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<66> 「大樹と花」 |
§66§「大樹と花」 かつては親友と言えるほどに仲良くしていた美佳に、強迫され貶められそうになったことが、やはりミルクにはショックだった。 マサトは、酷く落ち込んで言葉も巧く話せないミルクの為に、仕事を切り上げて地下の部屋へと連れて行った。 深い思いに沈むミルクを慰められる言葉は見つからなかった。 ただ、肌を重ね合わせ、ゆっくりと宥めながら、優しく愛を囁いた。 「、、ぁぁぁ、、、マサトぉ、、、」 ミルクはマサトを見つめて、苦しいほどに切ない吐息を洩らす。 「ミルク・・・愛しているよ。」 「、、ん、、、ミルもマサトを愛しているぅ、、、」 ミルクは手でマサトの胸の蛇を撫でて、悲しげに微笑んだ。 愛する人に抱かれてこそ、女は花になれる。 心を解き放つように花びらを綻ばせ、甘く香って、トロリと蜜を溢れさせる。 「、、ねぇ、、、」 結ばれたまま、マサトを体の中に感じながら、ミルクは甘える仕草で首を傾ける。 「・・ん?」 微かに笑みを浮かべて、マサトはミルクの前髪を後ろに掻き上げ、額にキスをする。 「、、マサトって、、、大きな樹木みたい、、、」 「・・・クスッ。・・・そうかな?」 「、、ぅん。、、、太い幹で枝をいっぱい広げて、豊かな葉を茂らせている大樹なの。、、、根は地中深くまで伸びて、大地にしがみつく。、、、見えないけれど、太くて丈夫な根っこ、、、それが闇のマサト。、、、そして、日の光を浴びて生き生きと葉を茂らせるのが、、、表のマサト。」 「・・あぁ・・・確かに・・・」 「、、どちらも、、、マサトがマサトである為に、、欠かせない存在。」 「・・うむ・・・」 「葉を茂らせた大樹は、、小鳥達の寝所となり、、昆虫や木の実を拾う動物達の命を育んでいる。、、、けれど、、太く幾枝にも分かれた根こそが、、幹や枝や葉を守り育てている真の力の源。、、、そして、深く根を張ることで大地をも支えている。、、、マサトは、、大きな、、大きな、、大樹、、、」 「・・ミルク・・・どんな賞賛の美辞麗句より嬉しいぜ。」 マサトは、グッ、と体を押し上げ、 「ぁぁ、、、」 と、仰け反ったミルクの喉に唇を這わせる。 「、、ん、、ん、、、ぁぁぁ、、、ミルは、、、マサトの樹木に、、咲く花、、、」 「あぁ。・・・ミルクほど可憐な花はいない・・・」 「、、違ぅ、、、違ぅのぉ、、、」 ミルクが、イヤイヤ、とゆっくりと首を振る。 「・・・ん?」 「、、ミルは、、、力強い枝に支えられ、、優しい葉に包まれて、、そっと咲いている小さな花、、、」 「世界中でもっとも魅惑的に香る・・愛しい花だぜ。」 「、、、花は、、咲くだけ。、、、樹木の愛に抱かれて、、眠るように咲いているの、、、」 「・・・いつかは・・甘く熟れた果実を実らせるだろう?」 「、、それは、、、わからないもん、、、」 ミルクは拗ねた上目遣いで、うるうるとマサトを見つめる。 「・・ん。・・そうだな。それは、また先の話でいい。」 マサトはミルクにキスをすると、熱い眼差しで見つめ返した。 「俺の腕の中で・・密やかに咲いていればいい。」 「、、、うん、、、」 ミルクは目を閉じて、深く呼吸した。 膣壁が無意識にうねってマサトの蛇を締め付ける。 「・・くっ・・・うぅ・・・ミルク・・・愛しい俺の花・・・」 マサトは苦悶の表情で眉を寄せ、大きく息を吐いた。 「、、マサト、、、ミルを見つけてくれて、、ありがとぉ、、、」 ミルクは再び、潤んだ目をマサトに向けて、甘い吐息で囁いた。 マサトもミルクを熱く滾る目で見つめる。 「俺が・・俺の女を・・見逃すはずがねぇだろ?・・クックッ。」 お互いの鼻の先を擦り合わせるようにして、マサトが笑った。 「・・俺の女・・・俺の花・・・」 出会うべくして出会い、結ばれるべくして結ばれた、魂の半身。 絶対的力を誇る逞しい大樹と、身を守ることを知らない弱々しい花。 長く苦しい時を経て、ようやくお互いを探し当てたのだと確信する。 「、、、マサト、、、」 「・・・ミルク・・・」 ミルクの目から涙がこぼれ落ちる。 「・・泣くなよ。・・・笑って咲いていろ。」 「、、、ぁぃ、、、」 ミルクはマサトに、ギュゥゥゥッ、と抱きつき、感じて背中を反らせながら、甘い吐息をこぼした。 マサトはゆっくりと体を上下に動かし始めた。 「、、ぁぁぁ、、、感じるぅぅぅ、、、」 「・・ん・・俺も感じるぜ・・・」 マサトはミルクと頬を合わせるように抱き締めて、腰を動かし続けた。 ミルクに”泣くな”と言いながら、何故かマサトも涙が込み上げてきてしまう。 優しすぎるミルクに、自分の背負っている闇の十字架は、重過ぎるだろう。 戦うことを望まずに滅んでいった崇高な血を、受け継いでいるミルク自身は、自分の価値に気付くこともない。 戦うことでしか生き残れなかった一族の長であるマサトの、深く這うように張り巡らされた根は、多くの生き血を養分としているのだ。 それでも、ミルクは薄いベールの花びらで、そっと慈しむように包んでくれる。 簡単に摘み取られ、軽い力でも握り潰せてしまう弱い花でも、咲いているだけで周りを幸せにしてくれる。 咲けよ、花。・・・愛しい花よ。 マサトは涙をミルクの甘く香る髪で拭い、荒れ狂う熱情のままにミルクを突き上げ続けた。 立て続けに絶頂を繰り返し、恍惚としたエクスタシーの中気絶したミルクを、マサトはそっと寝かせると、ベッドを抜け出した。 トレーニングジムへ行き、特製のサンドバッグを拳で叩き、蹴りを打ち付ける。 サンドバッグが特製なのは、マサトのパンチの破壊力が大き過ぎて、普通の物だとすぐに破けてしまうからだった。 バスッ!バグッ! 音を吸収するような重い響きがして、サンドバッグが重そうに揺れる。 マサトを遠巻きにしている人達は、明らかに不機嫌なマサトに近寄り難さを感じていた。 「・・・会長。・・・お呼びと伺いましたので・・・」 しばらく様子を伺っていた高藤が、遠慮がちに声を掛ける。 バッシィィーンッ!! 超強烈なパンチがサンドバッグに食い込む。 高藤は、ビクッ、として顔を強ばらせた。 背筋に悪寒が走り、冷や汗が滲む。 「・・ミイラとりがミイラになってどうする?」 マサトはサンドバッグを睨んでパンチを繰り出し続けながら、冷たい声で言った。 「・・・申し訳ありません。」 バスッ、バスッ、、ドスッ、ドスッ、、、 「俺は謝罪の言葉は嫌ぇだと言ってんだろッ?・・初めから謝らなきゃならねぇことは、すんじゃねぇッ!」 ビッシィィーンッ!! マサトの凄まじいパンチに、側にいる高藤は体を硬直させる。 熱風のような風圧が伝わり、喉がカラカラに乾いてくる。 「・・・る・・琉美江さんを愛したことは・・後悔していません。」 「お前の気持ちはお前自身の問題だッ。自分で解決がつくなら口出しはしねぇぜッ!・・・けどな、人目につく所で関係を臭わす失態を晒しやがったせいで、ミルクは目撃した奴に強迫された上、卑劣な罠に嵌められる所だったんだぞッ!」 高藤もその一件は、すでに景山から聞かされていた。 迂闊だったとは思うが、今は反省するより、対策を考えるべきだろう。 それはマサトがいつも要求することでもあった。 同じ過ちを繰り返さない為に反省することも必要だが、反省は事後対処をしてからにしろ、と常に言われている。 まず先手先手に行動することで、失敗を補うことが可能になるのだ、と。 「・・口封じの手配を致します。」 「いや。・・それはまだ無理だ。」 マサトは苛立ちをサンドバッグへ発散させることで、どうにか高藤を殴らずに済んでいるようだった。 高藤へ視線を向けることなく、ひたすらサンドバッグに拳を叩き付けている。 「・・アリス様が反対されておられるのですか?」 「口に出しては言わねぇが、心から納得させるのは難しい。・・仕事に関しては一切干渉しねぇミルクも、自分が関わることには頑固だからな。」 「・・・姫君ですから。」 高藤はそう相槌を打つと、フッ、と失笑してしまった。 笑っていられる立場でも状況でもないのに、マサトに一歩も引かず強情を張るミルクの姿を思い浮かべた時、つい頬が緩んでしまったのだ。 マサトがサンドバッグを叩く動作を止め、目を眇めて睨んでいる。 だが、睨む目に燃え滾る怒りは、高藤より自身に向けられているような焦れったさがあった。 マサトはタオルで顔の汗を拭い、 「ったく・・・一番厄介だぜ。」 と言うと、今度は縄跳びを始めた。 ヒュヒュヒュヒュッ、、、ヒュヒュンッ、、ヒュヒュンッ、、 見えない縄が風を切る音だけがする。 軽いステップで縄を操りながら、思案げな眼差しは虚空に向けられている。 「・・・会長のお気持ち・・お察し致します。・・・琉美江さんもアリス様同様に、たおやかで控え目でありながら、頑ななまでにお優しい方ですので・・・」 「おい。・・人が対策に苦慮してる時に、ノロケてんじゃねぇッ。」 ヒュヒュヒュンッ、、ヒュヒュヒュンッ、、ヒュヒュヒュンッ、、、 マサトは少し高くジャンプしながら三重飛びを交差させる。 「・・ぇ・・ぁ・・マスコミに手を回すには、まだ早いと思われますが・・・」 「そのことは、こちら側で何とか考える。・・お前は今後、これ以上他の奴に感づかれないように注意しろ。・・今、表で動いてるお前が裏に関わるのは危険だ。表の務めをしっかり果たせばそれでいい。・・ただし、細心の注意を払え、ってことだ。」 「はい。以後、充分に配慮致します。」 高藤は姿勢を正して頭を下げた。 「、、、ぁ、、ふっ、、、」 寝返りを打って手を伸ばしたミルクは、伸ばした手がシーツに落ちて、ん?、と目を開けた。 マサトの姿がない。 デートの約束をした日ではないから、きっと仕事なのだろう。 考えたら、今日から夏休みだ。 ・・・夏休みの初日だというのに、何て日になっちゃったの。 ・・全然宿題が出来ないじゃない。 ミルクは、まだ火照りと気怠さのある体を起こして、熱いシャワーを浴びてきた。 それから、洋服ダンスの扉を左右に大きく開く。 地下の部屋での楽しみの一つに、ここに詰まったドレスを着ることも入っている。 外では恥ずかしくて着られないような、超フリフリドレスも超ロリロリ服も、コスプレを楽しむ感覚で着ることが出来る。 ほとんど男性ばかりの殺伐とした空間なので、ミルクが可愛い服を着て歩いていると、明るい笑顔で挨拶をしてくれる。 ミルクが戯けた様子で、スカートを両手でつまみ、踵を交差させてお辞儀をすると、大抵相手も楽しそうに笑いながら、紳士風な手を胸に当てたお辞儀を返してくれた。 ミルクは、ここ地下ではすっかりアリス姫としてアイドルになっていたのだ。 みんながミルクを慕っていたし、ミルクもみんなが好きだった。 地上に戻れば再び厳しい顔に戻って、時には冷酷にも残忍にもなる男達だったが、ミルクの前では自然と笑みがこぼれた。 景山はそんなミルクの為に服を用意するのが趣味になってしまったようで、ミルクが洋服ダンスの扉を開ける度に、新しいドレスが増えていた。 ミルクは、新しいドレスはお出掛け用に取って置き、マサトのお気に入りの白いセミロングドレスを着ることにした。 髪飾りを片側の耳の上で留め、赤と白の縞模様のミルクスネークを手首に巻き付ける。 ミルクスネークのミルミルは、もうすっかりその場所を自分の定位置と思っているようで、飼育ケースにミルクが手を入れるだけで、自分からクルクルッ、と手首に巻き付いてくる。 「こんにちわ、ミルミル。」 ミルクは手首を顔に近付け、鎌首を上げているミルミルの頭にキスをする。 ミルミルはチロチロッ、と赤い舌を出している。 「元気?・・もう食事は済んだ?」 ミルクは指先でミルミルの頭や胴や腹を撫でながら、話し掛けた。 ミルミルは撫でられる所を気持ち良さそうに伸ばして、小さな頭をゆっくり左右に揺らす。 「ゥフッ・・・ホンット可愛ぃ・・・」 ミルクはしばらくミルミルに話し掛けていたが、ミルミルがロリポップに見えてきて、お腹が空いていることに気付いた。 長針が12時を指すと人形が踊り出す、可愛い振り子時計に目をやると、もう3時近い。 「・・・ぅぅ・・・何か食べ物ないかなぁ・・・」 部屋を見回しても何も置いてなかった。 急遽地下に来ることになったので、そこまで準備する時間がなかったらしい。 安全や衛生面から、予定が入った日に飲み物とお菓子などを用意するようにしていたのだ。 確かトレーニングジムの並びの休憩室に飲み物の自販機があったはず、と思い出したミルクは買ってくることにした。 ミルクが廊下に顔を出すと、 「いかがなさいました?」 と、ボディーガードが声を掛けてくる。 「休憩室で飲み物が買いたいの。」 「飲み物でしたら、すぐお持ちするように伝えますが・・」 「いいよぉ。みんなお仕事中でしょう?・・お買い物も楽しい散歩だもん。ふふっ。」 そう言って、ミルクはポーチから出したお財布を持って歩き始めた。 少し迷いそうになりながら、休憩室を見つけたミルクは、 「こんにちわぁ。お邪魔しますぅ。」 と言って、入っていった。 「あ・・アリス様。」 「アリス様、お散歩ですか?」 数人くつろいでいた男達がイスから立ち上がってミルクに挨拶をする。 「ええ。飲み物を買うついでに・・・あっ・・・かき氷?」 男達の一人が発泡スチロールに入ったかき氷を、シャクシャク、とつついていた。 「あ・・はい。・・暑かったものッスから・・」 言われた男は照れ臭そうに笑った。 「いいなぁ・・・どこで売ってるのぉ?」 「これは上の・・食堂内の購買で・・・」 「ぁ・・・そっかぁ・・・」 地上は当然倉庫として運営されているし、昼間なら食堂も開いているのは当然だった。 けれど、ミルクが上の施設を利用する訳にはいかなかった。 ミルクが地下にいることは、地上で普通に仕事している人達の知らないことなのだ。 「買ってきましょうか?」 ミルクのガッカリした顔に男が聞いたが、ミルクはすぐに笑顔になって、 「ううん。いいの。ありがとぉ。」 と答え、自販機のレモンティーを買った。 ミルクはそれを持ってまた部屋へと戻った。 彼等がミルクに好意的なのは感じられるし、ミルクも好意を向けて貰えるのは嬉しかったが、マサトのいない時に、親しく話し過ぎることはお互いに避けていた。 部屋に戻ってTVを観ながらレモンティーを飲んでいると、ドアがノックされ、かき氷を持ったボディーガードが現れた。 「先ほどの者が、アリス様へと・・」 「えー・・・いいのぉ?・・・あッ、お礼言わなきゃ。」 「いえ。これを渡してすぐに戻りましたので。」 「そんなぁ・・・ちゃんとお礼が言いたかったのにぃ・・・」 そう言いつつも、ミルクはかき氷から漂う甘く冷たい空気に目を輝かせた。 「アリス様が喜んでいたことは、後で伝えておきます。」 「うんッ。絶対そうしてね。・・・いっただきまぁーすッ。ふふっ。」 ミルクはクスクス笑いながら、シロップのかかった削り氷を一口すくって食べた。 「ひやぁ・・って美味しぃ〜・・・」 ボディーガードはすぐに部屋から出たので、ミルクは一人で感激しながら、かき氷を食べていた。 そこへマサトが戻ってきた。 「ミルク。待たせて悪かった。・・・つーか・・・何だ、それ?」 マサトが眉をひそめる。 ミルクが簡単に訳を説明すると、 「・・若松。毒味は済ませているのか確認しろ。」 と怖い顔で言った。 若松はすぐに廊下にいるボディーガードを問いただし、 「確認してあるそうです。」 と、報告した。 「ふむ・・・」 それを聞いても、マサトは不機嫌そうな顔のまま、じっとミルクを見ていた。 「・・・何でぇ?・・・食べちゃいけなかったのぉ?」 ミルクが拗ねて唇を尖らせた。 「・・・お前なぁ・・・騙されて危ない思いをしたばっかで・・・よく、そう簡単に人が信じられるな。密封されてる物ならまだしも、剥き出しの喰い物を簡単に貰ったり喰ったりすんじゃねぇぜ。」 「・・・ぅぅ-・・・マサトが信じてる人達はミルも信じてるもん。」 「・・俺はそんな甘かねぇよ。・・信頼しても過信はしねぇ。」 「・・・そーゆーの・・ミル、よくわかんない。・・・ねぇぇ-、、食べていい?」 ミルクは甘えて上目遣いに瞬きをする。 マサトは、やれやれ、と溜息を吐いて、 「ったく、しょうがねぇなぁ・・・半分は俺が喰ってやる。」 と、ミルクからかき氷を取り上げた。 「あーん・・・ずるいよぉ・・・」 「全部ミルク一人で喰ったら、これから食事に行こうってのに、そっちが喰えなくなるだろ?」 「・・・かき氷の方がいいもぉーん・・・」 「ダーメ。」 マサトは勢い良く氷を口の中へと掻き込んだ。 キーン、とした冷たさがコメカミに伝わる。 マサトが片目をひそめて、コメカミを指で押さえた。 「ほらぁ・・・クスッ。こーゆーのはゆっくり溶かしながら食べなきゃね。」 ミルクはマサトからかき氷を取り返して、スプーンで一口すくって、口の中で溶ける感覚を楽しむ。 「んー・・・美味ちぃ・・・」 「・・・なら、俺はこうするぜ。」 マサトはミルクがまた口にかき氷を入れた瞬間、ミルクにキスをして口を吸う。 「、、、ぁぅ、、、」 「クックックッ。・・美味なり。」 マサトは不敵な勝者の笑みを浮かべ、頬を膨らませるミルクに、もう一度ゆっくりとキスをした。 |
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<67> 「ホストクラブ」 |
§67§「ホストクラブ」 ホストクラブ『摩天楼』。 リムジンを通りに横付けし、一人の女性が降り立った。 彼女が店への階段を上がると、二人の男が後に従ってついていく。 「いらっしゃいませ。・・・初めてのお越しでいらっしゃいますか?」 店先で出迎えたホストは、彼女から漂う風格に圧倒され、緊張した面持ちで尋ねた。 「ええ、初めてなの。・・こちらがとても楽しいお店だと、噂をお聞きしたので、寄らせて頂きました。」 女は薄いシルクのショールを、スルリ、と肩から外して受け付けの男に手渡した。 店の奥が覗ける場所で、スックと背筋を伸ばして中を伺う姿は、女に慣れている男達でも思わず生唾を飲み込むほど、美しく艶やかだった。 これほど魅惑的にチャイナドレスを着こなせる日本人女性は、滅多にいないだろう。 黒のノースリーブで、真っ赤な大輪の牡丹が裾を飾り、スリットがかなり上まで入っている。 そこから見え隠れする肌の光沢はドレスに負けていない。 ピッタリと露わな体のラインは、絶妙なプロポーションを証明している。 下着を何も身に着けていないことは明らかで、妄想を駆り立てる。 栗色の髪をアップにまとめ上げ、チャイナ風のかんざしをさした美貌の女性は、20代半ばにも見えるが、堂々とした雰囲気はもう少し上のようにも見える年齢不詳さだった。 店の奥からこの珍客に見入っていた店長は、ハッ、とした顔になり、急いで女性の所まで早足に進んだ。 「これは、これは。・・銀座のクラブ『蛇窟蘭』さんのママ、アザミ様でいらっしゃいますね?」 店長が丁寧にお辞儀をしながら言うと、 「あら。ご存知でいらしたの?・・ホホッ。」 と、アザミは優美に微笑んだ。 「もちろんですとも。この業界でアザミママの名声を知らないのは、モグリか駆け出し。・・とは言え、直接お目にかかれることは滅多にない下の者ですので・・お会いする機会に恵まれ、光栄の至りです。」 「まぁ、どんな名声かしらぁ?・・さすがにホストの方は煽て上手ですこと。ホホホッ。」 「とんでもない。アザミママに煽てなど、必要はないでしょう。その美しさだけでも男達の視線を欲しいままにされておられるのですから。・・熱烈に求愛する男達が掃いて捨てるほどおいででしょうに、今夜はどのような気紛れですか?」 「同業者ならおわかりでしょう?・・いつも気を使って傅いている日々ですもの、たまには気兼ねなく男に傅かれてみたいものよ。・・フフッ。」 アザミの妖しげな笑みに、店長は、 「・・あぁ・・クスッ。わかりますとも。」 と、納得して口元で笑い、アザミを店内へと案内する。 アザミのお供の男二人の内、一人は入り口付近に立ち、もう一人はアザミの案内された席の端に、影のように息を潜めて座った。 店長はホストを手招きして、 「お気に召す者がおりましたら、是非、御指名下さい。」 と、一人一人を紹介した。 「・・そうねぇ・・・彼と・・彼にするわ。」 アザミは若そうな男二人を選んで、 「ごめんなさい、店長。・・おじ様方ばかり相手にしてると、たまの遊びは若い子がいいわ。」 と、アザミの側にいたいような顔ぶりをしていた店長に言った。 「あ、いえいえ。どうぞご随意に。」 店長は選ばれたホスト二人に、アザミが業界でも有名な銀座のママであることを告げ、 「くれぐれも失礼のないように、お持てなしをしてくれたまえ。」 と言って、奥へと下がっていった。 新米らしいホストがオーダーを受けにきたので、アザミは、 「シャンパンは飲み飽きてるの。ワインをいただくわ。」 と言って、手に持っていた小さなバッグから煙草を取り出した。 アザミの両側に座った若いホスト二人は、同時にライターの火をつけて差し出す。 アザミは前髪の長いホストの方に煙草を向けた。 「さすがに銀座でクラブをされていらっしゃるママさんですね。素敵な・・ちょっと変わった指輪ですね。」 火をつけられなかったホストが、さりげなくアザミの手をとって軽く握りながら誉めた。 蛇が指から甲にかけて巻き付いている指輪である。 「ホホッ。安物だわよ?・・アクセサリーは嫌いなの。ただ、これはお守りだから、ずっと身に着けているだけ。」 アザミは煙草の煙を細く吐いて、やんわりとホストの手を押し戻した。 「アクセサリーが嫌いでは、男は何を貢いでいいか、迷うでしょうね。」 「いいのよ、貢がなくても。もう、そうしたことは若い子達に任せるわ。売上を稼いでくれるのは、お店の子達だもの。現役を退いて、趣味でやってるお店だし、お客様は皆さん会員の方だから、ゆっくりくつろいで頂ければ充分なの。あまり重い関係にはなりたくないでしょう?」 「それでやっていけるのですから、羨ましい限りです。」 「若い子には及ばない妖艶さ。その魅力で現役を引退されるとは、もったいないですね。」 「ありがとう。・・でも、このお店は若いお嬢さんが多いのね。私じゃ相手するのがつまらないかしら。」 アザミは煙草を吸いながら、グルリと店内を見回した。 「いえ。同席させて頂いて光栄に思っております。」 「まぁ、嬉しい。・・フフッ。それじゃぁ、楽しい夜に乾杯しましょう?」 ワインが運ばれてきたので、グラスに注がれるのを待って、アザミは二人のホストと交互に乾杯をした。 店長が時々アザミの席へ様子を伺いにくる。 若いホストが失礼をしないか、余程心配らしい。 アザミの二人の供にも、 「飲み物をお出し致しましょうか?」 と、気を使う。 「いいえ。彼等は外では人から出された物は口にしないのよ。お気になさらないでね。」 アザミは目を細めて、余裕の笑みを浮かべて答えた。 「そうですか。・・では・・どんなことでも、何なりとお申し付け下さいますよう。・・ヤスヒロ、カズヤ、くれぐれも粗相のないようにな。」 そう念を押して、店長は再び奥へと下がっていった。 店長は、アザミのバックに風俗業界の黒幕がついている、という噂を耳にしたことがあった。 政財界要人や海外から来日するVIP専門の高級娼婦の総元締めらしい、という噂も、ある筋から聞いていた。 半信半疑の噂だったが、屈強な男二人を供にしていることや、その若い美貌には似合わないほどの威圧感と風格は、噂が確かなものと感じさせていた。 だが、口の軽い若いホスト達には到底教えられない。 もし、そんな噂が自分の所から流れたりしたら、翌日には何処かの海底に沈められてしまうだろう。 どんな気紛れか、アザミの本心はわからないものの、取り入ることが出来れば、もっと店を発展させることが出来るだろう。 機嫌を損ねれば、この店だけでなく、店のバックにいる組織にまで圧力がかかるだろうことは、多いに考えられる。 そうなれば、アザミのバックの黒幕が動く以前に、店のバックの組織から制裁を受けることは必至だった。 期待と不安が葛藤し、店長は緊張した青ざめた顔をしていた。 そんな店長のいつもならぬ様子は、若いホスト達にも伝わっていたので、ヤスヒロもカズヤもいつもの軽口は控え、慎重に接客していた。 「銀座にもホストクラブはありますよね。・・そちらへは行かれたりされるのですか?」 「そんな店、有閑マダムばかりで全然面白くないわぁ。」 「アハッ。なるほど・・そうでしょうね。」 「それに、通りを迂闊に歩いて、ウチの店のお客様と顔を合わせたら困るでしょう?・・遊ぶなら客層の違う場所がいいのよ。」 「そうですねぇ。・・では、是非、ここを贔屓にいらして下さい。」 「フフッ。・・そうねぇ・・あなたが、いつもお相手してくれたら・・ねぇ、カズヤ?」 アザミは妖艶な流し目をカズヤに送り、そっとカズヤの膝に手を置いた。 すでにアザミの色気で硬直していたカズヤの男根が、ドクンドクン、と脈打って、ズボンに我慢汁が滲むほど溢れ出してしまった。 「ァァ・・もちろんです。アザミ様。」 カズヤはアザミの手を握り、顔に近付けると、指先から甲へと唇を滑らせるようにキスをした。 カズヤの目は熱く潤み、息が荒くなっている。 アザミは、フッ、と微笑むと視線を逸らし、煙草に手を伸ばした。 ヤスヒロはカズヤに負けじと、アザミの煙草を自らくわえて火をつけると、アザミに差し出した。 「ウフン・・・ありがとう、ヤスヒロ。あなたも、とても好みだわ。」 アザミはニッコリと微笑んで、煙草を吸った。 某国の国王がお忍びで足繁く来日するほど、夢中になったアザミである。 他にも、今でもアザミを欲しがる世界のVIPから、舞い込む招待状が後を断たない。 ナンパ上がりの若い男二人を、籠絡するぐらい容易いことだった。 ヤスヒロとカズヤが、アザミに気に入られようと競い合って火花を散らせている時、アザミのバッグの中にある携帯が振動した。 「あら・・・誰かしら・・・」 アザミは携帯を取り出す。 「クスッ。メールだわ。・・・ごめんなさい。お店しているから立場上、連絡が取れるようにしておかないとマズイのよ。ちょっと、失礼して読ませてね。」 そう言って、アザミはメールを開いた。 ―∈いつも 待ち望む、 その美貌 ときめく視線。 憎らしいほど 魅惑的な 可憐な花よ。 我慢出来ない 愛しい人よ。 待っているから すぐに会いたい。∋― 二人のホストはアザミの両側から、見ないフリをしながら、そっと覗き込む。 アザミは表情を変えず、サッ、と読むと、すぐに携帯をしまった。 「・・気になるなぁ。・・・聞いてはいけないのはわかってますが・・彼氏からですか?」 「あらぁ・・なぁぜ?・・フフフッ。そんなんじゃないわ。」 「アザミ様ほどお美しく魅力に溢れておられれば、どんな男も虜となってしまうでしょうね。」 「・・・どうかしら・・・」 アザミは一瞬目を伏せ、寂しそうな溜息を漏らした。 二人のホストはそれを見逃すはずもなく、 「意外とアザミ様は男性に尽くすタイプかも知れないですね。」 と、ヤスヒロが肩に手を置けば、 「一途に想っても、想う相手には想われず、想わない相手からは熱烈に求愛される・・そんな切ない恋に疲れ、ふと寂しさに男遊びを思いつく。・・とか?」 と、カズヤが手を握る。 「・・僕なら、そんな思いはさせないのに・・・」 カズヤが指先一本一本にゆっくりとキスをしていく。 「アザミ様。あなたの為なら、身も心も捧げて悔いはありません。」 ヤスヒロは鼻をうなじにそっと擦りながら、甘い声で囁き、耳たぶにキスをした。 「・・クスクスッ。・・そうねぇ・・甘えてみようかしらぁ?」 アザミが空いてる方の手の指先で、ヤスヒロの膝から股へとなぞるように撫でる。 ヤスヒロは思わず目を閉じ、熱い息を吐いた。 そして、トロンとした半開きの目で、アザミの手を握り股間へと押しつけ、 「あなたへの思いが溢れて・・ズボンを汚してしまいました。」 と、切なそうに囁いた。 ヤスヒロはもうアザミから離れられない様子で、うなじや耳へ唇を押し当てて、はぁはぁ、と荒い息をしている。 「おいッ。・・行き過ぎだぞッ。」 カズヤが、ムッ、として忠告するが、ヤスヒロの耳には入らない様子だった。 ムカムカと嫉妬が込み上げてきたカズヤは、ワイングラスをつかみ、 パシャッ! と、ヤスヒロのスーツに中身のワインをひっかけてしまった。 白っぽいスーツに赤ワインの染みはよく映える。 「何をするッ?!」 ヤスヒロが叫びながらカズヤを睨んで立ち上がると、カズヤも立って冷笑を浮かべ、 「ズボンが汚れてるなら、上着も汚れた方がお似合いだぜ。」 と言い返した。 「あらあら・・・喧嘩はいけないわ。」 アザミは困った顔で立ち上がり、睨み合う若いホストの間に割って入った。 そこに、焦った顔の店長が駆け付ける。 「お前達ッ、大切なお客様の前で何て失礼な態度をッ・・・」 店長は怒りに体を震わせている。 アザミは優雅に微笑み、 「いいんですのよ。どうぞ、ご心配なさらないで。」 と、店長を安心させるように言ってから、 「・・でも、その服は着替えないと、お店に出られないわね。・・ヤスヒロ。残念だけど、またお伺いするわ。」 と、ヤスヒロにウィンクをしてみせた。 それから、 「でも・・まだ飲み足りないわねぇ・・」 と、独り言のように呟いてから、 「ねぇ、店長。・・カズヤを今夜、お借りしていいかしら?・・ここではヤスヒロも面白くないでしょうし、他で飲み直したいの。」 と、魅惑的な流し目で店長に言った。 店長は、アザミが怒り出さなかっただけでも、ホッ、と胸を撫で下ろしていたので、 「結構ですとも。是非、お連れ下さい。・・カズヤもいいね?」 と、笑顔で言った。 カズヤは得意満面の笑顔で、 「光栄です。朝まで・・ベッドの中までもお供致しますよ。」 と、アザミの肩を抱き寄せた。 ヤスヒロは真っ赤になって怒りを堪えている。 アザミはバッグから帯のかかった札束を取り出すと、 「これで、今夜の支払いと、・・汚してしまった代わりの服を買ってね?」 と、ヤスヒロに手渡し、 「また・・今度・・・ね?」 と、軽くキスをしてやった。 ヤスヒロは今にも泣きそうな顔になり、 「必ずおいで下さいますね?・・お待ちしております。」 と、急いで自分の名刺にプライベートの携帯番号を書き加えて、アザミに手渡した。 「ええ。・・必ず、ね。」 アザミはそう言ってから、カズヤに、 「フフッ。・・行きましょう。」 と、しなだれかかり、席を離れて出口へ向かった。 アザミは、カズヤにシルクのショールを肩に掛けて貰い、腕につかまって店を出た。 お供の男達も無言のまま後に従う。 が、アザミの足元を気遣いながら階段を下りかけていた、カズヤの足が止まった。 階段を下りた所で、美佳が店の従業員に押さえられ、押し問答をしていたのだ。 「あたしはお客として来たのよ?・・何で入れてくれないのよぉ?」 「お嬢さん。あなたはもうこの店では受け入れられないんです。」 「何でなのぉ?・・もう、ツケだって綺麗になってるはずじゃないよぉ?」 「店の方針なので自分にはわからないッス。とにかく帰ってください。」 「カズヤに会いたいのぉ!お金だって、ちゃんと持ってるんだからぁ!」 名前を出されたカズヤは、ギクリ、として顔をしかめた。 「あら・・・カズヤ。あなたのお客様?」 アザミが片眉を軽く上げて、顔を覗き込む。 「え・・いえ。ただ、勝手に熱を上げちゃった子で・・困ってるんですよ。」 カズヤは笑って答えたが、口元が微妙に歪んでぎこちなかった。 「・・フフッ。いいのよ?・・色々トラブルは付き物ですもの。同業の立場の私には、よくわかるわ。」 「・・・アザミ様・・・申し訳ありません。彼女が帰るまで、店内で待たれますか?」 カズヤは、美佳の気付かない内に、店に戻ろうとアザミを促したが、アザミのリムジンがスゥーッと舗道に寄って停車してしまった。 美佳が後ろを振り返ってから、階段を見上げる。 「ぁ・・カズヤぁッ!」 カズヤは思い切り嫌そうな顔になり、 「アザミ様、車に乗ってしまいましょう。」 と、アザミの手を取って、階段を下りた。 「ねぇッ!・・カズヤったらぁ・・・」 美佳が制止する従業員の手を振り払って、カズヤに駆け寄り、腕をつかんだ。 「チッ。・・今は大切なお客様の接客中だ。邪魔をしないでくれ。」 「何でよぉ?・・あたしだって客じゃないのぉッ!あたしがカズヤの為にどれだけのことをしたか、知ってるんでしょう?」 「何のことか、知らねぇよ。」 カズヤの口調が乱暴になる。 アザミは苦笑して、 「ねぇ・・ここで騒ぎになっても困るでしょう?・・私が仲裁してあげるから・・カズヤのお部屋に行きましょう?」 と、耳元で囁いた。 「え・・・俺の?」 「都合が悪いかしら?・・誰か待ってる人でもいるの?」 「いえ。そーゆー訳では・・・」 カズヤはトラブルを避ける為に、自分の住んでいるマンションは、店の客達には教えていなかったのだ。 「それなら、いいじゃないの。・・この辺のお店で話しても、評判を落とし兼ねないわよ?」 アザミがカズヤの手に指を絡ませる。 指の側面をなぞる感触に、カズヤはゾクゾクする甘い疼きを感じて、意識がボゥッとしてくる。 「・・アザミ様がそれでいいなら・・・」 カズヤは痺れた眼差しでアザミを見ながら承諾をした。 美佳はやけに親しげなアザミを睨み付けている。 「ホホッ。可愛いお嬢さんがそんなに怖い顔しちゃダメよ?・・私の車でカズヤの所に行きましょうね?その方がゆっくりお話出来るでしょう?」 アザミは優しい口調で美佳に言うと、優雅に微笑みかけた。 美佳は、え?、と体の力を抜くと、戸惑いながら小さく頷いた。 「では、参りましょう。」 アザミは、カズヤと美佳をリムジンへと促した。 |
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<68> 「プロフェッショナル」 |
§68§「プロフェッショナル」 カズヤはマンションの自分の部屋にアザミを案内すると、 「散らかってますが・・」 と言って招き入れた。 アザミは先に美佳を中に入れてやり、部屋に入った。 お供の男は一人が玄関の前に、一人がアザミに従って中へとついて行った。 「あらぁ、意外に綺麗にしているじゃないの?」 アザミは1LDKのリビングに立って、部屋を眺めた。 それでも、ソファーの前のテーブルには雑誌やビールの缶が置かれてあり、カズヤは慌てて片付けた。 「飲み物は何にしますか?・・ビールか焼酎・・安物のワインしかなくて・・」 「暑いからビールにしましょう。・・ちょっと空気入れていい?」 「あ、はい。・・済みません。今エアコンを入れた所なので・・」 アザミはガラス戸を開けてベランダに出て、外の景色を眺めた。 「高速が近いから景色は良くないッスよ。それに騒音も排気ガスも・・安いんで我慢してますが、いずれはもっと都心に近く夜景が綺麗で、部屋も広い所へ移りたいって思ってます。・・中へ入ってください。ビールをどうぞ。」 「・・そうね。ありがとう。」 カズヤはまるっきり美佳を無視してアザミと話している。 美佳は初めて見るカズヤの部屋を興味深く眺め回しながら、カズヤが声を掛けてくれるのを待っていた。 「お嬢さんは、アルコールじゃない方がいいでしょうね。カズヤ、何かないの?」 「・・焼酎を割るのに使うウーロン茶くらいなら・・・」 「なら、それをお出しなさい。・・ねぇ、お嬢さん?」 「え・・あたしは・・別に・・・」 アザミに声を掛けられ、美佳は口ごもりながらカズヤに視線を向けた。 カズヤは黙ってキッチンへ行ってしまい、冷蔵庫からウーロン茶を出してコップに注いだ。 「ずっと立っていても、お話が出来ないでしょう?・・お嬢さんはそちらに座って。私はここで少し傍観させて頂くわ。」 L字型のソファーを美佳に勧め、アザミは小さな丸形のイスに座った。 「アザミ様もこちらに座ってください。」 カズヤが美佳の対角に座って、アザミに手を差し出しながら言った。 「その内ね。」 アザミはキスを送るように唇を動かす。 それだけで、鳥肌が立つほどセクシーだった。 「・・わかりました。」 カズヤは残念そうに答えると、ビールをグラスに注いでアザミに渡し、自分のグラスにも注ぐと一気に飲み干した。 カズヤは自分からは何も言おうとせず、苛立たしそうに煙草を吸っている。 美佳は一口ウーロン茶を飲むと、 「ねぇ・・・カズヤぁ・・・」 と、声を掛けた。 「・・何だよ?・・俺は店の方針に従ってるまでだぜ。お前がどんなことをしようが、恨まれる筋合いじゃねぇ。」 「そんな・・何も、恨むなんて言ってないじゃん。・・だけど、いくら電話しても出てくれないし、お店に行っても入れて貰えないし・・どうしてなの?」 「仕事で付き合う女はお前だけじゃないんだ。いつも都合よく、相手出来る訳ないだろ。」 「・・仕事って・・・あたしはホストのカズヤを好きになったんじゃない。好きになったカズヤがホストだっただけだもん。」 「俺には同じなんだよ。」 「・・カズヤ・・・だけど・・カズヤが俺の為にバイトしてくれ、って・・・」 「俺が招待した子が、ツケを貯め込んだら、俺が怒られて給料から引かれちまうんだぜ?・・お前が遊んで貯めたツケなら、お前がなんとかするのは当然だろうが。」 「・・だけど・・・あんなことされるなんて、聞いてない。」 「どんなことか、俺は知らねぇって言ってんだろ?・・何が言いてぇんだよ?・・恨まないとか言いながら、結局文句が言いてぇんだろ?」 カズヤは短くなった煙草を灰皿にねじ込んだ。 「そうじゃない。・・・ただ・・・カズヤに会いたかったのぉ。・・・会って・・慰めて欲しかったのぉ。・・・だって・・すっごく辛かったんだもん。」 カズヤは黙って新しいビールの口を開け、グラスに注ぐ。 「・・どうして会ってくれないの?・・ツケだってもうなくなったんだし、即金で払えるお金も出来たし、お店に入れてくれたって、いいじゃない。」 「そんなこと、俺が知るかよ。・・お前が何かしでかしたんじゃねぇのか?店長が、美佳はもう店には出入りさせないように、ってみんなに通達したんだ。」 美佳は眉を寄せ、爪を噛む。 「俺の為にバイトしてくれてる子は他にもいるんだぜ?・・けど、どの子も俺に会えたら幸せだから、ってバイト頑張ってるし、店にも遊びに来てるんだ。・・店長が出入りさせるな、って言うのは特別な場合だけさ。例えば、親が怒鳴り込んで来たとか、な。」 ・・・他の子も? ・・特別な場合って・・・? 美佳は思考がまとまらず、頭の中がグルグルと渦巻いていた。 「・・親には、話してないもん。」 「知らねぇよ。店長にも理由はわからねぇらしいぜ。上から言われただけで、理由までは聞いてねぇとさ。・・だから、もう店に関係ねぇお前とは、会っても仕方ねぇんだよ。」 「カズヤぁ・・・あたしはカズヤに会いたいだけなのにぃ・・・」 「わかんねぇのか?・・俺達の関係はもう終わりなんだ。」 「・・どうしてなの?・・だって、カズヤだって言ってくれたじゃない。店の仕事があって思うように会えないけど、美佳のことは仕事とは関係なく好きだ、って。」 「覚えてねぇよ。・・俺はいつか自分の店が持ちてぇんだ。その為にはNo.1の稼ぎを上げて、実績積まなきゃならねぇんだ。俺の夢に協力してくれる子なら、大事にもするさ。・・けど、美佳と付き合っても、もう何のメリットもねぇじゃねぇか。俺にはメリットのねぇ女はただのクズとしか見えねぇんだよ。」 カズヤは開き直ったように言い放ち、煙草に火をつけた。 美佳は悔しさに涙が込み上げてきた。 ・・・何でここまで言われても、カズヤが好きなんだろう。 唇を噛んだ美佳からポロポロと涙が零れた。 ・・・それでもカズヤが好き。 ・・カズヤはあたしが独りぼっちだった時、誰よりも優しかった。 ・・カズヤがいたから、あたしは笑うことも出来たんだもん。 ・・・メリットのある女なら、カズヤはまたあたしに優しくしてくれる? ・・お金さえあれば、カズヤはあたしを愛してくれるの? 「お店に入れて貰えなくたって・・あたしにはお金があるんだから。」 美佳は肩から下げていたショルダーバッグから、万札の札束を取り出しテーブルに置いた。 カズヤはその厚さに目を奪われる。 「美佳・・・お前・・この金をどうしたんだ?」 「こんなのたいしたことないわ。もっと、もっと、お金を出して貰える人がいるの。」 「・・・マジかよ・・・」 カズヤは呟くように言って、煙草を灰皿に捨てると、札束を手に取り数え始めた。 アザミは目を眇め、一瞬美佳に冷たい視線を投げた。 それから目を伏せて小さく溜息を吐き、座っていたイスから立ち上がった。 「まぁ・・お嬢さんのお小遣いにしては、大金だこと。ホホッ。」 アザミは軽く笑ってカズヤの隣りに座った。 それから、グラスに残っていたビールを飲み干して、 「カズヤ。」 と、腕をカズヤの体に押し当てるようにして、催促をする。 「あ・・済みません。」 カズヤは札束をテーブルに戻し、アザミにビールを注いでやった。 「ありがとう。フフッ。」 アザミはビールを一口飲んでテーブルに置き、足を組んでバッグから煙草を取り出した。 足を組むとスリットが大きく開かれ、太腿までスラリと引き締まった生足が覗く。 カズヤは、ゴクリ、と唾を飲み、アザミに火を差し出した。 アザミは煙草の煙を細く吐いて、空いている手をカズヤの太腿へと乗せた。 スッ、と手が内股まで滑るように伸びて、小指にカズヤのペニスが当たる。 ズボンの布越しに小指をそっと動かすと、気の抜けていたペニスがムクムクと頭を擡げて勢いを取り戻した。 カズヤは熱っぽい目でうっとりとアザミに見取れてしまう。 アザミはゆっくりと煙草を吸い、妖艶に微笑みかけた。 「カズヤッ!聞いてるのッ?」 美佳がその様子に苛立って声を荒げた。 「あ・・・あぁ。」 カズヤは美佳のお金も気になるようで、喉につまった声で返事をしてから、首のコリを解すように動かした。 「カズヤの夢の為なら、あたし、いくらでもお金をあげる。」 「・・・そんなことを言って、その金どうしたんだよ?」 「そうねぇ。ツケで遊んでいたんでしょう?・・そのツケも払えないお嬢さんが、急に大金を出すなんておかしいわねぇ。」 今度はアザミも会話に加わった。 美佳に余計なことを話されては困るのだ。 その為にカズヤと美佳が鉢合わせするように、誘い出した。 偶然ではない。 メールで、”い・ま・そ・と・に・み・か・が・い・ま・す”と送ってきたのを受けて、二人のホストが対立するように仕向け、カズヤだけを外に連れ出したのだ。 「危ないお金だったりしたら、カズヤの夢まで吹っ飛んでしまうものねぇ?」 アザミはカズヤを心配するフリを装い、色っぽくしなだれかかる。 小指の腹は巧みにカズヤのペニスを撫でて刺激し続けている。 「おばさんには関係ないでしょッ!」 「ホホッ。こんな礼儀も知らない子供に、大金を払うような上客がいるとも思えないしぃ・・眉唾な話だわね。」 アザミは表情を変えることもなく、煙草の煙を吐いた。 「ぁ・・そうそう。カズヤに今夜の特別サービスのお小遣いをあげなくちゃね。」 アザミはバッグから、また帯の掛かった札束を出して、テーブルに置いた。 「そんな・・・アザミ様・・・こんな大金を・・・」 カズヤはそう言いながらも、上気した顔で目を輝かせている。 美佳の出した50万の倍、100万円の厚みは、弄ばれ続ける股間以上にカズヤを興奮させた。 「いいのよ。・・これくらい。」 「そんなお金が何よッ?・・あたしなら、一千万円くらい軽く出せるんだからッ!」 「お嬢さんはお金の価値を知らないようね。・・どこからそれだけのお金を引き出すの?・・親に内緒で家でも売りに出す?それともいっそ親を殺して、遺産を手に入れる?・・そんなのは架空の論議。お金を手に入れる前に、警察に捕まるわよ。」 「・・友達が出してくれるから・・警察には知られないわ。」 美佳は肩で息をしながらアザミを睨んでいる。 「どんなに裕福な友達でも、余程お金が余っていたとしても・・慈善団体に寄付くらいはしても、友達が遊ぶお金なんて出す人はいないでしょうね。」 アザミは呆れたように首を振った。 「・・嫌でも出させるのよ。・・だって、あたし・・弱みを握ってるんだもの。」 美佳はアザミに対抗しようと、切り札を言ってしまった。 「そぉぉ・・・恐喝だったのぉ・・・?しかも、友達とか言いながら、その友達を恐喝するの・・・?」 カズヤが思い切り顔をしかめた。 「だから何よッ?・・幸せを独り占めして得意がってる子から、少し分けて貰うことのどこが悪いのよッ?」 アザミは溜息を吐いて煙草を灰皿に捨てると、腕組みをしてジッと美佳を見つめた。 威圧的な空気が美佳を圧倒して言葉を詰まらせる。 「あなたは友達だと言ったわよね?・・まぁ、今は道義的なことを問題にするのは止めましょう。あなたの心に私の言葉が届くとも思えないし。・・だから、その恐喝が本当に可能かどうか、考えなさい。」 「あたしはねぇ、その子の・・」 「いいッ?・・あなたが握っているネタなんてどうでもいいのよ。人を脅そうと思えば、嘘だって可能なんだから。・・問題は間違いなく成功させられる方法と計画性を持って言っているか、ってことなの。」 「そんなの・・・」 「そんなの友達だから簡単?・・甘いわねぇ。恐喝してくる相手を友達だって思うかしら?そんなお人好しな相手だと思ってる訳?それだけ人が良くて優しい相手を脅すの?・・随分、都合のいい話だわね。」 美佳は悔しそうにアザミを睨み続けている。 「それにあなたと同じ年頃だとしたら、普通そんな大金は持ってないじゃないの。」 「・・・彼氏が大金持ちなのよ。」 美佳が吐き捨てるように言った。 「彼氏が?・・じゃぁ、あなたが恐喝する相手は友達じゃないじゃないの。大金持ちの彼ってことは、きっともう大人よねぇ?・・大人がそう容易く脅されたままでいると思うの?・・まして、それだけの大金を扱う人物なら、そうした妬みや恨みや、単純な金銭目的にしろ、恐喝や強迫といった事への対処は万全でしょうから・・それだけのセキュリティーや警護にガードされている相手を脅してお金を取ろうとしている、ってことになるわね。」 「・・・それは・・・」 「あなたの脅す相手が、脅されても警察にも言わなければ、反撃もしないような優しい子だって、たかを括っていたんでしょう?・・だけど、あなたの行為は友情の甘えの範疇を越えてしまってるのよ。そうなったら、いくら友達でも庇いきれないのよ?」 「・・友情なんかじゃない。・・自分が困るから警察に言わないだけじゃない。」 「別に警察に相談したって、警察は個人の秘密を漏らしたりはしないわよ。・・普通はね。」 アザミは妖しい笑みを浮かべて含むように言った。 「・・・あなた・・・何者?」 「お嬢さんよりは苦労して夜の街で生きてきた女。ただそれだけよ。・・でも、水商売してると、表とも裏とも自然に親しくなるものだから、一般の人よりは現実が見えているかも知れないわね。・・あぁ・・ついでに一つ教えてあげる。・・警察や法律が、万人に平等なんて思わない方がいいわ。”蛇の道は蛇”、って言葉通り、融通を利かせることも可能なのよ?・・ホホホッ。」 アザミは自信に満ちた笑いを洩らすと、指にはめている指輪にキスをした。 カズヤはすっかりアザミに心酔してしまい、崇拝を込めた熱い目で、アザミの横顔に魅入ってしまっている。 ホストと言っても、子供相手にナンパしてはバックの組織で営業する風俗に回すような、業界の端くれに引っ掛かっている程度のカズヤにとって、まさに業界の第一線で女王のように君臨しているアザミは、もやは憧れ以上の存在だった。 札束は魅力でも、ヘタをすれば自分まで手が後ろに回り兼ねない犯罪絡みのお金では、飛び付く気がしない。 そもそもカズヤは、ナンパすることも、払いきれないほどツケで遊ばせることも、さして罪悪感もなくしていた。 その結果、少女達がどんな悲惨な目に会うか、自分は店から聞いているバイト先を、紹介してやっただけだから関係ない。 危ない遊びに懲りたら、もう店に来なければいいことだし、それでも会いたいという子には、優しい言葉で慰めてやっているのだ。 ・・・寂しげな女に声を掛けてやり、楽しい遊びを教え、お金に困ればバイト先まで面倒見てやって、バイトで疲れた心を慰めてやる。 ・・言うなれば、ボランティアをしてるようなものじゃないか。 ・・犯罪の片棒を担がされるなんて御免だぜ。 カズヤはもう、美佳にも美佳の持っているお金にも興味が失せていた。 「こんな金を持ってこられても迷惑なだけだぜ。」 カズヤはテーブルの50万円の札束をつかんで、美佳のバッグに強引に押し込んだ。 美佳は肩に掛けたショルダーバッグの紐が引っ張られて、食い込む痛さを感じた。 それと同時に、お金でもカズヤの心を自分に向けさせることが出来ないことを、痛感させられた。 「話はしたんだ。気が済んだだろ。用が済んだらさっさと帰れッ。」 「・・うぅぅ・・・カズヤぁ・・・」 「今後一切、俺に関わるなッ。店にも俺にも、二度と近付くんじゃねぇッ!」 カズヤは美佳の腕を乱暴につかんで、玄関まで引っ張っていき、靴を履く暇も与えずドアの外へと突き飛ばした。 そして、前のめりに転がって踞る美佳に、追い打ちをかけるように靴を投げつけると、ドアをバタンッ、と閉めて鍵をかけてしまった。 立ち去り難く、踞って泣いていた美佳は、アザミの供の男が冷たい視線を向けていることに気付き、横隔膜を痙攣させながら大きく啜り上げると、魂が抜けたようにゆっくりと立ち上がり、非常階段を一段ずつ下りていった。 リビングに戻ったカズヤは、 「・・ごめん。・・・みっともない所を見せちゃったな。」 と、気まずそうな顔でアザミの隣りに座り直した。 「フフッ。これくらい、修羅場でも何でもないことよ。思い上がって勘違いしてる子の一人芝居なんて日常茶飯事。・・でも、今夜のお芝居は、全然面白くもない低レベルだったわね。」 「・・アザミ様・・・」 カズヤは威厳に輝く美しい眼差しに、引き込まれるように顔を近付けた。 アザミはしなやかな指先で、カズヤの頬をなぞり、 「私は犯罪の是非は拘らないの。要人やVIPが顔を連ねる店をしているのよ?・・クスッ。どんな取引が耳打ちされてるかくらい、想像がつくでしょう?」 と、妖魔のごとく微笑んだ。 カズヤは諭される子供のように頷くと、アザミの手を握って掌にキスをした。 「・・犯罪は完璧でなければ意味がないのよ。・・子供が火遊びでするようなものじゃないわ。」 アザミの喉が含み笑いで震える。 カズヤはゾクゾクと熱い戦慄を覚え、アザミを抱き締めた。 「アザミ様のお側に置いてください。俺はあなたの下僕になりたい。」 「・・そうねぇ・・・考えてもいいわよ?」 アザミが小指でカズヤの唇をなぞる。 カズヤは堪えきれずにアザミの魅惑的な唇に唇を重ねた。 「、、ぁ、、、ん、、、」 アザミが甘い鼻声を洩らす。 カズヤはここぞとばかりに磨き上げたテクニックでキスをする。 ・・・どんなに偉大な女王も、男の腕の中では一人の女。 ・・俺に夢中にさせ取り入ることが出来れば、一足飛びに店を持つことだって夢じゃない。 カズヤはアザミの甘いキスに、股間を爆発しそうなほど膨張させながら、絡め取られそうな意識の奥で、邪な野望を思い描いていた。 それがアザミの術中とも知らずに。 男の心を支配するのは、居丈高な女ではない。 この女は自分が支配出来ると、男の野望や欲望を駆り立てさせてくれる女こそ、男の魂を吸い、骨の髄までしゃぶってしまうものなのだ。 しかも、テクニックでもアザミの方が遙かに上。 男の支配欲を満足させつつ、自分が征服していると思わせながら、男にかつてないほどの興奮と快感を与える。 だからこそ、アザミは男達から望まれる最高の娼婦だったのだ。 カズヤに抱き上げられ寝室へと運ばれる腕の中、アザミは恥じらいと甘えを妖艶さの奥に漂わせ、しなやかに身を委ねていた。 |
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<69> 「信じる心」 |
§69§「信じる心」 夏休みの初日は惨憺たるものだったけれど、それから数日は順調に過ぎていった。 日本を発つまで一週間を切り、気持ちがそわそわと落ち着かない。 あまり大荷物になっても大変だから、足りない物は旅先で買えばいい、と言われたものの、やはり女の子としては欠かせない小道具が結構あるのだ。 メモに書き出して確認し、スーツケース一個と大きさの変えられる旅行バッグ一個、そして機内でも持っていられる大きめのショルダーバッグに必要な物を詰め込んだ。 何度も確認したし、母親にも兄のミツルにも、他に必要な物はないか、と聞いて、ようやくミルク自身も納得して、詰め込んだ荷物は出発の日まで部屋の隅に鎮座することとなった。 後は出来るだけ宿題を済ませてしまうことだ。 こんなに勉強するのは、高校入試の受験勉強以来で、窓の外を照りつける夏の太陽が、 〜おいで、おいで、出ておいで〜 と、誘って集中力の邪魔をする。 そんな時は草むしりや花壇の手入れや水撒きをして、気分をリフレッシュさせた。 今日は少し頑張って、窓ガラスを磨いた。 母親は嬉しそうに笑って、特製ゼリーを作ってくれた。 母親には美佳との一件は話していなかったし、高藤との関係を知ってしまったことも、母には言わないでくれとマサトに頼んでおいた。 ずっと、夫に裏切られた辛苦を隠して、笑顔でいてくれた母に感謝していたし、高藤の存在が母の支えなら、気付かないフリを続けながら応援したかった。 マサトは高藤に注意したらしいが、ミルクの願いを伝えてくれたようで、高藤もミルクが知っていることを母親には話さないでいてくれてるようだ。 母親として、許されない関係を娘に知られるのは辛いだろう。 ミルクは母に罪があるとしても、その罪を共に被ろう、と決めていた。 高藤の家族に、もし知られることがあって非難されたとしても、当然の責め苦は母と共に受けよう。 母親を非難するより、ずっといい。 その思いはマサトに対しても同じだった。 マサトがどんな大罪を背負おうと、マサトが自分といることで束の間でも笑うことが出来るなら、ミルクは幸せだった。 そして行き着く先に、もし地獄の裁きがあるとしても、少しの悔いもなく堂々と罰に処せられよう。 マサトを愛したことに悔いはないのだから。 ふと、そんなことを思う時、ミルクの幼い顔に、蕾を守っていた殻を破って綻び始めるような、大人の色香が浮かんだ。 まだまだ幼い心ではあったが、着実に蕾は綻んで、瑞々しく透明感のある美しい花へと開花しつつあった。 マサトはそんなミルクが愛しくて、大事過ぎてたまらない。 二重、三重にも頑丈なケースで囲って、誰にも触れさせたくなかった。 夢見るように無垢な眼差しの、信じて疑わない明るい眼に、醜い現実を映させたくはなかった。 だが、敢えて社会の矛盾や現実の厳しさを教えることを選んだ。 純粋過ぎる心はあまりにも無防備で、傷付きやすい。 いくらマサトが厳重にガードしても、心の全てまで到底守りきれるものではない。 多少なりとも強さや狡さも身に着けて、自分でガード出来るようになって欲しかった。 人は自分の心のレベルで相手を見がちなのだ。 自分が疑って相手を見れば、相手も疑ってるだろうと思い、自分が狡ければ、どうせ相手も狡い奴と考える。 そして、自分の心では理解出来ない相手は、”気持ちが悪い”と、理解出来ない相手の方が悪いように考え、徹底的に責めるか無視をする。 逆に、良心を大事にしようとしている人は、相手にも良心があると信じ、疑わない心で相手を見るから、相手の悪意を見抜くことが出来ない。 けれど、人を傷付けても平気な奴は、勝ち誇りこそしても、相手の受ける痛みまで気にしないし、反省もしないものだ。 そんな相手の為に傷付いてやる必要はない。 傷付けようとしても、強い心で跳ね返せばいいのだ。 親にさえ憎まれて育ったマサトは、不条理な悲しみの中で、悟りを求めて苦悩する心の周りを冷酷で鉄壁な闇の心で覆い尽くした。 信じる価値のない奴は切り捨てろ。 マサトはそう考えていた。 ・・・ミルクは違う。 そうした相手にこそ、魂の救済が必要なのだと考えてしまう。 まっすぐに生きられる人なら、そう多くの支えがなくとも進んでいける。 暗く荒んだ心にこそ、幸多かれ・恵多かれ、と祈ってしまう。 自分に相手を救えるだけの力も度量も勇気もないと承知しているからこそ、それが自分の罪であるかのように、どんなに傷付いても傷付いた心を守る前に、相手を気遣ってしまうのだ。 ・・・そんな無防備で生き抜けるものかッ! そう思いながら、マサトはどんな魂よりもミルクの魂を愛していた。 ・・・だから俺が守るしかない。 ・・だが、もう少し・・・俺の為に自分を守るすべを覚えて欲しい。 ・・お前を失えば、俺はもう誰も何も愛せないだろう。 ・・完全なる魔となった俺が、不幸な人間を増やさない為に、お前は生き抜いて俺の側にいなければならない。 ・・・勝手な言い分でいいさ。 ・・それが事実である以上、仕方がない。 マサトは、残虐非道と言われた父以上に、冷酷な自分を知っていた。 息子を殺そうとするほど、憎悪と狂気に荒んだ母親以上に、荒ぶる心を自覚している。 だから、父母を憎み、同じ血を嫌悪する以上に、己自身の激情を恐れた。 紅蓮となって燃え盛る地獄の炎が、己自身の魂をも炙り続けている。 カラカラに乾いた喉を、更に熱風が焦がしていく。 それが、ミルクといると、何とも言えない清浄な空気と、透明なせせらぎの水で喉を潤すような安らぎを、感じることが出来た。 その価値を理解出来ない者は、寄せ付けなければいいのだ。 何も荒らされるに任せることはない。 ・・・そう・・・覇羅蛇の里のように・・・。 俺は魔郷・・・悪魔と誹られ恐れられても・・聖なる領域を守る者。 「はぅぅぅ・・・」 呻き声と共に大きな溜息が聞こえる。 会長室のデスクで企画書に目を通していたマサトの横で、ミルクが問題集を睨んでいる。 「ククッ。・・今、何の宿題をしているんだ?」 「・・んー?・・・図形・・・」 ミルクは体を前屈みにすると、ノートの上に顎を乗せ、また溜息を吐いた。 「・・はぁーぁ・・・もぉーじぇんじぇんわかにゃにゃいー・・・」 「どれどれ・・」 マサトが席を立ってミルクの後ろから問題を覗き込む。 「・・・あぁ・・そうか、なるほど。」 そう言って頷いたマサトが、 「つまり、この∠ABCDと∠EFGHにおける重心と内角の関係を・・・」 と説明を始めるが、ノートに顎を乗せているミルクは、 「・・フーン・・・」 と、返事をするものの、目を閉じて半分寝息を立て始めている。 「・・・こらこら。」 「・・ウニャ?」 「・・・あのな・・・」 「・・ブミィー・・・」 「わかった。もう答え見て写しちまえ。」 マサトは苦笑してミルクの髪をクシャクシャッと撫でると、席に戻り再び企画書を読み始めた。 「・・やっぱ・・夏期講習に行けば良かったかなぁ・・・」 「ん?・・そうしたら余計宿題をする暇がなくなるだろ?」 「・・ぁ・・そっかぁ・・・はぁぁ・・・何でこんなにおバカなんだろぉぉ・・・」 「だから・・誰にだって得手不得手はある、って言ってるだろ?・・気にするなよ。・・ま、どうしても自力で答えを出したいなら、旅行に持ってったらどうだ?機内とか移動中とかに、ゆっくり教えてやるぞ。」 「ゥェッ・・・」 ミルクが頭を上げて、うるうると悲しげな非難の目をマサトに向ける。 「おいおい・・・ったく、可愛くて襲いたくなっちまうぜ。・・とにかく、教科書に合わせた問題集なんだから、教えないことは出てないはずだろ?教科書をもう一度読み直して、わかる問題から解いていけばいい。・・な?」 「・・・ゥン・・・」 「これから会議に出なきゃならないが、それが終わったら”外回り”へ出るから、その時に景山に教えてくれるように言っておこう。」 「え゛ーッ・・・」 「俺より厳しく指導してくれるぞ?・・クククッ。」 ミルクは、プンッ、と頬を膨らませ、また問題集に取りかかった。 外回り=地下アジトのことで、会社にいるよりもミルクには嬉しかったが、どうせ行くなら宿題をするより遊びたくなってしまう。 若松と違って景山は、ミルクがきちんと答えを出すまで、ジッと目を据えて見ているので、ゴネて遊びに逃げるわけにいかない所が苦手だった。 ・・・でも、かき氷を買ってきて貰えば・・・ ミルクは、ムフッ、と笑みを浮かべると、眠くなる目を擦って教科書を読み始めた。 地下アジト、『アリス姫のお部屋』。 大きな欠伸を立て続けに三回したミルクは、涙目で頬杖をついた。 「もう一度、ご説明致しましょう。」 景山は根気よく説明し、理解を促す。 「途中までは理解出来ているのですから、その先の公式の使い方がわかれば、もう答えは見えてくると思いますよ。」 「・・は-ぃ。・・・ぁ、ねぇ。かき氷で頭をリフレッシュするのって、どう?」 「さきほど、召し上がられたばかりでしょう?・・お腹を壊しますよ。」 「・・家ではいつも氷を囓りながら勉強してるもん。」 「ほぅ。・・・それで、お腹が痛くはなりませんか?」 「・・ぇ・・・ごく・・たまに・・・」 ミルクは唇を尖らせてから「へ」の字に曲げる。 アヒルのような形になった口に、景山は思わず失笑してしまう。 「後30分、頑張りましょう。そうしたら、トレーニングルームでストレッチして、体が温かくなったら、かき氷を買って参りましょう。」 「・・ホント?・・・わぁ-ぃ。ミルねぇ、三重飛びが5回連続するようになったのぉ。何とか10回飛べるようになりたいんだぁ。」 「そうですね。10回飛べれば、50回、100回も夢ではないでしょう。」 「ヒ・・100回は・・無理っぽいッス・・アハハ・・・」 「飛ぶ為の技術と姿勢を維持する基礎が出来れば、後は体力次第です。」 「・・ぅん・・・」 「では、元気が戻った所で、この問題を解いてしまいましょう。」 「・・ぅ・・は-ぃ・・・」 マサト並みにミルクに甘い景山だったが、さすがマサトの教育係だっただけのことはある。 成すべき事は成す。 よく、飽きっぽいミルクを相手に、辛抱強く目的を達成していくものである。 ミルクも、言葉や表情では不平を言いつつも、景山には感謝していた。 景山は教えることに関しては、ミツルやマサト以上に親切でわかりやすかった。 ピッタリ30分後、 「よく頑張りましたね。苦労して覚えたものは、忘れにくいものです。公式さえ忘れなければ、もう応用問題で悩むこともなくなるでしょう。」 と、言った。 「はい。・・ありがとうございます。」 ミルクはにっこり笑って頭を下げ、お礼を言った。 「丁度キリ良く、図形問題も終わりましたから、ストレッチの後は公式の練習問題を解いていきましょう。」 「はーい。」 ミルクは元気に返事をすると、立ち上がり、トレーニングウェアに着替えることにした。 ミルクも時間がある時にトレーニングルームで体を動かしたい、と言い出したので、テニスウェアのような体操着を用意してくれていた。 キュロットスカートの上下は可愛いパウダーピンクで、お揃いのリストバンドもある。 この支度をする度にテニスを本気でやってみたくなるが、ジョギングが苦手のミルクでは出来そうもない、と諦めた。 ど根性で燃える闘魂ッ!・・は、ミルクには縁がないようである。 それでも、縄跳びの三重飛びには拘りがあった。 マサトの見よう見真似で挑戦した時は、一度も飛べなかったのだ。 それが、初めて飛べた時の感激は、めちゃめちゃ嬉しくて、自分を誉めてやりたくなったくらいだった。 以来、地下に来る度に練習するようになっていた。 「支度は出来ましたか?」 ドアをノックして景山が顔を覗かせる。 景山もトレーニングウェアを着ているということは、縄跳びでもレッスンしてくれるらしい。 ・・・なんて教育熱心なんだ。 と、思いつつ、ミルクは、 「はーい。今、行きまぁ-す。」 と、返事をした。 が、その時、ミルクのバッグに入っている携帯が鳴った。 「ぁ・・ちょっと、済みません。電話みたい・・・」 そう言いながら、ミルクは携帯をバッグから取り出した。 メールの時は着信音が違うし短い。 電話の相手は中学の時の親友、香織だった。 「はい、ミルで-す。」 ミルクが明るい声で電話に出ると、 ―「あ、ミルク?・・今、どこ?」 と、香織の切羽詰まったような声が返ってきた。 「え・・・どうしたの?」 ―「ミルクの家に行ったら誰もいないから・・・」 「あ、そっか。・・ママは今日は教室みたい。お兄ちゃんは部活だと思うけどぉ・・ミルは宿題教えて貰ってたとこなんだ。」 ―「・・そう・・・じゃぁ、来て貰うのは無理かなぁ・・・」 香織が独り言のように呟いた。 「どうかしたの?」 ―「え・・あぁ・・・うん。何か、美佳がおかしいの。」 「・・美佳が?」 美佳という名前に、部屋を出かけていた景山の後ろ姿が、ピクリ、と反応する。 ―「ウチって南二中の近くじゃん?・・美佳がウチの前を虚ろな顔して歩いてたから声を掛けたんだけど、全然反応なくって、気になって後を付けたら南二中に入ってっちゃったの。・・今は校庭の隅でじっとしてるんだけどぉ・・じきに日が暮れちゃうし・・体育館が改築中だから、暗くなると危ない気がして・・・」 「・・そうなんだぁ・・・」 ミルクは眉を寄せ、唇を噛んだ。 マサトからは、もう関わるな、と言われている。 それでも、中学にいるという美佳と、ミルクに連絡してきた香織の気持ちを思うと、無関心ではいられなかった。 ―「何かねぇ、ここ三日くらい、部屋に閉じ籠もりきりで食事もしようとしないとかって、美佳のママが私に聞いてきたのよ。ほら、高校もクラス同じじゃん?・・でも、わからなくて・・一度会いに行ったんだけど、会いたくないから帰れッ!って言われてさぁ・・・」 香織は一人で途方に暮れているようで、重い溜息を吐いた。 「わかった。ミルもすぐに行ってみるね。・・中学の校門の所でいい?」 ―「来てくれる?・・ありがとぉ!」 「30分くらい掛かっちゃうかも。」 ―「うん。じゃぁ、美佳の様子見ながら、それくらいに校門まで行くね。」 「うん。・・それまで、頑張って・・」 ―「大丈夫。・・待ってるね。」 「うん。」 ミルクは急いで携帯をバッグに戻すと、そのままバッグを持って隣りの総裁室に駆け込んだ。 「・・・ぁ・・・ぁぇ?」 総裁のデスクにマサトの姿はなく、ソファーの方で超セクシーな美人と並んで座っている。 しかも体を寄せ、顔も近付けている。 ミルクはドアのノブをつかんだまま固まってしまい、瞬きを繰り返した。 「あら、可愛いッ。テニスの練習かしら?」 そう言って、優美に微笑んだ声には覚えがある。 「あ・・・アザミさん?」 「ホホッ。・・化けるでしょう?」 戯けたように言って、笑みを深くしたアザミは、圧倒されるほどに美人だった。 しかもタイトなワンピースがピッタリとフィットして、体のラインを露わにし、絶妙な色気を醸し出している。 以前会った時は、顔にまだ殴られた痣が残り、腫れぼったい感じがする素顔だった。 それでも、美人だと感じたアザミが、ここまで綺麗な女性だとは思わなかった。 「・・・超ぉぉぉー美人だぁぁぁー・・・」 ミルクは目を丸くしてドキドキする胸を押さえた。 「どうしたんだ?・・入る前はノックぐらいしろよ?」 マサトはアザミから体を少し引いて、ミルクに声を掛けた。 アザミに見取れて、飛び込んだ理由を忘れていたミルクは、ハッ、と気が付き、香織からの電話の内容を話した。 アザミはマサトの隣りから席を離れた場所に移すと、煙草を吸い始めた。 マサトは眉間にシワを寄せて聞いていたが、 「関わるな、と言っただろう?」 と、ミルクに厳しい視線を向けた。 「・・うん。わかってるけど・・今、話し合ってる暇はないの。・・お願い。行かせてぇ・・?」 ミルクは胸の前で手を合わせ、泣きそうな顔をする。 マサトは大きく溜息を吐き、 「はぁぁ・・・チッ。しょぉーがねぇなぁ・・・」 と言って立ち上がると、総裁のデスクから自分の車のキーを取り上げた。 |
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<70> 「千切れたお金」 |
§70§「千切れたお金」 ミルクが中学校の校門前に到着した時、すでに太陽はビル群の向こうに姿を隠していた。 それでもまだ辺りは明るかったので、門を入った校庭の20メートルほど先の所にいた香織が、すぐにミルクに気付き走り寄ってきた。 香織はミルクの首に抱きつくようにして、 「ミルクぅ、来てくれたんだぁ。」 と、今にも泣き出しそうに言った。 「ごめん。道が混んでて・・・それで、美佳は?」 「うん。部活の生徒が帰ったら、体育館の方へ行っちゃって・・今、そっち行こうか、待ってようか、迷ってた所だったの。」 「じゃぁ、急ごう。」 ミルクは香織と手を繋いで、青いシートで囲まれた体育館へ向かって駆け出した。 マサトは後ろから別の車で同行した若松に、宿直の教師と用務職員に連絡するように指示し、ボディーガードともう一人の部下に、二台の車を学校の駐車場の方へ回すように言うと、ミルクと香織の後を追った。 青いシートで囲まれた体育館は、外回りに足場のパイプと板が何層にも組まれていた。 校庭はまだ明るかったが、シートの内側は薄暗い。 現場で仕事している人の姿は見えず、じきに真っ暗になってしまうだろう。 目で見える範囲を二人で探したが、美佳の姿は見つけられず、香織は焦れったさに、 「美佳ぁーッ!」 と、名前を呼んだ。 「美佳ぁー・・・どこにいるのぉー?」 ミルクも香織と一緒に呼んだ。 ガチャッ! 足元に置かれていた工具に躓きそうになり、ミルクは足場のパイプにつかまって体を支えた。 「気を付けろッ。」 マサトがミルクの腹に腕を回して支えてやり、 「今、若松が照明を借りて、学校の管理人と来るから、ヘタに動き回らない方がいい。」 と、注意した。 「ぁ・・・でも・・・」 「危険な場所では俺に従えッ!」 マサトの口調はいつになく厳しかった。 「・・うん。・・香織ぃ。香織もそうしよう?」 ミルクが香織を呼び止めると、香織も仕方なさそうに頷いた。 と、その時、マサトがミルクの体に腕を回したまま、数歩後ろに飛び退いた。 ビシッッ!! コンクリートに亀裂が走るような音がして、落下してきた物が弾んで転がった。 見るとそれは重そうなスパナだった。 「テメェェッ!ざけんじゃねぇぜッッ!!」 マサトが上を睨んで、怒りも露わに怒鳴りつけた。 ミルクと香織も上を見上げる。 足場の一番高い所の板に、美佳が座って下を睨み付けている。 「・・美佳ぁ・・・」 「美佳ッ!何してんのッ?下りて来なよッ!」 「何さッ!こんなとこまで来て見せつけてッ、ウザイんだよッ!」 「だからって危ないじゃないッ!ヘタしたら、ミルクに当たってたんだよッ?・・こんなのが当たったら・・・」 「当たれば良かったんだッ!狙ったのに・・彼に守られて・・いい気なものねッ!」 「美佳ッ!?・・何てこと言うのッ?・・友達を殺す気ッ?!」 「死ねばいいんだッ!目障りなんだよッ!あんただってウザくてウンザリッ!もう、友達なんかじゃないッ!・・もう・・もう・・何もかも嫌だぁぁーッ!」 美佳は最後には悲鳴のように叫んだ。 香織は泣きながら美佳を睨み上げている。 ミルクはもう掛ける言葉も見つからずに、黙って見上げていた。 ミルクを背後から胸に抱き締めているマサトの、腕や体が怒りに震えている。 「・・もう、放っとけ。殺されてまで尽くす義理はねぇだろ?」 マサトが凍り付きそうな冷たい声で言った。 マサトの体は熱いのに、取り巻く空気は重く冷たいものが渦巻いていた。 パラパラと何かが降ってくる。 落とすと言うより、引き千切られた物が舞う、といった感じである。 そこに若松と共に、宿直の教師と用務職員が駆け付けてきた。 催事用の照明を電気の延長コードを探してコンセントに差すと、上に向けて照らした。 暗くなってきて、影だけが見えていた美佳が、明るく浮き上がる。 美佳は眩しそうに顔をしかめたが、そのまま同じ行為を繰り返している。 美佳は肩から掛けたショルダーバッグから、一万円札を取り出しては細かく千切ってバラ撒いていた。 「君ッ!何をしているんだ?・・そこは危険だから、下りてきなさいッ!」 教師が呼び掛けるが、無視して一万円札を破り続ける。 千切られた一万円札は風に舞ってあちこちに飛んでいくが、パラパラと佇む人達の足元にも落ちてきていた。 「ミルク。・・後は先生に任せて、もう引き上げよう。」 「・・・ぃゃ・・・」 「ミルクッ。・・あいつの心はもう人じゃねぇ。妬み・恨み・憎しみ、と言った憎悪の悪鬼に取り憑かれてるようなもんだぜ。ミルクや彼女が何を言ったって、聞きゃぁしねぇよ。かえって煽るようなもんだろうが。・・な?」 「・・・お金が・・・可哀想・・・」 ミルクはマサトの腕をゆっくり解くと、暗くなった足元に目を凝らして、千切れた一万円札のカケラを拾い始めた。 若松が手に持っていた懐中電灯で、ミルクの足元を照らした。 「チッ!」 と、マサトが舌打ちをして若松の方を振り向いたが、ミルクが、 「・・ありがと。」 と、悲しげに目を潤ませながら微笑んだので、若松は照らすのを止めるに止められず、ぎこちなく笑みを浮かべた。 「ミルク・・手伝うね。」 香織も、美佳にどう言えばいいのか、わからなくなっていたので、ミルクの方を手伝うことにしたようだった。 「ミルク。ここは危険だ。・・また何を落とされるか知れないだろ?・・拾うのは後で部下にさせるから・・」 マサトが上を気にしながら、ミルクを連れて帰ろうと説得している間にも、パラパラと千切れた一万円札が降ってくる。 ヒラリ、と髪に触れる感触がして、ミルクが髪に落ちたカケラを指先で撫でるように探し当て、手に取った。 手にしたカケラを見つめるミルクの顔は、暗く沈んでいた。 「来ないでーッ!」 美佳が、足場を昇ろうとした教師に気付いて、ヒステリックに叫んだ。 その声にミルクが上を見上げた。 ミルクの顔に怒りの色が浮かんでいた。 そして、意を決したように、スックと立ち上がった。 「・・・美佳!・・・どうしてお金を破るの?・・・必要なお金だったんじゃないの?」 見下ろす美佳と見上げるミルクが睨み合って、火花が散った。 「ミルクッ。構うんじゃねぇ。」 マサトがミルクの腕をつかんで引き寄せようとする。 けれどミルクは、マサトに顔を向けて、 「お願い。・・どうしても言いたいことがあるの。・・それだけは言わせて。」 と言って、再び美佳を見上げた。 「こんなお金・・もういらないッ!」 見上げるミルクの顔にも、カケラが降ってくる。 「もう・・こんなお金があったって・・何の役にも立たないんだッ!」 美佳は憎しみを込めて、引き裂いていく。 「・・だったら、返してよッ!」 ミルクが怒った声で叫び返した。 えっ?! マサトも若松も、事情を知らない香織も、ミルクから発せられた怒りに満ちた声に驚いて、ミルクの顔を凝視した。 長い付き合いの香織でさえ、ミルクがこんな風に怒るのは滅多に見たことがなかった。 美佳は冷たく睨み下ろし、 「こんなお金ッ、あんたにだって、たいしたお金じゃないくせにッ!」 と、負けまいとするかのようになじった。 「何で決めつけるのよッ!それはミルが出せるギリギリ限界のお金だったッ!それ以上のお金なんてミルにはないのにッ!・・美佳に必要がないなら、返しなさいよッ!」 「何言ってんのさッ!億万長者と結婚するくせにッ!」 「だから何ッ?関係ないじゃん!・・彼には彼の目的があって、人の何倍も努力してお金を稼いでいるんだし・・彼と力を合わせて頑張って仕事している人達と築き上げたものだもん!一切、ミルとは関わりのないお金じゃん!」 ・・・おいおい、変なことを言い出さないでくれよ? マサトは眉間に指先を当てて、溜息を吐いた。 「嘘つきッ!あんな豪華な指輪貰ったり、いい思いしてるくせにッ!」 「もちろん、彼が色々してくれることには感謝してる。だけど、あーゆー財産的価値のある物は預かり物だと思ってる。だから、彼が緊急にお金が必要になったら、いつでも返せるようにって思ってるもん。」 「綺麗事で誤魔化さないでよッ!」 「本当だもん!・・・彼は自然保護とか、人権擁護とか、地域開発とか、福祉とか、・・・いっぱい守ろうってしてる存在があるの。彼と同じ気持ちでいる人達は、だから自分達もって必死になって頑張ってる。・・そうして得たお金がどれほど大切な物かぐらい、ミルにだってわかってるもん。・・だから、ミルは、彼がプレゼントしてくれる物とか、一緒に行動することとかでは、感謝して受け取るようにしてるけど、それ以外の何かを欲しいとは思わないし、手に入れられるなんて思ったこともないよ。」 ・・・物には言い様ってもんがあるんだな・・・ マサトは感心しながら、微かに苦笑した。 「じゃぁ、何ですぐに50万もの大金が出せるのさッ?彼に貰ってるお小遣いじゃないのッ?」 「まだ結婚もしていない、親でも親戚でもない人から、何でお小遣いなんて貰えるの?貰う訳ないじゃん。」 「あーそぉッ!どーせ、あんたはお金持ちのお嬢様だわよねッ!」 「どこがよッ?貰ってるお小遣いは美佳とだって変わらないじゃん!・・そのお金は、ミルが小学校の時、初めて自分で銀行に行って貯金した時から、少しずつ貯めてきたものだったんだよ?・・だけど・・ミルだって欲しい物はいっぱいあるし、可愛い物があると飛び付いちゃうし、なかなか貯められないから、せめてお年玉とか何かの時とかに貰ったお金を貯金するようにしてきて、やっと貯めたんだからねッ!」 「・・へぇぇ・・・だったら、余計破るのが楽しいわねッ!アッハッハーッ!」 ・・・あのアマッ! マサトがギリギリと歯ぎしりをした。 「・・何で?・・・何でそんなにミルが憎いの?」 「あんたばっか、いい思いをしてるからよッ!世の中なんて、不公平じゃないッ!ちょっとはあんたも不幸になればいいのよッ!」 「冗談じゃないッ!いつだって、ミルが羨ましかったのは美佳じゃないッ!・・去年の夏のこと、覚えてる?・・おしゃべりする可愛いマスコットが流行ってた時だった。だけど、品切れが続いて、正規の値段じゃ手に入らなくて、やっと見つけてもお小遣いじゃ買える額じゃなかった。・・あの時、美佳は彼と泊まりで海水浴に行ってたよね?で、お土産にキーホルダーくれた時、彼が買ってくれたの、ってその人形を見せびらかしてたじゃん。」 「・・・そんな・・・前のこと・・・」 「それに、去年はミルのパパが帰って来なくて、受験勉強もあるからって、どこにも行けなかった。でも、パパが日本に帰れない代わりに、ってお小遣いを送ってきてくれた。・・そのお金で、ミルも人形が買いたかった。だけど、決めたことを守らないと、どんどん意志が崩れちゃうから、我慢して貯金に回したんだよ?・・美佳さぁ、彼と旅行してから、今度は家族で海外旅行に行ってきたよね?で、また、海外バージョンを買って貰ったって見せにきた。・・ミルは家でも塾でも、うだりながら勉強してたんだよ?・・だけど、ミル、頭悪いから・・美佳よりずっと勉強してたはずなのに、みんなと同じ高校に合格出来なかった。・・それで誰かを羨んだり、妬むことじゃない、って思ってたから、言わなかったけど・・香織とか、中学からの友達とまた同じ高校になれた美佳がどれだけ羨ましくて・・独りぼっちになって寂しかったか・・」 ミルクは溢れ出す涙で言葉が詰まった。 けれど、美佳から返ってくる言葉はなかった。 ミルクは鼻を啜ると、息を吐き、また話し続けた。 「美佳にミルの気持ちのどれくらいが見えてるの?そんなに幸せそうに見えてた訳?・・パパがずっと帰らなくて、・・ママは仕事で忙しいし・・お兄ちゃんはミルのする事なす事全部が気に入らないみたいに文句ばっか言うし・・寂しくて、寂しくて、たまらなかった。・・でも、美佳は彼や家族と何処かに行く度に嬉しそうに事細かく報告したよね?・・別に、美佳がそれで幸せなんだから、いいと思ってた。美佳にミルの家の事情とか、詳しく話せないし、自分の幸せで周りが見えないからって、美佳が悪い訳じゃないもん。いいなぁ、って言うことはあっても、美佳にはずっとそのまま幸せでいて欲しかったよ?」 ミルクはまた鼻を啜り、息継ぎをした。 「・・でも・・消えちゃいそうなほど、寂しかった時・・マサトが拾ってくれた。・・それがいけないの?・・・美佳には、ミルがいつも惨めな子でいなきゃ、納得出来なかったの?・・・だったら、今くらい惨めなことってない。・・だって・・大好きだった友達に裏切られたんだもん。・・そんなに惨めなミルを嘲笑いたいなら、今笑えばいいじゃない!・・・だけど、お金は返して!友達だと思うから、大事なお金を全部あげたんだもん。美佳にはただのお金でも、ミルには、その一万円札、一枚一枚に、大切な思い出と、色々な気持ちと、ミルにお金をくれた人達の愛情が籠もってる、大切なものなんだから・・・いらないなら・・返しなさいよぉッ!」 「・・・ごめん・・ミルク・・・」 美佳がようやく力のない声で言った。 「・・でも・・あたし・・・もう死にたいの・・・」 「・・美佳・・・」 「美佳ッ!バカなこと言わないでッ!」 ミルクの話につられて、一緒に涙を流していた香織が叫んだ。 ミルクももう一度、キッ、と美佳を睨んだ。 「美佳ッ、思い上がるのもいい加減にしてッ!・・美佳の命は美佳だけのものじゃないじゃない!それこそ、お金じゃ替えられない命を、美佳に捨てる権利なんかないでしょッ!」 「もう生きてたって、いいことなんかないのぉッ!どんどん自分が惨めになっていくだけじゃんッ!もう、こんなあたしなんか放っといてよッ!」 美佳が高い足場に立ち上がった。 「美佳ぁーッ!やめなさぁーいッ!」 香織が叫ぶ。 「君ッ!落ち着きなさいッ!」 下に戻ってきていた教師も怒鳴る。 「イヤァァァァーーーッッ!!死なないでェェェーーーッッ!!」 ミルクが泣き叫ぶ。 そして、泣きじゃくりながら、 「美佳ぁぁ・・思い出してよぉ!一緒にここで遊んでた時のこと!・・一緒に笑って話してたじゃん!・・ミルが失敗していじけてた時に、励ましてくれたじゃん!・・いつも明るくて楽しくて元気だった美佳じゃない!・・今が全てじゃないでしょう?・・これから先だって、美佳ならきっと幸せになれるよぉッ!・・死なないでぇ!・・死なないでぇ・・・死なないでよぉぉ・・・」 と、声がかすれて出なくなるまで叫んだ。 「美佳ッ!わかったでしょう?・・ミルクは今でも美佳を友達だって思ってるッ!・・私だって、美佳さえ振り向いてくれたら、いつだって笑って話そうって思ってたッ!・・閉ざしてた心を開いてよく見てよぉッ!・・そんなにたいして変わってないじゃん!泣き虫のミルクはやっぱり泣き虫で・・私は二人を見てるのが大好きで・・今だって美佳は私達の友達だよッ!・・一緒に生きようよッ!・・落ち込んで下向いてたら、明日まで見えなくなるよッ、って、言ってたのは美佳じゃないのッ!」 「・・・香織ぃ・・・」 「美佳ぁ・・・お金は返さなくていいからぁ・・・一番大事な美佳を返して・・・返してよぉ・・・」 「・・・ミルクぅ・・・」 美佳の目からボロボロと涙が溢れ出した。 「・・・ぁ・・・ぁ・・・どうしよぉ?・・・動けないよぉ・・・」 生きてみよう、と思った時、急に自分のいる高さに気付き、怖くなってしまったらしい。 立ったものの、もう座ることも出来ないようで、足がガクガク震えている。 「・・クソッ。」 マサトは大きく溜息を吐くと、靴と靴下を脱ぎ、足場の強度を確かめてから、軽々と垂直に昇っていった。 アッと言う間に美佳の所に辿り着くと、背中に背負い、手近なロープでずり落ちないように胴に縛り付け、またスルスルと下りてきた。 あまりにも瞬時のことで、皆は瞬きする暇もないほどだった。 「美佳ぁ!」 「美佳ぁぁ!」 ミルクと香織はマサトが地面に下ろした美佳に同時に抱きついた。 そして、三人とも抱き合ったまま大声で泣き出していた。 青いシートの外側から様子を伺っていた景山に、 「・・泣く子と地頭には勝てないわねぇ・・・」 と、後からこっそりついてきたアザミが言った。 景山は満面に笑みを浮かべ、 「あのお方だからこそ、私達はお慕いしているのだ。・・そして会長も・・」 とそっと小声で言った。 「・・ええ。そうね。・・・彼女こそ、本物の女王なのかも知れない。・・今はまだ小さなお姫様でも、将来が楽しみね。」 「ずっと・・今のままでも構わないさ。・・今でさえ・・高潔で寛大で慈愛に満ちておいでだ。」 「・・泣き虫さんでも?」 「ダイヤよりも価値のある涙に見えるね。」 「ホホッ。危ないこと。・・・魂を吸い尽くされないように、お気をつけなさいまし。」 「なんの。・・魔性の魅力には・・慣れているさ。」 「・・それもそうね。」 アザミはフッと笑い、 「気付かれない内に先に戻りましょう?・・ここは私達には不似合いですもの。」 と、景山に囁いた。 「・・まぁ、今夜はこれ以上、問題も起きないか・・」 「ええ。今夜に限って言えば・・大君がお許しになられたようですものね。」 景山とアザミは、マサトに挨拶することなく、そっとその場を後にすることにした。 二人には、中学校というエリアが眩し過ぎたのだ。 けれど、立ち去る二人の心はほんわりと暖かくなっていた。 「ねぇ・・飲みましょう?・・今夜はお酒が美味しそう。」 アザミが空に輝き始めた星を見上げながら言うと、 「いいね。」 と、景山が答え、アザミの手を腕に掛けて、エスコートするように歩き出した。 |
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