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<86>
「プライド」
§86§「プライド」

 パリの下町、込み入った路地に小さな店が並ぶ。
 繁栄を彩る煌めくネオンライトも、ここまでは届かない。
 消えかけの外灯の薄暗い通りは、生気のない男達が肩を丸めて彷徨っている。
 そんな通りにある小さなバーには、日がな一日入り浸って賭けカードをする男達がいる。
 情婦に貢がせている男もいれば、年金暮らしの退役軍人や、小金はあるが人生を投げているような近所の店のオーナーなど、顔ぶれは様々だ。
 そうした常連の中に、フランソワ:通称フリーの父親もいた。

 今日も昼頃起き出して、カチカチのフランスパンを水に浸して食べた後、支度をして出掛ける先は、いつものバー。
 店に入ってカウンターに座ると、
『よう、ジャン。コーヒーかい?』
と、カウンターの中からマスターが声を掛ける。
『ああ。・・濃いめのやつを頼む。』
 フリーの父親:ジャンは、いつもここのコーヒーで目を覚まし、適当なカードゲームの相手を探すのが日課になっていた。
 今日はすでに常連がゲームをしていたが、定員が揃っているので、別の相手が見つかるまで暇潰しをしようと、カウンターテーブルにあった新聞を取って読み始めた。
 カウンターの端にはTVが置いてあり、マスターはコーヒーを入れながら眺めている。
 そこに現れたのは、マフィア崩れの男、ポール。
 ポールが使い走りをしていた組織が潰されて、今は情婦に観光客相手の売春をさせて生活している。
『オヤジ。バーボンだ、バーボン。』
『・・フン。ジャンのコーヒーを入れたらな。』
『チッ。タラタラしてんじゃねぇぜ。・・TV見ながらで商売になるのか?やだね、ジジィはよ。』
『お前がツケをキレイに払ってくれりゃ、旅行にでも行ってくるさ。』
 マスターは不機嫌に文句を言うと、ジャンの前にコーヒーカップを置いた。
 常連あっての店ではあるが、常連はツケ払いが多く滞りがちだ。
 それで、時々マスターはヤバイ仕事を拾ってきては、ツケ代わりに払いの遅れている連中に 半ば強制的に請け負わせたりして、どうにか店を続けている。
『寒いと観光客もしけてやがんのさ。これからは、もっと稼がせられるだろうぜ。』
『ったく、女次第とは情けねぇな。』
『ケッ。他人に口出しされたくねぇな。』
『女だって歳を取りゃ、売り物にはならなくなるだろ?そーゆーことを考えてるのかねぇ。』
 やれやれ、と首を振ったマスターが、ポールにバーボンを渡す。
『だから、今、違う女を物色してんだろ。』
 ポールは煩そうにバーボンの入ったグラスを一気に飲み干す。
『・・散々貢いで捨てられるなんて・・・気の毒に。・・・世の中にはシンデレラストーリーを実現させる子もいるのによぉ。』
 そう言ったマスターは、ポールに顎でTVを見るよう促した。
 TVには、虹色に輝くドレスを着て、愛らしく微笑むミルクの姿が映し出されていた。
『あぁ、これか・・・こんだけ可愛けりゃ、いくらでも稼げそうだよな。』
 ポールはマスターの嫌味を聞き流し、TVに映っているミルクの値踏みを始めた。
 が、次第にその表情が驚きに変わっていく。
『・・・っ・・ジャン!お・・おいっ!』
 ポールが新聞を読んでいたジャンの肩をつかんで乱暴に揺すった。
『何だよ?』
 ジャンは面倒臭そうに新聞から顔を上げた。
『テ・・TVを見てみろっ!』
 そう言われてジャンはTVに視線を向けた。
 ちょうどその時、TVでは全身のミルクからズームアップされて、顔が画面いっぱいに映っていた。
 ジャンは眉を寄せて、考え込むようにミルクの顔を見つめる。
『な?そうだろ?』
 ポールが興奮してジャンの顔を覗き込む。
 ジャンは答えずTVを凝視していたが、CMに変わったので新聞に視線を戻した。
『おい、ジャン。わかんねぇのか?』
『・・・何のことだ?』
『今、TVに映ってた子は、この前フリーと一緒にいた子じゃねぇか。市場でサクランボを山盛り買ってる所を見たぜ。』
『・・・別人だろ。』
『いや。絶対間違いねぇな。髪型は違うが、俺の目に狂いはねぇぜ。』
 ポールがヤケに興奮して言うのを、ジャンは怪訝そうに一瞥し、
『仮に本人だからって、どうだって言うんだ?単にフリーがガイドしただけのことじゃねぇか。俺達には関係ねぇよ。』
と、話を打ち切るように言うと、新聞をたたんでカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
 ジャンの素っ気ない態度にポールは我に返り、
『・・そりゃまぁ、そうだが・・・』
と、カウンターに頬杖をついて溜息を吐いた。
『ほぅ。ジャンとこのフリーがガイドしたのか。』
 カウンターの中のイスに座り、煙草にマッチで火を点けたマスターが、煙を吐き出しながら感心したように言った。
『・・・さぁな。俺はチラッとしか見てねぇし、フリーだってたまたま道案内で拾った客ってだけで、知り合いでもねぇしな。』
『ハハッ。そりゃそうだろう。何しろ16歳で大金持ちと結婚した現代のシンデレラらしいぜ。・・・それでも、フリーにガイドを頼んだなら、案外気立てのいい子かもな。・・・フリーも健気ないい子だし・・・ったく、お前等、女や子供に稼がせてて情けなくねぇのかねぇ。』
『っせぇんだよっ!クソオヤジっ!』
 ポールが吐き捨てるように言ってイスから立ち上がり、
『おい、ジャン。ちょっと来い。』
と言うと、ジャンの腕をつかんで強引に店の外へと引っ張って行った。


 ポールはジャンを路地裏へと連れ出した。
 ジャンは振り払うのも面倒な様子で付いて行ったが、人気のない路地裏に入ると、さすがに怒って腕を払った。
『何のマネだ?』
『バーカ。わかんねぇのか?・・いい金づるじゃねぇか。』
『・・・誰が?』
『あのシンデレラだよ。』
 ポールが声をひそめ、周囲を気にしながら言う。
 ジャンは呆れたように溜息を吐き、
『バカはてめぇじゃねぇか。言っただろ?仮に本人だからって、フリーの知り合いって訳じゃねぇ、って。』
と、ポケットを探って煙草を取り出した。
 昨夜は安い酒を奢られて深酒した為、上着を着たまま寝てしまっていた。
 潰れたケースからヨレヨレの煙草を抜いて口にくわえた。
 ポールは自分のライターで火を点けてやる。
 マフィアの使い走りをしていた頃は、よくこうして兄貴分の機嫌取りをしたものだ。
『知り合いじゃなくたって顔見知りってことだろ?ましてフリーにガイドを頼む女ってのは大概お人好しだぜ?』
『・・・フリーが安全牌の客を見つけてるだけだ。ヘタに道徳や法律に煩い大人に関わると、警察に訴えられちまうからな。だから、客から選ぶ訳じゃないし、後の繋がりだってねぇよ。』
 ジャンは煙を吐きながら、舌に付いた煙草のカスを地面に、ペッ、と飛ばした。
『けど、フリーが市場の奴に届け先をメモしてやってたぜ。』
『・・・あ?』
 ジャンは意味が判らず聞き返した。
 ポールは、フフン、と薄ら笑いを浮かべる。
『だから、シンデレラは市場の果物が相当気に入ったらしく、あれもこれもと買い漁って、持ち帰れないから届けてくれ、ってことになったのさ。』
『・・・だから?』
『わっかんねぇかなぁ。居場所が判れば会いに行けるだろうが。』
 得意げに言うポールを、ジャンは眉をひそめて眺める。
 ポールは肩を竦めて両手を広げ、
『そんな顔すんなよ。幸せなシンデレラに幸せのお裾分けをして貰おう、ってだけじゃねぇか。』
と、嘯いた。
『・・・俺は息子に物乞いはさせてねぇぜ。』
 ジャンはムッとして、煙草の煙をポールに吹き掛けた。
『ケッ!何を今更気取ってやがる。相手は金の使い道に困るくれぇの金持ちだろうが。こっちは明日喰う物もねぇ貧乏暮らし。・・フリーの奴に、パパが病気だ、とか何とか言わせりゃ済むことだぜ?』
『・・・俺は病気じゃねぇよ。』
 ジャンは、くだらない、とばかりに背中を向けた。

 ポールの小さな悪巧みだと言うのは判っている。
 息子ながらフリーは確かにいい子で客の評判もいいらしい。
 フリーが困った顔をして頼み込めば、親切な客ならそれなりに金を渡してくれるだろう。
 それは今回に限らず、しようと思えばいつでも出来たことだ。
 だが、ジャンは息子に人を騙すようなことをさせたくなかった。
 酷い親だという自覚はあるが、小さい内から仕事をして、金を稼ぐことを学んで何が悪い。
 いくら努力したって這い上がれない壁がある。
 ジャンもかつては必死に勉学に励んだ時があった。
 ――――――――――
 小さい頃から多少賢さで抜きん出ていたジャンは、行商だった親のいつも誰にでも頭を下げている姿の卑屈さに我慢出来ず、奨学金を獲得して大学まで進みエリートを目指した。
 入社した会社で才媛の美女と出会い結婚も出来た。
 子供も生まれ、何もかも順風満帆と思えた頃も確かにあった。
 が、そうした生活は長く続かなかった。
 経営難で傾き始めた会社が、真っ先にリストラしたのは外国籍の社員。
 赤ん坊が生まれたばかりで、妻と同時に退社勧告をされてしまった。
 不景気風はどこでも吹き荒れ、再就職口も国籍が違うジャンにはなかなか見つけられなかった。
 這い上がるまでの努力と認められるまでに掛かった長い時間に比べ、どん底まで転がり落ちるのは呆気ないほど早かった。
 才媛と褒め讃えられた妻に惨めな暮らしが耐えられるはずもなく、乳飲み子を残してスペインの父親の元に逃げ帰ってしまった。
 ジャンは、何もかもがうまくいかなくなって怒りっぽくなっていた自分を反省し、乳飲み子を抱えて思うように動けない中、日雇いの仕事を見つけて生活しながら、どうにか旅費を作って妻を迎えに行った。
 あれだけ愛を語り合った日々が、簡単に消える訳がない。
 まして、二人の宝である可愛い子供もいる。
 自分の誠意を見せれば、妻はきっとわかってくれる、と信じていたのだ。
 なのに、妻は自分が生んだ子供を抱こうともせず、ろくに話し合ってもくれなかった。
 そればかりか、羽振りのいいアメリカ人との結婚話を進めている所だった。
 やっと会えたと思ったのも束の間、戻って欲しい、と言う言葉も出せずに離婚を承諾させられてしまった。
 信じていた夢も愛も全て裏切られたジャンは、ピンと張っていた何かが切れてしまった。
 サクセスストーリーなんてものは、努力や才能だけで叶うものじゃない。
 たまたま幸運な成功者を、努力もせずに贅沢な生活に甘んじてる連中が、言い訳か免罪符のように持ち上げて褒めそやし、頑張れば誰でも夢は叶う、と嘘を言うのだ。
 成功出来ない者は努力が足らないからだ、と言いたいかのように・・・。
 生まれ落ちたその時から、老い先までが見透かせてしまう者達が大部分なのに・・・。
 どんな罪を犯したから失脚したと言うのだろう。
 そんな心当たりは全くない。
 夢が叶うと信じてきた結果がこれだ。
 ――――――――――
 なまじ夢なんて見なけりゃ良かったのさ、とジャンは自嘲する。
 いまさら潰しもきかず、何かに情熱を燃やすことも出来ず、やる気を起こそうにも切れてしまった希望の糸はもう結ぶことが出来ない。
 悪い親だと思っても、息子には現実の厳しさを教え込んだ方がマシだ。
 生活力さえあれば、どんなに貧しい暮らしでも小さな幸せを見つけられるだろう。
 だから、酷い親でも、息子に罪だけは犯させたくなかった。
 そしてそれが、ジャンの最後に残ったプライドだった。
 息子の稼ぎをアテにするダメな父親だが、息子の仕事やその相手に干渉したことはない。
 息子にも、「騙したり盗んだりはするな。自分に恥ずかしくねぇ生き方をしろ。」と言っている。
 罪を犯すってことは自分自身を裏切ることだ。
 それは誰かに裏切られるより辛い行為だと、ジャンはマスターの持ってくる仕事をする度に思っていた。

『なぁ、待てよ。・・・ジャン!』
 店に戻ろうとするジャンを、ポールが引き留めようとする。
『っせぇ!てめぇの悪巧みに息子を利用すんじゃねぇ!』
 ジャンは根元まで吸った煙草を指で弾いて飛ばし、ポールの足元に唾を吐きつけた。
『・・クソッ・・・てめぇだって息子にたかってるウジ虫じゃねぇか!』
 顔を真っ赤にして怒ったポールは、ジャンを追い越して路地裏を飛び出して行った。
 ・・・フン。ウジ虫がプライドを無くしたら、それこそただのゴミだぜ。
 ジャンはヨレヨレの上着のポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出した。


 店の前まで来ると、ポールが危ない連中につかまっていた。
 潰されたマフィアの中で、残党を集めて小さなグループを立ち上げた、悪道でしか生きれない連中で、以前のマフィアグループ以上に悪辣なことを平気でやる男達だった。
 ジャンは関わりにならないように視線を逸らし、うつむいて店に入ろうとしたが、
『おっと。ジャンにも話があるんだぜ。』
と、男の一人が入り口に立ち塞がった。
『何だよ?今日はマスターの仕事は請け負ってねぇぞ。』
 ジャンが上目遣いに睨むと、
『そのマスターから、ウマイ話がありそうだ、って教えて貰ったんでね。』
と、口の端を上げて不敵な笑みを浮かべた。
『そうそう。何でも超リッチなお知り合いがいるそうじゃねぇか?』
 別の男もヘラヘラと笑っている。
 ジャンは、心の中で、チッ!、と舌打ちした。
 ――偉そうなことを言っても、これがマスターの正体なのだ。
 この危険な連中と同じに、金になりそうな話にすぐに群がってくるハイエナだった。
 表向きは人の良さそうな顔をして蘊蓄を垂れるが、その裏でやってることは誰よりもあくどい。
 だから、こんな冴えない店でもやっていけるのだ、と判っていた。
 カードゲームの場所を提供してるのも、そこから漏れてくるウマイ話を餌食にする為だ。
 そう判っていても、もうここくらいしか居場所のないジャンには、息子に「店には来るな。」と言うくらいしか出来なかった。
 自分が破滅するのは構わない。
 どうせもう半分死んでるようなものだ。
 自分が死んでも、フリーなら、きっと一人でも生きていけるだろう。
 こんなハイエナ連中の餌にだけはさせたくない。――
『だから、知り合いじゃねぇってポールにも言った所だ。』
 ジャンは突き放すように言って、ヘラヘラ笑う男も睨み付けた。
『ジャンよ。随分偉そうじゃねぇか?あ?』
『とにかく話は事務所で聞こうぜ。』
 男達はジャンの虚勢など無視して、ナイフを脇腹に突き付けると、
『ほれ。さっさと行くんだよっ!』
と、凄味のある声で命令した。
 ナイフの先が服に突き刺さり、脇腹の肌に直接当たる。
 チクリ、と痛みが走った時、ジャンは気持ちとは裏腹に体が硬直してしまった。
 ポールも同じように青ざめて固まっている。
 二人は男達に腕をがっちりつかまれ、指示されるままに歩くしか出来なかった。


 その日の夕方、フリーは、ガイドと言うより簡単な道案内で得たわずかなお金で、柔らかいパンとバターを買って、市場の顔見知りに傷みかけた野菜を分けて貰って、父親と暮らすアパートに戻ってきた。
 すでに辺りは薄暗く、部屋の窓から明かりが零れているのを見て、フリーは嬉しそうに階段を駆け上がって行った。
『ただいまぁー。』
 フリーが元気に部屋に入っていく。
 大抵この時間には帰ってない父親がいると思っていたのだ。
 だが、フリーを待っていたのは父親ではなかった。
『遅かったじゃねぇか。ずっと待ってたんだぜ。』
 疲れたような暗い声でそう言ったのは、顔に殴られた痣が浮かぶポールだった。
 父親のジャンは、行きつけのバーに出入りしている連中とは関わり合いになるな、と言っていた。
 フリーは両手の荷物を冷蔵庫や棚にしまいながら、
『・・・何か用?』
とだけ聞いた。
『用もなく待ってねぇだろ。』
 ポールはフリーが棚に置いた果物を横取りして囓りつく。
 落ちて傷物になった果物で、フリーの稼ぎではなかなか買えない物だった。
 今日たまたま分けて貰えたのはラッキーだったのに、とフリーは肩を落とす。
『・・・で?・・・何の用なの?』
『お前に頼みがあってな。』
 ポールは顎に垂れた甘い汁を手の甲で拭って言う。
『・・・頼み?』
『だが、いいか?お前には断る権利はないぜ?お前が断れば、父親は二度と帰って来れねぇだろうからな。』
 ポールは半ばヤケ気味に告げた。
 フリーは緑色の目を丸くして、赤い唇を丸く開けた。
 ポールの半分ほどの身長しかないフリーと、一個しかなかった果物を頬張るポールが、視線を絡め合わせる。
 次第にフリーの顔が青ざめていき、体が震え出す。
『・・っ・・パパに何をしたんだっ?!』
 叫んだフリーは目の縁を赤くして、ポールに挑むように睨み付けた。

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「小さな訪問者」
§87§「小さな訪問者」

 …チャンチャァ〜チャチャルラルラァ〜♪……
 小さなテーブルの上の置き時計が時刻を告げる。
 かなり手の込んだ作りの時計で、時間ごとに四方の扉が開いて人形が飛び出し踊る仕掛けになっている。
 今日は一日部屋で過ごしているミルクは、その都度、小さな人形の踊りをじっと眺めていた。
 時計の時刻を告げる音楽が止まり、人形が奥に戻って扉が閉まると、
「もう、6時かぁ……そろそろ御夕食の時間かなぁ?」
と、ドリーに声を掛ける。
 ドリーはしばらく前から窓辺のイスに上がり、ずっと窓の外を眺めていた。
 ドリーの散歩と運動はガードがミルクの代わりにしてくれていたが、それでも、ずっと部屋にいるのはドリーにとって退屈なのだろう、と思っていた。
「…ねぇ…ドリー?」
 呼び掛けるとシッポを勢い良く振ってくれるが、顔は窓の外を見たまま振り返らない。
 ミルクは小さく溜息を吐いて、読みかけだった本を再び読み始めた。
 けれど、一度気になると、気持ちが本に集中出来なくなる。
 ……何でドリーはずっとお外を見ているの?
 ミルクはゆったりしたカウチに座り、湿布した足を足置き台の上に乗せていた。
 ドリーから自分の足に視線を向けたミルクは、躊躇っていたが、好奇心が勝って恐る恐る立ち上がった。
 午後のティータイムの後で、メイドが湿布を替えてくれた時は、かなり腫れも引いていた。
 痛みもほとんどないが、過保護ぶりを発揮したマサトの指示で、今日はまだ自分一人で歩くことがなかった。
 湿布を踏みつける感触は気持ち悪く、バランスが取り難いので、ミルクはイスやテーブル伝いに窓まで行った。
 すでに窓の外は闇に包まれていて、景色がわからない。
 なのに、ドリーは見えるはずのない外をじっと見ている。
「……ドリー……何を見てるのぉ?」
 益々気になったミルクは目を凝らす。
 と、南門あたりで光が揺れている。
 注意して観察すると、懐中電灯のような物を、意識して振っているようにも見えてくる。
 光が門のツタ柄の格子を照らしているということは、門の外からだろう。
 ……何?……誰なの?
 ドリーと顔を並べてミルクもじっと光を眺めていた。
 が、ハッ、と気付くことがあった。
 ツタ柄の格子越しに揺れる光の位置が、かなり低いのだ。
 ……え?!
 ……って…まさか、フリー?
 どうして?…と考える前に、ミルクは足の湿布を剥がし、サンダルを履いていた。
 部屋を飛び出すミルクの後を、ドリーも追い掛けて行く。
 部屋の外で待機していたガードも、
「アリス様、どちらへ?」
と、尋ねる時には一緒に駆けていた。

 月も星も見えない闇夜。
 いつもより風も強く、冷え込んでいる。
 温度調整されている部屋にいて、ミルクは寒い夜にも気付かなかった。
「フリー!どうしたの?」
 南門に辿り着いたミルクが声を掛けると、
「・・・ミルク・・・ぁ・・・あのさ・・・・・」
 歯の根が合わないような震える声で、フリーが答えた。
 暗くて表情はよく見えないが、闇夜にも輝きだけは判るフリーの目が悲しげに見えた。
 ドリーが門の格子を抜けようとしているが、複雑な門の柄は飾りだけでなく、野良猫や野良犬除けでもあるようだ。
「アリス様。外はお寒いですから、部屋にお戻りください。」
 ガードは自分の権限範囲での注意だけを言う。
 ここでミルクが弱気になれば、出掛けているマサトや戒に連絡を取って、フリーと話が出来るように頼むしかない。
 けれど、フリーは、ドリーが窓に張り付いた頃から、ミルクが気付いてくれるのを待っていたのだ。
 こんな寒い夜に暗闇でたった一人、どんなに心細かったことだろう。
 しかも、様子が普通じゃない。
「今すぐ門を開けてください。彼の訪ねて来た理由は部屋で聞きます。それでいいでしょう?」
 ミルクにしてはキッパリとした言い方だった。
「・・・いえ・・・ですが・・・・・」
「フリーはお友達なの。お友達をお部屋に招待しては、いけないの?」
 挑むようにガードを見るミルクの目は、闇の星のように煌めいている。
 ガードはその煌めきに見取れながらも躊躇していたが、スンッ、とミルクが鼻を啜った途端、ギクッ、とする。
 アリス姫を泣かせてしまったら、後が怖い。
「わ・・わかりました。そう致します。」
 ガードは慌てて警備室へ連絡した。


 南門の騒ぎを聞いたローランド伯爵が、客間の寝室ではなく、一階のサロンを使うようにと言ってくれた。
 そして、少年に暖かい飲み物を出すようにメイドに指示してから、伯爵自らもミルクの後見人として同席した。
 フリーは体が震えていて、すぐには言葉も出せないようで、カップを持つ手も震えていた。
 ミルクはフリーの隣りに座り、一方の手で肩を抱き、もう一方をカップに添えた。
 ドリーの赤くなった手は、あまり体温を感じさせないミルクのヒンヤリした手よりも冷たくなっていた。
 ミルクは、こんな時、つくづく自分の手の冷たさが嫌になる。
 何度も息を吹きかけて暖かくしてから、フリーの手を擦った。
「・・・ミルク・・・ボク・・・・・」
 ココアを飲み干したフリーが、ようやく口を開いた。
「・・・ボク・・・どうしていいか、わからない・・・・・」
 フリーの体は毛布で包まれていたが、寒さだけではない震えが止まらない様子だった。
 それでも言葉が上手く出て来ないようで、もどかしそうに悲しげな顔をする。
 見かねた伯爵が、上品に足を組み、
「こんな夜に訪ねて来るほど、緊急を要する用件があってのことだろう?順序立てて話せないなら、それでもいいから、君の伝えたい事を話したまえ。」
と、穏やかに促した。
 フリーがうつむきがちの顔を上げる。
 声を掛けられるまで、周囲を見る余裕さえなく、この時初めてローランド伯爵の顔を正面から見ることになったフリーは、新たな緊張感を覚えた。
 向けられる伯爵の眼差しは、決して厳しいものではなかったが、子供への甘さを抜きにして真意を確かめようとするものだった。
 数日前、ミルクをガイドした時一緒にいた、戒という男性ほどの冷たさや厳しさがないだけ安心したが、ちゃんと話さなければ、とフリーの気持ちを引き締めさせるには充分だった。
「私の言葉がわかりますか?日本語で話すのが難しいなら、私がフランス語で聞いて、アリス姫にお伝えしますよ?」
 フリーがすぐに答えなかったので、伯爵はそう申し出た。
「あ・・大丈夫です。わかります。」
 フリーは背筋を伸ばして答えてから、
「あの・・・アリス姫って?」
と、聞き返した。
「君の隣りにおられる方です。名前は確かに君の呼ぶ通りですが、私達は敬意を表して”アリス姫”と呼んでいます。」
 ああ、とフリーは頷いた。
 ・・・そう言えば、戒って人もミルクを”姫”って呼んでいたっけ。
「・・ミルクがそんなに偉い人だなんて知らなかった・・・」
 フリーは、またうつむいて呟いた。
「偉いんじゃないってぇ。ただ飲み物のミルクと勘違いしちゃうと困るから、ニックネームでそう呼んでるだけなの。」
 ミルクが照れながら説明する。
「・・・そうなの?・・・でも・・・パパは誘拐された・・・」
「「誘拐?!」」
 ミルクと同時に伯爵も声を発していた。
 フリーは、コクリ、と頷き、
「・・ボクがミルクをガイドしたから、知り合いらしいって・・・」
と言うと、親指の爪を噛んだ。
 ミルクは目を見開き、伯爵に救いを求める視線を投げた。
 伯爵は、困ったように眉を寄せ、
「もう少し詳しく事情を聞きましょう。原田会長と副参謀の戒殿には連絡してありますので、直にお戻りになられるでしょう。行動を起こすにもそれからです。それまでに、聞ける話は聞いておく必要があります。」
と、ミルクを落ち着かせるように言った。
「…そぅね……」
 ミルクも、自分一人で動いても何も出来ないことは承知していたので、伯爵の意見に従うしかなかった。

 フリーの話を要約するとこうだった。
 ――――――――――
 フリーがアパートに帰ると、父親の姿はなく、代わりにポールがいた。
 ポールは、フリーの父親が出入りしているバーのカード仲間だ。
 だが、その日ポールがアパートにいた理由は、賭けの勝ち金の請求などという単純なものではなかった。
 ポールは、下町に蔓延るギャングの使いで来ていたのだ。
 そして、フリーに『お前がガイドしたミルクという少女を、こっそり連れ出してくるように。』と命令した。
 ポールは『お前が断れば父親の命の保障はない。』と言って脅迫したが、フリーは理由を問う以前に、『それは不可能だ。』と訴えた。
 ガイドの申し出をした時でも、彼女は『許可がないと外出出来ない。』と言っていたし、ガイド中も数人のガードが付いてきていた、と説明した。
 ポールは『そんなこと知るか!』と怒鳴り、『さもなくば、それ相応の身代金をベルナールのボスに渡して、父親を解放して貰やいいだろ!俺はただの伝令だ。伝えりゃ、もう用はねぇぜ。』と、帰ってしまった。
 ベルナールの事務所を知っていたフリーは、直接話してわかって貰おうと、尋ねて行った。
 ベルナールのボスはフリーの話に激怒し、フリーを地下室に連れていった。
 地下室の一室には、あちこち殴られ顔を腫らした父親が、ロープでグルグル巻きにされて転がされていた。
 血の気のない父親の顔に、フリーが驚いて駆け寄ると、『このまま放置すれば、明日いっぱいもつかどうか、ってとこだ。』と、ベルナールが背中に言葉を浴びせた。
 『あのシンデレラを誘拐して身代金を取ってやろうと思ったが、それより、お前に金を持って来させた方がいいらしい。父親を何とかしてぇなら、明日中に金を持って来な。ジャンはこれから場所を移す。警察が動き出したら、即刻始末してやるからな。』
 ベルナールは悪知恵を働かせ、自分の手を汚さずに金だけ手に入れよう、と計画を変更したらしい。
 フリーが、途方に暮れて父親の側に座り込んでいると、父親が掠れる声で『フリー。俺に構わず逃げろ。』と囁いた。
 呻くような声は苦しげで、息遣いも荒かった。
 ベルナールは、『わかったら、とっとと行きやがれ!』と、フリーを蹴飛ばし、フリーは手下に首根っこを掴まれ、事務所の外に放り出されてしまった。
 仕方なく、会えるかもわからなかったが、ミルクを伯爵邸まで訪ねて来たのだった。
 ――――――――――

 ミルクは、話し終えたフリーを包むように抱き締め、髪に頬ずりをした。
 ……ミルと関わったばかりに……
 そう思うと、ミルク自身がフリー親子を苦しめているように思えてしまう。
 伯爵は腕組みをして、事態の重さに考え込んでいる。
 サロンのテーブルを囲んで座る三人から、少し離れた場所で様子を伺っていたドルフィンは、小さく舌打ちすると、隣りに並んで立っていた戒のガードに、
『移動時間が勿体ない。今の話をすぐ隊長と将軍にお伝えしろ。俺はSSSのメンバーを呼び集める。』
と、小声で耳打ちした。
 ガードもキラー部隊の一員なので、頷くとすぐに部屋を出て行った。
 ドルフィンも、伯爵に合図を送って部屋を出る。

 ――まずは副隊長のコウメイ殿。
 コウメイに連絡すればハッカー、メンテ、ティンクル(星野)はすぐに駆け付けられるだろう。
 レーサーはすでにイタリアに帰国しているから無理だ。
 ワードはミツル殿に掛かり切りで舞踏会にも参加出来なかった。
 後は、ボム、スナイパーを引き連れて、不夜城のパリに繰り出している、ドクター達に連絡を取らなければならない。――
 ドルフィンは静かな怒りに、全身から青白いオーラを滾らせ、白い顔を一層冴え冴えと美しく浮かび上がらせていた。
 青い瞳の奥で揺れる青白い光は、まさに”氷の炎”と讃えられる絶対零度の美しさだ。
 ドルフィンの真の美貌は、怒りの炎に魂が燃え上がる時にこそ発揮された。
 ・・・人が大事に守ってるものを踏みにじる奴等は大嫌いだ!
 コウメイに緊急連絡を済ませたドルフィンは、ボム、スナイパー、ドクター、の居場所をレーダーで追跡しながら歯軋りした。
 ――フリーの話を聞いた時から、悪いイメージしかない父親の、本当の愛情に気付いていた。
 父親が愛情を持って育てたからこそ、フリーはいい子でいられるのだ。
 フリーの歳には、あらゆる犯罪に手を染めていたドルフィンには判る。
 社会との繋がりを持たない幼い子供に、物事の善し悪しを教えるのは親以外にいない。
 学校に通い始めてから教えられても、意識して理解するよう努力はするが、心の判断はすでにつかなくなっているものだ。
 まして、自分やフリーは学校にさえ、まともに行ってない。
 何が悪いか、ではなく、どうすれば生きられるか、が常に隣り合わせにあった。
 だから、どんなに幼くても、何の罪悪感もなく罪を犯す。
 それが日陰で生きる者達の常識だった。
 そうした世界で、親を愛し、自慢し、屈託のない明るい笑顔を持つ少年を、誰が守ってきたというのだ。
 父親以外に、いないじゃないか。
 その愛情さえあれば、決して不幸であるはずがない、とドルフィンには判っていたのだ。
 そんなささやかな幸せさえ踏み躙ろうとする奴等に、その幸せを自分が得られなかっただけに怒りを覚える。――
 発信器が点滅する地点を地図で確認したドルフィンは、
「ったく、携帯OFFにしやがって・・・後で将軍にキツクお仕置きして貰うからね。」
と呟き、急いでライダースーツに着替えた。
 伯爵邸にはバイクが何台も用意されてある。
 ドルフィンは一番スピードの出るタイプに跨ると、スピーカー付きで走りながら携帯で連絡の取れるヘルメットを装着し、エンジンを噴かし、賑わう夜の街へと飛び出して行った。


 《《《ドウッ!ドウッ!ドウッ!》》》
 鍵の掛かったドアに消音銃が撃ち込まれる。
 グァッシィーーン!
 ドアが蹴破られ、再び、
 《《《ドウッ!ドウッ!ドウッ!》》》
と、拳銃の弾が撃ち込まれた。
 女の腹の上で、ベッドマットの下に手を伸ばしていたボムは、頭上すれすれに弾が通る熱い風圧を感じて、体を硬直させる。
「ヘィ、ボム!緊急事態だよ!とっとと支度しな!」
 ヘルメットを装着したまま、そう言ったドルフィンは、次の部屋へと向かう。
 ・・・緊急事態だぁ?
 ボムは呆然としつつも、失神している女から体を離し、服を着る。
 ・・・何で携帯で連絡しねぇんだ?
 そう思って携帯を見ると、電源がいつの間にかOFFにされてしまっていた。
 サァーーー・・・と血の気が引く。

 《《《ドウッ!ドウッ!ドウッ!》》》
 隣りの部屋から、わずかな銃声音と女性の悲鳴が聞こえる。
 それから、黒いヘルメットを被った黒い影が、蹴破られて開いたままになっていた入り口を横切って行った。
 緊急の連絡を伝え終えたドルフィンは、さっさと伯爵邸に戻るようだ。
 手荒い手段だが、発砲事件は日常茶飯事の夜の繁華街なので、被害者が出なければ警察も犯人を深追いしない。

 支度をしたボムが廊下に出ると、苦笑いを浮かべたスナイパーが出てきた。
「髪が焦げてねぇか?ギリギリで危なかったぜ。」
 スナイパーは自分の十八番をドルフィンに取られて、少し悔しそうに言った。
 そこに、
「・・・何なんだ、アイツは?せっかく、いい所だったのに・・・」
と、愚痴りながら顔を出したのがドクター。
 ボムとスナイパーはヒソヒソと話してから、ドクターを恨めしく睨んだ。
「俺達の携帯をOFFにしたのは、ドクターっすね?」
「いくらドクターでも、困るじゃねぇか。俺達はドクターみてぇにのんびりしてられる立場じゃねぇんだぜ?」
 二人に迫られ、ドクターは軽く肩を竦めて見せる。
「俺は明日には日本に帰らなきゃならないんだぞ?今夜くらいゆっくりさせてくれ。」
「そーゆー問題か?!」
 噛みつきそうな顔で言うスナイパーに、
「構ってる暇はねぇぞ。」
と、ボムが促す。
「そうだな。・・・弁償はドクターに任せるとするか。」
 スナイパーも相槌をして、
「後はよろしく。」
と、安ホテルを飛び出した。

<88>
「ファミリー」
§88§「ファミリー」

 下町でもメインストリート沿いは、それなりの活気がある。
 ただ、地元でも相当腕に自信があるか、後ろ暗い影を背負っている男達が、出入りする場所だろう。
 故に、一般的生活を営む市民は、滅多に近付かない。
 たまたまこの通りの先に用事があって通過しなければならない時だけ、車の中からなるべく通りの男達と視線を合わせないようにしながら、荒んだ街の様子に嫌悪感を込めた溜息をそっと忍ばせる程度の関わりだった。
 それでも、怖い物見たさの観光客が来る。
 そして着飾った派手な化粧の女性達の誘惑的視線を楽しんだりする。
 通りに堂々と立っている女性のほとんどは、いわゆる売春婦で、大抵バックには組織やポールのような男が付いている。
 時々身ぐるみ剥がされる事件も起こるが、元々が海外での浮気を楽しもうという輩なので、警察に訴えることが少なく、警察も殺人が絡まない限りあまり相手にしなかった。

 一頃、この通りを縄張りにしていたマフィアが、中央マフィアのジャベール一派に潰されて、ジャベールの子分のガザールが後の支配を任されたのだが、ガザールが殺人の罪で逮捕され服役囚となって以来、再び地元のギャングが勢力を持ち始めていた。
 その中心人物が、ベルナールだった。
 ベルナールの残虐非道ぶりは、都会ナイズされたスマートなマフィアのジャベール一派にとって、非情に厄介だった。
 しかも、地元だけに、バーの店主のように組織員以外の繋がりが多く、あらゆる情報を網羅している為、ガザールの部下達には太刀打ち出来なかった。
 狡賢いベルナールも、正面からぶつかれば到底敵わないジャベール一派との抗争を避け、ガザールの事務所やその部下達を立てながら懐柔し、実際の支配権を掌握していった。

 売春、賭博、麻薬、等々。
 荒んだ街でもそれなりの利潤があがる。
 抜け殻のようになった連中でも、ボロ雑巾を絞るように魂が砕けるまで捻り上げれば、金という汁が滴るものだ、と平然と言ってのける。
 そして、『金ほど美味い汁はない。どんな連中の血と汗が混じろうと、金はいつも純潔で美しいものだぜ。』と不敵に笑うのだった。


 ベルナールは姿からして一昔前のギャングそのもので、脂ぎった顔の二重顎で弛んだ腹に、太い指で太い葉巻を挟んでしゃぶる、正視しがたい風貌だった。
 都会のマフィアは幹部になればなるほど、スタイルにもファッションにも拘り、一流を好む。
 一見すると、一般人より礼儀正しく身嗜みが整い、紳士然としているものだ。
 筋トレのエクササイズを日課にしているのは常識だろう。
 ベルナールはそうした流れに反発するように、暴飲暴食に溺れ快楽を貪った。

 当然モテるはずもなく、金を積まれても敬遠したくなるような男のくせに、面食いで美人に弱かった。
 今、一番のお気に入りは、キャバレーで歌と踊りのショーに出演している、二十歳を過ぎたばかりのミゼッタ。
 ミゼッタは自分の可愛さにはかなりの自信があり、スターを夢見て田舎を飛び出してきた、よくいるタイプの女の子だった。
 けれど現実は甘くなく、甘い言葉に騙されてアダルトビデオに出る羽目になったり、露悪なショーに出させられたりした挙げ句、夜の通りに立つ女になっていた。
 自分は可愛い、というプライドだけで、心はボロボロだったミゼッタには、ベルナールの醜悪さより握っている札束が輝いて見えた。
 しかも、ベルナールは自分に夢中になって『可愛い』と繰り返す。
 ちょっと演技して喜んだり感じてるフリをするだけで、小遣いを奮発してくれる。
 ベルナールに『愛人にならないか?』と言われる度に、『だってぇ、夢があるんだもん。』と甘えてみせれば、歌と踊りのレッスンにも通わせて貰えるし、こうしてキャバレーのショーにも出してくれる。
 ちょっと高級なアパートにも住まわせて貰えるし、生活費も貰っている。
 ほとんど愛人同然だったが、『だってぇ、夢があるからぁ・・・』と、愛人であることは認めない。
 それほど夢に拘る才能があるかと言えば、ベルナールでも苦笑する程度。
 ただ、確かに可愛さでは群を抜いていたので、ロリータ嗜好のあるベルナールにとって、実の娘より若いミゼッタは、愛しい存在だった。

 だが、ミゼッタは顔は可愛いが、性格は自分勝手で我が侭だった。
 ベルナールが自分に夢中なのは当然、と思うようになり、娼婦から拾われたことも忘れてしまっていた。
 ベルナールのようなブ男が自分に相応しいはずがない、と思うようになり、自分の優しさで相手をしてやっているのだ、と考えるようになっていた。
 そうした気持ちが、『あれが欲しい。』『あそこへ行きたい。』『もっと大きなショーに主演したい。』『ステージ衣装をもっと豪華にして。』と、際限のない要求となる。
 いくらベルナールでも全部を叶える訳にはいかず、すぐに怒り出すロゼッタを宥めながら、多少は要求を叶えてやるようにしていた。
 その為、注ぎ込む金もバカにならなかった。

 そこにバーの店主から耳よりな情報がもたらされたのだ。
 生意気な日本人がフランスで大きな顔をしている、と常々日本企業の進出を面白くなく感じていた所に、派手な舞踏会が開かれるという噂。
 幼妻のお披露目だということらしいが、何とも腹立たしい。
 実のところ、ベルナールは、15歳のフィアンセが話題になった一年前から、ミルクという少女の得も言われぬ透明感に、内心強烈に惹かれていた。
 新聞や雑誌の写真でなく、実物を間近で見てみたい、という欲求がずっとあった。
 だから、話を聞いた時も、身代金を要求するかどうかよりも、会いたい気持ちが先行した。
 それが叶わないなら、出来るだけ大金を、生意気な日本人から吸い上げてやろう、と計画を変えたのだ。


 簀巻きにしたジャンの監視と、興味の失せた後の展開を部下に任せ、ベルナールはミゼッタの出演しているショーを見る為、キャバレーに来ていた。
 最初のステージは、ミゼッタの希望で歌をメインにした構成だったので、あまりパッとしないショーになっていた。
 それでもベルナールはステージのミゼッタに花を投げてやり、ミゼッタが花を拾って投げキスをすると、脂ぎった顔をニヤつかせた。
 早い時間なので客の入りが少ないせいか、盛り上がらないままに終わった。
 と言うより、盛り上がらないのがわかってるので、客足の少ない早い時間にミゼッタの希望を入れた、ということのようだ。
 次のショーではラインダンスやセクシーな踊りとなる。
 ミゼッタもロリータ風のコスチュームになって踊ることになっていて、着替えの為に楽屋へと引っ込んだ。
 ショーの合間に楽屋へ行くとミゼッタが煩がるので、ベルナールは葉巻を吸いながらピザに囓りつき、周囲にいい女はいないかと見回していた。

 と、繋ぎに演奏されていたジャズピアノの曲調が変わった。
 思わず視線を向けると、黒いロングコートを着た長髪の女性が、いつもの奏者に替わってピアノを弾いている。
 柔らかい革製のロングコートなので、性別は本当の所判らないのだが、演奏している横顔のあまりの美しさに、女性以外考えられなかったようだ。
 弾く曲はモダンジャズといったロマンティックな雰囲気があり、同じピアノでこれほど音色が違うのか、と感心してしまうものだった。
 ベルナールは初めて見る顔だったが、美しければ何でも許せる、というコンプレックスからくる信念のようなものを持っていて、美貌に見取れながら、うっとりと演奏に聞き惚れていた。
 曲を弾き終えてロングコートの女性が立ち上がると、一斉に拍手が起こった。
 彼女は・・・と言っては失礼だろう。
 ――そう思わせる意図はあっても、本来そう思われることに激怒するドルフィンなのだから、彼と言うべきだった。
 マサトの指示で、ベルナールのいるキャバレーに潜入して目を惹き付けさせる、という役目を与えられ、譲歩してロングコートを着ることにしたが、
 「そのままで充分女に見えるぜ。」
 と、若林に言われた時は、副隊長ではあっても本気で恨めしそうに睨みつけた。
 ドルフィンは、あの健気な少年フリーの為でなければ誰がするか、と怒り渦巻く感情を押し込めて、男をも惹き付ける色気を醸し出し、ピアノを演奏した。――
 そして、案の定、喰らいついてきた。
 拍手の中、ベルナールの手下がドルフィンの側に寄り、かなりのチップを渡して、『是非、こちらの席でお酒を奢らせて欲しい。』とベルナールの言葉を伝えた。
 ドルフィンは手下が示す席に顔を向け、優美な笑みを浮かべて会釈すると、ゆっくりと近付いていった。

『いやぁ、実に素晴らしい演奏でした。』
 ドルフィンが席に座るなり、ベルナールが躙り寄ってきた。
『ほんの座興です。』
 答えるドルフィンは、相手の心をくすぐるような流し目を送る。
 ――マサトに拾われるまでは、こうした表情も武器にしてきたのだ。
 生まれ持った美貌を呪ったこともあったが、武器になると判ってからは、内心で相手を軽蔑し汚い言葉で罵りながら、利用してきた。
 まったく武器として通じなかった相手はマサトが初めてだった。
 ・・・それは置いといて・・・――
 ドルフィンは奢られたカクテルでベルナールと乾杯し、お互いだけに聞こえる程度の小さな声で会話を始めた。
 ドルフィンが耳元で囁くと、何故かベルナールはニヤついたり、笑いながら頷いたりしている。
 そして、もうじき次のショーが始まる頃になって、ドルフィンと連れ立って楽屋へと続くドアの向こうに行ってしまった。
 部下が付いていこうとしても、
『ちょっと楽屋で話をするだけだ。』
と、ベルナールが言ったので、想像を働かせた手下は、
『ヘッヘッヘ。ごゆっくり。』
と、嫌らしい笑いを浮かべ、また席に戻ってしまった。

 やがてショーが始まった。
 胸を大きくはだけ、太腿も露わな衣装の女性達が、狭いステージに登場する。
 軽快な音楽にのってセクシーなダンスが続く。
 が、いつもならもう登場するはずのミゼッタが姿を現さない。
 ダンサー達は急遽ミゼッタのいない穴埋めをすることになったようで、時々踊りが狂ったりしている。
 段々異変に気付き始めた手下が、ベルナールの向かった楽屋へ様子を伺いに行った。
 楽屋では店の従業員が困った顔で頭を捻っている。
『どうした?!』
『・・・わからないんです。』
『っざけんなッ!判らねぇじゃねぇだろッ!』
『ミゼッタ・・いや、その前にボスはどこだ?』
『・・・それが・・・急用が出来た、と仰られて・・・裏口から出ていかれました。』
『何ッ?!』
『ミゼッタさんも急に帰られてしまうし・・・』
 楽屋には裏通りに出る裏口があったことを、忘れていたベルナールの部下達は、慌てて裏口の外へ出てみたが、すでにベルナールとミゼッタの姿はなかった。


 呆気なく幕は下りた。
 翌日、セーヌ川沿いの小さな倉庫で、数名の死体が発見され、その中の一人がベルナールだと判明した。
 バーの店主は強盗と揉み合いになった挙げ句にナイフで刺され出血死、押し入った強盗犯のポールは店主によって拳銃で撃たれて絶命していた。
 ミゼッタはアパートにいる所を発見されたが、常習していた麻薬を摂取中、入浴しバスタブで溺死。
 狭い範囲での連続事件を怪訝に思う警察も、何の手がかりも掴めず、強盗事件は加害者と被害者が共に死亡したという結論で済ませ、ミゼッタの溺死も事故で処理するしかなかった。
 ベルナールと手下達については、いつもの抗争の一環として、重要視することはなかった。
 ただ、謎の美女の疑念は残った。
 が、誰が命懸けで確証も特定も出来ない人物を”怪しい”と訴えるだろう。
 元々ベルナールの手下はベルナールの強烈な個性あっての存在であり、ベルナールを失えば昔通りのチンピラでしかない。
 巻き込まれて命を落とした仲間のことを思えば、運が良かったと身を伏せながら思うだけだ。  何か大きな力が動いたとしか思えない。
 それは、アッと言う間もなく通り過ぎていった。
 自分達は関わりがない、と知らぬふりをしたかったし、現に何も知らないのだ。
 そう言った事情で、誰もこの悲惨な一連の事件事故を、掘り下げて追求しようという人達はいなかった。

 ジャンはローランド伯爵と懇意の病院で、海外での医師免許も持っている本郷の執刀により一命を取り留めた。
 本郷にかかれば、折れた肋骨が肺に刺さっていようと、患者の体力がギリギリ限界だろうと、99%助けることが出来る。
 これで呆れるほどの女好きでなければ、もっと尊敬の対象になるのだが、手術を終えると後は病院の看護に任せて、また女遊びに行ってしまうあたりが本郷らしい所だろう。

「それにしても、ベルナールの野郎、フリーの父親の命を助けてやろうって気は、初めからなかったんだな。」
「ああ。明日一日待つとか言いながら、夜の内に助け出したのに父親は虫の息だったもんな。」
「時間を置かずに行動に出たボスの判断は正しかった訳だ。」
「ま、所詮、ベルナール程度じゃ、俺達の敵じゃないぜ。」
 任務を果たしたボムとスナイパーは、夜の街に繰り出し祝杯をあげる。

「・・・ですが・・・本当に彼女まで命を奪う必要があったのでしょうか?」
 初めてSSSとしての仕事をした星野は、若林のマンションで青い顔で震えていた。
「優・・・終えた仕事を振り返るな。俺達には前進しかねぇんだぜ?」
 シャワーで血の臭いを流し、バスローブ姿でワインを嗜む若林は、まだ髪の濡れている星野の頭を小突く。
「・・・ですが・・・」
「いいか?決めるのは俺達じゃない。全てボスの意向だ。」
「・・・でも・・・もし間違っていたら?」
「正しい殺人なんてものがあるのか?」
「・・・・・少なくとも・・・正当防衛は・・・・・」
「無視をすれば済んだことを、敢えて手を貸してやったのは何故だ?姫がフリー少年を助けたいと願ったからだ。では、助ける行為は正当防衛か?違うだろう?」
 星野は言葉が返せない。
「ベルナールに居場所を吐かせる為には、あの女が必要だった。あの女は何も知らないし、何もしちゃいないが、俺達の顔を見ている。不運と言えば不運だろうな。フリー少年の不運と大差ねぇかも知れねぇ。」
「・・・それなら・・・」
「助ければ良かった、と思うのか?・・だが、それをすれば、あの女は絶対警察で証言するぜ?自分には関係ねぇからこそ、悲劇のヒロインを演じて名前を売ろうとするに決まってる。」
「・・・確かに・・・」
「つまり俺達にとっては都合の悪い女だから始末した。その判断はボスが下す。俺達は従ってさえいればいいのさ。」
「・・・はい。」
「人の命を奪うのに、言い訳も正当性もねぇ。殺していい奴と悪い奴を誰が決められる?誰も決められることじゃない。ただ、ボスは俺達を守る為にそう命令する。誰よりも俺達を思うからこそ、誰にも決められねぇ決断を敢えて下す。だから、俺達はボスを信じて従ってればいいのさ。」
 若林はワイングラスを掲げ、
「俺達の神、ボスに乾杯。」
と言うと、グラスに恭しくキスをしてから、赤いワインを飲み干した。

 戒はキラー部隊の部下達とバーが店仕舞いをするのを待って、捕らえておいたポールと店主との強盗殺人事件を作り上げてから、明け方近くに伯爵邸に戻った。
 起きて待っていたマサトは、
「ご苦労だったな。」
と、ワインを注いで労った。
「ありがとうございます。ですが、私は当然の任務を果たしたまで。どうぞ、お気遣いなく姫の元へお出でなさいませ。」
 マサトの為に行動出来ることが唯一の幸せと思う戒は、星野のような躊躇いは微塵もない。
 頬を生き生きと紅潮させていると10歳は若く見える。
「ミルクはフリーと手を繋いで寝ちまったぜ。」
「おやおや。若い恋敵の出現ですか?」
 戒が片眉を吊り上げ、微かに笑う。
「父親が無事だと聞いて二人して見舞いに行ってきた後、心細いだろうからって添い寝してやってるだけだ。今夜くれぇは認めてやるさ。」
「ククッ。ボスも寛大になられましたな。」
「・・・ま・・・明日には、ミルクも自分が望んだ事の顛末を知ることになる。俺達が動けばどういう結果が待っているか、をな。」
 戒はワインを飲みながら、ふんふん、と頷く。
 マサトは眉を寄せ、溜息を吐く。
「全てのものを救うなんてことは神にだって出来ねぇぜ。結局、自分がどうゆう選択をするか、しかねぇんだ。」
「当然です。」
「俺にはミルクが大事だ。ミルクはフリーの為に父親を助けたい。・・・だが、犠牲もなく助けられるほど甘い状況じゃない。部下を動かす以上、部下達を守る必要もある。」
「仰る通りです。全て巧くいきました。見事な手際です。」
「クックックッ。・・・戒。あまり俺を煽てるな。兄貴が渋い顔をするぞ?」
「兄さんも同じように答えますよ。何しろ姫の為となれば、私以上に甘い顔をしますしね。」
「・・・以上?戒も甘いのか?」
 マサトは意外そうな顔でからかうように言う。
「教育には厳しさも必要と心得ておりますが、・・・どうでしょう。」
「冗談だぜ。ミルクにはちゃんと判ってるさ。戒が自分を大事にしてくれてる、ってな。」
「坊ちゃまの大事なお方ですから。」
 マサトは、フッ、と微笑んでから、ソファーにもたれて大きく息継ぎをした。
「・・・あぁ・・・大事過ぎて困ってる。・・・いつか、俺が・・・ミルクの繊細な心を壊しちまうんじゃないか・・・そう思うと怖くなるぜ。」
「ご心配なく。姫はそれほどひ弱ではありません。そして、何より、坊ちゃまを信じておられます。何があろうとも、坊ちゃまの半身でありたい、と願っておいでです。」
 戒が自信たっぷりに言うと、
「そうだな・・・確かに・・・」
と、マサトも目を閉じて笑みを浮かべた。


 翌日、昼を過ぎて、ジャンの警護にあたっていた若松が戻ってきた。
 ジャンは特別個室に入っているので、担当の医師と専属看護士以外は面会謝絶になっている。
 若松の報告で、「ジャンの意識が戻り、経過は良好。」ということなので、戒の部下がフリーを会わせる為に連れて行った。
 戒が、
「ジャンには余計なことを話さないように、釘を刺してあるだろうな?」
と確認すると、
「はい。彼はまだ話が出きる状態ではありませんが、何となく事情を察しているようで、こちらの説明に黙って頷いていました。」
と、若松が疲れを見せずに答えた。
「いいだろう。では午後はゆっくり休め。・・ボスは今日一日、姫と過ごされるからな。」
「はい。」
 姿勢を正してお辞儀をした若松は、戒の表情から感じるものがあったが、余計なことは話さずに部屋を退いた。

 そして、伯爵邸の客間。
 フリーが病院に行ったので、マサトはミルクを膝に抱きかかえた。
 ミルクもフリーの父親の意識が戻ったことを聞き、ホッとした様子でマサトに、
「良かったぁ…ありがとぉ、マサト。」
と言って、頬にキスをした。
「ミルクに喜んで貰えれば、俺も満足だが・・・」
 マサトはミルクの髪を撫でながら、じっと見つめている。
 ミルクは、首を傾げ、
「…ん?……なぁに?」
と聞いた。
 マサトは、誤魔化しても仕方ない、と意を決し、全てを話した。
 救出の計画と、処理しなければならなかった命。
 ミルクは、マサトの体に自分の体をピッタリ張り付けるようにして、聞いていた。
 マサトの膝に抱かれているので、ミルクの額がちょうどマサトの喉元に当たっていた。
「事件を知る者、引き起こした者、関わった者、生かしておく訳にはいかなかった。」
 そう告げるマサトの声が、二重に響いて聞こえる。
「俺は俺にとって大事なものだけを守る。これが俺の生き方だ。正義なんて背負っちゃいねぇ。」
 静かに話す言葉は、どこか悲壮感が漂っている。
「……ぅん。……だけど、マサトはフリーを助けてくれたんだもん。……感謝してる。」
「いいのか?俺は人殺しだぞ?」
「……それを言ったら……過去の歴史上の英雄全てが人殺しってことになるじゃん。」
「まぁ、所詮そんなものだろうぜ。」
「……災害はもっと多くの犠牲者を出すし……」
「天変地異まで持ち出したら・・・話がおかしくなっちまうぜ?」
 マサトはミルクの言い出した理屈に苦笑する。
 まさかミルクが殺人まで肯定するとは思っていなかった。
「・・・そんなにあのフリー少年が可愛いのか?」
「…………違ぅ…………」
「無理しなくていいんだぜ?・・・虫も殺せねぇくせに・・・」
「……そんなことないよ……蜂が襲ってきたら叩き落とすか殺虫剤を掛けるもん。ゴキブリがいたら踏み潰すもん。蚊が血を吸ってたら叩き潰しちゃうもん。」
「クックックッ。そりゃぁなぁ・・・」
 マサトが喉を震わせて笑う。
「……マサトを襲う人がいたら、ミルだって……」
「・・・ミルク・・・」
「……マサトの罪はミルの罪……罪深さを承知で一緒の道を歩くって決めたんだもん。戦いの道は血塗られるもの。……覚悟はしてるもん。……そう言ったじゃん?」
「・・・あぁ・・・そうだったな。」
 マサトはミルクの顎に手をあて、そっと顔を上げさせる。
 ミルクは悲しげにマサトを見つめる。
「……ミルの願った我が侭の為に、マサトが犯した罪に苦しんでいるなら、謝らなきゃいけないとは思うけど……」
「バーカ。俺はそんなヤワじゃねぇぜ。」
「…それなら、もう一人で罪を背負わないで。…今回だけでなく…これからもずっと……マサトが背負う罪はミルも一緒に背負っていくから……」
「・・・・・共に・・・地獄の底まで落ちていくか?」
「…うん!…マサトと一緒なら…どんな道でも花畑に見えるよ。…ぅぅん、それよりもっと盛大な花の楽園…覇羅蛇の郷の花園みたいな夢の楽園。」
「ハハッ。そいつは豪華だ。アッハハハハハハッ。」
 マサトは笑いながらミルクを抱き締めた。
 命ある限り飛び続けよう。
 大空を天空に向かって。
 身を切り裂くほどの痛みも、二人でいれば笑っていられる。
 凍てつく風も暖かく感じるだろう。
 命ある限り諦めずに飛び続けてやる。
 行き着く先があるのか、ないのか、行き着けずに真っ逆様に落ちていくのか・・・
 そんなことはわからなくてもいい。
 二人で駆け上がる道を仲間が続く。
 一筋の線が大蛇となって闇夜を蹂躙する。
 一人一人の命が一つ一つの鱗のように煌めいて、燦然と輝きながら煽動する。
「一緒に行こうぜ、ミルク。」
「うん!」
 目を閉じて熱いキスをする二人の瞼には、満天の星が輝いていた。


 そのままベッドインしたマサトとミルクは、真っ昼間から激しい結合に陶酔し、時を忘れて沸き上がる喜びに浸りきった。
 が、体力に差がありすぎて、何度目かの絶頂の後、ミルクは朦朧としたまま深い眠りに落ちてしまった。
 あどけないミルクの寝顔は、まだ幼い少女の面影を残し頼りない。
「・・・本当に虫も殺せねぇくせに・・・」
 マサトは愛おしげに見つめて呟くと、軽く鼻の頭を撫でた。
 弱虫泣き虫でも構わない。
 「一緒がいいの。」と言ってくれるだけで嬉しい。
 精一杯の気持ちで包み込もうとしてくれる想いがいじらしい。
「俺達組織がファミリーなら・・・やっとママが出来たってことか?」
 マサトは、ふと浮かんだイメージに、クスクスと笑い出した。
「・・・随分小せぇチビママだぜ。クククッ。」
 それでも、甘くいい香りのする優しいママだ。
 ・・・ミルクがママになったお祝いに、フリーを仲間に入れてやるか。
 ・・・父親も一緒に来て、島の仕事をして貰えばいいだろう。
 ・・・・・島に来ても人生を投げてるようなら魚の餌になって貰うさ。
 フッ、と不敵な笑いを洩らし、マサトはミルクを腕に抱き直して、髪に頬ずりをした。
 フワッと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 何だか日溜まりに包まれているように眠くなってきた。
 ・・・ママってのは眠くなるのか?
 眠りながら夢の中でクスクス笑う。
 ・・・いい気分だぜ・・・
 マサトは開放感と安心感に抱かれて、くつろいだ眠りに引き込まれていった。

<89>
「天使の浜辺」
§89§「天使の浜辺」

 真っ白い砂浜……
 マリンブルーよりも淡く白い、透明な波打ち際……
 少し先になると急に青色が深まるのは、水深の深さを物語る。
 左右に岩礁の入り江が伸びていて、荒々しい海からこの白い浜辺を守っているようだ。
 岩礁の厳めしさを隠すように椰子の木が茂る。
 一歩外海へ出れば海流が渦巻く荒海となるが、この浜辺はまるで楽園の穏やかさだ。
 蛇窟島の人々は、切り取った一枚の絵のような美しい浜辺を、エンジェルビーチと呼んで愛している。

 振り向けば鬱蒼とした密林と、その奥に聳える大きな山。
 この島の基盤となっている岩盤が、噴火によって隆起して出来た切り立った岩山。
 黒々とした鋭角的な存在であるこの山は、荒ぶる男神を思わせる。
 岩山の内部には空洞が多く、非常に厚く固い岩盤なので、自然の要塞になっている。
 自然を大事にする意味合いから、ほとんどの空洞は自然のままで保たれているが、一部は闇組織”蛇窟”の総本部になっている。
 居住区から少し西の海岸に設置されている研究所からは、高速道路の大きなトンネル規模のトンネルが総本部に繋がっている。
 が、それとは別に、岩山から海へと続く鍾乳洞があり、鍾乳洞の中には川が流れている。
 冷たく澄みきった流れは、ミネラル豊富な飲料水として愛飲されている他、居住区の並びにある畑の野菜を美味しく育ててくれている。

 その鍾乳洞には最近、覇羅蛇の郷の蛇神山から、蛇神の息子夫婦が移り住み、時々大きな蛇の姿を海でも見かけるようになった。
 その大海蛇は、何故か全身が銀色に輝き、いつも頭の上に小さな蛇を乗せているらしい。
 人気のない頃合いを見計らって、海に遊びに出ているようで、まだ実際にその姿を見た人々は少なかったが、雄々しく神々しい姿に、人々はようやく蛇窟島に魂が宿ったように思えて、喜んでいる。
 覇羅蛇の郷の蛇神は全身から黄金の光を放っているという話だが、蛇窟島の地質か海という環境の違いからか、当初金色だったはずの輝きが銀色に変わってきているのも、蛇窟島ならではの神様のようで嬉しく思えた。
 蛇神が蛇窟島に来てからは、猛毒の蛇達も少しおとなしくなったように思える。
 それで、島の人々は蛇神が住み着いた鍾乳洞に祠を作って、奉ろうという計画も打ち出されている。
 銀色に輝く蛇神に、どんな意志があるのかは誰にも判らなかったが、それでもその存在が安心感を与えてくれていることに人々は感謝していた。
 ありがたい存在というものは、滅多に人々の前に姿を現さないものだが、まだ若い蛇神夫婦は海遊びが気に入ったようで、ちょくちょく遊びに来ている。
 それはそれで、何とも愛しい光景であり、どうにかしてその姿を拝みたいと願った。
 ただ、自然を愛する心の強い島の人々は、愛することが触れることではないことを良く知っていた。
 愛するからこそ触れずにそっと見守る、という自然のモラルを持っている人々なので、無理に見ようと狙ったり待ち伏せするようなことはしなかった。
 それで、蛇神夫婦ものんびりと海を楽しむことが出来た。

 島の人々の全てが組織と何らかの関わりを持ち、ほとんどの人々が日々厳しい訓練や任務を果たしているが、もし何も知らない人がこの島に迷い込んだとしたら、何と素晴らしくのどかな楽園だ、と思うことだろう。
 けれど、島の人々の誰一人として、戦う使命を忘れる者はいない。
 海外の情報は常に各家庭のTVやラジオでもたらされ、偏らない報道によって緊迫する世界情勢は伝えられている。
 強くなければ潰されてしまう魂の痛みを皆一様に持っている島の人々は、一人一人が皆、戦士の心を持っていた。
 だからこそ、美しく優しい光景を愛おしみ大切にする思いも強かった。

 そして、そうした思いが集まったかのように、白い浜辺は輝いているのだ。


 南洋の楽園、天使の浜辺……
 …ワンッ……ワンワンッ……
「ドリー、待てよぉ・・・アハハハッ・・・ドリー・・・」
 少年が波打ち際で波と戯れる子犬を追い掛ける。
 ――ミルクと一緒に、父親より一足先に、蛇窟島にやってきたフリー少年だ。
 入院している父親も、動けるようになったら来ることになっている。
 側にいて看護したい気持ちもあるようだったが、現実に少年に出来ることはなかったし、父親が退院するまで一人アパートで待っているのは危険に思われたので、先に連れて来たのだ。――
 …ワンワンッ……クゥーン……キュワンッ……
 ドリーもフリーとすっかり仲良くなって、嬉しそうに飛び跳ねて遊んでいる。
 大人びて見せていたフリーも、水着の短パン姿になると少年らしさが浮き彫りになる。
 すんなり伸びた手足は細く、薄い胸が華奢に見える。

「都会っ子というのは、細っこいものですねぇ。」
 財前が様子を見に来て、感想を洩らす。
「ふん・・・だが、根性は島の子供達にも負けない強さがある。体はこれから作っていけばいいことだ。しっかり指導を頼んだぞ。」
 戒は、自分の代わりに蛇窟島の提督代理になった財前に、念を押す。
「はい。それは充分に心得ております。」
「姫お気に入りの秘蔵っ子という配慮は無用だ。特別扱いはせずに、皆と同じように指導すればいい。才能はある。それを生かすも潰すも本人次第。我々に出来ることは才能を引き出してやる手助けでしかないのだ。」
「はい。承知しました。」
 恭しく頭を下げた財前は、
「いかがです?久々に将軍自ら、訓練のご指導を願えませんでしょうか?」
と、促すように車を示した。
 戒は目を細めて、浜辺のビーチパラソルの下に座っている、ミルクの後ろ姿を眺め、
「いや。穏やかに見えても危険が潜む海岸に、姫をガードだけに任せて残しては行けない。夕食後、自分の時間が出来たら顔を出そう。」
と、答えた。
「では、その様に、皆に伝えておきましょう。」
 財前は再びお辞儀をして、車に乗り込んだ。
 恐れられ敬遠されることの多い戒だが、反面その厳しさに憧れる組織員も多く、神業とも思える特殊技能を「是非教えて頂きたいです!」と願う訓練生が後を断たなかった。

「アハハッ・・・ミルク・・じゃなかった・・姫様ぁ。ドリーがモップみたいにびしょ濡れだよ。」
 ドリーを抱き上げたフリーが、ミルクの前に来て、明るい緑色の目を輝かせながら言う。
「あらぁ……これじゃ溺れちゃいそぉねぇ……」
 ミルクも明るく笑って答える。
 と、シートの上に置かれたドリーが、体を振って思い切り含んだ海水を弾き飛ばした。
「ウワッ・・・」
「…キャッ……」
 ミルクとフリーは同時に叫んで顔を見合わせ笑い転げる。
 波飛沫を被ったように二人の体が濡れてしまっていたからだ。
 ミルクはタオルをフリーに渡し、自分も顔を拭いてから、ドリーを抱っこして濡れた毛を拭き始めた。
 けれど、ミルクの腕を飛び抜けたドリーは、まだ乾かない体で砂浜に寝そべり、砂まみれになってしまう。
「あぁ〜あ・・・もうモップより悲惨だぁ・・・」
「フフッ。…帰ったら綺麗に洗ってあげることにして、好きに遊ばせよぉっと……じゃじゃ馬…じゃなく、じゃじゃ犬だから。」
「アハッ。でも、ドリーに感謝だよな。ボクに気付いてくれたお利口さんだね。」
「うんうん。ホント、ドリーに感謝よね。」
 砂遊びを始めたドリーを微笑んで眺めるミルクの横顔を、フリーは眩しそうに見て、
「ねぇ・・・ミ・・・アリス姫。」
と、照れ臭そうに言う。
「……ん?」
 ミルクはフリーに視線を移して首を傾げる。
 ――本当は”ミルク”のままでいいのに…と言いたいけれど、組織に入る以上、境界線が出来てしまうのは仕方がない。
 組織に所属する者達が、どれほど親しくなろうと決してラインを越えずに、敬意を持ってミルクに接するように、ミルクもまた、馴れ馴れしくならないように気を付けていた。
 それが組織の総帥であるマサトへの、妻としての配慮だと思うから……。――
「ボクさ・・・早く一人前になるよ。」
 フリーは緑色の目を真剣な様子でじっとミルクに据えている。
「…え?…でも…これまでずっと大変だったんだもん。少しくらい子供らしく羽を伸ばせばいいのにぃ……」
「ううん。早く一人前になって、姫様の側に行く。そして、今度はボクが姫様を守るんだ。」
「……フリー……」
 ミルクは胸がキュンと鳴り、目が熱く潤んでくる。
 が、
「だって、姫様がボクの・・・ママだから。」
と言うフリーのセリフに、ズルッとコケてしまう。
「……マ……マ…って……えぇ〜〜……6歳しか違わないじゃーん。」
「大丈夫。その内、すぐにボクが身長も歳も越すからさ。アハハッ。」
 フリーは恥ずかしそうに言って立ち上がると、また波打ち際に駆けて行った。
 ドリーが嬉しそうにシッポを振って追い掛ける。
「えぇ〜〜?!…そんなにすぐに背を越さないでよぉ〜……ってゆーか…何で歳まで…?」
 ミルクは何のことか判らず、膨れ顔で唇を尖らせていたが、フリーは構わずドリーと楽しそうに遊んでいるので、
「ミルもぉ〜!」
と、元気に言うと立ち上がり、一緒に追い駆けっこを始めた。
 ――フリーは今だけの特権を噛み締める。
 ミルクが島を立ち去れば、次にいつ会えるか判らない。
 そして、次に会う時は一組織員としての態度で向き合わなければらならいのだ。
 もう、こうして一緒に遊べる時は来ないかも知れない。
 それでも、フリーは今という時が止まることより、早く一人前の組織員となった姿をミルクに見せたかった。
 大人の男として敬礼して見せた時のミルクの笑顔が見たい。
 志を胸に秘めたフリーが、身長と共に精神年齢を越えるのも、そう遠い未来ではないだろう。――
 ミルクとフリーとドリーは、疲れて砂浜に寝転がるまで、波と戯れ遊んでいた。


 夕日が空と海を鮮やかな朱色に染める。
 風が強まり、波が高くなった。
「そろそろ研究所に戻りましょう。」
 戒がそう呼び掛けた時、砂浜で立ち上がりかけたミルクとフリーが、海を見て動きを止める。
「・・・どうされました?」
 近付きながら海に視線を向けた戒も、息を飲む。
 朱色に染まった海面の一部が銀色に輝いていたのだ。
 そして、海面が盛り上がったと思った次の瞬間、
 ≪≪≪ザバァァァッッッ!!≫≫≫
 と水飛沫をあげて、銀色の光に包まれた白い大蛇が姿を現した。
 鎌首を上げた頭の上には、小さくトグロを巻いた紅白の蛇が乗っている。
 蛇神の息子と嫁になったミルクスネークだ。
 小さな蛇を頭に乗せた若い蛇神は、首を上げたままゆっくりと浜辺へと進んできた。

「…ぅ……わぁ〜ぃ!…ミルミルぅ〜!ジュニア様ぁ〜!」
 ミルクは久々の再会に喜んで、両手を広げて駆け寄る。
 戒は、フッ、と笑みを浮かべて片眉を聳やかす。
 フリーは唖然として口を開けたまま固まっている。
「ミルミルぅ〜…元気だったぁ?」
 ミルクが手を伸ばすと、ミルミルがいつものように手首に巻き付いてきた。
 顔に近付け指先でミルミルの頭を撫でると、応えるようにチロチロと小さな赤い舌を出す。
 どことなく幸せそうな表情に見え、
「ミルミル…幸せなんだねぇ。良かったぁ。」
と言うと、踊るように頭を左右に揺らした。
 フフッ…と笑ったミルクは、銀色の光を放つ大きな白蛇が寄せてきた頭を撫で、
「ジュニア様…ミルミルを大事にしてくださって、ありがとうございます。…マサトが仕事を終えて島に来たら、会わせてくれる、って言ってたんだけどぉ……」
と、申し訳なさそうに言った。
 ――鍾乳洞は自然のままの状態なので、「危ないから俺が連れて行ってやる。それまでは待ってろ。」とマサトに言われていた。――
 銀色に輝く若い白蛇神は、わかってる、と言うかのように体をゆっくり左右に揺らして笑った。
「…それにしてもジュニア様…一段と大きくなられたみたいね……」
 ミルクがそう言って後ろを振り返り、戒に同意を求めると、
「確かに二回りほど大きくなられましたね。さぞかし、ここには美味しい物が揃っているのでしょう。きっとボスも”重畳”と喜ばれることでしょう。」
と、満足そうに頷いた。
「……でもミルミルは全然……」
 ……成長出来ないのは自分と同じ?
 ミルクは言いかけて止め、
「ウフッ。愛されて幸せならいいのよね。」
と、ミルミルにキスをして、銀の白蛇神の頭に戻してやった。
 大きな口が、ニマァ〜、と少し開かれ、うんうん、と頷いた大蛇は、ミルクの体に巻き付くように三周すると、またゆっくりと海に戻って行った。

「・・・ぁ・・・あれは何?」
 銀色の光と共にジュニア蛇神と小蛇が海に潜って行った後、フリーはやっと声を出すことが出来た。
「この蛇窟島の守り神だ。会えた君は幸運だぞ。・・突然のことで驚くのも仕方ないが、次からは恭しく姿勢を正し、挨拶することを忘れないように。」
 戒が説明し、注意する。
「はい!わかりました!」
 フリーはまだ驚いた表情のままで、緑色の目を丸くしながら、戒に敬礼して見せた。
 そうした敬礼をする戒の部下達を見て、覚えたようだ。
「うむ。よろしい。・・では、姫。もう戻らないといけません。」
「ぁ…はぁ〜ぃ。」
 ミルクもフリーを真似て敬礼してみる。
「・・・・・コホンッ・・・姫はその様なことを、なさらないように。」
 小声でボソッと言った戒は、ミルクを待機させてある車へと促した。


 蛇窟島の西岸にある海洋科学研究所。
 ここの二階には、海に張り出した大きなバルコニーのある総帥用の自室がある。
 マサトは若松や他のSSSメンバー達と、欧州での仕事に奔走していて、一緒に蛇窟島に来ることが出来なかった。
 それで、夕食はミルクとフリーと戒だけの寂しいものだった。
 戒は岩山の要塞に副提督としての自室があるが、マサトが来るまでは研究所に泊まることにしていた。
 ただ、訓練を受けさせて欲しい、という訓練生達に応える為に、夕食後、
「姫。くれぐれも夜更かしなさらずに、無断で外へ遊びに出られることなく、お休みなさいませ。よろしいですね?」
と、念を押して、特殊訓練センターへと出掛けて行った。
「はぁ〜ぃ。いってらっしゃい、戒さん。頑張ってねぇ〜。」
 フリーに付き合ってはしゃぎ過ぎたミルクは、もうすでに睡魔に誘われていたので、くっつきそうな瞼をどうにか開けて、手を振って答えた。

 総帥の自室にも客間が用意されていたので、ミルクの滞在中はフリーもそこに宿泊することになった。
 ミルクが帰国後は、父親が島での生活に慣れて完全に回復するまで、訓練センターの寮住まいとなる。
 ――寮にも色々種類があって、すでに組織員になっている者達がより高度な訓練を受ける為に滞在する施設と、才能を認められ更に開発する為に郷から選抜されてきている訓練生の為の施設と、両親を失った子供達を保護育成する為の施設などがある。
 フリーは当面、保護育成の施設に入る。――
 明るく優しく、よく気の付くフリーなら、きっとすぐに友達も出来るだろう。

「ねぇねぇ、姫様ぁ・・・星がすごいよぉ!」
 バルコニーからフリーが呼ぶので、ミルクはドリーを抱っこして行ってみた。
「あッ!流れ星だぁ・・・」
 フリーは急いで両手を組ませると、目を閉じて祈った。
 声は聞こえないが、唇が動いている。
 ミルクが微かな笑みをこぼすと、パッと闇でも輝きを失わないフリーの緑色の目を開けて、
「願い事・・・間に合ったかなぁ?」
と、少年らしい素直さで聞いてきた。
「うん、きっと間に合ったよ。いつもより長い流れ星だったから。…ね、ドリー?」
 ミルクはきっぱり保障しながらも、責任を子犬のドリーに向ける。
「……クゥ〜ン?……ッワンッ!」
 ドリーは小首を傾げてから、何となく応えるように吠えた。
「アハハッ。やっぱ、ドリーは賢いや。ありがとぅ、ドリー。」
 フリーは明るい笑顔でドリーの頭をクシャクシャと撫でた。
 それからバルコニーの手摺りに頬杖をつき、
「・・ハァァ・・・何だか夢みたいだ・・・」
と、呟いた。
 少年の紅潮した頬をそっと撫でたミルクは、
「……でも……厳しい場所だって……マサトが言うの……」
と、不安な声で言った。
「・・うん。判ってる。・・・だって、そうでなければ、ギャングからパパを救い出せる訳ないよ。」
 ――警察さえ怖がってなかなか介入出来ない悪辣非道なギャングを、いとも容易く壊滅してしまえる力を持つことは、簡単ではないはずだ、とフリーは理解していた。
 それでも、マサトから「仲間になるか?」と問われた時、「お願いします。」と即答した。
 父親も、先が見えてしまう生き方ではない別の道を見出した息子に、希望の光を見出したようで、「本人がそう望むなら。」と了承してくれた。――
「……環境的にも危険がいっぱいなんだってぇ……」
「・・うん。だろうね。・・・だから、ここは守られているんだよね。」
 受け答えが逆転しているようだ。
 やはりフリーは少年らしさを持ちながらも大人びた要素を持っている。
「…そっか……ぅん。きっとフリーなら大丈夫ね。」
 ミルクは不安な自分に言い聞かせるように言うと、深呼吸して潮の香りのする風を吸い込んだ。

「あ・・・あそこ、銀色に光ってる。」
 フリーが手を伸ばして指差しながら言うので、ミルクも指の指し示す方に目を凝らした。
 暗い波間を確かに銀色に輝く筋が移動していく。
「……まだ遊んでるのぉ?」
 思わず呆れて呟いたミルクのセリフに、フリーが笑い出す。
「プククッ。姫様って・・・」
「……ん?」
「ううん。・・・もしかして食事しに来てるとかって場合もあるだろ?」
「…ぁ…そっか……」
 ミルクは何だか恥ずかしくなって赤面してしまう。
「ププククッ。・・・ホント、可愛いね。」
「……それって……ミル?…ミルミル?」
「アッハハッ。・・・どっちも・・・ってことにしておくよ。」
 フリーがそう言ってウィンクした時、
「ワンッ!…ワンワンッ!」
と吠えて、ドリーが存在を主張する。
 ドリーはミルクの胸を蹴って飛び降り、フリーの足元でジャンプする。
 フリーはドリーを抱き上げて、
「あぁ、もちろんドリーもさ。」
と、頭を撫でながら頬ずりをした。
 ――女の子同士の関係は難しい。
 どうもドリーは、ミルクはいいお友達だけど可愛いのは自分の次、と思っているらしい。
 マサトや戒は厳しいと承知しているので、”いい子”の澄まし顔でいるが、他の人といる時は自分を優位に立たせたい衝動に駆られるようだ。――
 ミルクはちょっと肩を竦めると、ドリーをフリーに任せ、バルコニーの手摺りにもたれた。
 ……銀色の海蛇神様……
 ……どうかフリーを守ってくださいませ……
 ……そして島のみんなが笑顔でいられるようにお見守りくださいませ……
 ミルクは蹴られた痛みの残る胸の前で手を合わせ、そっと祈った。

 満天の星空の下、海に煌めく一筋の流星……
 それは幻想的に美しい夜の海だった……

<90>
「裏切り」
§90§「裏切り」

 蛇窟島に来て三日目の朝、ついにミルクがプチ切れた。
「何でこっちに来れないのよぉー!」
―「いや、だから・・急に大きな取引が入っちまったんだから仕方ねぇだろ?」
「舞踏会を頑張れば、島ではゆっくり出来るって言ってたじゃない!」
―「・・・まぁ、そうだが・・・」
「マサトが来ないなら、ミル、家に帰る!」
―「そう言うな、って。明日の夜か、明後日の朝にはそっちに行けるから、待っててくれ。」
「学校だって休んで来てるのにぃ!」
―「騒ぎが収まるまで新婚旅行しよう、って話し合ったじゃねぇか。」
「何が新婚旅行なの?独りぼっちでする新婚旅行なんて聞いたことない!」
―「戒やドリーがいるだろ?それにフリーだって。・・第一日本に帰ったって、どのみち俺がいなきゃつまんねぇだろ?」
「ママやお兄ちゃんがいるもん!」
―「・・・どこに?」
「だから、ミルの家……」
 そう言いかけてミルクは、ハッ、と口を噤んだ。
 待つ時間が長くて去年の夏の旅行と意識が重なってしまい、日本に帰れば懐かしい自宅に戻れる、と勘違いしていたのだ。
 けれど、もう、生まれ育った自宅には帰れる部屋がない。
 自宅と呼べる場所は、マサトの家になっていたのだ。
 ミルクは、急に胸が締め付けられるほど寂しくなって、受話器を握り締めたままポロポロと泣き出していた。
―「・・・ミルク・・・明後日そっちに行っても、数日はゆっくり出来る。頼むからもう少し待っててくれ。・・な?」
 そう言われても納得出来ないが、返す言葉も浮かばない。
「……もぅ…ぃぃ……」
 ミルクは消えそうな声で言うと、一方的に受話器を置いて通話を切った。
 が、マサトからのコールももうなかった。
 虚しくやるせなさばかりが募る時間が過ぎた。
 ミルクは大きく溜息を吐き、ベッドから降りるとシャワールームへと向かった。

 怠い心を抱えたまま身支度を整えたミルクは、戒に勧められてダイニングテーブルに着いた。
 食欲もなく、薄いスープだけをゆっくりと啜る。
「ちゃんとサラダやパンにも手をつけなくてはいけませんね。高い気温はそれだけで体力を消耗します。そんな粗食では体が持ちません。」
 ミルクは戒の小言に、目を眇めて無言の抗議をする。
 先に食事を済ませている戒が、後ろで手を組み、じっと監視している状態が、ミルクには面白くなかった。
「その魚も香ばしく焼けていて、見た目より美味しいですよ?」
 戒は気にすることなく注意を続ける。
 起き抜けからの長電話が、ミルクの不機嫌さを物語っていたので、聞くまでもなかった。
「………で?……フリーは?」
 ミルクも戒の注意を無視して、スープだけを啜り、違う話を振る。
 いざとなったら、お互い”我の強い”我が侭同士。
 こうなったら大人も子供もない。
「島の様子も判ってきたようですし、あまり遊び癖が付かない内に、意識をここでの生活に向けた方がよろしいかと思いまして、ガードの一人に訓練センターなどを案内させてます。」
「……まだ訓練なんていいじゃない。」
「向上心のある者に、高度な訓練を見せることは、より高い目標を持てて意味があるのです。」
 戒の言葉が何となく皮肉に聞こえてしまうのは、ミルクの心が落ち込んでいるからだろう。
 ミルク自身もそう自分に言い聞かせ、グッ、と我慢した。
「………で?……ドリーは?」
「この所、我が侭になってきたようなので、今日は訓練と躾を学習させることにしました。」
 ……ってことは何?
 ……何にもしないで、ボォーッとしてるのはミルだけ?
 ……向上心がないから?
 ……だけど、マサトはドリーとフリーがいるから、って言ってたのに……
 ……いるのは戒さんだけ?
 ミルクは益々不機嫌にスープを啜った。
 ・・・ズズズゥゥーーッッ・・・
 音がした途端、戒が眉をひそめて、チッチッチ、と首を振る。

 ・・・ガチャンッ!
 大きな音を立てて、スプーンがスープ皿に落ちた。
「…がるるるるぅぅぅ〜〜……」
 ミルクが巻き舌で呻ってみせると、
「姫。・・・そのような・・・」
と、戒が小言を言い出す。
 ミルクは手近にあったパンをムギュッとつかんで、戒に投げつけた。
 戒は避けることなく受け止める。
 ミルクはその涼しい顔が余計面白くなくなり、次々とパンを投げつけたが、戒も次々とキャッチして、側のテーブルに置いていく。
 ・・・ガタンッ!
 イスを倒して立ち上がったミルクは、パンがなくなったので今度は皿やコップを投げ始めた。
 何を投げても、方向が狂って大きく逸れても、全て戒がキャッチしてしまう。
 確かに避ければ、壁や他の物に当たって破損しかねない。
 キャッチしてミルクの手が届かない場所に置いてしまうのが一番なのだが、一方でミルクの悔しさを増幅していく。
 ミルクは”負けじ”と投げ続け、戒は息の乱れもなく、ほとんど無表情に落ちる前につかんでしまう。
 身嗜みは一応可愛いワンピースを着たお嬢様風だが、マサトへの腹立たしさも一緒にぶつけるミルクは、サリバン先生と対決するヘレンのようだ。
 結局、散々投げ散らかしても、グラス一つ割ることもなく、ミルクの方が疲れきってしまった。
 肩で荒い息継ぎをするミルクは、
「もぉ、ミルに構わないでッ!!」
と、泣きながら叫んで、部屋を飛び出していってしまった。


 研究所を飛び出したミルクは、自転車を漕いでエンジェルビーチを目指す。
 風を切るように漕ぎ、溢れてくる涙を吹き飛ばす。
 何かが重苦しく胸を締め付ける。
 約束を破ったマサトへの怒りだけでなく、サイボーグのような戒への怒りでもなく、違う何かが胸を締め付けている。
 ビーチに降りていく階段の手前で、自転車をガードレールに立て掛けたミルクは、一気に階段を駆け下り、白い浜辺まで駆けて行った。

 浜辺にはほとんど人影がなく、荒い波が打ち寄せる音だけが聞こえている。
 よく晴れているが風が強い。
 風が強いから波が荒いのだろう。
 けれど、それが人影のない理由ではない。
 ここが決して観光ビーチではないからだ。
 一緒にいてくれる相手もなく、どうやってここで過ごせばいいと言うのだろう。
 マサトやSSSのように海に潜って漁をする才能もない。
 怖くて拳銃に触れることも出来ないのに、射撃訓練が出来るはずもない。
 ダンスくらいでバテてしまう体力では、到底ここでのストレッチメニューを他の訓練生達と一緒に出来る訳がない。
 何にも出来ない自分が、独りぼっちでどうやって過ごせばいいのだ。
 ……帰りたい……
 思わず心で呟いた時、胸を締め付ける悲しみの理由に気付いた。
 ミルクには、もう帰れる場所がないのだ。
 唯一、帰れる場所はマサトの胸でしかないのに……
 その腕の中だけなのに……
 マサトは、天駆ける龍の如く、遠い空の下。
 ……結局、取り残されちゃったじゃん……
 ミルクは、拭っても拭っても、込み上げてくる涙を止めることが出来なかった。

 長い間、波打ち際に佇んでいたミルクが、一歩一歩前に足を進め始めたことに、深い意味はなかった。
 ただ項垂れて、虚ろな目をして、一歩一歩進む。
 踏みしめた砂が波に攫われる。
 バランスを崩しそうになりながら、ミルクはフラフラと歩を進めた。
 くるぶしを洗う波が、脛から膝へと高くなっていく。
 スカートが濡れて太腿にまとわりつく。
 それもやがて波に隠され、腰から胸へと海に浸かってしまう。
 と、突然、踏みしめていた砂の感触がなくなり、ガクッと全身が沈んだ。
 「急に深くなるから気を付けろ。」と、前に来た時教えられたことを、ミルクは沈んでいく海中で、ぼんやり思い出していた。


 体がグィッ!と強い力で持ち上げられたと思うと、海面から頭が浮かび上がった。
「何やってんだッ?!」
 この島ではあり得ない罵声がぶつけられる。
 ミルクは少し海水を飲んでいたので、咳き込んで返事が出来ず、聞き覚えのある声の主に顔を向けた。
「…ぇ……ゴホッ…ゴホゴホッ……リュウ…ゴホゴホッ……」
「そんな恰好で泳ぐバカはいねぇぜ!」
 竜二が怒鳴りながらミルクをグイグイと浜辺へと引っ張っていく。
「……どうせ…バカだもん……」
「フン。そうらしいな。」
 どうにか海面が腰までになり、竜二は脇に回して支えていた腕を放し、ミルクの手首をつかんだ。
「…ゴホッ…ぁん……そんなに引っ張らないでよぉ……」
「足元が不安定だから気を付けろ。こんな所でコケてたら、砂まみれになっちまうぞ。」
 竜二は振り返らずに乱暴に言って、ミルクの腕を引いて行く。
 それでも手首や腕が痛くなることはなかった。
 ミルクの歩ける速度に合わせてくれていることに、ミルクもようやく気付いた。
 乱暴な口調の中にある優しさ。
 きっと、すっかり変わってしまっただろう、と思っていただけに、以前のままの竜二らしさが見えて、ミルクは少し嬉しくなった。

 浜辺に上がると、竜二はミルクの顔をじっと睨んで、
「・・・どーゆーことだ?」
と、問い質した。
 ミルクは濡れたスカートを掴んで絞りながら、
「……そっちこそ……こんな所で何してるのぉ?」
と、頬を膨らませて言い返した。
「俺はここの訓練生だぜ?」
「…だから聞いたんじゃない。……サボリ?」
「バカ言え。そんなことしたら、地獄のシゴキが待ってるぜ。・・・今日は鍾乳洞の点検と清掃が俺達の任務だからな。山からずっと下ってきた所なのさ。」
 竜二はミルクがスカートを絞るたびに見えてしまう太腿に、視線を向けないようにと水平線に目を向けた。
 「俺達」と言われて周囲を見回すと、岩礁前の椰子の木辺りに数人の人影が見える。
「……そぉなんだぁ……」
 ミルクは竜二の気遣いに気付かず、掴む場所を変えてはスカートを絞る。
「・・・なぁ・・・絞るより、戻って着替えた方がいいんじゃねぇの?」
「……どこへ?」
「・・・研究所に泊まってんだろ?アリス姫が来てる、って訓練生の間でも評判だぜ。」
「……やだ……」
「・・・あぁ?」
「……そこに戻るのは嫌なんだもん……」
「・・・・・・・・・何かあったのか?」
「……別に……」
 ミルクは竜二に背を向け、
「仲間の人達が待ってるんでしょう?あまり遅くなると、地獄のシゴキが全員に降り懸かっちゃうよ。…もう放っといていいから、竜二さんも行っちゃって。」
と、突き放すように言った。
 竜二は困ったように腕組みをしていたが、
「・・・そうだな。」
と呟き、仲間のいる方へと走り出した。
 ミルクは小さく溜息を吐いて、竜二の走り去る姿は見ずに、浜辺に座り込んだ。

 いつもより強い風が濡れた服に吹き付けて、体温を奪っていくようだ。
 時折、細かい砂が顔に打ち付ける。
 ミルクは、立てた膝に顔を隠すようにして、両腕で膝を覆った。
 惨めで寂しくて孤独だった。
 目が痛いのは海水のせいか、砂が入ったのか、熱くて痛い目から涙が溢れる。
 ・・・バサッ・・・
 いきなり肩に何かが掛けられ、ミルクは驚いて顔を上げた。
「・・あ・・・仲間の上着を借りたんだ。・・・俺のは濡れちまってるからさ。」
 ミルクの涙に戸惑いながら、竜二が説明する。
 涙で霞む目で仲間のいた方を見るが、もう姿は見えなかった。
「……どうしたの?」
「・・あぁ・・・先に行って貰った。・・・お前を放っとけねぇよ。」
 竜二は、自分の上着を腰に巻き付け縛りながら言った。
 肌にフィットした黒いランニングが、竜二の体を引き立てる。
 着実に日々鍛錬を重ねているのが伺える体つきだ。
 何だか恥ずかしくなったミルクは、
「……放っといていいのに……」
と、うつむいて言った。
「・・・お前・・・幸せじゃねぇのかよ?」
 ミルクの言葉を聞き流し、唐突に質問する。
 ミルクは竜二の顔を見ずに、
「……幸せに決まってるじゃん……」
と、答える。
「なら何であんなマネをするんだ?何で泣いてんだよ?」
 竜二が怒って質問をぶつける。
「……だって……砂が目に入って…痛かったんだもん……」
「・・・マジかよ?」
「…ぅぅ…本当だもん。さっきだって、海水に砂が混じらない所で洗おうと思っただけだもん。」
「・・・バッカじゃねぇか?海水なんかで洗ったって余計痛くなるぞ?」
「……だから……どうせバカなんですぅ……」
 ミルクがまた膝を抱えて顔を隠す。
 背後で竜二の溜息が聞こえる。
「・・・じゃぁ、せめて目を洗いに行こうぜ?・・・鍾乳洞の川は綺麗だから、そこで洗えば少しは痛みも引く。・・・な、そうしよう?」
 以前より大人びた話し方に、ミルクは竜二の変化を感じた。
 顔の前に差し出された手も、以前より逞しくなったように思える。
「……ぅん……」
 逞しく優しくなった竜二の手に、ミルクはそっと自分の手を重ねた。


 岩礁の合間にポッカリと空いた洞穴がある。
 鍾乳洞を抜けてきた川は、小さな滝になって海に注いでいる。
 思ったより水量があり、入り口付近は水飛沫が霧になって虹を映している。
「…ぅわぁ……綺麗ぃ……」
 見取れるミルクに手を貸しながら、
「ここは初めてなのか?」
と、竜二が意外そうな顔をする。
「……ぅん……前に来た時は、マサトが怪我をしてたから……」
「・・・へぇ・・・ま、いいや。少し中に入れば手を伸ばせる川があるんだ。そこで、ハンカチを濡らしてやるよ。」
「…ありがと……」
 ……何か変……
 竜二に優しい言葉を掛けられるたびにドキドキしてしまう。
 竜二はミルクが転んで怪我をしないように気を付けながら、誘導していく。

 入り口付近は狭かったが、少し入った先は多少広くなっている。
 そして、竜二が言っていたように、手を浸せる細い川が流れていた。
 ほの暗いが、ライトを点けなくても足元がわかる程度の明るさはある。
 竜二は早速ハンカチを取り出し、何度か濯いで海水分を抜いてから、清流を含ませてミルクの目を流してやった。
「どうだ?・・・ちょっとは痛みが引いただろ?」
 数回繰り返してから竜二が聞く。
「…ぁ…うん。大丈夫みたい。…ありがとぉ。」
 ミルクは微かに笑みを零して答えた。
 竜二は、ホッとしたように笑い、
「やっと笑ってくれた。」
と言うと、近くの岩に腰掛けた。
「……ごめん。……何か、ホントにバカみたいだよね。」
 ミルクはハンカチを絞って熱っぽい目に押し当て、情けなく答えた。
「・・・なぁ・・・そんな所にしゃがみ込んでると体が冷えるぞ。そこの小さい岩に座れよ。」
 竜二は近くの岩を指差した。
「……ぇ?」
 ミルクは不安げに首を傾げる。
 目を洗えれば、もうここにいる必要はないはずだった。
「・・・頼む。・・・少し話がしたいんだ。」
「……でも……戻らなくていいの?」
「・・・どうせ俺は単独行動で懲罰もんだろうから、今更しょうがねぇよ。」
「……ぁ……」
「気にするな、って。・・・それより、話をしようぜ。」
「……ぅ…ん……」
 ミルクは少し寒気を感じて、貸して貰った上着の前を重ね合わせて、岩に座った。

「・・・寒いならこっちに来いよ。抱いてやるぜ。」
 ミルクはギクリとして、竜二の顔を見つめる。
 竜二は苦笑し、
「襲ったりしねぇって。肩を抱いて温めてやるって言ったんだよ。」
と、肩を竦めて見せた。
 ミルクは自分の誤解が恥ずかしくなり、赤面しながら、
「…ごめん……」
と、頭を下げた。
「・・・ま・・・俺としちゃぁ、どっちでもいいけどな。」
「………竜二さん………」
「だってさぁ・・・お前、ちっとも幸せそうじゃねぇじゃねぇか?何なんだよ、それは?・・・アイツは絶対お前を幸せにする、って言ったんだぜ?だから諦めてやったんじゃねぇか!」
 ミルクは目を丸めて口を押さえる。
 何て大胆な発言だろう。
 この島で、そんなことを口にしたら、どうなるかわかっているのか。
 ミルクは次第に竜二と向き合っていることが恐ろしくなった。
 また竜二を自分のせいで追い詰めてしまうのではないか、と思うと、聞かなかったことにして逃げ出したくなった。
「お願い……そんなことを言わないで。」
「じゃぁ、ちゃんと答えてくれ。・・・ミルク。お前は今本当に幸せなのか?」
「…何度も幸せだ、って答えてるじゃない。他に答えようがないもん。そんなに何度も聞かないでよ。」
「嘘だッ!」
「嘘じゃないもん!…もう戻るから、ここでの話は忘れて!」
 ミルクは立ち上がり出口へと向かう。
 が、すぐに竜二に腕をつかまれ、抱き締められてしまう。
「…ぁ……ぃゃ……」
 ミルクが抵抗して体を捻るが、竜二は一層腕に力を込めて抱き締め、ミルクの唇を奪ってしまう。
「……ッン?!」
 竜二の唇が強く押しつけられる。
 頭を抱え込まれて動きが取れず、やがて唇を割って竜二の舌が侵入してきた。
 温かく優しい感触で、ミルクの舌を捉え、絡めてくる。
 体中に熱い疼きが走り、抵抗出来なくなってしまった。
 ……何でこんなことを……
 ……ぅぅん……きっとミルのせい……
 ミルクはまた涙が溢れてきてしまった。

「・・・泣くなよ。」
 ようやく唇を解放した竜二が、ミルクの涙を吸う。
「……ごめんね……ミルがバカだから……また竜二さんを巻き込んじゃった……」
「そう簡単に惚れた女を心から捨てられねぇよ。」
「……だけど……ミルがこの島に来なければ……あんなバカなことをしなければ……」
「それは違うぜ。」
 竜二は愛しげにミルクに頬ずりをして囁く。
「俺が組織に加わったのは、勿論アイツへの憧れと崇拝を持ったからだ。・・・が、もう一つ、理由があった。・・・それは、組織員になってもお前を見ていたかったのさ。」
「……リュウ……」
「これはアイツ・・・いや、ボスへの裏切りじゃないぜ。たまたま同じ相手を好きになっちまっただけだもんなぁ?」
「……だけど……」
「だってそうだろ?俺がお前を好きになることが裏切りなら、ボスに惚れてる組織の女は皆裏切り者か?どれだけボスに命懸けで惚れてる女がいると思う?」
 ミルクは目を伏せ、力なく首を振る。
「そーゆーのを知ってても言えねぇんだろ?お前はみんな我慢しちまってるんだろ?それが組織の為だから。お前が我慢してなきゃ、成り立っていかねぇから。・・・けど、それでお前は幸せなのかよ?」
 ミルクは答えられずに息を震わせる。
「・・・組織の中に一人くれぇ、ボスよりお前が大事な奴がいたっていいじゃねぇか。そうでなきゃ、いっつもお前が我慢するばかりだぜ。」
「……ぃぃのぉ……」
 ミルクには巧く言葉に出来なかった。
 どうすれば竜二にわかって貰えるだろう、と気持ちばかりが焦る。
 ……こんなことをしてたら……
 ……そんなことを言ってしまったら……
 ……今度こそ、命の保障はないのに……
 ミルクは言葉を探し、悲しげに竜二を見つめた。

「俺の命をミルクにやるよ。」
 竜二は、もう判ってる、と言うかのように、熱い眼差しでミルクを見つめながら言った。
「……ぃ…ゃ……」
「いいんだ。俺はお前に命を捧げる。お前を愛し、お前だけを思って、死んでいく。生涯、愛した女はお前だけだ。一生変わらねぇ不変の愛だ。死んだ俺の魂は、お前の魂に溶け込んで一つになれる。・・・もう誰にも邪魔されることもねぇ。どんな力でも引き剥がすことだって出来ねぇんだぜ。」
「……ダメだってばぁ……」
 ミルクはポロポロ泣きながら首を振る。
「死んで・・・俺がずっと側にいてやるよ。な?・・・そうすりゃ、もう、誰がお前の恋しい相手に惚れようが、寂しくねぇだろ?・・・寂しくなったら、お前の中にいる俺に話し掛ければいい。俺はいつだって何度だって、変わりなく答えてやるぜ。・・・愛してる。・・・愛してる。・・・ミルクだけを死んでも愛してる。・・・ってな?」
「……それじゃ嫌なのぉ!……バカァァァーーーッッ!」
 ミルクが泣きじゃくって竜二の胸に顔を埋める。
 ミルクを抱き締める竜二の腕も切なげに震えている。
「・・・死んでいい、って言ってくれ。・・・そうすりゃ、いつだって俺は魂と命と心をお前に捧げてやるぜ?」
 ミルクは頑なに首を振る。
 ふと、竜二と二人だけの世界で寄り添って生きていけたら、と思ってしまう。
 が、それも言葉には出来なかった。
 そして、一瞬でも、マサトへの愛を裏切るような思いが浮かんだことを、罪深く感じた。
 ……どうすればいいの?
 ミルクは身動きが取れなくなって、心で悲鳴をあげた。


「そこまでにしましょう。」
 洞窟に戒の声が響いた。
 ミルクと竜二は同時に顔を上げた。
「姫。お迎えにあがりました。濡れた服でこのような寒い場所にいては風邪を引いてしまいますよ。」
 戒はいつもと変わらない口調で淡々と言う。
「……戒さん……」
「さぁ、姫。温かいお風呂が用意してございます。温かいココアもすぐにお入れ致しましょう。どうぞ、御一緒にお戻りください。」
 戒はガードから毛布を受取り、ミルクの体を竜二から引き剥がすようにして毛布で包んだ。
 竜二は抵抗せずにじっとしていた。
「一条竜二。お前は懲戒房行きだ。」
「・・・判ってます。何なりとお好きなように。」
「フン。心配するな。殺したりはしない。お前には嫌というほど生き抜いて貰うことになるだろう。」
 竜二の熱い言葉を踏み躙るように言う戒は、全てを傍観していたらしい。
 考えてみれば、ミルクのガードに抜かりがあるはずがなかった。
 ただ、荒れてるミルクを落ち着かせる為に、様子を伺っていたのだ。
 助けようと思えば、竜二がそうしなくても助けられただろう。
 竜二はその姑息さに気付き、歯軋りした。
「正式な処分はボスに報告してからだが・・・ボスもお前には長い苦行を望まれることだろう。」
 そう冷たく言い放った戒は、
「連行しろ。それと、自殺などしないように、厳重に監視しろ。」
と、部下に命令した。
 そして、
「では、姫。参りましょう。」
と言うと、足が竦んで動けないミルクを丁重に抱き上げた。