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<51>〜<55>





<51>
「主任復帰」
<51>「主任復帰」

 緊急処置センターは週末でも忙しさは変わらない。
 むしろ、時には普段の倍以上に忙しくなる。
 ただ、週末だけバイトで勤務する研修医や開業医が来る為、人手は足りるのだが、その分仕事の指示を出す責任者として唯の役割は欠かせなかった。
 Dr.ヒギンスとDr.ジョンソンがいる頃は隔週で交替していたらしいが、主任、副主任供に休暇中では唯がするしかなかった。
 それでも、来週からはDr.ヒギンスが戻ってくる。
 唯は二重に今度の月曜日が待ち遠しかった。

 そして、月曜日。
 朝、唯と大河が診療室へ顔を出すと、Dr.ヒギンスがカルテや書類に目を通している所だった。
「やぁ、おはよう。君達がDr.ユイとDr.タイガだね。」
 振り返って見せた笑顔は日焼けした赤い顔をしていた。
「今、書類を見せて貰ったんだが、Dr.ユイ。ジョンソン君に責務を押しつけられてしまったようで申し訳なかったね。グレイブ君に君達の面倒を見させるようにと話してあったんだがなぁ・・・ハハハッ。君達が優秀すぎてヘソを曲げたかな。」
「笑い事じゃないですよ。唯は責任を押しつけられて週末も休めずに詰めっきりだったんですから。」
 大河が抗議するのを、唯は腕を引いて止める。
「いや、ハハハッ。本当に済まなかったよ。」
 Dr.ヒギンスは人好きのする笑顔で重ねて謝罪した。
「それにしても、Dr.ユイ。君の仕事ぶりは見事だねぇ。言い訳じゃないが、ジョンソン君が君を責任者にしてしまった気持ちもわからなくないなぁ。」
 Dr.ヒギンスは呻りながら感心した。
 それから、
「Dr.タイガ。君も大したものだなぁ。手掛けた難しい手術の全てを成功させてるなんて、まさに神業だな。」
と、大河の手術報告にも目を通して感心して言った。
「しかし、通常の1/3の早さで完璧な手術をしてしまえるとは、私も是非見学させて欲しいものだね。」
「俺一人の力じゃないです。唯がいて初めて可能なんです。」
「なるほど。・・・ふむ。確かにDr.ユイが助手で補佐しない場合は1.5〜2倍程度の速度だな。・・・患者の体力や生存率を落とさない内の迅速な対応も成功率を高めるからねぇ。」
 Dr.ヒギンスは、うんうん、と頷き、
「いずれにしても、留守の間、ご苦労様だったね。例年は大抵2、3度は呼び戻しが掛かるとこだったのが、今年はお陰でゆっくりさせて貰ったよ。ありがとう。」
と、唯と大河に握手した。

 Dr.ヒギンスの専門は主に内科だったが、救急救命医療に関する知識は相当なものだった。
 唯や大河にも学ぶことの多い医師だとすぐにわかった。
 ただ、これまで緊急手術の時には、難しい手術の時に各専門科の外科医に頼み込むことが度々あって、その為、緊急処置科の立場が弱いのだと苦笑した。
「もっと優秀な外科医を専門でつけてくれるように、上とかけ合っている所なんだが、どうしても予定外の緊急手術が多いし、休みでも呼び出しがかかるから配属しようにもみんな倦厭してしまうんだよ。」
「正直、俺も期間限定のバイトでなかったら・・・お手上げですね。」
「ハハハッ。そうだろうね。・・・いや、それは仕方ないよ。・・・まぁ、君達がいる間に実績を上げて貰って、少し強気に手術が頼める立場になれるといいな、と期待しているよ。」
「期待って・・・これ以上、期待されてもなぁ・・・」
「後4週間か?ま、頑張ってくれたまえ。」
 Dr.ヒギンスは自分より身長の高い大河の肩を、頼もしそうに叩いた。
 唯と大河は、Dr.ヒギンスが思ってたよりずっと人格者で友好的な人物であることに好感を抱いた。
 何より、命あるものを可能な限り助けたい、という使命感を持っていることが、言葉や態度から伝わってくるので、一緒に仕事出来ることが嬉しかった。
 唯に責任の全てを任せて楽をしていた古参の医師達は、どこか投げ遣りに見えて、あまり話もしない関係だったのだ。
 アメリカにきて、初めて尊敬出来る医師に会えたことで、今回のバイトを有意義に感じることが出来るようになっていた。

 午前中の仕事で唯と大河はすっかりDr.ヒギンスとうち解けていたので、唯が昼食の休憩時間にいそいそと出掛けていくのを不思議がるDr.ヒギンスに、大河はサロンのことを話してやった。
「ああ、ミオ嬢かぁ。なるほどぉ・・・ハハハッ。」
 Dr.ヒギンスも澪を知っているようで、
「確かに、あの娘はいい子だよな。」
と頷いた。
 唯は責任者としての大役を返上したことで、初めて澪の演奏を初めから通しで最後まで聴くことが出来た。
 そして演奏の余韻に浸りながら、また澪を守衛のいる所まで送って行った。
 唯が上気した夢心地の顔で戻ると、
「天才博士の初恋か?・・青春とはいいものだねぇ。」
と、Dr.ヒギンスが笑顔で言った。
 唯はますます顔を赤らめ、大河をひと睨みしてから、
「そんな・・・ただ、彼女の演奏が素敵だなぁって・・・それだけです。」
と、なるべく動揺を見せないように言った。
「恋は憧れから始まるものだよ。ハハッ。・・・それで、食事くらいは誘ったのか?」
「誘えないですよ。シアトルの街のことはほとんど知らないし、それに誘おうにも普通の日は彼女はラジオ番組があるし、週末はここが忙しいし・・・」
「そんな言い訳してると私みたいに30過ぎても独身でいなきゃならないぞ。ハハハッ。」
「Dr.ヒギンスは独身なんですか・・・」
「ま・・・正確には一度失敗してる、という所だな。・・娘も一人いるんだ。可愛いぞう。」
 Dr.ヒギンスはそう言って、娘の写真を見せてくれた。
「わぁ・・・あはは、ホント可愛いですねぇ。」
「金髪かぁ。いいね、将来美人になりそうだ。」
 覗き込んだ大河がニヤニヤと笑うので、キャシーが大河の腕を抓った。
「アウチッ・・・いくら俺でもこんな子供に興味はないぜ。」
「ほう。Dr.タイガも青春してるようだね。・・・やれやれ、リフレッシュして戻ったはずが、年代のギャップを感じてしまうなぁ。」
 Dr.ヒギンスは苦笑しながら、写真をしまった。
「いいえ。Dr.ヒギンスはまだまだ、お若いですわ。」
 キャシーが恥ずかしそうに照れ笑いをして言った。
 Dr.ヒギンスが復帰したことで、緊急処置科の殺伐としがちな雰囲気が穏やかな空気に包まれていた。
 人柄も医療に反映するのだと思うと、お手本にしたい人物だな、と唯は皆と笑みを浮かべながら思うのだった。

 昼食の休憩がゆっくり取れるようになった唯は、昼休みに病院内を見学するようになった。
 病院内はすっかり把握してしまっているロバートが同行し、得意顔で各施設の設備や機能を説明しながら案内をした。
 ラウールのいる検査科を覗くと、暇そうなチャーリーが、
「ああ、ユイ。あなたから来て頂けるなんて・・・」
と、嬉しそうに唯を抱き締めた。
「チャーリー。ユイは見学に来ているんだ。お前に会いに来た訳じゃないぞ。」
と、ロバートが引き剥がすように唯を自分の腕に抱いて、チャーリーを睨んだ。
「ロバート・・・君・・・まさか・・・」
 チャーリーが唇をワナワナと震わせて、疑いの眼差しを向けるので、ロバートは、
「悪い虫を近付けないのもガードの役目でね。」
と、冷たく言った。
 顔を赤らめ唇を噛んだチャーリーがあまりにも落ち込んだ様子なので、
「好意を持って頂けるのは、嬉しいですよ。」
と、唯がフォローするように言って、チャーリーの手をそっと握った。
 感激したチャーリーは唯の手を握りしめて、思わずキスをした。
 唯は、ふふっ、と笑みを零したが、ロバートはチャーリーから唯の手をもぎ取り、自分のハンカチを出してわざとらしくキスした場所を拭った。
 唯は呆れて目を瞬かせると、
「ロバート・・・仲間割れしないでよ。私はロバートもチャーリーも大好きで頼りにしているんだから・・・ね?」
と、取りなすようにロバートに微笑んだ。
「ユイ。あなたのガードは私なのです。忘れないでください。」
 ロバートは切なさを隠して、小さく唯の耳元に囁いた。
 ラウールは検査中で手が離せなかったので、看護婦が代わりに検査科で扱っている検査の内容等を説明してくれた。
 チャーリーも、唯とロバートの後をついてきていたが、唯が、
「そろそろ休憩も終わるので戻ります。付き合ってくれてありがとう。」
と、手を差し出すと、
「今度はあなたと二人だけで会いたい。」
と、再び唯の手にキスをしながら言った。
 チャーリーの緑の目は熱く潤んでいた。
「二人だけ?・・・ロバートが認めてくれたらいいけど・・・」
「本当に?・・ああぁ・・ロバート、ユイを危険な場所には連れて行かないと約束する。私がちゃんとガードするから・・・」
「却下。認められないな。」
「ロバート!」
「却下だ。・・・ユイに万一のことがあったら、個人の感情論どころではなくなるんだぞ。・・今、アジアと事を構えるべきでないことは君もわかってることだろう。・・職務を忘れるな。」
 ロバートの方が少し地位が上らしい。
 上司として叱責されて、チャーリーは残念そうに溜息を吐いた。

 緊急処置センターへ戻る途中、ロバートは人気のない階段下へ唯を引き込んだ。
「何?・・ロバート・・・」
 唯が戸惑っていると、ロバートは咎めるように唯を見つめ、
「何故チャーリーの誘いに乗ろうとするのです?」
と、苦しそうに言った。
「あ・・・だって・・・やっと時間が出来そうだから、シアトルの街を案内して貰えたらなぁって・・・」
「Dr.ヒギンスが戻ったら、私の誘いに応じてくれる約束でしょう?」
「・・・うん・・・」
「ずっと忙し過ぎて、忘れてしまった?」
 ロバートは唯の肩を抱き寄せ、顔を近付けて囁くように言うと、唯の頬を指先で撫でた。
 唯は、ビクッと体が震え、遠く切なげな表情になる。
 ロバートは、何て神秘的な眼差しだろう、と引き込まれるように更に顔を近付けて唇を重ねた。
 唯は特に逆らうこともなくキスに応えていた。
 息が苦しくなるほど情熱的なキスで、頭の芯がボォーッとしてきてしまう。
 舌を絡め取られ、強く吸われて、唯は立っているのがやっとだった。
 しばらく熱いキスは続いたが、会話しながら歩いてくる人の気配がして、ロバートは唯から離れた。
 が、声は途中で別の方向へと消えていった。
「・・・職務も自分の責務も忘れてはいない。」
 声が聞こえなくなると、ロバートが呟くように言った。
「けれど、あなたに惹かれていくのを、押さえることが出来ない。」
「・・・でも・・・俺・・・」
 唯は甘えるような視線を向けて、困った表情をした。
「あなたがミオという女性に恋していることはわかっています。」
「・・・ごめんなさい・・・」
「いいんです。・・・あなたの想いも憧れ。・・・私もあなたに憧れています。想いが届かない苦しさはわかりますよ。・・・ですから、あなたの憧れが近付けるように、協力出来ることは協力します。」
「え・・・ホント?」
「ええ。・・ですから、必要なことは私に言ってください。あなたの役に立てることが、私にはあなたに近付く術なのです。」
「・・・そんなの・・・ロバートに失礼だよ・・・」
 唯が眉を曇らせ首を振るので、ロバートはもう一度唯を抱き締めてキスをした。
 そして、やっと唇を離すと、
「あなたの役に立ちたい。」
と、熱い息で囁いた。
「・・・じゃぁ・・日曜日にシアトルを案内して貰える?」
「もちろん。喜んで。」
 ロバートは唯を離しがたいようで、腰に腕を回したまま顔中にキスをするので、
「あまり遅くなると叱られちゃうよ。」
と、唯はそっとロバートの胸を押して、抱擁から逃れた。

 Dr.ヒギンスは唯を有能な助手として書類の整理など引き続き頼んでいたが、そうした中でも Dr.ヒギンスはこれまでの経験から得た実践的知識を話してくれるので、唯は仕事の手伝いをするのが楽しかった。
 それに、午後7時頃から大体2時間くらいが大河とキャシーのデートタイムなので、宿舎には戻れないから、と、無理をしてないかと心配するDr.ヒギンスに説明して仕事をさせて貰っていた。
 Dr.ヒギンスは、ああ、なるほどね、と含み笑いで納得すると、患者の様子を一緒に見回ったり、カルテを整理しながら、唯に様々な事を教えてくれるようになっていた。
 また、時には研究者としての意見を唯に求めることもあり、ディスカッションに熱が入ると時間を忘れて話し込んでしまうので、キャシーを看護婦寮に送った帰りに大河が覗いて呆れることもあった。

 金曜日の夜、唯はいつもより早い時間に宿舎に戻った。
 前日の夜、というかこの日の明け方まで、緊急の手術が入ったりして、その後の処置もあってほとんど寝ていなかったので、いささか疲れと眠気を感じていたので、Dr.ヒギンスに帰されたのだ。
 大河との二人部屋のドアを開けると、いきなり、
「Nooooooooooo!!」
と言うキャシーの叫び声が聞こえた。
 中を覗いても姿はない。
 大河の部屋の叫び声がドアを越えて入り口まで響いているのだ。
 唯が入り口で入ろうかどうしようか迷っていると、不意に肩に手を置かれた。
「痴話喧嘩でしょう。放っておくことです。」
 驚いて息を飲む唯の耳元でロバートがそう言った。
「あ・・・ロバート・・・」
 ロバートは唯の唇に指を当ててから、自分の口に持っていき、
「シーッ。・・・どうぞ、静かになるまで私の部屋においでなさい。」
と、微笑んだ。
 ロバートは唯達の隣りの部屋なのだ。
 唯は、ロバートの誘いに乗ることにした。
 ロバートは、唯達の滞在に合わせて、常にガード出来るように隣の部屋を借りていた。
 それで作りは同じ二人部屋で、昼間はロバートの部下達の待機部屋にもなるらしい。
 必要な物以外はない簡素な雰囲気は唯達の部屋と変わらなかったが、テーブルの上に無造作に拳銃が置かれていると、ドキッ、としてしまう。
 唯の足が見開いた目と同時に止まったので、
「ああ、済みません。ちょっと手入れをしていたものですから。」
と、ロバートが拳銃を棚に置き、
「拳銃には慣れてませんか?」
と、苦笑しながら、唯にソファーに座るように促した。
「・・・サバンナにいた頃は、部屋にライフルがある光景にも慣れていたはずだけど・・・それ以来は見たこともなかったし・・・」
「ほう。・・あなたの日常のボディーガードは身につけていないのですか?」
 ロバートが意外そうに聞くので、
「イギリスとドイツの頃は直接警備の人達と話すことは滅多になかったからなぁ。・・・それに日本では銃所持は認められてないでしょう?」
と、笑顔で答えた。
「何とも・・・平和ボケと言うか、危機感がないと言うか・・・呆れてしまいますね。」
 ロバートは眉を寄せて、真面目に心配しているようで溜息を吐いた。
「日本は小さな島国で、犯罪者自体が行動範囲を限定されることもあるでしょう?・・・よくわからないけど・・・」
 ロバートは世間を知らない唯とこの手の話をしても無駄と思ったようで、唯の為に音楽をかけると、ミルクを温めてきてくれた。
「コーヒーは眠れなくなるといけないから・・・」
 そう言って、大きなカップを唯が零さないように手を添えて渡す、ロバートの表情は愛しさに溢れていた。
 音楽に聴き入りながら、カップを両手に包んでゆっくり飲むと、疲れた体がジワーンと温まってくる。
 ロバートが体をつけて座り、唯の肩に腕を回して抱き寄せた。
 唯はカップを持ったままロバートにもたれかかり目を閉じた。
「徹夜でしたか?・・・疲れてるようですね。」
 ロバートは労るように唯の頬を優しく撫でていた。
「少し眠いだけ・・」
 唯は小さな声で答えて、ミルクをコクッコクッと飲み干した。
「御馳走様。」
 ロバートはコップを受け取ってテーブルに置くと、唯を抱き締め、キスをした。
「クスッ。・・ミルク臭いでしょう?」
「ミルクは嫌いじゃないですよ。・・・違うミルクも味わってみたいな。」
「クスクスッ。・・どんなミルク?」
 ロバートは唯の股間に手を伸ばし、さすりながら、
「ここのミルクを・・・」
と言って、再び熱いキスを始めた。
「あん・・・ダメ・・・もう、眠くって瞼を開いてられないもの。喧嘩してても耳にはいらないよ、きっと。」
 唯はそう言って、ロバートにお礼を言うと、自分の部屋に戻ることにした。

 部屋に戻ると叫び声はもう聞こえなかったが、泣きながら甘えるよがり声が洩れてきていた。
 何があったのか、今夜はもう聞く気にはなれなかった。
 唯は自分の部屋へ行くと、崩れるようにベッドに倒れ、眠りに落ちていった。

<52>
「宿命」
<52>「宿命」

 翌朝、唯が目を覚ますと、隣りに大河が眠っていた。
「・・重いなぁ・・・」
 唯は大河の腕と足を払い除けて、起きあがった。
「んー・・・」
 ベッドに突っ伏したまま頭を掻く大河の背中には、幾つもの引っ掻き傷があった。
「グェッ!」
 唯は大河を踏みつけてベッドを降りた。
「・・っのぉ・・・何すんだよ?」
 大河が顔を上げて唯の背中を睨んだが、唯は無視してシャワーを浴びに行ってしまった。
 シャワーを浴びていると大河も入ってくる。
 キスしようとする大河に、水の方の蛇口を捻って冷たい水を浴びせた。
「・・っっっっ冷たいだろ!」
「寝惚けたマネしようとするからだ。」
 唯はシャワーをお湯に戻して言った。
「疲れて眠ってるお前の服を脱がせてやったのに・・・随分だよな。」
「疲れて帰ってきたのに、中では喧嘩騒ぎ。・・・ったく。」
 唯は泡立てたスポンジで手早く体を洗う。
「あ・・・聞いてたのか?」
「知らん。痴話喧嘩なんて聞いてられるか。」
「・・・そうだな。」
 大河は溜息を吐いて項垂れた。
 唯は体を洗いながら様子を見ていたが、シャワーで泡を流すと、
「お先。早く支度しろよ。」
と言ってシャワー室を出た。

 唯がドライヤーで髪を乾かしていると、大河が浮かない顔で出てきて、タオルで乱暴に拭き始めた。
「何があったんだ?」
「・・キャシーがシャワー浴びてる間に彩香からのメールを見てたら、キャシーに見られちまったんだ。」
 唯は話がよくわからなくて眉を寄せた。
「だから、彩香への俺のメールとか彩香からのメールとかも全部見られたんだ。」
「・・・へぇ・・・でも、日本語でメールしてるんだろ?」
「そりゃな。けど、内容まではわからなくても、アドレスはアルファベットだし日付とか・・それで俺が彩香と毎日メールしてるって事実がバレて、それだけで許せなかったらしい。」
「はぁん・・・そっか・・・」
 唯はやっと事情がわかってクスッと笑った。
「笑い事じゃないぜ。・・・日本に彼女がいるって承知しているはずなのに、泣くわ、ひっぱたくわ、叫ぶわで、参ったよ。」
「・・・ふむ・・・」
「一緒に日本に行く、って言い出すから、日本じゃまだ学生で医者はしてないから、俺には生活力がないんだ、って説明したんだけど、わかってくれなくてさ。」
「・・・日本にか・・・?!」
 唯も驚いて目を瞬かせた。
 だが、好きになれば国境も関係ないだろうとも思う。
「・・・困ったなぁ。・・・彩香ちゃんはキャシーのことは知らないんだろ?」
「ああ。」
「待ってる彩香ちゃんにはお前の浮気がショックだろうし・・・とは言っても、キャシーもいい子だもんなぁ。」
 唯はドライヤーを大河に渡すと、腕組みをして考え込んだ。
「うーん・・・日本にキャシーを呼んでやるのは可能でも、その後の生活をどうするかだなぁ。看護婦としての仕事は続けられないし、日本語を勉強するだけで大変だろうし・・・」
「俺もキャシーは魅力的で可愛いと思ってるさ。けど・・・やっぱり彩香が一番だな。彩香は俺が一から全て教え込んだ俺の女だ。別れる気はないぜ。」
「だったら、付き合い始める時に、もうちょっと考えりゃ良かったのに。・・・つっても、今更だけどな。」
「キャシーから誘ってきたんだぜ?・・彼女いるのを承知でさ。俺の方が今更って言いたいよ。」
「・・・そうは言ってもなぁ・・・」
 唯は腕組みをしたまま壁にもたれると深い溜息を吐いた。
「キャシーとは別れるしかないんだ。・・だから、せめて一緒にいられる間を楽しく過ごそう、って言ったんだけどな・・・」
 一緒にいられる間だけ・・・?
 その言葉が唯の悲しい記憶のスイッチを入れてしまった。
 唯は別れるしかない九条と過ごした数日間を思い出してしまったのだ。
 別れるしかなかった。
 会わずに別れる。
 それを条件に九条まで責任が及ぶのを食い止めたのだ。
 だが、思いがけない九条の怪我で、ほんの数日を共に過ごすことが許された。
 一緒に居られる時間を、噛みしめ胸に抱き締めるように過ごした。
 別れなければならないと、刻々と迫る時間の、非情な時を刻む音に脅えながら。
「・・唯?!」
 唯は締め付けられる胸の痛みに、涙が溢れ出して止まらなくなってしまった。
 どれほど、辛い時間だったか知れない。
 いっそ会えないまま別れた方が楽だったとも思う。
 だが、それでも、もし同じあの時間に戻れたとしても、やはり共に過ごすことを選んだだろう。
 一分一秒でも長く一緒にいたかった。
 九条のラーガ似の優しい眼差しを記憶に焼き付け、肌の温もりを、頬を撫でる指の感触を、心に刻み込んで・・・。
「唯・・・どうしたんだ?」
 大河は唯がいきなり泣き出したことに戸惑っていた。
 唯は溢れる涙を拭うことも忘れて、大河に悲しみを込めた視線を向けた。
「・・・それって・・・残酷だよ。・・・俺でさえ・・・今でも・・・こんなに苦しいのに・・・」
 大河は唯が九条を思い出してしまったことに気が付いた。
「唯・・・」
「・・・巻き戻しては再生するように・・・繰り返し・・・繰り返し・・・同じ痛みで記憶に引き戻される・・・鮮明な痛みが・・・蘇る・・・」
「・・・いつか楽しい思い出になるだろ?」
「いつ?・・・いつまで、あの時の苦しさを思い出したら、楽しい思い出なんてものになる?・・・一人では笑えない。・・・一人では泣くしか出来ないのに・・・」
 唯の言葉は遠い幼い記憶にまで飛ぶように聞こえた。
 別れを繰り返してきた唯には、別れの痛みが他人事には思えないのだろう。
 大河はマズイことを話してしまったと悔やんだ。
「唯・・・俺は一生お前と一緒だ。」
「・・・そうさ。俺はお前を手放さない。だから、何をしても許してる。・・・誰を裏切ろうと・・・誰を泣かせようと・・・お前を一番に守ってやるさ。」
「・・・唯・・・泣くなよ。・・・俺はお前と笑っていたい。」
「誰が泣かせるんだ?・・・バカヤロォー・・・」
 唯がしゃくり上げるのを大河は抱き締めた。
「ごめん。・・・キャシーのことはよく考えるよ。・・・どうすればいいか・・・よく話し合ってみるから・・・泣かないでくれ。」
 誰に泣かれるより、唯に泣かれることがこたえた。
 だが大河はその一方で、”お前を手放さない”と言ってくれた唯の言葉が嬉しかった。
 甘い魅惑的な香りのする髪に口づけをしながら、”俺の唯”と思う大河だった。

 その日は緊急処置センターは目が回るほど忙しかった。
 プライベートな悩みを顔に出す暇もなく、次々と担ぎ込まれる患者の対応に追われた。
 午後には予定されていた手術の他に二件も緊急の手術が舞い込み、大河も唯も満足に座って休むことが出来ないほどだった。
 それでも夕方にはなんとか無事落ち着いて、大河はキャシーと先に仕事を上がっていった。
 Dr.ヒギンスは残っている医師や看護婦にピザを取って奢ってくれた。
 唯が遅くまで書類の書き込みをしていると、
「こんな時間まで悪いね。」
と、Dr.ヒギンスが肩を叩いた。
「いえ。明日は休みにして頂いたので、これくらいは済ませておかないと・・」
 唯は疲れていたが笑顔で答えた。
「ハハハッ。日曜日も休めない状況にさせていた方が申し訳なかったのに。何もかも、一人では抱えきれないよ。時には割り切って自分を休ませてやることも必要だ。ゆっくりして気分転換してくるといい。」
「はい。ありがとうございます。」
 唯はDr.ヒギンスの言葉が大河のことも言っているように聞こえて、不思議そうに視線を向けた。
「ん?」
「あ・・いえ。」
 唯は言葉に出来ず、微笑みながら首を振った。
「魅惑の微笑みだな。・・・”微笑みの天使”に会えて光栄だよ。君は噂に違わず、賢明ないい子だね。」
 Dr.ヒギンスは、唯を優しく見つめながら感慨深げに言った。
「は?」
 唯はDr.ヒギンスが急にそうしたことを言い出したので、余計訳がわからなくなった。
「君の研究論文を読んだ時には、一体どんな子がこんな凄い研究をしているのかと、驚嘆を覚えたよ。」
「あはっ。・・まだ、完成してない理論ですが・・・」
「君がよく書き込みをしていた掲示板もファンでねぇ、時々覗いてたし・・・ハハハッ。まさか一緒に仕事出来るとは思ってなかったから、バイトの申し込みがあった時には一にも二もなく即決定だったよ。」
「ありがとうございます。いい勉強をさせて頂いてます。」
「君とDr.タイガとは本当にいいコンビなんだな。天使の補佐があって初めて彼のメスには神が宿るのだとわかったよ。」
「いえ、・・・大河は自慢の友人で尊敬する最高の外科医です。・・・ちょっと問題もありますが・・・」
「ハハハッ。キャシーとのことは私は口出ししないよ。恋愛は当事者のものだからね。」
「・・・済みません。」
「君が謝ることでもないだろう?・・・クスッ。君はDr.タイガに甘すぎるようだな。」
「それ以上に辛い思いをさせてきてますから。」
「ほう・・・名コンビの影に涙あり、か?・・ハハッ。まあ、それは聞かないことにしよう。・・・それより、君が恋してるミオ嬢のことだが・・・」
「はい?」
 Dr.ヒギンスから澪の名前が出ると、唯は頬を染めて目を輝かせた。
「大学でこの街に来たのも、目の治療が目的だったようだよ。」
「そうなんですか?・・・聞いてなかったなぁ・・・」
「この病院では眼科治療でも有名でね。失明から快復した例もある。」
「ええ。」
 唯は見学した時に聞かされたことを思いだした。
「それで、彼女も一縷の望みを託してしばらく通っていたんだ。君が彼女のカルテを見たいなら眼科に話を通しておこう。」
「是非、お願いします。」
「うむ。・・・君とDr.タイガのコンビなら・・・あるいは・・・」
 Dr.ヒギンスは言いかけたが、苦笑して首を振った。
「そこまで言うのは僭越だな。・・・ま、そうゆうことだ。」
 Dr.ヒギンスはそう言って、唯の肩を叩いた。
「今日は私も疲れた。先に上がらせて貰うよ。君も早めに切り上げなさい。」
「はい。お疲れ様でした。」
 唯はDr.ヒギンスの話に血が騒ぎ出すのを感じて、体が熱くなった。
 憧れる澪に何か役に立つことが出来るかも知れない、と思うと、罪深い自分の存在意義を見出せるような気がした。
 もちろんカルテを見ない内には答えは出せないし、淡い期待や楽観視はするべきではない。
 先天性だけに難しい障害があるのだろう。
 現に何年か通った成果もなく、澪の目は闇に閉ざされたままなのだ。
 カルテが早く見たい。
 唯は、はやる心を押さえ、書類に取りかかった。

 唯が帰ろうとした時に、また急患が運ばれてきた。
 唯は大河を呼び出して緊急手術をするように段取りをした。
 2時間ほどで手術は終わり、唯は、後の経過観察を夜勤の医師に任せて、大河と一緒に宿舎に帰ることにした。
 宿舎の部屋に戻るなり大河が抱き締めてきた。
「・・キャシーは?」
「もう看護婦寮に戻ってるよ。」
「・・そっか・・・」
「どうするか・・・すぐには答えは出せない。」
「・・うん。・・・そうだね。」
 唯は大河の求めるままにキスをして、キスをしながらベッドへと行った。
 大河の激しい思いを受け止め、押し寄せる快感に翻弄されながら、これもキャシーには許せない行為かも知れない、と思っていた。
 自分と大河との関係や結びつきは簡単に説明出来るものではなかったし、説明したとしても納得出来ることではないだろう。
 自分自身、まだよくわからないのだ。
 九条にどう言い訳したらいいのかと悩んでしまう。
 会えれば、の話だが・・・。
 それでも大河を拒絶することは出来なかった。
 大河を追い詰めたのは自分だし、これ以上拒絶していたら、大河の心を壊しかねないように思えたのだ。
 唯は考えることに疲れて、意識を遠い夢の草原へと開放してやることにした。
 大河と虹色の草原を駆けていく。
 上になり下になり、じゃれ合いもつれ合い、それでも駆けていく。
 どこが目的地なのかもわからず、何の為かもわからなかったが、駆けていく先には目映い光が溢れているように感じる。
 光に霞む先が深い谷かも知れない。
 奈落の底まで落ちて、暗い闇に包まれるかも知れない。
 それでも、共に駆けていこう。
 それが、自分達の生き方なのだ、と思えた。
「あぁぁ、、、大河ぁ、、、駆けよう、、、どこまでも・・・」
「唯・・・どこまでも一緒だ・・・俺とお前・・・並んで駆けてこうな・・・」
 目指す先は地獄でもいい。
 唯は大河を守りたいと思い、大河は唯を守りたいと思う。
 誰にも理解されない関係かも知れないが、”共に生きるべし”、と定められた宿命なのかも知れない。
 そう思えるほどにお互いにはお互いが必要だった。
 唯と大河は、疲れ切った体と心を重ね合わせて、眠りについた。

<53>
「賛美歌」
<53>「賛美歌」

 日曜日の朝。
「うわっ。・・寝坊した。」
と小さく叫んだ唯がベッドから転がるように起き出して、シャワー室へと駆け込んだ。
 大河は寝惚け眼でシャワー室に入ってくると、
「何、慌ててんだよ?・・今日は休みを貰ってるんだろう?」
と、唯の肩にキスをした。
 が、ボディーソープの泡まみれになって、
「ぶはっ・・うぇっ・・・まじぃ・・・」
と、急いでシャワーで口元を洗い流した。
「休みだから、ロバートに案内して貰う約束したんだ。」
「ロバートぉぉ?!」
 大河は眉間にシワを寄せて、唯を睨んだ。
「何であいつと・・・」
「だって、街に出掛ける時はガードするって言ってたじゃん。」
 唯に言われて、大河は初めてシアトルに来た日のことを思い出した。
「そう言えば、そんなことを言ってたな。」
 大河はキャシーと度々街に出掛けていたので、ガードもなく出掛けるのが普通になっていた。
 唯はずっと病院の仕事が忙しかったこともあって、一度ラウールと一緒に食事した時以外、病院エリアからは出てなかったのだ。
 元々唯は何処にいてもガードされてきたし、必要以外限られた空間だけで生活しなければならない環境でも不平を言うことはなかった。
 不平を言わないだけに、ともすると、それが普通のことのように思えてしまう。
 けれど、考えてみればシアトルに来てもう5週間が過ぎようとしているのだ。
 1ヶ月以上もの間、休みもなくひたすら仕事に専念して、生活している街も歩いたことがないのは過重労働もいいところだ。
 いくら人を救えることが喜びだとしても、自分に戻る時間も必要だろう。
 大河は唯を自分の中に閉じ込めておきたい思いがあっただけに、現実的な問題として気付いてやれなかったことを反省した。
「なら、俺も一緒に行くぜ。」
 大河は、唯との熱い夢のひと時を思い出しながらゆっくりとシャワーを浴びる楽しみを放棄し、急いで体を洗い流した。

 唯がバスローブを羽織って自分の部屋へ行きかけた時、ドアがノックされた。
 返事をして細めにドアを開けると、ロバートがお洒落なスーツを着て立っていた。
「ごめんなさい。すぐ支度するから・・下で待ってて貰える?」
「いいですよ。」
 ロバートは手を伸ばして、唯の濡れた髪を愛しそうに撫でてから、先に宿舎の玄関へと向かった。
「チッ。あんな奴1時間でも待たせときゃいいんだ。」
「大河。・・・喧嘩腰になるなら、俺だけで行くからな。時間を指定したのは俺なんだ。朝、立ち寄りたい所があったから。」
「立ち寄る?・・・何処に?」
「説明してる時間ない。大河の支度が出来なかったら、置いてくぞ。」
「わかったよ。」
「あ、服装はきちんとしたスーツにしろ。」
 唯はそう言って自分の部屋へと急いだ。
 スーツ?、と怪訝に思いながらも、大河も自分の部屋へ行って、急いで支度をした。

 唯は淡い水色のスーツを、大河はクリーム色のスーツを着て、宿舎玄関に降りて行った。
 白いスーツが似合うロバートは大河の姿を見ると眉をひそめた。
「彼も?」
 ロバートが唯に小声で不服そうに言った。
「言っておくが、ロバートと他の連中はアメリカ政府が付けてるガードだが、正直全面的には信用してないんだぜ。」
 大河は腕組みをして不遜に言う。
「俺は唯の親から直接頼まれているガードなんだ。俺を外して連れて行こうなんてマネはさせない。」
「大河!・・ったく、何、偉そうに言ってんだよ。お前は単なる学友だろうが。」
 唯が、チッチッチッ、と指を振って大河を諫めた。
「済みません、ロバート。彼は素直じゃない寂しがり屋で・・・」
 唯が困ったように肩をすくめて見せるので、ロバートは、
「仕方ないですね。」
と言って、苦笑いを浮かべた。
 車は二台停まっていて、ロバートの部下が後ろを随行するらしい。
「では、行きましょう。」
 ロバートは唯と並んで座ることを諦め、助手席に乗り込んだ。
「お願いします。」
 唯は後ろの席に乗り込むと、
「初めにマディソンのフローレンス教会に案内してください。」
と言った。
「教会?・・わかりました。」
 ロバートはカーナビに行き先を入れ、運転手に出発するように指示した。
 車が走り出すと、ロバートはミラー越しに、
「ユイはカトリック?・・プロテスタント?」
と、聞いてきた。
「え・・・っとぉ・・・何だろう・・・?」
 唯はロバートの質問に困って、大河に目でどうしよう、と訴えた。
「日本人なんだから、仏教とか言っとけば?」
「・・・そっか・・・」
「クククッ。失礼しました。日曜日に教会へ行きたい、と言われたので、キリスト教徒と思ってしまいました。別に無神論者だとしても軽蔑したりはしませんよ。・・私は一応カトリックなのですが、そう熱心ではなくて、日曜のミサにはここ何年も行ってません。」
 ロバートはふと空を見上げ、懐かしそうな遠い目をした。
「無神論・・・でもないと思うけど・・・どんな神様でもいらしてもいいと思うし・・・どんな神様を信じるのも個人の自由だと思うんです。中には自分達の神だけが唯一絶対神だと思う人達もいるようですが、それはそれで他を迫害さえしなければ、個人の自由という意味でいいと思ってます。」
「ほう・・・」
「神と讃えられる存在は確かにいると思ってますし。」
「そうでしょうね。ユイの言動にはいつも神様の影を感じると、皆が言ってますよ。あなたがある医師に言った言葉は看護婦の間で評判になってましたし、あなたの診察を受けた患者達も神様の愛を感じさせて貰ったと言ってました。」
 ロバートがそう言ったので、大河は、
「調査が行き届いてますね。唯の動向がそれほど気になるとは・・・」
と、皮肉げな笑みを浮かべた。
「そこまで報告の対象にはなりませんよ。あまり褒めそやしてしまうと、私が懐柔されたと誤解を招きますから。」
「誤解・・ですか?」
「タイガ。あなたは私がユイに敵意を持てばいいと言われるのか?」
 ロバートは大河がからんでくるので、ムッとして言った。
「大河。次に皮肉を言ったら、即、車から降ろすからな。」
「わかったよ。」
 大河は腕組みをして目を閉じると、腰を前にズラしてシートに深くもたれかかった。
「信仰心の厚い人達を尊敬します。」
 唯は話を戻すように言った。
「宗教には、勿論宗派によって教えも違うでしょうけれど、自分自身を律する為の戒律や教訓があって、自分を省みて反省したり諫める機会があるでしょう?」
「ええ。確かにありますね。」
「それを何の矛盾も感じない幼い頃から、日常の習慣として教え込まれれば、間違った生き方をする人間が減るように思えます。」
「・・・クスッ。ユイは純粋なのですね。」
「宗教が間違ってたら、えらく恐ろしい集団になるぞ。」
 大河が目を閉じたままボソリと呟いた。
 唯は、またぁ、と横目で睨んだが、
「私もそう思いますね。」
と、意外にもロバートが賛成した。
「何の疑いもなく教え込まれた教義は、本人の意思とは関係のない、洗脳と言えるでしょう。・・・疑い迷い探り当てて見出した神こそ、自分自身で感じられる真の神なのではないでしょうか。」
「へぇ・・・カトリックがそんなことを言っていいのかねぇ?」
「両親は嘆くでしょうね。私の両親は敬虔なクリスチャンですから。・・・その影響で私も大学で人類学や哲学を学ぶまではずっと疑いもなく信じてきました。いえ、今も信じる心はありますが、宗教にしがみつく熱狂的崇拝に危険な臭いを感じて、少し距離を置いている所です。」
「・・そうなんですかぁ。」
 唯は感慨深げに頷いた。
「つまり、迷える子羊ちゃんな訳か。ふふん。」
「大河ぁぁ・・・」
「・・痛ェッ・・・」
 唯が大河の太腿を思い切り抓ったので、大河は顔をしかめて股を撫でた。
 唯は、宗教の問題は個人個人で微妙な思いがあって議論すべきではない、と感じ、話題を変えることにした。
 それで、昨日Dr.ヒギンスが話してくれた澪のことを話した。
「なぁ、唯。気持ちはわかるが、何年も通っても手の施しようがなかったものを、俺達に治せるって思う方がどうかしてるぞ。」
「治せる、なんて言ってないじゃん。でも、可能性があるなら・・・」
「可能性があったら、もうとっくにやってるだろ。」
 大河は妙に不吉なものを感じていた。
 Dr.ヒギンスが、唯と大河なら、と言ったということは、すでに澪のカルテをDr.ヒギンス自身が見て、答えを見つけているのではないか、と思えた。
 そして、それは唯と大河の研究目的である、”クローン培養と移植”に関わっているのではないか。
 一度思い込むと意志を曲げない唯が、唯の弱点とも言える可哀想でたまらない相手にのめり込む性格で、研究を再開させるようなことになったら、このままアメリカに取り込まれて日本に帰国出来なくなってしまうのではないか。
 大河は澪がアメリカの用意した駒のように思えてきて、警戒心を強めながら唯の話を聞いていた。

 車がフローレンス教会に到着した。
 ミサはすでに始まってしまっているようで、唯達はそっと音を忍ばせて礼拝堂の中に入った。
 ロバートは片膝をついて十字を切ってから開いてる席に滑り込んだので、唯と大河もそれに習って席についた。
 それほど規模は大きくなかったが、高級住宅地に隣接した教会だけあって豪華な内装で、華麗なステンドグラスの窓が並んでいた。
 席はかなり埋まっていて、立派なスーツの紳士や着飾った婦人が多かった。
 大河は、”貧しき者は幸いである”と言いながら、顔ぶれが金持ちばかりなのが気に入らなかったが、それでも黒人やアジア系の人達もいることに、少しホッとしていた。
 神父のありがたい説教が終わり、賛美歌をオルガンに合わせて歌うことになった時、唯の顔が輝き出した。
 いや、姿全体から虹色のオーラが出ていると思えるほどに、ステンドグラスの光が集中して降り注いでいるように感じた。
 原因はすぐにわかった。
 唯が急に教会へ来たいと言い出した訳も。
 オルガンに向かった奏者こそ、唯の憧れる女性、澪だったのだ。
 ロバートも気付いたようで、ははぁん、と頷きながらも、唯の輝く美貌に気を取られてしまっているようだった。
 大河はヤバイと思ったが、遅かった。
 賛美歌は唯の得意とするものだったのだ。
 その国に行ったら、その国の習慣に合わせる、という教育方針の下、留学中は日曜日の教会ミサには時々顔を出すようにしていた。
 変声期前だった唯の透明な歌声に、どれほど崇拝者が群がったか知れない。
 唯に”天使”とあだ名がついたのも、その美貌と究極の微笑みによるものだけでなく、その歌声が天から降り注ぐような響きがあった為だったのだ。
 案の定、唯が歌い出すと皆が一斉に振り返って視線を向け出した。
 神父さえ驚きを隠せずにいる。
 聖歌隊は負けじと声を上げるが、どんな大音響の中でも、唯の天使の歌声は異次元から聞こえるように特出して耳に響いた。
 ロバートは目を潤ませて感激してしまっている。
 宗教心があるほど、唯と天界を結びつけてしまう傾向が強いのだ。
 ロバートの潤んだ大きな目が、”まさに天使だ!”と叫んでいる。
 大河は、この野郎!と殴り倒したい気持ちを歯ぎしりをして我慢した。
 澪はオルガンを奏でながら、何かに気付いたように顔を上げ、嬉しそうな笑みを深めた。
 澪の耳にも、唯の歌声が届いているのだろう。
 大河自身、唯の口を塞ぎたい衝動の一方で、久々に聞く唯の歌声に体が甘い陶酔を覚えてしまっていた。

 ミサも終盤が近付き、聖歌隊が募金袋を持って参拝者の間を回る。
 神父の前に順番に進み、チップを口に頂き、聖水を振りかけて貰う。
 唯の順番になった時、
「素晴らしい歌声をありがとう。」
と、神父に言われ、唯は恥ずかしそうに頭を下げた。
 唯に傅かれる気分は格別のものらしい。
 神父は満足そうな笑みで、
「また、いらしてください。」
と、優しく囁くように言った。
 話し込みそうな雰囲気になったので、大河は唯を押して自分の順番に回した。

 教会の外にやっと出てきた大河は、
「肩が凝っちまったぜ。」
と言って、大きく伸びをした。
「何か美味い物、喰いに行こうぜ。朝食抜きだもんなぁ。腹減った。」
「ごめん。もうちょっと待って。澪に挨拶したいから。」
 唯は階段下で、入り口を眺めている。
「ミオにはDr.ヒギンスの話をするの?」
 ロバートがさり気なく唯の肩に手を置いて聞いた。
 入り口に向けた唯の横顔をうっとりと見つめるロバートに、大河は頬をヒクつかせた。
「ううん。まだカルテを見てないし、何とも言えない状況だから、淡い期待を持たせるのは残酷でしょう?」
「そうだね。」
 ロバートは甘く囁くように言って、唯の肩を優しく撫でる。
 つまらない嫉妬はするなよ、と唯の背中が言っている。
 他の誰にもわからなくても、大河にはわかってしまう。
 唯を抱いた記憶が鮮明に残っているのが、大河にはせめてもの救いだった。

 澪が盲導犬に誘導されて入り口に姿を現した。
 唯は澪が階段を降りきるのを待って、声をかけた。
「澪。素敵な演奏だったよ。」
「ありがとう。でも、ユイの歌声の方がもっと素敵だったわよ。ふふふっ。」
「知ってる賛美歌だったから・・・澪の演奏と溶け合えたらいいなって・・・」
「ええ。オルガンの音とユイの声が共鳴して、一層神秘的に響いていたわ。これが本来の賛美歌なんだわぁって、演奏しながら感動しちゃったもの。ふふっ。」
「邪魔にならなくて良かったよ。」
 唯と澪には打ち解け合った二人だけの空気があった。
 毎週演奏を聴きにいっているだけのことはある。
 憧れだと言いつつも、着実に交友は深めているようだった。
 この教会で演奏していることも、澪が唯に話したのだろう。
「唯。俺にも紹介してくれよ。」
「ああ、そうだね。・・澪。私の親友で外科医の大河。一緒に緊急処置センターでバイトしているんだ。」
「初めまして。大河です。よろしく。」
「あら、背の高い方なのね。初めまして、澪です。どうぞ、よろしく。」
 澪が高めに手を差し出したので、大河は軽く握って握手した。
「それから、私の友人のロバート。」
 友人と言われてロバートは、ん?、と唯の顔を見たが、唯がウィンクして見せたので、ガードがついていることを話してないのだと気付き、
「ロバートです。よろしく。」
と、詳しいことは言わないまま挨拶をした。
 澪は今度も挨拶の後で、手を高めに出し握手をした。
「澪はこれからどうするの?・・何か予定が入ってる?」
「え・・・?」
「私達はシアトルを散策しようと思っているんだけど、良かったら一緒に行けないかなぁ?・・澪がよく行く場所や店とか、教えて貰えると嬉しいんだけど・・・?」
「あ・・・んー・・・申し訳ないんだけど、今日は・・・」
 澪が済まなそうに言い淀んでいる時、
「ミオー!」
と、離れた所から呼ぶ声が聞こえた。
 澪の表情が明るい笑顔になって、声の方へ顔を向けた。
 呼びかけた声の主は息を切らせて駆け寄ってきた。
 20代後半に見える黒髪のイタリア系の男だった。
「ミオ。遅くなってごめん。」
 男は澪の肩を抱き寄せ、こめかみと頬に立て続けにキスをした。
 それから、唯と大河とロバートを眉をひそめ、露骨に口を歪めると、
「誰なんだ?」
と、咎めるように聞いた。
「サロンで演奏している病院の先生方よ。」
「へぇ・・・こいつも?」
 男が唯を上から下までジロジロと眺め回した。
「え?・・こいつって?」
 澪が怪訝な顔をする。
「だって、まだガキだぞ。」
「え・・・?」
「君は随分失礼な男だな。彼はDr.ユイ。正真正銘、有能なドクターだ。・・が、君に紹介してやりたくないね。」
 ロバートがいつもの不遜な調子で言ったので、男はますます不機嫌そうに顔をしかめた。
「済みません。あの・・」
 澪はどっちに先に説明したらいいのかと戸惑っているようだった。
「澪、ごめん。彼と約束があったんだね。・・済みませんでした。サロンでの演奏を聴いてファンになった者です。今日はこちらで演奏されると聞いたので、ミサにお邪魔させて頂きました。・・私が唯。そして大河とロバート。」
「・・・どうも。ミオの恋人のレオンです。」
「今、澪さんに友人の紹介と挨拶をしていた所でした。長くお引き留めするつもりはなかったのですが、ご不快な思いをお掛けして申し訳ありませんでした。」
「ふーん・・・」
 唯が微笑みながら丁寧に説明するので、レオンも態度を軟化させ始めた。
「私達はこれから他へ行く予定がありますので、これで失礼させて頂きます。」
「あ・・ああ、じゃぁ。」
 レオンはガキと思っていた唯が、大人の態度で礼を尽くすのに圧倒されていたので、生返事で手を挙げた。
「それじゃ、澪も、良い休日を。」
 唯はそう言って踵を返し、車の方へと歩いていった。

「あんな奴かよ。たいしたことねぇなぁ。」
「ユイ。彼が言ったことを気にしてはいけませんよ。」
 車に戻ると、大河もロバートも、唯の気持ちを引き立てようと話しかけた。
 彼氏がいると聞いていても、目の前で見せつけられるのは、いくら唯でも辛いだろうと思ったのだ。
 唯はうつむいて黙っていた。
 唯の落ち込む姿に大河もロバートも次第に掛ける言葉が見つからなくなっていった。
 気まずい沈黙がしばらく流れた後、唯が、
「・・・ガキかぁ・・・」
と、ポツリ、と言った。
「・・・まるで・・・裸の王様だな。」
 唯は溜息を吐いて、虚ろな眼差しを窓の外へ向けた。
 誰よりも自分の姿が見えていないのは自分自身なのだ。
 常に側にいる者は、その姿が見えていても取り立てて言うことはしない。
 悪意ではなく、日常的に外見を重視する必要がないからであり、必要な会話に外見的要素はあまり含まれていなかった。
 医療の現場では、唯の才能こそが価値あるものだったのだ。
 だが、それを知らない者から見れば、ガキと言ってしまえるほど子供なのだ、と思い知らされてしまった。
「何言ってんだ?・・お前をガキとしか見れない奴が、その程度のレベルの奴ってことじゃねぇか。」
「そうですとも。あなたの価値もわからない・・・いえ、価値を教えたくもない程度の男です。」
 大河とロバートの台詞に唯は苦笑した。
「慰めてくれてありがとう。・・でも、慰めてくれる気持ちは嬉しいけど、澪の彼氏を扱き下ろすような言い方はしないでよ。出会い方がマズかっただけで、澪を愛してくれている誠意ある男性って思いたいもの。」
 そう言って、唯は気を取り直したように微笑んだ。
「じゃぁ、美味しい物を食べに行こう。」
「おう。そうだな。」
「ええ。そうしましょう。」
 大河もロバートも、唯がこれ以上心を悩ませないように、内心の敵対心は隠して表面的友好を保とう、とお互いに思っていた。

 お陰で、それから夕方まで、楽しい観光をすることが出来た。
 ただ、宿舎に帰った大河を泣き顔のキャシーが責め立て、キャシーを宥める間、唯はロバートの部屋で過ごすことになった。
「・・ったく。連絡くらいしてやれよなぁ。」
と、唯がぼやくので、
「でも、ユイと二人だけの時間が持てたことには感謝だな。」
と、ロバートは笑って、熱いキスをした。

<54>
「希望の光」
<54>「希望の光」

 月曜日、唯はいつもより早めに出勤した。
 少しでも早く、澪のカルテが見たかったのだ。
 緊急処置センターは他の科と違って、緊急時以外、外来の患者はいなかったので、午前中でも時間が空くこともあった。
 むしろ午後から夜にかけてが忙しくなる。
 それで、時間のある時に見ておきたかった。
 唯の気持ちを察したDr.ヒギンスが眼科に連絡したので、眼科からカルテが届けられた。
 病院内は天井にレールが張り巡らされていて、モノレールのようにボックスがカルテを運ぶシステムになっているので、看護婦が届ける必要はなかった。
 けれど、カルテが届く前に、数人の患者がまとめて運び込まれた為、その対処に追われてすぐには見れなかった。

 昼近くなって、ようやく澪のカルテを見た唯は、机に頬杖をついて、何かを必死に考え込んでいた。
 澪の両親はニューヨークに住む企業家で、澪は長期診療が出来るようにシアトルの大学に入ったらしい。
 シアトルのボランティア協会や大学のボランティア活動に支えられて、単身で生活し大学と病院に通っていたようだ。
 盲導犬のボビーはニューヨークから一緒に来ていたので、その存在が澪に勇気を与えてくれたのだろう。
 カルテには、長い付き合いの患者との交流を物語る、一緒に撮ったスナップ写真もクリップで添えられていた。
「へぇ・・・大学生の頃の澪ちゃんか・・・可愛いな。」
 大河がカルテを覗き込んで言った。
「・・・うん。」
 考え事をしている唯の返事は間をおいて返ってくる。
 数年間のカルテをパラパラと捲りながら、
「で、どうなんだ?」
と、大河が聞いた。
「・・・現状では難しいな。・・・治療が出来る状態じゃない。」
「そうか・・・」
「・・・ただ、可能性がないことはない。」
「ん?」
 そこで唯はやっと大河に顔を向け、カルテを指し示しながら説明を始めた。
「右の目は一度移植に失敗して義眼になっている。」
「・・ああ。」
「左目は視神経の未発達だけでなく、眼球もレンズがない状態だ。」
「つまり、レンズを人工に替えても、視神経が脳に情報を伝えないんだな?」
「そう。ただ、右目の義眼の奥には視神経の根が残っている可能性がある。」
「・・ふむ。」
「義眼を外し根から細胞を取りだして、それをクローン培養で正常な視神経に成長させられれば、視神経を脳に繋げて左目を快復させることは可能だと思うんだ。」
 大河は、やっぱりな、と目頭を指で押さえた。
「培養って言ってもなぁ・・・あの培養液は特殊だから普通の病院にはないだろう?培養液を作るだけでも1ヶ月はかかるぞ。」
「可能性があるのに手をこまねいてるのは怠慢だろうが。」
「大学はどうするんだ?」
「・・・すぐに遅れは取り戻すさ。」
「出席が足りないと単位が貰えないぞ。」
「そこまでは掛からないよ。・・・きっと。」
 もう、どう言っても、唯が決定してしまっているのだと、理解するしかなかった。
「・・ったく・・・お前って独裁者向きだぜ。」
 大河の皮肉を軽く微笑みで流し、
「培養液は日本にもあるから持ってきて貰うよ。そうすれば培養自体には1ヶ月も掛からないだろう?」
と簡単そうに言った。
「そんなに簡単に言うなよ。ミクロの世界が待ってるんだ。いつそれに掛かる時間が出来る?今だってこんなに忙しいのに。」
 培養と言っても、鉢植えのように、ある程度放っといても花が咲くものとは違うのだ。
 皮膚をネット状に裂いて広範囲の皮膚移植をする方法は一般的になっているが、それの神経バージョンと言えた。
 皮膚なら可視処理が出来るが、神経ともなると電子顕微鏡を覗きながらの作業になるのだ。
 少しずつ神経を広げ、伸ばして繋げる作業は、通常の手術の数倍の集中力がいる。
 それを成長する度に繰り返して、求める状態まで完成させていく。
 唯が、”大河の存在がなければ成功しなかった研究”、と言う由縁がそこにある。
 理論は理解しても実行する技術がなければ成功させられないのだ。
「・・・何とか時間を作るようにしてさぁ・・・」
「研究室だってないだろ?」
 大河は、やるしかない、と思いつつも、一応問題点は突き付けた。
 と、その時、二人の会話を聞いていたDr.ヒギンスが、
「研究室は病院側で提供出来ると思うよ。それに、もしその作業を望むなら、なるべく二人のここでの仕事は軽減出来るように協力しよう。病院側にとっても、医療技術の向上は願ってもないことだからね。」
と言った。
 Dr.ヒギンスの提案に、唯は目を輝かせて喜び、大河は、余計なことを、と舌打ちした。

 話が決まると、急に唯と大河の周辺は慌ただしくなった。
 Dr.ヒギンスが病院側に説明し、唯は眼科の澪の主治医に説明して許可を求めなければならなかったし、大河は研究室の医療器材のチェックに奔走した。
 ロバートは急に騒々しくなったことに慌てて駆けつけ、事情を看護婦から聞くと、これは緊急事態だと判断し、唯のガードを強化させることにした。
 ここまで事が動けば、もう唯の身分を隠している必要もなかった。
 逆に噂を聞きつけた組織や敵対国家が、唯を拉致しようと謀略を企てる可能性もあり、ロバートは唯に密着してガードすることに決めた。
 また、国内にも、教義に反するとして”クローン”と言うものに極端に反対している宗教団体もあり、時にはテロや暗殺も正当さを公然と主張するような団体の為、唯にその危険が迫る可能性があったのだ。

 そうした展開になっていることを知らない澪は、いつものようにサロンに演奏に来ていた。
 演奏が終わっても、唯が話しかけてこないので、昨日の教会での事で唯を怒らせてしまったかと思い、寂しさを感じていた。
 けれど、唯の代わりに眼科の看護婦が話しかけてきて、眼科に寄るようにと言った。
 今でも2ヶ月に一度は検診を受けているので、看護婦とは馴染みだった。
 そして、不安を覚えながらも眼科に行った澪に、主治医が新しい治療法の概略を説明した。
 だが、それを聞いた澪が、
「嫌です。もう手術はしたくありません。」
と、拒絶した。
 主治医は、
「新しい画期的な治療法なんだ。可能性があるかも知れないし、挑戦してみたらどうかな?」
と、説得しようとしたが、澪は嫌がって首を振るばかりだった。
 準備に追われていた唯がそのことを聞いて、澪の前に現れた。
 もう一度唯が説明をして、治療を受けてくれるように頼んだが、
「だって・・・この前の手術の時だって・・・どんなに期待して祈っていたか・・・」
と、澪はいつもの笑みが消えた悲しそうな表情で言った。
「これが運命なんだと、受け入れて、この状態でつかめる幸せを見つけた方がずっと前向きじゃない。・・・期待するから失望し、望みを持つから絶望感に苛まれるんだもの。」
「澪・・・チャレンジすることは辛いだろうし、勇気もいるとは思うけど、・・・澪だけでなく、みんなが一緒になって頑張ることだから、決して独りぼっちにしたりはしない。怖がらずに、可能性に賭けてみては貰えないかな?」
「あなたに私の苦しみの何がわかると言うの?どれほど優秀なドクターかは知らないけど、私を実験動物のように扱わないで!」
「・・・実験じゃないよ。・・・私は澪に光の世界を見せたいんだ。」
「私だって見たい。・・・見えなくてもいいから光を感じてみたい。明るいってどんな感覚なのか知りたい。・・・だけど、いくらそう思っても、無理なものは無理なんだもの。望む方が辛くなるじゃない。・・・今の自分で満足していれば、光が暖かいものだって感じることが出来るもの。・・・そうよ。私には光に触れることが出来る。・・・それだけで、充分幸せなの。」
 澪の閉じた瞼から涙がこぼれ落ちた。
「・・・澪・・・もう一度だけ・・・頼むから・・・」
「移植した時だって信じてたのよ?・・・だけど結果は、・・役立たずだったけど、それでも自分自身の物だった目さえ失ってしまった。・・・希望を持って信じた代償は大きいわ。」
「移植も決して悪い方法じゃなかったんだ。手術の段階では成功してたと言える。ただ、拒絶反応に視神経が耐えられなかったんだ。・・・今度の方法は自分の細胞で視神経を快復させる治療法だから拒絶反応は起こらないで済む。脳と眼底という土台を正常な状態にする治療だから、それだけでも光を感じられるようになるはずなんだ。・・・後は左目の治療を進めるか・・・もう一度移植するか・・・」
「嫌なものは嫌ぁ・・・」
「移植時の拒絶反応を抑える薬も開発されているんだ。医学は日進月歩で進んでる。・・・私を信じて・・・澪・・・」
「また同じ絶望を味わったら・・・私・・・もう・・・生きていけない・・・」
「一生、澪の目の治療に責任を持つよ。絶対に諦めない。」
「ユイ・・・あなたってどうしてそんなに強情なの?!」
「私は可能性がある限り、絶対に自分でその可能性を放棄したりはしない。」
「・・・諦めた方が楽なことだってあるのよ・・・」
「不可能だと納得出来るまでは絶対に諦めない。」
「・・・ユイ・・・」
「私に諦めさせたいなら、不可能だと納得させて欲しい。」
「・・・だって・・・そんなの無理。・・・あなたは絶対可能だって信じているんだもの。」
 澪は怒ったように言いながらも、苦笑した顔は切なそうだった。
「ああ。そうだよ、澪。・・だから、澪も信じて欲しい。」
「・・・怖いの。」
「私がいる。・・そして澪を愛する全ての人達の想いが澪を支えているだろう?」
「・・・ええ。」
 澪は小さく頷くと、唯に触れようと探すように手を伸ばした。
 唯が澪の手の届く場所に移動し、顔を近付けた。
 ロバートは警戒して唯の背後に立つ。
 全てを疑ってかかるのが警備の基本だ。
 澪は唯の白衣の胸に触れ、次第に顔へと手で触れていった。
「・・あ・・・この顔・・・知ってるわ・・・」
「ん?」
「バスティマの天使・・・ニューヨークの家に頭部のレプリカがあるの。・・・辛い時、寂しい時、不安な時、よく触ってたの。・・・そうすると不思議と心の痛みが消えていった。・・・ユイ、あなた天使様なの?」
「いや。・・・つまらない・・ただのガキだよ。」
 唯が冗談ぽく笑って言ったので、澪は、あっ、と思い出してつられるように笑みを零した。
 それから唯の首に腕を巻き付けて抱きついた。
 唯はそっと優しく手を添えて、澪の髪を撫でた。
「あなたはきっと天使なんだわ。・・・だって、私・・・初めて会った時から、あなたの背中の翼が見えていたんだもの。」
「それなら澪は女神様だろうな。初めて会った時から、頭に光の輪、右手に聖火、左手に自由憲章が見えてるんだ。不思議だなぁ。」
「あー・・・ユイ、それって自由の女神じゃない。」
「あはは、だって澪が先に勝手なことを言い出したんだぞ。」
「え・・・あ、そっか。ふふっ。」
 澪にいつもの明るい笑顔が戻ったので、唯も主治医も看護婦もほっとして笑った。
「検査は準備が整い次第、したいから。」
と、明日また病院へ来てくれるように言った。
 澪は前向きに、もう一度希望を持つことにしたようで、
「はい。わかりました。」
と、力強く頷いた。

 翌日、検査は眼科の主治医と検査科に指示して進めて貰った。
 本当はずっとついて自分の目で確認したかったが、緊急処置センターの方の手術があって、唯の手が離せなかったのだ。
 手術を終えて、すぐに大河と検査科に駆けつけ、状態を確認した。
「研究室の準備はどうなってる?」
 唯が大河に聞くと、
「必要な器材を追加注文したから、早くても三日はかかるだろうな。」
と大河が答えた。
「政府としても画期的治療法の確立とあって、全面的な協力をする、と言ってきています。必要な物は何でも取り寄せますので、ご心配なく。」
と、ロバートが付け足すように言った。
「そうですか。助かります。」
 唯が嬉しそうに微笑んで感謝するので、大河は舌打ちをした。
「また、膨大な請求書が来るんじゃねぇか?」
「それは・・・仕方ないよ。・・・”人助けにはお金がかかるものです。”って言われてるし・・・承知で始めたことなんだから。」
「お前・・・また全部引っ被るつもりなのか?」
「だって・・・個人では背負いきれないし、俺が言い出したことなんだから・・・」
「前の人助けのツケも払いきらない内に次かぁ?」
 大河は、やれやれ、と溜息を吐きながら頭を振った。
 ロバートは、唯達が節約しながらバイトをする、本当の理由を知って、
「ああ、ユイ。君はなんて子なんだ。」
と、感動しながら抱き締めた。
 近くで聞いていたチャーリーも緑の目を潤ませて感激していた。
「感動で抱きつくより、政府から請求書を唯に回さないように言っておいて欲しいぜ。」
「もちろん。それは大丈夫です。ここは州立のいわば公の施設ですから。公共福祉の設備投資として、予算の中から援助してくれるように申請しておきましょう。」
「よろしく。・・助かるぜ。」
 背に腹は代えられず、大河はロバートに礼を言った。

 検査の結果、視神経の採取は今週末の土曜日に決定した。
 それからのことは、直接は澪には関係なく、唯と大河の試練と努力の日々が始まるわけである。
 午後、久しぶりの冬馬が病院を訪れた。
 極秘任務で日本を離れていたが、戻ってきたらしい。
 それで、唯の頼んでおいた培養液を届ける役目を請け負って、日本から飛んできたのだ。
 だが、それだけでなく、唯の身辺が騒がしくなったことに不安を覚えた拓磨の指示で、唯のガードも兼ねてきたようだ。
 夜、宿舎に自分の荷物を広げる冬馬に大河は、
「ゲッ・・・ってことは、冬馬さんも一緒に生活するってことか?」
と、思わず零した。
「当然だろう。もう、”唯が研究を再開させた。”って噂が流れ出しているんだ。色めき立ってる状況では、自己防衛も必要だろうが。」
「・・・それはそうだけど・・・」
 大河は唯との関係をどうしよう、と困った顔で唯を見た。
 唯は真剣な表情で、
「大河。お前の1ヶ月を俺にくれ。」
と言った。
「・・・つまり、1ヶ月、不平不満は言わずに研究に没頭しろ、っちゅうことね?」
 大河はヘロヘロな気分で苦笑いを浮かべて確認する。
「頼むよ。」
 唯が大河の腰に腕を回し、体を密着させて甘えるように言った。
「・・・この貸しは大きいぞ?」
 大河が唯に額を合わせて顔を覗き込むと、
「うん。・・・大河にはちょっとっつ、返していくよ。・・いいだろう?」
と、唯が囁くように言った。
「ああ。・・・しょーがねぇな。」
 大河がそう答えて、唯にキスしようとした時、唯はスルリと大河の腕をすり抜けた。
「・・・ゆーいー・・・」
「てゆーかさぁ・・・大河、そんな暇ないって。ほら、研究室へ行くぞ。」
 唯は白衣を翻し、駆けだした。
 大河は、ちくしょぉぉぉー!、と心で叫びつつ、約束を守って素直に後に従った。

<55>
「それぞれの別れ」
<55>「それぞれの別れ」

 唯と大河の研究室。
 窓辺に置かれたソファーは疲れた時の仮眠に丁度いい。
 大河はソファーに寝そべって、すっかり秋めいた空を眺めながら、キャシーの差し入れのドーナツを食べていた。
 チラリと唯に視線を投げると、相変わらずデータをせっせと書き込んでいる。
 澪の為だけの作業なら、そこまで細かいデータはいらないだろう。
 せっかく培養出来る研究室を設置したのだから、自分達がいなくなった後も活用出来るようにと、これまでの研究も含めて、クローン培養の方法や作業手順を詳細に記入しているのだ。
 PCに入力する方が楽だろう、と大河は言ったが、一瞬でデータを消すことも出来るPCを唯は過信してなかった。
 Dr.ジョンソンが長い休暇から戻り、やっと緊急処置科の通常の仕事から開放されたばかりなのだ。
 それでも、難しい手術が必要な時には頼りにされている。
 わざわざ自分から仕事を見つけるようなマネはしなくてもいいのに、と思ってしまうが、助手に選ばれた二人の医師にまで、理論を説いたりするのだ。
 唯は言う。
「だって、大河。俺達が治療出来るのは澪だけだろ?・・ずっと、ここに留まることは出来ないんだ。・・だけど、知識と技術を残していけたら、他の患者達にも可能性を残せるじゃないか。・・時間がかかっても、植えた種はきっと芽を出して多くの人々の集う大樹になるよ。」
 そう、ここには留まれない。
 わかってればいいさ、と大河はひとまず安心した。
 だが、今頃はもう日本に戻っていてもいいはずなのだ。
 最初の予定の8週間だって、ギリギリ大学の授業にかかってしまうのを承知で組んだ計画だった。
 大河は、風に流されていく雲を眺めながら、唯と二人で歩く嶺の孤高な厳しさを感じていた。

 難手術と難作業の連続という過酷な労働の疲れから、大河はドーナツをくわえたまま、うとうとと微睡んでいた。
 白昼夢の幻に現れたのは大海を泳ぐマグロ。
 釣り上げようと格闘するのは、ワサビと醤油を傍らに用意した大河。
 後少し・・・という所で逃げられた。
「・・っくしょぉー・・・刺身が喰いてぇぇー!」
と、叫んで、口からドーナツが転がり落ちた。
「大河ッ。・・・何、寝惚けてるんだよッ。・・・恥ずかしいだろッ。」
 唯が小声で叫ぶように言うのに続いて、数名の笑い声が洩れる。
「いやいや、どうか、気にされずに。・・お疲れなのでしょう。偉大な成果の陰に努力あり、ということはわかっていますよ。・・突然、お邪魔した私がいけないのですから、そのまま休ませてあげてください。」
 聞き覚えのある声に、大河は体を起こした。
 目線が合って、声の主がゆっくり頭を下げた。
 そこにいたのは、アラブ民族の正装を纏ったラウールだった。
「大河。ラウール殿下は研修を終えられて、本国に帰られるそうだよ。わざわざお別れを言いに来て下さったんだ。」
 そう大河に説明した唯は、ラウールに向かって、
「もっと色々なお話をお聞きしたかったです。こんなに長く御一緒したのに、あまりお話する機会もなくて。」
と、残念そうに言った。
 ラウールも頷いて、
「私ももっとあなたと語り合いたかったです。ですが、これで私達の友情が消える訳ではありません。時間が出来たら、是非私の祖国に遊びにいらしてください。・・クスッ。ラクダに乗って歓迎しますよ。」
と、唯の手を握って、その白い甲に敬意を込めたキスをした。
「ラウール殿下もラクダに乗れるのですか?」
 唯が目を瞬かせて意外そうに聞くので、
「もちろんですよ。今は極一部の部族だけになりましたが、それがアラブ民族の基本ですから忘れることはありません。・・もっとも二頭だけ・・という訳にはいきませんが、私が手綱を引いてご案内します。」
と、優しく笑った。
「ええ。是非に。」
 唯は別れの寂しさに目を潤ませて、ラウールの胸に顔を埋めた。
 唯の側にいたロバートも、ラウールについているチャーリーも、そして大河も、一瞬嫉妬で目眩を感じた。
 ラウールは、
「いつでもあなたの嘆きの壁になりますよ。・・・でも・・・あなたの笑った顔も大好きです。あなたが心から笑えるなら、百億のダイヤを降らせてもいい。」
と、囁いて、唯の髪を撫でた。
 唯は顔を上げて、クスクス笑い、
「ブラボー・・・何てゴージャスなジョークだろう。」
と夢見心地に言ってから、ラウールから体を離した。
 そして、
「あなたの愛する国の愛する人々が幸福であるように願っています。」
と、ラウールへの敬愛を込めて頭を下げた。
 ラウールはもう一度唯の手にキスをして、大河へも言葉をかけてから、研究室を立ち去っていった。

 ラウールを空港まで見送ってきたチャーリーが、また研究室に顔を出した。
 チャーリーも役目を無事終了したので、ワシントンに戻ると言う。
「ユイ・・・あなたを遠くからでも、眺めていられるだけで幸せだったのに・・・それさえも叶わなくなるなんて・・・なんて残酷な運命なんだ。」
 チャーリーはそう言って、唯を思い切り強く抱き締めた。
 ムッと顔をしかめるロバートに、もう遠慮はしない、と言うかのようにチャーリーは背中を向け、唯に頬ずりをする。
「チャーリー・・・そんな・・運命なんて・・・ラウール殿下も言ってたじゃない。これで友情が消える訳じゃない、って。また会って話せる時もあるよ。」
「そうでしょうか?」
「きっと、会えるよ。・・あ、そうだ!・・殿下の所に遊びに行く時には、チャーリーも誘うから一緒に行こう。・・・ね?」
「ああ・・・それは嬉しいな。・・・約束ですよ?」
「うん。約束だね。」
 唯がにっこりと微笑むと、チャーリーはボロボロと涙を零して、
「ずっと、あなたに憧れていました。・・・最後に一度だけ、キスをして貰えますか?」
と言った。
 唯は微笑んだまま、ん、と目で承諾した。
 ロバートと大河は目を逸らし、唯とチャーリーのキスを黙殺した。

 チャーリーも去っていき、研究室はいつもの静寂が訪れた。
 それが普通なのに、妙な寂しさが漂っていたので、
「あーあ。何か取り残された気分だぜ。」
と、大河が溜息混じりに呟いた。
「大河・・・ごめん。後もう少しだから・・・」
 唯も寂しさを感じているのだろう。
 文句は言わない約束だろ、と言われるかと思っていた大河は、
「いや。俺が悪かった。ずっとお前の方がハードワークで参ってるはずなのに、気が付くと俺が甘えちまってるな。・・・顔洗ってきて、また頑張るとしよう。」
と、唯を労るように笑った。
 再び、難しい共同作業に取りかかり、やっと今日の予定分をクリアした二人の元に、豪華な日本料理の数々が届けられた。
 ”夢を妨げてしまったお詫びに。”と、ラウール直筆のカードが添えられていた。
 呆れるほど豪華で盛り沢山だったので、冬馬も呼んで助手達やロバートも一緒に日本料理を堪能した。
「けっこう、いい奴なんだな。」
と、大河が言うので、
「だから、ずっとそう言ってるじゃない。」
と、唯が笑って答えた。
 美味しい物を食べると顔も心も綻んでくる。
 この夜は、寂しさをベースにしながらも、楽しい会食でくつろぎの一時を持つことが出来た。

 それから10日ほど経って、視神経の培養もかなりの完成度に達しつつあった。
 後はこれを移植する難しい手術を成功させれば、治療の初期段階は無事終了する。
 それからの状況はまだ、はっきりとは決まっていなかった。
 左目にレンズを作るか、タイプが合致する移植提供者を待つか、いずれにしても主治医に依託して、唯達は日本へ帰国することになる。
 両眼の快復を望むなら眼球移植が最善の方法だった。
 視神経の移植と眼球移植を同時に出来れば尚のこと、成功は確実になる。
 だが、拒絶反応が起きない条件が揃う提供者はそう簡単には見つからないし、それを待っていたら、いつ日本に帰れるかわからない。
 病院側と政府側は、澪を優先的に移植提供者を探すから、全ての治療が済むまでは研究室に留まって、後身の育成に協力して欲しいと要望していた。
 唯にもそうしたい迷いがあったが、拓磨が、日本へ戻るようにと、冬馬を通じて言ってきていた。
 研究をするならもっと用意周到に始めるべきで、渡米した当初の目的から逸れる行動は認められない、ということだった。
 大河も口でこそ言わなかったが、大学や彩香のことを気にしているように見える。
 その大河は、今日は久々にキャシーとゆっくりデートしているようだ。
 キャシーのことはどうするのだろう、という心配もあったし、唯は結論が出せずにいた。

 澪の主治医も含めた病院側との会議を終えて、研究室に戻った時には、すっかり夜になっていた。
 唯は待っていた助手に礼を言って帰し、机に向かってまた書き物を始めた。
 冬馬は疲れている唯の為に、お粥を作ってこよう、と言って宿舎へ行った。
 大河はキャシーと食事してくるだろう。
「そんなに根を詰めなくても・・・」
 研究室に二人きりになったロバートは唯の顔色が悪いことを心配して言った。
「うん。でも、ここにいるのも後少しだから。」
 唯は書き続けたまま返事をする。
 ロバートも唯の多作業能力には、もう慣れていた。
「・・やっぱり、日本が恋しい?」
「クスッ。残念だけど、恋しいほど知らないかも。」
「ああ・・・そうだったね。」
 ロバートは苦笑して頷いた。
「まだ先のことはわからないけど、この研究室は潰すには惜しいだろ?」
「もちろん、継続させるだろう。その為に有能な助手をつけたんだから。」
「うん。・・・大河の技術がなくても、時間をかければ培養は出来るもの。それにねぇ、培養液も培養出来るんだよ。・・ほら、ヨーグルトでヨーグルトが出来るみたいに。ふふっ。」
 唯が楽しそうに笑うので、ロバートは愛おしく唯の背中を見つめた。
 華奢とは言わないが、腕にすっぽり包めてしまうスリムな体に、どれほどの情熱が詰まっているのだろう、と感心してしまう。
 それも、自分の利益とは一切関係のない、純粋に医学の進歩の為なのだ。
 自国、という意識もなく、とても営利団体のトップを継ごうという人間には思えない。
 ああ、だからか。
 ロバートは、唯の教育係だという拓磨が、唯が人を助ける為に使った費用をバイトで返済させることにした理由を納得した。
 利益を省みずに慈善に大金を注ぎ込んでいたら、企業自体が潰れてしまう。
 そうなって困るのは個人に留まらず、企業に携わる人達全てが苦しい状況に追い込まれるのだ。
 限界を理解させ、自己責任が届く可能な範囲を教え、行動と責任のバランスを身につけさせることが、トップを継ぐ者には必要だ、という考えの下に教育係として指導しているのだろう。
 拓磨が愛情深い賢明な人物だということが、唯を見ていると自然に伝わってくる。
 子供を見れば親がわかる、とよく聞くが、唯を見る限り、拓磨が政府のデータに載っている人物像とは違うように思えた。
 ロバートがそんなことを思いながら唯の仕事する姿を眺めていると、ふと唯の手が止まり、指先で眉間を押さえた。
「唯。もう休まなくてはいけない。これは年長者としての命令だよ。」
 ロバートが少し厳しい口調で言ったので、唯が振り返った。
「えー・・・」
 頬を子供のように膨らませる唯に、ロバートは自分が座っているソファーの横を、軽くポンポンと叩いた。
 唯が肩をすくめ、イスから立ち上がり、ロバートの横に座る。
 ロバートは、
「君が倒れたら、誰も代わりはいないんだからね。」
と、諭すように言って、唯の頬を優しく撫でた。
 唯は、目を閉じて、頬に触れる指の感触に浸った。
 そのまま肩を抱き寄せられ、唇が重ねられた。
 時々、二人だけの時間が出来ると、ロバートは唯への熱い想いを込めて、情熱的にキスをしていた。
 大河には内緒だったが、お互いの男根をしゃぶり合う所まで関係は進んでいた。
 フェラチオに限って言うなら、唯はロバートにする方が好きだった。
 大河は無意識だろうが、彩香やキャシーと比べて唯はヘタだ、と言わんばかりに不満げな顔をするので、舐めてキスをするだけでも感激してくれるロバートの方が、しゃぶっていて楽しかった。
 それに年長者の腕の中は不思議な安心感と安らぎがあった。
 ロバートが唯の白衣の前をはだけて、手を滑り込ませる。
 白い首筋から肩へと唇でなぞっていく。
「・・・ぁぁ、、、ん、、、」
 唯が頭を仰け反らせながら甘い吐息を洩らした時、入り口にいる人影に気付いた。

「え・・・チャーリー?」
 唯の言葉にロバートも顔を上げた。
 涙まみれになった顔を歪めて、チャーリーがゆっくりと近付いてくる。
「チャーリー。久しぶりだね。」
 唯は取り繕うように笑顔を向けながら、はだけていた白衣を直した。
「何の用だ?・・・君がここへ来ることは聞いてないぞ。」
 ロバートは携帯に着信かメールが来てないか、一応確認した。
「・・・極秘使命があるんだ。」
 チャーリーらしからぬ低い声で返事が返ってきた。
「ユイに関しては、私が全権を任されている。私が知らされない極秘使命があるとは思えないが?」
「そうやって、ユイを独占するのも貴様の仕事なのか?」
 チャーリーはすでにロバートを上司としては見てないような言い方だった。
「私がユイを愛したとしても、それは私の自由だろう。公私混同するつもりはないし、自分の果たすべき仕事はこなしている。」
「ユイにキスするのが貴様の仕事か?」
 チャーリーは更に顔を歪め、涙を溢れさせる。
 理性的な会話が通じないようで、顎からは涙がボタボタと滴り落ちている。
 ロバートはチャーリーが危険な状態だと感じ、部下を呼ぼうと携帯の番号を押そうとしたが、
「動くな!」
と叫んだチャーリーが、ロバートに拳銃を向けた。
「チャーリー!どうして?!」
 唯が悲しげに叫んだ。
 唯の声にチャーリーは一瞬、動揺して天を仰いだ。
 それでも、体を震わせ、しゃくりあげながら、
「ユイ・・・私は・・・あなたを・・・殺さなければなりません。」
と、自分でもどうすればいいか、わからないような表情で、唯に銃口を向けて、苦しそうに唯を見つめた。
「・・・・・え?」
「バカな!!そんな命令を政府が出す訳がないぞ!!」
 唯を庇うように自分の背中に隠したロバートが怒鳴った。
 表情は悲しげなまま、チャーリーは口元を笑うように吊り上げた。
「政府なんかより、もっと大事な所からの絶対命令なんだ。・・・そう・・・神様みたいな・・・神様からの命令・・・」
 チャーリーはそう言ってから、また困惑して首を傾げた。
「・・・何で・・・神様が・・・天使を殺せ、って言うんだろう・・・」
 ロバートは、ハッ、とした。
 超過激宗教団体が頭に浮かんだのだ。
「チャーリー・・・お前・・・いつから洗脳されてるんだ?」
「洗脳?・・・何を言ってる?私達の神様は絶対だぞ。生まれた時から変わらない。・・・もっとも、学校の教師をしている親のせいで、表向きは違う教会へ行っていたけどね。」
 ロバートは唯を庇いながら、何とか反撃は出来ないものかと、隙を狙うようにチャーリーを睨んでいる。
 チャーリーもロバートの動きを警戒しているようで、
「私に話をさせて油断させようってつもりですか?・・・フン。・・その手には乗りませんよ。」
と言うと、プシュッ!っと、拳銃の引き金を引いた。
 ロバートの頭をかすめて銃弾が過ぎった。
 消音銃だったが、後ろの窓に当たって、ガラスが砕け散った。
 チャーリーが舌打ちをした時、影が飛びかかった。
 チャーリーもかなり体格が良かったが、飛びかかった男は、簡単に組み敷いて押さえ込むと、拳銃を握っている手を背中にねじ曲げた。
 グキッゴキッ、と骨が砕ける鈍い音がする。
「ぐぁぁぁぁぁぁーー!!」
「冬馬さん!乱暴にしないで!」
 苦痛に悲鳴を上げるチャーリーを押さえたまま、
「唯様。あなたの命を狙った者です。」
と、冬馬は厳しい声で言った。
 ガードとしてのカブを取られたロバートは、チャーリーの手からこぼれた拳銃を急いで拾い上げた。
 唯はチャーリーに駆け寄り、
「チャーリー?・・すぐ、手当するからね。ちょっと我慢してね?」
と、気遣うように声を掛けた。
「ユイ?!」
「唯様!」
「怪我してるんだ!早く処置センターに運んでよ!」
 チャーリーは押さえつけられた態勢で、唯を見上げ、
「あぁぁ・・・あぁ・・・やっぱりユイは天使じゃないかぁ・・・何で私はこんな命令を受けなければいけないんだぁぁ・・・」
と、悲痛に喚いた。
「チャーリー・・・仕方ないよ。立場が違えば戦わなければならない時だってある。自分を責めなくていいから・・・手当しようね?」
 唯は慈しむようにチャーリーの髪を撫でた。
 チャーリーは、
「ユイ・・・ユイ・・・ユーイー・・・」
と、号泣を始め、ぐったりと体の力を抜いた。
 窓ガラスが割れて異常に気付いたロバートの部下が、研究室に駆けつけてきた。
 その後ろに大河の姿もあった。
「大河!チャーリーが怪我をしたんだ。手伝って。」
 唯に声を掛けられ大河が近付いてくる。
 ロバートは部下が来たことに安心し、
「Mr.トーマ。後は我々がします。」
と言って、チャーリーの折れてない方の腕をつかんだので、冬馬はまだ警戒しながらも仕方なく、チャーリーの身柄をロバートに渡した。
 促されて立ち上がったチャーリーの右腕はダランと力無くぶら下がっている。
 苦痛のせいか、チャーリーは涙と汗とヨダレまみれの顔をクシャクシャに歪ませていた。
「すぐ、治療室へ。お願い。」
 唯がロバートを促す。
 ロバートがチャーリーを歩かせようとすると、チャーリーがユイの方を向いて、
「ユイ・・・私はあなたを殺そうとした罪人です。・・・生きている価値もない罪人です。」
と懺悔するように訴えた。
「バカを言うな!この世に生きる価値のない人間なんていない!罪を裁ける人間だって、本当はいないはずなんだ!罪は、最後の審判の日に、神様が裁いてくださるさ!」
 唯は思わず叫んだ。
 それから、声を和らげて優しく言った。
「・・・人は・・・いや、・・命あるものは全て、与えられた命を全うするべく生まれてきたんだと思うよ。・・・だから、生きているだけで価値があるんだ。・・・一生懸命、精一杯、生きていくことこそ、神様が与えてくださった愛に感謝する方法だと思ってる。・・・ねぇ、・・・違う?」
 チャーリーはじっと唯の顔を見つめて聞いていた。
「・・美しい天使・・・あなたの言葉に従い生きていけたら・・・」
 そう言うと項垂れて首を振った。
「でも・・・もう、遅い・・・暗殺に失敗した私は・・・口封じの為に抹殺されるでしょう。」
「そんな・・・チャーリー・・・そんなことはさせない!」
 唯がきっぱりと言い放った。
 大河と冬馬は、ああ、まただ、と頭痛がした。
「我々の機関もそこまで愚かじゃないさ。」
 ロバートはそう言って、先を急ぐようにチャーリーを押した。
「うぁぁぁぁぁぁぁ・・・」
 チャーリーが怪我を痛がったのか、叫びながら身を屈めた。
「ロバート。もっと優しくしてよ。」
 唯にそう言われたロバートが、思わず手の力を抜いた時、チャーリーはロバートを突き飛ばして、ロバートの部下に体当たりした。
 ロバートが胸から拳銃を抜く。
「ダメ!撃たないで!」
 だが、チャーリーは拳銃をかまえていた部下から左手で拳銃を奪ってしまった。
 他の部下もチャーリーに銃口を向ける。
「ダメだったら!撃たないで!・・チャーリーも・・もう辞めようよぉ・・・」
 唯が切なそうに呼びかけるが、冬馬が覆い被さるように唯を体の中に包み込んでしまい、冬馬の胸に顔を埋められた唯の声が途切れた。
「・・・頭の中で声がする。・・・失敗したら生きる価値なし・・・」
「チャーリー?・・・それは催眠か暗示だ!しっかりしろ!」
 言葉を奪われた唯の代わりに、大河がチャーリーの説得をしようとする。
「あぁぁぁ・・・私はもう生きられない。・・・私の生きるべき体を天使に託そう。・・・ユイ・・・私の全身をあなたに捧げる。」
 そう言ったチャーリーが頭に向けて銃を発射させた。
 プシュン、グシャ・・・
 唯は冬馬の胸に顔を埋めて、音だけを聞いた。
「・・・何?・・・ダメだよ。・・・チャーリーを撃っちゃダメだって・・・」
 唯がくぐもった声で言い、冬馬の腕から逃れようとする。
 だが、冬馬は唯をしっかりと抱き締め、
「いけません。唯様。・・・御覧になってはいけません。」
と、切なく祈るように言った。
「・・・え?・・・何?・・・どうしたの?」
「チャーリーが自らの頭を撃って、自殺しました。」
 ロバートが沈痛な声で唯に説明した。
「・・・嘘・・・嘘だろ?・・・離して、冬馬さん!」
 冬馬は首を振って阻止しようとしたが、唯が体を激しく捻るので、仕方なく離してやった。
 チャーリーを目にした唯の全身から紫の炎が爆発するように燃え上がった。
「何やってるんだ?!早く手術を!!・・大河!!」
「唯・・・もう・・・」
「うるさい!俺はこんなの認めない!絶対認めない!手術をするんだ、大河!」
 唯は紫の光を放つ目で大河に命令する。
「ヒッ・・・化け物・・・」
 ロバートの部下達が思わずそう言って後ずさりした。
 ロバートも唖然として言葉を失っている。
「冬馬さん。とにかく手術室に運ぼう。このままに放ってはおけない。」
 大河は冷静にそう言うと、
「ロバート。あなたもプロならボケっとしてないで、手を貸してくれ。」
と、ロバートの頬を軽く叩いた。
「あ・・・ああ。わかった。」
 やっと正気を戻したロバートも部下を叱りつけて、チャーリーを手術室へと運ぶ手伝いを始めた。

 手術室の隅に踞った緑の小さな塊から、紫の炎が燃え上がっている。
「なぁ・・・わかっただろ?・・・もう、どうすることも出来ないんだ。」
 手術着の大河が、血糊のついた手袋をはめた手首で、こめかみを押さえながら言う。
「・・・嫌だ。・・・認めない。・・・こんなの・・・嫌だぁ・・・」
 緑の手術着で踞っている唯は、抱え込んでいる頭を振る。
 唯に纏い付く紫の炎もそれに伴って揺れる。
「お前だって、もう尽くす手がないから、そうやって踞って現実逃避をしてんだろ?・・・お前の責任じゃない。彼は洗脳されて、強い暗示にかけられていて、自分でもどうすることも出来なかったんだ。・・・それでも、お前への崇拝が最後の瞬間に彼を正気に戻したんだ。・・・後は彼の最後の意志を尊重してやるべきじゃないか?」
「・・・最後の意志?」
「ああ。・・・体を使ってくれって言ってただろ?」
「・・・嘘だ。・・・聞いてない。」
「お前にだってわかったはずだぞ。・・・チャーリーはお前に改心したのさ。だから、生きる為に頑張っている人達に自分の体をいかしてくれ、って。」
「・・・嫌だ。・・・嫌だ。・・・嫌だぁぁぁーー!」
 唯は激しく頭を振って、ますます体を縮み込ませた。
「Dr,タイガ。Dr.ユイには辛すぎるでしょう。」
 呼び出されていたDr.ヒギンスが仲裁に入る。
「他にも医師は来てます。私達が後は担当しますから、Dr.ユイを休ませてあげてください。」
 大河も唯をこれ以上、追い詰めたくなかったので、
「そうですね。・・・お願いします。」
と言って、頷いた。
 すると、唯が顔を上げて、
「・・・Dr.ヒギンス?」
と尋ねるように呼びかけた。
 Dr.ヒギンスは苦渋の面持ちで、優しく諭すように、
「臓器提供は迅速に運ばなくていけないでしょう?・・・今、Dr.ジョンソンが適合者を調べているところです。必要としている人達の所へ急いで届ける為に。」
と、説明した。
 見開いた唯の紫色の目から涙が零れ落ちる。
「・・許してください。・・・彼の最後の意志の為にも、私達にはしなければならないことがあるのです。」
 Dr.ヒギンスの言葉に、唯は震える息で何度か深呼吸をした。
 そして、
「・・・それなら・・・私が執刀します。」
と言って、立ち上がった。
「唯。辞めとけ。お前には無理だ。」
「随分だな。大河。・・・お前には及ばなくても、俺だってライセンスはあるし、多少の腕もあるつもりだぞ。」
「それはわかっている。そーゆー意味じゃなく・・・お前には辛過ぎるだろうが!」
「・・・俺が・・・してやらなかったら・・・チャーリーが可哀想じゃん。」
 唯は紫の目から涙を零し続けながら言った。
「ちゃんと・・・受け止めてやらなかったら・・・最後の最後まで・・・チャーリーが哀れだよ。・・・そうだろう?」
「唯・・・俺は誰が可哀想だろうと、お前が辛くなる方が嫌なんだ。・・・けど、お前が命令するなら、どんなことだってしてやるぜ?」
 大河が気遣うように言うと、
「執刀は俺がする。・・・大河は補佐でいい。」
と、唯が決定させるように答えた。
「・・・わかった。・・いいだろう。・・・けどなぁ、唯。・・涙で霞む目じゃ、腕が鈍るぞ。泣くのは全部済んでからにしろよ。」
「・・ん。・・・そうだな。」
 大河に言われて、唯は頷き、顔を急いで洗ってきた。
 戻ってきた唯の顔には、強い意志で執刀に向かう、厳しい表情があった。

 ありとあらゆる臓器・器官が摘出された。
 唯は縫合し直して、包帯で体を包んでやると、チャーリーの体に縋って号泣した。
「・・・カラッポだ。・・・何もかも・・・カラッポになっちゃった。・・・うぅぅぅ・・・俺は・・・俺は・・・何て罪が深いんだぁぁぁ・・・あぁぁぁぁぁ・・・」
 大河はもう、かける言葉が見つからなかった。
 こうなることはわかっていたのだ。
 かつては共に語り、笑い合った友の体を切り刻む行為が、唯の繊細な神経で耐えられるはずがなかった。
「大河ぁぁぁ・・・もう、嫌だぁぁぁ・・・もう、嫌だよぉぉぉ・・・」
 唯は大河にしがみついた。
 大河は唯を抱き締めて、
「ああ。・・・もう、お終いにしような?・・・もう、こんなマネはさせねぇ。・・・絶対に。」
と、髪を撫で、頬ずりをしながら囁いていた。

 唯が大河に支えられて、やっと手術室から出てくると、Dr.ヒギンスが申し訳なさそうに近付いてきた。
「・・・こんな時に・・・こんなことは・・・言いたくないが・・・」
 そう言い淀みながらも、Dr.ヒギンスが静かに告げた。
「・・・摘出された眼球は・・・ミオに適合する。・・・移植に移るかどうか、性急に答えを出して貰わないとならない。・・・他にも待っている患者はいるからな。・・・本当に、済まないとは思うが・・・」
「勝手にしろ!」
 大河が怒りをぶつけるように叫んだ。
 だが、唯が、
「いいんだ、大河。・・・手術するよ。」
と言い、
「この罪は・・・地獄の炎で焼いて貰うしかない・・・」
と、ほとんど表情をなくした顔で小さく呟いた。

 澪が手術から目を覚ました頃には、唯達はもう日本に向かっていた。
 最後の精神力で、大河と供に澪への視神経と眼球の移植手術をやり通した唯は、手術を終えると同時に倒れてしまった。
 病院側は唯の入院を勧めたが、唯サイドの強固な意志によって、日本への帰国が強行されたのだ。
 澪の手術は成功している。
 後はゆっくりと安定するのを待って、少しずつ光と視力のリハビリをすればいい。
 だが、その経過を唯に診ることは、もう不可能だった。
 澪の目は、悲しいチャーリーの綺麗な緑の目なのだ。
 澪の目を見たら、カラッポになってしまった痛々しいチャーリーを思い出す。
 もちろん唯は、罪の意識から逃れるつもりなどなく、全ての罪を受け止めて、チャーリーの悲しみを一生胸に抱えて生きていくしかないと思っていた。
 だからこそ、もう澪を見ることは出来なかった。
 澪には提供者のことは話さない約束になっている。
 澪に責任はないし、せっかく明るい光を知ることが出来る時に、悲しみを背負わせてはいけない。
 澪に視線を向けられて、決して笑う事の出来ない唯が、彼女の前にいるべきではなかった。

 唯達が帰国する為に病院を後にした時、ロバートが気を利かせて、キャシーを空港まで連れてきてくれた。
 唯に付き添っていた大河が、
「キャシー・・・ごめんな。君にはひどい男だったな。」
と、謝罪すると、キャシーは笑って、
「ううん。いい思い出になったよ。・・・こんな過激に生きてる人達の側に、ちょっとの間でもいられたんだもの。楽しかった。・・・だけど、私はもっと平和な恋がいいな。・・・ユイとタイガの生き方にはついてけないもん。だから、いい思い出にする。」
と言った。
「・・・そうかもな。・・・うん。・・・ありがとう、キャシー。」
 大河はキャシーを抱き締めて、最後に優しいキスをした。
 特別便の飛行機は猶予もなく飛び立ち、ロバートは天使が天に戻るのを眺めるように、敬意を込めた眼差しで、機影が小さくなって空に消えていくのをずっと見送っていた。