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<31>〜<35>





<31>
「九条」
<31>「九条」

 大学の授業を終えて、唯は大河と別れて教授専用の駐車場へ向かった。
 そこに停めてある赤いフェラーリに乗り込む。
 隣りには大河のジープがある。
 彩香と落ち合って、のんびり話ながら来るのだろう。
 唯と大河が教授専用の駐車場を使うのは特別待遇だろうが、大学側の警備上の問題で仕方がないことだった。
 通学には電車を使った方が早かったが、それも警備が大変だからと言われ、渋滞で時間がかかっても車で通学するしかなかった。
 大学のキャンパスは自由に出入りが出来るようで、けっこう関係者以外の立ち入りには厳しかった。
 用のわからない者が入り込むと、5分とかからない内に追い出されてしまうのだ。
 他の大学はともかく、TK大学はR財団の支援を受け、理事にも加わっていることから、唯の周囲には常に警護の目を光らせていた。

 車に乗り込んだ唯がいつもの道順で運転していると、いつも以上に渋滞している交差点に出くわした。
 信号機の点検なのか、点滅する信号機をゴンドラに乗った作業服の男が何かしている。
 交通整理の警官が、唯の数台前で停まるように指示してから数分経過しているが、まだ動き出しそうもなく、ぼんやりと作業の様子を見上げて眺めていた。
 コンコンコンッ。
 車の窓ガラスを叩かれた気がして、視線を向けると、腰を折って覗き込んでいる九条と目があった。
 九条は唯が気付いたので、ニコリと笑みを浮かべた。
 唯が助手席の窓を開けると、
「どうも。お久しぶりですね。」
と、勝手に車のドアロックを外して、乗り込んできてしまった。
 唯が呆れて瞬きをしていると、
「少しお話がしたいと思いまして・・」
と、言ってから、
「あ、ほら。動き出しますよ。」
と、前に注意するように促した。
 唯が前を向くと、交通整理の警官が進むように指示している。
 そして、唯が車を走り出させて通り過ぎる時、敬礼をする警官に九条が軽く手を挙げて応えた。
 唯は前を向いたまま、訝しそうに眉を寄せた。
「・・・九条さん。・・・もしかして、この為にあの渋滞を作ってたとか?」
「ハハハッ。バレましたか。」
 九条は悪びれもせず、楽しそうに答えた。
「・・・他の人達まで巻き添いにするのは、どうかと思いますけど。」
 唯は玲奈のこともあって、含みをこめて言った。
「知らずにいれば、ただの日常的な事象にすぎません。気にするほどのことでもありませんよ。」
「でも、傷つく人が出る場合だってあるでしょう?」
「ああ・・・あのことですか。しかし、第三者を介して、アポイントを取るのは、大人社会では常識ですよ。あまり問題視する方も神経質というか、子供というか・・・」
「俺達は子供ですから。」
 唯はムッとして言った。
「これからは裏工作は大人限定にしてください。」
「あなたに普通に会わせて頂けるのなら、私共もこのような真似は致しません。病院の面会謝絶以上に警戒が強くて、お近づきにさえなれないのですからね。」
 九条は困ったものだと首を振る。
「今も申し上げたように俺は子供なんです。大人が会う必要も理由もない相手です。けれど、立場だけは大人にさえ頭を下げさせてしまう。・・・この矛盾が俺の負担になっているから、極力そうした大人社会との接触がないように、気遣ってくれているだけです。」
「だが、あなたは博士という称号を持つ天才でもあられる。子供とは言えないでしょう?」
「世界にはいくらでも十代の博士はいます。13歳の博士を大人と言う人はいないと思いますが?・・・俺も似たようなものです。」
 九条はフッと笑い、
「怒った顔もお美しい。」
と、手を伸ばして唯の頬を指先で撫でた。
 唯は溜息を吐き、
「どちらまで送ればよろしいのですか?・・俺はまだ通学路しか道を知らないので、指示して頂かないと家に戻るしかありませんが。」
と聞いた。
「中途半端な時間ですね。・・・一度あなたを招待したい料亭もあるのですが、この時間ではまだ開いてませんし・・・展望レストランでコーヒーでもいかがですか?」
「いいですけど・・・」
 唯は話し合いを拒否すれば、また作為的な機会を得ようとするだろうと思うと、九条の提案を受け入れるしかないと考えたのだ。
「帰宅が遅れると心配しますので、連絡は入れますが?」
「もちろん、そうして下さい。私も手配されては困りますし・・クククッ。」
 九条は可笑しそうな含み笑い洩らして言うと、唯に道を指し示した。

 ホテルの展望レストラン。
 VIPルームをチャージして、二人だけになれるようにした九条は、大きめの丸テーブルをわざわざ椅子を近付け、唯と肩がつくほどに接近して座った。
 唯は頬杖をついて、今にも雨が降り出しそうな空と、雲に突き刺さりそうなビル群を眺めている。
「間近で見るほどに美しさに感銘してしまうな。」
 九条は甘く囁き、唯の耳に軽くキスをした。
 唯はくすぐったそうに首をちょっとすくめると、
「・・・九条さんってスキンシップがモットーなの?」
と言って、頬杖をしたまま顔を九条に向けた。
 唯も間近で九条の顔をじっと見つめる。
 特に九条の目を不思議そうに観察している。
「私の目に興味がおありかな?」
 九条も頬杖をつき、一方の手で唯の頬から顎のラインをなぞる。
「・・・少しね。」
「冷たいとはよく言われるが・・・」
「そう?・・・でも、俺は好きだな。」
「それは良かった。」
 九条は目を細めて笑みを浮かべると、顔をゆっくり近付けて、唯の唇に唇を重ねた。
 触れ合った唇を少しずつ動かし、唯の唇を包んでいく。
 やがて、舌で唇を割って侵入させると、唯の舌を誘うように軽く吸う。
 繰り返し吸われ、唯も次第に応えるように舌を絡め始めた。
 静かな甘いキスがしばらく続いた。
 ほんの数ミリだけ唇を離した九条は、
「スイートにすれば良かったな。」
とかすれた息で言って、また唇を重ねた。
 唯は閉じていた目を半分ほど開けて、キスをされたまま九条の顔を見た。
 九条も目を開けたので、キスをしながらお互いを見つめ合った。
「・・ん?・・・どうかしたかな?」
 唯を子供ではないと言う九条も、こんな時は大人が子供を宥めるような言い方になっていた。
「俺は九条さんの求めることには応じられない。」
 九条はフッと笑みを洩らし、息が唯にかかる。
「スイートのこと?・・君の嫌がることをするつもりはないよ。ただ、もっと柔らかいソファーか・・柔らかいベッドで、リラックスして君との時間が過ごせたら・・・ここよりは素敵だろう、と思っただけだよ。」
「・・・ふーん・・・」
 唯は相変わらず、九条の目を見つめ続けている。
「クスッ。・・こんなに見つめられたのは初めてだな。・・・睨み合うことは、たまにはあるが・・・ククッ。」
「・・・綺麗な目だ。・・・な・・・」
 唯は、懐かしい、と言おうとして言葉を止めた。
 自分への好意を示している相手でも、九条のバックを思うと、ラーガの秘密を気付かれるのは困る。
 唯はふと我に返ったように体を引いた。
 それから冷めてしまったコーヒーを飲む。
 九条も残念そうな溜息を漏らすと、コーヒーを片眉をひそめて一口飲んだ。
「・・・九条さんって、キスが好きなの?」
「ん?・・・ハッハハハッ。相手次第だよ。・・・君の美しさが私を誘う、・・とも言えるかな。」
 九条は自分のカップをソーサーに戻すと、唯のカップを持たない方の手を握った。
 包み込むように握り、親指で唯の指先を撫でる。
「今度は俺を誘惑して利用するつもりですか?」
 唯が眉を曇らせる。
「誘惑出来るものならしてみたいね。・・私には彼等の目的など、どうでもいい。これほど美しい存在を前に、醜い妄執に駆られている彼等が愚かにさえ思えてくる。」
「醜い妄執?」
「・・・君を恋人に出来るなら、教えてもいい。」
 九条が悪魔の囁きのように甘い声で言う。
 唯は微笑んで首を振る。
「知る必要もないでしょう。関わらなければいいだけのことですから。」
「そうかな?」
 九条はうっとりと唯を見つめながら、握っていた手を両手に包み、顔に引き寄せてキスを始めた。
 手の甲を唇でなぞって指先まで、指先からまた手首まで、とキスを繰り返す。
「もう調査済みでしょうが、かの御仁は簡単に諦めるような人物ではありませんよ。目的を果たすまでは、付きまとうでしょう。」
 唯は煩わしそうに溜息を吐くと、自分の手を九条の掌の中から奪い返した。
「俺の学生生活をこれ以上侵害するなら、あなた方を敵と見なします。」
「とんでもない。」
 九条は心外だ、とばかりに首を振った。
「彼等はあなたの才能を欲しているのです。その為にお近づきになりたいと願っているだけです。・・・まあ、私個人としては、彼等の目的より、・・君が欲しい。」
「所詮、九条さんも敵方の人間。これ以上話すことはないでしょう。」
 唯が話を終わらせようとコーヒーを飲み干した。
「唯さん・・相手の目的も知らずに、敵と決めつけるのは偏見ですよ。」
 唯は顔を歪めて唇を噛んだ。
「一度、会って頂けませんか?」
「お断り致します。」
「かの御仁はあなたを天使の化身のように崇拝しているのです。」
「九条さんは先ほど醜い妄執と言われたでしょう?」
「妄執は誰でも持ち得るものです。それが、本人以外から見れば、醜く見えようとも。・・・私もあなたへの妄執に駆られる。・・・イギリスでお姿を垣間見た時から、ずっとあなたに恋してきました。」
 唯は九条の言葉が胸に刺さった。
 唯の追い求める夢も、人から見れば妄執に違いない。
 それともう一つ。
 唯がイギリスにいたのは、もう4年以上前のことなのだ。
 何故、九条がイギリスで自分と会ったのか。
 唯には九条の記憶がなかった。
「・・・イギリス?」
 唯が問い返すと、九条は唯に熱い視線を注ぎながら頷いた。
「あなたが博士になられたお祝いのパーティー会場に、私もおりました。」
「え?!」
 唯は目を大きく開いて瞬きをした。
「警備の関係で、会場の片隅で人陰から拝見していただけですので、お気づきになられなくても当然です。・・・それにあの時は、あなたが激怒されてすぐに退席されましたから・・・」
 唯は顔をしかめた。
 九条は冷たく光る獣の目を炎のように滾らせていた。
「あなたの美しさは例えようもなかった。・・・あの日から、私の心はあなたへの想いだけに占領されてしまった。」
 九条は唯の手を強引につかんで、自分の股間に押し当てた。
「・・なっ・・?!」
「あなたを想わない日はない。・・・あなたに恋をするのは無謀ですか?・・・あの時、あなたはイギリス人の学者の選民意識を非難された。・・・美しく燃える紫の光に包まれて・・・」
 九条は瞼に思い浮かべるように目を閉じた。
 唯が手を引こうとしても、ピクとも動かすことが出来なかった。
 九条が再び目を開けて、唯を見つめる。
「私は貧民の出なのです。」
 九条の冷たい眼が一層冷たく光る。
 その光に見つめられ、唯は取り憑かれたように体に力が入らなくなってしまった。
「私の暮らしていた町自体も貧民が溢れたうらぶれた町でした。早朝、わずかなお金を求めて缶や瓶を拾い集める時、飢えて行き倒れになった者や、人生に絶望して安い酒をあおり過ぎ死んでいった者を路上で見かけることも珍しくなかった。」
 唯は息を飲んで九条を見つめた。
 九条は淡々と話を続けた。
「権力のある者が弱者に向ける施し等、自分自身の気休めか、豊かさを求める一般人向けのパフォーマンスに過ぎない。磨き上げた高級な車が道路に乗り上げ、弱った老婆が車を避けようとしてふらついて、車に倒れ込んだ時、運転手はゴミのように突き飛ばした。怒った周囲の者が車を取り囲むと暴動者として、警察に逮捕されてしまった。」
 唯は言葉が出ずに震えていた。
「そんなことは日常的によくあることです。」
 九条は一笑に付した。
「結局、力をつけなければ、正当と思う意見を言うことさえ出来ないのが世の中なのだ、と・・・幼い私は、負け犬になって死んでいってたまるか、権力が正義ならば私も権力を手に入れてみせる、と心に誓いました。」
「・・・九条さん・・・」
「それからは、ひたすら屈辱に耐えて自分を磨き上げました。エリートになるには、後ろ盾のない者には努力しかない。もちろん、才能も必要かも知れませんが、裕福な家庭と貧しい者とでは学ぶ環境や基盤が違い過ぎる。幼い頃からの英才教育など、その日の糧を得るだけで必死な親に出来るはずもないでしょう?」
 唯は小さく頷いた。
「だから私は利用出来る物は何でも利用した。無料の施設は言うまでもありませんが、裕福な家庭の子がゴミとして捨てた本も拾って読みました。無料の施設でもあまり汚いとドブネズミのように追い払われてしまうので、真冬などは、学校の給食室に入り込みお湯を盗んで校舎の裏で北風に晒されながら体を洗った。」
 唯の目から涙が溢れてきた。
「同情は結構。這い上がると決意した私が選んだ道です。向かう壁が高ければ、這い上がる指の爪もはがれ血も吹き出すでしょう。それでも、歯で囓りついても這い上がりたかった。」
 九条は片頬で笑うと、唯の涙を吸うように頬に唇を滑らせた。
「そうして私は、中学・高校・大学と最高レベルの学校で首席を取り続け、権力の行使者である警視庁へと入ったのです。」
 九条は溢れ続ける唯の涙を押し止めようとするかのように、唯の瞼へとキスをした。
「だが、それでも私は勝利者ではなかった。」
 九条は眉間にシワを寄せて言った。
「親がエリートならその息子も簡単なデスクワークだけで出世していく。バックがなければ過酷な仕事で成果を上げても、なかなか認めては貰えない。どこまでいっても差別が付きまとう。自分を前に押し出すには汚い手も使うしかない。」
 九条は苦しげに息を吐いた。
「どこまでいけばいい。どんなに這い上がろうとしても、登れば登るほどに頂上は霞む。・・・権力のある者はより強大な権力を求めて、後ろ盾を固めていく。私の才能を認め利用しようとする権力者達でも、貧民出の私に縁談を持ちかけることは滅多にない。・・・たまにあるのは、散々遊びまくって誰からも相手にされなくなったようなボロ布のような女か、選びすぎて選ばれる時を逸してしまった十も年上の女。」
 九条は忌々しそうに首を振った。
 それから、再び唯に熱い眼差しを向け、
「どこまでいっても満たされないなら、私は何を求めたらいいのだろうと、挫折を感じ始めた時にあなたに出会ったのです。」
と、切なげに言った。
「あなたほど高貴な存在は見たことがない。身分とかの問題ではなく、私の心を震わせる存在として・・・あなたはたまらなく美しかった。」
 九条は股間に押し当てていた唯の手を、更に強く押しつけた。
 唯は逆らうことなく、九条の固い塊に掌を当てた。
「あなたに恋してはいけませんか?・・・あなたに愛を囁けるのは選ばれた者だけですか?」
 唯は静かに首を振る。
 九条は愛しそうに唯の頬を撫で、唇を重ねた。
 唯はキスに応えながら、九条に求められるままに股間をさすった。
 服を通しても、九条の熱い脈動が伝わってくるようだった。
「あなたを愛しています。」
 九条は熱い吐息で囁いた。
 唯はキスに応えながらも、困惑していた。
「あなたに恋をした時から、私の求める対象はあなたになった。・・・唯・・・君が欲しい。」
 唯は九条の気持ちにどう応えていいかわからなかった。
 自分に何が出来るというのだろう。
 九条の痛む心がヒシヒシと伝わっても、何をどう返せばいいかわからなかった。
 九条の傷ついた魂をどう癒せばいいのだろう。
 処方箋は見つからない。
 九条は、同情はするな、と言う。
 けれど、もし今、思いを受け入れたとしたら、それは同情になってしまうのではないか。
 唯の涙で霞む視界が淡い紫に染まる。
 九条も唯の瞳に燃える紫の炎に気付いた。
「・・・唯・・・私の想いは・・・君を苦しめるのか?」
 九条の辛そうな声が震える。
「九条さん・・・俺には・・・どう応えていいか・・・」
「・・・私が嫌いかな?」
 唯は首を振る。
「では・・・他に好きな人が?」
 唯の瞳の紫の炎が一段と強く燃え上がり、光彩を覆う。
「・・・この世には存在しない・・・」
 そこまで言いかけたが、言葉を途切らせ、目を閉じた。
 九条は瞬時に思いを巡らせ、
「ああ。・・・亡くなられたご両親が恋しいのか・・・」
と、優しく呟くと、唯を抱き寄せた。
「わかった。・・・君の魂はまだ・・・恋を理解出来ないほどに幼いのか・・・」
 九条は、勉学だけに専念してきた天才の心の幼さを、わかったような気がした。
 唯は少し違うと思いながらも、九条に言われると、そうなのかも知れない、とも思えてきた。
「・・・よく・・・わからない・・・」
 唯には首を振るしか出来なかった。
 九条は頷き、唯の顔を顎に手を添えて上げると、優しく口づけをした。
 それから、
「誰にも手に入れることが出来ないなら・・・私が否定された訳ではないことになる。・・・今はそれで納得しよう。」
と、唯を慰めるようにキスを繰り返した。
「けれど・・・私は諦めないよ。」
 唯は悲しみを湛えた紫の眼差しで九条を見つめ、静かに微笑んだ。
 否定も肯定も出来ない時、相手が傷つかないで済む方法は、決して嫌いではないのだと伝える微笑みしかなかった。
 人は冷たいとも優しいとも言うが、唯に出来る精一杯の想いだった。

 九条は唯が落ち着くまで、そっと抱き締めて背中を撫でていた。
 そして、唯の紫の目が弱まってきた時に、
「また会ってくれるね?」
と聞いた。
 唯は頷いて、自分の携帯の番号を教えた。
「父と他数名しか知らない番号です。」
「わかった。他に洩らしたりはしないよ。」
「・・・でも・・・大丈夫?」
「ん?何が?」
「だって・・・九条さんも人に使われている立場だと・・・秘密を持つのはマズイでしょう?」
 九条は少し驚いた顔をした。
「私を心配してくれるのか?」
「キスまでしたら・・・友達以上、恋人未満でしょう?」
 唯がフワッと微笑んだ。
「・・・確かに。」
 九条は愛しそうに唯の頬を撫でた。
「もし、立場的に困るなら教えてもいいよ。」
「・・・私が教えたくない。」
 九条はもう一度唯を抱き締めると頬ずりをしながら、
「あぁ・・・ずっと、こうして腕の中に抱いていたい。・・・このまま手放さずに一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。」
と、熱い想いを吐露した。
「・・・九条さん・・・」
「いや。・・・気にしなくていい。・・・愛する君を追い詰めたくはないからね。」
 九条は唯を離すと、じっと見つめた。
「・・・やっぱり・・・綺麗な目をしてる。」
「ハハハッ。そんなに気に入ってくれたなら、私が死ぬ時にはこの目を君に捧げよう。」
 九条は軽く笑って言ったが、唯は笑えなかった。
「悪い冗談だったかな?」
 九条は唯の頭を小さい子のように撫でた。
 それから、唯の目が元に戻ったのを確認して、ホテルを後にした。
 唯は九条を警視庁まで送り、帰路に着いた。

 マンションに戻った唯に、心配していた冬馬が説明を求めたが、
「九条さんって、悪い人じゃないよ。」
とだけ言って、部屋に引き篭もってしまった。
 冬馬が拓磨に報告したのか、拓磨からもすぐに電話が入ったが、やはり同様のことを言って、それ以上の会話をしたがらなかった。
 拓磨が色々質問をしても、ただ、
「――ごめんなさい。今は話したくないんだ。――」
と返すだけだった。
 拓磨が溜息と共に通話を切ると、唯は携帯を胸に抱いて、もう一度、
「ごめんなさい。」
と呟いた。

<32>
「駄々っ子」
<32>「駄々っ子」

 唯が物思いに耽ることが多くなった。
 お気に入りのカウチソファーで読書をしていても、いつしか片足をあぐらにした上に本を乗せて、肘掛けに頬杖をつき、半眼に開いた眼差しで遠く深い異世界を見ているように、心をどこかに彷徨わせてしまう。
 それから、ソファーの背もたれに大きくもたれかかり天井へ顔を向けると、天井より遙か高みへ視線を投げ、何かの答えを見つけようとするかのように、瞳を揺らめかせるのだ。
 やがて、目を閉じて大きく溜息を吐くと、自分の部屋に籠もってしまう。
「唯の奴、どうしちまったんだ?」
 その様子に声を掛けられずにいた大河が、冬馬に聞いても、
「さあな。」
と、軽くいなされてしまう。
 大河は最近、唯と行動を別にしていたので、唯が九条と会ったことをまだ知らなかった。
 ただ、唯が物思いに耽るようになってから、冬馬まで難しい顔で考え込むようになっていた。
 取り残された気分の大河だったが、冬馬には今、大河を気に掛けてやれるだけの気持ちの余裕がなかった。
 唯の様子があまりにも異様なのだ。
 まるで恋の熱に浮かされてしまっているかのように。
 九条に恋をする、などと言うことが有り得るのだろうか。
 もし、そうだとしたら、あまりにも危険だった。
 若い頃の恋は火傷のようなもの、と恋の熟練者達は言うが、命を奪う火傷だってあるだろう。
 まして九条のバックを思えば認めてやれるわけがなかった。
 こんなことなら、大河の恋心を応援してやった方が良かっただろうか、などと勝手なことも思ってしまう。
 だが、そう思い通りにいかないのが、人の心というものだろう。
 唯自身には自覚はないかも知れない。
 けれど、行動を監視されていることを煩わしがるようになったり、発信器を持つことを嫌がるようになるなど、これまでにない反発を示すのは自我の目覚めであり、恋の始まりのような気がした。

 拓磨には予感があったのだろうか。
 唯が、「九条の目はラーガに似ている。」と言った時、あれほど冷静沈着な男が動揺を隠せずにいた。
 唯の変化を拓磨に報告すると、しばらく黙り込んだ後、沈痛な溜息を吐いて、「当面様子を見るしかない。」と言った。
 少しでも反対しようとすれば、過敏に反応してしまうだろう。
 心配して言う言葉も頑なに拒絶し始める。
 唯が拓磨や冬馬を拒絶し、総統へも背を向けるようになったら、どうなってしまうのだろう。
 唯は組織を知らない。
 だが、組織は唯を必要としている。
 唯が組織を拒絶したら、組織の統制は崩れていってしまい兼ねない。
 総統の絶対愛によって決定された跡継ぎ。
 誰もがそう納得している。
 天使のように優美で慈悲に満ちたシンボル。
 唯だからこそ、誰も文句を言わず、心から崇拝出来るのだ。
 唯が拒絶したら、一気に勢力争いが起きてしまうだろう。
 それだけの負荷を負わせているからこそ、なるべく負担を軽くしようと外部からの接触を阻んできたのだ。
 九条がこれほど唯の心を捉えてしまうとは計算外だった。
 監視はしないから安全の為に発信器は持っていて欲しい、と何とか納得させていたが、唯は明らかに嫌そうな顔をした。
 早めに散歩を済ませて、「夕食は御馳走になるから。」と数時間出掛けて行った時は、赤坂の有名な料亭だった。
 今日、土曜日の午後を数時間、ホテルで過ごして帰ってきたこともわかっている。
 そうした行動を知られていることに、唯が抵抗を感じてしまうのも、無理ないとは思うが、所在だけは把握していないと、冬馬としても不安だった。
 所在がわかるからこそ、唯の自由な行動も保障されるのだ。
 冬馬の持っている受信機にはマンションから半径50km圏内の詳細な地図が映し出されるモニターがついていて、唯が半径50km圏内を出ようとすると警報が鳴る。
 受信機で捉えている情報はリアルタイムで拓磨のいる本部に送られ、何かあった時にはすぐに指示が出るシステムになっている。
 冬馬が常にモニターを監視するのは無理だったが、本部が24時間体制で監視していた。
 唯の発信器は半径100km圏内なら探査出来る高性能の物なので、組織の各支部にある受信機でも捉える事が出来、日本にいる限り、行方がわからなくなる心配はなかった。
 そして、その所在に合わせて、警備体制を敷いていたので、一見何のガードもしていないような自由な行動も可能にしていたのである。
 この事実を唯が知れば、もっと嫌がるだろう。
 今は必要な時に冬馬や拓磨が唯を探せるシステムくらいに思っているだろうが、自分の知らない所で知らない人間が常に監視し、どのホテルで何時間過ごしたか、という事まで把握されていると知ったらたまらないだろう。
 だが、そうまでしても守らなければならない存在だった。
 世界を三分する巨大組織の頂点にいるのだ。
 普通で平凡な生活を望んでも、用意された器の中でしか許されなくても仕方がなかった。

 夕食後、唯の微かな声が部屋から洩れてくる。
 以前は拓磨と電話で話す時だけだったが、この所頻繁に電話がかかってくる。
 夜、冬馬や大河と話をしている途中でも、電話がかかってくると急いで部屋に行ってしまうことがある。
 大河はまだ、唯が拓磨と内緒話をしている、くらいに思っているようだ。
 恋敵が現れているというのに間抜けな奴、と冬馬は、彩香とのデートにうつつを抜かしている大河に呆れてしまう。
 まあ、所詮は叶わぬ恋と諦めるなら、それはそれで構わないが、後で八つ当たりはするなよ、と内心で舌打ちをする。
 今の所、唯はルルとレイドの散歩は欠かしてないし、身体的変化も顕著には見られない。
 ホテルでの滞在も肉体関係にまでは及んでいないらしい。
 それでも想いが傾斜しているのは明らかに思えた。
 深入りする前に何とかしなければ、と焦る思いは拓磨にもあるようだった。
 夜11時を過ぎて、拓磨が特殊回線での通話を求めてきた。

  ―「深夜に申し訳ありません。」
 そう言う拓磨の、キチッとしたスーツ姿は、仕事から上がったばかりのように見える。
「まだ、お仕事だったの?」
 唯がルルの耳を掻きながら気遣うように聞いた。
 拓磨は優しい笑みを浮かべ、
―「ご心配には及びません。・・甚平、気に入って頂けたようですね。」
と、目を細めた。
「うん。これ着ると気分がさっぱりするね。」
 唯はすでに当日電話で礼は言ってあったが、拓磨に着た姿を見せようと、わざわざ着替えたのだ。
―「よろしゅうございました。」
 拓磨は愛しげに頷いた。
 こうした会話を見ていると、冬馬は総統と唯以上の深い絆を二人に感じるのだった。
 拓磨が個人的に唯を求めれば、九条など出てくる幕などないようにも思えるのだが、拓磨には唯が大切過ぎて私的に求めることが出来ないのかも知れない。
「夏休みのバイトだけど、ダディは拓磨さんが許可するならいいって言ってたよ。」
―「私も基本的には反対しませんが、唯様が提示された病院はどれも問題があるように思えます。こちらで探してはいけませんか?」
「・・・あまり期待される所も困るんだけどなぁ・・・」
 唯が、どうしよう、と大河を見る。
「予備知識がないと危険だっていうのは確かにあるだろうな。」
 大河は今回は我を通すつもりはないらしい。
 玲奈の一件で、少しは立場がわかったのだろう。
「そっか・・・」
 唯も大河が反発しないなら、拓磨の指示に従う気になったようだ。
「じゃぁ、いくつか候補地を教えて貰える?」
―「かしこまりました。後日、ファックスで資料をお届け致します。」
「よろしくお願いします。」
 唯が軽く頭を下げて微笑んだ。
 と、その時、唯の携帯が鳴った。
「あ・・ごめんなさい。」
 唯が慌てて携帯に出る。
「――唯です。――ごめん。今、ちょっと話せないから・・――うん。後でかけていい?――うん。わかった。じゃぁ、後でね。――」
 大河は訝しげに眉を寄せた。
 総統相手にこんな言葉は使わないだろう。
 だが、相手は拓磨でも冬馬でも自分でもない。
 (他にこんな会話をする相手が一体どこにいるんだ?)
 拓磨はじっと待っていた。
 そして、唯が携帯をしまってから聞いた。
―「どなたからの電話ですか?」
「・・・九条さんだけど・・・」
 一瞬躊躇った唯が仕方なさそうに答えた。
 大河は愕然として唯の顔を食い入るように見た。
 拓磨はすでに察しがついていたようで、静かに頷いた。
―「最近、随分親しくされているようですね?」
「それほどでもないよ。・・まだ、二人だけで会ったのは三回だけだし・・・」
「三回?!・・・二人だけだって?!」
 大河がソファーから立ち上がって叫んだ。
―「大河。話の腰を折らないように。」
 拓磨が眉をひそめて窘め、冬馬も、
「大河。今はおとなしくしてろ。」
と、厳しい口調で言った。
 (冗談じゃねぇぇぇぇー!)
 大河は心で叫んだが、二人の大人の訳知り顔に自分の迂闊さを気付かされ、煮えくり返る腸をどうにか押さえ込んだ。
 だが、ソファーに座り直しても、唯の横顔を、怒りを露わに睨み付けている。
―「それで、・・東郷には紹介されたのですか?」
「まだだけど・・・」
―「東郷は強欲で自分本位の男です。総統が付き合いを避けておられるには訳があるのですよ。」
「うん。・・そうらしいね。九条さんも、東郷は好きじゃないって。」
―「好きではなくても、お互いを利用し合っている利害関係にあるのは事実です。東郷が唯様に執着している以上、何らかの接触は求めてくるでしょう。」
「・・・多分ね。」
―「その時、どうされるおつもりですか?」
「・・・会ってはダメ?」
 唯が訴えるように拓磨を見る。
―「総統の御意志に背かれるのですか?」
 拓磨は、いけません、というように首を振った。
―「九条も東郷の為に、これまでかなり危険な橋を渡ってきていますし、もう抜け出せる状態ではないようです。切り離して考えるべきではありません。」
「九条さんは悪い人じゃないよ。」
―「唯様にとってはそうでも、世間から見れば充分に罪深い男なのです。」
「その世間が九条さんに何をしてくれたって言うんだ!」
 今度は唯が声を荒げた。
―「唯様。落ち着いてください。・・・私も正義を振り翳すつもりはありません。ですが、悪徳の深みに嵌ってしまった危険な人物と、唯様が近付かれることは賛成出来ません。」
「・・・嫌だ。・・・嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
 唯は頭を激しく振ってから両手で抱え込んだ。
 大河は呆然と唯を見ていた。
 これほど激しい感情を拓磨にぶつける唯は初めてだった。
「・・・拓磨さんまで・・・俺から大事な物を奪うのか・・・」
 呻くような唯の言葉に、拓磨は唇を噛んだ。
―「唯様。・・・九条は九条なのです。御理解ください。」
「わかってる!」
―「いいえ。わかっておいでではありません。」
「わかってないのは拓磨さんの方だよ。・・・九条さんが、どれだけ辛い生き方をしてきたか。・・・どんなに魂を傷つけてきたか。」
 顔を上げた唯は紫の炎を燃え上がらせていた。
―「唯様。九条の過去は調査して存じております。心を痛められる唯様のお気持ちもわからなくはありません。」
「調査くらいで人の心の痛みがわかるもんか。」
―「私は九条個人を非難しているのではなく、唯様に危険をもたらせる存在として懸念しているのです。」
「危険でもいい。・・いや、むしろ・・・俺が危険なら、九条さんも危険な立場にいるってことだろ?」
―「九条が自分で選んだ道でしょう。」
「選ばざるを得なかった道なんだ。・・・だから、何としても助けたい。・・・普通に笑って楽しく暮らせる生き方をさせてあげたい。」
―「唯様・・・」
「自分の安全の為に、傷ついている人を見捨てるなら、俺はもう医者ではいられない。」
―「助からない患者もいます。」
「九条さんの魂はまだ生きている。腐りきってはいないんだ。・・・俺が九条さんの支えになれるなら、どんなことでもする。東郷に会ってもいい、と思ってるよ。」
―「唯様は東郷が何を求めてるか、ご存知なのですか?」
「そんなのは、会ってみなきゃわからないだろ。」
―「わかっております。」
 拓磨は暗く沈んだ顔で深い溜息を吐いた。
―「・・・ですが、唯様が苦しまれるだろうと伏せてきました。」
「・・・わかってる・・・?」
―「はい。東郷にごく近い者から聞き出しました。」
「・・・で?」
―「東郷は自分のクローンを誕生させ、自分の脳を移植して、若い肉体を手に入れようとしているのです。」
 唯は絶句して拓磨の顔を見つめた。
 大河もドキッとして唯の様子を窺う。
―「散々好き勝手にエゴを通してきてもまだ足らず、若い生命力を手に入れて、強欲の限りを尽くそうというのです。これまでに踏みつけられてきた弱者に、更にむち打ち虐げようとする者を、何故助けなければいけないのです?」
「・・・九条さんは違う。」
―「同じです。」
「・・・九条さんが弱者に厳しいのは・・・自分の血の滲む努力を、努力しない者にどうして分けなければならないのか、・・・って・・・それで、弱者にも厳しくして、甘えない意識を持たせたいのだ、って・・・」
―「厳しいのと苦しめるのは別です。甘やかさないのと虐待も違います。九条にその気持ちがないとしても、東郷に協力する以上、関係ないとは言えないでしょう。」
「東郷と九条さんを切り離せばいいんだろ?」
―「私もその方法がないかと検討しましたが、癒着が強すぎて切り離すのは無理でしょうね。」
 唯は無理じゃない、と首を振る。
―「九条の裏切りを東郷が知れば、秘密を知りすぎている九条を抹殺しようとするでしょう。私達が妨害して九条を守ったとしても、今度は失脚させる為に九条に不利な情報をあちこちに飛ばすでしょう。・・・命を守ったとしても、社会的生命は断たれます。九条の血の滲む努力もそこで終わりということです。」
「じゃぁ、どうすればいいって言うんだ?」
―「唯様が関わらないことです。・・・出会う以前の関係に戻れば、九条も墓穴を掘るまでは生き長らえることも可能でしょう。」
「・・・魂が食い荒らされていくのを、何もせずに見てろと?」
―「・・・遅すぎたのです。」
「嫌だ!」
 唯は床に踞り、両手を床に打ち付け始めた。
「嫌だ!・・嫌だ!・・嫌だぁぁ!!」
「唯・・・落ち着け。」
 大河が唯の背中を抱き込むようにして押さえつける。
 怒りや嫉妬よりも、唯の状態が心配だった。
 唯は激しく身悶え震える。
「いつも手遅れになる。・・・いつも助けられない。・・・いつも為す術がないんだ。・・・俺は・・・なんの為に医者になったんだ。・・・パパは魂を愛せよと言ったのに・・・俺は・・・誰も救えないんだ。・・・そんなの・・・認めないーー!」
 唯は身を捩って拘束を解こうとする。
「唯。俺達に助けられる患者は他にもたくさんいるぜ?俺達が手を差し伸べるのを待っている患者は九条だけじゃないだろ?」
 大河はしっかりと抱き包んで離さない。
「助けられる相手しか助けないのか?」
「バカか?助けられる相手だって助けなきゃ助からないだろうが。」
 唯は呻いて床に頭を叩き付ける。
「どうせバカだ。・・・どうせバカだぁぁぁ!」
「駄々をこねるのもいい加減にしろよ!」
 大河が片腕で唯を抱きかかえるようにして、もう一方で頭を保護する。
 冬馬もハッと気付いて、唯が暴れないように押さえた。
 唯は押さえ込まれてどうにもならなくなると、今度は泣きじゃくりながら、
「なら・・・九条さんの恋人になる。一緒に落ちるとこまで落ちてやる。」
と言った。
「アホォ!!医者がいちいち末期の患者と心中してどうなるって言うんだ?!何人の患者を恋人にする気だ?!」
「・・・大河に言われたくない・・・」
 唯がボソリとこぼす。
「俺は患者に恋なんかしねぇ。好き嫌いで患者を区別してたまるか。」
「・・・九条さんは特別なんだ。」
「それこそ差別じゃねぇのか?!」
「だって・・・だって・・・九条さんといると・・・ラーガといるみたいなんだもん。」
「結局それかよ?・・あんな奴と一緒にされたらラーガが怒るぞ。」
「だって・・・」
 唯は一層激しく泣きじゃくる。
「冬馬さん。唯はもう話にならねぇ。部屋に連れていって落ち着かせてくれ。」
「大河は?」
「ちょっと、拓磨さんと話がある。」
 冬馬は一瞬眉をひそめたが、
「わかった。とにかく唯様にはお休み頂こう。」
と、唯を軽々と抱き上げた。
 それから、拓磨にお辞儀をして、拓磨が頷くのを確認し、唯を部屋へと連れていった。
 大河はリビングに一人になると、拓磨に向かって言った。
「拓磨さんも意地悪ですね。」
―「ほう?・・・九条に関しては意見が一致していると思ったが。」
「東郷が世にはびこる癌なら、始末しちまえばいいだろう?そうすりゃ九条だって開放されるぜ?」
―「我々は正義の番人ではないのですよ。」
「唯を泣かせねぇ為だろが。正義なんか関係ねぇよ。」
 拓磨は目を眇めて大河をじっと見つめた。
 大河も見つめ返した。
―「・・・総統と相談してみよう。」
「そうしてくれ。」
―「それで、九条が開放されて唯様と結ばれたら、どうする?」
「させるか!」
 大河がキッとして断言する。
 拓磨は苦笑し、やれやれ、と首を振ると、何も言わずに通信を切った。
「あっ・・・ちぇぇっ、可愛くねぇ奴だぜ。」
 大河は舌打ちをして忌々しそうにこちら側のスイッチもOFにした。

 大河が唯の部屋を覗くと、唯は枕に顔を押しつけて泣いていた。
 冬馬が添い寝して唯の背中を撫でている。
 ルルとレイドも唯に体をつけるようにしている。
 大河は大股に唯の部屋に入って来ると、サイドボードに置かれた唯の携帯をつかんで、壁に渾身の力を込めて叩き付けた。
 ガチャッ!っと砕けるような音がする。
 唯がハッと顔を上げ、冬馬も呆気に取られて目を丸くしていた。
「大河!」
 唯が泣き顔で叫ぶと、
「うるせぇ!気に入らねぇんだよ!」
と、言い残して、大河は部屋を出て行った。
「バカヤロー!」
 唯の叫び声をドアで閉じ込め、大河は、
 (お前ぇがバカヤローだぜ。・・・ったく、とんでもねぇ、駄々っ子だ。)
と、舌打ちをした。

<33>
「激情」
<33>「激情」

 夜中、2時も過ぎた頃。
 冬馬が唯の部屋から出てくるまでリビングで待っていた大河も、冬馬が自室へ行ったのを見届け、自分の部屋に戻り微睡みかけた時、微かな話し声が聞こえてきた。
 大河は音をさせないように、そっとドアを細く開けた。
 聞こえてきたのは唯の鼻にかかった涙声。
「――ごめんね、遅くなって。――寝てたら悪いとは思ったけど、約束してたから気になって。――待ってたの?――だって、それじゃ悪いよ。――うん。・・ごめんなさい。――」
 唯がマンションに設置されている電話で話しているのだ。
 普段はあまり使うこともない電話だったが、大学の書類には連絡用として、この番号を載せていた。
 (相手は九条か・・・)
 大河はフツフツと怒りが込み上げてきたが、グッと堪えて、話の内容を聞くことにした。
「――ちょっと喧嘩して・・・――あ、うん。大河とだけど・・携帯壊されちゃったんだ。――ううん。喧嘩はいつもしてるし、たいしたことじゃなかったんだけどね。――あいつバカ力だからさ。――」
 (おい!俺は”あいつ”かよ。)
 カチンときた大河だったが、拓磨との通信には触れない唯の、拓磨への気遣いもわかるので我慢してやることにした。
「――ん?・・・何でもないよ。――」
 軽く話そうとする唯だったが、
「――・・・そんなに優しくしないで・・・――」
 次第に声が震え、
「――九条さんのせいじゃないってば。――」
 鼻を啜り上げて、切なそうに溜息を吐く。
 (唯。お前・・・そんなに九条が好きなのかよ?!)
 唯の声が、まるで恋人に甘えるような切ない響きを持って、息遣いまでが甘く狂おしげだった。
「――うん。多分行けると思うけど・・・――ううん。絶対行く。――だって、俺も九条さんに会いたいもん。――」
 (明日、いや、今日のことを約束していたのか?)
「――うん。9時で大丈夫だよ。――うん。ちゃんと寝るから・・・――うん。心配しないで・・・――はい。・・お休みなさい。――チュッ。――」
 (キスまでするのかぁぁぁーー!!)
 大河は握り拳をプルプルと震わせていた。
 (ちくしょう!ぜってぇー行かせねぇぞ!!邪魔してやるーー!!)
 大河は唯の気配が唯の部屋に消えるまでじっとしていた。
 それからドアを閉め布団に戻ったが、激しい嫉妬に体中の血が沸き立つようで、目眩を感じた。
 (唯は俺のもんだ!九条なんかに渡してたまるかー!!)
 歯を食いしばって、叫びたい衝動を堪えた。
 そして、大河は眠れぬ夜を明かした。

 朝になり、大河は何喰わぬ顔で、唯と犬の散歩に出掛けた。
 唯はほとんど大河とは口をきかなかった。
 携帯を壊されたのだから当然の反応とも言える。
 マンションに戻り、シャワーを浴びた後、冬馬と三人で朝食のテーブルを囲んでいた時に、
「なぁ、唯。昨日は悪かったよ。」
と、大河が言った。
 唯が焼きたてのクロワッサンを千切って口に入れ、黙って噛みしめながら大河に視線を向ける。
 不機嫌さが伝わってくる表情だ。
「携帯ないと、不便だもんな。今日、買いに行かないか?」
 唯はコーヒーを飲んでから、首を振る。
「服とかも買いたいしさ。靴ももう少しないと、・・・雨で濡れたのは乾くまで履けないしな。」
「一人で行けよ。」
「お前も必要だろ?それに、ほら、携帯もお前が自分で選んだ方がいいだろ?だから、一緒に行こうぜ?」
 唯は眉を曇らせ、黙ってコーヒーを飲む。
「お前もたまには街に出ないと、カビ臭くなっちまうぞ。・・なぁ、冬馬さん?」
 大河は唯が無言の拒否を続けるので、冬馬に助けを求めた。
「そうだな。・・・唯様。たまには一緒に出掛けましょうか?」
 冬馬がにこやかな笑みを唯に向ける。
 唯は、え?、と困った表情になった。
 大河は無視しても、冬馬までは無視出来ない唯だった。
「・・・でも、俺・・・」
「一つのことに拘ってしまうと、思考のバランスも取れなくなります。一歩引いて、落ち着いて全体を観察してみることも、時には必要ですよ。」
 冬馬の穏やかな言葉に、唯はじっと冬馬を見つめた。
「唯様にこのようなことを申し上げるのも僭越だとは思うのですが・・・自分自身に、そう言い聞かせる時が多かったものですから。」
「冬馬さんが?」
「はい。総統の膝元で働く以前には色々な場所に派遣されました。・・調査のような仕事でしたので・・」
 そこで冬馬は軽く笑った。
 特殊部隊の特殊任務とは言えない。
「深いジャングルでは視界の全てが密集した植物で覆われてしまうこともあります。目的は前へ向かうことでも、闇雲に前進していては行き詰まることもしばしば。・・そんな時には少し後退しても、横に移動しても、自分がどのような状況にあるかを判断した方が、結果として目的に近付けるものです。」
 唯は、なるほど、と感心して頷く。
「複雑な図面で短時間に完成させなければならない物がある時もそうです。焦ると手元が狂うばかりか、細かい部品が見つからなくなったりして益々焦ってしまいます。それがなければ、先へ進めない。追い詰められた者が焦って、変わりになる部品を自分で作ってしまった。・・・落ち着いて、ちょっと離れて見れば、足元や自分の体の一部に引っかかっている場合がほとんどなのに、完成させようとする物にばかり気持ちと目線が行ってしまって気づけないのです。」
「オペもそうだよな。」
 大河が腕組みをし、うんうん、と頷いた。
「そして、代用の部品で誤魔化してしまった者は・・・その代償を10分後に、自分の命で支払いました。」
 唯は驚いて瞬きをする。
「極端な例とお思いでしょうが、こうしたことは実際、いつでもどんな場面でも起こり得ることなのです。」
「そうそう。」
 大河もその通りと、賛同する。
 真剣な顔をして話していた冬馬が柔らかく笑う。
「ですから、唯様も思い詰めたりなさらずに、気分転換をされるのもよろしいかと思いますよ。いかがですか?」
「・・・わかりました。」
 唯は目を伏せて、静かに頷いた。
 思いが叶って得意顔な大河は別として、滅多に過去は話さない冬馬が辛い経験を語ってくれた気持ちを思うと、自分の思いばかりを押し通す訳にもいかないと考えたのだ。
 それに、自分が反発ばかりしていると、九条までが余計に悪く言われてしまいそうに思えた。

 今日は九条の住んでいるマンションに遊びに行く約束をしていた。
 欧州での研修時代に憶えた料理を御馳走したいからと、唯の大学の休みに合わせて、日曜日を完全オフにしてくれた。
 日曜日をプライベートで完全オフにすることはほとんどないらしい。
 なにも九条は汚い手口だけで昇進の階段を昇ってきたのではないのだ。
 寝食を忘れて仕事に励み、気配りを欠かさず、休日も上司の為に費やしてきたからこそ、認めて貰えた結果だった。
 それを、唯が招待を了承すると、嬉しそうに笑って、「最高の休日にしようね。」と言ってくれたのだ。
 無邪気なほどの喜びように、唯も可笑しくなって一緒に笑った。
 そんな約束を破ることになってしまう。
 自分の裏切りが、また九条の魂を傷付けてしまうだろう。
 冬馬や大河と出掛けることを承知した唯だったが、九条のことを思うと胸が痛くなった。
 着替えの支度をする時、唯は大河の部屋からこっそりと大河の携帯を借り出し、自分の部屋から九条に電話した。
「――今日、行けなくなっちゃったんだ。――買い物に行くって。――ごめんなさい。――」
 九条の声は明らかに残念そうだったが、それでも唯を気遣うように優しく話してくれている。
 唯は九条の優しさが余計、胸に痛くて、声が涙ぐんでしまう。
 九条は、泣くことはないからね、と言ってくれる。
 唯が九条との交際を反対されていることを、感づいているのかも知れない。
「――お昼も外で食べるって言うから・・・夕方になるかも・・・――うん。――そう。帰っても・・・出られないかも。――好きだよ。――会いたくてたまらない。・・・でも・・・――うん。――うん。わかった。――ごめんね。――」
 九条は怒ることなく納得してくれた。
 唯が涙を拭って部屋から出ると、冬馬と大河が支度を済ませて待っていた。
「では、行きましょう。」
 冬馬は唯の潤んだ涙目に気付いていたが、気付かないフリをした。
 大河は、
「おい。俺の携帯は?」
と、ムスッとして言った。
 唯は無言で投げて渡した。
 大河が小さく舌打ちしたが無視して、ルルとレイドの頭を撫でながら留守番を頼んで、玄関に向かった。

 一日中、重い雲が垂れ込め、雨が降ったり止んだりを繰り返す重苦しい天気だったが、夕方くらいからは雨足が強まり、時々雷も鳴り出していた。
 あれこれと買い物を済ませ、マンションに戻った冬馬が車を駐車場に進めようとした時、地下駐車場の入り口に人が飛び出した。
 雨が降りしきる薄暗がりの中、車のベッドライトに浮かび上がった姿は、ずぶ濡れになった九条だった。
「九条さん?!」
 唯が大河の制止を振り切って、車を飛び出した。
「・・・どうしたの?」
 激しく打ち付ける雨で、セットの跡形もなくなった九条の髪が、額や頬に張り付いている。
 サマーセーターも水分を含んで肌に張り付いている。
 一体、どれほど雨の中で待っていたのだろう。
 唯が指で九条の髪を後ろに撫でつけようとすると、その手を九条が愛しそうに握って、恭しくキスをする。
「一目・・・会いたくなって・・・」
 九条が苦しい想いを押さえるように笑みを浮かべ、何でもないことのように普段のままに言う。
「・・・九条さん・・・」
 唯はたまらずに九条の胸に抱きついた。
「俺も会いたかった。」
 九条は唯の髪を何度か撫でた後、唯の肩をつかんで自分の体から離し、
「唯が濡れてしまうよ。」
と、苦笑する。
「・・・九条さん・・・歩いてきたの?」
「ハハッ。まさか。・・ただ、部外者の車ではマンションの敷地に入れないらしいから、ちょっと離れた場所に停めてきた。」
「・・・それで、ずっと外で待ってたの?」
「・・唯に会えることを思えば、何でもないよ。」
 九条は、フッ、と笑って、唯の頬を撫でる。
 唯の頬も濡れて雨と涙の区別がつかなかった。
 それでも、熱い涙が溢れる度に、九条の指に熱が伝わった。
「唯・・・泣かないで・・・私は幸せだよ。」
 唯はもう一度、九条にしがみついた。
 大河が車から降りてきて、引き離そうと唯の肩をつかむ。
「唯!いい加減にしろ!」
 嫉妬もあって大河の声は唯を責める口調になっている。
「どっちが!!」
 大河の手を振り払って振り向いた唯は、激しい怒りで暗がりにも鮮やかなほどに紫の炎を燃え上がらせていた。
「・・・唯・・・」
 大河は自分へ向けられた唯の敵意が悲しかった。
 (お前を思う俺の気持ちがわからないのか?)
 大河はわかって欲しくて唯の腕をつかんだが、唯は更に拒んで腕を振ると、大河を睨み付けた。
 それから九条に向かって、
「九条さんと行きたい。・・・連れてって。」
と、切なそうに懇願した。
「・・いいのか?」
 九条が躊躇いがちに聞く。
 唯は、頷いて、
「九条さんといたいんだ。」
と言った後、振り返り、車の側で佇んでいる冬馬に、
「俺、今日は九条さんのとこに行くから。」
と叫んだ。
 本当は朝、そう言いたかった言葉だった。
 唯は九条の手をつかむと、
「早く!」
と言って、走り出した。
 九条の手を引っ張りながら、門を抜けて外へと向かう唯は、少年のように明るい笑顔だった。
 九条も唯の気持ちが嬉しくて、
「アハハッ。じゃぁ、車まで競争しよう。」
と、唯に負けじと走り出した。
 土砂降りの雨の中、唯と九条のじゃれ合うような笑い声が遠ざかっていく。
 取り残された大河と冬馬は、二人の笑い声が雷鳴にかき消された後、聞こえなくなっても、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

 九条のマンションは、上昇志向のある九条としては意外なことに、下町の雰囲気がある所に建っていた。
 室内は機能性を重視した簡素なもので、余計な装飾品はなかったが、落ち着ける雰囲気はある部屋だった。
 ずぶ濡れになった服を脱ぎ、二人で熱いシャワーを浴びた。
「服は洗ってから乾燥させよう。都会の雨は汚れてるからね。」
 唯の体を、宝物を扱うように丁寧に洗いながら、九条が言った。
「車の中もびしょびしょにしちゃったね。・・・どうしよう?」
 唯が心配そうに聞くと、
「仕事では使わない車だから、乾くのを待つよ。」
と、九条が唯にキスをして答えた。
 唯がもっとキスをねだるように、九条の背中に腕を回して胸を合わせた。
 九条も唯を抱き締めて、更に熱いキスをする。
 体を合わせる二人の間に、九条の勃起した男根が挟まれている。
 唯を抱き締める九条の体が微妙に左右に揺れる。
 唯の肌と自分の肌で、男根を擦っているのだ。
 唯は九条に体を委ねて甘いキスに浸っている。
 九条は、片方の腕を下へズラして、唯の腰を自分の方へと強く引き寄せ、一層強く体を押しつけて擦り始めた。
 キスが激しくなり、息遣いも荒らくなる。
「あ・・・ぅぅぅ・・・はぁぁ・・・」
 九条が唯をきつく抱き締めて体を震わせると、熱いものが二人の密着した肌の間に溢れ出した。
 九条は、唯の逆上せたように上気した顔中にキスを繰り返しながら、二人の体を洗い流した。

 シャワーから出て、唯は九条のバスローブを借りて着た。
 180cmの九条とは、それほど体格は変わらなかったので、調度よかった。
「料理、作っておいて良かったな。」
 九条は唯に蜂蜜入りの暖かい紅茶を渡しながら、
「少し落ち着いたら食事にしようね。」
と言って、笑いかけると、音楽をかけた。
 モーツァルトの軽快な曲が流れ出す。
「上流階級の趣味で気に入ったのは、クラシックとワインくらいかな。」
 九条は冷笑を洩らし、ワインを注いだグラスで唯の紅茶のカップに乾杯をして、唯の隣りに座った。
「クスッ。体に良さそうだね。」
 唯は紅茶を飲みながら、上目遣いに九条を見つめた。
 九条もうっとりと唯を見つめる。
 が、しばらく夢心地に唯を見ていた九条の目に、悲しそうな影が差す。
「・・・無理をさせてしまったかな・・・」
 九条に頬を撫でられ、唯はその手に自分の手を重ねて、首を静かに振った。
「私に同情しなくていいと言っただろう?」
「同情じゃないよ。」
「・・恋でもないだろう?」
「それは・・・まだ、よくわかんないけど・・・でも、九条さんが好きだもん。」
 唯は九条の手に頬ずりをする。
「・・欲しがっているのは、私だけだ。」
「そんな言い方しないで。俺だって、九条さんといたいんだ。」
 唯が苦しそうに言うと、九条は唯のカップと自分のグラスをテーブルに置いて、唯を抱き寄せた。
 唇が重ねられ、舌を絡ませてくる。
 唯も九条に体をもたれかけて、九条の舌を吸う。
 九条の手が、そっとバスローブの下から唯の股間に伸びる。
 唯の柔らかで滑らかなモノを握って擦る。
「・・・ほら・・・ね?」
 九条が少しだけ唇を離して、間近に唯の目を覗き込む。
「私に感じてくれない。」
 唯は、あっ、と恥ずかしそうに赤面した。
「それ・・・違うんだ。」
「・・・ん?」
 九条が首を傾げたので、唯が指で自分の目を交互に指した。
「この・・・目に巣くった魔物が・・・精気を吸い尽くしちゃうらしい。」
 唯がそう言って苦笑してみせると、九条は驚いた顔でまじまじと唯を見つめた。
 それから、ギュッと抱き締めると、
「あぁ・・・そうだったのか。」
と、切なそうに溜息を吐き、
「・・・可哀想な天使・・・」
と、呟いた。
 唯は苦痛に顔を歪ませ、
「違う。・・違うよ。俺は天使なんかじゃない。・・・悪魔に近い・・・」
と、訴えるように言った。
 九条は唯の言葉を吸い取るようにキスで口を塞ぎ、熱いキスをした。
「唯は天使だよ。・・・こんな私さえ、許して受け入れてくれる・・・慈愛の天使だ。」
「違う。・・・違う。」
「違ってもいい。・・・愛してる。・・・私の愛しい天使。」
 唯が悲しく首をふるのを宥めるように頬を撫で、
「命の全てを捧げて愛している。」
と、再び熱いキスをして、抱き締めた。

<34>
「妄執」
<34>「妄執」

 九条は冷めきっていた料理を温め直してから、出してくれた。
 たっぷり時間をかけてトロトロに煮込んだシチューや、米を詰めて蒸し焼きにしたチキンは留学時代によく食べた物だった。
「わぁ・・・懐かしいなぁ。ふふっ。それにすっごく美味しい。・・・九条さんって料理が趣味なの?」
 唯が感激して言うと、
「時々、忘れないように作る程度だから、趣味とは言えないだろうな。」
と、片眉を上げて苦笑した。
「俺の料理よりも上手だよ。」
「ハハッ。喜んで貰えて嬉しいよ。・・・そうか、唯も料理をするのか。」
「うん。今はほとんど冬馬さんが作ってくれているけど、大河と二人の時は当番制だったから。」
「ほぅ・・・」
 ワインを飲む九条の目が何かを考え込むように伏せがちになる。
「・・・何?」
 唯は料理を口に運びながら首を傾げる。
 九条はそんな唯の仕草にも愛しげに目を細める。
「いや。・・・たいしたことじゃないよ。」
「冬馬さんは、それまで俺達の守り役だった拓磨さんの代わりに来てくれて、日本に帰るまでずっとお世話になった人なんだ。」
 唯が説明すると、
「それはわかっている。」
と、九条が頷いた。
「・・・ふーん・・・そっか・・・」
 九条もそれなりに唯の身辺は調査してるだろうな、と納得した唯は料理を食べることに専念することにした。
 九条もワインを飲みながら、料理を少しずつ食べた。
 唯がシチューをおかわりすると、嬉しそうによそってくれて、唯の食べる様子をじっと眺めていた。
「ふぅ・・・ご馳走様でしたぁ。お腹がいっぱいではち切れそうだよ。」
 唯がバスローブの上からお腹を叩いて見せると、
「ハハハッ。たくさん食べて貰えて、作った甲斐があるな。」
と、また目を細めて笑う。
 唯はテーブルから立ち上がって、リビングのソファーの所へ行き、クッションを背中に当てて横になり、
「少し休ませてね。」
と言った。
 九条は寝室から薄い毛布を持ってきて、胸から足を覆うようにかけてくれた。
「ありがとう。」
「TVでも観てるかい?・・私は少し向こうを片付けて来るから・・・」
「ううん。このままでいい。」
 部屋にはずっとクラシックの曲が流れていた。
 九条は頷き、軽く唯の唇にキスをするとダイニングへ戻っていった。
 唯は九条の優しさが無性に切なく感じて、涙が滲んできてしまうのを、気付かれないように背を向けて目を閉じた。

 九条の片付けをする音がする。
 残った料理をタッパに詰め、冷蔵庫へ入れ、鍋にお湯を張り、その間に他の洗い物をする。
 仕事が忙しいからか、几帳面な性格なのか、片付け物を翌日に回したくないのだろう。
 習慣になっているようで手際がいい。
 唯が満腹感と毛布の温もりで気持ちよくなりながら、そんなことを思って九条を待っていると、お湯が流れる音が止まる。
 え?・・・いくらなんでも早すぎるよな、と耳を澄ませると、押し殺した声で話す九条の声が聞こえてきた。
「――いえ。――いえ、ですから、まだその段階ではありません。――そのことは私にお任せください。――ですが、――なるべく、その方向に努力している所です。――」
 着信音が鳴らないようにしてあったのだろう。
 九条の携帯に電話が入り、話しているらしい。
 話の様子から相手は東郷と思われる。
 唯は起きあがって、キッチンへ行った。
「九条さん・・・」
 唯が声をかけると、九条は驚いて目を見開き、慌てて通話口を手で押さえると、眉をしかめて、向こうへ行くように、と手振りで示す。
「――え?――いえ。TVの音でしょう。――いやいや、彼女ではありませんよ。まして、あなたからの電話が無粋などとは思っておりません。――ハハハッ。――」
 思い切り”お邪魔虫だ”と言いたそうに言う。
 東郷は彼女が来ている、と思い込んだらしく、早々に話を切り上げた。
 九条は溜息を吐いて、携帯を置いた。
 それから、
「電話中に話しかけてはダメだよ。」
と、軽く唯を睨んでみせ、
「特に相手が嫌な奴の時はね。」
と言うと、笑みを浮かべた。
 九条は唯の側まで来ると、チュッ、とキスをし、
「もう少しで終わるから、待っててね。」
と言って、鍋を洗い始めた。
 唯はリビングに戻ると、ソファーの上で膝を抱えるようにして座った。

「お待たせ。」
 九条が片付けを済ませて、唯の隣りに座り、肩を抱き寄せて髪を撫でた。
「ん?・・どうした?・・・さっきのことを気にしてるのかな?」
 九条は唯の頬から顎へと唇を滑らせるようにキスをしていく。
「相手、東郷さんでしょう?」
「そう。・・別に君に隠すつもりではなかったんだが、東郷が君の存在に気付くと、押し掛けて来兼ねないからな。」
「で、彼女と勘違いした?」
「勝手に誤解してくれるなら、その方が都合がいいからな。ハハッ。」
 九条が宥めるように髪を撫で、唇を重ねてくる。
 唯はしばらくキスに応えていたが、
「ねぇ・・・」
と、体を少し引いて、九条の顔を見つめた。
「なにかな?」
 九条もじっと見つめ返してくる。
「これから、東郷さんに会いにいこうか?」
「・・・は?・・・何だって?!」
 九条は驚く以上に怒ったような顔をしていた。
「だって、東郷さんは俺に会いたいんだろ?」
「・・・それはそうだが・・・」
「九条さんが俺を連れて行かないでいると、立場がマズくなるんでしょう?」
「いや・・そんなことを気にしなくてもいいんだよ。」
 九条はフッと笑みをこぼして首を振る。
 唯は悲しげに眉を曇らせた。
「・・・だって・・・九条さんも察してると思うけど・・・俺、九条さんや東郷に会うの、反対されているんだ。」
「ああ・・そうだろうね。」
 九条は、わかるよ、と頷いた。
「それと、・・・東郷が俺に会いたがっている理由も聞いた。」
「・・そうか・・・」
「東郷は誤解してる。俺の専門はクローン技術の変革であって、東郷が望むようなことは俺には出来ないんだ。」
 九条は、ふむ、とよくわからないような表情で頷く。
「だから、会って説明してわかって貰うよ。俺が会えば、九条さんだって顔が立つだろうし、東郷に睨まれないで済むでしょう?」
 でしょう、と言われても困る、とばかりに九条は眉を寄せて、考え込んだ。
「・・・しかし、反対されてるなら、会う前に妨害が入るんじゃないか?」
「普通の時ならそうかも知れない。」
「普通なら?」
「今夜、俺はここにいることになってるだろ?」
「うむ。」
「だから、発信器を置いていけば、ここにいるって思ってるよ、きっと。」
 唯はそう言って、フワッ、と微笑んだ。
 九条は目を数回瞬かせ、
「いけない子だな。」
と言って苦笑すると、ゆっくりとキスをした。

 雨で濡れた服は、乾燥機で乾いていた。
 唯と九条は服に着替えて、九条の仕事用の車で出掛けた。
 すでに夜の10時近かったが、九条が連絡をすると、東郷は喜んで待っている、と言うことだった。
 九条の車が東郷の屋敷に着くと、門が静かに開いた。
 尾行する車はないか、警戒していたが、特に何の妨害もなく、すんなりと屋敷に入ることが出来た。
 やはり、発信器が動かないので安心しているのだろう。
 唯はホッとする一方で、別の緊張を持って東郷の屋敷の敷居を跨いだ。
 迎えに出た執事に、
「お待ちしておりました。」
と、深々とお辞儀され、唯と九条は、普通の家より少し豪華な応接室、といった所に案内された。
 東郷を待っている間に、九条にそう耳打ちしたら、九条は、これだから”お坊ちゃま”は、と言いたそうに苦笑した。
 どうやら相当豪華な屋敷らしい。
 屋敷というイメージを実家の造りと比較してしまっていたことを、唯は反省した。

 東郷は満面の笑みですぐに現れた。
「いやー、御曹司。よく、お出で下さいました。」
 東郷は抱きつかんばかりの勢いで唯の肩をつかみ、それから両手で手を握り込むと大きく腕を振った。
「初めまして。夜分、急な訪問を、お許し頂いてありがとうございます。」
「いやいや。御曹司にお出で頂けるなら、深夜だろうと早朝だろうと構いませんよ。ハッハッハッ。」
 興奮気味に笑いながら、東郷は座るように勧め、自分もソファーに座り、
「それにしても、お美しいですなぁ。」
と、唯を上から下まで、何度も視線を往復させて眺めた後、じっくりと顔を観察し始めた。
「まさに”慈悲の天使”だ。ハッハッ。お噂はかねがね伺っておりますよ。噂だけでなく、御曹司の写真も集めております。ちょっとしたファン心理でしょうか。ハッハッハッハッ。」
 唯は返答のしようもなく、困ったように微笑みを返した。
「ご存知ないですかな?隠れファンクラブもあるのですよ。」
「・・いえ。知りません。」
「勿体付けて隠しても、ファンは美味しいショットを逃さないものです。ハッハッ。しかし、こうしてお会いすると、やはり実物のお美しさは格別ですなぁ。」
 別に、隠してはいないだろう、と思いながらも、
「九条さんや本庄さんにも説明させて頂いたことですが、私が表に出ないのは、まだ勉学途中の学生だからです。」
と、何度も言ってきたことを話した。
「それは、お聞きしましたよ。しかしですなぁ・・・」
 東郷が声のトーンを下げた時、メイドがコーヒーとケーキを持って現れた。
「まあ、話は後にしましょう。」
 東郷は唯にケーキを勧めてから、執事に息子達を呼ぶように言った。
「いえ。東郷さん。もう遅いですから・・・」
「いや。是非、会っておいて頂きたい。後ほどの話の為にも。」
 東郷は自分のペースを崩さないで話を進めるようだ。
 説得に時間がかかりそうだな、と唯は内心で溜息を吐きながら、苦いコーヒーを含むように飲んだ。
 九条は唯の隣りに座っているものの、口を差し挟む余地がないようで、様子を見るように黙っていた。

 ほどなく4人の息子が現れた。
 長男はすでに30代で、母親似なのか東郷には似てなく、控え目で落ち着いた雰囲気があった。
 次男は20歳で、金髪に染めた髪を立てて、ピアスに腕のタトゥーといった具合で、明らかにヤンキーといった感じだった。
 三男はまだ中学生ということで、おとなしく真面目そうな少年だった。
 四男は小学生で、快活そうな明るい笑顔の少年で、顔つきは東郷に似ているようだった。
「チェッ。さっさと用を済ませてくれ。俺はもう出掛けるぜ。」
 次男が指でバイクの鍵のついたキーホルダーを回しながら言った。
「大事なお客様なんだ。キチッと挨拶しなさい。」
 東郷は次男を叱ってから、息子達に唯をRカンパニー&R財団の御曹司だと紹介した。
「へぇー・・・超お坊ちゃまかぁ。クックックッ。見るからにそれらしい品の良さだぜ。ダッセー!」
 次男が小馬鹿にしたように笑ったので、東郷は顔をしかめて溜息を吐いた。
 他の三人の息子達は丁寧な言葉で挨拶をしたので、唯も、
「夜遅くにお邪魔して済みません。」
と言って、簡単な自己紹介をして挨拶をした。
 挨拶が終わったので、
「じゃぁ、俺はこれで失礼。」
と、次男が部屋を出ていこうとした。
 それで、東郷が、
「無茶な運転をして、事故を起こすなよ。」
と、声をかけた。
 次男は、フン、と何も答えずにドアを蹴り開けて出ていった。
 東郷は苦笑してから、三男と四男の頭を撫でて、自分の部屋に戻るようにと言った。
 三男と四男はその場の人達に、
「お休みなさい。」
と言って下がっていった。
 お休みを返す東郷の顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
 東郷も父親としての愛情は深いらしい。
 唯は、これなら話し合えばわかって貰える、と少し安心して、微笑んで見送った。
 長男は前もって言われていたのか、その場に残っていた。
「では、御曹司。場所を変えて話をしましょう。」
 唯を振り返ってそう言った東郷の目は怪しげに光っていた。

 話し合いの部屋への移動は、長男が先導した。
 三階建てに地下一階がある屋敷で、エレベーターも備えられていた。
 エレベーターに乗って移動するらしく、東郷と長男、唯と九条、そして東郷の秘書として紹介された男が乗り込んだ。
 唯は表示される階数板を見て、
「地下もあるんですね。」
と何気なく聞いた。
「ハッハッ。次男がドラムやギターを夜中でも鳴らせるものですからな。騒音の苦情がくると困るもので・・」
と、東郷は説明した。
 唯は、なるほど、と納得し、ふわりと微笑んだ。
 が、次の瞬間表情が固まった。
 東郷の長男が鍵を取り出し、操作ボタンの下の一部を開けたのだ。
 そこにもボタンが二つあり、長男は慣れた様子で上の方を押した。
 唯が九条の手を握って不安げに顔を見ると、九条は、大丈夫、というように頷いて見せた。
「ここのボタンは、倉庫や核シェルター等の設備がある部分なので、子供達が悪戯に使用しないように、鍵がないと行けないようにしてあるんですよ。」
 東郷は、ご心配なく、という顔で説明する。
 それから、唯が思わず握った九条の手を横目で見ながら、ニヤリとほくそ笑んだ。

 エレベーターを降りると、かなり長い廊下が続いていた。
 屋敷のスペースだけでなく、庭や駐車場も含めればかなり広い敷地になる。
 そう思えば、地上の建物より地下の方が、むしろ広い設計になっていたとしても不思議ではなかった。
「立派な設備ですね。」
 唯が感心して正直な感想を言うと、
「またまた、ご冗談を。」
と、東郷が笑った。
 冗談は一度も言ってないのに、と唯が眉を寄せると、
「御曹司の御実家に比べたら、お恥ずかしい物ですよ。」
と、東郷が続けて言った。
「・・・はい?・・・実家に?」
「噂では相当な・・・ご存知ではなかったようですな。これは失礼。」
 唯の怪訝な顔と、九条のしかめた表情に、東郷は言い出しかけた言葉を引っ込めた。
 それから、長男が案内したのは、エレベーターのすぐ近くにある部屋で、地下施設の応接室といった趣があった。
 ゆったりとした革張りのソファーはリラックス出来る物だったが、唯は次第に不安が強まっていった。
 それで、ソファーに腰を下ろした時、無意識に九条の手を握っていた。
 東郷はそれを見て、また含み笑いをした。
 唯が九条を信頼しきっている様子が嬉しいらしい。
 唯は、どう思われたって構うもんか、と九条の手を握ったままでいた。
 九条も優しく握り返してくれる。
 この九条の手の温もりがあれば、どんなことでも乗り切れられる気がしていた。

 東郷の秘書が壁に取り付けられた電話で指示を出すと、しばらくして、その脇の収納棚に見える所のランプが光った。
 棚を開くと、飲み物の置かれたトレイがあった。
 棚と思った物は、上の屋敷に通じている飲食用専用のエレベーターだったようだ。
 唯がまた、感心したように眺めているので、東郷は苦笑を洩らした。
 そして、秘書がそれぞれに飲み物を差し出すと、東郷は一口飲んで喉を湿らせてから、話を始めた。
「時間も遅いことですし、世間話は御曹司には興味がないようですので、本題に移らせて頂きたいと思います。」
「どうぞ。」
「では。・・・御曹司は私の息子達をどう思われましたか?」
 東郷の質問は訳がわからなかったが、唯は長男をチラッと見てから、
「皆さん、個性的でいらっしゃいますね。」
と、当たり障りのないように言った。
「ハッハッハッ。次男はどうにも失敗作ですが。」
 子供をよくそう言って謙遜する親がいる。
 唯は、いえいえ、と微笑んで首を振った。
「しかし、あれは時々麻薬の類も嗜んでいるようで、とても使い物にはなりませんでしょうなぁ。」
 東郷は、困ったもんだ、と肩をすくめた。
「そう仰られながらも、大切にされているご様子で、家族の絆を感じさせて頂きました。」
「ハッハッハッ。まあ、自分の分身ですから、出来損ないでも可愛いものですよ。」
 親とはそうしたものなのだろうか、と唯は微笑んで頷いた。
 だが、その次の東郷の言葉は唯を凍り付かせた。
 東郷は笑いを収めて、真面目な表情で言った。
「あれが、クローン第一号でしてな。」
 唯は耳を疑った。
「いや。正確には、あれの前に成長出来なかった失敗作もありますがね。」
 唯は、まさか、と東郷を凝視して首を振った。
「驚かれましたか?・・これは意外だ。20年以上前に論理的にはクローンの誕生は可能になっているでしょう?医学博士の御曹司がご存知ないとは思えませんが?」
「・・・道義的に・・・許されてないはずです。」
「そんな世間一般の会話はやめましょう。その為に会話を聞かれずに済む、この地下までご招待した訳ですから。」
 唯は、覚悟していたはず、と自分に言い聞かせ、
「わかりました。」
と、頷いた。
 東郷はニヤッとしてから、話を続けた。
「何度か失敗を繰り返しましたが、三男と四男はいい子に出来ました。」
 次男がクローンならば、三男と四男も有り得ることと思っていたので、唯は気分が悪くなりながらも、黙って頷いた。
「実は長男が誕生してすぐに、私が下の病気になりまして、子供が出来なくなってしまったのです。」
「・・・そうでしたか。」
 唯はどうにか言葉を出せた。
「子供を欲しいと願う気持ちはお察し致します。・・・例え、法を犯しても、自分の分身が欲しいと思われるお気持ちも、わからなくはありません。・・・ご長男の方にもご兄弟をと望まれたのでしょう。」
「おお!・・さすがは”慈悲の天使”。ご理解頂けて嬉しいです。・・・ただ・・・」
「・・・ただ?」
「初めはそう思っておりましたが、クローンは言ってみれば自分自身。息子達を見ている内に、私自身が人生をやり直したくなったとしても、無理はないでしょう?」
 唯は血の気が音を立てて引いていくのを感じていた。
 東郷が何を望んでいるのか。
 次男に対しての言葉の中に、意図するものは見えていたのだ。
 ただ、あまりにも想像を超えたことを誰が推理出来るだろう。
 仮に出来たとしても、普通の神経があれば、そんなことを想像すること自体、気持ちが拒否するだろう。
 唯の脳裏に父親の言葉が蘇る。
 ”では、聞く。クローンで誕生した命は人間ではないのか?”
 その言葉が今、痛いほどわかる。
 唯は東郷が、それを言い出す前に、親として最低の言葉を聞く前に、何としても諦めさせようと思った。
 唯は厳しい表情で顔を上げ、
「・・・それは誰もが持つ夢でしょうね。」
と、言った。
「あなたなら、夢を現実に出来る。」
「無理です。」
「御曹司。あなたはドイツ時代、非公式とはいえ、クローンへの脳移植に成功されてるではありませんか。」
 唯は一瞬、心臓が止まる思いがした。
 そこまで調査されていたとは・・・
 自分の一つの罪が、他の罪を引き起こしていくのか。
 唯は目を閉じて、しばらく胸を押さえていた。
 九条が肩を抱くようにして、背中を撫でる。
「東郷さん。初対面でいきなり話すことはないでしょう?」
 九条が庇うように言うが、
「君は口を出すな。」
と、東郷は冷たく言った。
「・・・成功と言っても、あれは爬虫類やマウスなどの小動物です。」
 唯はやっと呻くように言って、顔を上げた。
 開かれた唯の目は白目が見えないほどに目全体が紫の光を放っていた。
 東郷はギクリと身を竦め、息を飲んだ。
 それから、
「ど・・どうゆうことだ?」
と、唯を指差して、九条に詰問した。
「フッ。口を出してもよろしいのですか?」
 九条は皮肉げに言ってから、
「東郷さんが、御曹司を怒らせるからですよ。」
と、肩をすくめて見せた。
 東郷は何かを思い出したようで、
「あ・・ああ、あの症状か。」
と、息を吐きながら頷いた。
「しかし、私にはもうあまり時間がないんだ。どうしても、ご理解頂かなければならない。」
「理解も何も・・・あの実験は拒絶反応の解明の為におこなったもので、・・・それに・・・対象はヒトより遙かに単純な神経回路だからこそ出来たのであって・・・東郷さんの期待に応えられるようなものではありません。」
 唯は息苦しさを感じていたが、懸命に説明した。
 しかし、東郷は諦める様子がなかった。
「では、もっと複雑な動物で試してみればいい。実験に必要な動物、他、必要な道具、全て用意させましょう。」
 唯は首を振る。
「手術をしたのは私ではありません。実験が成功したのも、友人の技術あってのものです。」
「勿論、彼、大河博士でしたな?・・彼にも協力して頂きますよ。」
「彼はあなたに会うことさえ拒絶しているのです。協力するはずがありません。」
「あなたが命令すればいいでしょう?」
 東郷は当然のように言い放った。
 唯は呆れ果てて、溜息を吐きながら首を振った。
「友人に命令出来る訳がないでしょう?・・・どうか、考えを変えて頂けませんか?・・・健康に不安があるなら、他の方法で協力させて頂きますから。」
「もう、この体は誤魔化しようがないんだ。」
 東郷は怒ったように言った。
「あらゆる内蔵は移植し尽くした。だが、血管は弱くなり、細胞は再生出来なくなっていく。肉体そのものの生命力が弱ってしまっている。・・・多少危険な賭けでも、やるしかないんだ。」
 健康オタクの成れの果てだろうか。
 唯は九条が妄執と言ったのを思い出した。
「・・・立派なご子息がお出でではありませんか。・・・肉体を離れた魂となって、その行く末を見守られるのも・・・」
「あなたは医者でしょう?そんな空想を語って何の意味がある?」
「では、現実に帰って、無理は無理と申し上げるより他ありません。」
「彼とあなたになら可能なはずだ。」
 唯は眉間を指で押さえて黙っていた。
「彼に命令することがあなたになら出来る。」
 東郷は目に狂気を宿しながらひたすら説得してくる。
「大河博士は、あなたの父上の秘密結社と、契約している組織員ではありませんか。血よりも濃いと言われる結束の固い組織員なら、あなたの命令を聞かない訳がない。」
 唯は意味がわからず眉を寄せた。
「組織員?・・・なんです、それは?」
「御曹司。あなたは御自分の父上が、どのような地位と権力の頂点にいるかを、ご存知ないのか?」
 東郷は呆れたように言って、
「では、お教えしましょう。」
と、不敵に笑った。

 東郷の説明は唯を絶句させた。
 到底すぐには信じられない内容だった。
 唯が、苦悶に喘ぎ出したので、九条が東郷に、
「これ以上無理です。今、御曹司に無理を強いたら、心を砕かれかねません。ゆっくり考えて頂くお時間も必要でしょう。」
と、警告した。
 東郷はいかにも残念そうにしたが、唯の全身を紫の光が覆っている状況を見ると、そうするしかないと不承不承に納得し頷いた。
 唯の思考はほとんど停止したように、放心状態だった。
 九条が抱き上げて、地上の屋敷に戻り、玄関に回して貰った車に唯を乗せた。
 車を発進させ、東郷の屋敷の門が開いた時、一人の男が立っていた。
 九条も面識はある、拓磨だった。
 九条が車を降りると、
「御曹司をお返し頂きたい。」
と、抑揚のない声で言った。
 怒っているようには聞こえなかったが、声に縛られるように九条は言葉がでなくなり、立ち尽くした。
 背筋が凍り付いたように寒気が駆け上がる。
 唯の為に説明と弁明をしようと思っていたが、それも出来なくなっていた。
 拓磨が静かに車に近付き、呆然と虚脱している唯を抱き上げた。
「お迎えにあがりました。」
と、恭しく言った拓磨は、九条に冷たい一瞥を残して、待たせてあった車に乗り込み去っていった。
 屋敷の者達が飛び出してくるのも間に合わない、一瞬の出来事だった。
 九条は敵わない拓磨の大きさと、唯への恋しさに、体の呪縛が取れた後も悔しさに立ち尽くしていた。

<35>
「”ラーガ”」
<35>「”ラーガ”」

 ラーガの背につかまり草原を駆ける夢を見た。
 目を覚ますと、ライラがすぐ横で寝そべっている。
 唯が起きたことに気付いたライラが嬉しそうに顔を舐める。
「お早う、ライラ。・・リガロ、お早う。・・ロイ、お出で。」
 ライラとリガロの耳をクシャクシャと掻いてやりながら、窓際にいたロイもベッドの上に呼んで、同じように耳を掻いた。
 そっか、こっちに戻ったんだ。
 久しぶりの犬達を撫でてやりながら、唯は昨夜のことを思い出した。
 拓磨に抱き上げられたのは、ちゃんと記憶にある。
 それから拓磨が東京に来るのに使用した特別機で、そのまま大阪に戻ってきたらしい。
 途中で拓磨から眠るように言われて、それからの記憶がない。
 パジャマに着替えてあるから、拓磨が眠っている唯を着替えさせて、寝かせてくれたのだろう。
 小さな子供がされるような扱いに、唯は今更だが恥ずかしく思いながら、ベッドから起き出した。
 でも、俺の行動自体、子供染みてたもんな。
 と、唯は反省する。
 あれほど、拓磨に禁止されていたのに、裏をかいて得意げに乗り込み、挙げ句がパニックに陥り、動けなくなってしまった。
 それにしても、東郷の言ったことは信じられない話だった。
 唯は、拓磨に謝罪したら、聞いてみよう、と、怠くて動きの鈍い体を熱いシャワーで目覚めさせることにした。

 キチッと支度を整えて、一階に降りていく。
 かなり寝坊してしまったようだ。
 屋敷の者は皆、忙しそうに自分の仕事をしながらも、唯を見かけると嬉しそうに挨拶をしてくれる。
 皆が忙しそうにする中で、自分だけ所在なくぼんやり過ごすのは、罪悪感を感じてしまう。
 厨房に顔を出すと、手の込んだ食事を用意しようとするので、シリアルでいいから、と言って、自分で冷蔵庫から牛乳を出し、器とシリアルの箱を持って食堂へ行った。
 それでも、唯が牛乳をかけたシリアルを食べていると、サラダと可愛い器に入った半熟卵とフルーツが目の前に並べられる。
 あまり食欲がなかったが、そうやって出されてしまうと食べないといけない気にさせられて、無理にでも胃袋に収めた。
 食後には炒りたて挽きたてのコーヒーを出してくれた。
 香りは最高で、ほのかに甘みさえ感じる透明な琥珀。
 この屋敷にいると大事にされ過ぎて、逆に自分を崩せなくなってしまう。
 これだけ大事にされている自分という存在が、自分の所有物でないような気がしてしまうのだ。
 だから、大河ほど自我が強い存在がいると、自分を取り戻せるように思うのかも知れない。
 だが、大河も裏切ってしまった。
 怒っているだろうか。
 心配しているだろうか。
 そんなことを思いつつ、コーヒーを味わいながら飲んでいると、
「お早うございます。ゆっくりお休みになられましたか?」
と、拓磨が顔を出し挨拶をした。
「お早うございます。拓磨さん。・・・あの・・昨夜は済みませんでした。」
「いいえ。ご無事でなによりでした。」
 拓磨は静かに微笑んで、唯を拓磨の執務室の隣りにある書斎へと促した。

 拓磨の書斎で、唯は、簡単な経緯と東郷の屋敷の様子や、そこでの話し合い等を報告した。
 それから、東郷が唯に話した”秘密結社”についてのことも話した。
 拓磨は時々確認するように質問してきたが、ほとんど聞き役に徹し、表情を変えずに頷いて聞いていた。
 そして唯が話し終えて大きく息を吐くと、
「そうですか。大変な思いをなさいましたね。」
と、労るように言ってから、
「東郷の妄執は論外で、話し合うまでもないことですから、そのことは置いておきましょう。」
と仁瓶もなく言った。
「でも、放っておくと、あの子達が危ないかも・・・」
「唯様はまた・・・」
 拓磨が眉をひそめて首を振る。
「・・ごめんなさい。」
「唯様のそのお優しさが良い所ではありますが、ご自身を危険にされてまでの同情は、お止めくださるようお願い致します。」
「・・はい。・・・済みません。」
「東郷には私の方で何らかの対処を致しますので、どうぞお任せください。」
「はい。」
「それよりも、東郷が歪曲して伝えたことを、きちんとご説明しなければいけないでしょう。」
「・・・歪曲?」
「正確な事実を知らずに、対立勢力などから探り出した噂の範囲を出ない中傷に近い推理を、さも事実のように唯様にお話したようです。」
「あぁ・・・そうなんだ。」
 唯はほっとしていいものか、事実の正体に覚悟したらいいのか、わからないまま曖昧に笑みを浮かべた。
「総統は、唯様がショックを受けられているのではないか、と心配されております。」
「・・・うん。」
「すぐにも、お会いになられたいご様子でしたが、私からご説明させて頂くことにしました。」
「はい。」
 唯は覚悟を決めて、まっすぐに拓磨に視線を向けて頷いた。
 拓磨は静かに頷いて、
「唯様はご立派な大人でいらっしゃる。」
と、嬉しそうに微笑んだ。

 拓磨の話は3時間に及んだ。
 『秘密結社』の組織体系と、結成の目的や思想的意義、といった大学の講義を受けるような内容が延々と続く。
「活動内容につきましては、微に入り細に入ることなので簡単にご説明しておきます。」
と、言いつつも、30分はかかったろう。
 ”簡単に”と前置きしてこれでは、とても詳しい説明を聞く気にはなれなかった。
 それから、世界を三分する勢力の残り二つの組織についても、
「おいおい詳しくご説明致しますが、」
と言って、1時間を費やす講義となった。
 世界情勢や世界経済の流れ、日本の歴史から世界史にまで至る講義は、専門外の唯には理解が難しく、知らない言葉もあったが、質問するような余裕はなかった。
 わからないことはわからないままで、取り敢えず聞くだけのことを聞いておこうと、ひたすら内容を頭に詰め込んでいった。
「以上が、簡単にまとめてお話させて頂いた、『秘密結社』の事実です。ご理解頂けましたでしょうか?」
 拓磨にそう言われた時、唯は長い講義が終わったことにほっとしていた。
「まだ、充分な説明ではないのですが・・・」
 拓磨が不安そうに言ったので、
「もう充分です。・・・俺には把握しきれないことがわかっただけで、もう。・・・拓磨さんがいてくれて良かったと、改めて実感している所です。」
と、ヘロヘロな苦笑をもらした。
 それだけの講義をしても姿勢を崩さない拓磨は、
「専門外のことを、すぐに何もかも理解されるのは難しいでしょう。」
と、穏やかに微笑んだ。
 それから、
「ショックを受けられましたか?」
と、心配そうに聞いた。
「ショックはショックだったけど・・・何か・・・東郷の話が最悪だったから・・・それよりはマシかなぁって・・・」
「ご納得頂けませんでしたか。」
 拓磨が残念そうに言う。
 唯は少し考えてから、
「・・・世界は宇宙と同じ、光と闇で出来ているのだと納得しました。」
と、答えた。
 拓磨は、その通り、と言うように、
「はい。」
と、頷いた。
「・・・世界がバランスを保つ為には最も安定した三角形を維持させる必要がある、でしたね?」
「そうです。」
「人社会には、法律で守られている社会と、法律が届かない代わりに掟のある社会があって、それも表裏がバランスを持って作用し、平和が維持されている、ということでしょう?」
「はい。」
「光は人に優しいけれど、闇は己への厳しさが求められる・・・?」
「そうですね。」
「後は・・・取り敢えず、事実を聞かせて貰ったってくらいにしか・・・今はわかってないと思うけど・・・ごめんなさい。」
 唯は、拓磨の長い説明に対して、概要をかいつまんでしか言えないことを、詫びるように頭を下げた。
「それでよろしいのですよ。それだけでもご理解頂けて安心しました。」
 拓磨は満足そうに頷き、
「東郷の言うような、巨悪の権化・犯罪の中枢などではないことを、わかって頂ければ充分でしょう。」
と、にこやかに言った。
 そして、
「時間がかかって申し訳ありませんでした。昼食の後、総統とゆっくりお話なさいませ。」
と、唯を書斎のソファーから立たせた。

 総統との話は、組織についてはほとんど出なかった。
 唯の大学での様子や、大河の彼女の話題、ルルとレイドとの散歩のことや、冬馬の料理など、日常的なことを話した。
 総統は唯の教育は全て拓磨に任せていたので、唯が生き生きと生活している姿を知りたがったのだ。
 唯が幸せなら嬉しい、という総統の思いは、唯にも伝わってくるので、唯もなるべく明るく楽しい話題を心掛けていた。
 総統は、唯が『秘密結社』について知っても、いつも通りの優しい微笑みで話す姿を、安心したように愛しげに見つめていた。

 総統との話を終えた唯に、拓磨が、少し運動するならテニスに付き合う、と言ってくれたが、怠いからと自分の部屋に戻った。
 唯の部屋は寝室以外にも、映画を観たり音楽を聴いたりする為の部屋と、勉強をしたり読書をする為の部屋の他、部屋を訪れた人とくつろいで話せるような部屋などがあった。
 そして、寝室の更に奥には、メイドも入ることが許されない部屋があった。
 部屋に戻った唯は、自分を取り巻く状況がどんどん変わっていくことに目眩を感じて、大きく溜息を吐いた。
 それから、奥の二重ドアの部屋へと入っていった。
 その部屋には窓はなく、明るい照明が灯されることもなかった。
 慣れない者が入ると、しばらくは手元も足元もわからず、身動きが取れないだろう。
 この部屋の管理は、唯が留守の間は拓磨がしていた。
 時々、様子を見る必要があったのだ。
 理由は部屋の奥の棚にあった。
 淡い光がそこだけ灯っている。
 光源が見えないようになっている間接照明で、赤い光と青い光が調度重なる位置に、唯の宝物があった。
 ぼんやりと紫の光に浮かび上がる、ガラスの柱状の容器。
 その中で、特殊な液体に浸っているのが、”ラーガの脳”である。
 棚に添うようにソファーベッドのようなふかふかの台が置かれてあり、唯がそこで寝ることもあった。
 唯はそこに横になって、”ラーガ”を見つめる。
 かつて共に草原を駆け巡り、じゃれ合い、共に眠り、語り合った友に、
「ラーガ。」
と、そっと呼びかける。
「ラーガ。・・・ラーガ。」
 切なく細い声で繰り返される名前。
 自身の姿さえ溶け込んでしまう闇の中から、伸ばされた一本の腕。
 淡い光から微かにこぼれる明かりが、手の先だけ浮かび上がらせる。
 蝋のように白くて、細くしなやかな長い指先。
 紫の淡い光がベールのように指を染める。
 届きそうで届かず、闇に漂う指。
「ラーガ・・・」
 起きあがれば、ケースを抱き締めることも出来る。
 そうして泣いた夜もあった。
 だが、今日の唯は諦めたように、手を闇に戻した。

「ラーガは元気ですよ。」
 不意に拓磨の声が闇の中で聞こえた。
 いつからそこにいたのか。
 唯が伸ばしていた手を、枕にしているクッションの上に置いた時、待っていたように静かな声で言った。
 ソファーの一部が少しだけ沈む。
 拓磨が唯の横になっている側に腰掛けたらしい。
 唯はずっと”ラーガ”を見つめたままでいる。
 拓磨の手が唯の体を優しく撫でる。
「かなり怠いのですか?」
「・・・少しね。・・・東郷は強烈だったからな・・・」
「漢方茶を用意致しました。寝室においてきましたが、こちらで召し上がりますか?」
「まだ熱いんでしょう?・・冷めるまでには寝室に戻るよ。」
「わかりました。」
 唯の邪魔をしないようにと、席を立とうとした拓磨の手が離れかけたので、唯が拓磨の手を握る。
「どうなさいました?」
 拓磨が浮かしかけた腰を、またソファーに下ろした。
「・・・ラーガの魂を神様にお返ししようと思うんだ。」
 闇に息を飲む音がする。
「・・・唯様・・・」
「俺には東郷を責める資格がない。」
「唯様と東郷では違います。」
「違わないさ。・・・動物と人では価値が違う・・とは思わないから。俺のしようとしていることも、東郷と同じ。罪深さは変わらない。」
「ですが・・・唯様が、やろうと思えば可能かも知れないことを、これまでなさらずに来られたのは、別の魂を奪わずに済む方法を、探しておいでになるからではありませんか?」
「そうして、今度はフランケンシュタインを造り出すの?」
「まだ唯様はお若いのです。この先の医学の進歩で、どのような方法が見つかるかわからないではありませんか。」
「どんなに医学が進歩しても、人が神の領域を越えるべきじゃないんだ。与えられた命を大事にして、その命が魂と共に天に召されるまで、懸命に生きることが、命あるものの務めであり、喜びであるべきなんだ。」
「・・・今は東郷の毒気で嫌気が差しておられるだけです。時期を待たれではいかがですか?後から後悔しても取り返しがつきません。」
「・・・後悔はしない。」
 拓磨が小さく溜息を吐く。
 唯が拓磨の手をギュッと強く握る。
「拓磨さんには感謝しています。・・・だけど、それは俺の為。・・・俺が妄執を捨てれば、拓磨さんも拘ったりはしないでしょう?」
「・・・唯様が生き甲斐をなくしてしまわれることが心配です。」
「俺の妄執が別の妄執を引き起こしてしまうんだ。一つの罪がまた別の罪を呼び込んでしまう。・・・そのことがよくわかったよ。」
「何が罪かは、人生を精算するまではわからないものです。」
「あはっ。さすがは”参謀”殿。」
「唯様。」
 唯が『秘密結社』の参謀である拓磨をからかったことに、拓磨が軽く抗議した。
「ごめんなさい。・・・でも、冗談でなく・・・パパの気持ちがやっとわかった気がする。パパは俺がママのクローンを造り出さない為に、ママを天国に送り届けに行ったんだ。・・・そして、俺に俺自身の出会いを大切に生きるように、って。」
 拓磨が愛しそうに唯の手を指で撫でる。
「・・・そうですね。」
「一つ一つの命が、神様から頂いた魂だからこそ、出会いも大切なんだ。出会うってことが奇跡なんだよ。同じ時代、同じ時間、同じ場所に居合わせなければ、起こらない偶然なんだ。・・・代わりがないからこそ、大事にするべきなんだ。・・・そして・・・失ったものを求めてはいけないんだ。」
 拓磨には答えられなかった。
 唯がどれほどの想いで”ラーガ”を恋い焦がれ、求めてきたか。
 ずっと見守ってきて知っているだけに、唯の言葉が悲しかった。
「東郷は・・・神様が俺に間違いを気付かせる為に、目の前に現れたのかも知れない。」
「唯様。そこまで考えるべきではありません。」
「だけど、俺があんな実験をしなければ、東郷だって妄執に取り憑かれなかったかも知れない。」
「東郷は昔から妄執の塊です。」
「・・・何とかわかって貰えるように話せないかなぁ・・・」
「昨夜のことで無理だとわかったのではないのですか?」
「・・・生まれてきた命。例え人が造り出した命でも、神様が魂を吹き込まれた命なんだ。守ってあげたい。」
「唯様。」
「だって、これも一つの出会いでしょう?・・・ダメなの?」
「出会う全ての人の苦しみを助けることなど出来ません。それこそ、神でさえ出来ないことをなさろうとするようなものです。」
「・・・それくらいわかってるよ。・・・そこまで傲慢になるつもりはない・・・」
「でしたら、後のことはお任せください。」
 唯は苦しそうに息を吐いた。
「・・・うん。・・・今は”ラーガ”と・・・お別れしなきゃ・・・ね。」
 拓磨は唯がそう決めた以上、もうどうやっても気持ちを変えることが出来ないことを理解した。
「わかりました。・・・弔いの準備を致しましょう。」
 拓磨はそう言ってソファーから立ち上がった。
「どうぞ・・・唯様はそれまで・・・最後の時間を・・・お過ごしくださいませ。」
 ”最後の時間”が胸にグッと迫った。
「・・・ありがとう。」
 唯は小さく答え、泣くまい、と唇を噛んだ。
 淡く紫の光に照らされた”ラーガ”。
 唯は、脳裏を過ぎる多くの思い出と重ねるように、じっと見つめるのだった。