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<81>
「ブタのシッポ」
§81§「ブタのシッポ」

「ねぇねぇ…ドリーは一緒に連れていけないのぉ?」
 荷造りしている途中で、足にじゃれついてきた子犬のドリーを抱き上げたミルクが、柔らかな毛並みの耳をクシャクシャと撫でながら聞いた。
「生き物だから座席も別だし、一応検閲を通らないと海外へは出られないからな。」
 マサトはミルクを手伝って、ミルクが”自分の部屋”の中で選んだ持っていく物を、スーツケースに詰めている。
 衣類はすでにメイドが、景山からの指示で滞在に必要と思われる分を、別の衣装ケースに納めてあった。
「…ぇー……じゃぁ、ミルぅ…行きたくなぁーぃ……」
「半日か一日遅れる程度じゃねぇか。向こうへ行けばずっと一緒にいれるんだ。心配ねぇよ。」
 新婚旅行を兼ねた欧州滞在。
 ローランド伯爵の開く舞踏会はマサトとミルクの結婚をお祝いしてのものなので、欠席する訳にはいかなかった。
 それでも、社交界とは縁もなく育ったミルクには気が重い。
 賑やかで活発な友達グループでさえ入って行けないミルクには、社交界の煌びやかな世界は一生かかっても馴染めそうになかった。
「……ぁーぁ……行きたくなぁーぃ……」
 ミルクはドリーを抱っこしたままベッドに横になった。
 ミルクのお腹の上で、ミルクを踏んづけた気分のドリーは、得意そうにミルクの浮かない顔を覗き込んでいる。
 どうもドリーの中での順位が、マサト、戒、ドリー、ミルクになりつつあるようだった。
 戒に「ご機嫌取りをしたり、甘やかし過ぎてはいけません。」と言われていても、つい甘くなってしまうのが原因らしい。
 マサトはスーツケースの前であぐらをかき、
「だから・・・顔見せだけのことだ、って何度も言ってるだろ?コソコソ隠れてると、余計に変な噂を立てられるから、一度きっちり俺の妻という立場を見せておく方がいい、って。」
と、溜息まじりに説明する。
「……わかってるけどぉ……」
 唇を尖らせたミルクが、ドリーを抱え込んで横向きになると、ミルクの腕から抜け出したドリーが髪の毛にじゃれついてきた。
 髪飾りに縛っていたモヘアのボンボンに、ライバル心を持ったようだ。
 くわえて引っ張ることに夢中になって、ミルクの顔を踏みつける。
「…ぁんッ……ドリーッ……」
 パンパンッ!
「ハウスッ!」
 マサトが手を叩いて命令すると、ドリーは慌ててシッポを後ろ足の間に隠しながら、クッションが敷かれた籐篭の中に逃げ込んだ。
 そこが”自分の部屋”でのドリーのポジションだった。

 ドリーをベッド脇の籐篭に追いやったマサトは、絨毯から立ち上がり、ミルクの所まで歩いていった。
 ミルクは乱れた髪のまま膨れっ面をしてベッドに横たわったままだ。
 マサトはミルクのすぐ横に腰を下ろすと、
「やれやれ。へそ曲がりの奥様に機嫌を直して貰うにはどうしたものかな・・・」
と、優しく笑みを浮かべて言ってから、ミルクの背中に添うように横になり、抱いた肩越しに脹らんだ頬にキスをした。
 それから乱れた髪を一度髪飾りを解いてから直してやり、
「いくら可愛いからって、顔の上で動物をじゃらすなよ?夢中になってる時は判断がつかなくなるものだ。万一目でも踏まれたら大変だろうが?そうでなくても顔に傷が付いたら、痕になっちまうぞ。」
と、サラサラの髪を指で梳いた。
「お前を守る為なら、俺はお前の大切なものだろうと容赦しねぇ。お前はお前であっても、俺自身でもあるんだぜ?」
「……ミルはマサトにはなれないよ……」
「俺になるんじゃねぇ。お前という存在があって、俺は俺という完全な円を描けるのさ。」
 円と言われてミルクはスイカを思い浮かべる。
 ……大きなスイカ……
 ……いっぱいの種が組織の人達?
 ……じゃぁ、ミルは……クルンと付いてるヘッタ?
 ふと思いついただけのイメージなのに、あの干涸らびて情けなく付いているツルのポジションが、妙に自分の置かれた状況を言い当てているようで、ミルクは益々凹んでしまう。
「……ブタさんのシッポ……」
 マサトの顔の前で人差し指をクルリと一周させて言う。
「・・・・・あ?」
 いきなりそう言われてもわからない。
「……スイカのヘッタってぇ……ブタさんのシッポみたいだねぇ……」
 そう言われてようやく気付く。
 気付いただけマシだろう。
「・・・・・喰いてぇのか?・・・スイカ・・・」
 マサトは自分が”円”と言ったので、ミルクが”スイカ”をイメージしたのだと気付いたが、ここで理屈を続けても、今のミルクには意味がないと思え、話題を変えることにした。

「蛇窟島には、スイカに似た果物がもう実ってるだろうぜ。」
 ラグビーボールのような楕円形のフルーツで、欧米型のスイカのようだが、皮が黄色で実は乳白色という珍しい果実だった。
 甘みと香りが強く、去年の夏にミルクも初めて味わって以来ファンになっていた。
「ジャックィーン?」
「ピンポーン。正解。」
「もう熟してる?」
「ああ、出来の早いのはもう食べ頃だろう。」
「…ぁぁ……食べたぁーぃ……」
 ミルクが唾液を飲み込むのをマサトが笑って、
「パパイヤ、マンゴー、パイナップル、スィーティー、グァバ、・・・」
と、一層煽る。
「ぁ〜ん……食べる、食べるぅ〜…」
 果物さえあれば毎日三食それだけでもいい、と思うくらいに果物好きなミルクは、急に元気が出てきたようだ。
 ベッドから起き上がると、
「急いで支度しなきゃ。」
と、再び荷造りを始めた。
 パリへの滞在の他に、蛇窟島にも立ち寄ることになっていた。
 10日か2週間程度の旅程だが、舞踏会の日程以外は、まだはっきりとした予定が組んでない。
 蛇窟島でゆっくり出来るなら、ミルクにも楽しみだった。

「…ねぇ…ミルミルは元気にしてるかなぁ?」
 どうにかスーツケースの蓋を閉じたミルクは、”自分の部屋”を見回し、忘れ物がないかを確認する。
 ぬいぐるみが並ぶ棚から蛇のぬいぐるみを抱き上げ、持っていこうかと迷っていると、ドリーが揺れる長い胴体をじっと狙うように見つめていた。
 まだマサトのお許しがないので、籐篭から出られずにいるが、OKが出れば真っ先に噛みつきそうである。
 ミルクは持っていくのを諦め、蛇のぬいぐるみを棚に戻した。
「ミルクと同じでフルーツが気に入ったそうだぜ。多少、コロッとしたかもな。クックッ。」
 マサトはスーツケースをドアの外で待機していたガードに渡した。
「身長はぁ?」
「どうかな・・・あまり大きくならない種類だから代わり映えしねぇと思うが・・・」
 ミルクはミルミルを思い出しながら頷いたが、
「…蛇神様の息子さんってぇ…どれくらいの大きさなのぉ?」
と気になっていたことを聞いてみた。
「まだ5m程度だろう。」
「……蛇神様って…10m以上あるもんねぇ……」
「まぁ、アイツは特別大きいみてぇだがな。」
「…ふーん……でもぉ…5mってぇ……ミルミルは50cmないくらいじゃん?…どうして結婚出来たんだろぉ?」
「・・・特殊な種類だからなぁ・・・蛇神も・・・」
「……赤ちゃん、産める?」
「大丈夫だろ。赤ん坊自体は小せぇらしいし・・・あそこまで大きくなれるのは、蛇神種でもホンの一部らしいからな。」
「……そーなんだぁ……」
 何だかマサトの覇羅蛇一族の話を聞いてる気がしてくる。
 覇羅蛇一族でも、マサトほど卓越した存在は希有だ、と景山が話していたことがある。
 となると、ミルクはミルミルと同じようなものかも知れない。
 ……細くて小さな……クルリと丸くなる……
「……やっぱ…ブタさんのシッポだ……」
 ミルクがまたイジケたように呟いたので、
「なんならブタの丸焼きでも食うか?」
と、マサトは戒のように片眉を聳やかした。
「ブタのケツをシッポつけたまま丸焼きで出すように言っておこう。」
「あー……ダメダメぇーッ……そんなの食べれないよぉーッ!」
 ミルクが怒ってマサトに突進し、胸を目掛けて頭突きする。
「アハハハッ。冗談に決まってんだろ。」
 マサトはやんわりと受け止め、そのままベッドに倒れ込んだ。
 ミルクがドリーにそうしたように、マサトはミルクを胸に抱きかかえている。
 が、すぐに反転してミルクに覆い被さると、キスで口を塞ぎ、飛び出しかけていた文句を封じた。

「時間ねぇし、このままでいいか・・・」
 そう言って、マサトはミルクのモヘアのスカートをたくし上げ、小さなショーツを一気に膝まで下げた。
「…ぁ……マ…」
 起き上がろうとするミルクをキスで押さえつけ、ショーツからミルクの足を引き抜く。
「……ンーッ……」
 ミルクが足を揃えて閉じようとするのを強引に膝で割り込み、ズボンの前を開ける。
 キスをしたまま唇を離さず、巧みな指使いで花園を押し開き、花弁を弄んで蜜を誘う。
「、、、ン、、、ンァ、、、アフッ、、、、、」
 息苦しさに首を振るミルクがようやくマサトから顔を離した時には、溢れ出てきた蜜に誘われてマサトの蛇が頭をグリグリと押し込もうとしていた。
 翻弄された花弁から全身に甘い疼きが広がってしまっている。
 ここまできてしまうと、ミルクには体が自由になっても逆らえなかった。
「、、ンン、、、、、ぁッ、、、、、あぁん、、、、、」
 グッ、と体重を乗せて押し込まれた蛇頭が膣壁を押し広げる。
 グイグイグイ、、と波打つように前後しながら奥へと侵入していく。
 ジュワァーーンッ、、、と熱い快感が全身を駆け巡る。
「、、ぁぁ、、、ハッ、、ハゥッ、、、ぁぁぁ、、、、、」
 顔を仰け反らせ、ミルクは快感の虜となっていく。
 ドアの外でガードが聞いていようと、すぐにメイドが支度を手伝う為に来ることになっていようと、もう抗いようのない快感の渦に引き込まれていた。

 モヘアのセーターをブラジャーごと首もとまで押し上げられ、剥き出された丸くふくよかな胸を痛いほど揉まれる。
 絶え間なく続く愛撫で赤味を増している乳首をこね回され、
「あぁぁぁぁぁーーっっっ、、、、、」
と、我慢していたよがり声をあげてしまう。
 ズッチュッ、、ズッチュッ、、ズッチュッ、、、と続くピストン運動と、感じやすい胸への愛撫で、思考回路がショートしている。
「・・・はぁぁ・・・いいぜ・・・最高だ・・・」
 ズボンのベルトをカチャカチャ鳴らしながら、腰を振るマサトの額に、汗が滲んでくる。
「・・・若林が言ってだぜ。・・・奥へ・・奥へと吸い込まれるスパイラル感は・・ハァハァ・・テクニックを身に着けても絶対ぇ出来ねぇ天性のものだとさ・・・」
「、、、、、ぃゃぁぁ、、、、、」
 そんな余計なことを言って欲しくない。
 いくら悪友でもベッドでのことまで打ち明けられるのだろうか……
 ミルクの脳裏に、チリッ、と嫌悪感が走ったが、すぐに甘い陶酔に掻き消された。
 霞む視界にはマサトの揺れる前髪がぼんやりと映る。
 ミルクは目を閉じ、大きく背中を浮かせて激しく打ち寄せる大波のエクスタシーに、身も心も投げ出した。

 マサトのフィニッシュの雄叫びを、ミルクは虹色の夢世界で聞いた。
 多分、ミルク自身も叫んでいた気がする。
 耳の中でドクドクドクと早い鼓動を聞いている。
 股間を熱いものが流れ出す。
 ミルクを一杯に満たしても、止まることなく注がれ続けたマサトのスペルマが、溢れてくるのだ。
 獣じみた野性の匂いが陶酔から醒めきらないミルクの鼻孔を刺激する。
 マサトはミルクの股間を拭いて、簡単に服を元に戻して労るようにキスをした。
「可愛すぎて我慢出来なくなっちまうんだ。・・・愛してるぜ。」
「……ぅん……」
 怒ることも出来ず、ミルクは小さく溜息を吐いた。
「外でメイドが待ってるみてぇだから、ちょっと怠くて辛いかも知れねぇが、出掛ける支度をしてくれ。」
 マサトはミルクの額にキスをしてから、ベッドから起き上がり部屋を出ていった。
 入れ違いのようにメイドが入ってくる。
 まだ息も整わないミルクは、顔の火照りを見られるのが恥ずかしくて、うつむきがちに着替えを始めた。


 今回の渡欧では戒が同行し、景山は舞踏会だけに間に合うように後から出発することになっていた。
 結婚式に出席したSSSも昨夜の内に日本を発った者や、しばらく日本に残る者などそれぞれだった。
 もっともSSSのメンバーが揃って同じ飛行機で移動することは滅多にない。
 大体が現地集合で、その日時さえ間違えなければその間の行動は自由だった。
 しかも今回はマサト達に戒が同行するとあって、SSSのほとんどは同行を避けていた。
 それで、マサトと同じ便に搭乗するのは、ミルク、戒、若松、戒の部下数名という顔ぶれだったが、何故か若林も付き合っていた。

「……何で若林さんも一緒なのぉ?」
 さっきのマサトのセリフを思い出したミルクが、目を眇めて訪ねると、若林はキョトンとした顔で、
「パリは私の職場なので、途中までご同行するだけですが?」
と、聞かれる理由がわからない、とばかりにマサトに視線を向けた。
 マサトにも見当が付かず、さあな、と肩を竦めてみせ、搭乗までの待ち時間を潰そうと空港で売っていた新聞を読み始めた。
 戒はドリーを海外に持ち出す手続きに行って、まだ戻って来ない。
 若松は神経をピリピリさせて周囲を警戒していて、返事を返しそうにない。
 若林はどうもミルクの視線や態度が、自分に対して不機嫌なのが気になって、顎に指を当てて撫でながら考えていたが、
「アリス姫。まだ時間がありますから、空港のおもちゃでも買って差し上げましょうか?」
と、機嫌を取ろうとした。
 ミルクはムスッとそっぽを向く。
 おもちゃに興味がない訳じゃないが、今はそんな気分にはなれなかった。
 若林はギクッとし、
「あ・・・では、お菓子とか機内用に買いましょうか?・・・けっこう退屈するでしょうから・・・」
と、子供をあやすように言う。
 するとミルクは背中に背負っていたリュックから、シャキーン!と黄門様の印籠のようにGボーイを取り出して見せた。
 これさえあれば、一週間密室に監禁されても退屈しない、と言われる必殺アイテムだ。
「ハ・・ハハハ・・・」
 笑いが固まり、若林は気まずそうに顎を殊更撫でる。

 ミルクはGボーイを出したついでにゲームを始めてしまったので、話し掛ける切っ掛けもなくなった若林はマサトの横に並んで座り、
「会長・・・姫様は何で機嫌が悪いんです?」
と、小声で囁いた。
「・・・ん?・・・悪いか?」
 マサトは気にする風でもなく新聞に目を通している。
「・・いや・・・どーも・・・俺だけに風当たりが強いような・・・」
 若林がマサトと頭が付くほど接近してヒソヒソと囁いていると、
「若林さん。またエッチな話してない?」
と、いきなり二人の後ろから声が掛かった。
 まったく気配を感じてなかった若林は、本気で驚いて振り返った。
 Gボーイを始めたはずのミルクの顔が間近で睨んでいるのだ。
 若林は唖然と言葉を無くした。
 どんな時でも無意識にも背後の気配は警戒しているのが常となっているSSS。
 これほど不意を付かれるのはいつ以来だろう、と思い返しても浮かばないほどだった。
「・・・え・・・エッチって・・・?」
 いつまでも驚いていても仕方がないので、質問の意味を尋ねる。
 と、マサトがやっとミルクの質問と不機嫌な理由に思い当たり、新聞に顔を隠して笑い出す。
 そして、ミルクと若林の不審な視線の中、どうにか笑いを納めると、
「ミルク。それは誤解だ。俺も若林もミルクのことでそーゆー話をしたんじゃないぜ。」
と、説明した。
 ……ってことはぁ……
 ……男同士って、全然関係なくてもそうした話題で盛り上がるのぉ?
「……やっぱエッチじゃん。」
 ミルクは今度はマサトも目を眇めて睨み、プン、と頬を膨らませてそっぽを向くと、離れた席に行って座った。

 取り残された男二人。
「・・・エッチ?」
「・・・・・エッチらしいな。」
「・・・まぁ・・・確かに・・・」
「俺は違うぞ。」
「・・・と言うより・・・背後をつかれて、冷や汗をかきましたよ。」
「・・・・・だろう?・・・俺も慣れるまではビビッたぜ。」
「・・・会長も?!」
 若林は信じられないとばかりに目を見張ってから、片手で顔を覆いクスクス笑い出した。
「・・・・・フン。」
「いえ。素晴らしい姫君だと感心したのです。・・今後は不用意な会話は充分注意することにしますよ。」
「そうしてくれ。」
 マサトは小さく溜息を吐き、また新聞に目を落とした。

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「伯爵邸」
§82§「伯爵邸」

 パリ郊外のローランド伯爵邸。
 空港に迎えにきたロールスロイスが、豪奢な門を抜けた時からテーマパークでも見るような気持ちになっていた。
 噴水のある美しい庭園の奥に、ロココ調の重厚かつエレガントな邸宅が聳えている。
 高層ビルほどの高さはないが、個人の邸宅としては見上げてしまう高さに感心せずにはいられない。
 貴族の称号が名前に付いているだけに、かつて領地だった地方にお城を持っていると聞いても納得出来るが、世界的大都市のパリ近郊で、これだけの屋敷をかまえられるのは数少ないだろう。
 パリ市街のアパートは、ランクが上の物件は、年間家賃が1億円を越えるものもあると聞く。
 パリに住むというステータスは東京以上に厳しいらしい。
 それを近郊とは言え、これだけの屋敷に住んでいるのだから、ローランド伯爵は相当な大富豪なのだろう。
 『鉱石王』と呼ばれる由縁は確かにあった。

 しかも案内された屋敷内部もまた、豪華なロココ調で統一されており、そのまま美術館を開けそうなほどの芸術品や調度品が飾られている。
 高い天井をグルリと見回すと目眩を起こしそうになる。
 1,2階は大きなシャンデリアを下げても邪魔にならないように設計されているせいなのか、3階より上の室内に比べ天上が高く造られているらしいが、玄関ホールの天井画の見事さといい、柱や梁の細かい彫刻など細部に渡り贅を尽くされている。
 息を飲んで眺め回し、感嘆の溜息しか出てこない。
 伯爵が、
「財力のある者が可能な範囲の贅沢をすることは、文明の発展と伝統文化の継承技術を保護育成することに繋がります。過去からの歴史を未来へ託すことが、私達王朝時代の生き残りの使命と思っております。」
と、穏やかに微笑んで言う。
 そう言う伯爵の一番の親友が、近代技術の最先端を駆使する産業の寵児であるマサトなのだから、奇妙な関係だった。
 もっとも、古代文明の貴重な絵画が最新鋭の技術で蘇ったというニュースもあるし、最先端科学で古代文明の謎も解かれようとしている今、そうした関係も不思議ではないのかも知れない。

 いずれにしてもミルクには無縁の世界のようで、豪華なサロンでお茶を頂く時にも、ふかふかの絨毯や数十万らしいカップを前にして、…零すなよぉ、落とすなよぉ…と心に念じながら味もわからない状態だった。
 今回のパリ滞在が伯爵邸になったのは、マサトの結婚式が欧州のメディアでも報道され、ホテルでは注目され過ぎて大変だろうから、という心遣いだったが、どちらも失敗が許されない環境には変わらず、緊張の連続となりそうだった。


 マサトとミルクの為に用意された客間は、スローイングルームのあるスィートのような部屋で、寝室には大きなKWベッドがあった。
 浴室には小さいながらもサウナやマッサージルームまであり、酔うほどに香りの強いお湯で体を磨いた後は、二人の女性美容部員が美顔から全身マッサージまでしてくれて、仕上げにネイルアートまで施してくれた。
『すぐにドレスをお召しになられますのでしたら、髪をセットアップ致しますが・・・』
と英語で言われたが、少しベッドで横になりたかったミルクは、
「ノーサンキュゥー。」
とだけ答え、一人にして貰った。
 仏語は皆目判らず、どうにか英語だけなら半分くらい意味を理解出来るミルクの為に、英語の話せる美容部員に来て貰ったようだが、仏語なまりがあるのか、結局身振り手振りを付けないとお互いに意志の疎通をはかることが出来なかった。
 二人の美容部員は、ミルクが伯爵邸に滞在中は、ずっと派遣されているらしい。
 ”郷に入っては郷に従え。”
 と言う諺は知っていても、気が重いミルクだった。

 一人になってベッドに横になっても、眠れそうにない。
 パリ到着が朝ということもあり、飛行機の中で直前まで寝ていたのだから無理もないが。
 マサトは空港から直接仕事に出掛けてしまい、戒も一度伯爵邸に来てから部下にガードの指示をすると外出してしまった。
 ガードは相変わらず必要な注意をする時以外は、声を掛けても短い返事をするだけなので話し相手にもならない。
 落ち着かない上に興奮と緊張のドキドキが続いているので、ゲームをする気分にもなれず、ミルクはベッドでぼんやり天井を眺めていた。
 ベッドマットはマサトの好みで固かったが、布団や枕はポプリ入りなのか、ふわふわでいい香に満ちている。
 さすがは香水が発達した文化を誇るお国柄だ。
 が・・・花の香りに包まれているのは嫌いではないが、こうも強い香りだと自然の空気に触れたくなる。
 ミルクは警報機がないかを確認し、そっと窓を開けてみた。

 肌寒い春の風が部屋に吹き込んでくる。
 窓の外は、玄関とは反対の南面の庭が広がっている。
 伯爵自慢のバラ園が東に美しい庭園模様を描いているが、客間の前方には何かの遊戯が出来そうな芝生が続いている。
 庭にはテニスコートもあると聞いていたが、ミルク達の客間からは見えないようだった。
 と、馬が芝の遙か向こうの塀近く、木立沿いの道をゆっくりと、男に手綱を引かれて歩いている姿が見えた。
 馬は覇羅蛇の郷にもマサトの愛馬がいたので、その愛馬に乗せて貰った時のことを思い出しながら眺めていた。
 マサトは覇羅蛇の村を案内して、「この郷と郷の人々を守るのが自分の使命だ。」と言った。
 森の奥深くに隠された神秘の滝や、郷を一望出来る小高い丘までの道を、今もつぶさに思い出すことが出来る。
 あの時の夢心地が今も続いているようで、ミルクは顔が火照ってくるのを感じていた。

 キィー・・・
 静かな音と共に南側の門が開いた。
 ミルクは、ハッ、と意識を現実に戻し、馬の姿を目で追った。
 調教の為の散歩なのだろうか。
 南門から並木通りへと続く道があった。
 並木通りの先には、小さな森林公園のような森があるようだ。
 ミルクは自分も散歩がしたくなって、ゆったりとした部屋着を着替えることにした。


 洗い晒しのサラサラの髪で、膝上丈の普通のワンピースを着ていると、ブックバンドでまとめた本を小脇に抱えているのが似合う、普通の高校生といった雰囲気だ。
 奥様でもお嬢様でも、まして姫君でもない恰好に、すれ違った屋敷の使用人は挨拶を忘れて唖然と見送ってしまう。
 散歩しやすいカジュアルなワンピースを選んだが、景山の見立てた服の一つなのだから、そう変ではないはずだったが、様々な噂が飛び交う主役には見えなかったのだろう。
 16歳のシンデレラに纏わるどんな噂が飛び交っているのかは、ミルク自身は知りようもない。

 客間から一番近い階段を降りると、小さなホールがあって、そこから南側の庭に出られるテラスがあった。
 テラスに設置されていたテーブルで、香りの良いコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたガードは、ミルクの姿に驚き、
「済みません。お休みされていると伺ってましたので。」
と、急いで側に来て頭を下げた。
「…ぅん。やっぱり寝てられないし、お散歩しようと思って。…今、馬が出て行ったでしょう?」
 ミルクは南門を指差して言った。
「あ、はい。・・ですが、外出は戒様が戻られてからになさってください。」
「……そぉなのぉ?」
 ミルクが咎めるように眉を寄せるが、戒の部下のガードは、
「お願い致します。」
と、顔色を変えずに淡々と答えた。
 ミルクは頬を膨らませて庭を見回し、
「じゃぁ、お庭の散歩ならいいでしょう?…見える範囲を歩くくらいだから、付いて来ないでね。」
と、諦めたように溜息を吐いて、テラスから芝生へと降りていった。
 ガードは迷っていたが、「なるべく主人の自由を奪わずにガードすべし。」との心得を言い渡されていたので、ミルクの言い分を聞いて元のイスに戻って座った。
 ただ、戒の説く心得には「プラス、絶対に危険がないように配慮すべし。」という項目が付くので、目は離さないようにしなければならない。

 それでもミルクは庭に出て開放感を感じたのか、両手を広げてクルクルと回ってみた。
 髪にも首筋にも風が通り抜けて気持ちいい。
 ガードの責任者が戒に替わってから、ガードに常に接近状態で後を付けられることもなくなったし、行動範囲も広がったのは、ミルクにとっても嬉しかった。
 マサトという行動を抑止出来ない覇王を少年期からガードしてきた戒にとって、ミルクは大人しい方だろう。
 戒は、力のバランスも心得ているようで、押さえ込んだり閉じ込めてしまうことが、結果として反発を引き起こすことも計算して、ゆとりを持って接するようにしてくれている。
 マサトという闇の覇王の人格形成に、景山兄弟が大きく影響していることは間違いない。
 持って生まれた才能と個性あってのマサトではあるが、景山兄弟なくして今のマサトはあり得ない、とミルクが実感することもしばしばだった。

 ミルクは馬が歩いてきた方に行ってみることにした。
 芝生の境にある背の高い植木を抜けると、テニスコートや馬場のある西面の庭に出る。
 馬場の奥には厩舎らしき建物があり、馬の鳴き声が聞こえた。
 自分では馬に乗れないミルクは、厩舎を覗くのをやめ、馬が歩いていた木立の道を辿ることにした。
 蹄鉄をした馬が歩きやすい滑らかな煉瓦の道が続く。
 社交界の貴婦人達なら、この木立の道を乗馬して散歩を楽しむのだろうか。
 膝小僧を剥き出しにして、頼りない細い足で同じ道を歩いてるミルクは、知らない世界に迷い込んでっしまったような心細さを感じていた。
 足元ばかりを見つめながら歩いていたので、いつの間にか、馬が外へ散歩に出ていった南門の前に来ていたことに気付かなかった。
 すでに閉ざされた南門は、センサーと監視カメラで自動に開閉されるようだ。
 ここを出るには戒が戻るのを待たなければならない。
 ミルクは門に寄り掛かり、伯爵邸を改めて眺めた。


「スゴイお屋敷だね。」
「…ねぇ……」
「こーゆーお屋敷に住んでる人は仕事とかしないの?」
「…してるみたいだけどぉ……」
「普通の人よりいっぱい働くから、こんな生活が出来るの?」
「…どーなんだろぉ……忙しそうな人もいるし…多分、そうじゃない人もいると思うけどぉ……」
「・・・ってさぁ、お前、門の中にいて全然知らないのか?」
「……ぇ?」
 ミルクはそこで初めて自分が誰かと会話していることに気付いた。
 自分が感じていることを聞かれたせいか、自分の心の声と話している気がしていたのだ。
 しかも、会話が日本語だった。
「お前、ここで働いてる子じゃないのか?」
 声はミルクの背より低い位置から聞こえてくる。
 横を向いても姿は見えず、寄り掛かっていた門から離れて後ろを振り返り、ようやく声の主を見つけることが出来た。

 ミルクより頭一つ分小さな少年が、門扉の向こう側から屋敷を眺めていたのだ。
 少年は、ミルクが返事を忘れて自分を見ていることに気付き、門から一歩下がって、腕組みをした胸を反らせた。
「・・・何だよ?」
「…ぇ……ぁ……ごめんなさい。日本語が話せるの?」
 髪は黒に近いが、目が緑色をした少年だった。
 少年は片頬に得意げな笑みを浮かべ、
「それだけじゃないよ。英語、イタリア語、スペイン語、ギリシャ語も話せる。当然仏語もね。」
と答えた。
「スッゴォーーイ。」
 ミルクは明るい目を一層明るく輝かせて感嘆の声をあげた。
 どう見ても10歳程度にしか見えない少年が、何カ国語も話せるという事実は驚きだった。
 少年は、ミルクがあまり感心してるので、肩を竦め、
「大したことじゃないよ。・・・パパがイタリアとギリシャのハーフで、ママが日本とスペインのハーフ。で、ボクはフランス生まれ、ってだけのことさ。英語は観光客に一番通用する言葉だから知ってた方が得だし、学校で習ったからな。」
と、照れ臭そうに説明した。
「うわぁ…生まれながらにして国際人だぁ……」
「パリで生まれ育ったボクの仲間は、逆に生粋のフランス人って方がまれだけどね。」
「…そーなんだぁ……」
 ミルクはひたすら感心して頷きながら、…そー言えば、ローランド伯爵もお母様はオーストリア人だったような…と、古くからの国際都市ならではの複雑な血の由来を理解した。
「・・・そーゆーお前は・・・日本人か?」
 腕組みした少年はミルクを斜に見上げて聞く。
「クスッ。…そう思ったから日本語で話し掛けてくれたんでしょう?」
「違うよ。初めフランス語で言ったけど無視してただろ?」
「…ぇー……ごめん。気付かなかったぁ……」
「でぇ、英語、ギリシャ語、・・・とやっぱり通じてないみたいだから日本語で聞いてみたんだ。」
「…ぁぅ……ちょっと考え事してたみたい……」
「そっか。・・・でも、日本人で嬉しいよ。・・・ママが生まれた国だし、ボクも1/4は日本の血が混ざってるしね。」
 少年はまた照れ臭そうに言った。
 照れた時だけ、少年らしい顔に戻る。

「でさ・・・お前、ここの使用人じゃないのか?」
「…知り合いの友達…って感じかなぁ……」
 最近は戒の指導の甲斐あって、初対面の相手に何でも話してしまうことが少なくなったミルクは、曖昧に答えた。
「・・・へぇ・・・じゃぁ、一応はここのお客って訳かぁ・・・」
 少年は感心したようにミルクを観察した。
「・・・あまり上客にも見えないけど・・・」
 そう小声で呟いた少年は、
「ボク、パリの穴場とか詳しいよ。ガイドブックにない店とか案内出来る。通訳も出来るから値切るのも手伝えるし、どう?」
と、急に人懐こそうな笑顔で言った。
 大人びて見せることに慣れた笑顔は、少年の得意な営業スマイルだった。
「……どう…って?」
「だから、ガイドに雇わないか?って聞いているんだよ。」
「……ぁ〜……そっかぁ……」
 血筋だけで言葉が話せるなら楽だが、なかなかそうもいかないらしい。
 それを少年がこれだけ会話に長けているのは、両親が多少教えたとしても、後は実戦で身に着けたものなのだろう。
 それにしても相手はまだ少年。
 ミルクは驚きを隠せずに目を丸くしていた。
「どうする?信用しないなら、それでもいいけどね。」
 大人から驚かれることにも慣れているらしく、少年は冷めた口調で言うと、軽く肩を竦めた。
「あ……お願いしたいけどぉ……今、お出掛け出来ないのぉ……」
 ミルクは少年ともっと話がしたかった。
 それが、”ガイドとして雇う”ことなら、それでもいいように思えた。
「・・・ふーん・・・そっか・・・」
 少年は小さく舌打ちしてから、少し考え、
「じゃぁ、あそこの公園の噴水前で1時間待ってやるよ。1時間待ってもお前が来ないなら、別の客をとる。・・・ってことにしよう。」
と言って、数歩ミルクの方を向いたまま後ずさり、軽く手をあげてから公園に向かって走りだした。
「…なるべく行く!……絶対、行くから!」
 ミルクは少年の背中に声を掛けた。
 と、少年が走りながら振り返り、ミルクに投げキスをして笑った。
 一瞬のことだったが、ミルクは何故か赤面してしまい、それからクスクスと一人で笑いをこぼした。


<83>
「ガイド」
§83§「ガイド」

「・・よろしいでしょう。」
 戒はあっさりと了承してくれた。
 けれど、少年と約束した1時間が残り5分もなかった。
「ありがとぉ、戒さん。ドリー、おいで。」
 ミルクは、戒が空港の検閲から連れて戻ってきたドリーを抱えると、伯爵邸を飛び出していった。

 肩から掛けたポーチには財布も入れてある。
 靴も歩きやすいようにとウォーキングシューズに履き替えていた。
 すっかり出掛ける支度を整えて、戒の部下に「外出したい。」と頼んでいたのだ。
 それでも、部下のガードには許可出来ないことだった。
 「戒様が戻られるのをお待ちください。」と言って、首を横に振り続けるガード。
 「待っていたら約束の時間に遅れちゃう。」と、今にも泣きそうな顔で懇願するミルク。
 睨み合いをするミルクとガードに手を焼いた別の部下が、戒に連絡を取ったらしい。
 ドリーを連れて帰る途中、S商事のパリ支社に立ち寄っていた戒は、取り急ぎ戻ってきた。
 そして、咳き込むように訴えるミルクに、戒は軽く頷き許可を出してくれたのだ。


 南門から並木通りに出て、真っ直ぐに森林公園へと走る。
 遠くからこんもりとした公園の樹木を眺めた時は、もっと近くに感じていたが、走ってみると思っていたより距離がある。
 しかも、並木通りが左右に分かれる所にある公園の入り口からは、少年の言っていた噴水の場所がすぐにわからなかった。
 取り敢えず公園内のジョギングロードを走りながら探す。
 しばらく走ると、それまで覆うように枝葉を伸ばしていた樹木が割れて、明るい空が現れた。
 と同時に水音が聞こえてくる。
 ミルクは…まだ、いる?…と不安を感じながら、広場になっている噴水前まで辿り着いた。

 走り続けていたので息が苦しい。
 ずっと抱えられていたドリーも目を回しているようだ。
 ミルクは噴水の泉の縁に座り、ドリーを石畳に降ろしてやって首輪に付けた細い紐を持った。
 腕時計で時間を確認したミルクは、ガックリと肩を落として溜息を吐いた。
 少年と約束したのは11時頃だったが、すでに正午をかなり過ぎている。
 待つ、と言っていた1時間はとうに過ぎてしまっていた。
 後ろを振り向き、噴水をグルリと一周見回しても少年の姿は見えない。
 ……帰っちゃった?
 ……それとも別のお客さんを見つけちゃった?
 ミルクは立ち上がって噴水の方を向くと、もう一度念入りに周囲に集う人達を眺め回した。
 高く噴き上げた水の飛沫が時折風に煽られて、ミルクの火照った顔に当たる。
 霧状の飛沫は気にするほどでもなかったが、ミルクはポーチからハンカチを出し、額に滲んでいた汗と一緒に拭き取った。

 と、その時、
「遅いから来ないかと思ったよ。」
と、少年の声が真後ろから聞こえた。
「ぇ…ぁ……待っててくれたの?」
 ミルクが少年の背丈をイメージして振り返ったが、そこに少年の顔はなく、
「可愛い犬だねぇ。」
と、足元に屈み込んでいた。
「抱いてもいい?」
 屈んだまま顔を上げ、ミルクを見上げた少年の緑色の目は、光を受けて萌えるように鮮やかに輝いていた。
 口元が自然な笑みで開かれ、白い歯がこぼれる。
 門を挟んで会話していた時の大人びた笑顔ではない、素のままの少年らしい笑顔がそこにあった。
「どうぞ。」
 ミルクも微笑んで答えた。
「ありがと。・・・Wao・・・軽い・・・まだ、子犬だね?名前は?」
 ドリーを胸に抱いた少年は、立ち上がってミルクに真っ直ぐな視線を向けた。
「ドリー。…生後5ヶ月くらいかなぁ……」
「そっか。・・・で、お前の名前は?」
「ミルク。」
「ミルク?・・・プッ・・・」
「あのねぇ…飲む牛乳じゃないんだからぁ。字は違うのぉ。」
「どれでもいいさ。じゃぁ、ミルクって呼べばいいね?」
「…ぅん。」
「ボクは・・・フランソワ。女みたいって言うなよ。色んな国の血が混じってるから、生まれた国を名前にしたんだってさ。・・・この国がボクを受け入れてくれるように、って・・・」
 少年は微かに表情を曇らせて言った。
「……そぅ……」
「でも、みんなはフリーって呼んでるし、フリーでいいよ。フリーって自由って意味だろ?・・ボクはフリー、自由民さ。」
 フリーが鼻先を空に向けるようにしてウィンクしたので、
「うん。わかった、フリーね。」
と、ミルクもクスッと笑みをこぼして頷いた。

「じゃぁ、ボクがガイドするってことでいいね?」
「ええ。お願いします。」
「基本料金は前金で貰うことにしてる。それと、必要経費はボクの分も払って貰う。・・あとさ、約束の時間に遅れたから昼食を奢ること。・・お腹がすいたよぉ。」
「フフッ。ミルも。それじゃ、美味しいレストランはフリーが案内してね?」
「いいよ。」
 雇用成立。
 ミルクはポーチから財布を取り出した。
 すると、
「私もご同行致しますので、私がお支払い致しましょう。」
と、戒の声が聞こえた。
 声の方に振り向き戒の姿を一目見たフリーは、ギクッと顔を強ばらせ、一歩後ずさった。
 隙のない身のこなし、威厳ある表情、鋭い眼光、スーツを着ていても判る鍛えられた体躯。
 少年がガイドする客には絶対選ばない人種だ。
 いつも、お小遣い感覚でお金を出してくれる、人の良さそうな女性をターゲットにしてきたから、フリーのような少年でも成り立っていたガイドだった。
「え…戒さんも行くのぉ?」
「無論です。少年のガイドに案内して貰うことは認めましたが、ガードを外すとは申しておりません。」
 戒はそこでミルクの背後を指差した。
 戒の示した先には、ミルクの後をずっと追っていたガードの姿もあった。
「…でもぉ…戒さんは忙しいんでしょう?」
「私の一番の使命は姫をお守りすることです。教育的に良からぬ場所へ行かれることのないよう、ご同行致します。」
「……良からぬ場所…ってどんな場所ぉ?」
 ミルクはキョトンと首を傾げる。
 戒はピクリと片眉を上げ、
「コホン・・・もしくは危険な場所や健全と思われぬ場所です。」
と、言い換えた。
 ミルクは…それだったら地下アジトって健全な場所なのぉ?…と言葉にせずに思ったことで、戒の言い分が何だかおかしくなり、クスクスと笑い出した。
「ねぇ、フリー。そーゆーことらしいからぁ、戒さんも一緒でいい?」
 ミルクが笑いながら聞くので、フリーは緊張した顔を少し解して、
「・・・その人がミルクの言ってた知り合い?」
と、逆に質問で返した。
 抱っこしたままのドリーがフリーの頬をペロペロ舐めている。
 ミルクはそのドリーを少年から抱き上げ、
「ううん。戒さんはミルとドリーの…家庭教師みたいな存在…かなぁ?」
と、戒を斜に見上げた。
「それで結構です。」
 戒はミルクに恭しく頭を下げてみせる。
 フリーは、ミルクの方が立場が上なら、この大人が自分の首根っこをつかむこともないだろう、と思ったのか、
「まぁ、そうゆうことなら仕方ないね。」
と、納得したようで、
「けど、二人分のガイド料を貰うからね。」
と、しっかり戒の分も上乗せして料金を受け取った。


「それで・・・どんな場所が見たい?美術館でも歴史博物館でも案内出来るよ。ブランド店巡りとかもけっこう頼まれるしね。・・地下鉄とかバスやタクシーで移動するから、お客さんも喜んでくれるんだ。」
「地下鉄?…わぁ…乗りたいぃ〜。」
「だろ?・・・で、希望は?」
「…ぅーん…パリそのものが全て観光地なんだろうけどぉ、もっと生活感のある場所がいいなぁ。」
「あぁ、そっか。もう観光地巡りはしたのか。うん、わかるよ。そうゆう人もいるね。何度かパリには来てて、観光もブランド店での買い物もしてるけど、言葉が不安で街を歩けないってタイプか。」
「……そんなには来てないけどぉ……」
「市場なんてどうかな?・・知り合いがやってる、レストランと言うほど高級じゃないけど味は最高、って店もあるし、そこで昼食にしよう。ね?」
「ええ。お願い。」
 ミルクとフリーが並んで歩きながら話をするのを、戒は黙って後ろから見守るように付いていく。
 特に口出しする気も干渉するつもりもないようだ。
 公園近くの駅から地下鉄に乗り、市場のある街へと向かった。


 色とりどりの新鮮な野菜や果物が溢れんばかりに棚に並ぶ市場。
 フリーは顔馴染みのようで、よく声を掛けられたり、気軽に話し掛けたりしている。
 市場で店を出していてもフランス人とは限らないようで、時々、少し顔つきが違う、と思っているとフリーはスペイン語やギリシャ語で会話していた。
 ミルクには何となくしか言葉の違いがわからないが、どちらも修得している戒がそっと教えてくれた。
 マサトやSSSや戒達のように、世界を股に暗躍している集団には、言語理解力が不可欠だったが、まだ10歳ほどの少年がこれだけ言葉を駆使出来るのも、才能と環境によるものだろう。
 中学と高校で4年間英語を学んできたミルクが、やっと簡単な英会話が出来る程度というのが恥ずかしくなるが、特殊な環境で教え込まれない限り、日本人の一般的レベルはそのくらいだろう。
「ねぇ、戒さん。フリーってすごくない?」
 ミルクが小声で言うと、
「確かに、特異な才能の持ち主ですね。」
と、戒も感心して頷いた。
「語学力は脳の聞き取るセンサーが鋭敏でなければ発揮されません。それは天分ともいうべき才能で、学習だけで身に付くものではありません。・・・彼はワード並みの才能があるかも知れないですね。」
「ワード?!…そぉなんだぁ……」
「・・・ただ惜しいことに、このような環境のままガイドであり続けては、才能も伸びずじまいで固まってしまいます。才能を伸ばすにも環境が必要なのです。」
「……そぉ……」
 貧富が生む不平等は何も生活面だけではない。
 どれほど才能があっても伸ばす機会に恵まれなかったり、生活に追われて諦めざるを得ず、高収入な職業に就くことも出来ない、という悪循環な現状は世界共通だ。
 だからこそ、覇羅蛇村はマサトが全面的なバックアップで一環した英才教育を施し、より高度な教育施設を蛇窟島に設けているのだ。
 元々、華やかな表舞台の裏の闇で活動することの多い一族だけに、昔から英才教育の地盤はあって、一族の長が才能を引き伸ばす為に尽力するのは伝統だったが。
 ミルクは、フリーの笑顔が明るいほど、胸が切なくなった。

「ここだよ。」
 市場の脇道から入ってすぐの所に、フリーの言っていた店があった。
「チャオ、マサト。お客を連れて来たよ。」
 名前を聞いてミルクは、ドキッ!とした。
「フリー。またガイドしてるのか?ちゃんと真面目に学校に行けよ?」
 フリーの呼び掛けに応じて調理場から顔を出した男は、40歳前後の日本人で、ミルクのマサトとは別人だった。
「シーッ!・・チェッ。客連れて来たのに余計なことを言うなよ。」
「心配するから言ってるんだ。」
 男はカウンターをくぐって出てくると、フリーの頭を乱暴に撫でた。
 大きめの帽子を被っていたフリーは目が隠れて、
「やめろよぉッ。」
と、怒ったように言うが、口元には笑みが浮かんでいた。
 年齢差はあっても気心が知れた関係なのだろう。
「済みませんねぇ。生意気ですが悪い子じゃないんです。・・そうですか、フリーをガイドに雇って頂けましたか。ありがとうございます。」
 男は戒とミルクに向かって頭を下げた。
 この男との日常の会話がフリーの基礎になっているようだ。
 どうりでぶっきらぼうな話し方をするはずだ。
「いえ…こちらこそ…ガイドをお願いしてしまって……」
 ミルクが申し訳なさそうにお辞儀をすると、
「いやぁ、フリーを怒ってみても仕方ないとはわかってるんですけどね。何しろ、フリーの父親はやくざな男で、一日中煙草の煙の淀んだ酒場で賭けカードをしているもんでねぇ・・・」
と、苦笑まじりに溜息を吐いた。
「お母様は日本人のハーフとか…ご親戚ですか?」
 ミルクはどうもマサトという同じ名前なのが恥ずかしくて、意味もなく頬を染めて聞いた。
「こんな奴がママの親戚の訳ないだろッ。」
 帽子を被り直したフリーがムキになって言う。
「ママはミルクみたいにふんわりして優しくていい匂いなんだ。・・・きっと・・・」
 フリーがミルクの腕に腕を絡めて顔を押しつけた。
 相手が子供なので戒も特に注意しない。
「……きっと?」
「・・・フリーは写真でしか母親を知らないんです。今よりもっと小さい頃から、この辺りで手伝いをしちゃぁ小遣い稼ぎをしてた子なんですが、私が日本人だとわかると言葉を教えてくれとせがまれましてね。」
「それでここまで覚えたとは素晴らしい。」
 珍しく戒が誉めた。
「ええ。教えてても怖いくらいに覚えていくので、口の悪さまで直す前に身に着けてしまったようで・・・」
「ほぅ・・・」
「その恩返しのつもりか、時々こうしてガイドの客を案内してくれてるようですが・・・日本人は珍しいですね。ハハッ。余計なことを言われたくないのでしょう。」
「わかってるなら言うなよッ。それに味が悪けりゃ案内しないさ。腹が減ってるんだ。早く注文取って作ってくれよな。」
「ハハハッ。誉めてくれてありがとうな。」
 男は豪快に笑って、ミルクと戒とドリーにもイスを勧めた。

 カウンターとテーブルが5つという小さな店で、昼間からお酒を飲んでいる客もいる居酒屋風だったが、出された料理は確かに美味しかった。
 特に戒は、デザートに出されたクレープミルフィーユが気に入って、
「この絶妙な口溶け・・・そしてクリームとリキュールの完璧なまでの調和が、何とも言えず素晴らしい。・・・堪能させて頂きました。」
と、料理を出し終わり、また顔を出した男に言った。
「そう言って頂けると光栄です。パティシエになり損ねた男ですので・・」
 男は照れ臭そうに答える。
 ミルクは、その男がマサトという名前であることが、まだ気恥ずかしくてまともに顔を見れなくて、
「本当に美味しかったです。ご馳走様でした。」
とうつむきがちに言った。
「だから美味い店だって言っただろ?」
 フリーは自分のことのように自慢げに言うと、
「さて、お腹もいっぱいになったし、次はどこを案内しよう?」
と、ポケットから折り畳んであったパリ市内地図を出し、ミルクの前に置いた。
「地図見てわかるならガイドはいらないでしょう?」
 ミルクが口を尖らせて言うと、
「今説明するとこだよ。」
と、大人びた身振りで肩を竦めてみせた。
「まだよく市場見てないし、もっとゆっくり見てから果物とか買いたいんだけどぉ…」
 と、ミルクが地図を覗き込んだ時、
『フリーはいるかッ?』
と、入り口から怒鳴り声が聞こえた。

『このガキッ!またこんな店でサボってやがるのかッ?』
 ミルクが意味を理解しないまま驚いて声の主を振り返ると、金髪でフリーと同じ鮮やかな緑の目をした男が大股に店内を進んできた。
『Non,Non…違うよ、パパ。』
 フリーはイスから立ち上がり、男を押し留めるように飛び付いた。
 ……パパ?
 ミルクにもその言葉だけは聞き取れた。
 かつては美男子だったろう顔立ちも、酒浸りで頬骨あたりと鼻の頭を赤くし、無精ひげを生やした上に、臭気漂う薄汚れたスーツ姿では、面影を探すのに苦労する。
 この男がフリーの父親なのだと思うと、胸が痛んだ。
『今、お客に市場を案内して来た所だよ。』
 フリーは必死で説明しながら、父親を店の外に出そうとしている。
 フリーの父親は、チラッ、とミルクと戒とドリーに視線を投げ、
『いいだろう。ちょっと来な。』
と、フリーの首を大きな手でつかんで店の外へと出ていった。
 フリーはポケットから、戒が先ほど渡したガイド料をつかみ出し、そっくり父親に差し出した。
「・・・ああして、自分の負けが込むと、あの子から巻き上げるんです。」
 店の男が小声で説明する。
 ……あれが父親……
 母親の肌の温もりも知らず、飲んだくれて稼いだ金を巻き上げる父親なのに、フリーは自慢そうに両親の話をしていたのだ。
 ……どうしたらいいんだろぉ?
 ミルクが目を潤ませて戒に問うように視線を向けると、
 ・・・どうにもなりません。
 と、答えるように、戒が静かに首を振った。
「あれでも父親は父親なんです。誰にもどうすることも出来ないし、フリーはあんな父親でも慕っている。・・・どうか、見なかったように接してやってください。ガイドされるのも辛いでしょうが、案内されて喜んで頂ければ、楽しそうなお客の顔が見れた、とフリーも嬉しそうに話してくれます。・・・ですから・・・」
 フリーの身内のように頭を下げる男に、
「・・わかりました。」
と、戒はゆっくり頷いた。


 その夜。
 ミルクは無性にマサトに甘えたくなって、自分から裸体を擦り寄せるようにして求めた。
 ......Chu......Chu....Chu........Chu....Chu......
 マサトの肩から首へと白く華奢な腕を絡ませ、髪をクシャクシャに撫で回してキスを降り注ぐ。
 戒から大体の報告は受けていたので、マサトもミルクの好きにさせていた。
 ミルクの心に悲しみの嵐が吹き荒れているのがわかる。
 どこに向けていいのか判らない悲しみや怒りが渦巻き、マサトの熱い肌を求めることで全身をワナワナと震わせ訴えているのだ。
 マサトはそんなミルクが愛しく、可愛くてたまらなかった。

 ......Chu......Chu....Chu........Chu....Chu......
「、、マサ、、ト、、、ぁ、、ぁ、、、マサトぉ、、、」
「・・・いい子だ、ミルク・・・よしよし・・・」
 マサトもミルクの肌に唇を滑らせ、キスを繰り返す。
 ミルクの滑らかな背中を指先でなぞり、まだ膨らみの足りない小さなお尻の肉を、ギュッ、と両手でつかむ。
「ぁぁ、、、ぁん、、、」
 花唇が左右に引っ張られて、敏感な花弁が空気に触れる。
 蜜に濡れた花弁がヒンヤリした空気を感じてヒクヒクと痙攣する。
「、、、ぁぁぁ、、、ぁぁ、、、欲しぃ、、、ぃ、、、マサトぉ、、、」
「クックッ。・・・こんなにノリノリの時に急いじゃぁ勿体ねぇぜ。」
 マサトはとろけるようなディープキスをして、ミルクの舌を丹念に愛撫した。
「、、、ン、、、ンン、、、、」
 マサトの舌はミルクがフェラチオをする時の動きを真似ている。
 強く舌を吸われ擦られると息苦しくなるが、ミルクはどうにか鼻で息をしながら耐えた。
 やっと舌を開放したマサトが、
「今度は俺の舌をフェラしな。」
と要求する。
「、、、ぅん、、、」
 ミルクも今、マサトにされたようにマサトの舌を愛撫した。
 その間もマサトの手は耐えずミルクの胸を揉み回し、乳首をきつく摘んで捏ね回す。
「、、、ンン、、、ン、、、ンァ、、、ァフ、、、」
 ミルクの花陰から蜜が滴り落ちて、マサトの太腿を濡らす。
 マサトは喉を震わせて笑いをもらすと、滴ってくる蜜をすくった指先でクリトリスをグリグリと擦り回し始めた。
「、、、んぁぁぁぁぁ、、、」
 たまらなくなったミルクは、マサトの舌を放して、背中を仰け反らせて喘いだ。

「じゃぁ、今度は蛇のご機嫌取りをして貰うか。」
 ”蛇”とは、当然ながらマサトの逞しい男根である。
 ニョッキリ、と天を突く赤黒い胴体は、太い筋がドクンドクンと力強く脈打っている。
 余程指が長い人でも指を一周届かせるのは難しいだろう、と思えるほどに太い胴体は、ミルクの細い腰に埋もれてしまうのが不思議なほどだ。
 しかもカリが大きく広がっていて、一度突き刺したら抜けない銛のようだ。
 そんな蛇頭を口の中にくわえるだけでいっぱいだったが、どうにか喉の奥まで届かせられるようになったミルクは、巧みに裏筋まで愛撫して擦り上げる。
「あぁぁ・・・いいぜぇ・・・その調子だ・・・クックククッ。」
 マサトはミルクの髪を撫でながら、夢中でしゃぶりつくミルクの上気した顔を見つめて、楽しそうに笑う。
 シュブリ、、シュブリ、、、
 ミルクはヨダレを垂らして一心不乱に頭を振り続ける。
 蛇竿の胴体を扱いている手にもヨダレが伝わり、擦り上げる音が湿って聞こえる。
 チュプッチュプッチュプッ、、、
 クッチュクッチュ、、ビッチュビッチュ、、、
 頭は一定に振られていても、ミルクの舌は耐えず動き回り、カリの周囲や窪みや縫い目を舌の先端で刺激している。
 蛇竿を握る手も微妙に位置を変え、もう一方の手は玉袋を掌でクルミを回すように優しく揉んでいる。
 慣れない男なら、ミルクの技に1分と持たずに降参してしまうだろう。
 マサトでさえ、時々、全然関係ない食事時に、ミルクの口元に見取れて欲情してしまうことがあり、自分も変わったものだ、と苦笑して視線を逸らしたりする。
 そんな時にSSSの誰かと視線が合った時の気まずさは、あまり愉快ではなかった。

「はぁぁ・・・もういいぜ。御褒美を受け取るといい。」
 マサトはベッドに仰向けに寝て、頭の後ろで腕を組んだ。
 黒光りしてそびえ立つ男のシンボル、真っ赤になって湯気を立てる毒蛇の頭が、ドクンドクンと揺れる。
「、、ぅん、、、」
 ミルクはマサトの腰を跨いで、先端を花唇に合わせ、自ら指先で花弁を開き腰を下げていく。
「、、、ぅ、、ぅぅ、、、」
 いつも以上にカリが脹らんでいて抵抗感がある。
 ミルクは眉を寄せて苦悶の表情をしながら背中を緊張して反らせている。
 マサトはまだ手を出さずに、儀式のようにじっと見つめている。
 ググッ、、、グボッ、、、ズルンッ、、、
「、、あッ、、、あぁぁーッ、、、んーんーんー、、、、、」
 遂に花弁は押し開かれ、ビンビンに張ったカリまでズッポリと蜜壺に吸い込まれていった。
 強い圧迫感に、ミルクは膝頭をマサトの腹筋の上で揃えてしまう。
 ギュゥゥゥーーーーーーーッ!!
 マサトも強い締め付けに眉間にシワを寄せ、お互いの熱さを味わう。
「うぅぅ・・・たまらないキツさだぜ・・・」
 スゥーッ、と音を立てて息を吸ったマサトは、
「もっと深く・・・奥まで・・・お前の襞で包んでくれ。」
と、熱い息で言う。
「、、、、、ハァゥ、、、、、ぅん、、、、、」
 ミルクも甘い呼吸を繰り返してから、膝を開いて更に奥深くへとマサトの毒蛇を導いた。

「あぁぁん、、、気持ちぃぃぃ、、、」
 腰をホッピングさせてダンスでも踊るように陶酔するミルクは、ベリーダンスのように腰をくねらせている。
 微妙な回転をつけて扱き上げられる動きと、螺旋状に煽動し吸い上げる膣襞の絶妙さに、マサトもうめくような喘ぎ声を上げる。
「・・ゥッくぅぅぅーーッ・・・めちゃめちゃ最高だぜぇーーッ・・・はぅぅッ・・・」
「ハァゥ、、、ミルもぉぉ、、、いいよぉぉぉ、、、あぁぁぁん、、、」
 全身を突き抜ける快感。
 表皮を這いずる甘い疼き。
 ビリビリと痺れる手足の指先。
 甘痒く強烈に痺れる熱い繋がり。
「あぁぁ、、、あぁ、、あぁ、、、あぁぁぁ、、、マサトぉぉぉ、、、」
 何かを言いたいが言葉にならない。
「ハァハァハァ、、、、、あぁぁん、、、、、あぁぅ、、、あぅぅ、、、、、」
「・・・いいぜ。・・・ハァァ・・・言わなくていい。・・・感じようぜ。」
「、、、ぅ、、ん、、、、、あぁぁぁぁーーッ、、、とろけるぅぅぅーー、、、、、」

 上になり下になり、前になり後ろになり、熱い時は続く。
 マサトに大きく片足を担ぎ上げられて、回転グリルで焼かれるローストチキンより情けない恰好をしても、もはやそこに羞恥心はなく、ただ貪欲に快感を貪っているミルク。
 狂える喜びがそこにあった。
 マサトの腕の中なら狂うことさえ許される。
 泣き狂い、怒り狂い、歓喜に酔い狂い、自分を滅却出来る。
 ミルクにはどうしてもやりきれなかったのだ。
 言葉には出来ない鬱積した思いが流れ出ていく。
 そして、マサトの熱い魂が燃やし尽くしてくれる。
 涙も熱く蒸発していく。
「、、ぁぁぁ、、、燃えるぅ、、、燃えるぅぅ、、、もっと、、もっと、、燃やしてぇぇぇ、、、、、」

 ミルクはその夜、一晩中マサトに甘え続けた。
 マサトもしっかりとミルクを受け止め、共に魂の慟哭を熱く熱く燃焼させた。

<84>
「聖戦の戦士」
§84§「聖戦の戦士」

 遅い朝食をベッドで摂ったミルクは、薔薇の薫りに満ちたお風呂で、激しい一夜の名残を洗い流した。
 待機していたエステティシャンに、「顔だけでいい」と言ったはずなのに通じず、結局全身に香油を塗りたくられた挙げ句にマッサージされてしまった。
 まだ甘く激しい一夜の記憶が体にまとわりついている。
 肌も極度に敏感になっているのに、マサト以外の人に触れられるのは抵抗感がある。
 まして、ほとんど表情を変えないエステティシャン二人は、名前もよく覚えてない関係なのだ。
 マッサージが屈辱を帯びた苦痛にしか思えなくなる。
 ……ここまでしなきゃ貴婦人でいられないのぉ?
 ……こんな贅を尽くした暮らし方って好きじゃないなぁ……
 親切にされているのに不平が溜まっていく。
 ……これって我が侭?
 文句を言ったら罰が当たりそうなほど大事にされている中で、愚痴をこぼしたら顰蹙を買いそうだ。
 贅沢に慣れるような生活はしてないし、思い上がるつもりもない。
 逆に、そうした贅沢を幸せと思えるならそれはそれでいいとも思う。
 批判するつもりもないし、批判出来るほど立派じゃないことくらい判っている。
 ただ、自分自身に限定して言えば、こうした生活が納得出来ないから不快感が募るのだ。
 ……フリー……
 ……自由っていいね……
 ……でも……自由に生きるって…きっと難しい……
 ……自由である為には…何が必要なんだろぉ……
 ミルクは人形のようにエステティシャンのされるに任せながら、ぼんやりと思いを巡らせていた。
 ……強さ……力……権力……?
 ……それとも……心……意識……?
 ……………………
 ……わかんない……
 ミルクは頭が混乱してきそうなので思考を投げ出した。

 服に着替え終えた時、ガードが、
「会長は伯爵や他の皆様方とテニスをしておられます。ですので、アリス様がお目覚めになられましたら、テニスコートへお出でになるようにとのことです。」
と伝えた。
「えぇ〜……もぉぉ、早く教えてくれたらいいのにぃ……」
 ミルクは拗ねて頬を膨らませる。
「申し訳ありません。アリス様が支度を済まされてから、お伝えするようにとのことでしたので。」
 ガードは生真面目な顔で頭を下げて答えた。
「……ぁ…そうだったの。ごめんなさい。」
 ミルクは、何だか自分が我が侭ばかり言って周囲に当たっているような気がしてきて、シュン…、としおれた顔で謝った。
 映画やドラマで、文句や愚痴ばかりをこぼすお嬢様や奥様と言った人達を、いつも反感を覚えながら見ていたのに、今朝の自分の態度は、まさにそう言った様子と重なる。
 ……なんか……思いっきり嫌な子じゃん……
 ミルクは益々落ち込んで暗い表情になった。


 南のテラスから庭の芝に出て西のテニスコートへ、子犬のドリーを連れて歩いていく。
 朝方まで愛され続けた怠さと、嫌々させられたマッサージの疲れで、ミルクはとてもテニスをする体力も気力もなかったので、テニスウェアは着なかった。
 代わりに半袖でシンプルなデザインの流れるラインがエレガントなワンピースを選んで着た。
 柔らかいシルクのワンピースは、裾が広がるフレアスカートになっていて、芝生を渡る春風にふわりと浮き上がって揺れる。
 レースで縁取りした大きめの白い衿と袖口が、ベビーピンクのワンピース生地に映えて、清楚な可愛さを演出している。
 細い紐で繋がれ足元を小さな歩幅で懸命に歩く子犬の淡いアプリコット色とも調和し、優雅な休日のお散歩、といった風情がある。
 今朝は伯爵邸の使用人達も敬意を払って会釈していく。
 服装で態度が変わるのもどうかと思うが、言い換えれば、身だしなみも相手から認めて貰うには必要だ、と言うことで、マサトや他の組織員達が普段から服装に気を使っているのも納得出来ると言えば言える。
 ミルクも服装だけは景山の手配で何とか見栄えするものを身に着けられるが、後は戒の言うように”自覚と自信+マナー”が必要なのだろう。
 国際的企業であるS商事グループ会長の夫人として、また、裏社会に深く根を広げる闇組織の総帥であり魔の一族の総領でもある男の妻として……。

 ……自覚と自信??
 ……そんなのないよぉ……
 ……マナーだって国によって違う場合だってあるじゃん!
 ……無理、無理ぃ〜!……絶対無理だもん!!
 ミルクは心の中で呟き頬を膨らませた。
 と、子犬のドリーが細い紐を張って小走りになり、ミルクの腕を強く引いた。
 ドリーは、テニスコートが近付き、嬉しそうにシッポを振っている。
「ナイスゲームでしたね。さすがは坊ちゃま。坊ちゃまのスピードとテクニックに誰も敵うはずもありません。」
 戒の声が聞こえてくる。
 不思議、と言っては失礼だろうが、ドリーが一番懐いているのが戒だった。
 厳しく躾られているはずなのに、戒といる時のドリーが一番安心した顔になる。
「戒。プライベートではあっても、他に人がいる所でその言い方はやめろ、って言ってるだろ。」
 マサトの微かに笑いを含んだ声もする。
 顔は見えなくても声の調子で、何となくだが、その時のマサトの機嫌がわかる気がする。
 ……今朝は機嫌がいいみたいね。フフッ。
 マサトの声が聞こえると、ミルクも見えないシッポを大きく振り始める。
 怠い足取りが急に軽くなって、パッと光が差したように表情も明るくなる。
 ミルクはマサトの顔が早く見たくなって、ドリーと一緒に小走りになった。

 マサトは今しがたゲームを終えたようで、コート脇のベンチに座り額から流れる汗をタオルで拭いていた。
 対戦した相手は若林らしく、若林は頭からタオルを掛けて、悔しそうな赤い顔でスポーツドリンクをゴクゴクと飲んでいる。
 マサトの隣りに戒、後ろに若松とドルフィンが並んで立ち話をしている。
 若松の近くにはボムとスナイパーと星野がいる。
 ローランド伯爵は、これからダブルスのゲームを始める所だったようで、ペアを組むレーサーとコート脇で作戦の打ち合わせをしている。
 対戦するのはメンテとハッカーで、それぞれ中年と若者ペアといった所だろう。
 ……マサトのゲームは終わっちゃったんだぁ……
 ミルクはガッカリして溜息を吐いた。

 それにしても、SSSメンバーがこれだけ揃っていると壮観だった。
 小走りだったミルクの足が止まる。
 マサトを中心とした一つの輪がそこにあって、ミルクには踏み込めない気がしたのだ。
 彼等の絶対的信頼と狂信的崇拝による結束の固さは、どんな組織にも負けないだろう。
 彼等を全く知らない人々には単純に上司と部下の集りに見えるかも知れない。
 が、それでもマサトから放たれるカリスマオーラと取り囲む者達の作り上げている見えない壁に、近寄り難さを感じずにはいれないはずだ。
 マサトに愛され皆から大事にされているミルクでさえ、入り込めない世界を感じてしまうのだから……。

 ミルクの足が止まるとドリーが紐を引っ張って苦しそうに鳴いた。
 ・・・キャゥーン・・・
 ドリーの鳴き声で皆の視線が一斉にミルクに注がれる。
 敵意のない動物の気配が分かり難いように、悪意のない無垢な子供も気配を読み取り難いのかも知れないが、それにしてもミルクは特別自然と溶け込んで気配を消してしまうことが多い。
「ミルク・・・」
 マサトが軽く指で”おいで”と呼ぶ。
 と、空気が割れるようにマサトまでの道が出来る。
 マサトを取り囲む人達はさほど動く必要はなかった。
 マサトが意識を向けたことで、見えない壁にミルクの為の通路を作り上げたのだ。
 ミルクは引き込まれるようにマサトの側まで進んだ。

「おはようございます。アリス姫。」
「アリス姫。ご機嫌いかがですか?」
 次々と挨拶をするSSS達を無視して、ミルクはマサトの所まで行くと黙って膝に座った。
 いつもならあり得ない行動だった。
 マサトは恋人ではあっても公人なのだ、という意識を強く持っているミルクは、なるべく人前でマサトに甘えることは控えてきた。
 結婚して意識が変わった訳ではない。
 常に甘えすぎないように、仕事の妨げにならないように、と心掛けてきた。
 そのことは皆も充分理解している。
 けれど、今ここにいるミルクは、マサトにもたれ掛かって甘えるように顔を擦り付けている。
 ・・・何か様子が変だ・・・
 と、誰もが感じた。
「ミルク?・・・どうした?」
 マサトはむしろミルクが皆に遠慮しないで甘えてくれた方が嬉しいので、片頬に笑みを浮かべてミルクの髪を撫でてやっている。
「……だって……」
 ミルクは暗い表情で呟くと、マサトの首に両腕を回して抱きついた。
 手にしている細い紐がミルクの首に当たるのを気にして、マサトが紐を取って戒に渡す。
 ドリーは戒の膝に乗りたそうに目の前に座ってシッポを振る。
 戒は手振りだけでドリーに”ステイ(伏せ)”をさせ、ミルクの様子を伺っている。
「・・・何かあったのか?」
 マサトは、一言言っただけでまた黙り込むミルクに、頬ずりとキスをして尋ねる。
「……別に……」
 ミルクは気のない返事をして唇を尖らせると、またマサトの肩に顔を擦り付けた。
 駄々っ子の意味不明な不機嫌さは、マサトも対処に苦慮するようで、ミルクの背中をさすってやりながら周囲に視線を投げた。
 戒は片眉を吊り上げて原因を追及しようと考え始める。
 若林は何やら面白そうな展開にニヤついて、緩む口元をタオルで隠している。
 ボムやスナイパーは、とばっちりが自分達に飛んで来ないか、と緊張した面持ちでいる。
 若松は、周囲の気配に異変はないか、と”気”の波動を広げて空気の流れを読み取ろうとしている。
 ドルフィンは今の所、傍観者になりきっている。

 そこに、
「アリス姫。何か屋敷の者に不手際がありましたでしょうか?」
と、ゲームを始めようとしていたローランド伯爵が戻ってきて、気懸かりそうに眉を寄せながら言った。
 すると、マサトの肩に顔を埋めていたミルクが振り返り、戒風に片眉を吊り上げて伯爵を睨んだ。
 周囲が《えっ?!》と息を飲み、伯爵はギクリと顔を強ばらせた。
 これほど露骨に人を非難する視線を向けることは一度もなかったミルクが、伯爵を上から下へ、下から上へと視線を動かして睨んでいるのだ。
「・・・あ・・・あの・・・姫君・・・」
 伯爵は心底困った顔で口ごもる。
「・・ップッ・・・ククッ・・・」
 ドルフィンが噴き出した口を握った手で押さえ、マサトに顔が見られないように後ろ向きになる。
 ――この海園麗という男は、絶世の美貌を持ちながら実は超が付くほどの笑い上戸なのだ。
 笑い出すと止まらなくなるので、いつもなるべく澄ましているように気を付けているが、一度笑いに火がつくと声を出さずに大笑いする特技を持っている。――
「何を笑ってるんだぁ?」
 反対側のコートから駆け付けてきたハッカーが、周囲の緊張した雰囲気に構わず聞いてくる。
「いかがされましたか?アリス姫?」
 ゆっくり歩いてきたメンテも不思議そうに尋ねる。
 レーサーはベンチを回ってドルフィンの隣りに行き、顔を覗き込んで事情を聞こうとするが、ドルフィンは口元を押さえていた手をお腹に宛い肩を震わせているので訳がわからない。
 若林の座るベンチの後ろに控えている星野も、半年間ガードを務めていても見たことがなかったミルクの態度に当惑していた。
 当のミルクは、皆の視線が集まってしまっている状況に自分自身が困惑してしまい、思い切り頬を膨らませるとまたマサトの肩に顔を埋めてしまった。

 皆が切り出す言葉を見つけられずにいた時、
「まぁ・・・察するに・・・アリス姫はこの屋敷の贅沢三昧に見える暮らしぶりがお気に召さないのでしょうね。」
と、タオルを首に掛けた若林が言った。
「まして、昨日は恵まれない環境にいる少年と出会われて、お心を痛められたばかり。これだけの暮らしが出来るなら、何故あの少年を救えないのか、と。」
 若林は、違いますか?、と聞くようにマサトに視線を向けた。
「・・・・・うむ・・・・・」
 マサトは溜息を吐き、
「それについては昨夜よく言い聞かせたんだがな。」
と、ミルクの背中をあやすように軽く叩いた。
「そう。お金では解決しない問題です。」
 戒は、仰る通り、とばかりに頷く。
「え?・・・そのことだったの?・・・俺はてっきり、舞踏会なんかを開こうと思いついた伯爵のせいでこんな堅苦しい思いをしなきゃならない、って拗ねておられるのかと・・・」
 ドルフィンが意外そうな顔で振り返る。
「クスッ・・おそらくそのことが不機嫌さに拍車をかけてしまわれた原因ではあるだろうが・・・」
 若林がドルフィンにウィンクして答える。
「・・・そうなのか?」
 マサトがミルクの顔を覗き込もうとするが、ミルクは固まった状態で顔を隠している。
「舞踏会については別の思惑もあってのことで説明不足かも知れないが・・・フリーという少年のことはミルクが思い悩む問題じゃねぇだろ?・・いくら同情で金を出してやろうと、酒と女と賭博に明け暮れる怠惰な暮らしをしている父親が、みんな吸い上げちまうだけだぜ?・・そう説明しただろ?」
「あぶく銭は身に付かないと言いますからね。」
 戒がまた同調して頷いてから、
「身内や部下にそのような者がいたら、即処刑してやります。」
と言って、ほくそ笑んだ。
「個人レベルにいくら寄付をしたって社会は変わらねぇ。なら、社会を変えるにはどうすればいいか。政治に口出し出来るだけの権力を握ることだ。・・・だが、政治家もまた金を欲しがるもの。どうにもならねぇなぁ。」
「まさしく。・・はるか古代のローマ時代から清廉潔白な政治家など見たことありません。」
 戒が片眉を上げて嘲笑を浮かべる。
「仮にいたとして、私財をなげうって社会に貢献しても、無一文になったその男に向けられるのは、結果の伴わない感謝のみ。」
「きっと哀れみでしょう。」
「家族がいたら悲惨でしょうねぇ。」
「非難囂々。恨まれたりして?」
 レーサーやハッカーも面白がって話に加わる。
「矛盾しているかも知れないが、結局は自分でどうにかするしかない、って訳だ。他人や社会に不幸の代償を求めるべきじゃねぇと思うぜ。」
 マサトが冷たい口調で言い放つと、
「それにその少年が不幸とは限りませんしね。」
と、自分の過去をマサトと若林以外に話したことのないドルフィンが、興味なさそうな淡々とした口調で言った。

 ミルクはマサトの肩から少しだけ顔を覗かせ、マサトの後ろに立っているドルフィンを見上げた。
 ――青い瞳のドルフィンが覇羅蛇の郷出身でないことはわかる。
 13歳でマサトに拾われるまでどうやって生きてきたのか、今のドルフィンからは伺い知ることが出来ない。
 レーサーやハッカーとたいして歳が変わらないのに、若い彼等にはキツイ仕事でも平然とこなし、あまつさえ優美な笑みで一仕事を終えた祝杯を挙げられる神経は、並々ならぬものだった。
 だからこそ、皆が敬遠しがちなキラー将軍相手でさえ、平気で向き合えるのだ。
 そして、マサトという神を心に得たことで、魂が解放されたからこそ、誰よりも些細なことで笑うようになったのだ。
 ”氷の人形”と呼ばれたドルフィンは、凍り付いた涙の溶けた海に漂う”神秘の真珠”となった。――
 ミルクと視線が合うと、
「どんな理由であれ父親から必要とされ、父親の為に仕事をすることが嬉しいと思えるなら、それはそれで幸せかも知れません。」
と、ドルフィンは誰もが見取れる美貌で微笑んだ。

「そーゆーことだ。」
 マサトがミルクの髪を撫で、覗かせた額にキスをした。
「少年に才能があるのは戒の話でよくわかった。その才能を買うという意味で彼を引き取ってやることも可能だ。だが、それが本当に幸せか、どうか。彼が俺達のような生き方を望むか、どうか。・・父親に金を積めば喜んで息子を売り渡すだろうが、そうされた時に少年は解放されたと喜ぶと思うか?」
 ミルクは目を潤ませ首を振る。
「そう。・・目的があるからこそ前へ進むことが出来る。強い結束も教え込むものじゃない。自らに願う意志があってこそ心を一つにすることが出来る。・・・ここは、売られて仲間に入れるほど甘い場所じゃないぜ。」
「……わかるけど……」
「・・ったく・・・お前もミツルも考えが甘すぎるぜ。」
 マサトが眉を寄せた渋い顔で溜息まじりに言う。
「俺達は慈善団体じゃねぇんだぜ?そこら中で不幸な連中を拾い集めてなんかいられねぇ。仲間でさえ切るべき時は切るって厳しい世界で、小さな幸せをバラ撒いていられるか。」
 マサトの厳しい口調に、ミルクは項垂れてまた顔を隠してしまう。
「・・・あのな・・・」
 マサトの声が一段と低くなる。
「俺が不幸にしてきた連中だってゴマンといるんだ。踏みにじった奴等の流した血溜まりを蹴って、闇の底から天上への階段を駆け上ってきた。振り返れば血の足跡が点々と付いているだろうぜ。」

 マサトの言葉に風さえも動きを止めた。
 シンとした空間は不思議と甘く満たされた空気に包まれていた。
「ああ、なんと素晴らしいお言葉。さすがは私の坊ちゃまでいらっしゃる。」
 戒がうっとりと目を細めてマサトを崇め見る。
「それでこそ俺達のボスだぜ。」
 若林がクスクス笑いながら顎を撫でる。
「我が君。」
 ドルフィンが恭しく貴族のようなお辞儀をする。
 若松は言葉もなく感激に打ち震えている。
 そして皆が同じ思いで、敢えて自分を非道だと言えるマサトの懐の深さを感じていた。
 戦いに正義の理論などない。
 だからこそ勝たなければ意味がないのだ。
 勝つ為には進むしかない。
 残虐非道を好まず卑怯であることを恥じとする”聖なる闇の覇王”であろうと、駆け抜けてきた道の険しさと厳しさは言語に尽くしがたい。
 罪も犯せば犠牲も強いてきた。
 それでも、その罪を忘れはしないし、自らの心に隠す気もない。
 例え悪魔と誹られようと、罪を忘れて正義を並べる奴等との決戦から引いたりしない。
 これは地獄からの叫びなのだ。
 まやかしの甘い夢に浸っていたいなら闇には近寄らないことだ。

 ミルクはゆっくりと顔を上げた。
「……そんな強いマサトだから好き……」
「クックックッ。俺は猛毒の血が流れる魔王かも知れねぇぜ?」
「……それなら…マサトの血でミルを染めて……」
 マサトの鎖骨の下あたりに、ミルクは唇を押しつけて強く吸った。
 かなり強く吸ったのに、張りのある肌は微かな赤味さえ付かない。
 蚊どころか蜂でさえ刺せないほどに強い肌なので無理もなかった。
「……ぅぅ〜……」
 またミルクが《ブンッ》と頬を膨らませた。
 早速ドルフィンが声を出さずに笑い出し、皆もつられるように笑い出した。
 マサトも、
「・・・あのなぁ・・・」
と困ったように言うと、こればかりは、と苦笑をこぼした。

<85>
「舞踏会」
§85§「舞踏会」

 ローランド伯爵邸の大広間。
 1,2階を吹き抜けにした大ホールで、見上げる天井からは、大きなシャンデリアがいくつも吊られている。
 正面奥には対になったふたつの階段があり、室内の広間側と外の庭面に張り出したバルコニーから、緩い曲線を描くようにフロアまで伸びている。
 二つの階段に挟まれたスペースは、ちょうど中規模のオーケストラが収まるくらいの広さだ。
 広間側と庭側のバルコニーは、大きなステンドクラスの窓とドアで仕切られているが、風が穏やかな春の宵なので、この夜はドアが開放されていた。
 オーケストラがある前方半分くらいの空間が、社交ダンスを踊れる場所として空けられてあり、入り口周辺から中程までは、豪華な料理や飲み物が山盛りに用意されたサロンのような趣になっている。
 舞踏会と言っても、宮廷式のような堅苦しいものではなく、もっと気軽にダンスを楽しめるパーティー的なものだった。
 招待客は数百人近かったが、午後6時から始まり終焉の12時まで、「ご都合のつく自由な時間にお越し下さい」という気ままなスタイルで、途中から参加しても中途で退席しても自由となっている。
 料理も飲み物も常に補充され、招待客がローランド伯爵に挨拶し、マサト夫妻が紹介される度にシャンパンが開けられる、といった持て成しぶりだった

 舞踏会の主役は、当然開催の目的であるマサトの妻、ミルクである。
 この日のミルクは、白銀のドレスに、栗色に輝く髪をふっくらとアップにまとめ、ティアラを額に飾っていた。
 白銀のドレスは、上品な白銀のシルクの生地に、小さな涙型のクリスタルビーズが、銀のスパンコールと共にびっしりと縫いつけられているものだった。
 銀のスパンコール自体は全てクリスタルビーズで隠れているが、シャンデリアの目映い光を透明なビーズに反射させるので、涙型のビーズが、まるで虹色の光を放つように煌めいている。
 しかもビーズが涙型なので、ミルクが動く度にビーズが揺れて虹色の光が揺らめき、ミルク自身が虹色の光で包まれているような、幻想的雰囲気を醸し出していた。
 左手薬指には花の形を象った豪華な婚約指輪が輝き、銀のチョーカーにはクリスマスプレゼントで貰った涙型の大粒のダイヤが揺れている。
 白銀のティアラにも同じような涙型の大粒のダイヤが揺れ、まだ幼い顔立ちに得も言われぬ気品を与えていた。
 普段からミルクを可愛さの世界基準にしてしまっているマサトでさえ、ミルクから滲み出す気品と高貴なオーラに感激して、
「今すぐ、この場で押し倒してぇ。」
と、賞賛するほどだった。
 かなりのドレス効果に、日本からギリギリ駆け付けた景山は、自分の用意したドレスに満足そうで、
「将来、アリス姫の展示室に飾るつもりですので、壊さないでくださいよ。」
と、にこやかな笑みで釘を刺した。
 ミルクは緊張で気にする余裕もなく、景山の冗談くらいに聞いていたが、実際結婚のお祝いで色々贈られた品々や景山自慢のドレスなどは、展示する価値充分だった。
 おそらく忘年会で着た花魁の衣装も、景山の展示室構想に組み込まれているのだろう。

 舞踏会の初めに、マサトが、
『今宵は妻のお披露目ですので、今夜に限り、どなたでもご自由に妻とのダンスをお楽しみください。』
と言ったので、招待客の男性は我先にと殺到した。
 そこを如才ない采配振りを発揮したのが景山で、ミルクの様子を気遣いつつ、男性陣が揉めることのないように配慮して順番を決めていった。
 面白くないのは同伴で来ている女性陣だが、ドルフィンやレーサーといった普段はダンスに参加しないSSSのメンバーが、そうした女性客のダンスの相手を務めてフォローした。
 ミルクが自分以外の男性と踊ることを、内心腹立たしく思っているマサトは、階段上のバルコニーに用意されていたテーブルに陣取り、戒と部下に周囲を固めさせた。
 マサトと踊りたいと願う女性も多かったが、マサト自身は誰とも踊らず、招待客と話をすることもなく、フロアをクルクルと煌めきながら踊るミルクをずっと見守っていた。

 一方ミルクは、ほとんど休むこともなく、次々と順番を待っている男性達と踊っていった。
 そして、ミルクを初めて間近に見た男性達は、幼いだけではないミルクの魅力に、いつの間にか引き込まれていった。
 透けるように白い肌は絹のようなきめ細かい光沢を放ち、幼さを残す顔立ちに浮かぶ天使の如き微笑みは慈愛に満ちて甘く優しいことを、初めて知ることとなった。
 天使の微笑みの明るい眼差しに見つめられると、心が洗われていくような気がしてくることにも気付いた。
 一部には、「原田氏はロリータ嗜好ではないか」と言う噂もあったが、この舞踏会以降プッツリと途絶えた。
 ミルクが幼いからではなく、幼さの中にさえ滲み出す気高さや魅惑の輝きがあるからこそ、原田雅人という男はこの少女を妻に選んだのだ、と踊った男性全てが実感した為である。
 これこそが、舞踏会を開いた目的であり、怒り荒ぶる心を押し殺してもダンスを容認した理由だった。
 ”ロリータ”というレッテルがある限り、ミルクはただの人形であり侮蔑の対象でしかない。
 マサトは、自分自身が非難の対象になることは些かも構わなかったが、愛する妻であるミルクが侮辱の対象になることだけは、絶対に許せなかった。
 その思いは景山も戒も、発案したローランド伯爵も同じだった。
 だからこそ、社交界での付き合いも仕事の一部でしかない彼等が、敢えて、ミルクが辛がるのを承知で舞踏会に引き吊り出したのだ。
 ミルクは、彼等のそうした思惑を知る由もなかったが、微笑みを絶やさずに踊り続けることで、少しでもマサトのいる場所に近付けるなら、と頑張っていた。

 そうしたミルクの毅然とした姿勢と、無垢で純潔な天使の如き微笑みと、虹色に煌めくドレス効果もあってか、途中から、「原田夫人は何処かの王家の血筋らしい」という新たな噂が囁かれ始めた。
 SSSからその噂を耳にしたマサトは、
「どこから漏れた噂だッ?!」
と、堪忍袋の緒が切れそうになりながら、噂の出所を戒に探らせた。
 ミルクが、かつて、”もっとも天上に近い楽園”と言われながら消滅した、いにしえの王家の血筋であることまで教えてやるつもりはない。
 そのことは、組織の上層部しか知らない、トップシークレットであるはずだった。
 滅んだ楽園は、マサトの夢の楽園でもあり、夜毎ミルクとの愛を育む幽玄の場所でもあるのだ。
 そこまで他人に踏み込まれたくない、と今にもブチ切れそうなマサトは、庭側のバルコニーに出て、夜のヒンヤリとした風にあたりながら戒の報告を待っていた。
 ようやく戒が戻り報告する。
「噂の出所は、某国王家の親族で大富豪の未亡人であるマルガリータ様でした。」
 そう知らされた結果に、マサトは怪訝に眉を顰めた。
 マサトもマルガリータとは面識があるが、世界的に有名な某慈善団体の名誉会長を務める穏やかな老婦人で、裏世界とは無縁の人物だったからだ。
「マルガリータ様が、姫をずっと観察されておられて、すっかりお気に召されたようで、”あの方には、隠しようもない王族の輝きがありますね。”と呟かれたのが発端のようです。」
「・・・隠しようもない・・ね。」
 拍子抜けして怒るに怒れないマサトは、コメカミを指で押さえながら溜息を吐き、
「実際の由来を知ってのことではないんだな?」
と、念を押した。
「はい。人伝いに噂が広まる内に、”王家の血筋”となってしまったようです。・・某国は、自国を始めとするロマンティックな古代史がお好きなお国柄ですし、マルガリータ様は、王族という存在への崇拝度が人一倍強い方ですから、そうした発言になったと思われます。」
 そう報告した戒はマサトの次の指令を待った。
 が、マサトは細い葉巻に火を点けて、考え込むように煙りを燻らせ始めた。

 そこへ、下の広間にいた若林が、マサト達の微妙な動きを気にして、バルコニーに姿を見せた。
 事情を聞いた若林は、
「まぁ、彼女が発端にならずとも、いずれはそうした噂が出ていたでしょう。何しろ、我々が”姫”とお呼びしているのですから。」
と、真顔で言った。
「お前が軽はずみに披露宴で”姫”とお呼びしていることを公言するからだ。」
 戒が忌々しそうに目を細めて鋭い眼光を向けると、
「申し訳ありません。ただ、人前であろうと”姫”としか呼べない方であることは事実ですし、いらぬ詮索を避ける為に”愛称”と説明したのですが・・。」
と、反省する態度で反論をする。
「ここで議論するな。」
 マサトの小さな一喝で、論争になりそうな戒と若林の絡み合った視線が逸らされた。
「それで、いかが致しましょう?噂を否定するなら早い方が宜しいかと存じますが・・」
と、指示を仰ぐ戒の前で、
「このままでいいんじゃないでしょうか。噂を追求しても、会長が拍子抜けされたように、思い込みの激しいご婦人の独断と偏見だった、としか出ないでしょう。想像は自由です。そう思いたい連中にはそう思わせておけばいいのでは?我々が流した噂でないなら、責任を負う義務も発生しません。勝手な想像で、勝手に夢を膨らませて貰っておけば、姫が頻繁に社交界へ顔を出される必要もなくなります。何しろ”姫君”ですから。”姫”は、我等の宮殿でお守り致しましょう。」
と、反対意見を主張する。
「・・・そうだな。」
 SSSの策士として、マサトはコウメイ(若林)の意見を聞くことが多い。
 そうすると、戒はまるで若林に指示された気分になる。
 それが、戒が若林を毛嫌いする一因にもなっていた。

 戒の不満げな様子は見ないことにして、マサトは広間のバルコニーの席に戻った。
 休みなく踊り続けているミルクが心配で、目を離したくなかったのだ。
 ミルクも踊りながら、常に視界の端でマサトを確認して、本当は逃げ出したいほどの緊張とプレッシャーに、負けない勇気を貰っていた。
 疲れや足の痛みはまったく感じられなかった。
 けれどそれは、そこまで神経が伝わらないだけのことで、一度休憩してしまったら、もう立てなくなるのではないか、と不安だった。
 だから、ミルクは踊り続けるしかなかった。
 それなのに、庭側のバルコニーに行ってしまってから、しばらく姿を見ることが出来なくなってしまった。
 不安と寂しさが募り、明るい瞳に陰が差しかけた時、ようやくマサトの姿を確認出来た。
 ミルクは嬉しさのあまり、ついマサトの方へ顔を向けて、破顔一笑といった感の笑顔をこぼした。
 もちろん、マサトも笑みを浮かべて小さく投げキッスをした。
 萎れかけていた心に、また勇気が湧いてくる。
 ただ、素のままの、あまりにも愛らしく頼りなげな、少女の顔に一瞬戻ってしまったことで、ダンスパートナーの男性が驚いた顔になり、ミルクは慌てて微笑みを取り繕った。
 ……あぅぅ〜……
 ……失敗したぁぁぁ〜〜……
 と、心の中は大騒ぎしているし、心拍が上がってドキドキしてしまい、ミルクの頬から首筋に赤味が差した。
 すると、何故かパートナーの男性までが、耳が真っ赤になるほど赤面し、額から汗を吹き出させている。
 ミルクは、自分がよそ見したせいでパートナーのペースを乱してしまった、と思い、
『…ごめんなさい……』
と、小さな声で謝った。
 男性は、優しい苦笑を浮かべ、
『いえ。・・・貴女の真価は、着飾らない素顔にあるのかも知れませんね。・・・その素顔を一瞬でも見ることが出来た私は幸運です。』
と、答えてくれた。
 ミルクは、”一瞬の素顔”に、男性が狂おしいほど切なく恋してしまった事実に、気付いていなかった。
 だが、すぐに気付いたマサトは、怒りのあまり蒼白になり、思わず歯軋りして低く呻った。
 時計の針が告げる時刻は、まだ10時。
 シンデレラの魔法が解ける12時が早くくるように、と呪いを掛けたくなったマサトだった。

 舞踏会は玄関ホールでの見送りで終焉となった。
 数日前から、この日の舞踏会の話題で持ち切りだったマスコミは、玄関ホールでの取材のみ許可になっていた。
 開催前のお迎えで、ミルクの着ている美しいドレスに圧倒されたマスコミ陣だったが、見送りでは、ドレス映えするミルクの可憐な姿に惹き込まれているようだった。
 特別な会見はなく、ミルクはそのまま奥へと姿を隠したが、招待客の満足した表情と褒めそやす言葉に、舞踏会の成功を確信したローランド伯爵は、ホッと胸を撫で下ろした。


 舞踏会が終了して、ミルクはようやくリビングのソファーに腰を下ろした。
 6時間以上も立ち続け、踊り続けた相手は100人を越える。
 座った途端に貧血状態になり、クッションを背中に宛われて横になった。
 景山に同行して来ていた医師の本郷が呼ばれ、青ざめて精気のないミルクに点滴と注射を施した。
「ここまで無理をすることはなかったんだ。」
 と、怒ったように言ったマサトが、ミルクの小さな白銀のハイヒールを脱がせてやろうとした。
「……ったぁぁぁーーぃっっっ!」
 ミルクが小さな悲鳴をあげる。
 そして、青ざめた顔の目と鼻回りだけ赤らめて涙顔になり、
「……グシュ……だってぇ……」
と、グシュグシュ、泣き出してしまった。
 ミルクの足は真っ赤になって熱を持ち、腫れ上がって脱げなくなってしまっていた。
 ハサミを入れて切ろうにも、そのハサミで腫れた肌を傷付けそうで躊躇され、仕方なく氷水に靴ごと浸けて少しずつ脱がせることにした。
 冷やされて幾分痛みは軽減したが、それでも靴がズレるたびにミルクは顔をしかめた。

「景山ッ!お前が付いていながら何て様だッ?」
 痛々しさにやりきれないマサトが怒鳴る。
「・・申し訳ございません。」
 景山も沈痛な面持ちで、ミルクの腫れ上がった足を見守っている。
「…っ違うのっ!」
 横になっていたミルクが起き上がり、
「景山さんは何度も休むようにって言ってくれてたの。だけど、休んだらもう踊れないかも、って思うと休めなかったの。」
と、弁護した。
「ミルクはいいから横になってろ。」
 マサトは冷たい氷水に腕まで浸し、ゆっくり靴を脱がせながら労るように言う。
「大丈夫だもん。」
「寝てろ。」
「大丈夫なんだもん。これくらい、本当に平気だもん。…これくらい平気だから…ミルを置いてけぼりにしないで。」
 ミルクの目から、痛みのせいではない涙が零れ出す。
「・・・置いていく?」
「……だって……マサトはみんなと駆け上がっていくんでしょ?……だったら、ミルだって、…血の足跡を付けながら…付いて行くもん。……どんなに痛くたって……どんなに厳しく辛い階段だって……」

 時間が止まったように、全てが静止していた。
 ……ピシャン……
 微かな音が沈黙を破った。
 氷水の入れてあるバケツに小さな波紋が出来ていた。
 俯いていたマサトが、たくし上げたワイシャツの袖で目元を拭った。
「・・・バカやろう・・・俺が放す訳ねぇだろ。・・・いつだって肌身離さず懐にしまっとくぜ。」
 マサトの声は微かに震え、狂おしいまでに甘く響いた。
 ミルクは頬を膨らませ、
「……抱っこされたままは嫌だもん。……ミルも自分の足で付いて行きたいんだもん。」
と、小さく呟いて、鼻を啜った。
 マサトは黙って俯いたまま、ミルクの靴を脱がせる。
 そして、ようやく脱がせることが出来た時、氷水から上げたミルクの足に、そっとキスをした。
「・・・可愛いあんよだぜ。・・・当分、人魚姫みてぇに、歩くだけで痛いだろうぜ。」
「……いいもん。……どんなに痛くても…マサトの側にいれたらいいの。」
 マサトは目を潤ませて、
「・・・バカ・・・ったく・・・みっともねぇから、あんまり俺を泣かせるな。」
と、苦笑いを浮かべ、ソファーに並んで座ると、ミルクを胸に隠すように抱き締めた。

 そっと涙を拭った景山が、その場にいた者達に部屋を出るよう促し、自らも退室した。
 戒も若松も、寡黙に感動を噛みしめた。
 若林もSSSも、本当の祝杯を挙げたいほど昂揚した気分だった。
 景山は、皆の姿が見えなくなってから、
「アリス姫。・・・今夜を通してもっとも気高い姫を拝見いたしました。」
と、廊下のドアの前に跪き、床に恭しく口づけをした。
「そして、坊ちゃまも一層に雄々しく輝いておられます。」
 そう小さく呟いた景山は、極上の笑みを浮かべ、ゆっくりとドアの前を立ち去った。