何ぃ?」
 ミルクが側まで行くと、コツンと軽くおでこを叩き、
「いつまでもくっつき過ぎだぜ。」
と、苦笑してから頬にキスをした。
 ミルクは…ぁ、また叱られちゃぅぅ…と焦って、戒に視線を向けると、戒はフッと目を細めて見てない素振りで視線を逸らした。

「それにしても・・・」
 景山参謀が厳しい口調で、
「アリス様にこれほどご心労をお掛けして、今度ばかりは結果オーライという訳にはいかないぞ。」
と、言った。
 腕組みをした戒も、そうだそうだ、と頷く。
 高藤は、
「わかっております。」
と、床に正座すると両手をついて、
「アリス様には本当に申し訳なく、ここに深くお詫び申し上げます。」
と言うと、床に頭を擦り付けた。
「…えー?!……何で高藤さんがミルに謝るのぉ?!」
 ミルクがビックリして叫ぶ。
「・・・何でって・・・お前だって、たった今、無茶苦茶怒ってたろうが?」
 マサトが呆れたように言うと、
「違う、違う!あれはミルのことじゃないもん!……ミルは高藤さんに、何も酷いことなんかされてないもん。」
と、駄々っ子のような口調で否定した。
 それから、土下座している高藤の前にミルクも正座する。
「・・お・・おい!」
 マサトが立たせようと手を伸ばすのを、景山がそっと押し止めて、・・様子を伺いましょう・・という目配せをした。

 ミルクは両手をつき、
「高藤さん。」
と呼び掛けた。
 高藤が顔を上げると、ミルクは真摯な顔で見つめてから頭を下げた。
「え・・・アリス様?」
 高藤は焦って目を丸くする。
「どうか聞いてください。」
 ミルクは頭を下げた状態で言った。
「・・・あ・・はい。」
 高藤は戸惑いながらも、正座して拝聴することにした。
 が、ミルクの、
「高藤さん……ママを愛してくださって、ありがとうございます。本当に感謝しています。」
と言う言葉に顔を強ばらせた。
「…ミルは高藤さんにお礼しか言えません。……今度の一件は…申し訳ないとか…償いきれないという思いはあっても…それは奥様に向ける思いですし…同じ女性として、つい抗議してしまいましたが……母の娘として言えることは、ただただ感謝の言葉のみです。……本当に母を愛してくださって、ありがとうございます。」
「・・・あ・・・あ・・いや・・・」
 高藤は焦ってオロオロし、助けを求めるようにマサトや景山達に視線を向けた。
 だが、その三人もミルクの言葉に、ハッ、として息を飲んでいたので、声を掛けようがなかった。

 ――ずっと責められるばかりだった高藤は、36歳にして胸に熱いものが込み上げてきてしまった。
 裏切られたと妻から責められ、失望したと事務所の先輩から詰られ、崇拝するマサトからも度々叱責され、愛する女性は彼女自身を責めることで高藤の愛を責め、・・・己自身ですら自分の無力さを責めてきた。
 それでも、愛に迷いや躊躇いはなかったが、愛することの厳しさや辛さを味わってきたのだ。
 その愛を認めて感謝してくれる人がいるとは思いもしなかった。
 どんなに孤立無援でも、愛する彼女の為なら戦う気でいたし、その思いは失っていなかったが、ふと掛けられた優しい気遣いに体が震えてくるほど感動していた。――

「・・・アリス様・・・どうぞ、お手を・・・お顔を上げてください。」
 高藤にそう言われて、ミルクは少しだけ体を起こした。
 そして、
「……もう一つ…この場をお借りして申し上げてもいいですか?」
と、伺いを立てる。
 高藤は早くこの状況を解決したくて、
「どうぞ。何でも仰ってください。」
と答えた。
「はぃ…では……あの……」
「・・・はい?」
「…マサトさんが色々と無理なことを言って困らせてしまって…ごめんなさい。」
「・・・は?」
 高藤は益々焦った。
 焦ってマサトに恐々と視線を向けると、マサトは肩を竦めて自分のデスクに戻り、やたら煙を吐き出しながら煙草を吸い始めた。
「・・・いえ・・・それは・・・」
「もちろん、ミルに言える言葉ではないとも思いますが……マサトさんが色々無理を言ってしまうのも、ミルを思ってのことなので、申し訳ないと思っていました。」
「・・・よろしいのです。お役に立てることのある身が嬉しいのですから。」
 思わずそう言った高藤の言葉に景山は穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます。」
 ミルクは一度深く頭を下げてから、体を起こし、
「どうか…これからも、…母やマサトさんのことをよろしくお願いします。」
と、あどけなく言った。
 そこには、もう少女としての表情が色濃く現れていた。
 高藤は内心・・・参ったぁー・・・と呟き、
「大丈夫ですよ。承知しておりますから。」
と、優しく言って聞かせるように答えた。


 この後、足が痺れて立てないミルクを助け起こした戒は、ミルクの服の埃を優しく払い、遅い時間ということもあり・・・ミルクを家まで送っていった。
 そして、送り届けてからまた地下アジトに戻ってきた戒は、参謀室で仕事をしている兄にコーヒーを入れてやってから、
「なぁ、兄さん。・・・姫は生まれながらにして、姫の気高さを持っておられるものなんだな。」
と、感慨深げに言って、自分も熱いコーヒーを啜った。
 景山は仕事の手を休めて、弟の入れたコーヒーを一口飲むと、
「何だ、今頃になって気が付いたのか?・・なんだったら、積み重ねた布団の下に、豆を一粒入れてみたらどうだ、と言ってやろうかと思ってたがな。」
と、冗談を言って笑った。
「え?・・・その童話は嫌いだよ、兄さん。」
「なら、簡単に見極めず、じっくり付き合っていけばいい。・・・どうだ?我が侭の一つくらい、そろそろ見つけたか?」
「・・・っとに・・・嫌味な性格だよな・・・兄さんは・・・」
 戒は拗ねたようにムッとすると、カップを持ったまま参謀室を出ていった。
 残った景山は可笑しそうに笑いを洩らし、
「さてさて・・・」
と、気合いを入れて、また仕事に取り掛かった。

<64>
「オーロラの夢」
§64§「オーロラの夢」

 暗闇に浮かぶ淡い光……
 揺れるように光の帯が流れて……消えては生まれ……
 暗闇を淡く彩る……

 光の帯に手を差し伸べた時……ふわっと体が浮き上がり……
 細い一筋の光に乗っていた……

 無数の蛍が集まったような……淡く優しい光……
 体も光に包み込まれて一つになるようで……
 優しい心地の良い微睡みに誘われる……

 ゆっくりと波打つ発光体の帯は……ときに蛇の姿を思わせる……
 風を切り……どこを目指すのか……

 次第に速度を上げて……大きく体を煽動させる……
 頬に当たる風が冷たく……髪が激しくなびく……

「……ぁぁ……ぁぁ…ぁ……落ちる……落ちちゃぅぅ……」
 ミルクは必死につかまろうとするが、手が光をつかめずに空を滑る。
「……ぁぁぁ……ぁぁん……落ちるぅぅぅ……」
 体が光を滑っていく。
 帯が細くなって、もう後がない。
「……ぁぁぁん……」

「ミルク?」
 ミルクの声に目を覚ましたマサトは、細く白い手を虚空に伸ばすミルクを抱き締めた。
「……落ちる……落ちちゃうのぉ……」
「よしよし。・・・大丈夫。お前は落ちたりしない。・・・俺がしっかり抱いてるだろ?」
 なかなか目を覚まさないミルクに優しく呼び掛けた。
「…………ぁ……」
 大きく胸を上下させて深く息を吐いたミルクが、うっすらと目を開けた。
「……マサト……」
「悪い夢を見たのか?」
 マサトが、ミルクの額に汗で貼り付いた前髪を撫で上げ、唇を押し当てそっとキスをした。
 ヒンヤリと冷たい額が甘く香る。
 ミルクはまだぼんやりした様子で、
「……悪い夢じゃないけど……落ちそうだったの……」
と、悲しそうに言う。
 マサトは指先の背でミルクの頬を優しく撫でながら、
「お前は落ちたりしない。俺がつかんで離さない。いいな?」
と、おまじないのように言い聞かせた。
「……ぅん……」
 ミルクは小さく息を吐いて、ゆっくり瞬きをした。

 マサトの腕枕で眠った熱い陶酔の夜。
 覚めても変わらずマサトの腕の中にいるとわかって、ようやく安心したミルクは、マサトの肩に頬ずりをする。
「…マサトぉ……」
「よしよし。」
 マサトはミルクの額や髪にキスを繰り返しながら、腰に腕を回して引き寄せ、一層体を密着させる。
「・・・で、何から落ちそうだったんだ?」
 キスをするマサトの口の両端が微妙に上がるのを、ミルクは目聡く見つけて、
「…ぁー……笑ってるぅ……」
と、拗ねて唇を尖らせた。
「ククッ。・・・あ、いや。あんまり切なそうだったからさ・・・」
「……ぅぅ……なんか……変なもの……」
「変・・・って?」
「…よく…わかんない……」
「なー・・・余計、気になるだろ?」
「…わかんないんだもん……忘れた……」
 実際、思い出そうとしてみると、はっきりとは判らなくなっていた。
「漠然とでいいから・・・イメージでも・・・」
 気になり出すと、どうしても聞きたくなる。
「……んー……なんか…オーロラみたいだったかも……」
「オーロラぁ?・・・んなもんに乗れるのか?」
「…だって…夢だもん。…仕方ないじゃん。」
「・・・まぁな。」
 マサトは他の男でなくて良かったと思った途端、興味をなくした。

「・・・それにしても・・・オーロラでうなされてたら・・・夜もおちおち寝てらんねぇなぁ?」
「……ごめんなさい……」
「バーカ。お前が一人の時に、って意味だよ。」
 マサトはそう言って、ミルクの鼻に鼻を擦りつけてから、口づけをする。
「…ン……そうかも。……夢は…見るのが怖いもん……」
「・・・熟睡出来ねぇのか?」
「……そーかなぁ?……疲れてたりプレッシャー掛かったりしてると、そうかも……」
「・・・そうか・・・」
 マサトは愛しそうに、ミルクの怖い夢を振り払うように、頬ずりをしたりキスを繰り返した。
「・・・なぁ・・・一緒に暮らさねぇか?」
「……ぇ?」
「じき、母君の方も書類上の整理がつくし、そうなりゃ入籍はともかく高藤と母君は一緒に暮らせるようになるだろ?」
「…ぁ…ぅん。」
「ママズショップの方に部屋があると言っても、あそこは従業員や客が出入りする建物だし、赤ん坊を育てるには落ち着かねぇ環境だ。家があるんだから、そこで育てるのが一番だろ?」
「…ぅん。…でも、お兄ちゃんが…」
「まあ、兄貴は反対するだろうが、大学生ともなりゃいい大人だぜ?気に食わねぇなら、自分が一人暮らしをすりゃいいんだ。」
「……えー?!」
 ミルクが目を丸くして、抗議するように大きな声を出す。
 マサトは片眉をひそめ、
「っせぇ声出すなよ。」
と、文句を言ってから、
「もう充分一人で暮らせる男と、赤ん坊と、どっちを大事にしてやるべきだ?」
と質問した。
「……両方……」
「あのな・・・」
「わかってるぅ。……わかってるけどぉ……」
「赤ん坊は自分のことを何も自分では守れないんだぞ?・・・ま、お前も似たようなもんだが・・・お前には俺がいるしな。」
「…わかってる、って言ったじゃーん。…一言余計なの…っもぉ…」
「だから、今の家は新しい夫婦と赤ん坊に譲って、お前は俺と一緒に暮らせばいいだろ?」
「……同棲って……なんかなぁ……」
 マサトは困ったように溜息を吐き、
「正式に結婚しよう、って言ってんだよ!」
と、声を荒げた。
「…………へ?」
 ミルクは言葉の意味を理解するのに手間取り、やっと判ってから悩み出した。
「お前がプロポーズに返した言葉は、”へ”、な。・・・記者会見で言ってやる。」
 マサトは目を眇めて恨みがましく呟いた。
「…ぇ……あー!違うもん!違うもぉーん!」
 ミルクはマサトの胸を掌で、ペシペシ、と叩いた。
 足でも脛に蹴りを入れる。
「テテテテテッ・・・暴れんじゃねぇッ!」
 マサトはミルクを押さえつけ、膨れっ面にキスをした。
 熱く激しいキスにほっぺの風船は弾け、体の動きが止まる。

 とろけそうに熱いキス。
 不安も躊躇いもとろけてしまう。
「、、、ぁ、、、、、アフッ、、、、、ンン、、、、、」
「・・・なぁ?・・・もう、一緒になってもいいだろ?」
 耳元に口を寄せ、熱い息で囁き、耳たぶを甘噛みする。
「、、、ぁ、、ん、、、、、」
 ミルクはまだ答えが出せなかった。
 マサトは耳から顎までしゃぶっていき、喉から首筋へと唇を這わせ、また反対側の耳へと上がっていって、
「ミルク・・・一緒になろうぜ?」
と囁き、耳朶をしゃぶる。
「ぁ、、ぁぁ、、、ん、、、、、」
 ミルクは感じて顎を上げて仰け反り、背中を浮かせる。
 それでも欲しい答えが返らず、マサトは焦れったさにミルクのふっくらとした胸を強くつかむ。
「、、、あぁ、、、、、ぁぅぅ、、、、、」
 ミルクもどうすればいいのか、迷っているのだ。
 マサトは胸を揉みながら、切ない息をもらす。
「ハァァ・・・短い付き合いならそっちを優先させたり、いい顔も出来るさ。だけどな、長い付き合いになれば、どうしたって仕事を優先しなきゃならない時が増えるし、時には我慢させる時だってある。・・・それでも一緒にいれば、夜の悪夢からお前を守ってやれるだろ?」
「、、、ん、、、でも、、、、、」
 まだ高校一年を終了したばかりなのだ。
 誕生日がもうすぐ……それでやっと16歳になる。
 確かに正式に結婚出来る歳にはなるが、去年婚約した当時の騒ぎを思い出すと気が重くなる。
「、、、きっと、、、また騒がれちゃぅぅ、、、、、」
「バッカだなぁ。俺の妻になりゃ、報道規制させたり三流新聞を寄せ付けねぇように排除したりなんて簡単なんだぜ?・・・まして本宅は塀と生け垣で二重に囲まれてるし、庭も広いから覗き込むなんて真似は出来ねぇよ。」
「、、、そなんだ、、、、、」
「訓練生用の宿舎も道場も庭の対面に造り直したから、それが外からの目隠しにもなるし、屋敷の中は許可なく訓練生も入れないようにガードを強化したんだぜ?」
「、、、、、え、、、、、」
 以前、ミルクが本宅に泊まった時、嫉妬から命を狙われたことがあったので、そうしたことも警戒することにしたらしい。
 それでも、ミルクは安心より、申し訳ない気がして表情を曇らせた。
「本宅も戒が部下を引き入れてるから、それなりに賑やかかもな。・・あの連中を賑やかと表現出来ればだが・・・」
 マサトは微かに苦笑してから表情を真剣なものに改め、
「ミルクが困るようには絶対しないし、俺の手の中で守ってやりたいんだ。・・・海外や離れた場所にでも行かない限り、毎日顔を見れるんだぜ?・・・な、一緒になろう?」
と、訴えた。
「、、、、、ぅん。」
 ミルクにはまだこれから先が全く見えていなかったが、マサトを信じることにした。
「結婚するってことでいいんだな?」
「、、、、、はぃ。」
「おっしゃぁーッ!」
 マサトは目を輝かせて叫び、ミルクを、ヒシッ、と抱き締めた。

 激情のキス、キス、キス・・・。
 そして勢いのままに、高ぶる蛇でミルクを貫く。
「あッ、、、あぁぁぁぁッ、、、マサトぉぉ、、、、、」
「ミルクッ・・・ミルクッ・・・俺のミルクだー!!」
 マサトは感激を隠さず興奮して喜びを体中から発散させていた。
 すでに組織内では事実上の妻であったが、やはり正式に入籍出来ることが嬉しいようだった。
 熱情の蛇も、いつもより興奮して熱くなり、ブンブン呻りを上げてミルクの花園を突進していく。
「あぁぁぁぁん、、、蛇シャン、、、熱ゅ、、、」
「ああ。こいつも喜んでるぜ!・・これからは毎晩、気持ちのいい寝床で寝れるってな。クククッ。」
「、、、、、ぇ、、、毎晩、、、、、」
「ったりめぇだろ?夫婦なんだぜ?」
 マサトはニヤリと笑って、グイグイッ、と腰を突き出す。
「、、あぅ、、、あふん、、、えぇぇ、、、あ、、あぁぁん、、、」
 ミルクは嬉しいのか、困ってるのか、自分でも判らなくなっていた。
 繋がった部分が燃えるように熱い。
 今夜はもう何度目のHか、すぐには思い出せない。
 それでも、熱く痺れて、体の芯まで火照っている。
 抱かれる度に感じて感じてたまらない。
「あぁぁぁぁん、、、どぉかしちゃうよぉぉ、、、、、」
「心配するな。お前を離しはしないぜ?・・・”しっかり抱いていてやるさ。”」
 マサトはそう言って、楽しそうに喉を震わせて笑った。

<65>
「騒動再び…」
§65§「騒動再び…」

 部屋に深く差し込む朝日の眩しさに目を覚ます。
 浸るような温もり。
「お早う、ミルク。」
 温もりの主が額にキスをする。
「……アフ……ん…おはよぉ……」
 ミルクはまだよく開かない瞼の重さを感じながら答える。
 体がポカポカと温かいのは、マサトの腕の中にいるせいなのか、熱い夜の火照りがまだ冷めないのか。
 心地の良い微睡みをもう少し楽しもうと、マサトの胸に頬ずりをする。
 と、その胸がスルリと滑り抜けるように離れた。
「……マサト?」
「先にシャワー浴びてくるな。」
 マサトがベッドから起き上がって言う。
「……ぅん……」
「お湯を溜めといてやるから、ミルクは後でゆっくり入浴すればいい。」
 そう言うマサトはもうドアノブに手を掛けている。
「…ぁ、ねぇ…」
「ん?」
「今日、用事あるのぉ?」
「いや?・・今日は組んでる予定はないぜ。」
 そう答えながら、マサトはもう寝室を出て、ドアを閉めかけている。
 ミルクが、…ポー……っと見ていると、軽くウィンクをしてドアの向こうに姿を消した。
 用事はない、と言いながら、やけに気が急いているようにみえる。
 ……何だかなぁ……
 ミルクは起こしていた背中を、バフッ、とベッドに戻して、頬を膨らませながら天井を睨んだ。
 眩しい朝日でも消えない、悲しい星空がそこにある。
 ……悲しい煌めき……
 天体を写した写真を大きく引き伸ばして並べ、天井を埋め尽くしている。
 写真なのに星座をつくる星の煌めきは本物のように見える。
 ……良く撮れてる写真だなぁ……
 星座の星一つ一つにダイヤモンドが埋め込まれてることを、ミルクはこの先も気付かないだろう。
 小さくあくびをすると、手足を思い切り伸ばした。

 シャワーを浴びたマサトに続いて、ミルクも浴室へ向かった。
 香りのいい入浴剤がもう入れてあり、浴室は薔薇の薫りに満ちていた。
 しかも、湯面には薔薇の花びらが浮いている。
 リビングに飾ってあった薔薇から一輪摘み取ってきたのだろうか。
 ここまでして貰えると、一人での入浴も楽しくなる。
「…ルッルルッルルゥ〜……」
 ミルクは鼻歌まじりにお湯に浸り、肌を磨いた。

 桜色に上気した肌にバスタオルを巻いて、ミルクがリビングフロアに出てくると、
「――ダメだ、ダメだ!」
と、マサトの大きな声が迎える。
 ビクッ、とミルクが足を止めると、
「――そんなちぃせぇホテルじゃ招待客が入りきれねぇだろ!」
と、怒ってはいないが、元気が良すぎる声が続く。
 ……招待客って……
「――海外からの招待客の方が多くなるかも知れねぇし、スィートの数が少ない所は役に立たねぇぜ。」
 ……何だろぉ?
 今度はどんな大きな仕事を始めるんだろう、と他人事に思いながらキッチンから冷えたウーロン茶を取ってくる。
「――いや。発表はギリギリまで出来ねぇ。」
 マサトはまだ電話を続けている。
 ミルクはマサトの向かい側のソファーに座って、ペットボトルのウーロン茶を…コクッ、コクッ、…と飲む。
 携帯を耳に当てたマサトが手を伸ばし、俺にもくれ、と指を動かす。
 ミルクが飲みかけを渡すと、一気に半分以上飲まれてしまった。
「…ぁぅ……」
 ミルクがペットボトルを取り返そうと体を伸ばすのを、片目を眇めて見ながら、もう一口飲んでミルクに渡す。
「――箝口令を敷け!・・・ミルクが向こうの家にいる間は騒ぎを押さえたい。」
 ……ほぇ?
 ……ミルのこと?
 ミルクは大きな目を瞬きしながらウーロン茶を飲む。
「――披露宴だけでいいんだから、偽の会議でもでっち上げときゃいいだろ?――ああ。」
 口の中のウーロン茶を噴きそうになり、バスタオルをつかんで口元を押さえた為、ハラリと解けて全裸を晒してしまう。
 何かを言いかけていたマサトが口を開けたまま止まり、直後、ニヤリ、と笑って、
「誘ってるのかぁ?・・・んー?」
と、眉を上げる。
「――お前じゃねぇ。――ミルクがストリッ・・プ・・・」
 何を言い出すのかと焦ったミルクは、センターテーブルを乗り越えて、バスタオルでマサトの顔を覆った。
「うわッ・・・わかった、わかった。悪かったって。」
 マサトはミルクの裸の腰に腕を回して引き寄せ、バスローブを羽織っている膝に抱きかかえた。
「――いや、だから、こっちのことだって。だからだな・・ホテルだけは早く確保しろ。引き出物やら招待客名簿はそれからだ。――ああ。さっき言った通り、郷での式は身内だけにしねぇとな。――後は・・またにしよう。じゃ、頼んだぞ。」
 マサトは通話を切って、携帯をテーブルに放ると、
「んー・・・美味そうな匂いだぜ。」
と、ミルクの肌に唇を滑らせていく。
 ミルクを抱いている手も背中や脇腹を撫で回す。
 首筋にキスをして、喉から顎へとキスを繰り返して唇まで辿り着いたマサトは、ミルクの拗ねた顔にようやく気付いた。
「・・・まだ怒ってんのかよ?」
「……だってぇ……」
「景山だって冗談だって、わかってるさ。」
「……冗談でもいやぁ……」
「はいはい。」
 マサトは苦笑して、多少強引に熱いキスでミルクの文句ごと絡め取る。
 舌を絡め合わせる内に、次第に座り心地が悪くなり、ミルクはモゾモゾとお尻を移動させた。
「…………ぁ……」
 マサトの元気な蛇が、ミルクの太腿の間から顔を覗かせる。
 真っ白い肌から覗く真っ赤な蛇頭。
 ミルクは指先で、ツンツン、とつついた。
「ククッ。・・・本気で誘ってるのか?」
 マサトがミルクの頬を唇でくすぐるように擦り、喉を震わせて笑う。
 せっかく香りのいいお風呂でサッパリしてきたばかりなのだ。
 しかも熱い夜の名残は、まだ股間を疼かせている。
「…服着てくるぅ。」
 ミルクは立ち上がってバスタオルをもう一度巻き直した。

 ザックリと編んだ白いモヘアのツーピースは、軽くて衿回りが大きく開いている。
 春を意識した装いは、部屋の雰囲気も明るくする。
 白いレースのエプロンを掛け、簡単に作った朝食をキッチンテーブルに並べていると、空色のワイシャツを着たマサトがネクタイを締めながら入ってくる。
 取り敢えず食事を済ませて、映画でも観に行こう、と予定を立てた。
「いい匂いだな。」
 上着を隣りのイスに無造作に掛けて、イスに座る。
「簡単なものだけどぉ…フフッ。」
 ミルクもエプロンを掛けたまま向かい側に座る。
「・・じゃ、頂こうか。」
「いただきまぁーす。」
 箸を手にしたミルクがにっこり笑う。
 マサトも目を細めて応える。
 何となく新婚夫婦の朝の光景にも見える。
 お互いがそれを意識しているのか、妙に口数少なく食事を始めた。

 けれど、途中で、
「あッ!」
と、ミルクが叫んだ。
 マサトは怪訝な顔で、
「あ?」
と、返す。
「…マサト…さっきの電話って……」
「ああ。結婚が決まった以上、色々な準備を急がねぇとな。」
「…決まったって言ったって……まだ先のことでしょう?」
「披露宴は・・ホテル次第だが、連休頃がいいだろう。」
「……連休って……5月のぉ?!」
「まぁ、日本のホテルが無理なら外国で探せばいいし、ヘタに騒ぎが起こる前に、一緒に暮らせるようにした方がいいだろ?」
 ミルクは返答に困って眉を寄せる。
「何を今更躊躇してんだよ。約束撤回なんて聞かねぇぜ?」
「……だってぇ……赤ちゃん産まれるのは夏休みくらいだって……」
「そんなギリギリになって結婚式に母親を出席させる気か?」
「……ぁ…そっか……」
「向こうの夫婦だって内装替えたり色々な準備があるだろうし、俺達が早く落ち着けば安心出来るだろ?」
「……ぅん……」
「こっちも落ち着けば、手伝いに行けるじゃねぇか?」
「……ぅん。」
「ってことだ。いいな?」
「…ぅん。」
 反論の余地がない。
 ミルクはこんな急展開すると思ってもいなかったので、マサトの言う通りだと思っても現実味が湧かなかった。
 ……何か…大変なことになっちゃったぁ……
 ミルクは小さく溜息を吐いた。

 食事の後、ミルクはリビングのソファーで、クッションを胸に抱いて横になっていた。
 ……結婚かぁ……
 一緒に暮らす、といっても二人きりになれる時間は少ないだろう。
 今し方のような光景は現実にはないことくらい、ミルクにもわかっている。
 マサトと結婚するということは、組織に組み込まれるのと同じ。
 すでに立場的にはそうなのかも知れなかったが、意識するのはマサトといる時くらいで、家や学園で家族や友達といる時は、マサトの周辺は別世界のように感じていた。
 ……やっていけるかなぁ……
 ミルクは浮かない顔で溜息を吐く。
「おいおい。今からマリッジブルーか?」
「…ぇ…マリ……って?」
「結婚した後の生活を不安に感じ出して憂鬱になっちまう精神状態のことを言うんだぜ。」
「……ふーん……」
 マサトは濃紺に細いストライプが入った上着を、前を止めずに着ている。
「まぁ、そう心配するな。俺を信じろ。」
「……ぅん……」
 向かい側に足を開き気味に座り、膝に肘をついて煙草を吸う姿は、とても堅気に見えない。
 昼の仕事では明るめの無地のスーツが多く、地下アジトではレザースーツや暗い色のストライプ物が多い。
 バイクで出回る時はライダースーツ。
 露店を出す時はボロジーンズにスタジャン。
 TPOに合わせて服を選び楽しんでいる。
 スーツでもシルバーアクセサリーをつけてしまう感覚は、おしゃれなのか・・・内なる力を制御する為の封印か・・・。
 ミルクがぼんやり眺めていると、
「・・・出掛けねぇのか?」
と、少し乱暴に煙草を灰皿で消した。
「……映画より遊園地がいい……」
「プッ・・・なら、それでいいから。・・行こうぜ?」
「…ぅん。」
 ミルクは、よいしょ、と体を起こした。
 クッションをソファーに戻して席を立った時、マサトの携帯が鳴る。
 マサトは舌打ちして、
「――何だ?」
と、呼び出しに応じる。
「――あ?――――あーーーーーッ?!・・・わかった、すぐ行く。」
 ミルクは溜息を吐いて、またソファーに座り直す。
「ミルクも来い。」
 マサトはミルクの手首をつかみ、強引に立たせて玄関に急いだ。


 マサトのフェラーリが向かった先は地下アジト。
 入り口のガードがいつもより厚い。
 苛立ちをハンドルを叩く指先でどうにか間を持たせ、通り抜け出来るようになった途端に発進して、そのまま奥へと進む。
 人だかりが輪になっているギリギリで、車を停車した。
 集まっているのは皆組織員達なので、マサトの姿に即座に道を空ける。
 ミルクは手を握られて、大股で歩くマサトに引っぱられ、前のめりに付いていく。

 人だかりの中央に丸くスペースが出来ていて、クレーン車が中央に据えられていた。
 クレーン車から少し離れた場所で、戒が仁王立ちに腕組みをして、上を睨み上げている。
「戒。何があったって?」
 マサトが歩み寄りながら、上を見上げる。
「あぁ、ボスもお出でになられましたか。」
 戒の声は表情とはうって変わって、楽しそうな猫なで声である。
「悪戯好きな大ねずみを捕らえましたので、少し懲らしめを・・・と。」
 フフン、と口の端を引き上げた笑みには、ゾクリ、とする冷たさがある。
 ……大きなネズミ……って…カピパラ?!
 ミルクもクレーン車の伸ばされた柄の先を見上げた。
 高層ビル建築にでも使うようなクレーン車の先は、目眩がしそうなほど上空にある。
 と・・・黒い塊が動いている。
 ミルクは額に手を翳して眩しい光を避けながら目を凝らす。
 ……え?!
 ……人じゃん!!
「ボムとスナイパーが、入り口を通らずに潜入しようとしましたのを部下が見つけまして・・・捕縛致しました。」
「チッ!・・・アイツ等、また何かしでかす気でいたのか?!」
 マサトが上を向いた状態で顔をしかめた。
 以前、二人が派手にアジトとボイラーを破壊したのを、ミルクも忘れていない。
「責任者と参考人はそこに。」
 そう戒に言われてマサトが視線を地上に戻すと、銃を突き付けられた若林とドルフィンに加え、今回はワードと星野までいる。

 マサトと、それにミルクの姿もあることで安心したのか、急に涙を潤ませた星野が、
「ボスッ!・・自分・・いえ、コウメイ副隊長は無実ですッ!」
と訴えた。
「シッ!黙ってろッ!」
 若林が厳しく睨んで星野を黙らせ、
「キラー将軍も釈明のチャンスは与えてくださる。・・だが、今はその時ではない。いいな?」
と、星野だけでなく他のメンバーにも諭すように言ってから、
「部下が出過ぎたことを申しました。申し訳ありませんッ!」
と、戒に向かって、キチッとした敬礼をした。
 戒は射殺しそうな視線を星野に向けていたが、若林のセリフに忌々しそうな顔で眉を吊り上げた。
「戒。事情くれぇ聞いてやれ。・・・まさか、また同じような爆発を起こすようなことはしねぇだろ。何で潜入めかしたことをしたのか、な。」
「・・・わかりました。」
 戒は面白くなさげに答えると、下の四人を横並びにし、
「一人ずつ、一歩前に出て精々巧い弁解をしてみろ。」
と、抑揚のない冷たい声で命令した。
 まず、若林が銃口に背中を押されて一歩前に出る。
 若林は直立不動に敬礼し、
「一切の弁解の余地はありません。部下の不祥事は上官たる私の監督不行届。いかようにも処罰を受けさせて頂きます。」
とだけ言って、後ろに下がった。
 戒は苦虫を噛み潰した顔で歯軋りをする。
 若林は副隊長なのだ。
 SSSの最高責任者と言えば、隊長であるマサトだろう。
 そこまで責任を追及しないとなれば、当然若林にも責任は言及出来ない。
 全て承知した上での若林の恭順な態度は、むしろふてぶてしくさえ感じてしまう戒だったが、気に入らない、という理由では処罰出来ない。
「次ッ!ドルフィン!お前はいつもつるんでいる仲間だろう?えッ!」
 戒が苛立ちをドルフィンにぶつける。
「キラー将軍・・・私は将軍がいらっしゃるとお聞きして、是非、私の演奏をお聞き頂こうと”ラ・カンパネラ”の練習に没頭しておりました。共に帰国したと申しましても、その後の行動は別々ですので・・・彼等が何をしようとしたのか、存知ません。」
 甘く誘うような声音。
 戒の頬が微妙に綻ぶ。
「そうか。わかった。”ラ・カンパネラ”・・・楽しみにしているぞ。」
「ありがとうございます。」
 ドルフィンは指先にまで色気を漂わせて敬礼し、元の位置に戻った。
 ワードは、
「まったく騒ぎ好きな困った連中です。どうかキラー将軍閣下直々にキツーイお仕置きをお願い致します。」
と、平然と言ってのけ敬礼する。
「確かに、ワードが荷担しようもないな。よし、下がれ。」
「はッ!」
 ワードが後ろに下がって、ようやく敬礼の手を下ろす。
「・・・で、次は・・・お前だな。」
 戒の声が一段と低く響く。
 ビクッ、とした星野が一歩前に出ようとした時、若林が星野の前に姿を隠してやるように立った。
「この者は、まだ未熟。キラー将軍の教えを頂くほどの者ではありませんので、私から懇々と説教しておきます。先ほどの失礼はどうかご容赦のほどを願います。」
 戒は若林を睨みつけ、
「相変わらず部下に甘い奴だな。・・・その甘さがボスの足を引っ張ることがないといいが・・・」
と、嫌味たっぷりと言う。
「有り難きご指導に感謝致します。キラー将軍のお言葉を肝に銘じ、日々の精進に務めます。」
 若林はさっきと変わらぬ真摯な態度で、再び敬礼して答えた。
 戒は舌打ちをして、
「コイツ等は離していい。」
と、キラー部隊の部下に命令した。

「さて。上の二人だが・・・」
 と、戒が呟いた時、
「アイツ等が単独で過激な行動を取ることはないぜ。大抵、裏に策士あっての暴走だからな。・・・ちょっとした悪戯をする気だったんだろう。クククッ。」
と、マサトが弁護してやった。
「悪戯にも悪質で許せないものもあるでしょう?」
「ククッ。性格が単純な奴等には単純な悪戯しか思いつかねぇぜ?」
「・・・では、聞いてみましょう。」
 戒はクレーン車を操縦している部下に指示して、声が届く位置まで、吊しているロープを下げさせた。
「ボスぅーーッ!誤解なんだぁーーッ!」
 足をバタつかせてスナイパーが叫ぶ。
「俺達はーーアリス姫の部屋に・・・気付かれねぇように、ぬいぐるみを置きたかっただけなんだぁーーッ!」
 ボムが野太い声で吠える。
 二人は背中合わせにロープで括られ、胴回りを腕ごと一緒にグルグル巻きにされている。
「ぬいぐるみ?」
 マサトが戒に視線を戻すと、
「・・・これでしょうかね?」
と、部下が差し出したボロボロに千切れたぬいぐるみを指差した。
 ピンクの大きなウサギが耳まで裂かれている。
 ミルクは口を両手で覆って目を丸くした。
「アリス姫。仕方がないのですよ。爆発物でも隠されていては困りますからね。・・あるいは盗聴器とか・・・」
 戒の説明にマサトも納得顔で、
「・・で、何か出たのか?」
と聞く。
「いえ。何も。」
「そうか。・・・なら、本当にそれだけの意味だったんだろう。」
「ですが、このような悪戯を見逃せば、そのままアリス姫の危険に繋がります。」
「確かにな。・・・そうゆう裏を考えられない所がコイツ等の単純さ、なんだが・・・」
「他の者達が真似をしても困りますし、そうした風潮が定着して、逆賊に利用されかねません。ここは厳しい処罰を与えるべきでしょう。」
 戒の進言にマサトは腕組みをして表情を曇らせる。
 マサトだけなら戒の好きにさせたかも知れない。
 が、ミルクの目の前では、あまり厳しい制裁は見せたくなかった。
「・・・今回は許してやれ。」
 戒は一瞬、信じられない、といった表情をしたが、グッ、と口を引き結んでから、
「承知しました。」
と、頭を下げた。

 戒の指示でクレーン車がゆっくりとロープを下げていく。
 吊された二人に安堵の表情が浮かぶ。
 ・・・と・・・ガクンッ、と嫌な音がしてロープが止まる。
 後数メートルという距離だった。
 マサトは、戒の命令だろうか、と操縦席を見るが、操縦している戒の部下にも止まった理由が判らないようで焦ってあれこれ試している。
 試す内にどのレバーに触れたのか、ロープが物凄い勢いで巻き戻っていく。
「ウッワァーーーッ・・・」
「何じゃこりゃぁぁーーーッ・・・」
 叫ぶ二人の声が、高く遠ざかっていく。
 マサトがクレーン車に駆け上り、部下を引きずり下ろして、自分で操作を始める。
 だが、マサトの操作にも機械が反応しない。
 そうこうする内に、二人はクレーンの先の一番上まで引き上げられてしまった。
 全ての者が上を見上げて見守っている中、
 ガクンッ!
 と、柄の先が揺れた途端、一気に二人が落下してきた。
「グワァァァーーーッ!」
「バカヤロォォーーーッ!」
 再び二人のわめき声が近付いてくる。
 マサトは手の施しようがないクレーン車の操縦席で、呆れ顔に頬杖をついている。
 が、ハタッ、と気付いて操縦席から降りると、ミルクに駆け寄った。

 ブラ〜ン・・・ブラ〜ン・・・
 地上数メートルで二人が揺れている。
 恐怖に顔を引き攣らせたボムとスナイパーは、まだ体の硬直が解けないままに揺られている。
 皆が呆気に取られている中、
「メンテぇぇぇーーッ!てめぇ!出て来ぉぉーーーいッ!!」
と、マサトが怒声で叫んだ。
 それまで落ちてきた二人に視線が釘付けになっていた人々が、叫んだマサトに視線を向けた。
 そこにはグッタリと気絶しているミルクを抱いている、怒りの覇王がいた。
 人影から、気まずそうなメンテが姿を現した。
「てめぇ・・・戒に荷担したなッ?!」
 怒りのオーラを滾らせるマサトに、
「・・・申し訳ありません。・・・この所、二人の行き過ぎには手を焼いておりましたので・・・」
と、人の良さそうな顔を苦渋に歪めて答えた。
 マサトは、
「・・・ったく、・・・俺ぐらいには報告してからにしろッ。」
と、多少トーンを下げて言うと、
「戒ッ。・・・二度とミルクにこんなシーンを見せるなッ。」
と、睨みつけてから、やれやれ、と言いたげに首を振って、ミルクを地下アジトの部屋へと抱えて行ってしまった。
 戒も気遣わしげに顔を青ざめさせ、敬礼してマサトの後ろ姿を見送った。

 集まっていた人々も、驚き過ぎて気が抜けたような表情で、それぞれの場所へと戻っていく。
 若林も星野の肩に手を乗せて、立ち去ろうとしていた。
「コウメイ副隊長ぉーッ!」
「俺達を忘れねぇでくれぇーーッ!」
 まだ吊されて取り残されているボムとスナイパーが、情けない声で助けを求める。
 若林は、チラッ、と振り返り、
「・・・お前ぇ等・・・夜までそこで反省してろ。」
と言って片頬で笑い、背中を向けた後ろ手に手を振り、何事かを星野の耳元で囁いて、クックックッ、と笑いを洩らした。
 星野はうつむきがちに、黙って緊張した顔で歩いている。
 この状況で笑いをもらせる度胸は、まだなかった。

 夜、ドルフィンの演奏会が開かれた。
 まだ吊されているボムとスナイパーは、おぼろ月を眺めながら、微かに聞こえるピアノの調べに・・・
 空腹で鳴る腹の虫で協奏していた。