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「神有月」
<61>「神有月」

 澪の目の手術は大河の技術をもってしても5時間かかる大手術だった。
 もちろん唯も大河に指示を出しつつ、自らも執刀していた。
 唯は、全身から紫の妖しい光が、炎の渦巻くように立ち昇っていて、他の医師や看護婦が脅えて役に立たないので、Dr.ヒギンスが助手についてくれた。
 手術を終えた時には、チャーリーを救いたいと手を尽くしていた時から、すでに30時間以上が経過していた。
 爆発的な紫の発光体の燃焼が続き、生も根も尽き果てた唯は、手術室から一歩足を踏み出した途端に崩れるように倒れてしまった。
 体温は30℃まで落ち込んでいた。
 倒れかけた唯を抱き上げた冬馬が、あまりの冷たさと軽さに驚愕して蒼白になる程、唯の衰弱は激しかった。
 病院側はすぐに唯への処置を施そうとしたが、冬馬から逐次に報告を受けていた拓磨は、こうなることを予想していたので、迎えの者達をシアトルに行かせ、待機させていた。
 今回拓磨自身は、アメリカ政府のブラックリストに載っている為、余計な警戒をアメリカ側に持たせないように日本で待っているしかなかった。
 待機していた迎えの者の中には拓磨お抱えの医師も含まれていたので、動かすのは危険だと心配するDr.ヒギンスの制止をはね除け、唯の帰国を強行した。

 唯は時々意識が遠くなることもあったが、状況を把握しなければ、と思う責任感からか、
「大河。お前は残って、澪の経過を診てくれないか?」
と言うほど、澪を気にしていた。
 だが、大河は怒りをぶつけるように、
「俺とお前のコンビに失敗はねぇ!もう、俺達はするべきことは全て済ませた!これ以上ここにいる理由は何一つねぇんだ!バカヤロォー!!」
と、泣きながら叫んだ。
「そうか・・・うん、そうだね。・・・ごめん。一緒に帰ろうな。」
 唯はやっと手を伸ばして、大河の頬に手をあてて涙を拭った。
 悲しいほどに冷たい感触だった。
 大河は手を握り締め、頬ずりをした。
 よくこの体で、最後まで気を緩めることなく手術に集中していられたと、皆が敬意を持って唯を見守っていた。
 実際、唯がここまで衰弱していることを、間近の大河でさえ把握出来ないほど、的確で敏速な指示は変わらなかったのだ。
 尊敬は、その年齢でするものではないことを誰もが実感していた。
 唯が纏う紫の光に、異端な存在を感じて恐れていた人達も、無意識に胸の前で手を祈る時のように組んでいた。
 唯は後の注意するべきことを何点か澪の主治医に頼み、Dr.ヒギンスにも精神面でケアして欲しいと頼んだ。
 そして、今回の一連の事件や眼球提供者のことを、澪には決して知られないようにして欲しいとロバートに頼んだ。
 ロバートは涙を溢れさせながら頷き、
「あなたがアメリカに残された功績に、心から感謝しています。あなたの望むことなら我々も協力を惜しみません。」
と、恭しく冷たい額に口づけをした。
 本当は唯を抱き締めて、自分も連れて行って欲しい、と言いたいロバートだったが、そうした行為が唯をアメリカの敵にしてしまう、とわかっていたので、自らを諫めるしかなかった。

 唯は病院からそのまま空港へと向かった。
 待機していた飛行機はいつでも飛び立てる状態だった。
 唯と大河の必要な荷物は、手術の間にすでに冬馬がまとめて、機内に運び込んであった。
 そして、ロバートとキャシーに見送られ、飛行機は日本への帰路にと着いたのである。

 唯の体温が落ちないように保温しつつ、屋敷まで運ばれた。
 屋敷では、どんな医療器具もすぐ用意出来るようになっている。
 だが、唯に必要なのは、治療ではなく心の休養だったのだ。
 唯の精気を燃やしてしまう紫の発光体の原因を解消しない限り、どんな手を尽くそうと唯は消耗し続けてしまう。
 唯の悲しみを包める存在は日本にしかいなかった。
「唯様・・・」
 担架に乗った唯が車から降りてくるのを迎えた拓磨は、そう言うと、唯をそっと包むように抱き上げた。
 悲しげに端正な顔を歪ませ、労るように頬ずりをした時、拓磨の頬に一筋の涙が伝って落ちた。
 そして、
「お帰りなさいませ。」
と囁いて、そのまま部屋へと唯を運んだ。
 唯に付き添っていた大河が、拓磨の後に続こうとした時、
「大河も疲れただろう?・・後は参謀にお任せして、お前も休め。」
と、冬馬が止めた。
「俺はいい。飛行機の中でも少しは休めた。唯についていてやらないと・・・」
 大河は冬馬の制止を振り払おうとした。
 だが、冬馬は大河の腕をつかんで、
「もう、お前に出来ることはない。参謀に任せておくんだ。」
と、再び制止した。
「任せられるか!・・唯は俺のも・・・」
 俺のものだ!と、叫ぼうとした口を冬馬に塞がれ、
「ちょっと、来い。」
と、冬馬の部屋まで連れていかれた。

 大河は少しでも唯の側から離れたくなくて、苛立ちながら、
「話があるなら、さっさと言えよ。」
と言った。
 冬馬は大河をイスに座らせると、腕組みをして大きく溜息を吐いてから、大河を睨んで言った。
「この屋敷で、”唯は俺のものだ。”なんて台詞は言うな。ここでそれを言う資格はお前にはないぞ。」
「資格?・・俺と唯の仲に資格なんて必要ねぇ。」
「唯様を慕っている者がどれほどいるか、わかってるのか?・・そうした者達への気遣いが出来ずに、何が唯の恋人だ?・・え?」
 恋人、と言われて、大河は、ハッ、とした。
 唯と肉体関係を持ったことは、冬馬にも隠していたはずだったが、知られてしまっていたのか。
 大河の体に緊張が走った。
 表情を強ばらせた大河を冬馬は鼻で笑った。
「フン。この俺に隠し通せるとでも思ってたのか?」
「・・・別に・・・俺は・・・」
「ま、・・気付く、気付かない以前に、唯様とお前の二人だけでアメリカへ渡った時から、参謀にはお前が我慢出来ないだろうことは見えてらしたようだがな。」
「え・・拓磨さんが?」
 大河はギクリとして、冬馬の顔を凝視した。
「唯様がどうしてもお前を必要としているなら、認めてやるしかない、と決められたのだろう。だから、俺に別の任務を与えて、敢えて二人だけでの生活をさせてやったんじゃないか。」
「・・・へぇ・・・」
 そう言われると面白くない。
 自分の気持ちまで、拓磨の掌で転がされているように思えてきてしまう。
「それを・・・あそこまで衰弱された姿でお返しすることを、少しは反省しろ。」
「俺のせいだって言うのか?・・・チャーリーのことは不可抗力だったし・・・手術するのも唯が決めたんだぞ?・・・それに、返すって何だよ?唯は拓磨さんのものじゃねぇだろうが?」
「参謀がどれほど唯様を愛してらっしゃるか、お前にわかるか?・・・今のお前の気持ちなど、足元にも及ばん。」
「・・・そりゃ・・・拓磨さんは、唯の親も同然の存在だからな。・・・到底敵わねぇって思うこともあるぜ。・・・俺なんか・・・一人で空回りして・・・未だに、唯の気持ちをつかめねぇもんな。」
「唯様はお前を受け入れてくださったのだろう?・・・それなのに他の女とうつつを抜かして・・・」
「唯がちゃんと付き合ってやれ、って言ったんだ。・・・それに唯だって・・・」
「随分、情けねぇ恋人だな。」
「・・・唯にとって俺は・・・恋人じゃねぇんだろ。」
「ほう。・・・諦めたか?」
「そうじゃねぇよ!・・・けど、唯の気持ちはどうにもつかめねぇんだから、しょぉーがねぇだろうがよぉ。・・クソッ!」
 大河が泣きそうな顔になったので、冬馬は苦笑した。
「・・・つまり・・・そーゆーことだ。」
「あ?・・・何がそーゆーことなんだよ?」
 大河は馬鹿にされた気がして冬馬を睨み返した。
 冬馬は肩をすくめ、
「どんなに思う気持ちが強くても、唯様の意志を自分のものに出来る者はいない、ってことさ。・・・あの参謀でさえな。」
と、しみじみとした顔で言った。
「だから、唯様が望めば嫌だろうがお前を認めてやらなきゃならねぇし、ずっと手元において見守りたくても自由にさせてやるしかねぇ。・・・出来ることと言ったら、唯様が少しでも笑顔でいられるように、バックアップしてやることしかねぇじゃねぇか?・・・辛いのはお前だけじゃないんだ。・・・そして、唯様を愛しているのもな。」
 大河は顔をしかめて握り拳に歯を立てた。
「・・・俺だって・・・唯の側にいてやりてぇ。」
「お前のは、”いてやりたい”んじゃなく、”いたい”って自分側の感情だから、結局何も出来ねぇんじゃねぇのか?・・・今、唯様の気持ちを安定して差し上げられるのは参謀しかいないんだ。・・・何も、もう会わせないってんじゃねぇだろ?参謀がお前を認めた以上、状態が落ち着いたら会わせてくださるさ。・・・今はグッと堪えて、待つことだな。」
 大河は返す言葉が見つからず、背中を丸めて頭を抱えた。
 拓磨への嫉妬以上に、自分への情けなさが心を打ちのめしていた。
 冬馬は大河の背中を撫でて、
「お前も大変だっただろう?・・唯様にそんな情けない面を見せずに済むように、今の内にゆっくり休んでおくことだ。唯様が余計な心配で回復を妨げられることのないようにな。・・ん?」
と、優しく言った。
 大河は、今度は素直に、
「・・・ああ。・・・そうするよ。」
と、答えた。

 唯の寝室。
 拓磨は全ての者を部屋から遠ざけると、呼ぶまでは誰も部屋に入らないように指示をした。
 それから拓磨は、唯の服を脱がせ、自分も一糸纏わぬ姿になって、唯を抱き包んだ。
 昔、医療が普及されてない時代に、高熱を出して苦しむ我が子を、母親が肌を合わせて自分の体温で冷まし続けたように、拓磨も自分の肌の温もりで唯の冷たい体を温めたかったのだ。
 そして、命を吹き込むように口づけを繰り返した。
「唯様・・・申し訳ありません。」
 拓磨はキスをしながら愛しさを込めて囁く。
「ここまで無理をなさることを・・・防げなかったのは・・・私の判断ミスです。・・・大河がお側にいれば・・・少しは唯様がお楽になるのではと思っていましたが・・・まだ大河では役不足だったようです。」
「拓磨さん。・・・大河を悪く言わないで。・・・俺が自分で決めたことだし・・・拓磨さんだって謝ることじゃないよ。」
 唯は紫に霞む目をうっすらと開けて言った。
 拓磨は唯が全ての責任を自分で抱え込もうとすることはわかっていた。
 胸に抱き包んだ唯の髪を撫でては頬ずりをする。
「あぁ・・・あったかい・・・」
 唯は再び目を閉じて、拓磨の肌の温もりに浸る。
「・・・ごめんね。・・拓磨さん。」
「いいのです、唯様。・・何も仰らなくても・・・」
「だって・・・いつも拓磨さんに反発しては・・・失敗して・・・心配かけてしまう。」
「いいえ。」
 拓磨は頬を重ね合わせてゆっくり首を振る。
 言葉だけでなく、触れ合う肌で気持ちを伝えるように。
「唯様は・・・誰よりも雄々しい翼を持ち、誰よりも力強い足を持っていらっしゃる。・・・籠の中には閉じ込めておけないのだと、わかっております。」
 拓磨は安全な空間としての籠と、自分の”加護”という意味をダブらせて言った。
「・・・俺は・・・何の力もない・・・罪人さ。」
 唯は拓磨の首元に顔を埋めるようにして呟いた。
 唯を取り巻く紫の炎が揺らめく。
「いけません。・・・唯様は充分なことをされたのです。・・・ご自分を責めてはいけません。」
 拓磨は唯を抱く腕の力を少し強めて言い聞かせようとするが、
「・・・俺は・・・チャーリーを救えなかった。」
と、唯は何も聞こえないかのように続けた。
「唯様・・・」
「しかも俺は・・・この手で・・・チャーリーの内蔵をえぐり取ったんだ。」
「唯様・・・」
「手に伝わる感触が・・・今もまざまざと蘇る。・・・ああぁぁ・・・俺は何て罪深いんだ。・・・俺は・・俺は・・」
 拓磨がキスで唯の口を塞ぐ。
 慈しむような優しいキスで、唯の心の傷を覆うように、髪や背中を撫でながら舌を絡め合わせ、温もりを伝える。
「・・・拓磨さん。・・・俺は弱虫だよ。」
 唯は虚ろな紫の目に涙を溜めて吐露する。
 拓磨は労るように頬を撫でて、
「唯様は疲れてらっしゃるのです。疲れた時は心も弱くなるものでしょう。・・・今は何も考えず、心を開放して休まれることです。」
と、瞼にそっとキスをする。
 だが、唯は閉じた目から涙を零し、
「・・・眠れない・・・切り刻んだチャーリーの姿が目に焼き付いている。・・・あぁぁぁぁぁ・・・もう、嫌だぁ・・・もう、人を切り刻むのは嫌だぁぁ・・・」
と、紫の炎を大きく揺らめかせ、体を震わせて喘いだ。
「違います、唯様。・・・唯様は切り刻んだのではありません。失われていく命に、新たな命を吹き込まれたのです。」
 拓磨は唯が痛々しくてたまらず、力を込めて抱き締めた。
 それでも、唯は首を振り、
「理屈はわかるさ。・・・だけど・・・俺は自分が怖くてたまらないんだ。・・・この手が・・・人を切り裂く。・・・そう思うと怖くて・・・怖くて。・・・もう・・・俺は医者でいる資格がない。・・・俺は・・・弱虫なんだ。」
と、悲痛な声で言った。
「唯様はお強いのです。強過ぎるから、ご自身まで傷つけてしまわれる。心を開放してあげてください。心を切り刻まずに、温もりに身を委ねて・・・休ませてあげることです。」
「・・・だけど・・・」
 拓磨は熱いキスで唯の言葉を奪った。
 そして、長いキスの後、
「チャーリーを愛してあげればいいのです。」
と、宥めるように髪を撫でながら熱い吐息で囁いた。
「・・・好きだったけど・・・」
 唯は拓磨の言う意味がよくわからず、拓磨の目を見つめた。
 拓磨は慈愛に満ちた眼差しで唯を見つめ返した。
「愛すればいいのです。・・彼の全てを。・・・彼の体の全ても。・・・一つ一つを愛してあげればいいのです。・・・唯様に愛された彼の体は、その愛に包まれて、また新しい生命となって唯様の愛を伝えるでしょう。」
「・・・愛・・・」
 唯は自分の手を胸まで上げて、眺めた。
 えぐり取ったのではなく、愛で包んだ・・・?
「彼の全てを愛せばいいのです。心も体も魂も。・・・唯様は、彼の全てを愛するからこそ、彼の体の一つ一つをその手に抱いたのです。・・・唯様に抱かれることで、彼は救われました。・・・そして、魂も唯様の愛に包まれて天国に還ることが出来るのです。・・・唯様がご自分を責められたら、彼への愛も否定することになるでしょう。・・・それでは彼の魂も、唯様を苦しめているという罪に苛まれて、天国への道を見つけられません。・・・唯様が愛してあげれば・・・彼は還り道が見つけられるのです。」
「・・・そうなの?」
 唯は縋るように拓磨をみつめる。
 拓磨は、
「はい。」
と、力強く頷き、
「ですから、どうかチャーリーを愛してください。」
と、優しく微笑んで囁いた。
 唯は、フゥッ、と目を閉じ、拓磨の肩に頭をもたれた。
「・・・チャーリーを・・・愛している。」
「そうです。・・それで、彼の全ては救われます。」
「・・・うん。」
 唯が安心したように大きく息を吐くと、唯の全身を覆っていた紫の炎が、スゥーッと消えていく。
 拓磨も唯に頬ずりをしながら、ほっとした息を忍ばせて洩らした。
「・・・でも・・・俺は・・・拓磨さんも愛してるよ。」
 唯は甘い吐息で囁いた。
「私も唯様を愛しておりますよ。」
 拓磨は、わかっている、と伝えるように頷いた。
「・・・それに・・・ダディも・・冬馬さんも・・大河も・・・澪も・・・九条さんも・・・他にも・・・いっぱい愛してる人達がいる。」
「ええ。・・・唯様はそれでいいのです。」
 拓磨は唯の額にキスをして、背中を撫でる。
 唯の体温が少しずつ上がってきているようだ。
 唯と拓磨を暖かい空気が包み始める。
「・・・だけど・・・俺は・・・愛される以上のものを・・・何も返せない・・・」
 唯は切なげに呟く。
「いいえ。・・・もう、充分に伝わってます。・・・唯様の愛は・・・人を包み込み、包まれた人はまた誰かを包み、唯様の愛を伝えていくのです。・・・唯様が愛することで、暖かな愛が広がっていきます。」
 拓磨は諭すように囁くと、
「さぁ・・・もう、心を開放して休まなくてはいけません。・・・また、愛の翼を雄々しく羽ばたたかせる為に。」
と、優しいキスを繰り返して髪を撫で続けた。
 唯は次第に熱い息をするようになっていた。
「・・・はぁ・・・あったかい・・・」
「・・お休みなさいませ。・・・ずっとお側におりますから・・・何も恐れず・・・安心なさいませ。」
 拓磨はそう囁くと、小さな声で子守歌を歌い始めた。
「クスッ。・・・俺・・・そんな子供じゃないのに。・・・でも・・・気持ちいいな。」
 目を閉じたまま微笑んだ唯は、拓磨の温もりと優しい歌声に包まれて、静かな寝息を洩らし始めた。

 帰国した翌日の朝。
 唯が朝食を摂った後、大河は面会を許された。
 大河は冬馬と連れ立って、唯の寝室の前に立つと、大きく深呼吸した。
 唯が自分で朝食を摂れたと聞いたので、少し安心していたが、それでもどんな状態でいるのかと心配でたまらなかった。
 ドアをノックすると、
「入りなさい。」
と、拓磨の声がした。
 昨日からほとんど丸一日、唯を独占されていたので、大河の胸は嫉妬で焦げ付いていたが、それを顔に出さないように、
「失礼します。」
と言って、寝室に入った。
「お早う、大河。」
 唯はベッドの中、クッションを背中にあてて、起きあがっていた。
「唯ッ!」
 大河はベッドの足元まで駆け寄り、祈りを上げるポーズで踞った。
 本当は抱きつきたかったが、5匹の犬達が唯の体を取り囲んで座っていたので、それ以上は近付けなかったのだ。
「良かった・・・体の方は光が消えたんだな。」
 大河は涙ぐんだ目で、唯の紫の目を見つめて言った。
「ああ。・・体温もほとんど普通に戻ったし、体力もすぐに回復するさ。・・・だから、もう心配するなよ。・・な?」
「思ったより元気そうで安心したよ。・・・けど、まだ・・・目の方は残ってるんだな・・・」
「・・・うん。・・・そうなんだ。」
 唯は、フゥッ、と息を吐くと、クッションに深くもたれた。
 ライラが気遣うように唯の頬を舐める。
「クスッ。大丈夫だよ、ライラ。」
 唯はライラの耳をクシャクシャと掻いてやった。
 それから、自分にぴったり寄り添っている5匹を眺め回し、
「・・ねぇ、拓磨さん。・・・みんなが張り付いてると熱すぎるよ。」
と、ベッドから少し離れた所に立っている拓磨に訴えた。
 拓磨は首を振り、
「体温はまだ、やっと35℃になった所です。油断されると、またいつ低体温になりかねません。・・・目の光りが消えない内は、保温が必要です。」
と、言い聞かせる。
 ああ、なるほど。
 大河は犬達が必要以上に唯の側に張り付いている理由を知った。
 原始的な方法だったが、保温器材を使用するより安全で、心も安らぐだろう。
 それじゃぁ、昨日はずっとこうして犬達が唯を温めていたのだろうか?
 それとも・・・別の誰か・・・?
 大河は思い浮かんでしまったイメージに、胸がキリキリと締め上げられた。
 嵐が巻き起こる心を押し隠し、拓磨の横顔に視線を投げたが、いつもの澄ました表情からは何も答えを引き出せなかった。
 大河が爪を噛んで思い耽っていると、
「この目が元に戻りさえすれば、大学に戻れるのになぁ。」
と、唯が残念そうに呟いた。
「何言ってんだ?・・無理はするなよ。」
 大河は気持ちを立て直して、唯を軽く睨んだ。
「だけど、試験だって近いし・・・大河も待たせている彩香ちゃんが気になってるだろう?・・・明日にでも戻れたらいいんだけどなぁ。」
 大河は焦った。
 唯は、大河に済まないという思いで、また無理をしてしまうかも知れない。
 俺は唯を休ませてやることも出来ない男なのか?
 大河はこれ以上自分の甘えで、唯の負担になりたくなかった。
 この澄ました横顔の男と、今以上差をつけられることがたまらなかった。
「・・俺だけ先に戻ってるよ。・・先に大学へ戻れば、試験の情報も入るし、・・・唯はもう少し体力つけてから、試験に間に合うように来ればいいだろう?」
 考える前にそう言っていた。
 唯は驚いた顔で目を瞬かせた。
 拓磨は、ほう、という顔を大河に向けた。
「えー・・・俺を置いていく気なのかぁ?」
 唯は不満げに眉を寄せる。
「まだ起きれない状態で何言ってんだよ。リハビリも出来ずに無茶するのは良くない、ってことくらい知ってんだろ?・・ちゃんと体力を充電してから、戻って来いよ。唯がいつでも戻れるように準備しといてやるからさ。」
 そう言って大河が笑顔を見せると、唯も渋々笑みを浮かべた。
 そして、
「じゃぁ、マンションを彩香ちゃんとのデートに使うといいよ。・・・ずっと待ってたんだから、いっぱい愛してやらなきゃな。」
と、笑ってウィンクをした。
「・・ああ・・・そうしよう。」
 大河は、誰よりも唯の側にいたい、と思ってしまう気持ちはあったが、彩香への気持ちも確かにあったので、頷いて笑みを返した。
 それでも唯の様子が気になっていたので、今日一日はこっちに滞在することにして、明日東京に戻ることにした。
 そんな相談をしてから、唯を休ませる為に部屋を後にすることになった。
 大河が、
「昼食の後にまた顔を出すから。」
と言うと、
「ん?・・・大河が疲れてないのなら、街に出て買い物してきたらいい。夜にでも、またゆっくり話せるしな。」
と、唯が気遣って言った。
 元気な者が一日閉じ籠もっているのは息が詰まるだろう、という唯の配慮だった。
「・・ったく・・お前は人のことばかり気にする奴だぜ。」
 大河は呆れて言ったものの、
「それじゃ、多少鬱陶しくなった髪でも切ってくるかな。」
と、唯の気持ちに応えることにした。
 すると、冬馬が、
「お?・・髪なら、俺がカットしてやってもいいぞ。」
と、ニヤニヤして言った。
「冗談じゃねぇ。同じ短髪でも、俺のは冬馬さんみたいな軍隊刈りじゃねぇんだ。・・天才外科医としては、もっと洗練されてねぇとな。」
 大河はそう冗談っぽく言って、不敵な笑みを浮かべた。
「フン。似たようなもんじゃねぇか。」
「似たように見える所からして、もう美的センスは疑わしいぜ。」
 大河が美的センスと言ったので、唯が、プッ、と吹き出した。
「あ・・・唯ぃ・・・」
「あははっ。・・ごめん、ごめん。・・そうだよね。一流の美容師にカットして貰ってくるといいよ。・・・その、冬馬さんとほとんど変わらない髪型を。・・プププッ。」
「ゆーいー・・・」
 大河は眉を寄せて見せたが、唯が笑えるほどに精神的に回復していることが嬉しかったので、すぐに笑顔に戻った。
 そして、今度は本当に、唯を休ませる必要を感じて、
「じゃぁ、夜までゆっくり休めよ。」
と言って、唯の寝室を後にした。

 そして、翌日、大河だけ東京へと向かったのである。

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「カット」


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 帰国して三日目。
 大河は、朝、唯の寝室に顔を出してから、東京へ向かった。
 丸二日、唯に付き添っていた拓磨も、今朝から仕事を始めている。
 唯の体温は36℃をキープ出来る状態になっていたので、後は安静にして体力の回復に努めれば大丈夫だろう、と拓磨も一安心したようだった。

 ただ、問題が一つ。
 唯の目が紫に染まったまま元に戻らないのだ。
 拓磨が操心術やイメージを変える催眠術を駆使して、何とか唯の心の重い罪悪感は取り除いたはずだった。
 唯も、辛い記憶を前向きに受け入れられるように、なっているように見える。
 それでも、唯の目に焼き付いた”悲しいチャーリー”の残像は、消えないのだろうか。
 無意識にも唯の魂は泣き続けているのだろうか。
 拓磨は、いっそ記憶を封印してしまおうか、と悩んだが、
「・・拓磨さん。・・・俺の記憶を消さないでね。・・・ちゃんと覚えていなければいけないんだ。・・・可哀想なチャーリーの為にも・・・俺自身の為にも。」
と、唯が拓磨の気持ちを察して、哀願するように言った。

 唯は一度、拓磨に記憶を封印されていた。
 それはまだ、イギリス留学中の頃。
 黒豹のラーガが衰弱してサバンナの家に戻った、と連絡が入り、拓磨は唯を連れて急いでサバンナへ向かった。
 だが、ほんのわずかの差で、間に合わなかったのだ。
 唯は何とか蘇生出来ないものかと、拓磨に訴えた。
 それで、拓磨は同行した医師に、ラーガに生命維持装置を付けさせ、日本に連れ帰ったのだ。
 日本の医療技術なら、と望みを託したが、唯の願いは叶わなかった。
「いつか必ず、ラーガを蘇らせる。・・・そして、この手で抱き締めて、”お帰り、ラーガ。”って言ってやるんだ。」
 そう言って、ラーガの脳を自らの手で取り出し、開発中だった培養液で保存したのは、唯自身だった。
 (この培養液自体が生きていて、細胞を活性化させる力がある。)
 だが、その時の悲しみが深すぎて、唯は睡眠障害になっていた。
 ラーガの為にも勉学を続ける、とイギリスに戻ったものの、眠れずに勉学に打ち込む日々は、唯を消耗していった。
 親代わりの拓磨は、どうすれば唯の悲しみを拭えるだろうか、と思い悩んだ。
 食事に気を配っても食欲がなければ食べて貰えない。
 まして、教育や躾などでは、唯の心を救うことは出来なかった。
 それで、拓磨自身は留学が目的ではなかったが、医学の学舎という環境を利用して、独学で心理学や催眠術を修得したのだ。
 更に、人心も操るという中世の西洋魔術を密かに研究し、独自の操心術も身につけるようになっていた。
 そして、唯からラーガの死と対面した時から脳を取り出した所あたりまでの記憶を封印したのだ。
 唯の心から苦しみの原因を取り除いたはずだった。
 だが、ポッカリと空いた記憶の空洞に、ラーガへの妄執が入り込んだ。
 唯は前にも増して、勉学と研究に取り憑かれるようになってしまった。
 どうすれば良かったのか、と今でも拓磨は判断がつかない。
 繊細な唯の心を壊さないようにと施した封印だった。
 けれど、唯の悲しみは消しようもなく、ラーガへの恋しさだけを残してしまった。
 別れの記憶を乗り越えなければ、失った悲しみは風化しないまま残ってしまうのだろうか。

 それでも、拓磨には、初めて唯と会った時の痛々しい姿が、忘れられなかったのだ。
 両親を失ったばかりで、親友と別れて遠い異国に来た幼い少年。
 利発な明るい目で微笑みながら、差し出された手と握手した時の、作り物のように華奢な手応え。
「親友を迎えに行く為に、僕は早く立派な社会人にならなければなりません。」
 幼い少年の言葉とは思えない強い意志。
 その影に、両親の死を悲しんではいけない、辛い事情を抱えていた。
 厳しい生き方を教え込まれ、強い生き方を望まれ、独りぼっちで異世界に放り込まれてしまった少年。
 精一杯に微笑むことしか出来ない少年が痛々しかった。
 少年にとって、微笑むことは、取り囲む大人達への気遣いであると同時に、自分の心に踏み込ませない為のガードでもあった。
 親の死さえ、悲しんではいけない、と固く誓った少年を、拓磨は、
「辛い時は泣いてもいいのです。その為に私がお側にいるのですよ。」
と言って、抱き締めた時、少年は戸惑い震え、
「・・僕が泣いたら・・・パパの生き方を否定してしまう。」
と唇を噛みしめて体を強ばらせていた。
 この人形のように美しく華奢な少年を、一生をかけて守って差し上げたい、と一晩中腕に抱いて体の緊張を解してやった時、少年は初めて心を開いて、拓磨の胸に涙を零したのだった。

 拓磨は、富と権力にある程度恵まれた家庭に育ち、親の後を継ぐ、というレールを敷かれて、特に逆らうこともなく淡々と生きてきた自分を、何てつまらないロボットだろう、と醒めた目で見ていた。
 自分なりの夢や希望がなかった訳ではないが、思いが浮かぶ度に自分で判断を下し、却下してきた。
 自己管理の出来ない者に、人の管理が出来るはずがない。
 拓磨は、自分の感情や行動を制御するよう、幼い頃から教え込まれていた。
 だが、自分自身で握り潰した夢や希望や愛の中には、熱く滾る輝きがあった。
 小学生の頃は、ずっと動物園の飼育係か獣医になりたかった。
 中学時代に、教会の牧師の娘というクラスメートにほのかな恋心を抱いていた。
 高校時代、テニスの国体で大学生チャンピオンに勝った時、プロに誘われた。
 だが、どれも許される道ではなかったし、先を予見すれば限界が見えてしまう。
 組織を守るべく生まれてきたのだと言われ続けてきたが、逆に言えば、それは自分にとっても全てに勝る使命だったはずなのだ。
 けれど捨ててきた思いの重さで、心は暗い闇に沈んでいた。
 笑うことさえ出来ない人間になっていた。

 それを、幼い少年は自分以上の使命を背負いながら賢明に笑みを浮かべるのだ。
 強い意志を持って熱い夢を語り続けるのだ。
 何て熱い心、何て激しい魂、何て強烈なオーラだろう。
 少年には獣の血が流れているという。
 その激しすぎる血が少年自身を焦がしてしまうほどに熱く燃焼している。
 少年の輝く魂が、暗い淀みに沈んでいた拓磨の魂を照らし出し、凍えていた心に情熱を蘇らせた。
 その時から拓磨は、全身全霊をかけてお守りするのだと、唯に命を捧げてきた。
 唯の為なら聖人にもなろう。
 悪魔と契約してもいい。
 唯自身がコントロールできない獣の血を、敢えて厳しく躾もする。
 愛しくて・・・たまらない。
 これほど愛する存在と出会えたことを、神に感謝せずにはいられない。
 自分の全ての思いは、唯と出会い、愛する為の伏線だったように思える。
 唯を愛し、守る為なら、感謝する神さえ裏切って、悪魔の道を進んでもいい。
 唯と離れなければならなくなった時、唯の為に組織を掌握すると決意した。
 今、組織を実質的に動かしているのは拓磨である。
 34歳という若さで、世界三大勢力の頂点に立った拓磨を、羨望と脅威で見る人々は多い。
 けれど、その本当の心を知る者は極わずかな側近のみだった。
 唯を守れなければ意味がない。

 紫に染まった目をどうしたものか。
 拓磨は昼食を唯と共にする為に、1階の執務室から2階の唯エリアへと向かおうと、中央ホールまで考え込みながら歩いていた。
 だが、視線の端で黒い影をとらえ、足を止める。
 顔を向けた先には、寝ているようにと言ったおいた唯が、犬達に囲まれてソファーに座っていた。
「あ、拓磨さん。」
「唯様。まだ、起きるのは無理だと申し上げたはずです。」
「平気だって。ほら、ちゃんと起きれるじゃん。」
 唯は紫の目でにっこりと笑って見せた。
 拓磨はすぐに側に行き、熱や脈を確かめる。
 安定はしているようだ。
「ね?・・大丈夫でしょう?」
「ですが、食事量がまだ回復してません。動き回るだけで摂取量以上にエネルギーを使ってしまわれますよ。それではいつになっても体力が戻りません。」
 拓磨が眉を寄せて首を振るので、唯は頬を膨らませ、
「だって・・・ずっと寝てると、余計体が重く沈んでいくみたいに感じるんだ。起きて動いてないとバランスが取れなくなっちゃうよ。」
と言ってから、
「お昼にはちゃんといっぱい食べるから。」
と、また笑った。
「・・仕方ありませんね。」
 拓磨はそう言うと、メイドを呼んで、軽めのセーターを持ってくるように指示した。
「起きているなら、体が冷えないように注意してください。」
「うん。わかった。」
 素直に頷く唯は、まだ少年ぽさの抜けない顔をしている。
 少しやつれてはいるが、白い肌の輝きは何の遜色もなかった。
 だが、渡米前から10kgは体重が落ちているだろう。
 まだ成長期にある唯にとって、好ましくない状態であることは確かだった。
 拓磨は唯に並んで座り、メイドがセーターを持ってくるのを待ちながら、唯の髪を撫でていた。
「・・唯様も髪が伸びられましたね。」
「うん。そうみたい。」
 唯があまり自分に構わないのは昔からだった。
 長ければ後ろで縛ればいい、くらいに思っているらしい。
「昼食の後でカット致しましょう。」
「うん。」
 唯の髪は可能な限り拓磨がカットしてきた。
 前髪の生え際の癖が強くて、鬣のように前にきてしまう。
 サラサラと軽い髪は後ろに撫でつけておくことも難しく、体に余計な物をつけたくない唯にはワックスも使えなかった。
 結局いつも同じような髪型になる。
「あ・・・サイドは短くしてね。」
「どれくらいに?」
「思い切り短いのがいいな。サングラスを掛けた時、邪魔にならないように。」
「・・・光が眩しいですか?」
「いや。それは大丈夫だけど、この目を普通の人が見たら、怖がるでしょう?・・試験が近いし、いつ元に戻るかわからない目を待ってられないもの。」
 唯はサングラスで目を隠しても大学に戻りたいらしい。
 拓磨は溜息を吐いて首を振る。
「唯様。・・ただ、目の色が違う、というだけではないのです。目が紫の内はそれだけ消耗が激しいのだと、ご自身でもわかっておいででしょう?」
「大学くらい行けます。・・スポーツセンターへ行くのは当分控えるようにするし・・無理はしないから、・・戻ってもいいでしょう?」
「・・・すぐには承諾しかねます。数日様子を見てから、そのことは相談致しましょう。いいですね?」
「・・はい。」
 唯は仕方なさそうに返事をしてから、笑みを浮かべると、拓磨の肩にもたれ目を閉じた。
 やはりまだ怠いようだ。
 わかっていても、心が駆り立てられてしまう性分なのだから、拓磨の心配の絶えることはない。
 それでも、拓磨もそんな唯が愛おしいのだから仕方がない。
 拓磨は、フッ、と笑って、唯の髪にキスをした。

 昼食の後で、拓磨は唯の希望を入れて髪を短くカットした。
 いくら短くしても、もっと短い方がいい、と言うので、最後には静電気で髪がフワフワ浮き上がるほどに短くなってしまった。
 冬馬の剛毛がツンツン立っているのとは違って、フワフワと浮き上がる様子は、まるでタンポポの綿毛のようだった。
 これにはさすがに唯自身も吹き出して笑った。
「うわぁ・・ぁははっ。・・・歩く静電気検知器みたいだなぁ。」
「もう、これ以上は無理ですよ。唯様の髪は柔らかすぎて五分刈りには出来ないのですから。」
「そこまでしたらスキンヘッドの方がマシかもね。クスクスッ。」
「仏門に入られるおつもりならどうぞ。」
「あ・・言うねぇ。・・・拓磨さんに一本取られた。・・でも、これでいいや。ありがとう。」
 唯は髪を撫でつけながら、まんざらでもない表情で言った。
「けっこういいじゃん。・・後はサングラスを冬馬さんに貰おうっと。」
「人によってサイズが違いますから、明日にでも店の者を呼びましょう。」
「そうなんだ。・・うん。ありがと。」
 唯は鏡越しに拓磨に笑いかけた。
 普通、髪を短くすると大人っぽくなりそうなものだが、唯の場合は表情を一層幼げに見せていた。
 そして顔の輪郭がはっきり現れた分、ほっそりとしてしまった頬が痛々しく見えた。
 拓磨は唯についている毛を払いながら、
「お疲れになりましたでしょう?・・今日はもうベッドに戻ってお休みなさいませ。」
と、気遣って言った。
 唯はうつむいていたが、拓磨が毛を払いきると、
「・・・もう少し・・・拓磨さんの側にいさせて。」
と、甘える視線を投げて寄越した。
 ああ、そうか・・・
 笑顔を見せていても、まだ不安と恐怖は完全には解消されていないのだ。
 前向きに生きることが、全ての人を安心させるのだと、自身に言い聞かせていても、消えない悲しみが寂しさとなって心を吹き抜けているのだろう。
 拓磨はそっと抱き包み、
「・・まだ、しなければならない仕事があるのですが・・よろしいですか?」
と、優しく囁いた。
「うん。・・側にいられればいいんだ。仕事の邪魔はしないから・・・」
「わかりました。・・ですが、体が辛い時はすぐに仰ってください。くれぐれも無理はなさらないように。」
「はい。そうします。」
 唯は嬉しそうに微笑んだ。

<63>
「薬湯」
<63>「薬湯」

 早朝、拓磨が唯のベッドをそっと抜け出そうすると、唯が寝返りをうって目を覚ました。
「・・んー?・・・もう、起きるのぉ?」
「唯様は寝てらしてください。」
 拓磨は唯の短い髪を撫でて、額にキスをした。
「・・・うん・・・」
 唯は返事をしたものの、拓磨の太腿にスルリと腕を絡めた。
 ゾクゾクッと甘い電流が拓磨の体を走り抜ける。
 更に唯が拓磨の脇腹に頬ずりをしてくるので、さすがの拓磨もペニスを勃起させてしまっていた。
「唯様・・・今日は11時にジュエリー店の者が参ります。それまでに午前中の仕事を済ませておきたいので、申し訳ありませんが、今朝はゆっくりしてられません。・・・唯様はもう少しお休みになってらしてください。」
「・・・ジュエリー?」
「サングラスを唯様にお見せすることになってます。」
「ああ・・・そっか。」
 唯はつまらなそうに拓磨から離れると、仰向けになって溜息を吐いた。
 拓磨は微かに笑みを浮かべ、唯に甘く優しいキスをしばらくしてやり、ベッドから立ち上がった。
 それから軽い口笛を吹くと、部屋のあちこちで寝そべっていた犬達が拓磨の前に集合した。
 拓磨は5匹の頭を撫でてから、
「唯様のお守りを。」
と、指示する。
 犬達はニコッとして音もなくベッドに上がり、唯を取り囲んだ。
「・・ぅぅ・・・ロイ・・・腹には乗るなぁ・・・」
 唯の拗ねたような声を笑みを零して聞きながら、拓磨はガウンを羽織って自分の部屋へと向かった。
 唯の為なら24時間365日、側にいてやりたい。
 唯の甘い香りも、滑らかな肌の感触も、甘えてくる仕草も、全てが魅惑的で誘惑的だった。
 指1本触れただけでも、緊張が解きほぐされ、甘い陶酔に浸っていたくなる。
 けれど、拓磨には自分の欲望以上に唯が大切だった。
 唯を守れなければ意味がないのだ。
 拓磨は、いつもその言葉を自分への戒めにしている。
 愛欲に溺れた支配者は滅びへの道を辿るしかない。
 唯の為に生きる、と自負するなら、私欲に溺れるべきではないのだ。
 拓磨は自室に戻ると、冷たいシャワーで体の熱を冷まし、気持ちを引き締めた。

 二度寝した唯は、すっかり日が昇ってから目を覚ました。
 起きあがると頭が重い。
 ベルを鳴らすと、メイドが薬湯を持ってくる。
 拓磨が唯の為に調合させている漢方茶で、体力と精気を快復させる効果があるらしいが、お世辞にも美味しいものではなかった。
 メイドが開けたカーテンから差し込む光の中、顔をしかめてお茶を啜る。
「クスッ。そんなに不味くてらっしゃいますか?」
「・・飲んでみる?」
「いえ。とんでもございません。」
 貴重な漢方薬を使っているので、一杯でも10万円はするという高価な薬湯なのだ。
「一口でいいから味見してみてよ。」
「いえいえ。・・・叱られますから。」
「誰も見てないじゃん。」
 唯に差し出されて、メイドは唯の湯飲みに口をつける行為を恐れつつ、一口だけ飲んでみた。
 メイドは思い切り苦そうな顔をして湯飲みを唯に返した。
 どうにか口の中の物を飲み込んで、口を開けて息をするが、言葉が出ずに手で扇いでいる。
「あ・・やっぱり苦いんだ。ふふっ。・・・香りはけっこういい匂いがするのにねぇ。」
「・・・坊ちゃまもお人が悪い。」
「違うよぉ。・・拓磨さんは顔色一つ変えずに飲むから、俺の味覚が変かと思ったんだもん。・・・でも、苦くて正解だったみたいだね。・・ごめんなさい。」
 唯が済まなそうに言うので、メイドはまだ苦みの残った表情ながらも微笑んだ。
「旦那様はあまり表情を変えられませんものね。・・・でも・・何だか体が温かくなってきました。きっととても効果のある薬湯なのでしょう。」
「うん。・・それはわかってるけどさ。」
 唯は肩をすくめて、薬湯を鼻をつまんで飲み干した。

 屋敷の使用人は拓磨を”旦那様”と呼ぶようになっていた。
 唯の養父は”大旦那様”、唯が”若様”か”坊ちゃま”になる。
 拓磨を”旦那様”と呼ぶのは、拓磨がそれだけ着実に権力を手中にしてきている証でもあったが、屋敷の者達からの信頼の厚さでもあった。
 拓磨の厳しさは誰でも承知していたが、拓磨は決して当人に責任のないことでまで責めたりすることはなかった。
 屋敷のことは執事に任せていたし、時に不手際があってもその場で叱りつけることもなく、上の者が下の者に責任を押しつけることも許さなかった。
 不手際の原因を解明し、指示した者に無理はなかったか、を確かめた上で、怠慢な態度や不注意があった時のみ、注意するようにと、執事やそれぞれの責任者に言い聞かせてあった。
 ただし、拓磨の求める水準は高い。
 その水準に能力が届かない者は屋敷では必要ないし、自分の能力を生かせる所で生きればいい。
 拓磨のそうした考え方は、この屋敷で働く者達のプライドにもなっているし、自分自身の努力を怠らないようにという戒めにもなっている。
 そして、各人が責任を果たすなら、立場は違っても意識は対等なのだと、個人を尊重してくれる。
 だから、屋敷には必要以上に遜る使用人はいなかったし、皆が誇りを持って各々の仕事をこなしていた。
 その上で、総統や拓磨や唯の側近くで働ける喜びを感じ、選ばれた幸運に感謝し、働く意欲を燃やしていた。

 唯がシャワーを浴びてる間に、犬の調教師が5匹を食事と朝の運動の為に連れていった。
 唯が元気な時は、そうした世話も唯がすることが多かったが、今は運動させられるだけの体力がなかった。
 それに、唯が朝食で食べられない分を犬にやって誤魔化してしまうのを、防ぐ為の拓磨の指示だった。
 抱えている仕事だけでも多くて大変だろうに、細かいことまで気が回る、と唯は感心してしまう。
 もう薬湯はいらない、と主張するには、ちゃんと食事を摂らなければならない。
 唯は気の進まない食事を頑張って食べるしかなかった。

 食事の後、唯は森まで散歩してラーガの墓を見舞った。
 ラーガを埋葬してから、ここを訪れる機会がなかったので、等身大のラーガのブロンズ像が建っていることに、唯は驚いた。
 しかも腰ほどの位置にあって抱き締めることも出来る。
 唯は思わず台に乗って、ラーガの背にまたいでみた。
「ラーガ・・・」
 首に腕を巻き付け頬ずりをする。
 幼い唯にとって、逞しく大きな黒豹が、今の唯には華奢なほど小さく感じる。
 それでも筋肉の張りや、しなやかに流れる曲線が、そのままに再現されていて、唯はしばらく感激に涙を流し続けた。
 唯と大河がシアトルでバイトしている間に、拓磨が作らせたのだろう。
 けれど、唯が思い出さないでいられるならいい、と思ったのか、拓磨は像を建てたことを何も言わなかった。
 唯はラーガから降りると、しばらくラーガの頭を撫でながら、精悍でありつつ優しい顔のラーガと向き合って話をした。
 そして、最後に、
「ラーガ。・・・もう大丈夫だよ。・・・俺は・・こんなにも愛してくれる人に守られ、・・愛を分かち合える人達に囲まれているんだ。」
と言って、ラーガにキスをして、墓を後にした。

 屋敷に戻った唯は、拓磨にブロンズ像の礼を言おうと執務室に行った。
 けれど、秘書が一人いるだけで、拓磨の姿はなかった。
 それで、拓磨が仕事に使う部屋を全て回り、総統の部屋にも顔を出してみた。
 姿が見えないとムキになるらしい。
 拓磨の私室や普段出入りしない部屋まで探し回った。
 執事が唯の様子に、
「どうかなさいましたか?」
と聞いてきたが、
「何でもないです。」
と答え、庭や駐車場まで一人で探して歩いた。
 執事に、拓磨に用があることを言えば、所在を教えてくれるか、連絡を取ってくれることはわかっていたが、忙しい拓磨を呼びつけるのでは、お礼の意味がないように思えたのだ。
 だが、広い屋敷は歩き回るだけでも、体力の落ちている唯には息が切れる。
 プールサイドのイスに座って溜息を吐いた唯は、秋の柔らかな陽射しに目眩を感じて額を押さえて目を閉じた。
「ワンッ!」
「ワンワンッ!」
 犬達の鳴き声にゆっくり目を開ける。
 磨き上げられた黒い体を輝かせて、5匹のドーベルマンが走り寄ってきた。
 唯は、嬉しそうに側に来てシッポを振っている犬達を撫でてやりながら、ふと、どこから戻って来たのだろう、と疑問を抱いた。
 たった今、駐車場から森を回って庭に戻ってきた所なのに。
「申し訳ございません。探しておられましたか?」
 調教師が緊張した面持ちで深々と頭を下げた。
「あ・・・うん。・・・どこにいたの?」
 探していたのは拓磨だったが、犬のことも聞いてみたくなったのだ。
「近くの訓練所で、犬達が坊ちゃまに甘え過ぎないように、調教しておりました。遅くなって申し訳ありません。」
 調教師はまた頭を下げた。
「そうですか。ご苦労様です。・・別に気にしなくていいです。」
 唯は目を細めて微笑んで見せた。
 まだ軽い目眩がしていたが、調教師が悪い訳ではないのに、謝られるのは辛い。
 調教師は恐縮しながら、犬達を唯の元に残して下がっていった。
 それと入れ替わるように、メイドが唯を呼びにきた。
「お坊ちゃま。ジュエリー店の方が見えられましたので、第二応接間の方へお出で下さるようにと、旦那様が・・・」
「え?・・拓磨さん、いるの?」
「はい。お待ちになってらっしゃいますが・・・?」
 嘘だろぉ、と言いたい気持ちを隠して、
「わかりました。すぐに行きます。」
と、イスから立ち上がった。
 スゥーッと血が引いていく感覚に、唯は立ち尽くして眉間を押さえたが、拓磨の顔を見て確認しないと納得出来ないと、踏ん張り、姿勢を正して歩き始めた。

 応接間には拓磨の他に冬馬もいた。
 唯は呆然と瞬きを繰り返して二人を眺めていたが、拓磨に促されて、店から出向いた二人の男達に挨拶をして、ソファーに座った。
 冬馬が同席している理由を、拓磨は、自分がほとんどサングラスを使用しない為アドバイスを冬馬に頼んだ、と説明した。
 唯が怪訝な顔をしていたのは、冬馬が同席していることではなく、探し回っても姿を見つけられなかった拓磨と、同じく姿を見なかった冬馬が、ここにいるという事実だった。
 が、それを外部の人間の前で聞くことも出来なかったので、サングラスを選ぶことに専念することにした。
 唯は目が隠せればそれで良かったので、特に注文もなく、冬馬がいくつか選んだ中から一番軽いタイプに決めた。
 冬馬が服装に合わせてサングラスも変えた方がいい、と言うので、後は冬馬に決めて貰った。
 30分もかからずに商品が決まり、唯に合わせて微調整をして、お届けします、と店の者達は帰っていった。

 唯がソファーにぼんやり座っていると、別のソファーに座っていた拓磨が唯の隣りに移動してきた。
「ご気分がすぐれませんか?」
 唯は答えず、拓磨の肩にもたれると、
「・・・拓磨さん・・・どこにいたの?」
と、咎めるように言った。
「私を捜しておいででしたか?・・執事に言ってくだされば、あちこち歩き回らずに済みましたものを・・・」
 拓磨は唯が探し回っていたことを聞いていたらしく、労るように髪を撫でた。
「だって・・・拓磨さん、忙しそうだったし・・・」
「唯様に必要な用があるなら、すぐに伺いますよ。」
「・・・用事じゃなく・・・ラーガの像のお礼がいいたかったんだ。」
「ああ・・クスッ。・・・そうでしたか。」
 拓磨は優しく微笑み、頷いた。
「・・・冬馬さんもどこにもいなかったでしょう?」
 唯は急に動き回った疲れと、目眩からくる気分の悪さもあって、いつになく不機嫌だった。
 相手が家族とも言える拓磨と冬馬だったせいもあるが、それだけに見つけ出せなかったことが面白くなかったのだ。
 迷子の子供が迷えば迷うほどムキになり、体力の限界も超えて必死に歩き回ってしまうように、唯もまだ体力が戻っていないことも忘れて、広い屋敷と更に広い敷地内を駆け回ったのだ。
 拓磨の顔を見て安心すると同時に、疲れが押し寄せてくる。
 冬馬は拓磨にチラッと視線を向けて様子を伺っているようで、困ったように顎を撫でていた。
「普段の執務室以外にも、仕事場があるのです。」
 拓磨は宥めるように耳元に囁いた。
「・・他にも?」
「唯様をご案内してもよろしいのですが、すでにお疲れのようですし、後日体調の良い時にご案内致しましょう。」
「・・うん。」
 唯は眉間を指先で押さえて目を閉じた。
 情けないほど体力が落ちていると思う。
 自己管理の出来ない医者は患者を救えない、と自分を戒めてきたはずなのに、些細なことでバランスを崩してしまうほど、張り詰めていたことを思い知る。
 自己嫌悪が唯を不機嫌になるほど落ち込ませていた。
 拓磨にはそんな唯の状態が見えるのだろう。
 労るように髪を撫でて宥めている。
 いつもなら、大人に対して詮索したり、咎める言い方をすると、唯でも厳しく注意されるのだ。
「今日はこの後、私のブレーンを紹介しようと思っていたのですが・・・」
「拓磨さんのブレーンって・・・?」
 唯は目を開けると、肩にもたれたまま拓磨の顔を覗いた。
 RカンパニーやR財団の幹部とは常々会う機会もあったので、改めて紹介されなくても知っているつもりだった。
「主に『秘密結社』の方の仕事をしている者達です。中には会ったことのある者もいるでしょうが、まだ直接話をしたことはないのではと思われますので、唯様のいらっしゃる機会に紹介しておこうと呼んでおきました。・・いかが致しましょう?」
「そう。・・・せっかくだもの。お会いします。」
 唯は体を起こすと背筋を伸ばして答えた。
「無理はなさらなくてもいいのですよ?」
「うん。大丈夫です。」
 拓磨は唯の様子が心配だったが、屋敷に今日しか滞在出来ない者もいた為、紹介することにした。

 一同が待っているというサロンに唯が姿を見せると、座っていた総勢12名の者達が一斉に席を立って出迎えた。
 このサロンも、唯が覗いた時には誰もいなかった。
 彼等も拓磨の言う”別の仕事場”に行っていたのだろう。
 12名の内、9名が男性、3名が女性で、20代から50代まで様々だった。
 彼等を紹介するにあたって、拓磨は始めに、
「この者達にはこの場での名前はありません。」
と言った。
 名前もなく紹介する、という意味がわからない唯が怪訝な顔をすると、
「もちろん、個人個人に名前があるのは当然ですが、個人の名前はプライベートでのみ使用します。別の場所で会った時、別の名を使っている場合もありますので、役向きの時に名前で呼び合うことは避けているのです。」
と説明した。
 唯は、へぇ・・・、と奇妙な違和感を覚えながら、名前のない彼等の顔をゆっくり見回した。
 何かの会やパーティーで顔を見かけたことがある人や、この屋敷でも何度か会っている人もいたが、全く知らない人もいた。
「この者達は私が必要とする12の部署の代表でもあり、その役をこなす便宜上窓口は一人であっても、他の者と分担することは可能です。ですから、時には別の者がここに立つという場合もあります。」
「この・・人達に部下がいるってことでなく?」
 唯は益々わからなくなって眉を寄せた。
「部下とは違います。あくまで代表は一人ですから。・・・例えば、No.4は彼女と彼女の双子の妹で代表を務めています。また、No.11は今日は父親が代表としてきてますが、普段は子息が顔を出すことが多いですね。」
 つまり、そのナンバーの仕事の代表である立場が大事なのだろうか。
「No.3は医療部門担当です。シアトルから唯様に同行したのを覚えてらっしゃいますでしょうか?」
 そう言われて、唯は、
「あ・・先日はお世話になりました。」
と、拓磨が指し示した相手に頭を下げた。
 倒れてからは意識がぼんやりしていたので、付き添っていた医師まで意識が及ばず、この場で会ってもすぐに気付けなかったのだ。
「ほんの数日で、すっかり回復されたご様子に驚いております。さすがは御曹司、と敬服致します。本当によろしゅうございました。」
 No.3はにこやかにお辞儀を返して寄越した。
 拓磨は説明を続けた。
「『秘密結社』には地域ごとの代表もおりますし、組織内の格付けも別のものですが、この者達はランクで言えば、トップグループ。この者達が部下に対する時は私を代表しているということになります。つまり、彼等は私の顔でもあるということです。」
「・・・何か・・・よくわかんないけど・・・大統領とそのブレーンみたいなもの?・・・必要に応じて必要な部署を代表しつつ、大統領の意志を反映している、みたいな・・・?」
「そうですね。」
 拓磨は、良く出来ました、とばかりに笑みを浮かべて、唯の頭を撫でた。
「・・・何となくしか、わからないけど・・・」
 大統領に国務長官や財務長官、広報官や参謀がいるようなものだろう、と唯は漠然と思った。
 拓磨は各々のナンバーと担当している部署を簡単に説明した。
 唯はそれでも名前のない相手に挨拶する奇妙さを感じながら、礼儀正しく声をかけていった。  唯から声をかけられると、皆一様に感激した顔で目を輝かせて挨拶をし、深々と頭を下げる。  得体の知れない崇拝は子供の頃から慣れてはいるが、期待に応えられる人間かどうかは自信がない。
 まして自己嫌悪に落ち込んでいる今は、毅然とした態度を取り続けることが苦痛だった。
 拓磨が一通り紹介し終わって、唯が、
「あれ?・・冬馬さんは?」
と聞くと、
「私は総統付き特殊部隊部隊長であります。」
と、冬馬が軍隊式敬礼を唯にして見せた。
「No.9の諜報部には所属しないの?・・あ、No.10の軍事部かな?」
「冬馬はいずれにも所属しない、言ってみれば親衛隊でしょうか。」
「ふーん・・・複雑ですね。」
「組織自体が複雑ですから、この者達の存在があって、初めて全てを掌握出来るのです。ですから、私の一部とも言える者達ですので、一度紹介しておきたかったのです。」
「そう・・・」
 唯は何故か寂しさを感じながら頷いた。
 紹介の後、昼食会を共にした唯は、どうにか微笑みを絶やさずに席にいたものの、食事はほとんど摂れなかった。
 それで、午後はベッドで休むように言われて、仕方なく寝室に向かった。
 そして拓磨自身が持ってきた薬湯を飲まされると、髪を撫でられながらすぐに眠ってしまった。
 薬湯に眠る成分が入っていたのと、拓磨の催眠暗示が効いたようで、夜に拓磨が再び顔を出すまでぐっすり眠っていた。

<64>
「帰るべき故郷」
<64>「帰るべき故郷」

 次の日の朝。
 唯は沈んだ様子で食事を済ませた。
 薬湯も昨夜から文句も言わず、表情もほとんど変えず素直に飲んでいる。
 拓磨が早朝ベッドから抜け出すのも、気付いていたが、声をかけず背中で見送った。
 昨夜は拓磨から、食事が摂れないなら点滴をするしかない、と言われ、出来るだけ拓磨がスプーンで口元に運ぶ物を咀嚼して飲み込んだし、その後の薬湯もちゃんと飲んだ。
 だが、点滴が嫌で、おとなしく素直にしているのではなかった。
 拓磨にブレーンの12名を紹介されてから、急に拓磨が遠くに感じられてしまっていたのだ。
 ずっと唯にとって拓磨は親代わりの教育係だった。
 離れていても、親代わりと言える存在は拓磨だけだった。
 けれど、拓磨には拓磨の別の世界があり、拓磨自身が自分の一部と言う仲間がいる。
 紹介されるまで、その存在すら知らなかった。
 もっとも、『秘密結社』という組織自体を、最近までずっと知らずにきたのだから、知らなくても無理ないことで、唯の負担を軽くしたい拓磨の気遣いであることはわかっている。
 わかっていても、見えない壁に弾き飛ばされた気分だった。
 ロバートが拓磨を”あれほどの大物”と言った意味が何となくわかった。
 ロバートからその言葉を聞いた時には、自分の親を誤解されてる気分で真剣に受け止められなかったが、やはり『秘密結社』の”影の総統”と言われるだけの人物だったのだ。
 拓磨と命運を共にする運命共同体がいる。
 彼等12名を自分の顔だと言う。
 唯の知らない拓磨の顔だった。
 彼等に対し、立て前では礼儀を欠かない挨拶も出来るが、心ではすぐには受け入れ難い心境の唯だった。

 朝食の後、唯はブランケットを肩に羽織り、森へ向かった。
 今日は犬達が朝の運動から早めに戻ってきたので、唯に同行するとあって、散歩くらいなら大丈夫だろう、と執事は笑顔で見送った。
 森のほぼ中央。
 そこだけくり抜かれたように空が見える。
 昼頃になれば暖かい陽射しも注がれる場所に、ラーガの墓はあった。
 けれど、太陽が低く、陽射しの届かない午前中は、森を包む冷たい空気が漂ってきて、底冷えがしていた。
「ラーガ・・・おはよう。」
 触れて撫でるブロンズ像は悲しいほど冷たかった。
 ラーガの目には琥珀が埋められていて、表情を和らげている。
 見る向きや光の差し具合で表情自体も変わるように感じる。
 唯はそこに、拓磨の深くて細やかな愛情を感じ、しばらくラーガを見つめていた。
「ラーガぁ・・・」
 唯はラーガの冷たい頬に頬ずりをすると、深い溜息を吐いた。
 それから、ラーガの像が建っている台に寄りかかるように踞った。
 5匹の犬達は不安を感じているようで、唯を取り囲んで体を寄せてくる。
 だが、今の唯には犬達さえ視界に入らないようだった。
 唯は膝を抱えて台に額を押しつけると目を閉じた。

「・・ラーガ・・・ラーガ・・・ラーガ・・・」
 切なく失った恋人へ呼びかける。
「・・・ラーガ・・・寂しくてたまらない・・・」
 睫毛が震え、涙の雫が滲む。
 忍び寄る冷気に、ブランケットを羽織っていても息まで冷たくなってくる。
「・・こんなに愛されているのにね・・・」
 総統はもちろん、拓磨や冬馬や大河に、愛されていることを感じない唯ではなかった。
 だが、それでも満たされない。
「・・・ごめん、ラーガ。・・・昨日、もう大丈夫だって約束したばかりなのに・・・」
 自分の我が侭だと思う。
 だから、愛に感謝する思いも込めて、いい子でいなければならない。
 強く、逞しく、期待に応えられる子でいなければならない。
「・・ラーガぁ、、ぁ、、、・・・俺・・・もう・・・ラーガの所に行きたいよぉ、、ぉ、、、」
 唯の閉じた目から涙が滲み出して頬を伝う。
 犬の舌が頬を舐める。
 唯を奪おうとする見えない敵と戦おうとするかのように、一層唯に体を押しつけてくる。
「・・・ラーガは・・・きっと情けない奴って思うよね・・・?」
 もう、答えはないことぐらいわかっている。
 だが、ラーガの生き方が唯への答えだった。
 ラーガの芯の通った生き方が唯を叱っているように感じる。
「・・ラーガ・・・教えてくれよ。・・・どうすれば、お前みたいに強くなれる?」
 唯は抱きかかえた膝に顔を埋めて、息を潜めて泣いた。
 ”あなたを愛してはいけませんか?”
 不意に九条の声が聞こえる。
 唯は、ハッ、として顔を上げ、辺りを見回すが、木々をざわめかせているのは、吹き抜ける冷たい風だった。
 唯は踞ったまま、ラーガを見上げる。
 ラーガは正面を見据えたまま微動だにしない。
 その視線は遙かサバンナを見つめているのだろうか。
「・・・ラーガ・・・抱いてよぉ、、、・・・俺・・・もう・・・帰り道がわからないよ・・・」
 唯はボロボロと涙をこぼしながら、足を投げ出し、台に寄りかかると、苦しそうに胸を押さえた。
「・・誰か・・・俺を・・・壊してくれ。」
 唯は密集する木々がくり抜かれたような空を見上げた。
 青く透明な空。
 遠い・・遠い・・・青い空。
 唯の体からメラメラと紫の炎が立ち上がり始めた。
 紫の炎は次第に大きく脹らみ、ラーガの像も包み込んで激しく燃え上がった。

「ワワワワワワン!!」
「ワォーン!!ワォォォーーン!!」
 5匹の犬達が一斉にけたたましく吠え出した。
 犬達の声が森中に響き渡り、屋敷まで届いた。
 ライラが森の入り口まで駆けてきて更に激しく吠え立てる。
 残った4匹は唯の体にぴったり寄り添って吠え続けている。
 ただならぬ様子に屋敷の者が駆けつけた時、唯は意識もなくぐったりとしていた。

 唯が意識を取り戻した時、ベッドに寝かされていた。
 と言うより、拓磨に抱き締められていた。
「唯様・・・」
 唯が目を開けると、拓磨が涙ぐんで髪を撫でた。
「・・何故です?」
 拓磨の声はほとんど震える息そのものだった。
 抱き締められ重なり合った拓磨の胸が嗚咽に震えている。
「・・何故・・・命を投げ出そうとされるのです?」
 拓磨が唯を包むように頬ずりをした。
 肩が震え、頬は涙で濡れている。
「・・・ごめんなさい。」
 拓磨には、唯がほとんど自殺に近い行為をしたことが、わかっているようだった。
 唯が意識して紫の炎を燃え上がらせているのではなかったが、もう壊れてしまいたい、と強く願った想いが、結果として命を燃やし尽くそうと炎を呼び起こしてしまったのだ。
「・・謝って欲しくなどありません。」
 拓磨は唯の頬にキスをしながら顔をあげ、唯の目を見つめると、震える息で講義するように言った。
「・・何故なのです?・・・何故?」
 息を継ぐのも震えてしまう。
 拓磨は熱い吐息とキスを繰り返す。
「・・唯様に死なれたら・・・私も生きる意味がありません。・・・どうしても、この世に留まるのが限界だと言われるなら、私にお供をさせてください。・・・唯様の父君が母君にそうされたように、私も唯様と共に参ります。」
「・・・え・・・嘘・・・」
 唯は拓磨がここまで取り乱していることが理解出来なかった。
 常に冷静沈着で、滅多に感情を出さず、全てを計算し尽くしているような拓磨なのだ。
 どうして自分なんかの為に泣くのだろう、と不思議だった。
「唯様が私の生き甲斐なのです。嘘でこのようなことは申しません。」
 唯は眉を曇らせた。
「・・・生き甲斐と思って貰えるほど・・・俺は強くも立派でもないんだ。」
 拓磨は悲痛に眉間にシワを刻むと首を振った。
「期待するから生き甲斐なのではないのですよ?・・・ああ・・・なんてことだ。・・・それでは、私が厳しく教育してきたことが負担だったのでしょうか?」
 涙を降らせながら唯の顔を愛おしげに撫でる拓磨に、唯はどうやって謝ればいいのかと困惑した。
 はっきりと自殺しようと思った訳ではないのだ。
 愛されているのに、失ったものばかりに執着して孤独に苛まれる自分を、どうにかしたかっただけなのだ。
「・・・違うよ、拓磨さん。・・・そうじゃないんだ。・・・拓磨さんが遠い存在に思えて・・・寂しかったんだ。」
「・・遠い・・・?」
「あ・・・だから・・・どう言えばいいのか・・・」
「お聞きします。・・どんなことでも。・・・急がずにゆっくりと・・何でも話してください。」
 拓磨は唯の体を温めながらキスを繰り返す。
 ただ、涙が止まらずに流れるので、涙を顔中に擦り付けているのか、キスしているのか、わからないような状態だった。
 拓磨の涙は熱かった。
 逆に言えば、また唯の体温が低下してしまったのだろうか。
 唯は情けなさに溜息を吐いた。

「寂しかったんだ。・・・どうしようもなく・・・寂しくてたまらなかった。」
「・・私が仕事でお側にいられなかったからですか?」
「ううん。・・・そうじゃない。」
 唯は何をどう言えばいいのか、複雑に絡み合う心を言葉に変える難しさを感じていた。
「・・・俺・・・大河に抱かれた。」
「・・ええ。・・多分そうだろうと思ってました。」
「・・・それから・・・澪って人を好きになった。」
「・・はい。・・聞いております。」
「・・・それに・・・ガードしてくれてたロバートって人とも、キスしたりフェラしたりして甘えてた。」
「・・そうでしたか。・・・それでアメリカ側が唯様に好意的だったのですね。」
「え・・知らなかったの?」
「私は千里眼ではありませんよ。何もかもわかっている訳ではありません。」
「・・・ふーん・・・」
「亡くなったチャーリーはラウール殿下のガードだったとか?・・それは冬馬から聞きました。」
「・・・うん。」
 唯は虚ろに遠い目をして、怠そうに瞬きをした。
「・・・愛されたり・・・愛したり・・・でも・・・みんな中途半端・・・確かな存在じゃなく・・・残ったのは・・・この手の感触だけ・・・」
「・・唯様・・・」
「拓磨さんの言うようにチャーリーのことは・・・ちゃんと受け止めてる。」
「そうしてください。」
 拓磨は唯に顔を押しつけるように頬ずりをした。
「あぁ・・・もう・・・うまく言えない。」
「・・唯様を愛している存在の中に、私は入りませんか?」
「・・・拓磨さんの愛が・・・誰よりも強くて・・・確かな愛だと思ってたよ。」
 唯は呟くように答えた。
 拓磨は涙で潤んだ目を見開いて、唯を見つめた。
「・・ならば・・・何故・・・?」
「・・・だって・・・俺の知らない拓磨さんが12人もいるんだもん・・・」
「・・彼等・・ですか?」
 拓磨は呆れたように聞いた。
「・・・だって・・・俺が知ってる拓磨さんは・・・一人だけだもん・・・」
「もちろん、私は一人です。・・・私の仕事の便宜上、彼等を私の一部と例えただけです。」
「・・・だけど・・・俺の拓磨さんは・・・他の誰かの拓磨さんじゃ・・・嫌なんだもん・・・」
 拓磨は溜息を吐いて首を振った。
「昨日も申しました。あの場では名前は必要ないと。・・それは、彼等だけでなく、私もそうなのです。」
「・・・拓磨さんも?」
「そうです。数字で言うなら・・No.0・・とでも言いましょうか・・・」
「嫌だ。・・拓磨さんが0なんて。」
「・・では・・・時計の文字盤とでもしておきましょう。・・そして、彼等はそこに配置された数字。・・・ですが、それは単に仕事をする上でのこと。・・唯様の前にいる私は、ただ一人の私です。」
 唯はよくわからなくて唇を尖らせた。
「考えても見てください。・・こんなに愛している唯様を、彼等を私の一部だと例えたからと言って、指一本触れさせるはずもないでしょう?・・・唯様の前にいる私はただ一人の私なのです。私を名乗る別人が唯様に触れたら、八つ裂きにしますよ。」
「・・・そうなんだ・・・」
「だいたい・・・大河でも本当は巨大なミキサーで骨ごと粉々にして、魚の餌にでもしてやりたいくらいです。唯様に手を出す前に、レイドに大河のペニスを囓らせておけば良かった。」
「・・ぁぅ・・拓磨さん・・・」
「その上にロバートですって?・・唯様が唇を触れた部分全てを削ぎ取ってから、棘の棺に生きたまま収め、バミューダにでも沈めてやりたい心境です。」
「・・そんなぁ・・・」
「私が手を出さないのは私の寛容さだとお思いですか?・・私はそれほど甘い人間ではありません。・・私が彼等に何もしない理由はただ一つ。唯様がそれを望まれないからです。」
 唯は、拓磨の鬼気迫る言葉に息を飲み、慌てて頷いた。
「そうだよ。・・俺、そんなの嫌だよ。」
 拓磨はじっと唯を見つめ、髪を撫でた。
「・・私の全てが唯様のものなのです。私は唯様という光がもたらした影。唯様なくして、私も存在し得ません。」
「・・・拓磨さん・・・」
 唯は困ったように視線を彷徨わせた。
 まだ、言えない、言葉にしきれない、思いがあった。
「・・・俺は・・・拓磨さんが思ってくれるような、光じゃないもん。」
「ああ・・・唯様・・・お気付きになられないのですか?」
 拓磨は苦しそうに息を吐く。
「え・・・何を?」
「条件付きで好きになるのは真実の愛ではないのですよ?・・私の想いを照らし出す存在という意味であって、唯様が光り輝く存在であって欲しい、と思い込んでいる訳ではないのです。」
「・・・じゃぁ・・・俺が闇でもかまわない?」
「もちろん。・・唯様が闇なら、私は静寂となって唯様を包みましょう。」
「・・・俺が・・・魔物でも?」
「愛しております。・・唯様が魔であるなら、私は使い魔にでも、グツグツと煮えたぎる大釜にでもなりましょう。」
「・・・ただの石ころかも・・・」
「では、私にその石を拾わせてください。・・胸のポケットにしまい込んで、誰にも見せず、誰にも触れさせず、私だけの宝物に出来ます。」
「・・・えっと・・・」
 唯は拓磨の一途な想いに圧倒されていた。
 大事にされているとは感じていたし、親が子供を思うように愛されているとも思っていたが、まるで、恋の熱に浮かされたような言葉を、拓磨から向けられることがあるとは想像もしていなかった。
 そもそも、そうした不条理で計算出来ない感情は、否定する性格だと思っていた。
 どうしよう。
 もしかして、自分はとてつもなく愛されていたのかも知れない。
「・・・ごめんなさい。」
「・・唯様?」
「・・・俺・・・拓磨さんを誤解してたかも・・・」
 唯の言葉に拓磨は、フッ、と表情を和らげ微笑んだ。
「仕方ありません。・・唯様をお守りする者として、私情に走ることのないようにと心掛けてきたのですから。・・唯様のお立場を思うと、厳しく接するしかありませんでした。」
「・・・拓磨さん・・・」
「甘やかそうと思えばいくらでも甘やかせますし、庇おうと思う気持ちを押さえ込むことの方がどれほど苦しいか。・・・ですが、そうしてしまったら、唯様自身がご自身の甘えや弱さと立ち向かわなければなりません。・・・唯様は甘えに浸っていられる性格ではないでしょう?・・弱さに甘んじられる性格でもない。・・・甘やかしたい大人達とお一人で戦われるのでは、唯様がキツイだろうと思ってのことです。」
「うん。」
 唯は拓磨の言いたいことが良くわかった。
 それに、拓磨が自分に厳しくしてくれることに、いつも感謝していたのだ。
「それはわかってたつもりです。だからこそ・・・拓磨さんが俺には・・・」
 何だろう?
 親と言うのも違うような、一部と言うよりもっと大きく、恋人ではないけれど掛け替えのない存在。
 それをどう言葉で表現すればいいのだろう。
「俺には・・・俺の・・・故郷・・・」
 そう。故郷なのかも知れない。
 もう、サバンナに帰る必要はないのだ。
 自分の故郷はここにある。
「拓磨さんが・・・俺の・・・帰る場所なんだ。」
 唯は拓磨の体に腕を巻き付け、頬を胸に押し当てて目を閉じた。
 ドクッ、ドクッ、と鼓動が聞こえてくる。
「・・・ごめんなさい。・・・俺の故郷に、知らない奴等が入り込み・・・しかも、俺の知らない間に我が物顔で居座っているような・・・そんな気がして・・・嫉妬してたんだね。・・・やっと、わかった。」
 唯は自分がずっと寂しかった理由を見つけた。
 拓磨の胸に居心地を確かめるように頬ずりをして、囁くように言った。
 拓磨は慈しむように唯の髪や背中を撫でる。
「唯様・・・私の心には唯様しかいらっしゃらないのですよ。・・いつでも、唯様を待ち続け、想っているのです。」
「・・・うん。・・サバンナより熱い・・俺の故郷。」
「唯様が寂しいと仰るなら、ずっと、ここにいらしてください。」
「・・・ぅ・・・」
「一日中、こうして抱いていてもいいですよ?」
「・・・ぁ・・・」
「ずっとキスを続けましょうか?」
「・・・ぇ・・・」
「・・それとも・・少し休まれますか?」
「ぁ・・うん。」
 拓磨は消耗している唯を休ませたかったので、これ以上の会話は控え、唯が眠れるようにと優しく体を撫でながら暗示を囁いた。
 唯は安心したこともあって、すぐに微かな寝息を立て始めた。

 唯が熟睡してから、拓磨はPCをベッドに運ばせた。
 唯の側についていてやるにしても、仕事も疎かには出来なかった。
 12台の携帯は各々の代表との専用回線だった。
 PCを仕事場のPCと回線を繋ぎ、指示を出していく。
 唯を起こさないように、なるべくPCから命令を下していたが、より内密な指示は専用の携帯で声を潜めて伝えた。
 唯は時々寝返りをうち、無意識の夢の中で拓磨を探すように、手を伸ばして存在を確認する。
 余程寂しかったのだろう、と思うと愛しくてたまらない。
 本当に手放さないでいられるなら、ずっとこうしていたいと願う。
 けれど、翼を持った天使は、傷が癒えれば、きっと飛び立って行ってしまうのだ。
 拓磨には、この束の間の幸せが至上の喜びに思えた。

<65>
「オークション」
<65>「オークション」

 次の日も拓磨は唯のベッドの中で仕事をしていた。
 拓磨がいると、唯も素直にベッドでおとなしく寝ているので、また目を離して倒れられるよりいい、と思ってのことだ。
 けれど、PCや携帯だけでは進められない仕事の話もあるので、唯が薬湯で熟睡している時には、部下を呼び入れて密談をすることもあった。
 拓磨はベッドに起きあがってPCを扱っているが、唯が手を伸ばした時にいつでも抱き包んで肌の温もりを伝えてやれるようにと、肩にガウンを羽織っているだけだった。
 それでも、どんな状況でも冷静に判断し目的を遂行出来る者をブレーンとして選んでいたので、皆顔色一つ変えずにいつも通りに話だけを進めた。

 唯は、数時間おきの薬湯と、拓磨の肌に温められ眠り続けることで、かなり顔色も良くなっていた。
 それで夕食は、昨日の朝食以来、久々にベッドから起きて、拓磨とテーブルで食事することにした。
 食事中も、拓磨は時々手を伸ばして、唯の頬や腕を撫でたり、ガウンの中へ手を滑り込ませて肩や胸に触れたりしていた。
 唯の体温が下がらないか、気にしていることもあったが、愛し合う恋人同士のスキンシップのようにも見えた。
 食後のデザートもイスを近付けて、唯を胸に抱くようにして、キスをしながら楽しんでいた。
 巨峰を一粒つまんで、拓磨が半分囓って種を除いてから、下の部分の実を唯の口に押し出してやる。
 唯は拓磨の指に滴る蜜を啜って舐める。
 クスクスと忍び笑いが漏れ、口づけで笑い声が消える。
「そろそろベッドに戻りますか?」
 拓磨がキスを繰り返しながら、熱い息で囁く。
「んー・・・どうしよう・・・」
 唯は拓磨に寄りかかり、ガウンの中に手を入れて拓磨の胸を撫でる。
「唯様が眠れるまで、ずっと抱いていて差し上げますよ。」
「・・んー・・・でも・・まだ、眠くないもん。」
「では、もう少し、こうしてましょうか?」
「・・うん。」
 再び唇を重ねて、ゆっくりと舌を絡め合わせる。
 甘い、甘い、恋人の時間。
 邪魔をするのは無粋というものだ。

「・・失礼致します。」
 執事が目を伏せがちに部屋に入ってきた。
 拓磨の眉が微かに曇る。
「申し訳ございません。・・坊ちゃまに電話が入っておりますので・・・」
「・・大河か・・・」
 拓磨は小さく舌打ちをする。
 唯はクスッと笑って、
「そう言えば、俺、携帯どうしたろ?」
と、ずっと忘れていたことに気付いた。
 執事が、
「はい。それで、大河様がいくら携帯にかけても繋がらないと・・・」
と、気まずそうに言う。
「俺の携帯、知ってる?」
 唯が聞くと、拓磨は肩をすくめ、
「勉強部屋の机の上でしょう。」
と、溜息まじりに答えた。
「そっか。・・じゃぁ、携帯で電話するからって、大河に言ってください。」
「畏まりました。」
 執事は頭を下げると、早々に部屋を出ていった。
 拓磨が不機嫌そうに睨んでいたのが怖かったようだ。
「クスクスッ。・・そんな顔、・・らしくないよ。拓磨さん。」
 唯が立ち上がって携帯電話を取りにいこうとするので、
「薄着で動き回るものではありません。」
と、拓磨が、控えていたメイドに取りに行かせた。

 大河の電話は大学の試験に関することで、フランス語の詩を教えて欲しい、ということだった。
 唯は服を着ると、すぐに適当な詩を書いて送ってやった。
 ただ、読み方がわからないと暗記するのも難しいだろうから、と拓磨の許可を取って、特殊回線での通話をすることにしたのだ。
 大河の隣りには彩香が座っていた。
 どうやらうまくいってるらしい、と唯はホッとして笑顔になった。
 大河は純粋な分、すぐに感情が表に出てしまう。
 だから、キャシーのこともバレるのではないか、と心配していたのだ。
 本心を隠すことは、唯は自分の方が得意だと思っているし、現実にそうだった。
 キャシーのことが隠せないようでは、自分達の関係も隠すのは難しいだろう。
 彩香を、自分達の説明がつかない微妙な関係で傷つけたくなかった。
 その辺のことは、大河も承知しているようだ。
 唯は、腕組みをしてフレームアウトしている拓磨の存在を、毛ほども感じさせずに話をしていた。
 それで、大河が拗ねたように拓磨への皮肉を言ったので、慌てて存在を教えてやった。
 大河は焦って誤魔化していたが、拓磨の眉間のシワが一層深まったのは言うまでもない。
 それが、唯にはまた可笑しかった。

 通話を終えた唯は、急に意識を現実に引き戻された。
 そう言えば、大学の試験は間近に迫っているのだ。
 特に試験勉強が必要な唯ではなかったが、東京に戻ることを考えなければならない。
 早く大学に戻らなければ、と思っていたはずだった。
 その為にサングラスも注文したのだ。
 微調整すると言っていたが、それからどうなったのだろう。
 すっかり、拓磨との甘い時間に浸って、現実を忘れてしまっていた。
 拓磨は大河の用件をほとんど無視したように、唯に薬湯を勧め、もう休むようにと言ってきた。
 唯は薬湯を啜りながら、
「・・大学に戻らなきゃ・・・」
と、拓磨の様子を伺うように言った。
 拓磨はPCを操作する手を止めて、唯に視線を向けると、
「起きられるようでしたら、明日、仕事場へご案内致しましょう。」
と、関係のない話題を振ってきた。
「・・拓磨さんの仕事場だし・・・俺、見なくてもいいや。」
 唯は抱いた疑問の答えを見る前に、何となく想像がついたので興味をなくしていた。
 多分、東郷の屋敷の地下にあった空間より、更に大規模な地下スペースがあるのだろう。
 東郷の屋敷の地下でさえ、かなり広い施設があったが、その十数倍の敷地を有するこの屋敷の地下がどれほどの施設か、想像するだけで怖いものがある。
 犬達の調教場や冬馬が射撃の訓練をするような施設もすっぽり収まり、拓磨が世界中に指示を出すセンターもあるのだろう。
「そんな他人事のように・・・。いずれは唯様が総統になられるのですよ?」
 唯は薬湯に顔をしかめながら頬を膨らませる。
「・・・石ころでもいいって言ったくせにぃ・・・」
「唯様が本当に石ころでらっしゃるなら、私の好きに磨き上げることも出来るのですが、元気が良すぎてポケットから飛び出してしまうので、大変です。」
 拓磨が苦笑した時、拓磨の携帯が鳴る。
「・・失礼。」
 拓磨は電話で話を始める。
 唯はどうにか薬湯を飲み干すと、拓磨に寄りかかってPCを覗く。
 幾つか開かれている窓を変えて眺めていると、電話を終えた拓磨が、
「事務処理は経験を重ねれば誰でも出来ます。ですが、頂点に立つには人を惹き付けるカリスマ性が必要です。」
と、唯の髪を撫でながら言った。
「拓磨さんだって充分、カリスマじゃん。」
「唯様あっての私なのです。」
「・・・わかんないよ。」
 唯は拗ねたように拓磨の胸に顔を擦りつけた。
「少しずつ唯様も総統としての仕事に参加なさいませ。」
「・・・無理だよぉ・・・」
「初めから全てを把握出来る訳がありません。ですが、もう唯様はきちんと挨拶もお出来になる。」
「そんなの・・・仕方ないし・・・」
「赤ん坊も初めは感情のままに泣くだけでしょう?・・挨拶が出来るようになれば立派なものです。・・・大河はまだそれすらも出来ない赤ん坊です。」
「クスッ。そうでもないよぉ。外では大河もけっこうしっかりしてるもん。」
「・・唯様は彼には甘いですから・・・」
 拓磨は溜息を吐くと、話題を変えて、PCで開いている画面の説明を始めた。
「・・あん。ニュヨーク株式市場のことなんて説明されてもわかんないよ。・・それに、何で株の動きを見てるのかもわかんないしさ。」
「私の仕事はRカンパニーやR財団の運営も含まれますから。組織だけの仕事をしているのではありません。」
「ふーん・・・大変なんだね・・・」
 唯は少し布団にもぐり、拓磨の脇腹あたりに頬ずりをする。
「眠くなられましたか?」
「・・ううん。・・・まだ起きてる。」
「では・・少し遊んでみますか?」
「遊ぶって?」
「ネットオークションを御覧になりませんか?」
「ああ、そーゆーのもあるんだよね。」
 唯は拓磨の脇腹を枕に画面を眺めながら頷いた。
 拓磨は笑いを洩らすと、
「普通のオークションではありません。会員制で特殊なパスワードが必要な裏サイトです。」
と言った。
「えー・・・拓磨さんのエッチィ・・・」
「・・は?」
「だって・・・裏なんてさぁ・・・時々大河が覗いてるやつだろ?」
「・・・いえ。裏の意味が違うようです。」
 取り敢えず見ればわかる、と拓磨はPCを操作し、パスワードを打ち込んで裏サイトに繋いだ。

「もちろん、あらゆる分野の商品が扱われておりますから、そうした性に関連した商品も求めることは出来ますが・・・興味がありますか?」
「・・・興味くらいはあるさ・・・」
 唯は布団の中で手を伸ばし、拓磨のペニスを握る。
 拓磨は苦笑し、
「では、覗いてみましょう。」
と、一つのオークションに参加する。
 画面中央に女性の姿が映し出されている。
 画面右には女性のプロフィールが出ているようで、画面下には$で金額が表示されている。
 やがて女性の全裸姿に変わると画面下の金額が上がっていく。
「・・裏ビデオ?・・・随分値段が高くない?」
「いえ。これはこの画面の女性の値段です。」
「・・女性に値段付けてどうするの?」
「例えば、唯様がこの女性を落札されれば、明日にでもこの女性が届けられる、ということです。」
「・・届くって・・・届いてどうするの?」
「それは買い主の自由でしょう。煮るなり焼くなり・・食べるのも自由。いわゆる奴隷オークションですから。」
 唯は絶句して画面を見つめた。
「落札されたようですね。・・ここの数字がタイムリミットを示し、これが最低希望金額。これを時間内に上回れば落札出来ます。」
 画面には別の女性が映し出され始めている。
「・・・奴隷なんて・・・そんな・・・人身売買じゃん。」
「だから、裏なのです。別のジャンルにしますか?」
 唯は呆然としたまま頷いた。
 拓磨が次に選んだオークションは美術品を扱っていた。
「ここに出される商品はどれも表には出せない盗品の類ばかりです。けれど、オークションの信用を失わない為に、商品に関しては絶対の信頼があります。偽物を出品すれば命はありませんから、商品を出す方も細心の注意を払っています。」
「ふーん・・・そこまでして欲しい物なんてあるのかなぁ・・・?」
 唯はあまり興味もなく画面を眺めていた。
「欲しい物はありませんか?・・では、他のジャンルにしましょう。」
 そう言って、拓磨が選んだオークションは、動物のものだった。
 画面に映っているのは巨大な蛇。
「こーゆーペットが欲しい人もいるんだねぇ。」
 唯は感心して値段が上がっていくのを眺めている。
「ここをクリックすると、これからオークションにかけられる予定商品を見ることが出来ます。・・・そして、チェックをしておくと、そのチェックした物のオークションが始まる時、連絡が入るようになっています。ですから、仕事中オークションから目を離しても、欲しい物をうっかり見逃すことはありません。・・ネットを繋げていれば、ですが。」
「ふーん・・・」
 唯は予定商品を真剣に見ていた。
 美術品に興味がなくても、動物には関心があるようだ。
「これって・・・取引が禁止されている動物ばっかだね。」
「もちろん。そうでなければ、裏オークションの意味がありません。・・普通の商品が欲しいのでしたら、表のサイトもありますが。」
「・・・こんなに公然と違法な取引をしていて、よく警察に摘発されないものだなぁ。」
「クスッ。公然ではないですよ。オークションに参加出来る会員になるには厳密な審査があります。偽名ではもちろん会員になれませんし、オークション用の口座を開いて登録しなければなりません。・・もし、パスワードなく強引に侵入してきた場合、一斉にウィルス攻撃がされて、侵入者のPCは末端だけでなく本体まで全て破壊されるでしょう。」
「・・・うわ・・・怖いなぁ・・・」
「パスワードも一人一人違いますから、誰が参加しているか、すぐに調べられます。」
「ふーん。・・・拓磨さんって内情に詳しいんだね。」
「当然でしょう。このオークションを開催している『カオス』は、『秘密結社』に所属しているグループですから。」
「げ・・・そうなのぉ?」
「総統の仕事始めに、何か落札されてみてはいかがですか?」
「えー・・・どうしよう・・・」
 唯は困ったように画面を見ていたが、
「・・・この鳥・・・綺麗だね。」
と、予定商品の一つを指差した。
「わかりました。」
 拓磨はそう答えると何かを打ち込み始めた。
「予約のチェックをするんでしょう?」
「いえ。待つのは時間が無駄ですから、先に今、唯様が指定された商品を出すように指示しました。」
 拓磨の説明が終わる前にオークション画面に唯が指した鳥が映し出された。
「え・・・どうして?」
「主催者の特権です。・・いくらになさいますか?」
「えっとぉ・・・希望金額は・・これだよね。・・・んー・・・」
「いくらでも構いませんよ。」
「じゃぁ・・・初めは+1$。・・あはっ。ケチっぽい?」
 唯がそう言って笑う間に、画面には落札の文字が表示された。
「え?・・・もうタイムリミットなの?・・・ウッソだぁー・・・」
「ですから。・・主催者の特権でいくらでも金額を打ち出した時点で落札されるのです。例え希望金額に達していなくても、差額は『カオス』から支払われますので、心配いりません。」
「・・・かなり狡くない?」
「それが、組織の上に立つ、ということです。」
「なぁーんだぁ。競り合えないんじゃつまらないじゃん。」
 唯は疲れたように溜息を吐くと、布団に潜り込んだ。
 薬湯の成分が効いて、眠くなってきたようだった。
「こんな”お遊び”から始められればよろしいのです。総統になられることは、何も苦難の道という訳ではないのですよ。」
 拓磨は唯の頬にキスをしながら、囁くように言った。
「・・俺には・・・拓磨さんがアラジンのランプの精に見えちゃう。」
「ですが・・・願い事は3つに限定致しません。」
 拓磨は優しく笑って、唯の瞼にキスをした。
「・・じゃぁ・・一つ。・・・拓磨さんがずっと俺の側にいてくれること。」
「もちろんですとも。」
「・・二つ。・・・俺を残して・・・死なないでね。」
「・・・唯様・・・」
「約束だよ。」
「・・はい。・・・わかりました。」
「うん。・・・それでいいや。・・・お休みなさい。」
「お休みなさいませ。」
 拓磨は愛しさと満たされる想いに包まれ、しばらく唯の寝顔を見つめていた。
 それから、PCの画面を仕事用に戻し、指示を待っている部下への指令を打ち込み始めた。

 翌朝、落札した美しい鳥のさえずりで、唯が目覚めたことは言うまでもない。